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from: 21世紀さん
2011/07/15 19:14:38
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「Re:牧口常三郎の実像」
<押証番号>
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「これも返還された押収資料の一部」と写真説明された『大善生活實證録 第5回總會報告』と題する創価教育学会発行の本の表紙には、「治安維持法違反事件 被疑者 稲葉伊之助 證第二號」との文字がクッキリと読める。『慧妙』が気張ってカラー印刷した効果は抜群である。ほかにも短冊様の小さな紙が貼られており、押証番号がかすかに読み取れる。
だがどうだ、肝心な「通諜」にはそれらのものはない。すなわち「通諜」は、戦中、押収されたものではなかったのである。
------------------------------------------------------------
まず、『大善生活実証録』に貼(は)られていた「証第二号」の紙であるが、これは読んで字のごとし、「証拠として採用した第二番目の書類」という意であって、べつに押収書類のすべてに貼られていたわけではない(※ちなみに「押証番号」なる呼称は、学会が勝手に付けたものである)。
しかも、まったく同じ内容の書類が30枚もあれば、仮にそれを証拠として採用したとしても、「証第○○号」と貼るのはそのうち1枚だけで、30枚すべてに貼ったりしないのは当然のことである。(『慧妙』H5.7.1)icon
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from: 21世紀さん
2011/07/14 22:50:38
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「Re:牧口常三郎の実像」
<稲葉証言>
************************************************************
稲葉「証言」は信用できない。稲葉は、縁戚関係である牧口会長はともかくも、戸田会長には深い恨みを持っていた。
戦中の弾圧でもろくも崩れてしまった創価教育学会の理事・稲葉伊之助は、稲葉荘の実父である。その稲葉伊之助らに対し、戸田会長は公に厳しく評価を下している。
「投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人をご本仏と知らぬ悲しさである。
名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、21名のうち19名まで退転したのである」(戸田会長著『創価学会の歴史と確信』より引用)
戸田会長は、さらに稲葉について、
「狂人的警察官、不良の官吏、斎木という特高の巡査になぐられ、いじめられ、ついに死を覚悟して、取り調べのすきをうかがって2階から飛び降りたほど苦しんだ稲葉伊之助氏などは、4か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった」(同)
とも書いている。
稲葉伊之助は法難のただ中にありながら、それを自覚せず、恐怖に囚われ精神に異常を来したのであった。
この『創価学会の歴史と確信』は、戸田会長が会長に就任した昭和26年5月3日のすぐ後、同年7月10日に書かれたものである。その稲葉伊之助に対する戸田会長の評価を、息子である稲葉荘は快く思わず、創価学会より離れ、砂町教会(のちの白蓮院)に依拠した。いうならば、稲葉荘は戦後の檀徒のはしりである。
この砂町教会には、創価教育学会のかつての副理事長でありながら、獄に長く繋がれたのは牧口会長、戸田理事長(当時)のせいと恨み、創価学会を忌み嫌っていた野島辰次もいた。
野島や稲葉は、昭和27年4月の狸祭り事件の前後、砂町教会内に竜門講を結成し創価学会の組織切り崩しをおこなった。竜門講は、台頭する創価学会に反感を持つ坊主や法華講勢力を背景に、戦後第一次の檀徒活動をおこなったのである。稲葉は、その竜門講の中核メンバーであった。
これらの経緯から、稲葉「証言」は信憑性に欠けるのである。(『地涌』第666号)
------------------------------------------------------------
まず、稲葉伊之助氏が「精神に異常をきたした」などというのは、まったくの事実無根のことであるし、氏は昭和25年に亡くなるまで、一貫して学会員として通した人だったのである。
しかるを、子息の荘(さかり)氏憎さのあまりとはいえ、生涯を通じて学会員であった伊之助氏に対し、気違い呼ばわりするわ、造反者扱いするわ―もう、ムチャクチャである。
また、荘氏本人についても、氏は戸田会長とは最後まで親交を貫いていたから、氏が戸田会長を深く恨んでいた、などというのはまったくの大嘘である。
ただ、狸祭り事件を契機に、荘氏は「学会組織の暴力的体質にだけは、どうしても付いていけない」として、戸田会長にことわった上で円満に砂町教会へと移ったのだが、その時は、すでに竜門講は存在していたから、「野島や稲葉は竜門講を結成し」などというのも、もちろん事実に反している。また、それからの氏が、竜門講の中核メンバーとして学会切り崩しを行った、などという事実はどこにもない。(『慧妙』H5.7.1)
稲葉氏は、牧口常三郎氏とは身内の関係(稲葉氏の姉は牧口家に嫁いでいる)になる上、稲葉氏夫人の父親替わりを務めたのは戸田会長であり、そのような関係上、戸田会長も講義の帰り途、しばしば稲葉氏宅に寄っては酒を飲む、というほど親密な間柄を続けたのであった。
ゆえに、稲葉氏が、牧口氏や戸田氏や学会を恨むような事は、何ひとつないのである。ただ、氏としては、あくまでも事実を事実として述べたい、との、実直な考えの上から、当時あったこと(神札問題と「通諜」の件)をありのまま語っているにすぎない。(『慧妙』H5.9.16)icon
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from: 21世紀さん
2011/07/13 14:06:10
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「Re:牧口常三郎の実像」
<出処と出回った経緯>
************************************************************
この書面が出まわったのは、宗門と創価学会とのあいだが少しギクシャクしはじめた、昭和52年の8月の終わりか9月の初め頃であった。それ以前には見た者もまったくおらず、もちろんのこと、その存在すらも語られたことはなかった。昭和52年に突然、それもコピーのみが世の中に出まわりはじめたのである。実に不可解なことである。(『地涌』第61号)
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昭和51年春、学会系企業「シナノ企画」により、映画『続・人間革命』が製作された。48年の本編に続き、この続編についても日蓮正宗宗門は、学会からの要請で製作に全面協力をした。
が、その内容に関し、史実の歪められている箇処があるとして、不快に思った僧侶Y師が、旧知の間柄だった稲葉氏に胸の内を語った。
その会話の中で、稲葉氏が
「学会では、"本山は神札を受けて謗法を犯したが、学会だけはこれを拒否して弾圧された"などと言っているけども、それは事実と違う。その証拠に、うちには、こんなものが残っている」
といって、自宅地下室から持ち出したのが、かの、「戸田城外理事長」名での「通諜」だったのである。
これがY師の手を経て、52年問題の時にコピーとなって宗内に出廻った、という次第であって、そこには、学会側の妄想するような「戦後入信の、ある特定の法華講員」など、まったく介在しておらない。(『慧妙』H5.9.16)
この文書は、東京の稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)宅に保管されていたものである。
昭和18年7月6日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。
稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後10年も経った昭和30年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。
その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の子息・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を2人分(2個口)持ち帰ってきた。
そして、当時既に2代会長に就任していた戸田会長に架電し、牧口氏の分の返還資料の処置について相談したところ、
「それは荘君が保管してくれ」
との指示であった。
そこで稲葉氏宅では、いったん2個の包みを開き、その中味を一緒に保管するところとなったのだが、昭和35年に池田が3代会長に就任して後、柏原ヤスを通じて、
「保管されている牧口先生の分の資料を、記念品として学会に引き渡して欲しい」
旨、申し入れがなされた。
こうして、ほとんどの牧口氏の資料が学会に引き渡されたのだが、稲葉氏宅では、2個の包みをほどいて中味だけを一緒に保管していたため、牧口氏の携行用の小さな御書を含め若干の引渡し洩れが生じたのであった。そして-この引渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの「通諜」があったのである。その数、およそ30枚―。
稲葉氏宅では、この文書がそれほど重大な問題になるものとは夢にも思わず、他の資料と共に、再び地下室に収蔵したのであった。その後、湿気の多い地下室に長期収蔵されたため、同文書は多くが破損滅失し、残りは各関係先へ資料として寄贈された(幸いにして3通の「通諜」の現存が確認されている)。
以上が、稲葉氏宅に「通諜」が伝わった経緯である。(『慧妙』H5.6.1編集)icon
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from: 21世紀さん
2011/07/13 14:03:39
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「Re:牧口常三郎の実像」
<保存状態>
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「通諜」とやらのコピーを見ると、書面の四方がボロボロになっており、余白の部分も朽ちたように穴があちこちにあいているのがわかる。ところがそこまで朽ち果てているのに、なぜか文字だけはすべて判読できるのである。
また、書面の真ん中には縦に汚れが走っている。まるで長い間2つに折られてほこり焼けしたかのようになっている。それなのに、四方の朽ち果てたような破れは左右対称でない。余白の破れも同様である。真ん中がほこり焼けするほど長い間折られていたのであれば、当然のことながら朽ち方も左右対称であるはずだ。外見からだけでも、いろいろと疑念のわいてくる書面である。(『地涌』第61号)
------------------------------------------------------------
◆なぜか文字だけはすべて判読できる
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「通諜」は複数確認されている。今回『慧妙』紙が公表したカラー写真では、文字の部分にもシッカリ(?)穴が開いていて判読できない(笑)
◆まるで長い間2つに折られてほこり焼けしたかのようになっている
-----------------------
憶測に過ぎない。
●今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳(たた)まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない。(実物確認をしたフリージャーナリストの溝口敦『慧妙』H5.8.16)icon
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from: 21世紀さん
2011/07/12 22:45:45
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「Re:牧口常三郎の実像」
「通諜」問題総括
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[画像]:「通諜」のカラー写真
創価学会教育学会各理事
仝 各支部長 殿
理事長 戸田城外
通諜
時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦ひ抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一 毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
一 学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一 感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一 創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一 皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
以上
6月25日
(『慧妙』H5.7.1)
【「通諜」】
<日付>
************************************************************
「通諜」に書かれている「6月25日」との日付を、昭和18年のことであると一方的に断定している。なぜ「6月25日」が昭和18年だと判断するのかについては一切、触れられていない。(『地涌』第60号)
------------------------------------------------------------
言わずもがなの愚問です。「通諜」の趣旨は、神札を粗末に扱わないように会員に、指示徹底することです。もし、この「通諜」が昭和18年6月初旬以前のものであれば、本山から神札の受け取り指示があるはずがない。また、牧口会長・戸田理事長が逮捕されたのが昭和18年7月であるから、それ以後に、このような「通諜」が作成されるはずがない。つまり、その内容から考えて「通諜」の「6月25日」という日付は、昭和18年以外にはありえないのである。
●戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和18年6月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から「神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があつた。(戸田会長の談話『聖教新聞』S27.6.10/『地涌』第667号)
-----------------------
これは、戸田会長が機関紙に公式に発表した内容である。ここには"神札指導"の年月日を「昭和18年6月初旬」と断言しているではないか。「6月初旬」は、総本山から「登山せよ」と御命令があった日であるから、登山は別の日とも考えられるが、「これを受けた学会幹部が至急登山」との記述から考えれば、どんなに遅くとも10日以内には登山したことであろう。とすれば、仮に御命令の日が6月10日であったとしても、6月20日までには登山していたと見るべきであろう。
尚、『慧妙』(H5.6.1等)では"神札指導"の日を6月20日としている。しかし、その根拠については確認できていないので、当サイトとしては一応6月初旬を"神札指導"のあった日とする。
************************************************************
神札甘受を言い渡されたのは、6月27日(fb:7467/2005-10-25)
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学会員が証拠として出してきた「和泉ミヨさんの手帳」には「6月27日」の項が紹介されていないのは何故か?(笑)この記述は『創価新報』(H15.11.5)を鵜呑みにしたものであろうが、「27日」の根拠はまったく示されていない。
