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  • from: 22世紀さん

    2010年12月31日 00時47分00秒

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    池田大作「権力者」の構造

    戸田は、つかの世間慣れしていない親切に自分の住む世界とは別の、好意的な物珍しさを感じ、彼女にかわいい女を見ていたのかも知れない。写真で見るかぎり、往年の明眸皓歯といったおもかげがある。組織家として別段優れていそうもない彼女を、理事のすぐ次席の本部婦人部長につけたのも、戸田の彼女へのほのかな感情のせいだったとも考えられよう。戸田はすぐれた指導者ではあったが、その人事に、気まぐれや思いつきが混入すること皆無というわけではなかった。
     また戸田は石田をも息子のような気持ちで見ていたのではなかったのか。石田は優秀な幹部に違いなかったが、そのめざましい昇進に母親の存在がまるで無関係だったとはいえまい。が、むしろ逆に、母親の存在が石田の野心を損ない、彼を自足させたというマイナス面の方が大きかったかも知れない。少なくとも石田は池田のような人間関係の飢餓状態にはなかった。
     石田は少年時、池田とちがって級長、副級長をつとめ、秋田県大館中学、芝浦高専へと進んだが、学校を出ても就職しようとはせず、毎日、江戸川区平井の加藤六段道場で将棋をさしていた。母の信心には反対し、折伏にきた和泉夫妻を追い返したこともあった。
     が、昭和25年11月に自らも入信し、一週間後に戸田と会った。戸田は一度会ったきりの石田に見込むところがあったのだろう、翌26年3月に突然、彼を呼び出し、聖教新聞の編集をまかせた。以後、石田の信仰と出世は聖教新聞とともに進んだ。今日400万部を発行し、三大紙に迫る同紙の基本はすべて石田によって作られた。彼は出世を渇望しなかったが、よき理解者だった戸田の引きで、幹部間随一の昇進を遂げた。
     『御書』初版が発行されたとき、戸田は、
       夫婦して 御書つくらんと 生れきし
        700年の 今日ぞうれしき
     との歌を石田夫妻に贈った。また彼を九州総支部長に登用する前、①人間が甘くて何の話でも信用する ②性の悪い人、良い人の見分けがつかぬ ③計画にとらわれて先輩に相談しない、という三点を指摘し、彼を叱ったという(『聖教新聞』昭和30年1月1日、昭和34年5月14日)。が、戸田が、こうした間の抜けたとはいえ、一面では人の良さをも物語る欠点を持つ石田を愛し、重用したことは、彼の青年部主任参謀、小岩支部長、理事、九州総支部長といった経歴がなにより雄弁に証している。
     かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように非難しようと、石田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版妨害などを少なくとも引き起こすことなく、世間の風当たりも弱まっていたにちがいない。
     が、戸田の死後、彼の重用がすぎたために、石田の庇護者はなく、また彼には池田の持つ粗野なまでの自己主張も野心もマキャベリズムも乏しかった。







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