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反創価学会

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  • from: 22世紀さん

    2011年11月27日 11時32分20秒

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    池田大作氏の女性観

    彼は女性との関係に関しては、「法治国の国民としては、それ(一夫一婦制)に従うべきだ。ただし――ただしですよ、(笑い)――もし、それだけの理由と力があっ

    彼は女性との関係に関しては、
    「法治国の国民としては、それ(一夫一婦制)に従うべきだ。ただし――ただしですよ、(笑い)――もし、それだけの
    理由と力があって、しかも誰にも迷惑をかけないという場合には、一夫一婦制の枠外の行為でも私は男性として認め
    ます」(『宝石』前掲号)

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    銀河

    from: 22世紀さん

    2011年11月28日 00時47分28秒

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    「Re:Re:池田大作氏の女性観。大ちゃんのミストーク」『月刊宝石』1970年(昭和45年)1月号の「青島幸男のイジワル対談」から張り付け(貼り付け開

    from: 銀河さん

    2011年11月27日 22時10分18秒

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    「Re:池田大作氏の女性観。大ちゃんのミストーク」私、記事読んだ記憶あり、確かトインビー博士と記憶する、定かでなし、下らん対話も有るもんだ、その時私感

  • from: 三船小仏さん

    2011年11月26日 00時06分06秒

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     リチャード・コシミズ氏へ  最近はリチャード・コシミズ氏のプログをよく読んでいます。また、Youtube 上の動画もよく読んでいます。

    リチャード・コシミズ氏へ最近はリチャード・コシミズ氏のプログをよく読んでいます。また、Youtube上の動画もよく読んでいます。オウム真理教の早川が飛



     リチャード・コシミズ氏へ
     最近はリチャード・コシミズ氏のプログをよく読んでいます。また、Youtube 上の動画もよく読んでいます。
     オウム真理教の早川が飛行機2機分の武器弾薬を運んだとされていますが、それは日本全国に散らばる創価学会会館の地下室に隠されていると思います。その地下室を覗いたことのある人ならば、そこがそういうものを隠すのに非常に適応な処であることが分かります。
     その武器弾薬を使用して日本制覇するのは創価学会男子部と考えていましたが、婦人部でも実行可能なことを思いつきました。現代の戦争は格闘技ではなくなっており、女性で十分に行えることを失念していました。
     創価学会男子部は現在は非常に弱体化していますが、婦人部は未だに強く、座談会の参加者が全て婦人部であることも多いものです。熱心に選挙運動するのは婦人部です。
     細菌やサリンなどの毒ガスをを東京にばらまくことは婦人で十分に行えることです。池田大作が亡くなったときに婦人部がやけくそになって武力蜂起する可能性が大きくあります。
     最近、オウム真理教事件をよく研究していますが、オウム真理教よりも創価学会の方が遥かに危険です。創価学会には広宣流布のためならば殺人などを行っても良いという教義があります。

    >不殺生戒と申すは、是の如き重戒なれども、法華経の敵になれば、此れを害するは第一の功徳と説き給う也。(秋元御書)

    

例せば殺生戒は仏誡の第一であり、生物を残害しないのは道徳心の発端である。それにしても謗法の者を懲罰するは、法華行者の義務であり、いかに折伏してもこれに応じない者は、これが一命を断つとも已むを得ない。これかえって真の慈悲である。この意味からいえば、謗法者を殺すのは、法華経主義からいえば、不道徳でないのみならず、かえって大道徳になる。



     これは19年前、日蓮正宗に寝返った家の玄関で夜の二時に糞をした狂信的な男子部本部長と読み合わせていたものです。とても良い人でしたが、あまりにも狂信的な人でした。狂信的な分子はこのように危険なのです。オウム真理教に創価学会男子部が少なくとも27人は居たという上祐氏の証言は納得がいきます。狂信的な人は狂信的なのです。穏やかな創価学会員が大部分ですけど、このように危険性のある創価学会員も一部ながら存在しているのです。
     創価学会原理主義派と言って良いでしょう。創価学会原理主義派は勤行唱題をしないで自衛隊に潜り込んでいる可能性は高いと三船小仏は推察しています。<

