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from: 21世紀さん

2011/08/29 18:45:55

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池田大作の実像

池田大作の「履歴書」【幼少期】●生れは大森のノリ屋です。3歳くらいの時蒲田に移り、それ以後東京に住んでいるわけです。小学校では栄養不良で3・4回も死に

池田大作の「履歴書」
【幼少期】
●生れは大森のノリ屋です。3歳くらいの時蒲田に移り、それ以後東京に住んでいるわけです。小学校では栄養不良で3・4回も死にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです。終戦の年には6回目の肋膜をしていましたし、肛門(コウモンネンマクビラン)性のもので、耳や鼻などみんな悪く、血痰がでてたんです。(池田発言/小口偉一編『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』河出書房、1956年57頁)
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池田は昭和22年8月の入信だが、戸田は学会を戦後再発足させた後、早い時期に宗教学者の調査を受け入れ、池田にもインタビューに答えさせている(『フォーラム21』H14.7.1)。

●「子之吉さんの家族は、大森(現・東京都大田区大森北)の池田本家が所有する"学校に似た木造2階建て"の海苔作業場(現・大田区東糀谷)に仮住まいのような感じで暮らしていました」池田大作さんの幼少期を知る深沢さん(年上の女性)はそう語る。太作少年(1953年25歳のとき大作へ改名)の父・子之吉さんと母・一(いち)さんの間には8人の子がいた。太作さんは5番目である。貧しかった。(『フォーラム21』H15.1.1)

●子之吉さんは太作少年が尋常小学校2年生のとき(1935年)、リューマチで寝込むようになってしまった。おまけに、ほどなく「池田様」と呼ばれていた本家の海苔づくりが傾き、これに依存していた子之吉さんの家族は極貧に陥った。子之吉さんは寡黙かつ強情だった。彼を知る女性が「(妻の一さんとは)別の人に手を出し子どもを産ませてしまった」と話す。(『フォーラム21』H15.1.1)

●昭和17年に萩中国民学校を卒業する時、池田君は4組にいました。彼はとにかく印象のない男だったね。勉強も目立たないし、身体も強くない。それに海苔漁師はみんな貧乏だった。彼の家はたしか分家で、生活は特に苦しかったはずです。後で創価学会会長があの池田だなんていう話になって、みんな驚いたものですよ(小学校時代の同級生『週刊新潮』H15.12.18)

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from: 21世紀さん

2011/09/03 14:54:10

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「Re:池田大作の実像」
【日本正学館入社の"真相"】

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 山平(忠平)は戸田に言った。
 「先生、山本伸一君です」
 「わかっている」
 山本伸一は、だまって履歴書を提出した。やや長い睫(まつげ)が、影を落とし、まだ少年らしい面影を残している。
 戸田は、ていねいに履歴書をひろげ、仔細にじっと眼を注いでいた。(中略)やがて顔をあげると、微笑みながら山本をじっと見つめ、一言、こう言っただけである。
 「頑張るか」
 山本伸一は、間髪を入れず答えた。
 「はい。おねがいいたします」
 一瞬の気合いであった。決定的な瞬間である。時はすでに熟していたのだ。……1年前、戸田と邂逅(かいこう)したあの夏の夜……山本伸一が予感したことは、避けがたく、いま現実となって、立ち至ったのである。

(『人間革命』第3巻)
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戸田会長との"運命の糸"の強さを強調し、"どこの、誰の世話にならずとも、2人は出会い、師弟の契りを結ぶ運命にあったのだ"と思わせ、池田が入信当初から不思議な因縁の人物であったかのように脚色しているのがよくわかる。

●"鳴かず飛ばず"の信心だった池田大作を、戸田先生の日本正学館に連れていき、就職を斡旋(あっせん)したのは私の母でした。それまで池田は、蒲田工業会という小さなところに勤めていたんですが、私の母が「辞めたほうがいいんじゃないの」と声をかけて。
 私の家は、戸田先生とはずいぶん懇意(こんい)にさせていただきました。目黒区白金の戸田先生のお宅にも、何回もおじゃましたし、先生の事業などにも協力させていただきました。そんな関係から、池田のことも気安く頼むことができたのだと思います。
 けれど、それに対する感謝の言葉を、池田から聞いた覚えは、1度もありません。(三宅妙子『慧妙』H16.4.1)
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三宅妙子さんの父親は地元・蒲田の支部長を務め、しばしば自宅で座談会が開かれていた。池田が入信を決意したという座談会場こそ、彼女の自宅だったのである。さらに、彼女は、池田の片思いの相手でもあった。(<恋文に認めたお粗末な「詩」>参照)
池田が恋文に認めたお粗末な「詩」

