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from: 22世紀 - 2さん
2011/10/18 13:10:09
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続・転載です
池田大作レイプ事件を追う!!
以下、被害者・信平さんの手記より抜粋
創価学会が、大沼国定公園(北海道)の中に、総面積2万坪という広大な敷地をもつ「大沼研修道場」を作ったのは、昭和46年のこと。
そして、池田大作がここに避暑に来るようになったのは、昭和48年6月からでした。
大沼研修道場の本館での池田の世話は、私が全部やることになっており、それが上からの指示でした。
本館の三階は桧(ひのき)風呂もある池田の専用施設で、関係者以外、たとえ大幹部であっても立ち入ることができません。昭和48年当時は、私以外、誰も三階に昇ることは許されていませんでした。
1回目の暴行
池田が大沼に初めてやってきた日から三日目、6月27日の夜のことでした。
それから起こる恐怖と屈辱の体験など、察知する由もなく、私は、自分の仕事として、それまでどおり午後9時に、池田の布団を 敷くため三階に上がっていきました。
すると、初日も二日目もその時間には部屋にいなかった池田が、寝室隣の執務室にいて、何か、書きものをしていたのです。ステテコとクレープのシャツ、という姿でした。
私は、「失礼します」といって中に入り、邪魔をしてはいけないという思いから、寝室と執務室の間のふすまを閉めようとしました。ところが、池田は、
「そのままでいいよ」
と言うのです。
私が、池田に背を向ける形でシーツを整えていた時です、池田は、前かがみになった私の背後から、いきなりのしかかってきたのです。アッという間のできごとでした。
池田は、私を押さえつけたまま、肩の方から手を伸ばし、私のブラウスのえりとスリップのひもを一緒に引っ張りました。
夏物の薄いブラウスですから、ひとたまりもありません。ボタンがバラバラとちぎれ落ちました。
スカートもビリビリに破られました。
池田は、「ハッ、ハッ」と荒い息を吐き掛けながら、
「下着は一枚だね」
と言って、私の下着の中に手を入れてきました。
ものすごい力で押さえつけられた上に、恐怖で声も出せないでいる私に、池田は後ろからグッと突いてきたのです。あがき、もがいて、抵抗を続けていた私は、目の前が真っ暗になり、うつぶせになったまま、失神してしまいました。
どれほど時間が経ったでしょうか。気を失った時はうつぶせだったはずなのに、寒さを感じて気がついた時、私は、仰向けで布団の中に寝ていたのです。
私が這(は)ってドアまで行こうとすると、池田はしつこく追いかけてきました。ドアに頭をぶつけ、心臓はドキドキして、ここで殺されるのではないかと、本当にそう思え、大変な恐怖でした。
ようやくドアを開けて、二階にかけ降りると、トイレに飛び込みました。激しい吐き気に襲われ、それはしばらく続きました。
そして、気持ちを鎮め、下腹あたりについている体液を何度も何度も拭きました。皮膚が赤くなっても、なお拭き続けました。
「体臭のきつい池田」
昭和49年には、池田に呼ばれて二階に行くと、誰もいない部屋でいきなり抱きつかれ、顔を引き寄せて口を押し付けられました。また、「散策に行こう」と言われ、戸外なら大丈夫だろうと思ってついて行くと、本館の裏につれて行かれ、そこでも同じようなことをされたのです。
抵抗し、幸いにもそれ以上のことはありませんでしたが――。
その後も再三にわたって、同じようなことが繰り返されました。
ちなみに、池田は、体臭がものすごくきついのです。とくに夏場だったせいもあるかもしれませんが、ニンニクが腐ったような臭いとでもいうのでしょうか、それが身体中から発散されていて、たまらない感じでした。
「池田の下半身」
二回目に私が池田から犯されたのは、昭和58年8月19日のことでした。
早朝、私はいつもどおりに一人で、大沼研修道場の敷地内にあるプレハブ建ての喫茶「ロアール」の掃除をしていま した。
大沼の夏は、もやが深く立ち込め、数メートル先も見えなくなります。
入口を背にして、テーブルを拭いていた私に、いきなり池田が後ろから抱きついてきました。
池田は、毛むくじゃらの腕で私をはがいじめにし、脚をかけて、私を押し倒しました。
倒れる瞬間、私はテーブルで左脇のあたりを強く打ちました。また、ブラウスはボロボロに破かれ、スカートも靴下 も無理やり外(はず)されてしまいました。
のしかかってきた池田を押し退けようとするのですが、脚も腰もオモリを付けたように重く、はねのけることなど、 とてもできないのです。
池田は、まるで、狙った獲物に向かって一直線に進む、ケダモノそのものでした。
目的を果たし終えた池田は、外に人の気配を感じたらしく(結局、外には誰もいなかったのですが)、力をゆるめ、 私はようやく解放されました。
このとき、一瞬ではありましたが、私は初めて池田の裸の下半身を見ました。池田の下半身は異常に毛深く、まるで 黒いパンツでもはいているかのようでした。
トレーナーのズボンをずり上げながら逃げる体制の池田は、私の方を振り向き、
「二号さんの顔を見にきたんだよ」
と、下品に顔を崩して笑いました。その笑いは、本当にこの世のものとも思えない不気味さでした。
最後は平成3年
大沼研修道場で三回目に私が池田から暴行を受けたのは、平成3年8月17日の早朝でした。
朝7時半頃、食料の補充をするために、私は、研修道場の敷地の中を歩いていました。
その朝も、大沼研修道場は深い霧に包まれていました。
敷地の路上を歩いていた私に、突然、池田が左後方から飛びついてきたのです。私は引き倒され、後ろからすごい力で抑え込まれてしまいました。