     亀井静香先生の日本新党に日本全国の創価学会会館の地下室に警察犬を連れて立ち入り調査するべき、というメールを出しましたが、十分な証拠がないかぎり動けないと思われます。
     上祐氏はオウム真理教の存続の条件に「大事なことは喋らない」という交換条件を取り交わしているはずです。
     矢野絢也氏が創価学会を辞めて創価学会批判をしましたが、まだ40%ほどしか喋っていないはずです。矢野絢也氏には子供や孫が居ます。これ以上は喋ってはいけないということを弁えて喋っています。これは山崎正友氏や原島嵩氏なども同じです。私も「これは書いてはいけない」というものは書かないで居ますから分かってきました。
     創価学会が麻薬ロンダリングで多大な利益を得ていることは常識として知るべきことですが、99%の創価学会員は「麻薬ロンダリング」を創価学会が行っているということは知らないと思います。毎年の「財務」が2500億円ですが、創価学会の総資産は池田大作の資産と合わせると11兆円といわれます。13兆円という意見も強くあります。2500億円を20年間続けても5兆円にしかなりません。
     少数の創価学会員は創価学会が株取引を行って多大な損失を受けたことを知っていますが、ごく少数です。確実性があり利益も多大な麻薬ロンダリングを行わないはずがないことを常識として考えるべきですが、私もごく最近になって知ったことです。
     財務調査が入らない宗教団体を使って麻薬ロンダリングすることが常識化していることを一般の創価学会員は知らないのです。
    ……
     昭和45年に於ける言論問題のときも創価学会は痛くも痒くもない藤原弘達氏の「創価学会を切る」を問題化していますが、あれは巧妙な創価学会首脳部の動きと私は考えています。創価学会および日蓮正宗に大きなダメージを与える本が幾冊も出版の動きがありましたが、それらは巧く出版禁止となっています。(これが創価学会だーーー元学会幹部たちの告白:植村左内:あゆみ出版:1970)などです。これは昭和42年に創価学会より出版禁止処分の裁判にかけられ、出版禁止処分となり、日大グラウンドで一〇万冊余が焼却処分となりましたが、昭和45年に小さな出版社から隠れて出版されました。ところが、この著者はこの一冊しか書いていません。殺されたか、強い脅迫を受けたものと思われます。他にも、藤原行正氏や竜年光氏など造反した元側近が本を出版していますが、二冊ほどしか書いていません。強い脅迫を受けているとしか考えられません。そしてその内容も肝心な部分には触れないように書かれています。
     出版阻止には公明党の竹入義勝氏が主体となって動いたようです。矢野絢也氏も大きく関わったと思われますが、矢野絢也氏は藤原弘達氏の「創価学会を切る」のことにしか触れていません。矢野絢也氏には子供も孫も居ますから触れることはできないと思われます。
    ……
     オウム真理教の上祐氏が匿名で創価学会批判の本を出すことが良いようですが、匿名で出しても張れることは確実なために出さないで居るものと思われます。創価学会の弁護士は300名を優に超えています。どの出版社も創価学会に異常多発している“うつ病性障害”などの精神障害のことを載せること及び出版することを拒否します。
     創価学会の言論弾圧は言論問題を問題とせずに、ずっと続いていました。昭和45年の言論問題への反省は少しもありませんでした。
    ……
     オウム真理教のことを調べていて分かったことですが「カルトというものは自分から破滅の道を選択する」ということです。中世のヨーロッパに於けるカルト団体が自分から破滅の道を選択して破滅していった歴史があります。カルトは妥協しません。カルトは狂信的です。カルトは死をも恐れません。それ故に創価学会は非常に危険なのです。
     統一協会も同じです。現在、Youtube には統一協会に非常に痛いものが多数アップされていますが削除されていません。弁護士軍団を造らなかったのが失敗だったと思われます。統一協会は創価学会のような強い力をもはや現在は持たないのです。やがて創価学会も自分から破滅と消滅の道を選択すると思います。
     オウム真理教が現在も存続していることは上祐氏が非常に賢明で、教団存続のための裏取引を巨大な権力と上手にしたためと思われます。
     オウム真理教は創価学会に嵌められたことを以前、創価学会の他教団に潜入して攪乱する部隊にいた人が証言していますが、マスコミは取り上げようとしませんでした。マスコミへの強大な圧力を創価学会は持っているからです。現在、創価学会男子部は大きく弱体化しており、以前のようなそういう攪乱部隊はなくなっている可能性が大きいですが、未だに残存しているかも知れません。
     私もオウム真理教は創価学会の攪乱部隊に手玉に取られたと考えています。オウム真理教の情報たとえば地下鉄サリン事件の情報が創価学会に筒抜けになっていたことからも、それは察せられます。地下鉄サリン事件の日、東京の創価学会本部は緊急に休日となったことは確かなようです。複数の証言、およびその日が休みであったことの言い訳の証言も私は得ています。
     創価学会員は早く日蓮正宗に替わった方が賢明であると思います。日蓮正宗への批判が創価学会から激しく出ていますが、本気にしてはいけません。創価学会発行の日蓮正宗を批判する機関誌及び書籍はほとんどが偽りと大袈裟であると考えて良いです。
     日蓮正宗は伝統のある純粋な教団です。創価学会の批判を鵜呑みにしてはいけません。創価学会の批判はほとんどが嘘と大袈裟に満ちています。0000達の言っていることは嘘と大袈裟であることが分かりました。しかし、創価学会の強大な弁護師団に対抗する力が日蓮正宗にはないため泣き寝入りするしかありません。また、それを明確に破折すると創価学会は暴力団以上に怖い団体です。放って置くしかありません。
    「カルトというものは自分から破滅の道を選択する」から放って置いて良いのです。池田教は破滅の道を選択して自ら破滅してゆくはずです。
    ……
     創価学会はオウム真理教のようにテロを起こし、自ら破滅してゆくと私は考えます。カルトは狂気と同一です。狂信は狂気と同一です。狂信すると理性がなくなります。普通の常識では考えられない突拍子もないことをするのがカルトです。
     創価学会はテロさえ起こさなければ巨大な教団として存続できると考えるのが常識ですが、常識が通じないのがカルトです。創価学会の狂気じみた選挙運動を考えると分かると思います。
     創価学会は選挙運動をしなかったら現在の三倍の規模になっていたはずですが、狂気の池田大作は狂気の選挙運動を命じ続けました。池田大作は権力を焦って却って権力を取り損なったのです。もう一度書きます。池田大作は権力を焦って却って権力を取り損なったのです。
     日蓮正宗の御本尊の偉大な力を持ってすれば日本を支配下に置くことも可能だったのに、池田大作は焦って政治に進出し、そして自己破滅への道を突き進んでしまったのです。池田大作はそういう凡人であったのです。
    ……
     獄に繋がれている早川など、および上祐氏などの証言があれば、全国の創価学会会館地下室への一斉捜索を行うことができると思いますが、彼らは喋らないし、喋っても消されるだけです。マスコミを創価学会が強く支配しているため、例え、表に出て来てもそれを報道することはないでしょう。
     もうすぐ、創価学会によるテロが行われるでしょう。それは池田大作が死んだときと思われます。
     インテリが集まっている創価学会中枢も、インターネットで連絡を取り合っている創価学会の組織内組織を把握することは極めて困難であり、彼らの暴走を止めることはできません。
     近いうちに創価学会によって行われるテロの被害者はオウム真理教のテロによる被害の数百倍、数千倍に達することは確実です。彼ら創価学会狂信者の考えはオウム真理教以上に狂気に満ちていることを警察は認識するべきです。
    ……

    ♦♥♦―――――♦♥♦―――――♦♥♦―――――♦♥♦―――――♦♥♦

     創価学会員に告げる。
     池田大作が亡くなったときに武力蜂起を起こすことは決してしてはいけない。
     武力蜂起は教団すなわち創価学会の自滅に繋がる。
     オウム真理教のことを考えると良い。
     今までの創価学会は池田大作により間違ってきた。
     しかし、池田大作が亡くなると創価学会も良くなって行くだろう。
     やけくそになって武力蜂起をしてはいけない。
     
     早川がウクライナより運んだ飛行機二機分の武器弾薬類は全国の何処かの創価学会会館の地下室に隠されていると言われている。
     しかし、武力蜂起は創価学会の自滅に繋がる。
     冷静に考えて武力蜂起を起こしてはいけない。
     武力蜂起して天下を取れる訳がない。
     多数の犠牲者が出るだけである。

     これから創価学会は池田大作の垢を落として清廉な信仰団体に蘇生するべきだ。
     政治から完全に手を引き、純粋な信仰団体に変わってゆくべきだ。大政党の庇護に属するべきだ。創価学会は大票田になり得る。
     政界への進出は単に池田大作の野望に過ぎなかった。
     選挙運動は広宣流布の妨げになっていたが、狂人である池田大作の命令に創価学会員は従っていた。
     これからは純粋な信仰団体に創価学会は変わってゆくべきだ。

     オウム真理教の麻原彰晃は単なる詐欺師に過ぎなかったが、池田大作も同じく詐欺師に過ぎなかったことを見抜くべきだ。
     一人であれだけの量の著作ができる訳がない。少なくとも4人のゴーストライターが居たと言われる。
     池田大作は麻原彰晃と同じく単なる俗物であり犯罪者であり、これから創価学会の歴史から排除されてゆくべきである。
     池田大作を排除すると創価学会は良くなって行く。
     また、池田大作を排除しないことには創価学会に未来はない。

