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  • from: ハムスターさん

    2010年06月14日 21時39分58秒

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    「人間革命の正しい読み方」慧妙編集室編 連載三回目

    嘘で塗り固めた”池田の入信神話”(第二巻「地涌」の章より)

    「池田本仏論」の基底をなすもののひとつに、池田白身の「入信神話」がある。
    すなわち、「山本伸一」こと池田大作が、戸田氏が主催する学会の座談会で即興詩を披露し、その運命的な出会いによって入信した、というものである。

    その座談会で被露した即興詩というのが、

    「旅人よ/いづこより来り/いづこへ去らんとするか・・・・」等というものであるが、次の一節を見ていただきたい。

    「『不幸』よ!汝はいずこよりきたり、いずこへ去らんとするか。」(戸田城聖全集第一巻九十四頁『青年よ国士たれ』)

    これは戸田城聖二代会長の『青年よ国士たれ』(いわゆ 国士訓』)の一節であるが、一読して解るように、池田の 「旅人よ/いづこより来り/いづこへ・・・・」とは、この『国士訓』からの盗用である。

    それも、未入信だった当時の池田が、どうやって、『国士訓』を盗用して即興詩を詠むことなど、できようか。
    つまり、この即興詩は、後年、池田が『人間革命』を著す段階で、『国士訓』の一節を盗用してデッチ上げたもの、といえよう。

    次に、池田が入信を決意する場面を『人間革命』の中からみてみる。

    「(山本)『初めて、仏法という世界を、まのあたりに見たようだ。どんなものか求道してみる。こう決意をせざるを得なくなってきた』(中略)山本にとっても、入信とは、なにかに束縛されるような、いまだにみたこともない別世界に行くような感じでもあった。しかし、今夜の衝撃は、どうしょうもなかったのである。もう、入信の手続きなど、どっちでもよかった。ベルグソンのことも、遠い淡い観念の世界になっていつた。戸田城聖という人lそれが被にとって、実に不思議に、なつかしく思えてならなかったのである。」(『人間革命』第二巻「地涌」の章)
    このとおりなら池田は、 戸田氏との運命的な出会いにより、座談会の後、素直に入信したかのように受け取れるが、事実はそうではない。

    池田自身が、かって、こう語つている
    「終戦の反動で何かやりたぃとぃう気持ちがあって、学校時代の友人にさそわれて創価学会の本部へ行きました。その友だちは哲学のいい話があるが来ないか、とさそったのです。私は友人と二人で行ったのですが、三、四〇人もいたでしょうか。 五時間くらいもそこで締めあげられたのです。南無妙法連華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけなぃとぃうことになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない。」
    (小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)

    「折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。・・・・・・・そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。 私はそこで教学部長から析伏されたんですよ。」(『聖教新聞』三十二年十月十八日付)

    つまり、池田の入信は、戸田氏との“運命的な出会い”の故などではなく、戸田氏に鍛(きた)え上げられた教学部長の小平芳平氏ら、折伏の猛者(もさ)たちに強祈(ごうしゃく)された結果なのである。

    なお、ここでは座談会の記述は省略されているが、実際には、座談会出席後、池田は創価学会本部に連れていかれ、 そこで折伏されたというのが真相であろう。

    むろん、後の部下たちからグウの音も出ぬほど強折されて、入信せざるを得なくなった、などという事実は、自尊心が異常に強い池田が自伝小説を書く場合、 真っ先に塗り替える点であろう。

    さて、御授戒の際の記述も、『人間革命』には
    「八月二十四日、日曜日、山本伸一は、三島由造、山平忠平にっきそわれて、中野の歓喜寮(※現在の昭倫寺) で、御授戒を受けた。時の住職は、堀米泰栄尊師であった。あとで、第六十五世の猊座に登られた方である。長い読経・唱題の後、御本尊を授与された、伸一は、複雑な表情をかくすことが出来なかった」

    などと、さりげなく書いているが、この「複雑な表情」とは、けっこう意味深な表現である。

    というのも、実際には、池田は「理論に破れて」イヤイヤ信心するハメになったため、御授戒の場でも駄々(だだ)をこねまくっていたのである。再び池田大作の発言から-----

    「ちょうど十五年前に、小平教学部長とそれから矢島尊師に連れられて、ちょうど日淳上人様の勤行ご導師をいただいて、たった三人だけの御授戒でした。それで私は、真ん中にすわらされてしまって、動行がはじまったけれども、またひじょうに長い動行で(笑い)びっくりしてしまいました。

    それで、日淳上人より御本専様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生涯信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)と、もったぃなぃ話ではございますが、そのときは信心はけっこうでございますから、きょうは御本尊様はいただかないようにします”と、そう申し上げたのです。

    その場所で。すると、日淳上人は『まあ、そういわないで、きょうは御本尊様をもっていきなさい』と(笑い)。

    何回も何回も押し問答になりまして、とうとう日淳上人様は、ひじょうにがん固な方であって、私は負けまして(笑い)、そして、ちょうだいして今日にいたったわけであります。私もはじめの動機をみれば、みっともない状態なのですが、むりやりに、日淳猊下が強引にといっていいぐらいに、御本尊様をお下げ渡しくださったおかげで、私は十九歳で日淳猊下の弟子となることができました。」(『聖教新聞』昭和三十七年二月二十日)

    「それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しっけました。家に帰っても三日間拝まずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでごろごろなって、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。」
    (小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)

    御本尊下附を拒(こば)んだ末に、これまたイヤイヤながら御本尊をた持(たも)ち、さらにその御本尊を「三日間拝まずにほおって」おいたというのだから、『人問革命』の記述は全くの興ざめである。
    もちろん、本書は「池田の入信時の姿が無様(ぶざま)だ」などといって笑うつもりは毛頭ない。
    己の姿をゴテゴテに飾ろうとして、“運命的な師弟の出会い”をデッチ上げ、ウソで塗り固めた記述をして、「これぞ仏法の不思議」 とばかりに自らを宣揚(せんよう)しているから、 その迷妄(めいもう)を覚ますべく事実を教えてあげているのである。

    池田の虚像を信じさせられている学会員諸君、天才的ウソつきである池田の実態をこの一事からも知るべきである。

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