逃げよう、逃げようとするのですが、全体重でのしかかられた上に、押さえ込まれ、地面には掴まるところもなくて、どうすることもできません。声を出そうにも、「アー」とか「ウー」としか出ないのです。
池田は荒々しく私の衣服をはぎ取り、前の時と同じように「ハッ、ハッ」と息を荒げて、私を犯したのです。衣服はボロボロになりました。
とにかく、その間も逃げることしか考えなかった私は、無我夢中で池田の手を引っかいたり、かみつき、池田の力が一瞬、ゆるんだすきに、私はようやく身体を引き離すことができました。
池田は、また、あの不気味な笑いを見せ、霧の中を逃げていきました。
以来、このできごとを誰れに話すこともできず、どれだけ思い悩み続けてきたことか――。
ようやく私は、意を決して、池田の責任を問うために、池田が私にした行為を提訴いたしました。
(→裁判経過報告のページへ)
池田を法廷に引っ張り出すことが、池田大作という人間の真の姿を、だまされている学会員の皆さん、国民 の皆さんに知っていただくことにもつながる、と思っています。
最後に、池田の習性・性癖を垣い間見た私としては、全国に、私のような被害者が、まだいるはずだ、と 思います。その方達が、真の勇気を持ってくださるよう、期待しております。 -
from: 22世紀 - 2さん
2011/10/18 11:11:12
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池田大作「権力者」の構造
海外進出の実態
創価学会は、約25万人の海外会員を擁し、各海外支部では、アメリカの『ワールド・トリビューン』、フランスの
『トロワジェム・シビリザシオン』、ブラジルの『ブラジル・セイキョウ』、香港の『黎明聖報』、ペルーの『ペルー・セイキョウ』、
フィリピンの『パガサ』、パナマの『プエンテ・デ・パス』等、現地語による機関紙を刊行しているという。
これら海外布教の内容や規模はどうとでも評価できる性質のものだろうが、ただ創価学会は41年以来、海外では
日蓮正宗を名のり、布教法も折伏ではなく摂受を用い、国内におけるような熱狂的な拡張策はとらなかった。また
海外支部の多くは当初、戦後国際結婚して海外に渡った日本女性の安息の場、妻に同行して座談会へ行き、
夫婦の危機を乗り切ろうとする夫たちのサロンとして機能していた。
これらの点から海外布教は、世界広布への一過程というより、むしろ海外移住者へのアフターケア、国内向けの宣伝
という色彩が強いと見られる。少し古い資料だが、『週刊新潮』(昭和41年8月27日号)によれば、創価学会ニューヨーク
会館は個人アパート二室にすぎず、また第三回全米総会を見たかぎり、会員の半数以上は米人、という幹部の前口上
とは様子が違って、日本人以外の顔をしたものは一割程度に過ぎなかったという。
さらに会員の多くは恵まれた環境になく、「長年外国で苦労し続け、そうかといって堕落することもできないという、
海外マジメ日本人集団とでもいうべき人々」であり、米人の信者にしろ、「日本人妻を持つ男とか、なんらかの形で
アメリカ社会から疎外された余計者の意識を持つ人が多いようだ」と報告していた。
外国人、ことに欧米人の会員の存在は、近代化=西洋化という把握が日本では一般的だから、創価学会の会内外
へのイメージ・アップ戦術としてはなによりであった。『聖教新聞』には過渡に海外支部活動が報道され、同社発行の
『創価学会』のカラー頁の多くは、外国人の写真で占められている。また彼らの映像と報道は、現実的な基盤を欠く
コスモポリタ二ズム、世界平和の視覚化とイメージつ゛くりにもっとも有効であった。
池田は会長就任後、毎年一、二度外国へ出かけたが、それは宣伝素材となり得るほどの海外支部へのテコ入れの
必要と、彼自身の教養主義や好みに由来しよう。海外布教の基本は自然発生的なものだったとはいえ、一面では
池田の体質の反映といって過言ではあるまい。 -
from: アナンさん
2011/10/14 22:03:34
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from: 22世紀 - 2さん
2011/10/13 20:14:41
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続・転載です
創価大学 投稿者:元金融の取立て人 投稿日:2011年10月13日(木)19時52分33秒 通報
なお、創価大学の当初の構想では、文学部のなかに仏教学科が設けられるといわれていたが、昭和56年現在、文学部には社会学科と英文学科しかなく、一般教養課目のなかにも宗教学の講座はない。佐伯真光はその理由を、高給をもってしても有能な仏教学者を集められなかったこと、創価学会の信者で、しかも一流の仏教学者は現存しないこと、仏教学の基礎である批判的文献学を遂行すると早晩、信仰と学問の相克をもたらすことに気つ゛いたこと、の三つに求めている(『諸君』昭和46年10月号)。
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現在も、創価大学には、仏教学部はありませんね。 -
from: 22世紀 - 2さん
2011/10/13 18:20:41
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池田大作「権力者」の構造
池田大作「権力者」の構造From: 22世紀
理念なき教育と創価大学