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  • from: 22世紀さん

    2011年11月25日 08時59分26秒

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    池田大作「権力者」の構造

    道具としての女性観と廉潔を裏切る金銭観池田の私生活も、私人的な言動も、創価学会=公明党の首領であるという自意識から決して離れられなかった。彼は戸田の率

    道具としての女性観と廉潔を裏切る金銭観

     池田の私生活も、私人的な言動も、創価学会=公明党の首領であるという自意識から決して離れられなかった。彼
    は戸田の率直さだけは受け継がずに圧殺し、自ら立てた浅ハカな大義名分によって厚化粧した。
     彼は女性との関係に関しては、
    「法治国の国民としては、それ(一夫一婦制)に従うべきだ。ただし――ただしですよ、(笑い)――もし、それだけの
    理由と力があって、しかも誰にも迷惑をかけないという場合には、一夫一婦制の枠外の行為でも私は男性として認め
    ます」(『宝石』前掲号)
     と述べ、妾を抱えていた戸田仕込みの、まことに融通無礙の見解を持ち、今ではそれを実地に試みたと報じられて
    いる。『週刊新潮』(昭和55年6月12日号)によれば、池田と「ただならぬ〝間柄〟」の女性は公明党参議院議員・
    渡部通子、中国担当副会長・上田雅一の夫人、創価大学図書館長Yの夫人、第一庶務の女性たち、東海研修道場
    の女子職員、山陰地方のある幹部の夫人、と多数に上っている(創価学会は同誌に対し昭和55年6月5日、記事の
    即時全面取り消しを求めて抗議したが、同誌は6月19日号で逆に「当誌を<誹謗・中傷>する目的で書かれた<許し
    難い>文章」だとして取り消しを拒否、その後現在=昭和56年4月=に至るまで同誌記事は黙認されている)。
     池田の対女性観や性についての考え方はいくつかの池田語録にうかがわれる。
     そのうちの一つは本部職員の机の間を動きまわって、目につく一人一人に総括を加えたものである。
    「(高田新平君に)精気を奪われちゃった顔して、こっちへこい。快活に仕事ができないんじゃー、しようがない。誰と
    結婚したの。(冬木さん)もう五ヵ月たったんなら、いいだろう。夫婦の問題は自由だけど、現場の戦いでは男のいくさ
    だ。そこへ(夫婦の)延長がみえるようじゃーしようがない。戸田先生はそれはすごかった。毎日ふるえ上った。女房と
    一緒にねられるか!そんなくだらない!とね」(昭和50年10月24日、本部で、内部文書)
     もう一つはフランス日蓮正宗副理事長・長谷川彰一について語った言葉である。
    「フランスの長谷川さんも十年前は乞食だった。今ではセーヌ河に家を建てた。奥さん二十歳上だ。フランスの画家の
    大家だから・・・・・。(略)うんと絵をうって、といった。それまでなかなか絵を描かなかった。それじゃーやろうと決めて
    やりだした。奥さんには長生きして!  といった。長谷川さんには(奥さん)もうじき死んじゃうから、二人目の新しい
    奥さん、もらえばいい、といった。僕は内証がきらいだから、いっちゃうけど・・・・・」(昭和50年7月7日、創大職員七月
    会との会食で、内部文書)
     池田に信仰者の慎みは無縁である。彼はおそらく平均的な成人男子以上に、女性を快楽の道具とだけしか見ていず、
    会内における彼の超絶的な権力者の地位を、超絶的なオスの位置にもスライドさせて一部女性会員に臨んだ形跡が
    ある。そればかりか彼は、妻との情交をその夫に承認させることで、幹部会員の全生活面に及ぶ彼の権力を確認する
    と同時に、その夫たる幹部の自尊心をくじき、人間性を損ない、自立的な判断を放棄させて池田の命令に絶対服従
    する人間につくりかえることにも用いたと見られる。
     池田の行いはうじゃじゃけたものとはいえ、夫たる会員にとっては極限状況的な試練なのだった。ちょうど一睡もさせ
    ずに総括して人間改造を図る訓練法のように、彼には己の性器を幹部の「人間革命」に用いたことが疑われる。
     また池田は金に対して身を慎んでいると宣伝してきた。彼の年間所得は昭和49年の1億3,533万円をピークにその
    後はほぼ漸減し、54年には3,450万円へと下がったと届けられている。池田の家は創価学会本部近くの東京・信濃町
    の一等地にあり、41年3月、家・土地ともに創価学会が播磨造船所から買い取ったものを、49年7月に池田に売却した
    形をとっている。池田は41年9月から、創価学会から同家を借りていたが、あらためて買い取ったのである。敷地は
    462.84平方メートル(約140坪)、家は木造瓦葺きの二階建てで、一階333平方メートル、二階が111.12平方
    メートルと、土地柄からいえば頭抜けた豪邸である。
     内部文書をたどると、この家を池田は創価学会から時価よりだいぶ低目に買ったとみられる。
     まず家を買う前、48年10月8日の記録では、池田はこういう。
    「私は、月給18万円ですよ。重労働者だ。家だって借り屋ですよ。(略)私は私有財産ゼロですよ。(略)女房が言って
    いた。あなたが死んだら困るからこの家だけでもなんと(か)買ってくださらないかって。中西(注・総務の中西治雄)に
    相談したら、7,000万円だという。とても、そんなの買える金がない。高くて買えないよ」(総本山で)
     この年の池田の年間所得は1億1,357万円であり、月割りにすれば946万円あまり、「月給18万円」とは雲泥の開
    きがある。が、ここで重要なのは7,000万円という家の価格である。
     ついで51年11月3日の語録では、「私(の)家だって、まだ十年月賦で五分の一しか払っていない。何もない、私は」
    (第4回鳳友祭での挨拶)
     という。彼は49年7月に買ったのだから、この時までに二年余り経過しており、ちょうど十年月賦、頭金なしの均等割
    りなら、「五分の一」にぴったり相当する。
     ところが一ヵ月後の12月9日、池田は原島宏治(公明党初代委員長)の十三回忌の席でこういう。
    「私も、ついこの間までは、借家です。それではまずいということで、いろんな原こう(稿)を書いておりますから、原こう
    書いているから今のうちになんとかしなくちゃならないという、強い要請がありまして、十年ばかりで今払っている。
    2,700万今残っていますけども、それが実態です」
     彼の言によれば、残り五分の四が2,700万円である。ということは総額3,375万円の家ということになる。48年時、
    7,000万円の住宅をその後の値上がりや金利分があるにもかかわらず、池田は半値以下、十年賦で入手したことに
    なろう(池田は『週刊朝日』昭和56年4月10日号で、彼の家は7,800万円、銀行ローンで支払い、銀行には十年賦で
    返済し、期限前に返し終わったといった意味のことを述べているが、登記簿には銀行ローンの記載がなく、「財産と言え
    ば、この家一軒」のはずの彼は何を担保に銀行ローンを利用できたのだろうか、きわめて疑わしい話である)。
     長期間にわたる池田の会内での地位の重要さを思えば安い支払いともいえようが、これが彼の廉潔の宣伝を裏切る
    行為であることはいうまでもない。加えて池田にはマルピー代の疑惑が持たれている。
     マルピー代とは中元、歳暮、池田の外遊などに際し、通常のそれらとは別に公明党議員や創価学会の外郭企業、
    本部職員などから集められ、池田に贈られる現金である。国会議員や都議が一人3万か4万円、地方議員が1万円か
    ら2,000〜3,000円、党本部職員が3,000円から1,000円、外郭企業とその社長から多くは100万円単位、少なくて
    数十万円が集められるという(『週刊文春』昭和55年8月7日号)。
     マルピー代はその都度、数千万円の現金となって池田の手に入るが、源泉課税されず、池田が所得申告して贈与税
    を支払ったという話を聞かず、今では脱税が疑われている。
     池田はこうして所有権において廉潔ではなかったが、使用権においてはなおさら度をこしていた。創価学会は昭和
    49年から52年にかけて会員から特別財務として670億円を集め、全国各地に会館や研究所を乱立させたが、山崎
    正友の手記(同前、昭和55年12月4日号)によれば、そのうちの三分の一を下らない額を池田専用の豪華施設に
    振り向けたという。彼は多くの会館に専用フロアを設け、そこではトイレにまでじゅうたんを敷き詰めさせていた。
     そのほか、池田が国産と外車と、二台の車を乗り換えていたとか、旅行に専任のコックを引き連れていくとかの話が
    伝えられている。彼が所有においてより使用において專横をきわめたのは、創価学会規則(45年1月施行)で彼の
    利益が保証されていたからである。
     その第17条は「代表役員(池田)はこの法人と利益が相反する事項については代表権を有しない。この場合において
    は、第14条第一項の規定に準じて仮代表役員を定める」と一応池田の権限を規制していたが、その第14条第一項
    というのは「代表役員の代務者は代表役員(池田)が予め定められた順位により責任役員が就任する」となっており、
    まるっきりの尻抜けであった。池田は息のかかった者を代表役員代務者に定めれば、創価学会の財産でも思うがまま
    に処置できたのである。
     こうして創価学会自体が池田の持ち物だったから、創価学会への寄付も、創価学会からの借家の買収も単に形式に
    過ぎなかったともいえよう。

