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創価学会SGIを本音で語ろう

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  • from: 22世紀さん

    2010年07月23日 21時03分48秒

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    金と権力を生む宗教の本音 、その2

    草創期、創価学会再建当時の教団と事業
    宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖
     宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖 〝金と宗教〟の奇妙な混合は創価学会設立のときからつきまとう特質である。まずそのことを、歴史をふまえて検証したい。  昭和二十年七月三日、戸田城聖という男が東京都中野区・豊多摩刑務所から出所した。 「創価学会」の歴史はこの時から始まる。

     牧口常三郎が会長として主宰した「創価教育学会」は、当時、軍部が進めていた宗教政策からはみ出す存在として弾圧を受け、牧口会長とともに理事長の戸田城聖も投獄された。  もっとも、その理由は、池田大作らが後世ねつ造して宣伝したごとく、「反戦・平和」を主張したからではなく、軍部が進める日蓮宗各派統合政策に反対し、また、「日蓮によって祈らなくては国が亡びる」と強く主張したことが、国家神道とそぐわなかったから、ということが主なものであった。創価教育学会も、当時の他宗教と同じく、〝戦勝祈願〟を行ない、また、座談会の初めには宮城よう拝を行なっていたのであって、その当時、〝反戦〟とか〝平和〟とか言う人物や団体は、日本の社会には存在しなかったか、できなかったのである(そんな歴史のイロハも知らずして、「創価学会は反戦・平和で軍部に弾圧された」という神話をウノミにして創価学会シンパとなった進歩的文化人が現実にいるから驚かされる)。

     牧口常三郎氏は獄死した(もっとも、当時を知る数少ない人の証言によると、心身ともに消耗し、廃人状態となって釈放された後、死亡した、という説もある。いずれにせよ、軍国主義の犠牲となったのであり、いたましいことであった)。戸田城聖の出獄後、一ヵ月余り、八月十五日、第二次世界大戦は、日本の無条件降伏によって終結した。  同年十二月九日、GHQは、「国家と神道の分離令」を発令し、国家神道、神社神道に対する政府の保障、保全等が廃止された。そして、戦前の宗教法人法は廃止され、ポツダム勅令にもとづく宗教法人令が施行された。

     戦前の宗教団体法は、政府の宗教団体に対する監督権が強く、国家による宗教支配と弾圧の根拠の一つになったことにかんがみ、宗教法人令は、国家の宗教支配の排除、神道を事実上の国教とする戦前の政教一致体制を否定し、あらゆる宗教団体を平等に扱い、宗教法人となる道を開いた。  翌二十二年五月三日には、新憲法が制定され「信教の自由」と「政教分離」が明確に保障された。  GHQの占領政策によって突然もたらされた「信教の自由」と「政教分離」のもとで、神道は閉塞し、既成仏教教団も農地解放策の打撃でなすすべもなかった。そして国民の生活苦と社会の混乱の中で新興宗教が雨後のたけのこの如く誕生し、発展した。霊友会、立正佼成会等の教団が全国を風びし、また、戦前、弾圧を受けて逼塞していた天理教、PL教団等も息を吹きかえした。  こうした、我が国の宗教界に大きな風穴があいた状況の中で、創価学会は再スタートを切った。  もっとも、戸田城聖が、出獄後まず手がけたのは、事業の再建であった。

     昭和二十年八月二十日、終戦からわずか五日後に、東京、上大崎に『日本正学館』の仮事務所を設立し、通信教育の広告を新聞等に掲載している。戸田城聖四十六才の時である。それから十三年後、五十八才の若さで世を去るまで駆け足で走りぬけた人生の間に、彼は、百三十万世帯という驚異的な巨大教団をきずき上げた。  同年十月、西神田に『日本正学館』の事務所を移した戸田城聖は、政治家古島一雄氏、弁護士大滝某を相談相手として、教育、出版事業に精力注いだ。  これに遅れること五ヵ月、昭和二十一年三月、戸田城聖は、『日本正学館』の事務所にやっと『創価学会』の看板を並べた。