池田は自らの学歴を高卒から脱却させたと同じ発想をもって、創価学会に知的外見を付与した。その具体化は前述の文化活動であり、より直接的には学校の設置だった。池田の知的渇望は粉飾にとどまって迷路に踏み迷わなかったため、高踏化をまぬがれ、多数の庶民に支えられる同会の現実を否定せず、その夢の幻想的な実現という一面を持った。
昭和43(1968)年4月、創価学会は東京・小平市に創価学園(当初は中学、高校、男子のみ)を開校した。
同学園が「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」の二方針を掲げることからもうかがえるように、そこには受験地獄等、現代教育のはらむ問題性への批判はなく、逆に現状を無批判に肯定して、その中で勝ち抜こうとし、結果的には現状を加重する教育しかなかった。
「44年の受験生は中学1年に合格が決まったとたん、間もなく入学式にもっていく宿題がどっさり届く。内容は、夏目漱石の『坊ちゃん』ほか二編、芥川竜之介の『トロッコ』ほか二編を読み、それぞれ400字三枚の感想文、小説の創作同じく三枚、わが郷土の作文同じく三枚、ほかに算数のプリント、絵を一枚書くこと、入学式で新入生に渡された国語、数学、社会などの教科書は一年と二年のもの。これを一年間にやろうというわけだ。入学式の翌日は早速試験。一年間に五回の中間テストを行なう」(小林正巳『池田大作』)
池田の理想の人間は、ほかならぬ池田自身だったから、少年時を懐旧して作文の呆けた重視と、あとはガリ勉への追い込みとなった。同学園生(高校)の二分の一は理科系志望とのことであるから、大いに作文に迷惑した者もいるにちがいない。
池田は「私の終生の仕事は教育です。牧口初代会長も戸田前会長も教育者だった。私の仕事の総仕上げもやはりそこへきた。
教育こそ一国、ひいては人類の命運を決する大事業です」と語り(同前)、たいそう教育に意欲的だが、彼には教育界につけ加えるべき、小理屈でない理念は皆無だった。
「高等部員はできるだけ大学へ進学すべきです。・・・・・男子高等部員はいまからこの決意でいきなさい。・・・・・なお、女子の高等部員の方は必ずしも全員大学にいく必要はありません」(『池田会長全集』三)
池田の女性感は徹頭徹尾「女大学」で、彼が女性に要求する知性の程度は、まず家計簿をつけられれば可とするもの(「計画性のある主婦は、まず、家計簿をつける主婦からはじまる」=池田『家庭革命』)であった。これは、そこへいくと男はやはり大学を出ていないと、なにかと損で、といった按配の、世にありふれた世智による教育論にほかならない。
池田は教育の本質を問おうとする理想を持たずに、徒に損得を思量した。だからこそ彼自身、恥をしのんで短大を出た道理である。個々の資質と志望を度外視して、やみくもに大学に行けという殺伐とした利己主義の勧めは、池田と創価学会の体質の反映であろう。
創価学園は昭和47年12月、大阪・交野市に創価女子高校、女子中学校を、昭和50年12月には札幌・豊平に札幌創価幼稚園、昭和52年12月に東京創価小学校をそれぞれ開校している。同学園の理事長は副会長の青木亨である。
昭和46年4月に開校した創価大学(理事長・唐沢照明、学長・高松和男)にも池田の体質は反映している。
同校は東京・八王子市郊外の37万平方メートルという広大な敷地に、資金60億円(内訳は池田の印税寄付7億円、創価学会本部41億円、15万5,000人から寄せられた12億円といったところらしい)をかけて、まず法学部、経済学部、文学部で発足した。ゆくゆくは200億円ほどをかけ、文科系4学部、理科系6学部、学生数6,000人の総合大学にする予定とのことだったが、昭和56年現在までのところ、51年2月に経営学部、教育学部、また50年大学院が設置されたに過ぎない。ふえたのは学生数だけで5,200余名である。
また創価大学の受験料は56年度18,000円、入学時納付金は303,150円(入学金83,000円、授業料142,000円、施設費71,000円など)、入寮者の入寮費は25,000円、寮費は年額50,000円である。
これは他の私大に比べてやや安い程度で、いずれは事業として成り立っていく金額ではないのか。池田が仰々しく、「教育こそ、人類の命運を決する大事業である」といったところで、決して彼がすべてをまかなえるわけではなかった。ただ教育が、偉大な池田の晩年を飾るにふさわしい事業に思えただけである。
池田は開学にあたって、「人間教育の最高学府たれ、新しい大文化建設の揺籃たれ、人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」の三つのモットーを示した。
人間教育、文化建設、平和というわけだが、ここに人間教育とは、「時代の要請に応えられる人材を輩出するために、人間主義人間性尊重に基本理念をおく」(聖教新聞社『創価学会』とあるように、せいぜい「期待される人間像」つ゛くりといったところだった。
創価学会の人間教育とは、朦朧語を取り払えば人間革命に先刻見られるように、現状べったりのモーレツ人間つ゛くりの謂いである。
文化建設とは、「従来の学問体系の行き詰まりを打開して、新しい学問体系を確立することを長期目標としてめざす」(同前)ものだという。結構だが、池田自身は同校で「純粋の文学論、たとえば万葉集」(『朝日新聞』昭和46年3月16日)を講義したいと語っている。池田は学的批判にたえるほどに万葉集を研究し、かつそれは新しい学問体系の樹立と関連するのだろうか。なにしろ池田は、「一日に二十分の読書が、一年つつ゛けばどれほどの学者となり、教養となることであろう」(池田『私はこうして若い
日を過ごした』)という意見の持ち主だから、素人考えでも大いに心配であり、まず彼の影響下にあるかぎり、創価大学による新