◆同年6月初旬、牧口、戸田両氏が二上人立ち会いの下、渡辺慈海庶務部長(当時)より神札を受けるよう申し渡された(『地涌』第33号)
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学会側謀略誌も「6月初旬」としている。icon
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from: 21世紀さん
2011/07/11 22:12:59
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「Re:牧口常三郎の実像」
「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(完結編)
--------------------------------------------------------------------------------
(『慧妙』H5.9.16)
連載してきた「―屁理屈を破す」も、いちおう今回をもって終了する。
そこで今回は、これまで論述してきた内容についての若干の補足、及び追加説明を加えておこう。
【「弁護士との相談が"応急策"」という大嘘】
―弁護士つかなかった当時の学会―
まず、本紙第15号で述べた、
「牧口氏が弁護士と共に対応策を練った、それが『会長の応急策』だった―というのは大ウソ。思想犯と睨(にら)まれた学会には、牧口逮捕後においてすら弁護士がつかなかった」(要旨)
という点について、かつて学会側で出していた資料を紹介する。
「牧口会長は、8月(※昭和18年)に東京・巣鴨の東京拘置所に移され、同じく戸田理事長も、同拘置所で、本格的な取り調べをうけた。しかし、思想犯ということで、弁護士もなかなかつかず、取り調べも、進まなかった。」(創価学会発行『創価学会40年史』)
「治安維持法違反と不敬罪という罪名のために、後難を恐れて弁護士さえなかなか決まらなかった。」(聖教新聞社発行・創価学会45年史『革命の大河』)
「牧口に弁護士をつけようと努力した有志もいた。19年春、藤森富作が『弁護届け』をもって東京拘置所へ行った。牧口の拇印をもらいにである。典獄(現在の所長にあたる)は、さっそく部下を通して拇印をとりに行かせた。その部下は『弁護士届け』を差し出した。しかし、牧口は拇印を押そうとしなかった。
ところが、藤森が戻ってきた部下に『藤森がきておりますと伝えてください』と頼むと、今度は、牧口は珍しくニコニコして『そうか、そうか』といって気持ちよく拇印を押した。弟子の心づかいがうれしかったのであろう。」(聖教新聞社編『牧口常三郎』)
これらを見ても明らかなように、思想犯として当局から睨まれ、(学会側の説によれば)すでに昭和18年初頭から2度にわたって警視庁で取り調べを受けていた牧口らを支援する弁護士は、1人としていなかった。いなかったからこそ、逮捕後も弁護士が見つからなかったし、逮捕の翌19年になって、はじめて弁護士を捜す手続きを開始しているのである。
これで学会の嘘は明白だ。学会よ、もう観念して、いいかげんな作り話はよせ。だいたい、ほとんど寝たきりになっている小平芳平氏の名を利用し、こんな嘘を発表するなんて、良識ある人間のすることではあるまい。
【「通諜」が世に出廻った経緯】
―稲葉氏と牧口・戸田両会長の関係―
次に、稲葉荘(さかり)氏が「通諜」を世に出した経緯につき、触れておく。
昭和51年春、学会系企業「シナノ企画」により、映画『続・人間革命』が製作された。48年の本編に続き、この続編についても日蓮正宗宗門は、学会からの要請で製作に全面協力をした。
が、その内容に関し、史実の歪められている箇処があるとして、不快に思った僧侶Y師が、旧知の間柄だった稲葉氏に胸の内を語った。
その会話の中で、稲葉氏が
「学会では、"本山は神札を受けて謗法を犯したが、学会だけはこれを拒否して弾圧された"などと言っているけども、それは事実と違う。その証拠に、うちには、こんなものが残っている」
といって、自宅地下室から持ち出したのが、かの、「戸田城外理事長」名での「通諜」だったのである。
これがY師の手を経て、52年問題の時にコピーとなって宗内に出廻った、という次第であって、そこには、学会側の妄想するような「戦後入信の、ある特定の法華講員」など、まったく介在しておらない。
なお、稲葉氏のことに触れたついでに、本紙第12号で述べた、
「"稲葉荘氏が戸田会長と学会を深く恨んでいた"などは真っ赤な嘘。氏は戸田会長と最後まで親交を貫いていた」(要旨)
という点をもう少し詳しく補足しておく。
稲葉氏は、牧口常三郎氏とは身内の関係(稲葉氏の姉は牧口家に嫁いでいる)になる上、稲葉氏夫人の父親替わりを務めたのは戸田会長であり、そのような関係上、戸田会長も講義の帰り途、しばしば稲葉氏宅に寄っては酒を飲む、というほど親密な間柄を続けたのであった。
ゆえに、稲葉氏が、牧口氏や戸田氏や学会を恨むような事は、何ひとつないのである。ただ、氏としては、あくまでも事実を事実として述べたい、との、実直な考えの上から、当時あったこと(神札問題と「通諜」の件)をありのまま語っているにすぎない。
どす黒い腹の学会幹部には、そうした氏の心情はまったく理解できず、"戸田会長への深い恨みがあるに違いない"としか思えないらしい。じつに哀れな連中ではある。
【切り文で本紙の記事を改ざん】
―良識のカケラもない悪徳編集子―
次に、学会側の反論・批判の支離滅裂ぶり、狂いぶりについて、2、3、指摘しておきたい。
『創価新報』(6月16日号・4面)に、「通諜問題」と題して、
「何とカラー写真で逆に押収物でないことを証明」
「『慧妙』も認めた・『通諜』はだれも見ず知らずの幽霊」
「化けの皮はがされた『戦中作成説』」
等の見出し付き記事が掲載されている。
このうち、最初の見出しに示される「カラー写真で逆に押収物でないことを証明」云々という言い掛かりについては、すでに本紙第12号で粉砕済み(それに対して学会側は、真摯な対応をせず居直りを決め込んでいる)。
残る2つの見出しの趣旨は、
「『慧妙』の通諜論で化けの皮がはがされたのは、戦時中『通諜』を見た者はだれもいなかった、ということである。これは重要な記述である。『慧妙』では"野島氏以下ほとんどの幹部達は『通諜』の現物を見てすらいなかった""まだ配布されていない『通諜』なる文書が牧口氏宅からの押収資料の中にあった"つまり、だれも見ず、知らず、聞かず、だというのである」
というものだが、これがまったく呆れ果てたゴマカシなのである。
すなわち、『新報』が本紙からの引用として挙げている2文の末尾には、それぞれ、「であろう」と「としても」の字句が故意に削除されており、本紙が、論を進める途中の推測および仮定として述べた文を、あたかも既定の新事実を明かした「重要な記述である」かのごとく改ざんしているのだ。
このように、相手側の主張を勝手に歪曲しておいて、それを得意気に批判してみせる手口は、平成3年以降、学会が使ってきた常套(じょうとう)手段であり、これは、相手側を打ち破るというより、むしろ、自らの陣営側(学会員)に、学会の正しさを印象づける目的で行なわれている洗脳報道であり、戦時中の大本営発表と全く同じ性質のものである。もはや、学会には良識のカケラもない、といえよう。
なお、『新報』の同記事の末尾には、
「それにしても『慧妙』編集子の程度の低さ。支離滅裂な推理といい、手の内を何でも明かしたがる幼稚さといい、話にもならない幼年探偵団だ」
などという捨てゼリフが吐き捨てられてあったが、学会に都合の悪い事実は全て隠蔽(いんぺい)し、宗門攻撃の材料として使えそうな話だけを選別して、断定的かつ針小棒大に報道するのが常識の"悪徳編集子"の眼から見れば、取材結果をそのつど全てオープンに報道し、推測は推測として有り体に記述する本紙の姿勢が、かように異和感を伴って映ずるのであろう。したがって、これは、『新報』から本紙に対する、ある意味で正しい評価ともいえるが、あえて嫌味な御礼までは言わないでおく。
【「健気(けなげ)な信徒団体」だなんて悪い冗談】
―悲哀!天に唾(つば)ならぬ排泄物―
最後に、この通諜問題での論争中、可笑(おか)しくて可笑しくて仕方のなかった、学会側の一文を引いて紹介したい。