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  • from: ハムスターさん

    2011年11月25日 00時09分19秒

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    フォーラム

    乙骨正生ジャーナリスト11月18日に創価学会は81回目の創立記念日を迎える。昨平盛年の冒習は、創立80周年の節目であるとともに、同年5月3日は池田大作

    乙骨正生 ジャーナリスト

     11月18日に創価学会は81回目の創立記念日を迎える。

     昨平盛年の冒習は、創立80周年の節目であるとともに、同年5月3日は池田大作名誉会長が、創価学会会長に就任して50年の節目の年だったことから、創価学会は昨年を、会長就任50周年劇立80周年の矢佳節であると位置づけていた。


     だがその矢佳節の年に池田昏体調を崩し、創立80周年の節目に表舞台に立つことはできなかった。


     かつて池田氏は、「七つの鐘」構想というものを唱えていた(昭和33年創価学会本部総会)。

     これは創価学会創立の年とする昭和5年を起点に7年を7次に区切り、創価学会の発展の歴史と展望を述べたもので、7×7で昭和5年から49年後の昭和54年に広宣流布の基盤を完成するというものだった。


     もっとも池田氏は昭和41年の創価学会本部総会の席上、昭和54を短兵急にすぎると思ったのか、「そんなに無理する必要はない」として、当時所属していた日蓮正宗の総本山である大石寺の創建700年、戸田城聖会長の33回忌、そして自らの会長就任30周年にあたる昭和65(平成2)年を目標にして、「広宣流布の総仕上げにかかりたい」と発言していた。


     しかし「七つの鐘」構想の仕上げの年である昭和54には、日蓮正宗との第一次の対立の結果、教義違背等の責任をとって会長を辞任。平成2年(昭和65)年にはやは日蓮正宗との対立の挙げ句法華講総講頭を事実上、解任され、翌平成3年には日蓮正宗から破門された。


     その後、池田氏は平成13(2001)年になって、「21世紀の広布の山を登攀」したとして、創価学会創立100周年の2030年に向けて新たな「七つの鐘」に言及した。

     そこには次のようにある。「2001年5月3日。21世紀の広布の山をついにわれらは登攀した。(中略)同時に、新たな『7つの鐘』の出発となった。これから7年ごとに、また10年ごとに、希望と勝利の節を刻みながら、前進してまいりたい。

     まず、『1の鐘』を締めくくる、7年後の2008年の5月3日。次に創立80周年の2010年の5月3日。

     また『2の鐘』の結びとなる2015年の5月3日。

     さらに創立90周年の2020年の5月3日。そして創立100周年の2030年の5月3日を絢爛たる勝利で飾りたい。

     この間に『3の鐘』(2015年から22年)、『4の鐘』(2022年から29年)も刻まれる。そして、2050年は創立120周年であり、『第2の7つの鐘』の総仕上げの年に当たる」(2001〔平成13〕年4月27日、全国総県長会議へのメッセージ)


     しかし2007(平成19)年の参院選以降、国政選挙は3連敗。頼みの自公連立政権も破綻した。 2010年すなわち昨平成22年は、冒頭に記したように一大佳節として「七つの鐘」が打ち鳴らされるどころか、池田時代の終焉を告げる弔鐘が鳴り始めた年となってしまった。


     そして今年一年、池田氏は表舞台に全く姿を見せることができず、挙げ句、その虚実は断定できないものの「週刊文春」10月27日号には、2カ所の「脳梗塞」を発症して「車椅子」生活を余儀なくされているばかりか、「認知症」が進行して他者の認識すら覚束ない状況にあると報じられている。


     もはや池田氏が、「2の鐘」の結びの2015年5月3日や、90周年・100周年の佳節を迎えることは不可能だろう。

     そんな池田氏と創価学会に一大鉄槌を加え、池田氏と創価学会の旧悪を暴露する衝撃の告発本が出版された。

     矢野絢也元公明党委員長による創価学会の国税の税務調査妨害の全容を記した「乱脈経理」である。

     筆者はこれを池田時代の終焉を告げるレクイエムと読んだが、いかがか。

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  • from: 22世紀さん

    2011年11月22日 19時37分56秒

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    転載です

    改めて問われる皇室と学会の関係投稿者:北條駿投稿日:2011年11月22日(火)13時43分34秒通報返信・引用「皇室お三方」の入信を、御本尊流布のさ

    改めて問われる皇室と学会の関係 投稿者:北條 駿 投稿日:2011年11月22日(火)13時43分34秒   通報 返信・引用
    「皇室お三方」の入信を、御本尊流布のさきがけと喜んだ戸田城聖氏。
     だが池田氏が会長になると、この過去はきれいさっぱりと忘れられた。

     創価学会は常日頃、会員に対し邪宗教である神社の鳥居をくぐってはならぬと説いている。鳥居は神域を示すシンボルであって、単に土地の境界線を意味するのではなく、信仰の門、結界と位置づけられる。
     それだけに昭和天皇の「葬場殿の儀」で、神官、鳥居、大真榊など皇室神道の宗教儀式が濃密に取り入れられた場所に参列することは、矢野委員長以下の公明党議員にとって相当な抵抗感があったはず。
     だが、矢野委員長らは
    「大喪の礼と葬場殿の儀が一連の流れで実施されるのは、政教分離のうえで疑問だ」
     としながらも
    「葬場殿の儀の間は、待機時間として身体が参加するだけ。心は参列していない」
     という理由で参列。そしてして矢野委員長は参列後の記者会見で
    「神道形式とはいえ最も簡略化された形で行なわれ、あまり抵抗感はなかった。起立、黙祷、拝礼の全てについて司会者の発声に従った。あれこれと異を唱えたりするのは、亡くなったかたに対して非礼ではないか」
     とおおらかさを強調してみせた。
     これは公明党の懐が深くなったというよりも、私には、池田大作氏の締めつけの強さを改めて痛感させる発言だった。
     かつて創価学会は皇室をどう見ていたか。ここで検証しておきたい。「葬場殿の儀」と「大喪の礼」に分けられた昭和天皇の葬儀。途中で取り外された鳥居と大真榊をめぐって、このところ合憲・違憲論議がかまびすしい。皇室行事はすべて神道式と思われがちだが、これは明治時代以降の極めて限られた期間、神仏分離政策による。皇室の宗教は古くから仏教を中心とし、聖徳太子の頃から法華経を信ずるとされてきた。
     一般庶民の問でも法華経は広く信じられ、様々な宗派がある。日蓮正宗もその一つだ。日蓮正宗の中でも法華経信者と学会信者がいる。
     明治以降であっても、実は、昭和天皇の御生母である貞明皇太后やスポーツ殿下として知られた秩父宮と勢津子妃殿下らが熱心な法華経信者であったという事実は、今は忘れられているようだ。しかも、この皇室お三方には、日蓮正宗から特別に〝常住御本尊〟〝御守御本尊〟が授与され、戦時中から戦後にかけて国家と皇室の安泰、繁栄が祈念されたと伝えられる。
     その真偽を点検・検証したところ、実際に貞明皇太后に授与されていた常住御本尊が、その御逝去後、日蓮正宗の末寺である常在寺に返還され、現在もなお寺宝として保存されていることなどが判明した。信仰の深さなど内面的なことまでの検証は不可能だが、日蓮正宗との関わりは確かにあったと思われる。
     貞明皇太后葬儀の際には鳥居が建てられず「『若しもの事ある時な法華経を唱へよ』との御書きものが発見され、天皇陛下(昭和)のお目にとまり、御孝心厚き陛下の特別のおぼしめしがあったし(昭和二十六年七月二十日、第十号)等々の秘められた〝皇族折伏〟の一端が明らかにされているのである。当時、皇太子殿下であった現天皇陛下にも〝御守御本尊〟が授与されており、今も護持されている可能性があるという。
     昭和二十六年から二十八年にかけての『聖教新聞』が貞明皇太后、秩父宮殿下の追悼記事を掲載するなかで「端なくも一つの不思議な事実が明らかにされた」として「日蓮正宗への皇室御帰依」を何度も報じ立てている。初めのうちは、事実関係がはっきりしなかったせいで曖昧な報道だったが、回を重ねるごとに、確信を込めた具体的な記述が目立つようになった。