学問体系の樹立とやらは「画にかいた、パンに等しい」(餅ではない、池田『人間革命』一での表現)であろう。
またモットーの一つである平和については『創価学会』に説明がないように、多分に池田の知的アクセサリー言語である。池田はよく平和を口にするが、それは前述したように伝統にも基つ゛かず、教義としても内在化されていず、その具体的行動といっては、大学の定礎式で世界135ヵ国の石を投げ込むといった呪術的なものにすぎず、抵抗度の軟弱なものである。創価学会は青年部を中心に48年以降、反戦出版や反戦集会を行っているが、反面、相も変わらず、自衛隊認知に傾く公明党を支持している。二つの行動に矛盾は存在しないかの如くであり、彼らの「反戦平和」は実効性を問わない存在証明にすぎない。
なお、創価大学の当初の構想では、文学部のなかに仏教学科が設けられるといわれていたが、昭和56年現在、文学部には社会学科と英文学科しかなく、一般教養課目のなかにも宗教学の講座はない。佐伯真光はその理由を、高給をもってしても有能な仏教学者を集められなかったこと、創価学会の信者で、しかも一流の仏教学者は現存しないこと、仏教学の基礎である批判的文献学を遂行すると早晩、信仰と学問の相克をもたらすことに気つ゛いたこと、の三つに求めている(『諸君』昭和46年10月号)。
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from: 21世紀さん
2011/10/09 20:57:07
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「Re:第68世御法主日如上人猊下御指南」
御法主日如上人猊下御言葉
立正山大廣寺寺号公称板御本尊入仏法要の砌
平成23年9月4日 於 パナマ共和国パナマ市
本日は、パナマ立正山大廣寺公称ならびに板御本尊入仏法要、まことにおめでとうございます。
この立正山大廣寺は、1996(平成8)年11月、非営利法人「日蓮正宗テンプル・パナマ」が認可されたのち、2001(平成13)年、僧侶常駐がかない、翌2002(平成14)年9月、様々な難関を乗り越え、パナマ初の布教所として、市内ロサンヘルス地区に開設されました。
その後、ベジャビスタ地区へ移転いたしましたが、より交通至便で御信徒が集まりやすいカルメン地区に移転が決定して当地を購入し、昨年3月、建物が完成して布教所移転新築法要を行い、今回、晴れて板御本尊をお迎えするとともに、布教所から寺院へ昇格して寺号を公称し、本日めでたく、関係各位多数の御出席を得て、立正山大廣寺公称ならびに板御本尊入仏法要が、盛大かつ厳粛裡に執り行われるに至りましたことは、宗門といたしましても、また皆様方現地の御信徒にとりましても、この上ない喜びであろうと、心からお喜び申し上げるものであります。まことにおめでとうございます。
また、本日の盛儀を迎えるに当たり、住職・船橋信清師には、日ごろからの御奉公に加え、寺院建立へ向けて誠心誠意、尽力されましたことを心から謝するとともに、多大なる御協力をいただいた関係各位ならびに地元御信徒各位に厚く御礼申し上げます。まことに有り難うございました。どうぞ、これからも僧俗一致、異体同心して、寺檀和合・寺運興隆を図り、いよいよ御精進くださるよう心から願うものであります。
さて、本宗における寺院とは、それぞれの地域における大法弘通の法域として、その意義と目的のために建立されるものであります。したがって、今後はこの意義と目的を体して、この寺院をパナマ広布の拠点して自行化他の信心に励み、中米各地はおろか、世界流布を目指していよいよ御精進くださるよう心から願うものであります。
特に今、宗門は来たる2015(平成33)年・第二祖日興上人御生誕770年を期して、 法華講員50%増と2021(平成33)年 ・宗祖日蓮大聖人御聖誕800年までに、法華講員80万人の体勢を構築することを目指して、大前進をしております。このことは、全世界の本宗僧俗が果たすべき大事な使命であると同時に、一人ひとりがこの使命を果たしていくなかに真の団結が生まれ、かつ自他共の幸せも、また全世界の平和も実現可能となるのであります。
幸いパナマにおいては、僧俗一致して折伏を実践し、既に本年度の折伏誓願も達成され、力強く広布への道のりを歩まれていることに、心からの敬意を表するものであります。これも住職・船橋信清師をはじめ、パナマの御信徒が心を一つにして精進してきた結果であり、このことは必ずや大御本尊様の御照覧あそばされるところと、心から喜びに堪えません。
大聖人は『持妙法華問答抄』に、「願はくば『現世安穏・後生善処』の妙法を持つのみこそ、只、今生の名聞後世の弄引(ろういん)なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出(おもいで)なるべき」(御書300ページ)と仰せであります。
今、末法の本未有善の衆生は、末法御出現の久遠元初の御本仏日蓮大聖人がお唱えあそばされた妙法蓮華経によって、初めて成仏得道がかなえられるのであります。されば、このたびの立正山大廣寺公称ならびに板御本尊入仏法要を機になお一層の信心に励まれ、僧俗一致の磐石なる体勢を構築して、一天広布を目指して師子奮迅の働きをなされますよう、心からお祈り申し上げます。
最後に、立正山大廣寺の寺檀和合・寺運興隆、ならびに住職・船橋信清師をはじめ御信徒各位のいよいよの信心倍増と御繁栄を心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。本日は、まことにおめでとうございました。icon