「どうして日蓮大聖人の末流に、謗法厳誡にして神札を峻拒(しゅんきょ)した健気(けなげ)な信徒団体があったことを認めないのであろうか。(略)依って立つべき聖なる地の無い者は、他を穢(けが)すことのみを喜びとするのである。誇るべき信も行も学も無い者の哀れな排池行為である。」(『地涌』第666号・不破優)
僧誹謗、摧尊入卑(さいそんにゅうひ)、現代仏陀論、0分勤行、本尊模刻―等々等々、こんな輩が「謗法厳誡の健気な信徒団体」だなどと自讃しては、もう完全なブラック・ユーモアだ。
その上、このような、まさに「依って立つべき聖なる地の無い者」が、無賛任な怪文書をバラまくなどして「他を穢すことのみを喜び」としているのだから、後半の文は全て彼ら自身のことを言い当てた文ではないか。だとすれば彼らは、自らの「哀れな排泄行為」によって生じた排池物を、自らの顔面にかぶって喜ぶ狂人のようなものだ。何とも悲哀の漂(ただよ)う、あまりに馬鹿げた姿ではないか。
以上、通諜問題に関する学会の屁理屈を、おおむね破し了(おわ)った。もし、学会側が再反論に及ぶ気力を持ちあわせていたら、あらためて、とことんまで論じ合う所存である。(以上)icon
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from: 21世紀さん
2011/07/10 17:45:22
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創価学会現役幹部運営のインターネットサイトに謝罪文掲載して閉鎖&賠償命令
「フォーラム21」6月号
本誌編集部
創価学会青年部の機関紙「創価新報」の平成23年6月15日号掲載の座談会記事「轟け!正義の獅子吼 青年部躍進座談会」には、創価学会青年部幹部のこんな発言が載っている。
「棚野(青年部長)学会の平和・文化・教育の運動は、世界に大きく広がっている。ゆえに、それをひがみ、そして妬み、誹謗する輩も必ず現れる。
竹岡(牙城会委員長)そうだ。ネット上に悪意で、卑劣で陰湿なデマを流す輩がいる。
桜井(男子部書記長)ところが、こうしたデマは、『いつ』『どこで』『いくらで』『誰から誰に』そうしたことがあったのかという具体的な根拠がまったくない。要するに、読めばすぐに『作り話』と分かるものだ。(中略)
橋元(男子部長)デマを流す人間の心が、あまりにも貧困だ。皆から笑われているよ(笑い)」
インターネットの普及に伴い、その匿名性を利用しての悪質なデマや名誉毀損行為が社会問題になっているが、「創価新報」座談会記事は、そうした風潮を背景にインターネット上に創価学会や池田大作氏に対する「悪意で、卑劣で陰湿なデマを流す輩」がいることを非難する内容となっている。
だがそうした非難されるべき「ネット上に悪意で、卑劣で陰湿なデマを流す」行為を、創価学会の現役の男子部幹部や、男子部幹部を歴任するなどした壮年部幹部の学会員ジャーナリストが行い、名誉毀損で提訴された結果、司法によってその不法行為責任を認定されて損害賠償の支払いを命じられたり、自ら責任を認めてサイトの閉鎖と謝罪文の掲載、そして解決金を支払うことで和解するなどの事実が、今年に人って相次いでいる。
まずは次のような「謝罪文」を紹介しよう。この「謝 罪文」を掲載したのは「ゴルゴとマリア」と称するインターネットのホームページサイドである。
「『ゴルゴとマリア』のホームページ閉鎖について
当ホームページにおいて、作成者不肖の『勝ち鬨』、『フェイク』をそのまま流用して、宗教法人日蓮正宗の信徒団体である妙観講の講頭大草一男氏にあたかも女性スキャンダルがあり、また反社会的な活動や破廉恥な行為を行っているかのような情報を掲載し、大草氏の名誉を著しく毀損しました。
当ホームページにおいて、虚偽の事実もしくは何の裏付けもとれていない事柄を掲載したことにつき、大草氏をはじめとする関係者に対して深く謝罪するとともに、当ホームページを閉鎖し、今後は大草氏や妙観講の名誉を毀損するような情報を公開しないことを確約いたします」
「謝罪文」を掲載し閉鎖された「ゴルゴとマリア」と称するホームページサイトには、閉鎖前「ゴルゴとマリアのウェブサイトヘようこそ!/当サイトゴルゴとマリアは、日顕宗の悪を撃つ『地涌』『勝ち鬨』「同盟通信』『新改革通信』『フェイク』等、さらに有志が個人的に作成している各種文書を集積しています。/サーバの維持費は管理人(モンキー)のポケットマネーから捻出しており、私の命ある限り、このサイトは存続します。/いつの日か相承する時が来るかもしれません。/合掌」
との一文が掲載されていたが、ここにある「日顕宗」との表記は、創価学会が日蓮正宗を誹謗する時に使用する常套句。
要するに「ゴルゴとマリア」と称するサイトは、日蓮正宗とその関係者を攻撃することを主目的とするサイトであり、妙観講が日蓮正宗の法華講(信徒団体)の中で、もっとも激しく創価学会を批判していることから、妙観講ならびに同講の大草一男講頭を誹謗・中傷する「勝ち鬨」「フェイク」などの怪文書を貼り付けていたということのようだ。
しかし「勝ち鬨」「フェイク」などに掲載された大草氏に女性スキャンダルがあるかのような記述や、妙観講が反祉会的活動を行っているかのような記述については、別件の名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟において、悪質な名誉毀損であることが認定されていたことから、大草氏ならびに妙観講は、名誉毀損記事を垂れ流す「ゴルゴとマリア」の運営管理者を、プロバイダーに情報開示を迫るなどの法的措置を講じるなどして特定。昨平成22年12月、名誉毀損に基づく損害賠償の支払いと謝罪文の掲載、そしてサイトの閉鎖を求めて訴訟を東京地裁に提訴していた。
日蓮正宗関係者の話によると「モンキー」なるハンドルネームを用いて素性を隠し、大草氏や妙観講を誹謗中傷する怪文書を垂れ流していた人物は、創価学会の総区幹部で未来部長や創価班委員長を務めるバリバリの現役幹部だったという。
まさか身元を特定されるとは思わなかったのだろうが、被告となったサイト管理者の男子部幹部は、怪文書の内容が名誉毀損にあたると認定されていることもあって抗弁を断念。代理人の創価大学OBの学会員弁護士を通じて、早々に原告の大草氏・妙観講側に、謝罪文を掲載してサイトを閉鎖するとともに、解決金を支払うことでの和解の申し入れを行い、6月下旬、和解成立とともにサイトを閉鎖する旨を記した謝罪文がホームページ上に掲載された。
この「ゴルゴとマリア」については、怪文書の収集能力が個人の域を超えていることや、全国各地の創価学会組織において幹部が日蓮正宗攻撃のために利用するよう宣伝するなどしていたとの情報もあり、創価学会組織の関与が推認されるが、今回の和解の措置によって、少なくとも創価学会男子部の現役幹部が、「ネット上に悪意で、卑劣で陰湿なデマを流」していたことだけは明白になった。
妙観講に関しては、本誌の145号で詳報したように、妙観講をオウム真理教と同列視して誹謗中傷するビラが全国各地で大量に配布され、その実行行為者として特定された複数の創価学会青年部幹部に対して、妙観講が損害賠償請求訴訟を提訴。
平成20年に東京高裁は、誹謗中傷ビラの配布は、「創価学会のいずれかの組織を構成する相当多数の学会員がその意志を通じて関与していたものと推認することができる」として、損害賠償の支払いを命じる判決を言い渡している。
今回明らかになったインターネットのホームページを使っての目蓮正宗・妙観講攻撃も、そうした行為の一環と見ることが可能だ。
■■■■■■■■■■中略■■■■■■■■■■
そして創価学会学生部の地域組織の副部長、平成11年当時は、創価学会男子部の新宿区常楽本部の副本部長・創価班班長・区言論部長などを歴任、その後は壮年部の地区部長などを務めているジャーナリストの柳原滋雄氏が運営する、インターネットのホームページ「柳原滋雄Webサイト」内の「コラム日記」における記述が、名誉毀損にあたるとして、今年4月25日、東京地裁民事24部(荻原弘子裁判長)は、被告の柳原氏に対して原告の矢野穂積東村山市議に30万円の損害賠償を支払うよう命じる判決を言い渡した(柳原氏が控訴)。
周知のように柳原氏は、矢野絢也元公明党委員長や山崎正友元創価学会顧問弁護士などの創価学会からの造反幹部や議員、「週刊新潮」や「週刊新潮」のデスクだった門脇護氏、本誌の編集発行人である乙骨正生など創価学会に批判的なマスコミやジャーナリスト、さらには民主党や共産党、白川勝彦元自民党代議士をはじめとする創価学会に批判的な国会議員や矢野穂積東村山市議などを、自らが運営管理するインターネットのホームページで非難・誹謗し続けている人物。