     牧口常三郎は教育者であり、日蓮正宗の教義と独自の「価値論」を結合させ、「創価教育学会」を創立したのであるが、戸田城聖は、戦後、牧口常三郎氏の遺弟を糾合して再建するに当たり、「教育」の二字を取り去った。  戸田城聖は、教育そのものには関心がなかった。そして「信教の自由」「政教分離」がもたらすであろう社会変化を鋭く見とおして、来るべき「宗教の時代」そのものを、自分の野心を実現する舞台と考え、宗教を中心にすえる意味で〝教育〟の二字を除いたのであろう。  この点について後に、戸田城聖の遺言録(日蓮正宗開祖日興上人の〝遺戒置文〟になぞらえて、池田大作は、これを創価学会の〝遺戒置文〟と呼んだ)を池田大作が加筆、編纂した「水滸会記録」には次のような一節がある。

     『今日の日本では、経済界も政界でも教育界でも、組織がガッチリ出来上がって、これからのびて行く余地は少ない。ところが、宗教界だけは、ちょうど戦国時代のときのような乱戦状態である。法律でしばる何ものもない。縛を解いて虎を野に放ったようなものである。今こそ広宣流布できるチャンスだ。』  この言葉は、戸田城聖が宗教を、政治や経済活動と同列に、国家権力を争うための一つの手段として端的にとらえていることを示すものであり、これは、戸田城聖のポリシーを継承した池田大作の宗教観でもある。  もっとも、戸田城聖は、創価学会より、事業の再建を優先したが、それは、彼がそれまで〝すべての基盤は経済力にある〟との思想の持主であったからである。  同じく「水滸会記録」には戸田城聖の言葉として次のような記述がある。  「むかしの武器は刀であったが、現代の武器は金力(財力)である。むかしの兵力に相当するものは、金力である。」

     「今日は、新しい一つの理論を教えよう。広宣流布の基盤はどこに置くべきか。経済に基盤を置かなくてはならない。一億や十億の金では、広宣流布はできない。しからば、日本中の金がなければダメだ。大経済に腰をすえて君らがやるんだ。君らがやらないでだれがやるのか」  「一人の議員をつかんで自由に動かすのには、買収費と小遣いをいれて(当時)一年に四百万円かかる。百人で四億円だ。これが一つのホシになる。  四億円あれば、日本を動かすことができる。広宣流布も最後は経済だ。だから日銀総裁も、この中から出なければダメだ。」  この戸田城聖から個人的に薫とうを受け、その事業面の中心となって働いた池田大作が、経済活動と創価学会の宗教活動を渾然一体化してとらえるのは、当然のなり行きであろう。否、むしろ〝経済を支配する者はすべてを支配する〟という考えの持ち主であるといった方が正確である。ちなみに、池田大作は、「社長会」を拡大した外郭職員の会である「金剛会」において、自らが本部職員や聖教新聞社員ではなく、大蔵商事から出て創価学会の会長になったことを自賛して「外郭の諸君は源氏であり、本部職員は平家である」と宣言している。

     池田大作にとって、創価学会本体も、外郭会社群も、文字どおり〝一体不二〟なのであり、教団が、たまたま金もうけのために事業に手を出す、ということは根本的に違うのである。さらには創価学会本体より経済を支える外郭会社の重要性を強調することで自らの権威を高めようとしたとみられる。この点の認識がなくては、創価学会の拝金主義が正しく理解できないし「社長会記録」についてもその意味がよくつかめないのである。  前述のとおり、戸田城聖は、「日本正学館」の看板と「創価学会」の看板を並べて(もっとも、前者が主で、後者はつけ足しのような形)掛けた。  戸田城聖は、事業と宗教活動を一体視していたのであるが、この時期は、まだどちらかというと、「創価学会」の方は、片手間、といった印象を否めない。  さて、その創価学会は昭和二十一年五月一日の第一回幹部会で、戸田理事長のもと、牧口門下生の原島宏治氏、小泉隆氏、辻武寿氏らを理事に定め、一応、会の規約や綱領を発表した。教学、財務、婦人、青少年等、今日のひな形となる九部の組織を定めた。六月二十二日には十一名で青年部も発足している。