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from: 22世紀 - 2さん
2011/10/06 18:55:00
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続・転載です
「愚者の船」を作り続けた50年 投稿者:金満小太郎 投稿日:2011年10月 6日(木)10時34分50秒 通報 返信・引用
溝口敦
ジャーナリスト
不毛の教団・創価学会
安保阻止のデモ隊が国会を取り巻いていた60年5月、池田大作は創価学会の第三代会長に就いた。以来50年間、職名は名誉会長に切り替わったものの、池田は終始、学会員信者の上に君臨し、創価学会=公明党を実質支配し、その私物化を続けてきた。
かつて右翼の児玉誉士夫は、創価学会が存在していたために、日本での社会主義革命は阻止できたと評価したとされる。創価学会があろうがなかろうが、戦後日本に革命が起きる条件があったとは思えないが、池田創価学会というダムにより日本国民の声なき声が堰き止められ、ダム内に沈殿、滞留したことは事実だろう。当時から学会員信者の多くは経済・社会的な弱者と見られていたが、そうであってみればなおさら社会福祉など、現実政治に公正平等を、たとえば所得の再配分システムなどを求めて当然だった。
だが、池田は学会員信者の必要性と期待を裏切り、単に彼らの票を公明党に一元化し、それを組織防衛と自己の顕彰のためだけに使った。彼らの大多数は生活の向上を願わざるを得ない境遇にあったが、それらは「福祉の党」に瞞着されて一把ひとからげにされ、与党病(自公連立)や池田の国会喚問阻止、あるいは外務省などを通じての便宣供与などに使われたのだ。
「公明党への一票は一人を折伏するに等しい」という幹部指導は学会員信者を「朝三暮四」のサルに変えたともいえる。サルにトチの実を朝3つやる、そのかわり晩には4つだといったところ、サルたちは怒った。そこでそれでは朝4つ、晩には3つだといったところ、サルたちは皆喜んだという。
そういう故事だが、サルヘの餌はどう変化をつけても1日計7個は変わらなかった。朝三暮四はまだしも一貫性を持っているが、ひきくらべ学会員信者に対する池田の約束履行は、朝三暮四のサル以下だった。池田が与えたのは「民衆の勝利」という幻想とスローガンだけ、民衆を養うトチの実はゼロに等しかったといえよう。
こうした流れからいえば、池田は創価学会を「愚者たちの船」に変えた元凶である。学会員信者は「福祉の党」が福祉を切り捨て、「清潔な党」の議員がカネを貪り、「中道」が自民党路線を補完し、よりアメリカべったり、大資本・大企業優遇政策を推し進めようと、公明党政治の実際をチェックせず、単に「先生のつくった党だから」とバカのように支持し続けた。池田にとって学会員ほどチョロく、おいしい存在はなかったといっていい。 しかも池田という船長自身が理想を持たず、世俗的な自己顕示や名誉欲の満足だけに熱心な俗物だった。彼が頭を悩ませていた課題は自己の「偉大さ」の顕彰をどう確保するかだけだった。池田にあっては、創価学会・公明党は池田の名誉欲を満たす限りにおいて存在意義を持つのであり、それ以上の存在ではなかった。
池田には優秀な後進を育て、創価学会の将来を託す気持ちなどさらさらなかった。それこそ「わが亡き後に洪水よ来たれ」であり、自分より優秀な後進はわが地位を脅かすとして、船から荒波逆巻く海に放り出し、じっと溺れ死ぬ様子を眺めることを好んだ。
よって「愚者の船」という船内に残ったのは文字通り愚者か腰抜けであり、あるいは殴打を快感とするマゾヒストか、考える習慣を持たない能なしだけになった。自分の頭で判断できるような学会員はとつくの昔に船を下りているか、船から放り出されているか、どちらかであり、今後、池田亡き後、誰がどのように「愚者の船」を運航するのか、けだし見物である。
おそらく創価学会は日本最大の新宗教団体のはずだが、これほど多数の学会員信者を抱えながら、文化的に何ものをも産み出さなかった教団は他になかろう。それもこれも全て池田により「愚者の船」とされたからだ。
なるほど学会にも芸能人やスポーツ選手は少なからずいるだろうが、客観的に見て、彼らは自力で芸能人や選手になったのであり、(彼ら自身の自己評価とは関係なく)創価学会のおかげでなったのではない。創価学会は人を養い育てず、逆にスポイルするだけの教団である。
さらにいえば創価学会に所属するスターたちはたいていが反射神経や瞬発力に物をいわせる肉体型のスターであり、思索型のスターは皆無である。創価学会に所属することと、客観的に思索を深めることとは両立しないからだ。よって創価大学は社会に通用する思想家はもちろん、単なる学識者さえ産出できない。
また創価学会や聖教新聞、潮出版社、民音などは何か誇るべき、画期となるような作品を世に送り出したのか。たぶん皆無だろう。たしかに池田の『人間革命』はベストセラーにちがいないものの、読者は学会員信者ばかり。非学会員に対する影響力は皆無であり、会外で高く評価する者はいない。しかもゴーストライターを立てての作品だから、天下に胸を張って評価を求めるような小説ではない。一種の宣伝文書なのだ。
こうして創価学会は徹頭徹尾、不毛の教団であり、きわめて民度が低い。なぜこうなったかといえば、池田が創価学会というダムが抱える人材をスポイル・追放し、その物財を自分のためだけに費消したからである。まるでアフリカでも小国の、どうしょうもない大統領である。国家の予算を自家の金庫に流し込み、自分と家族の栄耀栄華のためだけに費消して、やがては海外に逃亡するような汚名の男――。