そうした非難・誹謗の一環としてなされた矢野穂積東村山市議に対する誹謗が、名誉毀損に当たるとして損害賠償の支払いを命じられたのである。
問題となったのは「柳原滋雄Webサイト」内の「コラムロ記」平成20年9月13日掲載の記事。その中で柳原氏は、平成7年9月1日に、東京都東村山市の東村山駅東口の雑居ビルから朝木明代東村山市議(当時)が転落死した事件について、矢野市議を「この件ではむしろ矢野は重要容疑者の一人」と記述し、あたかも矢野氏が朝木氏の転落死に関与しているかのように記述していた。
これに対して矢野市議は、平成21年11月、「『この件ではむしろ矢野は重要容疑者の一人』であると記載した部分は、『朝木議員の転落死について、原告が何らかの犯罪を犯し、捜査の重要な対象となっている被疑者である』と理解されるものであり、それが事実を摘示して原告の社会的評価の低下を招く記事になっている」として、東京地裁に柳原氏を被告とする500万円の損害賠償の支払いと、謝罪文の掲載を求める訴訟を提起したのだった。
被告の柳原氏は、朝木市議の転落死事件は自殺なので犯罪性はなく、矢野氏が重要容疑者と理解する余地は無いなどと主張。「この件で矢野はむしろ重要容疑者の一人」と書いたことは、「あくまでも、朝木議員が転落死する直前に諍いを起こしていた相手が、原告であるとの疑いがあることについての、被告の意見・論評に過ぎない」などと主張していた。
これに対して東京地裁は、記事の記述と朝木市議転落死事件の事実関係を詳細に検討した上で、「『この件ではむしろ矢野は重要容疑者の一人』という表現は、一般読者の注意と読み方をもってすれば、朝木議員の転落死について、原告が、何らかの犯罪行為、すなわち、自殺幇助のみならず、殺人、傷害致死、過失又は重過失致死等といった容疑を含む行為を引き起こしたとして、捜査機関の嫌疑を受けている『重要容疑者』である事実を指摘する表現であると解さざるを得ない」。
「そして、現職の市議会議員である原告にとって、同僚であり、しかも同一会派の所属議員として親しい関係にあったはずの朝木議員の転落死に対し、その原因となる何らかの犯罪行為を引き起こしたとする嫌疑を受けていると指摘されることは、その社会的評価を低下させる名誉毀損事実であることは明らかである」として、記事には真実性も相当性もないとして、柳原氏に対して30万円の損害賠償を支払うよう命じる判決を言い渡した。
ちなみに、同訴訟の被告人本人に対する尋問において、柳原氏の「陳述書」には、朝木市議の転落死に関する訴訟において創価学会がすべて勝訴しているとの記述があることについて、原告・矢野氏側の代理人が、「フォーラム21」平成16年1月15日号掲載の座談会記事「検証―真実が明らかになった『東村山事件』」に対して、創価学会が「フォーラム21」編集発行人の乙骨と座談会発言者の矢野市議を名誉毀損で提訴した事件で、創価学会側が敗訴した事実を知っているか否かを質したところ、柳原氏は「知っている」と証言。
柳原氏が朝木市議転落死事件に関して創価学会が敗訴した事実があることを知っているにもかかわらず、意図的に創価学会がすべて勝訴したと「陳述」していたことが明らかとなった。
周知のように創価学会は、訴訟に関しては自らが勝訴した場合は機関紙誌で大々的に勝訴の事実を報じるが、敗訴した場合は敗訴の事実を隠蔽する。創価学会の区言論部長などを歴任し、創価学会文芸部に所属する柳原氏も、そうした創価学会のご都合主義的体質に染まっているようだ。
「創価新報」において青年部最高幹部らは、インターネットの匿名性を利用しての創価学会批判を非難するが、自らの足下で、男子部の現役幹部それも総区の未来部長という少年・少女を指導する役目を持つ幹部が、「ネット上に悪意で、卑劣で陰湿なデマを流」していた事実をどう受けとめるか。厳しく反省すべきだろう。
「ゴルゴとマリア」の閉鎖と柳原氏敗訴の事実は、創価学会ならびに創価学会関係者の、日蓮正宗をはじめとする創価学会に批判的な人物や団体に対する攻撃が、いかに謀略的で卑劣であるかを象徴的に示している、創価学会における「正義の言論」などというのは所詮は、この程度のものなのである。-
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from: 22世紀さん
2011/07/10 10:42:52
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池田大作「権力者」の構造
第5章
池田大作の独裁体制へ
約束されていた成功
生前、戸田は北海道に向かう飛行機の中で、「お前たちの孫の孫の代までの構想は教えてゆくからな」と、言ったという。戸田はそれを教えずに死んだのだろうが、会長についた池田としては、創価学会の構想をことあらためて教わるまでもなかった。池田は戸田が敷設したレールの上を、それまでの惰力を減殺することなく、走ればよかった。戸田亡き後の創価学会の成功は、池田の能力に大きく負うとしても、その成功は基本的には、最初から約束されていた。
創価学会の政治進出や出版活動、寺院や会館の建設、文化面への進出など、すべての事業活動を可能にする根本は、多数の会員と、やむことのないその増加である。会員の増加が金を集め、販路を開き、人材を供給し、それらを通して、また会員を増加させる。会員が順調に増大しているかぎり、池田の企みはすべて成功し、その会長としての手腕は疑われようがない。
会員の増加はすべてを可能にするが、重要なことは、それが創価学会の教義に内在化している点である。その意味では、創価学会の一定の成功は、なにも池田の優れた才幹にまつまでもなかった。
創価学会員の信仰生活にふつう課されたのは、勤行と折伏、『聖教新聞』と『大百蓮華』の購読、座談会や講義への出席、大石寺への登山などだが、そのうち最重要視される任務は折伏であり、折伏が創価学会の自己増殖のメカニズムである。
「今末法においては、日蓮大聖人の仏法たる三大秘法の御本尊を信じたてまつって、題目を唱え折伏行にいそしんでこそ絶対的な幸福境涯を会得し、成仏ができるのである。・・・・・自己の幸福のみを願って信心をしていけばよいというのは、真の仏弟子ではない。また、謗法の者を見ておいて折伏をしなければ、仏法中怨として無間地獄に落ちるのである。・・・・・
折伏行に邁進するならば、不幸な人々を救う歓喜はもちろんのこと、折伏によって自己の生命力も強められ、永遠に崩れない歓喜にあふれた幸福境涯を建設することが出来るのである。しかも順縁広布の機は熟し、さらにわれわれは勇気をもって折伏に励むべきである。
これこそが末法の信心であり、折伏なのである」(創価学会教学部遍『折伏教典』)
いうまでもなく折伏とは会員の獲得、非信者の創価学会員化にほかならず、それは、怠れば無間地獄に落ちるとの威迫によって、ネズミ講と同じ仕組みである。会員は次々と被害者――折伏の責任を負わされるという被害者を作らねばならず、被害者さえ作れば、本人は被害者でなくなる以上に、「生命力も強められ、幸福境涯を建設すること」ができる。だが、ネズミ講では被害者二人を作れば事たりるが、創価学会はそれだけでは満足しない。
このような折伏をもってすれば、創価学会の急伸も理の当然であり、それは会長の能力、資質、構想のいかんに左右されない原構造であった。
さらに会員増を支えたものに、創価学会員になることの容易さがある。本尊を幸福製造機とあからさまにいうことに象徴される現世利益の賛美、奨励は、現在の主流の生活信条ともいうべき拝金主義、快楽主義の促進であり、会員はなんら自己変革を要求されることがないばかりか、それまでのためらいながらの欲望、利己心を、野放図に解放することができた。
そこにあるのは出世主義や体制内での遊泳術、二十日鼠の勤勉主義、個人の損か得か、他人の蹴落としだけであり、社会という視点はまったく欠落する。
「資本家というのは、働らけば働くほど自分の利益になります。労働者は、やはり時間だけ働いて、あとは帰ったほうが得で、おそくまで働いても、直接的には自分には利益はないと、いちおう、こういう立て分けができるのです。しかし、私どもは、いっさい働いたことが、ぜんぶ自分の功徳になるのだと決心するのです。また、事実そうなるのです。それが一念随喜なのです。われわれは資本家と労働者のどちらに味方するわけでもなく、両方ともひっくるめた立場でありますけれども、例として、資本家的な気持ちで、すなわち自分が働いたものが、ぜんぶ自分のためになるのだという信心でなくては損なのです」(池田『池田会長講演集』十一)