    池田大作入信の真相

     池田大作がこの草創期の創価学会に入信したのは、昭和二十二年八月二十四日である。後に、この日は「池田先生入信記念日」とされ、会員達は莫大な御祝儀や祝品を強要される日となっている。  池田大作著「小説人間革命」によれば、戸田城聖と池田大作は、この日大田区内の座談会で宿命的かつ劇的な出逢いをしたことになっている。 「戸田は無言でうなずいた。 一座の人々は、呆っ気にとられていた。 伸一は、軽く眼を閉じ、朗々と誦しはじめた。

    『旅びとよ  いづこより来り  いづこへ往かんとするか

    月は沈みぬ 日は いまだ昇らず  夜明けの前の混沌に 光 もとめて

    われ 進みゆく  心の 暗雲をはらわんと

     嵐に動かぬ大樹を求めて  われ 地より湧き出でん とするか』

    同行した、二人の文学青年は、拍手を送っていた。  一座の人々も、それにつられたように、拍手を送った。だが、なんと変わった青年だろうと、いささか度肝を抜かれた思いであった。  座談会で、詩をうたった青年は、これまで、一度も見なかったからである。詩の内容など、彼等の頭にはとどまらなかった。」

     ところが、である。  東京大学教授で東洋文化研究所長であった小口偉一氏が、学者や学生達といっしょに行なった新興教団の調査結果をまとめた「宗教と信仰の心理学」という書物が昭和三十年に発行されている。  その中には、創価学会幹部の体験談として当時の池田大作のインタビュー談が次のように紹介されている。

     「(御本尊下付について)三十分間ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやりに私に押しつけました。」、「家にかえっても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロなって、私ばかり狙っているように思ったので、その時思わず南無妙法蓮華経と口をついてでました」  小口偉一氏は、宗教学の第一人者であり、その流れの学者達が今日、各大学で宗教学を教えている。

    当時、日本で最も権威のあった東大東洋文化研究所関係者の学術調査をまとめた「宗教と信仰の心理学」で、ことさら偽の記載をするはずもないしその必要もなかろう。「小説人間革命」の中で、池田大作が、自らを神格化せんとしてウソをデッチ上げたことは疑いの余地もない。

     立ち上がって詩を朗読して入信した、というのはまっ赤なウソ。むりやり御本尊をもたせられ、ほうり出していたところ、カミナリにおびえて拝むようになった、というのだから、こっけいを通り越して異常である。ちなみに、池田大作に親がつけた名前は、じつは「太作」であった。これを、どういう手口をつかったのか、「大作」に改名している。平凡な自分の生い立ちを、ことさらきれいにかざり立てようとして歴史を改ざんし、つくりごとを考え出すのは、池田大作のクセである。

     池田大作は、入信後、中小企業団体の事務員などをしていたが、それ以前、ブラブラしていた時期、川崎市から大田区を縄張りにする暴力団金融の手先となって、貸金取立てなども手伝っていたという(あるいは、ヤクザとの関係は、後述の、東京建設信用組合の整理の際、生じたともいわれる)。  その池田大作が創価学会の座談会に出席したのは、ナンパした女性が学会員であり、さそわれて鼻の下を長くして出席したところ、きびしく折伏され、女性にとり入ろうとしていやいや入信したのである。