池田は燃費効率の悪いアメ車どころでなく、犯罪的なまでに創価学会の人員や物財を費消して、初めて指導者の顔ができるようなにせ物だった。同じにせ物でもきわめて程度が低いから、その分糊塗し、本ものの振りをするにはカネがかかった。最近の「創価新報」が誇らしげに伝えている。「国家勲章28」「識者との対話7000人」「世界からの顕彰4000」「名誉市民660」「海外講演32」「名誉学術称号285」と。世人は池田のカネに糸目をつけない「名誉」コレクターぶりに驚倒するばかりだろう。これらのタイトルは「全人類が賞賛する人間主義の哲学」の結果ではなく、タイトルに対する貪欲な物欲主義の結果であり、その意味では恥の石碑なのだが、池田だけはこのことをまるで分かっていない。
時代の推移を堰き止めた罪
池田は宗教者であるにもかかわらず、他者の支えなしには自己のアイデンティティを確立できない。そのため他者が支給する勲章を胸に飾ることで、ようやくアイデンティティ・クライシスを克服できる。宗教者はよくも悪くも自分に確信を抱く者である。確信がなければ信者大衆を指導できないからだが、池田には確信がなく、外部の権威を移入することで辛うじて権威者になろうとする。情けなく、みっともないことである。
だが、そういう池田もどうやら創価学会という畳の上で往生できそうである。最後まで池田を追放できず、国外逃亡に追いやれなかった歴史は学会員信者の恥辱だが、何せ「愚者の船」に乗る人たちだから、彼らにはアフリカの小国人民ほどの期待もできない。逆に池田を追放するまでもなく、池田が死ねば、創価学会・公明党の命運も傾く仕掛けらしい。非学会員にとっては「あんなものは放っておいても消滅する」存在に成り下がったのであり、現状はまことに喜ばしい。公明党が恥も外聞もなく民主党に擦りよるも結構、どう転ぼうと先は短いんだから、やりたいことをやりなさいと言いたくなる。
ところで創価学会の投資先は池田以外になかったから、池田が死ねば、その遺産は池田家以外には渡らず、学会組織を益することはない。池田の投資先はもっとも脆弱で儚い池田本人だったという点で、池田は根本的な誤りをおかした。
わずかに全国各地に「池田会館」の類が残るだろうが、これとても信者が集まっての会館である。池田死後、学会員信者が四散すれば、会館は宝の持ち腐れとなり、創価学会は切り売り財政に入って延命を図るしかない。池田会館が近い将来「老人憩いの家」になる公算は高い。
こうして池田による創価学会50年の施政は空無となる。池田の最大の罪は信者大衆をダムに堰き止め、時代の推移を遅らせたことにあろう。彼は昭和時代を平成に持ち込み、戦後自民党政権を限りなく延命させた。獅子身中の虫である官僚をここまでのさばらせ、国民の血税を食い荒らさせた点で、創価学会公明党は多大の貢献をした。信者大衆を組織的に瞞着し、毎年振り込め詐欺もどきの金集めの被害者にした。池田のなした罪は大きく、その罰は無間地獄と決まっている。(文中・敬称略) -
from: 22世紀さん
2011/10/06 09:37:21
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池田大作「権力者」の構造
池田大作と富士短期大学
池田は会長就任以来、無私の態度をもって創価学会=公明党の経営にあたってきた。それらは彼の持ち物であり、彼の
内部でその公務と私欲は分かちがたく結ばれていたから、彼はそこから特別、彼自身の利益を引き出す必要を認めずに、
その経営に精励することができた。また彼は創価学会会長と、公明党の事実上の党首の地位を、苦労の末に手に入れ、苦心
しいしい維持してきたから、それらの役回りを演じて、決して飽きることを知らなかった。
創価学会=公明党は、池田の指令を長年の間、遵守、実効化した結果、池田の人間性を忠実にうつす拡大鏡となった。
昭和42年、池田はさきに中退していた大世学院の後身である富士短期大学を39歳で卒業した。この晩学は、彼の衰える
ことのない勉学心からというより、学歴面での劣等感に深く根ざすものであった。池田は、会幹部間でも彼の東洋商業卒は目立って
見劣りがすると考え、多くが大学卒の新人の登場とともに、ますますその思いを深くしていたのだろう。
彼には創価学会会長だから学歴は何でもよいという自立的な自信はなく、ひたすら外部に、ある種の権威を求め、自分の履歴を
ふくらませる姿勢だけがあった。その意味では池田も、たしかに外部志向の「庶民的」人間にちがいなかった。
卒業二年前の40年、池田は富士短大に復学を申し込み、同校二年に編入を希望した。が、池田の在籍した大世学院は各種
学校であったため、池田の希望は容れられず、40〜42年在学の形となった。ただ、大世学院時代の出席日数(全講義日数の
三分の二以上)が考慮され、入学はしても受講は免除された。また卒業試験も、卒業に必要な課目のレポート提出でかえられた。
すなわち、各教官が独自に課題を出し、数ヵ月の期間をおいてレポートをまとめさせ、彼に卒業の資格を与えた。
この池田の卒業は、『日本の潮流』(央忠邦)では、次のように伝えられている。
「『ついせんだって、卒業論文を書かされたんですよ』と、最近ある時、池田氏はテレながら私に話した〝秘密〟がある。
富士短大の先生から請われて書いたのだそうだが、その論文は三月末、教授会をパスしている。どんなテーマだか、興味
深いので、私は無理に問題を見せて欲しいと頼んだ。・・・・・
日本における産業資本の確立と、その特質について論ぜよ
第二次世界大戦の終了後から、朝鮮動乱の終了の間におけるわが国の産業動向について述べよ
自由民権思想の諸内容
あすの産業経営について(以下略)
『この年をして110枚も書いたんです』」
卒業論文に何本も、また命令文の標題もあり得ようはずがないが、それでも卒業に必要な短いロンブンにかわりなく、また提出を