これは労働の論理でなく、仕える論理であり、現代では失望と落胆、うまくいって抜け駆けとスト破りしか結果しないが、個人の利益に密着しているなりに理解しやすく、革新陣営の運動員になることに較べ、創価学会員になることを易しくしていた。
会員の増加は池田の功績となり、池田体制の安泰を保ち、年と共にその権力をより強固にした。そしてさらに創価学会流の教義解釈が、その池田の地位を超絶性の高みにまで押し上げていた。
その教義解釈とは仏教説話中の覚徳比丘と有徳王の話のあてはめであり、梗概は、――
釈迦出現前に、正法を説く覚徳比丘という僧がいたが、邪法の僧に迫害された。時の国王・有徳はこれを聞いて駈けつけ、満身創痍となりながらも覚徳比丘を守った。この功により有徳王は阿閦仏の国に生まれかわって仏の第一の弟子、覚徳比丘は第二の弟子となった。両者の地位が逆転したわけで、のちの有徳王が釈迦、覚徳比丘が迦葉仏になった。
――というものである。
池田はこの説話を自ら、創価学会会長と日蓮正宗法主の関係にあてはめた。
「『正法を説ける覚徳比丘あり、その比丘を守る有徳王あり、この有徳王は邪宗教と戦闘して、全身に芥子ばかりも残らぬほどの傷を受け、最後まで戦いきった」という経文があります。いま創価学会の私どもは、日夜、朝な夕な、不幸の人々を救おうと折伏に励み、また教学に、座談会に、支部結成に、総本山を、日達猊下をお守り申し上げているその精神、その姿、その方程式こそ、有徳王の精神であり、姿であると私は信ずるのであります」(『聖教新聞』昭和36年5月6日)
池田の話は一気にまくしたてた感じで、文の接続がおかしいが、これを整理していうなら、「覚徳比丘とは、末法今時よりこれを読めば日蓮大聖人の教えを堅く守るものであり、お山の代々の法主上人である。これを守る有徳王とは創価学会会長の立場である」(東京大学法華経研究会『日蓮正宗創価学会』)と、いうことになる。 -
from: 21世紀さん
2011/07/10 08:28:41
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「Re:牧口常三郎の実像」
「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(下)
--------------------------------------------------------------------------------
―史実覆い隠す"小平談話"の嘘―
(『慧妙』H5.8.16)
何としても「通諜」実在を否定したい学会は、これまで池田離れが噂されていた小平芳平氏(元・学会教学部長で、池田を折伏した人物)を創価新報(六月十六日号)に登場させ、インタビュー記事の形での談話を発表した。
ところが、これまた、史実に反する嘘と苦しい言い訳に終始しており、まったく用をなしておらない。
以下、まとめて指摘しておこう。
<牧口氏は日本の侵略戦争を翼賛>
―小平氏はその史実を忘れたのか―
まず第一に、小平氏は
「(牧口会長は)日本軍が占領した海外の各地に神社をつくり、他民族に礼拝を強制したことに対して、日本民族の思い上がりも甚だしいと激しく非難していました」
等、さも、牧口氏が日本の侵略戦争に反対していたかのごとく述べているが、これは当時の史実に反する真っ赤な嘘である。(でなければ、小平氏も学会の洗脳によって、そう思い込んでいるのか)
すなわち、戸田会長著の『人間革命』によれば、戦時中、牧口氏は
「森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、一年の後か、二年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい」
「国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ」
「国家諌暁をしなければ、日本は惨憺たる敗戦を招く!」
等々の発言をしていたことが明らかだし、また、『大善生活実証録』(昭和十七年十二月三十一日発行)によれば、創価教育学会第五回総会(むろん牧口氏が主催した)の席上、理事の1人に
「いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある」
※【聖戦】宗教的に神聖とみなされる目的のために戦われる戦争。また、正義の戦い。(三省堂提供『大辞林』第2版=法蔵)
との発表をさせている。そればかりか、当時の学会の総会においては、毎回のように、
「牧口会長の発声で天皇陛下の万歳を三唱し奉って」(第四回総会)
「吉田理事の指導にて、遠く戦野にある牧口会長令息・洋三君をしのぶ軍歌を高唱し、(中略)牧口会長の発声にて、聖寿(天皇の年齢をさす)の万歳を三唱し奉って」(第五回総会)
いたのである。
かかる思想であった当時の牧口氏が、日本の占領地政策等に対し「日本民族の思い上がりも甚だしいと激しく非難」などするハズがなかろう。牧口氏(および氏の弟子達)は、明確に、日本の侵略戦争を翼賛し、日本による諸国征服を期待していたのだ。
このような明らかな史実を、なぜ、小平氏は覆い隠そうとするのか。もし、史実を忘れてしまった、あるいは曲げて記憶していた、というなら、それが学会による洗脳(マインド・コントロール)の成果であると知るべきであろう。
<牧口氏の本心は講演内容に明白>
―靖国神社参拝を是認した牧口氏―
第二に、小平氏は
「牧口先生の訊問調書を読めば、先生の言い分が神社参拝を否定してきた本来の日蓮正宗の教えに基づくことは、すぐに分かります」
などと述べている。
しかしながら、牧口氏の本心がより明らかに表れているのは、取調べ検事が押収書籍(堀日亨上人の『日蓮正宗綱要』など)の内容を盛り込んで作成した"訊問調書"よりも、牧口氏の自発意志で行われた"総会での講演"記録であろう。そこには、牧口氏の記録として
「吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった。有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。もし、『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違った話はない。
天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神(あらひとがみ)であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考え奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。またこれが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である」(大善生活実証録)
と述べられており、牧口氏自ら靖国神社へ参拝していた(もしくは参拝を問題なく許容していた)ことが明らかではないか。いったい、どこが「本来の日蓮正宗の教え」だというのか。
また、小平氏は
「(天皇一元論は)当時の世相のなかで神札を拒む合法的な一つの便法として、指導・徹底されたもの」
とも言っているが、そもそも一方で"靖国神社参拝容認発言"があるのに、これでは、まったく苦しい言い逃れにしか見えぬであろう。
<「字の間違い」云々の言い掛かり>
―かえって「通諜」の信憑性を高める―
第三は、小平氏は
「そもそも、いまコピーで出回っている『通諜』なるものは、字が間違っています。正しくは『通牒』ですよね。こんなひどい間違いを、戦時中、厳格な教育者であった牧口先生や戸田先生が」云々
などと、何故か『地涌』(第61号)の論旨丸写しの発言をしているが、だいたい、非常時下、慌(あわ)てふためいて作った文書(それも、ガリ版の原紙を書くのは、牧口・戸田両氏が直接ではなく、担当者がいたことだろう)であれば、字の間違いがあっても何ら不思議ではない。
それよりも、むしろ後年の偽作だとした場合には、時間の余裕もある中で、念入りに作るであろうから、字の間違いなど起こりえぬであろう。したがって、逆に、この単純なミスが「通諜」の信憑性を高めている、とすら感ぜられるのである。