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―これでは入信神話もボロボロ総崩れ―

(『慧妙』H16.3.16・H16.4.1・H16.5.16)

 入信後の池田であるが、信仰面、というより"成果"の面で頭角を現わし始めたのは、文京支部に派遣されてからのことで、昭和24年1月、戸田会長の日本正学館に入社するまでは、しばらく"泣かず飛ばず"が続いたという。
 そんな池田だったが、"女好き"はやはり生来のものと見え、信心は"泣かず飛ばず"でも、女性に対してはマメに働きかけることを忘れなかった。その対象は、他ならぬ三宅妙子さんであった。
 三宅さんの写真をほしがる池田に、三宅さんが不承不承、証明写真ほどの大きさの写真を1枚、渡したことがあった。
 これに狂喜した池田は、その写真を肌身離さず持ち歩いていたという。池田は、そのことを、問わず語りで三宅さんに語っている。
●あれは、昭和23年頃、池田が20才頃のことだったと思います。「映画の券をもらったから」と池田に誘われ、2人で映画を観(み)に行ったこともあります。
 でも私は、池田に対し、恋愛感惰を持つまでには至りませんでした。
 つい最近、池田から当時もらった手紙が出てきましたので、手紙のやりとりをしたことはあったんだと、改めて思い出したくらいです。(三宅妙子)
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 そう言いながら三宅さんが見せてくれた池田の手紙からは、文学青年を気どりながら、何とか自分の"熱い想い"を伝えようとの池田の苦心が伝わってくる。
 たとえば、三宅さんから写真をもらった時の心境・三宅さんへの想いを、池田は次のように書いている。

●賢女のphotoを無理に頂いた私の心境を!妙子さん、お互いに若いのです。未完成です。故に、完成を目指し未完成の歌を高らかにうたほうではありませんか。(池田のラブレター)
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文学青年を気どる池田の、三宅さんへの想いは、文面からよく伝わってくる。ちなみに、池田の手紙には、次のような自作の「詩」が添えられていた。

体で見たことをゆう。
体で見たことを書く。
体で見たことを行ふ。
目で見て見えるか?
耳で聞いて聞えるか?
体で読んだものが本当だ。
体で祈ったものは実現する。
体で語ることは誰にも聞える。
体で悟った真理だけが我がものである。

爾(なんじ)の願いを高めよ。
爾の願いを潔めよ。
爾の願いを深めよ。
爾の願いを広めよ。
私欲を離れた願いならば死ぬまで願いつずけよ。
諦めるから叶わぬ。
応答を信ぜよ。
正しき願いは実現する。

 想いを寄せた人に送った「詩」であれば、これは、推敲(すいこう)に推敲を重ねた、池田の自信作(?)なのだろうが、あまりに稚拙(ちせつ)で、とても詩などと呼べる代ろ物ではない。
 さて、これと較(くら)べて、池田の「入信神話」に登場する、かの即興詩はどうか―。

旅びとよ
いづこより来り
いづこへ往かんとするか

月は沈みぬ
日はいまだ昇らず

夜明け前の混沌に
光 もとめて
われ 進みゆく

心の 暗雲をはらわんと
嵐に動かぬ大樹を求めて
われ 地より涌き出でんとするか

 練りに練った自信作と、その場の思い付きで詠んだとされる即興詩。その、あまりの違いについては、小中学生の目にも明らかだろう。しかも、その「即興詩」たるや、当時の池田が知り得るはずのない、戸田会長が後年に作った『青年訓』にソックリなのである。
 もはや、池田の入信神話がデッチ上げであることは、誰の目にも明らかであろう。

 閑話休題。
 こうした池田のアプローチを受けても、三宅さんはこれに取り合わなかったため、2人の関係は"信仰の同志"以上になることはなかったようだ。
 それを逆恨みしたのか、池田は後に、三宅妙子さんに連なる人々を、ことごとく冷遇した。

●私はそういうことに無頓着(むとんちゃく)なので、人から指摘されるまでまったく気付きませんでしたが、言われてみれば、たしかに私たちは冷遇されていたようです。
 でも私たちは、少なくとも学会に在籍していた当時は、池田から感謝されこそすれ、冷遇されなければならないようなことは、何一つしていないと思います。
 そもそも、池田が戸田先生の日本正学館に入社できたのだって、私の母が「蒲田に、こういう青年がいるんですが」と戸田先生に取りなしたからこそなんですから。(三宅妙子)

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