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  • from: 22世紀さん

    2011年06月20日 14時44分09秒

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    池田大作「権力者」の構造

     凡庸+確信ーー池田のエネルギー

     終戦は池田に何一つ明確な展望を与えなかった。
     彼は新橋の昭文堂印刷で文選工をつとめるかたわら、昭和20(1945)年9月、
    当時、あまり評判の芳しくなかった旧制東洋商業学校(のちの、東洋商業高校)
    夜間部の2年に編入学した。それは大志あってのことではなく、いずれは家を出る
    者として、せめて算盤、簿記でも身につけておこうといった小市民的な処世の知恵に
    過ぎなかった。
      彼は新聞記者を志望し、また吉川栄治や長谷川伸を夢見たこともあり、それは
    確かにビスマルクが軽蔑の念をもって述べたという訓練のいらない職業ではあったが、
    それにしても、彼は中学を経ていず、その学歴はとり返しようもなく、挫かれていて
    実現性に乏しく、そのころはなかばあきらめられていたと思われる。
      室伏はこの東洋商業について次のように記している。
    「この学校は平々凡々で、秀才の行かない学校で、それも上の学校への通用門では
    なく、行き止まりのもので、ここが終点だから、大志をもっているものなら、そっぽを
    向くし、まちがって入っても、退屈で、いたたまれまいということである。しかし、
    またこの学校は、それだけに抜け穴もあった。成績優秀なものだと、出席しなくとも、
    授業料なしでも抱え込んだとも聞いている」(『池田大作』)
      だが、池田は成績優秀による特待生ではなかった。彼に栴檀は双葉より芳しを
    期待するものはつねに裏切られる。彼の創価学会会長という地位は、幼時から
    「地獄耳」「八つ耳」といわれるほどにさとく、14歳で代用教員を務めた出口王仁三郎
    の天才肌とは無縁なところでかちとられた。
    「顔色の悪い虚弱な子でね。地下の売店でふかしイモを買ってよくかじってました。
    金がなかったんだろうな。授業料の督促も何度か受けてるはずですよ」(同校校長・
    中西信男談、『現代』前掲号)
      同じころ、池田は森ケ崎にあった協友会という青年グループに加入し、その読書
    会やレコード鑑賞会に参加したという。協友会は彼によれば、次のようなものであった。
    アカデミズムへの池田の憧憬を痛いほどに感じさせる一文である。
    「協友会は、附近に住む東大出の優れた人格者であった経済学者の肝煎りでもあった
    せいか、割合多くの人々とも接し、文化、芸術、政治、経済、哲学など、人文科学に
    関する広汎な知識の吸収に忙しかったグループである。職業は様々である。学生、
    技術者、工員、官庁の職員等等で、みな20歳から30歳ぐらいまでの20名ほどの
    集団であった。女性は一人もいなかった。
      ――ある夜、一人がダンテの『神曲』について、イタリア・ルネサンスの精神を研究し、
    解説したかと思うと、次の会合には、別の一人が第一次大戦後のドイツのインフレの
    様相を、二、三の書籍から抜粋して、解説したりした。そして、現今の日本の
    インフレーションの怖しさについて警鐘を鳴らした。ある時は、民主政治や共産主義
    を論じたり、またある時は、天皇のあり方を――といった具合」(池田『人間革命』二)
      戸田城聖に出会う前の池田は一種の放浪者に等しかったといわれるが、その放浪と
    は、暗中模索しながらも確信を見出せなかったことを意味していよう。机と椅子を買い
    こんでその前に坐っても、確固とした方針はたてられず、復員してきた四兄と同室の
    六畳間で寝巻をしぼるほどの寝汗と血啖、芋とトウモロコシの食事に衰弱し、ただ
    機械的に昼は新橋の昭文堂印刷、夜は東洋商業に通い、夜学から戻ってから、わずかに
    一の温めたウドンに慰められるというのが、そのころの彼の生活であった。
      彼は目から鼻に抜けるヨゼフではなく、あわれな東北の神武(貧農の長男以外の男子。
    生涯労働力として使われ、婚姻できなかった。深沢七郎の言葉)に過ぎなかった。その
    効果の上がらぬ気の毒な勤勉は、農漁民の性根と化した血統を出るものではなく、
    家から離れて独り立ちするという五男坊の投機性はまだ眠っていた。
      彼は昭和22年の春、東洋商業の卒業とほぼ同時に昭文堂印刷をやめ、ぶらぶらと
    半年たらず体を養った後、京浜蒲田駅裏の蒲田工業会に書記として勤めはじめた。
    同工業会は21年秋、蒲田地区の90社が作った中小企業の助成機関であり、池田の
    仕事は加盟業者への社会保険の指導と、業界のブロック間の連絡だった(央、前掲書)。
      彼は同会の酒の席ではきまって「学徒出陣の歌」を歌ったという。
      池田は父祖伝来を単純再生産して庶民のままで終わる人間であった。実際、池田の
    出生から青年期までには、彼の保持した権勢をうなずかせる何の萌芽も認められない。
    そこに一貫するものは悲惨とはいえ、決して世に珍しくない貧困と病弱、それに抵抗する
    勤勉と上昇志向だけであった。高瀬広居は、池田を独自性において描きにくい指導者と
    しているが、池田の特性は凡庸にあるのだから、生い立ちに凡庸しか発見できないのは
    当然とさえいえるのかもしれない。
    「私の人生に、戸田城聖先生という恩師がなかったとしたら、今日の私は、無にひとしい
    存在であったにちがいない」(池田『人生に負けてはいけない』)という池田の言葉は、
    まったく正しい。
      彼は戸田に確信を注入されてはじめて強者への道を歩みはじめ、その時、彼の過去の
    貧困や、病弱、劣等感や勤勉等、挫かれた経歴と資質が意味を持ち、彼を立身出世に
    駆り立てる原動力に変わった。彼の凡庸さは、確信という核を付与されて、時代と場に
    かなった、一種の広さと平衡感覚に変質する。宗教だけが池田のぱっとしない特性を
    働かせる分野だった。



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