<見苦しい言い訳や怪釈はよせ>
―「不本意だが従った」の文意明らか―
第四に、小平氏は、自らが『富士宗学要集』第九巻に記載した文について、
「『暫く柔らかにお受けした』というのは、本山からの話を無下に拒否するのではなく、一応、話は"お受け"した、つまり聞いたという意味で、特に本山の忠告を"受け入れた"意味ではありません。したがって『その場では』と記しているのです。(中略)実際、本山の話の内容を受け入れなかったことは、すぐ次下に"が、心中には牧口会長は、神札を拝むべきでない等と、日蓮大聖人、日興上人の正義を主張されていた"と記した通りなんです」
等々と、訳のわからぬ言い訳をしている。
いったい、氏には日本語の意味(それも自身の書いた文の意味)がわからぬのか。「一応、話は"お受け"した」「"が、心中には、牧口会長は、神札を拝むべきでない等と、日蓮大聖人、日興上人の正義を主張されていた"」との表現は、誰が考えても"内心は不本意だったが、忠告には従った"との意味ではないか。
この他にも氏は、「当時は、そういう言い方をしたんですよね。"話はお受け帰ってきた"といったように」等、ますます訳のわからぬ弁明を試みているが、まったく見苦しいかぎり、という他はない。
<「弁護士を加えた対応策」との嘘>
―小平氏よ、当時の状況思い出せ―
第五に、小平氏は、本紙が投げかけてあった"すでに手遅れだった会長の応急策とは何か"との疑問に対し、
「この"応急策"の記述は、六月本山から帰った後のことではありません。当時の弾圧の準備は、この年に入って急速に進み、四月、五月ごろには、理事クラスの逮捕や先ほども述べた牧口会長の中野署での取調べのように、もう現実段階に入っていました。
そこで、これらの当局の不穏な動きに対して、牧口会長のもと弁護士なども入って真剣に対応策を練っていたんです。ただ、もはや、弾圧の流れは止まらない勢いになっていたため、間に合わなかったのです」
等と述べ、「会長の応急策」とは「弁護士なども入って」練っていた「対応策」にすぎない、としている。
しかし、氏よ、よくよく、当時の状況を思い出してみるがよかろう。
学会は当時、治安維持法違反(要するに思想犯)の容疑で当局から狙われ、取り締りを受けた。思想犯に荷担する者は、また思想犯の一味と見なされる時代であったから、学会には、弾圧以前も以後も、弁護士などつかなかったのである(それを証明する当時の記録も数多ある)。
しかるを、牧口氏が弁護士と共に対応策を練った、それが「会長の応急策」だった、などとは、よくも言えたもの。どうせ五十年も前のことだから、何を言っても大丈夫、と思ったのかもしれないが、あまり白々しいゴマカシは止めることだ。
以上、新報(六月十六日号)掲載の"小平談話"の誤りと嘘について指摘してきたが、このデタラメ度合いからして、これが本当に小平氏の語ったとおりの内容なのか、どうか―それすら疑わしくなってくるのである。(次号「完結編」へ続く)icon
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from: 21世紀さん
2011/07/10 00:16:06
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「Re:牧口常三郎の実像」
「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(中)
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―学会の呆れた捏造の手口―
―好き勝手の歴史をデッチ上げ―
―稲葉証言への疑難、総崩れ―
(『慧妙』H5.7.16)
創価学会では、何が何でも「通諜」を否定しようとして、お得意の捏造(ねつぞう)記事を持ち出してきた。
なかでも、よく学会の手口を物語っているのが、『地涌』(第668号)掲載の"昭和27年に起きた砂町教会との対立"記事である(同記事の筆者は、例の「頭破」もとい「不破」クンである)。
同記事の狙いは、「通諜」所蔵者である稲葉荘(さかり)氏が、戸田会長を怨んで砂町教会(後の白蓮院)へ移籍し、竜門講を結成して学会と深刻に対立した、だから稲葉氏の証言には客観的な信憑(しんぴょう)性がない―と言おうとして、当時のわずかな聖教記事に基づき、砂町教会と学会の間に「極限までの対立」があったことにしてしまおう、というものである。
少し長くなるが引用しておくと、同記事では
「創価学会と砂町教会との対立が顕在化したのは、狸祭り事件(昭和27年4月)の直前であったようだ。
当時、砂町教会の住職は千種法輝。この千種法輝の実母(千種花子)がなかなかのやり手で、檀徒とも親しく法務に影響力を持った。この砂町教会と創価学会が、ほんの一時期であるが表立って実に深刻に対立した。
昭和27年3月20日付の『聖教新聞』にその片鱗を認めることができる。「寸鉄」に次のように書かれている。
〈6.折伏してお寺へ新しい同士を1人案内する時の嬉しさ、折伏の苦しみを知つた者でなければ味わえない境地である。
7.それを喜ばない坊主がいると聞く、うそとは思うが若しいたとすれば、そんな坊主は日蓮門下というのでなくて天魔門下だ。
8.御受戒するとかせぬとかいう事は御僧侶の権威だと思つていたらあるお寺のくそ婆が御受戒をするとかしないとか威張つたそうな、イヤハヤ世の中も闇だ。
9.それは紹介者が惡いからだろう。書式がととのつていなかつたに違いないと思う奴は大ちがい、紹介者が会長先生で折伏も会長さ。
10.とんでもないくそ婆だ、それは創價学会にけんかを賣る氣だ見事に買つてやろうではないかといきまいた青年がいる、その時寸鉄居士曰く
『婆というものは先に死ぬものだ、あわてるなあわてるな、いや大聖人樣からしかられてお尻に大かいおできでも出來てウンウンうなつて死ぬさ』〉
同年4月1日付『聖教新聞』の「寸鉄」にも、次のような下りがある。
〈6.会長先生にたてついた婆さんのいるお寺で、御受戒になまけ出したとさ支部長幹部ががまんの緒を切つて何故かと伺つたらお彼岸まわりで忙しいそうな
7.日蓮正宗にお彼岸つてあるのかい、即身成佛の教ぢやないか
8.口の惡いのがおつてそれはお彼岸廻りではない、お布施廻りだよとさ
9.お布施まわりでもよいから御授戒だけちやんとやつたらいゝじやないか、所化さんの手が足りないんだとさ
10.迷案を言上する、レコードにお経をふき込んで3人程手わけして信者の家でかけて居て、坊さんが自轉車にのつて、まわつて歩けば間に合うじやないか〉
野島や稲葉らが檀徒として所属していた砂町教会が反創価学会色を強め、創価学会の折伏した人の御授戒をしなくなったことが、この「寸鉄」からうかがえるのである。それに対する創価学会側のエキサイトぶりが充分、伝わってくる。
ということは一方で、砂町教会側も極限までエキサイトしていたことになる。もともと創価学会嫌いの野島などは、ここぞとばかりに創価学会や戸田会長の悪口を言ったことだろう。創価学会に対抗するために砂町教会内に竜門講が結成された。野島、稲葉らは、その中核となって活動した。
だが、この両者の極限までの対立も、すぐさま氷解するに至っている。創価学会は同年(昭和27年)6月、白蓮院鶴見支院を寄進することを決め、7月には寄進している。」
等といっている。
聖教新聞「寸鉄」欄のいいかげんさは、今に始まったことではないが、それよりも、そのわずかな記事を膨大(ぼうだい)な資料の中から見つけだし、かかる捏造ストーリーをデッチ上げていく異才ぶり(言い換えれば、多数の学会員をダマシて地獄へ連れて行く、人並み外れた才能ということ)に驚嘆せざるをえない。このようなマネは、とても常人にはできえないであろう。
とはいえ、やはり捏造は捏造でしかないから、真実の前には崩れ去るほかないのである。
まず、当時の「寸鉄」が記述している出来事であるが、実際の経過は次のとおりである。
<当時の実際の経過はこうだ!>
―「いきまいた青年」の正体!?―
当時、砂町教会に在勤していたA師という僧侶があった。A師は頻繁(ひんぱん)に学会本部に立ち寄っていたが、ある時、戸田会長の紹介で御授戒を受けることになった人があり、学会本部において「そのことを御住職に伝えてほしい」と頼まれた。
ところが、A師はこれを御住職に伝言せず、やがて、御授戒を受けたいという本人が、直接、砂町教会に来てしまったのである。