命ぜられたことも、池田の身分にふさわしくいえば「請われて」になるわけである(断っておくが、ここでは央の書きようをとやかく
いっているのではない。彼の著書は数ある池田=創価学会礼讃書の中ではもっとも良質であり、央は池田の言葉をそのまま記した
にすぎまい。池田は非常に奇態な語法の愛好者で、たとえば『若き日の日記から』〔昭和29年4月14日の条〕では、「朝、客と闘う。
小生悪し。小さな事で、いい気になる自分を反省する」と記している。「闘う」というのは何のことはない、ケンカ、それもおそらくは
口ゲンカであり、ケンカという語の使用はのちの会長としての池田の沽券にかかわるが如くである)。
池田は早速、さして変わりばえのしそうもない富士短大卒を彼の著書の奥付に書き入れたが、『政治と宗教』(潮新書版)のそれ
には、「1928年(昭和3年)東京に生まれる。富士短期大学卒業。創価学会第三代会長。聖教新聞社社主。公明党創設者」と
あるように、卒業年次を書き入れず、また第三代会長の前に記して、会長就任前に卒業していたかのような印象を与えた。
彼の短大卒はいじらしく、大いに同情の余地はあるが、それでも肩書だけをほしがるところは成り上がりの系図買いの卑しさと
酷似することも事実である。
池田の勤勉や向上心は、つねに彼自身と創価学会=公明党のミテクレへの留意、知的デコレーションに情熱と目標を持った。
それは明治新政府の欧化熱、近代化政策、富国強兵策等の矮小化されたカリカチュアだった。彼らの百年遅れの言動は、「昭和
元禄」といわれる一部文化の爛熟と頽廃のまっただ中で行われたから、局外者に怖れの混入した違和感と滑稽感を与えたのも
やむないことであった。
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from: 21世紀さん
2011/10/01 12:55:46
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新刊本紹介 池田大作が死去した後の創価学会
From: れいな
著名ジャーナリスト4人の座談会
●池田死去後に学会を待ち受ける運命
●世襲に失敗!分裂しつつ衰退へ
●池田Xデーで浮上する相続と税金問題
暁鐘編集室刊
電話03-5382-7677
FAX03-5382-7678
頒価二〇〇円(送料別)
出席者 (敬称略)
溝口 敦(みぞぐち・あつし)
ノンフィクション作家、フリージャーナリスト。『食肉の帝王』(講談社プラスα文庫)で第25回講談社ノンフィクション賞、日本ジャーナリスト会議賞、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム大賞の3賞同時受賞。著書に『堕ちた庶民の神』『池田大作「権力者」の構造』『細木数子 魔女の履歴書』など多数。
野田峯雄(のだ・みねお)
フリージャーナリスト。著書に『闇にうごめく日本大使館』『池田大作金脈の研究』『破壊工作―大韓機〝爆破〟の真相―』など多数。
段 勲(だん・いさお)
フリージャーナリスト。著書に『私はこうしてがんを克服した』『創価学会インタナショナルの実像』『高額懸賞金付き!未解決凶悪事件ファイル』など多数。
乙骨正生(おっこつ・まさお)
フリージャーナリスト。フォーラム21を主宰。著書に『怪死』『公明党=創価学会の野望』『司法に断罪された創価学会』など多数。 -
from: 22世紀さん
2011/10/01 07:16:28
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池田大作「権力者」の構造
創価学会コンツェルンの完成
43年6月、7月の幹部会で池田は公明党の外郭団体としての青年政治連盟、働く婦人の会、主婦同盟、民主アーチスト
・クラブの結成を提唱した。
これを受けて、早速10月、東京をはじめとする全国各地の主婦同盟、働く婦人の会、青年政治連盟が相ついで結成
された。
主婦同盟は、主婦の地位の向上や消費者調査、児童教育等に関する諸活動を目的とし、昭和56年現在、日本主婦
同盟と総称、東京・赤坂に事務局を持ち、議長は牧野可祝、事務局長は安達三重子、傘下に北海道、宮城、千葉、東京、
神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、岡山、香川、福岡の各主婦同盟を置き、個人会員55,000名を擁するという。
『主婦同盟ニュース』を刊行している。
働く婦人の会も同様主旨のもので、綱領の二には、「本会は、広範な文化活動を行なうことによって、働く婦人の教養
と資質の向上をはかり、健全な心身の養成につとめる」とうたっている。同会は職業別に八グループに分かたれ、たと
えば、美容師グループは「さくら」、ホステス・飲食店員のそれは「なつ゛な」と名付けられているという。
青年政治連盟(青政連)の綱領は、中道主義、絶対平和主義、政界の不正腐敗の追求等を掲げ、その四は、「本連盟
は、勤労青年の生活向上のため団結をはかり、その社会的地位向上と、健全なる育成のため広範な文化活動を行なう」
となっている(清水、前掲論文)
これらの綱領中の「文化活動」はもはや創価学会の特殊用法である含みを薄め、ほとんど一般的な使用法と同じである。
すでに41年2月、創価学会は既成、新興教団の連合体である宗教センター加盟の勧誘を受け入れるまでに(宗教センター
内部の反対で結局、加盟は実現しなかったが)、「邪教」排撃の基本姿勢を弛緩、後退させていた。それにともない、広宣
流布を目指す折伏と同義の「文化活動」も、活動家池田により、その目的の比重を革新から占有に微妙に移されていた。