    御手垢で汚れた御教本

     当時の聖教新聞は一ヶ月に三回刊で、編集責任者は創価学会理事の石田次男氏(元参院議員)。戸田城聖氏が第二代会長に就任する直前に第一号が発刊され、創刊五号目(二十六年六月一日付け)に、同年五月十七日、大宮御所で逝去された貞明皇太后の追悼記事が一面トップで大きく報道された。
    「謹んで皇太后陛下の御逝去を悼み奉る」
    「大聖人様皇室に守護をたれ給うか」
    「御本尊流布のさきがけか!!」
     との三本見出し。以後、第十号、九月一日付けの第十四号と新盆会法要、旧盆会法要を伝える記事で、より詳細に皇族の法華経信仰が明らかにされていく。

    「貞明皇后が真の南無妙法蓮華経の御信者であらせられたからであって、それは故皇后の御所持の御経本が御手垢で非常に汚れて居られたことでも明らか」(第十号)
    「貞明皇后は御生前日蓮正宗の御信仰深くあらせられて、御逝去の後、発見されたお書ものの中に、死後の供養は必ず正宗の南無妙法蓮華経にして下さる様にとの意昧の御言葉があった」(第十四号)
     といった具合だ。きれいごとのタテマエ記事しか載せず、ホンネを隠す現在の聖教新聞と違って、当時の聖教新聞は勇ましいホンネをパンパンと記事にした。

     たとえば、皇族の信仰内容を伝える第十号の記事には邪宗攻撃の記述も見られる。
    「大正天皇の御生母は柳原二位の局と申しあげるが、この方も非常に熱心な法華経の御信者であった。然しその御信仰なされた日蓮宗は、邪宗教である身延の日蓮宗であった。仏法の定則に照して見て、大正天皇御早逝の原因もこの辺にあろうかと推察し奉る所である」 要するに同じ「南無妙法蓮華経」を唱えるのでも、日蓮宗に帰依したのではダメで、日蓮正宗に帰依しなくてはならぬと説いて、容赦がない。

     大正天皇御早逝の原因を、邪宗信仰にあり」ときめつけるのは、相当なものだ。何ごともあるがままのホンネを重視し、他宗派を邪宗呼ばわりして対決姿勢を示した戸田城聖氏らしい切り捨てようである。

    皇室に広めた二人の女性

     それにしても、貞明皇太后の法華経信仰に何らかの証拠や根拠があるのか、当時の編集責任者である石田次男氏に問い質した。記憶力抜群の石田氏は即答した。
    「昭和二十七、八年の七月か八月の聖教新聞に貞明皇太后が護持された御本尊の写真が出ているはずだ。たしか三段ぐらいの大きさで扱った。創価学会が折伏したんではない。秩父宮妃殿下の母上である松平信子さんが橋渡しをした。当事者のそういう談話もきちんと載せてある。ウソ記事ばかりで飾り立てる池田大作と違って、私が編集責任者だった頃の聖教に書いてあることは全部真実ばかりだ。古い新聞を調べれば、すぐにわかる」

     調べたら、成る程、珍しい御本尊の写真が三段の扱いで掲載されている。二十八年八月十日発行の第八十八号の聖教新聞である。二年前の曖昧な記事と違って、極めて断定的に具体的に、こう書かれてあった。以下にその全文を再録する。
    「先年逝去されたスポーツの宮様・秩父宮殿下と御母君の貞明皇后は熱心な自運正宗信徒であられた。又現在秩父宮勢津子妃殿下が熱心に正宗の御信仰に励まれて居る事は余り世間に知られていない。皇太子殿下が御祖母貞明皇后の御意で御守御本尊を御もちの事も一般に知られていない事実である。

     この皇族御三方の御信仰は秩父宮殿下が最初であられた、これは始め北条時宗公の子孫に当たる北条元子爵家のつね子様(八十三歳)が学友の松平信子様(秩父宮妃殿下御実母、現在皇太子殿下御用掛)にすすめて松平様が入信。この縁から勢津子妃殿下、秩父宮殿下と相ついで御入信。秩父宮様は御発病後の戦時中の御入信以後御本尊を拝まれていた。又こうした縁に依って松平信子様の手を経て貞明皇后が戦時中の御法主上人鈴木日恭猊下御したための常住御本尊を受持信行遊ばされた。この御本尊は右肩に『皇威宣揚之しるし』と御したためあり、左方に昭和十八年八月吉辰とあって、表装は菊の御紋入り水晶軸の立派なものである。皇后逝去後は松平様の手を経て東京池袋の正宗寺院常在寺へ返納され、現在同寺の寺宝となっている。

     又皇后の受持せられた御守御本尊は皇后のおぼし召しから御開眼の上、現在皇太子殿下が御もちになって居られる。
     一方秩父宮家に於ても宮殿下なきあと妃殿下がこれもやはり日恭上人御したための常住御本尊、御守御本尊を捧持されて熱心に信仰されて現在に到るが、これら御三方の御信仰は皇室の正法帰依の前駆であり、三大秘法広宣流布の一段階として将来天皇家の正宗御信仰もたらす大きな縁となるものであろう」
     ここにある「常住御本尊」は、一家に安置して拝むものであり、「御守御本尊」は個人を守るため肌身につけ置くものとされる。

     御本尊授与の橋渡しをした松平信子さんは日蓮正宗の信徒であって、創価学会員ではない。それでも聖教新聞に何度か写真つきの談話を寄せている。
    「貞明皇后は常に宮中の御儀式をかたく守られたかたわら戦時中特別に御本山大石寺より御感得になりました御本尊に対し日々両陛下御始め御直宮方の御為に御信仰になりました事は、真に親心のおうつくしさを示された事で正宗の信者として此上の心強さはない事と有難く思います」

     聖教新聞が添書した筆者紹介記事には、
    「松平様は元宮内大臣故松平恒雄氏夫人で秩父宮妃殿下の御母堂。白虎隊で有名な会津藩主の子孫で現在皇太子殿下御用掛をつとめておられる。本年六十七歳」
     とある。
     皇族折伏の事実については、聖教新聞だけでなく、日蓮正宗の正本記録『富士年表』や機関誌『蓮華』にも、その片鱗が記される。