     余談であるが、この女性は池田大作をソデにしたため、一族は後になって池田大作から長期にわたって陰険な仕打ちを受け続けた。  入信しても、ロクに勤行もせず、ブラブラしていた池田大作に戸田城聖が目をつけたのは、その、あつかましさと抜け目のない〝商才〟であった。  池田大作は、入信後一年余りたった〝昭和二十三年秋、戸田城聖の「日本正学館」に職員として採用された。日本正学館は、当時はやりのエログロ雑誌「ルビー」と少年雑誌「冒険日本」を発行していたが、余りに売れなくて赤字がつづいていた。池田大作は、経営不振のため、給料がろくに払えなくてなり手のなかった少年雑誌の編集長に志願しておさまった。  このつかの間の「編集長」の肩書きを、池田大作はえらく気に入っていたとみえて、後日の思い出話の中でも再三出てくる。その頃のペンネーム「山本伸一」を、後の「小説人間革命」の著者名としてつかい、また、親衛隊に対して「伸一会」と名づけている。生まれた子に名付け親をたのまれると、「大作」の次に「伸一」「伸子」の名が多いし、ひところは、学会本部近くの小学校で教師が「大チャン」「伸一君」と呼ぶと、クラスの四分の一くらいの子が返事をしたという。対照的に池田大作が最もその才能を発揮した「大蔵商事」営業部長時代のことは、ほとんど語らない。自分の出世につながった〝金貸しの手代〟時代を、池田大作は、思い出すのもおぞましい〝汚い仕事〟として、ひた隠しているのである。


    戸田城聖の破綻と池田大作
     だが弱小出版社の雑誌編集は楽ではなかった。 「日本小学館」は昭和二十四年には六千万円の負債をかかえて倒産し、雑誌は廃刊となった。会社はそっくり東京建設信用組合に移行し、池田大作は、そこで働くことになる。この会社もインフレのあおりをうけて、悪戦苦闘の末昭和二十五年八月二十二日、当時の金額で七千万円の負債をのこして倒産し、戸田城聖は債権者に追われる羽目となった。今日でいえば、第二地銀クラスの金融機関の破たんになろうか。

     当時、小平芳平、神尾武雄、和泉覚ら、創価学会の中心幹部が社員でいたが、皆お人よしで無能なため、何の役にも立たない。その中で、若いながら世故にたけ、ものおじしない池田大作が一人で、戸田城聖のかわりに借金取りの矢おもてに立った。また、資金ぐりのため、有力な会員をまわって金集めに奔走した。  「昭和二十五年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜、悪口を言った。私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。二十五年の十二月には駄目かも知れぬと思った。………」(社長会記録昭和四十三年四月二十九日)  「八月の業務停止からまもなく給料は遅配から半額払いになり、やがて無配となっていった。一人去り二人去りして残った社員は、私のほか、二、三人になってしまったのである。私自身、ワイシャツ姿で晩秋を過ごさねばならなかった」(池田大作著「私の履歴書」日本経済新聞連載)  総勢十人に満たない小さな会社の新参の末席社員であった池田大作は、入社後一年余りで倒産の修羅場の中に投げ込まれ、気がついたら戸田城聖と二人きりで借金取りと立ち向かう羽目になっていた。しかも業種は、インフレの燃えさえるなかでの無尽に毛のはえたような街金融であった。

     百鬼夜行の欲の皮を突っぱらせた金の亡者達が血まなこになって争う世界で、池田大作は、倒産、整理という衝撃的な作業からスタートして金融業の裏道を実地にたたき込まれたのである。金をめぐって情け容赦なく野獣のように喰い合う世界で、池田大作はその独特の金銭感覚をやしなったのである。