「活動家は自滅的な紛争と、無謀な狂信者から運動を救う。しかし彼の出現は、運動の動的段階の終了を示すのがふつう
である。現在との戦闘は終わりを告げる。真の活動家は、世界を革新することにではなく占有することに没頭する。動的
段階の生命を与えていたのが抗議であり徹底的な変化への要求であったのにたいして、最終的段階は、獲得した権力を
管理し永続させることにほとんど専心する」(ホッファー)
池田は一身に、ここにいう狂信者と活動家をかねていたが、このころからの彼の主要な役割は活動家にある。池田により
創価学会は、個人的存在の苦悶や負担からの逃避の場所であることをやめ、公明党を頂点とする文化的な諸活動を通
して、野心家が自己の能力を実現するための手段になり、創価学会=公明党はますます一つの企業に変質した。
この年43年2月には、「日蓮正宗創価学会の時間」、3月からは「公明党アワー」の放送が開始されている。また8月には
高等部の『鳳雛ジャーナル』、9月に婦人部の『芙蓉ジャーナル』、10月に壮年部の『新社会』といった創価学会各部の機関
紙誌が、それぞれ創刊された。
さらにこの年、公明党の政策ブレーン的機関として、安全保障研究会と福祉経済懇話会が設置されている。
安全保障研究会には矢野絢也、黒柳明、多田省吾、正木良明、渡部一郎、大久保直彦らの公明党国会議員のほか、
上智大教授・蝋山道雄、同・武者小路君秀、都立大教授・岡部達味らの学者が参加している。
福祉経済懇話会には、正木良明、小平芳平らの公明党国会議員、東京女子大教授・伊藤善市、同助教授・島野卓弥、
清水幾太郎らが参加し、公明党の一枚看板というべき福祉経済を学習している。
44年1月、民主アーチスト協会が芸術家と芸能人によって結成され、代表理事に阿部憲一、理事に秋谷栄之助らの
創価学会=公明党幹部のほか、伊藤雄之助、二本柳寛、川村深雪、和井内恭子といった芸能人が就いて発足した。
協会員には原田信夫、守屋浩、本間千代子らがいる。なお昭和56年現在、創価学会が好んで表面に立てる会員芸能人
には、山本リンダ、朝比奈マリア、研ナオコ、朱里エイコ、泉ピン子、岸本加世子、大野えり、桂木文らがいる。
民主アーチスト協会のほか、44年に結成された創価学会=公明党の外郭団体は、第三文明協会、大学立法反対全国
連絡協議会(全協)、日中国交回復推進会議準備会、近代学生文芸協会、原水爆反対全国高校連盟、日本科学アカデミー
、新学生同盟(新学同)、日本青年文化会議(同名の団体が他にあったため、45年2月、世界青年文化同盟と改称)、
日本青年平和連盟、日本女子平和連盟、公明党支援協議会、新学生フォーク連盟、日本民謡文化連盟、東洋思想研究所、
新社会研究所など17団体にのぼった(清水、前掲論文)。
これらの団体の過半はさしたる活動をせず、ただ選挙時に公明党候補を推薦し、その候補が創価学会=公明党以外の
諸団体からも支持、期待されているかのような外見を整えることに用いられ、また他党を誹謗、中傷するビラやパンフレット
の発行元として名を貸した。
不活発という点では、世の注目を集めた新学同も同様である。
新学同は、昭和44年5月、池田が学生運動に第三の道を、と提唱した5ヵ月後の10月、東京代々木公園に、創価学会
学生部の公称28万人を母体に全国338大学からゲバ棒とヘルメット姿の75,000人(青年部の動員で多数の非学生も
含まれていた)を集め、結成大会を開いた。反戦、平和、公害闘争をスローガンに、11月、10,000人の都心デモをした
(浅野、前掲書)が、その後は、同盟員公称12万人を組織し、51年まで機関紙『新学同』を刊行するのみで、目立った具
体的な行動をしなかった。
また新社会研究所は、創価学会の総務や理事である後藤隆一、山本雅治、土屋実らを役員に、資本金100万円の株式
会社組織で、この年4月に設立されている。研究所の目的は情報収集と興信業務だが、46年5月に『新社会情報パック』
を創刊し、それには、「<あなたの情報買います>どんな情報でも結構です」と記されていたという(清水、前掲論文)。同誌
は47年10月、17号で休刊し、新社会研究所自体も同年12月、解散して第三文明社に吸収されている。
45年7月には、公明党を組織と資金の両面から支援する目的の財団法人日本政治経済連盟が設立された。45年下
半期の同連盟の収入は968万円、支出は3,143万円である。「この組織は蛭田正ひとりで切り回しているような団体で
ある。ちなみに、蛭田なる人物の給料は月額50万円、他の職員は3〜5万円である。なお、この蛭田なる人物は職員録、
紳士録・・・・・には記載されて」いず、同連盟の実態も不明確だという(藤原、前掲書)。
また創価学会=公明党の文化活動の別のあり方として、お買い上げ出版と、出版妨害をあげねばならないだろう。
創価学会=公明党は、それ自体が巨大なマスコミ産業の一面を持っていたばかりか、その周囲には大小の出版社、多数
の発行主体を擁し、その出版点数、部数ともに莫大であり、またそれに見合うだけのきわめて多数で安定した購読者層を持ち、
日本の活字ジャーナリズム界に隠然たる大勢力を有していた。またその財閥級以上に膨大な遊休の資金によって銀行資本と
密着し、思うがままに影響力を行使できたから、ほとんどすべてが小資本で、経営不安定の出版社や、金銭に乏しく、つねに
注文減や職場の圧力を恐れ、闘う資力のない記者や文筆業者を脅し、出版を取り止めさせることはまったく造作のないことで
あった。
またそれとは逆に、反骨より迎合に走りやすく、真実より実利に傾きがちの新聞社、出版社、雑誌社、編集者をして、池田、
創価学会、公明党に関する書籍や企画記事を出させ、時に自ら買い上げてやることも、同様に易しいことであった。