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反創価学会

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  • from: 22世紀さん

    2011/07/06 21:00:28

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    池田大作「権力者」の構造

    池田の文章力および、改名とその野心

     7月21日、戸田は男子部幹部43名(前年昭和27年12月に非公式に発足、のちに70余名に増員、30年からは24名の第二期生となる)を選抜して、毎月2回の特別指導を与えるために水滸会を新結成した。同会の会場には、ふつう創価学会本部が使われたが、時に富士五湖へ出かけ、奥多摩にキャンプし、また戸田を新宿の洋食屋に招待することもあった。
     池田はその第一回会合の時、宣誓文を起草し、それに会員の一人ずつが署名捺印した。池田が書いたのは、彼が水滸会の指導格であったからではなく(指導格は辻武寿)、なにより筆まめだったからであろう。
     彼はこの年の『聖教新聞』元日号に、部隊長の竜がかくべきところ、彼にかわって第四部隊の抱負を書いているし、また24年、『大百蓮華』の校正を手伝った際には、余白を池田紳一郎のペンネームによる自作の〝詩〟で埋めてもいる。彼の文章力は、会内でも決して高く評価されていたわけではなかったが(たとえば、『聖教新聞』は彼の文章力について、「一面、文学的にももって生れたものを持っていることはあまり人に知られていない」《昭和29年5月16日》といいきっている)、生来、好きであったなりに筆まめで、池田の有効な武器になっていた。
    「一、われら水滸会員は、宗教革命にこの身をささげて、異体同心にして東洋の広宣流布の大偉業を完遂せんことを、大御本尊様にお誓いいたします。一、われら水滸会員は、戸田城聖先生の大目的たる人類救出の御意志を受け継ぎ、その達成には、身命をささげて戦い抜くことを誓います。一、われら水滸会員は、学会の先駆であるとともに、戸田会長先生の無二の親衛隊なることを自覚して、いかなる事態になろうとも、かつまた、いかなる戦野に進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、水滸会の使命をまっとうせんことを誓います」(『大百蓮華』153号)
     ここに見られるのは、大時代な使命感と選良意識、戸田への絶対的な忠誠心だけだが、池田はこれを心から記した。彼は迷いや価値の相対観とはぷっつり縁がきれた、ふくらみに欠ける自信家だった。彼の確信は、彼が確固とした世界観を求めて彷徨した結果ではなく、たずねることを放棄したことによって生まれた。彼は戸田の教えこむ世界しか知らなかったが、信じ込むにはそれだけで十分であった。
     創価学会が一人の非信者を相手にする折伏を専らにして辻説法も行わず、そのうえ池田を短期間で、直接的な折伏からも引き離し、指導役に就かせたことは、彼を一般世間から遠ざけ、その視野をいっそう狭く、限られたものにしていた。彼がわずかに会外の社会とつながりを保つのは、創価学会とほとんど変わらぬ大蔵商事の営業部長としてで、それもあらわな金を通してに過ぎず、また結婚前には、家庭からも断ち切られていた。
     池田はいわば創価学会という純粋培養の器の中で成長し、その中で満たされていた人工人間であった。が、それだけに会内の立ちまわりには滅法強かった。
     水滸会の教材には『水滸伝』『モンテ・クリスト伯』『永遠の都』『三国志』『太閤記』『レ・ミゼラブル』等が使われた。これらはいずれも、不信と自信喪失の現代小説より前期の、血わき肉躍る情熱と行動の書といった点で共通しており、たしかに新興宗教幹部という一種の社会運動家を育成する教材としてはふさわしいものであった。
     池田は文学に毒されることなく、正義や同志愛、信念や純愛、はっきりした憎むべき敵などの単純に割り切れる世界に遊び、それらを短絡的に現実に持ち込める幸せを享受することが出来たのである。
     11月から創価学会員の寺籍の移動が始まった。それまで、ある寺院に所属する会員(檀家)が移転しても、遠隔地の者を折伏しても、すべてその寺への所属という点では不変だったが、創価学会員の各地での急増にともない、不便と混乱が生じていた。そのため会員の寺籍は居住地から最も近い寺院に移すことになった。これにより、すでに本山大石寺で確立されていた、日蓮正宗に対する創価学会の主導権が、全国の末寺にもおよんだ。
     11月13日、戸田は新宿区信濃町32番地の元イタリア大使館付武官の私邸(洋館、二階建)を1,150万円で買い取り、200万円で改造して創価学会の新本部とした。
     同月25日、前に述べたように、池田は太作を大作に改名した(それ以前から彼は会内で非公式に大作の名を使用している)。改名の理由はまず世間体への顧慮だったと思われる。彼はこの年、長男・博正をもうけ、子がもの心ついてから父の名を恥じないように、との思いもあったろう。が、彼の世間体はなにより彼自身の野心と関係していた。
     このころ彼は実家を訪ねて四兄と話を交わしたが、そのとき池田は車の後席に坐る身分になるといったという。
    「弟(池田をさす)は『これからが多忙になり大変だ』というから、『自動車の免許をとって、活動したらどうか』といったんです。私は当時、免許をとって、小さな工場を経営し、すでに自動車で仕事をしていたもんですから。そうしたら、こういうんです。『僕は不器用だから、自動車の免許はとらない。見ていてくれ。自分は後ろに乗るから』」(央、前掲書)
     池田のすでに手に入れた、ある程度の地位はそれ以上を望ませ、彼の出世欲はいっそう熾烈になっていた。彼の身分は、次の年には会員に色紙を書くほどであり、その署名にも、彼が渇望する地位にも、太作の名はいかにもふさわしいものでなかった。




