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  • from: 22世紀さん

    2011年06月26日 21時20分14秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 6月26日(日)19時40分32秒   通報 返信・引用
    日本正学館の商法

     池田はさきにふれた通り、前年23年秋に小平芳平の推薦を受けて戸田へ履歴書を出し、日本正学館への入社を決めたが、同社の業績は、21年6月に謄写版刷りで再刊された「価値創造」が池田の入社内定とほぼ同時期、10月に第16号で停刊されたことにも見られるように、倒産寸前の状態にあった。
     20年8月、中学生相手の通信教授で営業開始した同社は、まず、その六ヵ月分前納という、堅実な営業を保証するはずの予約金制度が未曾有のインフレにかえって災いされて失敗した。前金内では日毎に騰貴する用紙代や印刷費をカバーしきれず、かといって予約金のたてまえ上、追加金もとれなかったのだという。ただこの通信教授により、いち早く紙と印刷のルートだけはつけられていた。
     そのため21年、戸田は単行本なら短期で捌けてインフレに強く、戦前、大道書房等から刊行した大衆小説の版権もあり、また売れ行きに関しては、刷れば売れるという時代で、なに一つ心配はないと考え、事業を単行本の出版に切りかえた。
     ことに戸田は、単行本切りかえの一環として、流行語の観を呈していた民主主義を早速稼業に結びつけ、『民主主義大講座』の刊行を企てた。責任編集者に室伏高信、今中次麿、加田哲二、堀真琴をあて、編集人員も強化し、編集長に矢島周平、編集員に小平芳平ほか数名を置いた。
     責任編集者の一人だった室伏は、のちに同講座とのつながりを回想している。当時の日本正学館の雰囲気と戸田の人柄をよく伝えていると思われ、長くなるが、次に引用する。
    「多分昭和21年であった。神田の西神田に一軒の小さい出版屋があった。日本正学館といった。その名もとっくに忘れていた。忘れるのがほんとうくらいの小さい、名もない、吹けばとぶような小出版社があった。戸田城聖がそこの社長であった。
     ここで『民主主義大講座』という十巻くらいのものを出版する計画があった。川瀬宏という友人の仲立ちで、わたしもその編集委員に名を連ねることになり、その中にいくつかの論文も書いている。
     そういう関係で、この出版社に、二度くらい行っている。株式会社となってはいたが、会社というのは名ばかりで、その実体は何かの商店の二階の一と間の借間会社だった。室の中に三つくらいの机があって、五、六人の社員がいた。二階に上がってゆくと戸田社長は手持ち無沙汰に、ポツネンと椅子にかけていた。
     その隅っこのほうに、一人の少年がいた。美少年でその礼儀正しさが、わたしの目をひきつけた。それが池田少年であったかどうかは、むろんわかっていない。・・・・・
     ところで、この小さい出版屋を訪れると、二度とも、戸田はわたしをうながして、梯子段を下り、裏口から小さい露地に出た。イタチのとおるくらいの小さい、陽の目を見ない露地だった。その突き当りに小さい一軒飲み屋が立っていた。立っていたというより蹲まるとか、しゃがむといったほうがぴったりする。そこに60がらみの老婆がいた。戸田の顔をみただけで徳利をもってきて、先生どうぞといった。古いおなじみだということが直ぐとわかった。先生ということばには尊敬も親しみもうかんでいた。しかし徳利一本きりで、あとをつつ゛けようともしなかったし、お酒の肴は何もそえてなかった。そのころ終戦後で、酒の事情も苦しかったせいもあろうが、戸田の懐事情がわかっていたからであろう。
     わたしはこの大講座にいくつかの論文を書いている。前に述べたとおりである。だから原稿料の問題で、戸田には債権債務の関係がある。わたしはそれがどうなったのかを、今は覚えていない。しかしその問題で、わざわざこの出版屋を二度も訪ねたとしたら、この間にすらすらいかないもののあったことはわかる。
     そのくらいの見すぼらしい出版屋であったと思う」(室伏、前掲書)
      この回想にもうかがえるが、通信教授にかわる単行本の出版も日本正学館の経営を安定させるには至らなかった。池田はその理由を、出版社の高い利益は再版によるが、再版の間に資材、印刷費が暴騰して初版と同じ定価では採算がとれず、また値上げしてなお売れる本も少なかったからとしている。
     23年、またしても戸田は、雑誌なら定価改訂でインフレに対応できようという、変わりばえしない思惑から、雑誌の発刊を決意し、雑誌を主、単行本を従とする経営に方針転換した。まず『冒険少年』を、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊し、池田によれば数カ月後には『冒険少年』十数万部、『ルビー』数万部を数えていたようだという。
     だが、昭和24年に入ると金融事情が逼迫したうえ、戦前からの大手出版社の本格的な回復が緒につき、乱立模様の小出版社が存続する余地は狭められていた。カストリ雑誌や仙花紙の時代は、復刊された『文藝春秋』『中央公論』『婦人公論』『オール読物』、創刊された『少年』や『婦人生活』に徐々にその席を譲りはじめ、そのような時点では、池田の日本正学館入社も、決して傍目にはよい就職口とはいえなかった。同社での池田の役目が、入社後しばらくは雑誌記者ではなく、彼のいうところの『小僧』だったことは、「会社の用事で、大八車を引いて銀座を歩いたこともある」(池田『勇気と確信と希望』)との一文からも、うなずかれる。たぶんそれは試用というより、小企業のため、手すきのものには何でもやらせたのだろうし、池田の健康も微熱が続く程度で、大八車を引くほどの労働には、どうやら耐え得たのだろう。
     このころ、彼は森ヶ埼の実家を出、大森・新井宿の青葉荘(二反長、前掲書)というアパートに一室を借り、一人住まいを始めた。それは通勤の便というより、家族との関係の悪化からであった。



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