     戦前の『富士年表』には、毎年の一月一日に時の法主が宮中参賀し、正法護持を祈念したと記されるほかに、昭和十六年の「本宗事項」に「八月 日恭 皇太后に本尊を授与(裏書)」と書かれてある。
     また『蓮華』(六十四号、五十一年八月)の「寺院紹介・霊鷲山常在寺」の項目では寺宝になっている貞明皇太后御感得御本尊について触れ、「常在寺の信徒・北条つね子氏の添書」を紹介している。
    「此の御本尊は昭和十六年八月当宗大本山大石寺六十二世鈴木日恭上人より皇太后陛下へ御感得になりました常住御本尊であります。折から我国は支那事変につづいて第二次世界大戦の国難の最中でありまして、宗祖日蓮大聖人の立正安国の聖志を信じ奉るあまり常在寺より同信徒松平信子夫人の手を経て御送り申上げました。それより陛下は日夜御本尊の御前にて厚き御信念を以て皇国の御安泰を御祈念になったのであります。昭和二十六年五月十七日陛下崩御に際し当寺へ返納になり、永く寺宝として存続いたすものであります。昭和二十六年七月常在寺信徒北条つね子 謹書」

     北条つね子さんは戦前にさまざまな宗教の信仰体験を重ねたあと、日蓮正宗に帰依した人。先祖は小田原城主・北条早雲につながり、父・北条氏恭(うじゆき)氏は侍従、宮中顧問官として明治天皇に仕えた。二十歳年下の弟・北条しゅんばち雋八(しゅんぱち)氏は戦前の貴族院議員、戦後、創価学会から推されて参院議員を二期務めた。創価学会四代会長・北条浩氏とも姻戚関係=伯母と甥=にある。

     やんごとなき家系の令嬢育ちながら、信仰的にはラジカル派。聖教新聞(第四十七号。昭和二十七年八月十日)に寄せた談話でも、この時、八十二歳の高齢とは、とても思えないほどに激越である。こんな具合だ。
    「日蓮大聖人の御遺文を拝するに、世の人々の不幸の原因は邪教を信ずる結果であるとの厳しい御教と拝察します。私がたまたま宗教の門に入りまして以来顧みますれば種々なる邪教にふみ迷い最後は身延の日蓮宗一致派に入信しました。爾来私は信仰上一抹の疑念を抱きながら御題目を続けて来ました結果、遂に大きな罰を受け身心共に大不幸の境遇に陥りました。然るに嗚呼何たる幸なるかな、其際日蓮正宗の一信徒より熱烈なる折伏をうけ、大聖人御出世の本懐たる三大秘法の南無妙法蓮華経の大御本尊にまみえ奉り我が身の本来の真相をはっきり知ることが出来まして今迄永い間の迷いの根本が天日の下に氷解して以来感激の日々を送ると共に邪宗折伏に専念して居ます。かくて私はかかる広大な仏恩に報い奉るは此の大白法を皇室におすすめする一事にありと思って居りました」

     その結果、縁あって貞明皇太后を折伏し、
    「爾来皇太后様は本宗の余宗に最もすぐれている点を御信じになり、日夜皇室の御為に厚き信仰を御持ちになり昨年崩御の時まで御精進遊ばされたのであります。今や本尊流布の時に当って私は信徒一統と共に異体同心、国の謗法を退治して立正安国の聖意実現の日の近かれと只管折伏教化の使命に邁進して居ります」
     と創価学会も顔負けのファイトを燃やし続けた。もっとも高齢には勝てず、二年後の二十九年一月、貞明皇太后のあとを追って黄泉の世界へと旅立った。

    消し去られた過去

     戸田二代会長時代の創価学会は、自らの折伏成果ではない、日蓮正宗信徒(旧法華溝員)の皇族折伏を〝我らが喜び〟と重視し、
    「皇室が御本尊様を頂いたということは御本尊流布のさきがけとして仏法上重大な意義を示すものなる事を強調し皇太后陛下追悼の辞にかえる次第であります」(第五号)
     と論じ立てた。

     先に崩御された昭和天皇も法華経に関心を持たれたようで、聖教紙は
    「貞明皇太后を追善する御回向、読経のために、天皇陛下御自ら松平様へ御経本を御所望なされた由で、直ちに常在寺では所蔵の御経本を十余部差しあげられた」(第十号)
    と伝える。
     御経本を献呈するだけでなく、松平信子さんは天皇陛下や皇族に対し法話も説いた。 聖教紙の第十四号に八月十五日に大宮御所で貞明皇太后を追善供養する旧盆法要が営まれたと報ずる記事を載せ、
    「御孝心深くあらせられる天皇陛下は、御生母の御意向に従われ、松平信子様が日蓮正宗の仏法の正しさを説く御法話に耳を傾けられ、この日朝からお集まりの天皇、皇后両陛下を始め各宮様方は夜遅くまで御講聴なされたとうけたまわる」
     と〝折伏座談会〟の模様を誇らし気に書き立てた。

     さて、しかし、これだけ熱を入れた皇族折伏にもかかわらず、戸田会長が三十三年に急逝し、池田大作第三代会長時代になった途端、きれいさっぱりと過去を消し去った。

     本来は語り継がれて当然の、北条つね子、松平信子両女傑の折伏ぶりや貞明皇太后、秩父宮、同妃殿下の正宗信仰について、その後の聖教紙は一字一句も伝えていない。三十年以上も前のことは、創価学会幹部の記憶の隅にも残っておらず、あれほど重大視された「日蓮正宗への皇室御帰依」そのものが、今は話題にされることもない。
     いかにも〝皇室軽んじる派〟の池田大作氏らしい無視・黙殺ぶりである。
     今回の昭和天皇崩御に際し、御生母・貞明皇太后の日蓮正宗帰依を振り返ってよさそうなものなのに、全く触れられることがなかった。

     池田大作氏が皇族折伏の過去の事実を無視するのは、何事であれ、自分が出発点でなければならないとする〝自分中心主義〟。創価学会が基本であり、同門の信徒でも、法華講員の事績を認めるのは不愉快であるとする偏狭さの現われとみられる。

     日蓮正宗の伝統教義からすれば、天皇陛下の正宗帰依を願って当然なのに、全く言及しないところが逆に不自然に感じられる。
     天皇や皇室制度に対し、池田大作氏の側に何らかのこだわりがあって、率直になれない事情があるとしか言いようがない。

    月刊『諸君』



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    銀河

    from: 22世紀さん

    2011年11月24日 20時22分41秒

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    「Re:22世紀さん有難う嬉しく拝見いたしました。」>創価学会員知りえない事、コメント感謝です。私日蓮正宗の代代法主不思議な方もいるもんだ思っています

    from: 銀河さん

    2011年11月23日 17時47分41秒

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    「22世紀さん有難う嬉しく拝見いたしました。」創価学会員知りえない事、コメント感謝です。私日蓮正宗の代代法主不思議な方もいるもんだ思っています。11世