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  • from: 22世紀さん

    2011/07/06 20:48:48

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    池田大作「権力者」の構造

    三代会長候補ナンバー1石田次男の抜擢

     昭和28(1953)年1月2日、男子部第一部隊長・石田次男は小岩支部長に抜擢され、その妻・栄子も同支部婦人部長に任じられた。小岩はA級支部だったが、当時の折伏成績は第7位に低迷していた。
     石田の支部長起用に際し、戸田は支部員の前で次のように訓話した。
    「富田君(前小岩支部長・富田作十)は今迄実に良く働いた、全く見ていて涙ぐましいほど働き続けたが、誰もこれについて行かない、地区部長も班長も誰も一緒にやろうという者が無かった。これを見て居た私も考え抜いたが今度は腹を実行に移した、私は昔から小岩を愛して来た、今もそうです、今日から次男(石田次男)に支部旗を渡した、次男にやりたい放題の事をやらせる、誰もついて来なくてもよい、俺と次男と二人で支部旗を握って起ったんだ、小岩に誰も居なくなって、俺と次男と二人だけになってもかまうものか。文京(支部)ではこんなことはいわなかった。しかし、小岩は事情が違う。常泉寺の門前に二人が小岩の支部旗を握って立てばそれで良いのだ。小岩は今日からそのつもりで居れ。
     ・・・・・小岩は貧乏人が沢山集っている。班長、地区部長諸君はこれを機会に大いにガンバッて金をもうけなさい」(『聖教新聞』昭和28年1月10日)
     戸田は青年を大胆に登用した。その人事は完全な能力主義といったもので、年齢や入信年数はいっさい考慮されなかった。石田は池田より3歳年長ではあったが、入信は池田に遅れること3年である。戸田の人事は会員にやる気を起こさせた反面、いつ解任されるかもしれないといった緊張感を生み、全体としては創価学会幹部のいわゆる下士官タイプを形つ゛くった。が、その実力主義が創価学会の卓越した行動力を保証する第一の決め手だった。
     しかし、それにしても、石田の支部長登用は戸田にとっても、冒険といっていいほどの画期的な人事にちがいなかった。石田は青年部の時とは異なり、年長者の上に立たなければならない。そこには当然、抵抗が予想されたが、戸田は自己の責任にひきつけ、あえて石田抜擢に踏みきった。
     戸田の発言は抵抗をあらかじめ封じる意図を持つと同時に、石田への深い愛情と信頼を語るものであった。青年層のなかでも、戸田の石田に対する期待は別格であり、それは戸田の死まで変わることがなかった。彼は石田を次男とよんで、他の誰よりも重用しつつ゛けた。
     同日、池田は石田の後任に据えられ、男子部第一部隊長兼教育参謀となった。これにより、池田は竜、森田、北条に追いついたばかりか、ややリードもしたが、石田にはとうてい追いつくべくもなかった。
     4月20日、池田は文京支部長代理に、石田は同支部顧問に任じられた。このころから、戸田の若手への嘱目は、一に石田、二に池田と、ほぼ固定化されたようである。
     5月、創価学会の筆頭理事は、「願に依り」との理由で、和泉 覚から小泉 隆にかわった。小泉は蒲田支部長として、同支部の折伏成績を、常勝蒲田といわれるまでに毎月トップに保ちつつ゛けた功績者だった。