     昭和四十九年七月頃、池田大作は私をはじめ二、三人の側近とともに「今日は飲もう」と珍しく水割りを半分ほど飲んだ。そして、雑談の中で  「戸田先生の唯一の失敗は、私に、金貸しのような、汚い仕事をやらせたことだ。俺なら、後継者の人生経歴を、そんなことで傷つけたりしない」 と言った。戸田城聖は、人のつかい方はきちんとしたところがあり、創価学会の後継者と目していた石田次男氏(元参議院議員、公明党石田幸四郎委員長の実兄)には、一切自分の事業にはタッチさせなかった。反面池田大作を〝汚い〟仕事にこきつかったことは、戸田城聖が、池田大作を「創価学会」の後継者とは考えていなかった証拠ともいえる。  〝金融業〟それ自体は、れっきとした職業であり、必ずしも〝汚い〟仕事ではない。しかも、自分はそのおかげで、会長になるキッカケをつかめたのだ。にもかかわらず池田大作が〝汚い仕事〟と自己嫌悪をもって語るのは人には言えない、想像を絶する仕事であったことを問わず語りに白状したようなものである。実際、池田大作の金銭的感覚は、人並みはずれて意地汚くずるい。見えすいたウソを平気でつく。若い頃身についたその下品さは、終生ぬぐいきれないと見える。

     また池田大作は、 「資金ぐりが苦しく、金策にも四苦八苦している時、戸田先生と二人で皇居前広場を通りかかった。私がヤケクソ気味に『こんな男にだれがしたあ』と歌ったら、横から戸田先生が『俺だよ』とニコリともせず言った」 と思い出話を語った。  とにかく、池田大作が当時ヤケッパチになり、後に思い返してもへきえきする〝汚さ〟〝やりきれなさ〟を持った裏の裏の仕事に、手を染めていたことは間違いない。私も、池田大作に命令されて、今思えば身の毛のよだつような思いのする〝裏の仕事〟に従事したことを後悔しているだけにその心情だけはよくわかるし、いささかの同情もする。  私は、こうした仕事がいやになり、逃げ出して、池田大作から〝恐喝犯〟にされるというみせしめの制裁を受けた。池田大作は、〝毒をくらわば皿まで〟と戸田城聖のもと、汚れ役に徹し、後に創価学会の帝王にのし上がった。私は、しかし、池田大作の生き方を、決してうらやましいとは思わない。  ところで池田大作が、戸田城聖のもとで生命がけで身につけた金銭哲学はどんなものだったか。



    戸田の金銭哲学 葉っぱ(信仰)をお札に!
      昭和四十三年二月十日の社長会で、池田大作はこう語っている。 「戸田先生は葉っぱをお札にする。本当にする。そうしなければ広宣流布は出来ない。必ずそうする。広宣流布のためならば、葉っぱをお札にしてみせる、と言う戸田先生……」  じつに狐狸のたぐいが人を化かす方法として古来言い伝えられている〝葉っぱをお札にかえる〟方法が、戸田城聖が池田大作に伝えた秘伝だったのであり、この秘伝は、現在の創価学会の〝錬金術〟にも見事に生かされているのである。

     この、〝葉っぱをお札に〟の術は、倒産した東京建設信用組合について、大蔵省から組合解散の同意について内示を受け、事態収拾のメドが立った頃から実行に移される。  「事業だけを再建しようとしてもうまく行かない。そうだ。創価学会の会員を増やし、これと車の両輪の形で事業をやれば良いのだ」  戸田城聖は、改めてその思想の原点に立ちかえった。  戸田城聖は、東京建設信用組合の整理を進める一方で、昭和二十五年秋には秘かに別会社「大蔵商事」を設立し、やはり金融業を開始していた。最初の代表役員は、矢島周平氏。牧口門下生で、日本正学館では「ルビー」の編集長を、そして創価学会の理論誌「大白蓮華」初代編集長をつとめ、一時、戸田城聖にかわって創価学会理事長をつとめた。後に戸田城聖とたもとを分かち、出家して日蓮正宗僧侶となり、埼玉県大宮市で日蓮正宗寺院住職となった。二代目代表が和泉覚氏。現在、牧口門下生の数少ない生き残りとして、最古参の副会長であり、公明党参議院議員にもなった。  だが、彼らはただの名前だけで、会社の実権は、専務理事兼金庫番の森重紀美子がにぎり、そしてその背後で顧問

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