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  • from: 22世紀さん

    2011年07月06日 20時34分53秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 7月 6日(水)20時19分22秒   通報 返信・引用
      結婚とその価値

     5月3日、池田は戦前からの会員である白木薫次の二女・かね(当時20歳、池田24歳)と恋愛結婚した。媒酌は会理事、蒲田支部長の小泉隆が行った。
     これに先立ち、『聖教新聞』(昭和27年3月10日)は彼らの婚約をこう報じた。
    「池田大作君と白木かねさんの婚約が発表された、媒酌は飛躍を続ける大支部蒲田の総帥、小泉隆理事、5月3日の意義深い日に婚礼の式を挙げる。
     池田君と白木さんは蒲田支部内で前々から相思の仲であり、戸田先生は深い思いやりから2月に直直両家と話合われ、きわめて順当に話は決定を見た。
     ・・・・・ホープとして池田君の姿が大きくクローズアップされる、数年間戸田先生に忠実に御仕えし、朝から夜迄縦横に全東京を駆けている姿は実にたくましい、苦難の(昭和)25年も先生の陰の一人として戦い抜いて来た、この多忙の中に朝十分程の五大部の受講をすでに中ばを過ぎんとしている。青年部では作戦参謀として四部隊統合の重要な舵取りである。
     早くから家庭的に独立して戦って来た同君はこゝに内助の良夫人を得て更に力を増すであろう。同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君おめでとう。
     新婦白木かねさんの一家は学会屈指の強信の一族である。水の如く続いた信心の力は実に大きい、戦時中から戦い切って来た数少ない同家はお父さん薫次氏は矢口地区部長として大蒲田に欠くべからざる人、お母さんは蒲田の婦人部長として実に清らかな信心の人であり、この御両親のもと母親似のかねさんは実に人のめんどうが良い、池田君の内助の人として無上の縁であろう。
     学会の青年(女子)部では森田部隊の班長として随一の成績を挙げ、教学部では真剣に御書の研究に励む彼女はまた真の強固な内面を持っている」
     白木薫次は中央区の小網町の砂糖取引会社・井筒商会の常務で、二年後には再版された『御書』を、個人最高部数の二百部申し込み、創価学会の理事に就任する学会有力者だった。またその甥にあたる白木義一郎は阪急の投手で、この年一月、大阪への移転にともない、関西に創価学会を移植し、31年以来参議院議員をつとめるエリートである。
      池田には24年後、新婚当時と、その少し前を回想した語録がある。池田の人間性の一面と当時の生活ぶりを示すものとして、長くなるが掲げておく。
    「新婚当時、賞与を全部すられたことがあった。電車の中でやられたと思うが、帰宅して賞与をもらったよ、ポケットに手を突っ込んだらなかった。でも、うちのは(奥さん)案外ケロリとしていた。
     一番困ったのは、下宿していた時代に信心を理由に追い出された時だ。家賃は350円だったが、石田次男、秋谷、中西たちも来た。大森駅から歩いて20分かかった。道路の真ん中を下駄をはいて歩いたものだ。
     ようやくにして次の下宿先を見つけたが、蚊が多くて閉口した。北向きの一番小さい四畳半の部屋だった。自分のところだけはカヤがない。そのために他の部屋の蚊が全部集ってきたのには困った。御本尊を拝むと隣の部屋から、うるさいと怒鳴られカベをたたかれた。
     二年目の9月ごろ、はじめて蚊取り線香があることを知った。ふとんは一年間ぐらい敷き放しだった。カギも開け放し。どうせ何もないから盗られないと思っていた。
     ある時、蚊取り線香をつけ放しで寝てしまった。夢の中で太陽がこうこうと輝き、とても温かい気持ちになった。ふと目がさめると、机の上にジカに置いた蚊取り線香が、机に燃え移り、煙が部屋中に満ちていた。あわてて消しとめてことなきを得たが、じつは蚊取り線香の扱い方を知らなかったために起きたボヤだった。
     滝の夢を見た。二月の寒い最中だった。滝のしつ゛くがかかって冷たくてしようがない。目をさましたら天井から水がたれていた。二階の人が水道を出し放しにして外出したのであふれて落ちてきたことが分った。お蔭で一つしかないふとんも台無しになった。
     また、こんなこともあった。アパートの便所へ入っていたら外からカギをかけられてしまった。(だれかが間違ってかけた。)そんな時にかぎって誰も通らない。
    弱っていたら、外を結婚する前の女房が会合の連絡か何かでやってくるのが見えた。それで窓から大声を出してあけてくれと頼んだら、びっくりしていた」(昭和51年3月23日、内部文書)
     池田には庶民の出自として親しめる一面があるが、彼はその権力の肥大化とともに、「若き日」を語らず、語ったとしてもひと理屈つけて自己の偉大さを証するためにだけ語るようになる。本語録はまれな例である。
     男子部幹部の池田のライバルたちは、それぞれ戸田の肝煎りで女子部の幹部を伴侶に選んでいた。たとえば石田次男は女子部長・小島栄子と、森田一哉は第五部隊長・高島秀子と、北条浩は第三部隊長・坂本弘子と結婚した。
     白木かねは二月の青年部男女合同研究発表会で、「霊魂論の誤っているわけ」を五分間論じ、十点満点で5.6点を得るなど、女子部の活動分子ではあったが、幹部とはいえなかった。彼女の強みはもっぱら血族に会内エリートを持つ点にあり、池田はそのような娘を配偶者に選んだ。それは青年部幹部同士の結婚に較べて、次期会長をめざす池田の野心にふさわしいものであった。
     かねはまた、高校卒業後、住友銀行に勤めるBG(ビジネス・ガール)だったが、池田によれば、「くったくのない御嬢さん育ち」だという。現在、彼女の名は池田の太作から大作のようには正式に改名されていないが、活字で登場する際には香峯子と変えられている。
     結婚後、池田は目黒の借家で三ヵ月ほど暮らし、9月、大森・山王の二間のアパート秀山荘に移った。戸田は池田の月給を一万円ほど上げ、時に小遣いを与えたという(央、『池田大作論』)。




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