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from: 聖歌隊の助っ人さん

2009年04月21日 00時32分34秒

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イエスの涙(今日この頃)

聖歌隊の(元)助っ人です。「(元)」とつけましたのは、J.S.バッハの楽曲に導かれ、先のイースターに受洗したためです。(サークルプレイヤーのニックネー

 聖歌隊の(元)助っ人です。「(元)」とつけましたのは、J.S.バッハの楽曲に導かれ、先のイースターに受洗したためです。(サークルプレイヤーのニックネームを変更する方法はあるのでしょうか?)

 受難週に入る前日の土曜日に、合同聖歌隊で「『マタイによる福音書』の交読とバッハ作曲『マタイ受難曲』のコラール演奏でたどるイエス・キリストの十字架への歩み」という音楽礼拝を行ないました。
 私はコラールの演奏と共に、交読部分ではピラトの役をすることになったので、映画『最後の誘惑』を約20年ぶりに観直しました。(デビッド・ボウイ扮するピラトのイメージをつかみたかったため)

『最後の誘惑 [DVD]』
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 同映画は福音書に忠実な内容にはなっていないためか、公開当時に欧米では公開していた映画館が放火されるほどにセンセーショナルな受け止められ方をしたようです。私は当時キリストの生涯についての知識がほとんどなかったので、どこまでが福音書に即していてどこからが創作なのかが分かりませんでした。

 今改めて観てみますと、人間としてのイエスにフォーカスが当てられ、また共観福音書とヨハネの福音書をつなぐような内容になっている印象を受けました。
 私は同映画を観て人間としてのイエス(の可能性)に強く同情し、前述の音楽礼拝の冒頭に賛美歌「血しおしたたる」を会衆と共に歌った時に大粒の涙がこぼれてしまいました。

>彼が音楽中で表現しているものは全く違う。彼は真の芸術家だから、芸術の中のバッハは真実を無意識のうちに探し当てるのだ。

 神がモーセに「私はある」と言われたように(出エジプト記 3章14節)、バッハの音楽はあり、ロジックとエモーションを融合させた言葉にならない言葉として、宗派・教派を越えた真実を語っているように私にも感じられます。

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from: 聖歌隊の助っ人さん

2009年04月22日 22時30分50秒

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「Re:Re:イエスの涙(今日この頃) 」
 聖歌隊の元助っ人です。

> 面白かったけどね。あれは嘘だと思うよ。

 はい。同映画は確かに創作ですね(オープニングのテロップによると、原作の小説があるみたいです)。
 私が鑑賞の目的にしていたピラトは、ローマにおける中間管理職としてではなくローマそのものとして描かれ、イエスを政治犯(革命家)としてゴルゴダに送ります。

> イエスを人間的に描いたといっても、
> 人間的の意味が違う。
> イエスは自分のちっぽけな幸せだけを、
> 救済事業を断念してまでも求めるような、
> そんな人間ではなかった。

 もしイエスがそのような一般の人と同じ人物だったら、という仮定に基づいての創作話であるように思います。完全なネタばれですが、同映画ではイエス自身が苦悩の末に悔い改め、父なる主が望まれる通りに自分が救世主となる(べきである)ことを自ら望むシーンがあります。
 私の場合、マタイによる福音書におけるゲッセマネの祈りと十字架上での「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫んだイエスを思う時、このような可能性もなかったとも言えないのではないかなぁ、などと思ったりもします。

 もしかしたら、イエスは一つですが一人ひとりが抱くイエス像は異なり、マルティン・ルターはそのブレを減らすか無くすかするために、会衆賛美(音楽)を礼拝に取り入れたのでしょうか。

 未熟者の浅知恵とご笑読下さい。

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