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  • from: 22世紀さん

    2011/07/06 20:47:07

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    池田大作「権力者」の構造

    「信心利用」の辣腕営業マンの懐ぐあい

     池田の地位は創価学会でも勤務先でも目にみえて上がり、彼はそれを信仰の「現証」と考え、会活動の正しさをいっそう確信したことだろう。
     池田はこのころのこととして、後にこう述べている。
    「私は、4年で重役だ。給料は、まもなく社長を抜いた。私は、当時で、20万円とっていた。社長は、4万8千円だ。(略)北条、森田、竜、原島、小泉、辻――全部、おごってあげたんだ」(昭和48年10月初旬、東京で、内部文書)
     池田が戸田のもとに勤めた最初は昭和24年1月の日本正学館であり、それからほぼ4年たった27年10月、彼はたしかに大蔵商事の取締役に就任している。昭和27年時、大人の理髪料金は高くて140円、大卒公務員初任給は5,000円に満たず、社長・和泉覚の4万8千円は昭和56年現在の約77万円に相当し、まずまずの高給だが、それにもまして池田の20万円は月給320万円程度にあたるとみられ、信じがたいほどの高額である。
     おそらく営業のこととて歩合給の割合が高く、「布団をはぐ」ほどに辣腕の営業マン池田は、少なくとも帳簿上は、それだけの働きをしたとみられる。
     昭和27年7月に入信したある会員は、当時の大蔵商事の営業ぶりをこう語っている。
    「入信とほぼ同じころ、戸田会長がお金を預かりたいといっていると聞き、30万円を投資した。当時、毎月4、5千円の金利を文京支部の男子部部隊長・吉田顕之助が昼間カバンをさげてキチンキチンと届けてくれた。今思えば会員利用ということなのだろうが、当時は信心に夢中で、折伏の棟梁である戸田会長がいるかぎり、踏み倒されることはないと信じきっていた。
     1年間ぐらい預けただろうか、記憶がはっきりしないが、ともかく向こうから精算したいといって来、元金をちゃんと受け取ることができた。会社自体に力がついてきたのだろうと思った」
     大蔵商事は25年の設立時と比べれば、ウソのように業績は好転し、池田への驚くべき高給も全額支払われたかはともかくとして、ほどほどの高給を支払えるほどに基盤は安定していた。池田はその高給をバックに、原島宏治や北条など、彼より信仰上、もしくは年齢的に先輩にあたる会幹部に対して「おごってあげた」のである。
     池田はまた当時の彼の懐ぐあいについて、次のようにも語っている。
    「S(昭和)26〜7年、戸田先生の事業が大変だった時、私は自分で200万円、当時の金でだよ――寄付したんです。陰で支えていたのです。戸田先生、焦っていらした。全体会議で労働組合つくるならつくれ!といわれた」(昭和50年5月1日、萩寮・東家での懇談、内部文書)
    「戸田先生の時代に26,7歳の時3年かかって稼いだ歩合のお金、私の貰い分が当時の金で200万、今の金にすると数千万円になるな。それで先生の借金をかえしたが、戸田先生は少しも有難うなんて言わない」(松本勝弥『池田大作言行録』昭和44年6月1日の条)
    『言行録』中には池田が「26、7歳の時」とあるが、これは昭和29〜30年にあたり、前に引いた萩寮での「26〜7年」に合わない。おそらく「26、7年の時」の誤りであろう。両資料は同一のことをいってい、昭和26、7年のことと解される。
     戸田は会長就任後、「信心利用」によって大蔵商事の社業を順調に発展させていたが、彼には東京建設信用組合時の負債(1,500万円)が残されていた。その三割返済による清算は昭和27年に行われ、池田の200万円云々は、その支払いにあてられた、未払い分の歩合給の棒引きを意味しよう。
     ともかく池田は未払い分を含めた数字ではあろうが、20万円という高給をもって、ひとしなみに貧乏な時代の同僚や先輩の幹部会員に臨めた。酒を飲めぬ池田の「おごり」が食事程度だったとしても、「池田はみえっぱりだから、どこへ行っても金は出しました」という当時の青年幹部の証言もあり、彼の金が後の会長就任のための多数派工作に有効に作用しただろうことは、想像に難くない。
     12月、池田は無試験で助教授となった。このとき、牛田、石田は教授、竜、森田、北条は助教授となっている。
     27年暮れの第七回総会で創価学会の公称世帯数は22,300、翌28年の折伏目標は5万世帯と発表された。会員は、戸田の会長就任から1年7ヵ月で7倍になった計算だが、このころから戸田の健康は損われはじめていた。