  • from: 22世紀さん

    2011年11月24日 13時28分15秒

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    池田大作「権力者」の構造

    なりあがりの大物好みもっとも池田は勝ち抜いてきた者として、大物との人交わりを好み、彼らに親近感を抱いていた。その際の必要条件は、相手が彼を認めるという

    なりあがりの大物好み

     もっとも池田は勝ち抜いてきた者として、大物との人交わりを好み、彼らに親近感を抱いていた。その際の必要条件
    は、相手が彼を認めるという一点につきた。彼にとっては彼の権威を認めないこと、彼に礼を尽くさないことにすぐる
    権利侵害はなかった。彼はそれを傲慢と決めつけ、皮膚感覚的にヒステリー反応を起こした。
     「威張る者とは戦おう。それが社会正義の人だ。威張るのは、キャラクターとして、最低だ」(小林正巳『池田大作』)
    と池田はいきまき、たとえば彼を呼びつけた上、待たせた大野伴睦にひどく恨みを含んだ。創価学会の勢力の伸張と
    ともに、池田は表敬に過敏となり、それだけ立腹の機会も多くなっていた。
     が、逆に彼に頼みごとをもって訪ねてくる大物ほど彼を喜ばせるものはなかった。池田は頼みごとを必ずしもかなえ
    はしなかったが、依頼を彼の権威の承認と受け止め、ひとり悦に入った。
     池田への依頼持ち込みの最盛期は昭和38年4月に行われた、現職の東龍太郎と、阪本勝が一騎打ちした都知事
    選で、この時には大野伴睦、岸信介、南条徳男、佐藤栄作が池田を訪ねているという(草柳大蔵『現代王国論』)。
    彼らの依頼が奏効したか、公政連は、それまで都政の欠陥と腐敗を攻撃していたにもかかわらず、その都政の最高
    責任者である東龍太郎支持を表明し、多数都民の批判を浴びた。
     池田をはじめとする創価学会=公明党幹部には、つねに正当に評価されていない、世に認められていないという、
    被害者類似の意識が濃厚だったから、自らの利益に支障ないと判断できるかぎり、大物に認められ、おだてられれば、
    時に豚のように木に登った。
     また池田はこれと思う大物を創価学会の文化祭に招き、参加者名簿をその声望と権力の貯金通帳として眺めた。
    42年10月の文化祭への来賓は5,000人にのぼり、『日本の潮流』によれば、そのおもな顔ぶれは次の通りであった。
    「政界は三木外相、前尾繁三郎(自民)、賀屋興宣(同)、田中角栄(同)、田中法相、塚原総務長官、劒木文相、柳田
    秀一(社会)、佐々木秀世(自民)、石橋政嗣(社会)の各氏ら。美濃部都知事、秦野警視総監、竹山静岡県知事、
    東前都知事もローヤルボックスに姿を見せ、じっと見守っていた。官界からも多数が顔を見せていた。
     財界では松下幸之助氏の姿が目立った。銀行関係は田実渉(三菱)、岩佐凱実(富士)、堀田庄三(住友)、金子嘉徳
    (東海)、村野辰雄(三和)、原純夫(東京)の各氏ら。
     建設業界は本間嘉平(大成)、竹中練一(竹中)、吉川清一(清水)、渥美健夫(鹿島)の各氏。
     デパートは松田伊三雄(三越)、飯田新一(高島屋)、小菅丹治(伊勢丹)、古屋徳兵衛(松屋)、堤清二(西武)、根津
    嘉一郎(東部)、服部礼次郎(和光)の各氏ら。
     製紙業界は熊沢貞夫(王子)、金子佐一郎(十条)、木下又三郎(本州)、白石稔(三菱)の各氏(以下一流企業の大
    どころが続くが略す)。
     学者では大熊信行(神奈川大)、清水幾太郎(学習院大)、木下広居(専修大)、磯村英一(都立大名誉教授)、古田
    重二良(日大)の各氏ら。それに一流出版社の幹部も数多く姿をみせた」
     池田はこれらの知名人に、動く人絵や人文字を見せて、会員の統制された、彼自身への忠誠心を見せつけ、出席者
    に様々の感慨を強いた。森下泰は「団結力」に感嘆久しくしたし、木下広居は「日本の将来に明るい気持ちをもった」
    (『週刊現代』昭和42年11月2日号)。
     また昭和38年の関西文化祭を見たマックファーランドは、「こうした大衆のエネルギーと盲目的従順の表明に慄然と
    した。第二次世界大戦当時を覚えている者にとっては、こうした光景は決して忘れられるものではない。私の心に、
    ナチスの青年大会のニュース映画の一コマや、文明を絶滅させてしまった全体主義の光景が、ちらっと浮かんで来る」
    とその著に記さねばならなかった。



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  • from: 21世紀さん

    2011年11月23日 17時59分41秒

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    創価学会問題 創価学会の隠された真実史

    創価学会の隠された真実史我々が創価学会を論ずるとき、ともすれば現在の姿だけを捉えて論じがちであるが、よくよく問題の本質を弁えるためには、その淵源を知る

    創価学会の隠された真実史

    我々が創価学会を論ずるとき、ともすれば現在の姿だけを捉えて論じがちであるが、よくよく問題の本質を弁えるためには、その淵源を知ることが大切である。

    創価学会の淵源、それは、初代会長・牧口常三郎の思想と信仰である。

    『価値論』の本末顛倒と日淳上人への誹謗

    牧口常三郎氏は、昭和三年六月、東京・常在寺所属の直達講(じきたつこう)講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、五十七歳で日蓮正宗に入信した(同じ年の秋、後の戸田城聖二代会長も、三谷氏の折伏で入信している)。

    牧口氏入信の動機について、柳田国男は、「貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう」(『牧口君入信の動機』)と述べている。

    入信後の牧口氏は、昭和五年十一月に「創価教育大系」第一巻を発刊(この日が後に学会創立の日とこじつけられた)、翌六年三月には同『大系』第二巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表したのである。

    この価値論について、牧口氏は、後の獄中書簡の中で、
    「百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著し、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が粉起するのは当然で経文通りです」
    などと、驚くべき評価をしている。

    すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘めようとしなかった文底下種仏法のような、哲学の最高峰にあたる"教え"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕したのだから、三障四魔が紛然と競い起こるのは当然、というのである。

    これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全く本末転倒という他はない。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度の教であることになるから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師であるということになってしまう(事実、かの五十二年問題の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となった。)

    結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪め、それが後の創価学会異流儀化の温床になった、といえるであろう。

    さて、こうした異質な思想を持つ牧口氏は、当然のことながら、氏の教化親であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相容れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することになる。

    その三谷氏は、昭和七年に亡くなられたが、残された講員達の誰も牧口氏を新講頭に推したりすることなく、そのまま直達講は自主解散してしまった。

    これにより、牧口氏はそれまでの同士達と袂を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮を事実上の所属寺院とするようになった。

    当時の歓喜寮御住職は堀米泰栄御尊師=後の65世日淳上人であられ、当初のうちこそ、牧口氏は上人の指導に従って信仰に励んでいくかのように見えたが、昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗し始めた。

    それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれている(当時の僧侶、信徒の証言)。

    実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係悪化を裏付けている。

    なおまた、古くからの信徒で直達講講頭を務めていた竹尾清澄氏(故人)も、59世堀日亨上人のお話の中から伺ったこととして、

    「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴って退去」(『畑毛日記』)
    した、という出来事を記録に残されているのである。

    さて、こうして上人との関係が険悪化して以後、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者、(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱りつけた。

    さらに牧口氏は、よほど日淳上人を逆恨みしたのであろう、会員達を使って、上人に対する誹謗・罵倒を行なったのである。その事実は、当時の会員の証言の他、戸田理事長(後の二代会長)の獄中書簡にも、

    堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておる。と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身に見る』と言っております、と」(昭和19年9月6日、妻あて)

    とあって、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長自らが、自身の投獄は日淳上人を誹謗した罰である、として懺悔していることからも明らかである。

    こうして牧口氏の率いる学会は、所属寺院たる歓喜寮と信仰上の断絶を生じていった。そして、同時にそのことは、"本宗の信徒は総て各寺院住職のもとに所属して信仰に励む"ことが原則である日蓮正宗からも、疎遠になっていくことを意味していた。