その際、「御授戒願」とか「紹介状」などの書類を持っていなかったことと、しかも寺院としては一言も伝言を聞いていなかったために、応対した御住職の御母堂は御授戒を断らざるをえなかった。
すると、前掲「寸鉄」にもあるように、学会幹部の中から「とんでもないくそ婆だ、それは創価学会にけんかを売る気だ。見事に買ってやろうじゃないか」などと、常軌を逸(いっつ)して「いきまいた青年」が出て、まず、昭和27年3月20日付・聖教に「寸鉄」記事を載せ、砂町教会への攻撃を始めたのである。
そのとき「いきまいた」ヤクザ顔負けの「青年」とは誰であったか?じつは当時、砂町教会の所在していたエリアの学会組織は文京支部であり、その文京支部の実質的責任者は、支部長代理の池田太作(当時、名のっていた本名)青年であった。これだけ言えば(そして、本紙5月1日号・3面に載せた、当時の池田青年の写真を見れば)「いきまいた」青年のおよその見当がつくであろう。
それはさておき、驕(おご)り昂(たか)ぶり「いきまいた青年」は、こんなささいなことから「極限までエキサト」し、「見事にけんかを買ってやる!」との宣言どおり、実際の行動に移った。
具体的には、文京区における学会員の御授戒を、すべて池袋の寺院に連れて行くようにして、砂町教会の御宝前には御授戒の御供養が上がらぬようにし、一方、他寺院の御授戒の時間に間に合わないような"時間外"の御授戒に限っては、急に砂町教会に連れて行く、という戦術に出たのである。
そして、その"時間外"の御授戒が寺院の時間的都合と折り合わなかった、といっては、同年4月1日付、聖教の「寸鉄」に見るごとく、
「御授戒のなまけ出した」「御彼岸まわりで忙しいそうな」「御授戒だけちゃんとやったらいいじゃないか、所化さんの手が足りないんだとさ」
等々の悪口をもって、さらに攻撃を加えたのであった。
まったく、「寸鉄」の記述のいいかげんさと偏向ぶりに、うんざりさせられるではないか。
<なかった「極限までの対立」>
―「不破」らは捏造小説の作家だ―
しかも、これが『地涌』の「不破」クンの手にかかると、
「学会側のエキサイトぶりが充分伝わってくる。ということは一方で、砂町教会側も極限までエキサイトしていたことになる。もともと創価学会嫌いの野島などは、ここぞとばかりに創価学会や戸田会長の悪口を言ったことだろう」
等ということにされてしまうのだが、あまり、邪推・憶測を膨(ふく)らませて勝手な作り話をするものではない。
すなわち、すでに述べてきたように、実際は、ささいなことから「いきまいた青年」等が、勝手に「エキサイト」し、砂町教会に対して一方的に悪口・嫌がらせを仕掛けていたのであり、なにも「両者の極限までの対立」などという事態は起こっていなかったのである。
その証拠に、『地涌』では、
「この両者の極限までの対立も、すぐさま氷解するに至って」「学会は同年6月、白蓮院鶴見支院を寄進することを決め」たなどと書いているが、「すぐさま氷解」という不可解さについては、何の説明もできていない。実際は、「両者の極限までの対立」など最初から起きておらず、また、戸田会長と白蓮院の御住職・御母堂とは互いに理解しあっていたから、一部の「いきまいた青年」等が仕掛けた悪口・嫌がらせも大事に発展することなく解消し、鶴見支院の寄進という慶事(けいじ)が成ったのである。
以上、当時の状況も知らない「不破」クンが、短い「寸鉄」記事に基づき、勝手な私情でデッチ上げた捏造ストーリーを粉砕した。
もう1つ付け加えておくならば、本紙前号でも明らかにしたとおり、稲葉荘氏が砂町教会へ移籍したのは、狸祭り事件(昭和27年4月27日)を契機として、それ以後のことであるから、『地涌』が「狸祭り事件の直前」に起きたと言う「学会と砂町教会との対立」「両者(学会と砂町教会竜門講)の極限までの対立」とは、時期的にみても前後が逆であり、稲葉氏と"極限までの対立(?)"とは全く無関係であることが判(わか)るのである。
さて、"砂町教会との対立"記事について、ここまで詳しく述べてきたのは、不破クン達のいつものやり口(スリカエとゴマカシの手口)を暴くのに、ちょうど適した題材だったからに他ならない。これまでも、不破クン達は、全く無関係な古い記事や資料を見つけ出し、そこに邪推・憶測によって何倍もの肉付けを行い、捏造の宗門史等をデッチ上げてきた―、その手口が今回の虚構性をみても、よく分かるではないか。
こんな連中は、宗史や教学のことを論ずべきではない、彼らに相応しいのは、小説の作家―それも、異常なまでの表現の汚ならしさからいって"変態"と名の付く小説であろう。とっとと転職せよ、不破クン、君にはそれがお似合いだ。
<一事が万事の捏造記事>
―異常人格者共の所論を笑う―
ところで、一事が万事というように、この"砂町教会との対立"記事に限らず、一連の学会の「通諜」はムリな捏造だらけである。以下、そのいくつかの例を挙げておこう。
第1に、『地涌』(第669号)に
「牧口会長らに対し、宗門は総本山第62世日恭上人、御隠尊の第59世日亨上人立ち会いの下、庶務部長・渡辺慈海より「神札」をいちおう受けるようにと申し渡された。その申し渡しに対し、牧口会長は、日蓮大聖人の法義に違背することとして、明確にそれを拒否した」
などと述べているが、この記述は、小平芳平(当時・学会教学部長)が『富士宗学要集』第9巻に
「18年6月には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場で暫く柔かにお受けした、が心中には次の様に考えられていた」云々
と書いた公式記録とまったく異なっている。学会というところは、ことほどさように、以前の記録や歴史を平気で塗り変え、学会史の"捏造"を行うのだ。
第2に、『地涌』は、"「通諜」は、戦後に入信した、ある特定の法華講員が偽造したもの"と決めつけておきながら、本紙からの「ならば、その根拠と法華講員の名を明かせ」との責めに対し、
「これは、故なきことではない、このことを日顕宗の者らは肝に銘ずるべきである」(第668号)
「たしかに、「通諜」の筆者の名を明かせばこと足りる。だが、それをしない。理由はただ1つ。言い訳にもならぬ言い訳を、『慧妙』編集部に代表される日顕宗の「非学匠」の者らにさんざんさせ、自らの"屁理屈"によってガンジガラメになるのを見て楽しみたいのである」(第672号/※余程、カッコ悪い言い訳であることに気づいたためかWSには掲載されていない。→http://www.houonsha.co.jp/jiyu/chap18.html)
等々と、仏法者とも思えぬ変質者的な言い訳を弄(ろう)し、あげくは
「ここで指摘しておかなければならないことは、『通諜』の筆者が"戦後入信した法華講員"であるという事実である。それなのになぜ"戦後入信した法華講員"がデッチ上げた偽書である『通諜』を稲葉が所持しているのか。稲葉がその理由を知らぬはずはあるまい」(第673号/※余程、カッコ悪い言い訳であることに気づいたためかWSには掲載されていない。→http://www.houonsha.co.jp/jiyu/chap18.html)
とまで言い切っている。自らの勝手な決めつけを根拠に、ここまで言い切る異常―、捏造はこうした異常人格から生まれるのだ。
第3に、聖教新聞(6月6日付)に、
「しかもこれ(※国家権力の牧口らに対する弾圧)に加担したのが、こともあろうに宗門であった」
「宗門の卑劣な裏切りは、『創価の父』である牧口先生、戸田先生を投獄せしめ、牧口先生を獄死に至らしめた」(5.5の池田スピーチ)
等とあるが、いったい、何をどう考えれば、このような言い掛かりがつけられるのか。日蓮正宗宗門が"弾圧に加担した"だの"獄死に至らしめた"だの―、これは、もはや短絡などという域ではなく、事実と全くかけ離れた造り話となってしまっており、これまた捏造と呼ぶほかないであろう(捏造でないというなら"気違いの所論といおうか")。
最後に、『地涌』(第672号)に
「(『慧妙』は)日本の宗教弾圧史しついての何某(なにがし)かの研鑚も蓄積もなく、いきなり『通諜』問題をカラー刷りでモノしようとしたところに無理があった。フンドシ担ぎは、急には横綱相撲はとれぬ」
等の文があったが、「宗教弾圧史」と「いきなりカラー刷り」との相関関係については次回の『地涌』でコジツケ解説を願うとして、今回、明らかになった学会による「捏造」の手口の前には、何らの「宗教弾圧史についての研鑚」も不要であろう。何故なら彼らは、どんな歴史でも好き勝手にデッチ上げてしまうのだから―。(以下次号)icon