    前出の、竹尾氏が日亨上人から伺った話の次下には、「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」とまで述べられており、牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われる。

    とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨とする宗である。そのような不遜な牧口氏一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう。手配なされたのであった。


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    from: 21世紀さん

    2011年11月23日 18時04分01秒

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    「Re:創価学会問題創価学会の隠された真実史」正信(しょうしん)を貫いた戸田二代会長の大功績かくて、戸田会長は数年間にも渡る苦心惨憺の結果、牧口氏の「

    from: 21世紀さん

    2011年11月23日 18時02分49秒

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    「Re:創価学会問題創価学会の隠された真実史」異流儀めざした牧口氏――獄死は「誹謗の罪」さて、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったかというと、ここ

  • from: 銀河さん

    2011年11月22日 17時36分38秒

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    ご迷惑をおかけしました

    私パソコン不慣れでしょ一生懸命、コメント、何処を押す訳でもないのに、突然画面飛び、全くの白紙、送信もしないのに、反学会に行ってしまいました。恥ずかしく

    私パソコン不慣れでしょ一生懸命、コメント、何処を押す訳でもないのに、突然画面飛び、全くの白紙、送信もしないのに、反学会に行ってしまいました。恥ずかしくて、見えないでしょうが私、顔がこわばっています。脳回路修復して又書きます。

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  • from: 銀河さん

    2011年11月22日 15時56分26秒

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    21・22世紀さん拝読しています。他の人如何しましたか

    私、お二人の中に割って入り御容赦の程、皆さんのコメント拝見しながら、唸ってみたり、私馬鹿ですから、何処までが、真実で、そんな話、彼女は、誰に語り、告白

    私、お二人の中に割って入り御容赦の程、皆さんのコメント拝見しながら、唸ってみたり、私馬鹿ですから、何処までが、真実で、そんな話、彼女は、誰に語り、告白したのか、尾ひれ、はひれ、が有るのでは、考える時も、時として有り。ページ少し汚します。
    私、反創価でないから、創価の悪口言いません。騙されているとか
    学会に籍をおいては、功徳無しとか、学会員の私、実態数は知りません。800万人とか、選挙をすれば死に物狂い、600百万票とか、凄いですね。私それだけで嬉しくなるんですよ。自分が一票、投票するのが、精一杯ローカル投票所の立会責任20年程しています。一票入れない訳に行かないんですよ。池田大大大先生が狂っているからと云って、反創価の理論はあたりません。学会員の悪口なら、私了解、目悪く聖教新聞も読めない老人もかなり居ります。唯朝夕に題目唱え手を合わすだけ、私そんな人、大好きですよ。阿弥陀経極楽浄土の信仰の話なら理解も出来るが、やれ一生成仏とか、仏界などと、話しても言語明瞭意味不明、老人には理解出き無し。もう竹下登に成ってしまいます。さて、私学会約50年、大大先生の事
    慕った事あまり無し、しかし、何か戴き物四・五点あり、今も有る。私、学会の本幹は、女房監視のため欠かした事無し、平成五年九月七日本部幹部会、最近新たにした、薄い記憶たどって行けば、大大先生が有った様な程度です。其れをyoutubuで、再確認して思考回路が、反転しだした。我が妻は、コンピュウターで創作された法華講の皆さんの天下の宝刀、贋作です、偽物と意地を張る、本物と知っても其れがどうしたと、開き直る事でしょう。又彼は、語る師弟不而、理解苦しむ日本語です。大大先生語ったよ。師弟不二とは師が死ねと云ったら、即弟子は死ぬ事其れが師弟不二だと。もう私大先生と呼ぶのは辞めた。お前は馬鹿か、やくざの鉄砲玉では有るまいし、しかし、顕正会の浅井大大大先生も池田と双子の如し。もう一人いたよ、オウム真理教の麻原大大大も一つ大尊師・グルだとさ、脳みそ痛し、一日も早く十三階段に登りなさい。もう一人此の人は皆さんには口が裂けても、教えてあげません。ニ十の塀、其れは、人間です、頭に毛が有りません、扇子のでかいのを持ってます
    天上天下唯が一人のふりして、釈迦に死んだら怒られます。さあ答えは、
















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  • from: 21世紀さん

    2011年11月20日 22時01分30秒

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    ポーリー女史の告白

    いまだに宣揚される“池田・トインビー対談”醜悪な権力者・池田大作の名声のために利用----------------------------------

    いまだに宣揚される“池田・トインビー対談”
    醜悪な権力者・池田大作の名声のために利用

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     『21世紀への対話』と題された、上・下2巻からなる本がある。イギリスの歴史学者・故アーノルド・トインビー博士と池田大作とが、昭和47年5月と48年5月の2回にわたって対談した記録――であるという。この本は昭和50年の出版当時から、トインビー博士の名声を利用した、池田のノーベル平和賞へのデモンストレーションではないか、といわれていたもので、さすがにノーベル平和賞は受賞できずじまいであるものの、この本が池田の虚像の宣伝に大きく貢献してきたことは事実である。
     ところが、この本、後に化けの皮が剥(は)がされ、実際は「トインビー・池田対談」などと呼べるものでないことが明らかとなったばかりか、故トインビー博士の孫娘・ポーリー女史からも、池田大作の実像を衝(つ)く手厳しい批判手記が発表された(1984年5月19日付・英紙『ガーディアン』紙に掲載)。
     その辺の経緯をより世の中に知らしめていくべく、当「被害者の会」では、会結成と同時に、イギリスのポーリー・トインビー女史にコンタクトをとったところ、ポーリー女史より “私の手記の全文を貴会で使うことを歓迎し、かつ貴会の活動の成功を祈る” という返事をいただいたのである。
     そこで、ポーリー女史の手記全文(和訳での全文発表は初めて)と若干の解説とを併せて掲示する。

    突然の招待と“対談”の評価 /「とりとめもない、内容薄い本」

    --------------------------------------------------------------------------------

     日本に着くまでの長い時間、私は祖父の死後に出版された本『生命の選択』 (※邦題『21世紀への対話』)を読みました。この本は祖父と、池田大作という日本の仏教指導者との対談を収録したものです。
     この対談がなされた時期は、歴史家だった祖父アーノルド・トインビーが85歳の時で、脳出血で倒れる少し前でした。この本は、祖父の著作の中でも最も忘れ去られたような本で、性教育から始まって、汚染、戦争などに至るまで、とりとめもなく長々とした、二人のおしゃべりを収録したものです。
     数ヶ月前、突然、池田氏のロンドンの代理人から電話があり、“祖父を偲び、また、祖父への感謝の気持ちを現わす意味で、私と夫を日本に招待したい”とのことでした。
     祖父が死んでから8年も後だっただけに、私達はちょっといぶかしく思ったのですが、これが西洋人には理解のできない、日本人特有の“恩”とか“家族意識”とかいったものなのかもしれない、と思いました。
     いろいろ考えても、その理由以外、まったく思いつかなかったのですが、この旅行が終わり近づく頃、その意味は次第に明らかになっていきました。西洋からの訪問者が、どちらかというと、めったに見られない、日本の別の一面を見ることができたのです。

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    from: 21世紀さん

    2011年11月22日 12時20分39秒

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    「Re:ポーリー女史の告白」日本に招待した、貧しい目的------------------------------------------------

    from: 21世紀さん

    2011年11月22日 12時18分38秒

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    「Re:ポーリー女史の告白」肉親として『21世紀への対話』を酷評-------------------------------------------

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