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  • from: 22世紀さん

    2011/07/06 20:44:59

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    池田大作「権力者」の構造

    地方宗教法人「創価学会」の成立

     5月18日、男子部の組織が整備拡大され、隊の下に新しく分隊が設けられた。2月に設置されていた参謀部は、男子部長の下に直属し、主任参謀・石田次男は教育参謀を兼ね、竜年光は作戦参謀、池田は情報参謀と割り振られた。また第一から第4までの部隊長の下にも幹部室(幹部長と教育、作戦、内務の各幹部)が設けられ、池田は第4部隊長・竜直属の幹部長兼教育幹部でもあった。
     参謀部が男子部全体の運営事項を決定し、幹部室が部隊活動の細目を決め、実際活動を班―隊―分隊が推進するという戸田の構想であった。他宗に対しても、それまでの各部隊バラバラの攻撃を改め、男子部長と参謀部で目標を定め、情報収集、作戦研究、準備を行ったうえ、四部隊がいっせいに攻撃することになった。
     十ヵ月前、187名だった男子部員はここにきて四部隊、二十六班、三十隊、百二十四分隊、総計811名にふくれ上がっていた。会員増による初期入信者の自然的な地位上昇という恩典も、池田の出世を加速する大きな要因であった。
     前年、戸田は宗教法人法による宗教法人として創価学会を東京都に届け出ていたが、8月、都知事の認証を得、9月8日、日蓮正宗から独立した地方(東京)宗教法人として成立させた。
     宗教法人創価学会の当初の役員は、同会の規則(『聖教新聞』昭和27年6月20日発表)附則によれば、会長は戸田城聖、理事は和泉覚、柏原ヤス、小泉隆、原島宏治、辻武寿、馬場勝種、森田悌二、神尾武雄の8名であり、神尾を除けば、戸田の会長就任時の理事と順序こそちがえ、同様メンバーであった(神尾は法人設立を機に、6月17日、理事に任命されている)。
     同会規則は第三条で法人の目的を定め、
    「この法人は日蓮大聖人の一閻浮堤総与の大曼陀羅を本尊とし、日蓮正宗の教義を広め、儀式行事を行い、会員を育成教化する為め業務及び其他の事業を行うことを目的とする」
     と、していた。戸田はまだ政界への進出を意図せず、池田会長時の規則にあった「王仏冥合の大理想実現のため」という一句はここにない。
     また第五条、第七条、附則は代表役員(会長)を規定し、9人の責任役員(理事)のうちから一人を互選によって代表役員とし、会長の任期は二ヵ年とすると定めていた。同じく池田会長時の「代表役員は会長をもって充てる」「会長の任期は終身とする」「後任の会長は現在の会長が予め定められたものをもって充てる」等に較べ、より民主的な規則だったといえよう。
     10月4日、三鷹警察署に招かれ、同署講堂で創価学会の講演会が開かれた。池田は戸田、神尾武雄、石田次男、竜年光とならび、大蔵商事取締役兼営業部長の肩書で日蓮宗概論を論じた。



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  • from: 22世紀さん

    2011/07/06 20:43:29

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    池田大作「権力者」の構造

    結婚とその価値

     5月3日、池田は戦前からの会員である白木薫次の二女・かね(当時20歳、池田24歳)と恋愛結婚した。媒酌は会理事、蒲田支部長の小泉隆が行った。
     これに先立ち、『聖教新聞』(昭和27年3月10日)は彼らの婚約をこう報じた。
    「池田大作君と白木かねさんの婚約が発表された、媒酌は飛躍を続ける大支部蒲田の総帥、小泉隆理事、5月3日の意義深い日に婚礼の式を挙げる。
     池田君と白木さんは蒲田支部内で前々から相思の仲であり、戸田先生は深い思いやりから2月に直直両家と話合われ、きわめて順当に話は決定を見た。
     ・・・・・ホープとして池田君の姿が大きくクローズアップされる、数年間戸田先生に忠実に御仕えし、朝から夜迄縦横に全東京を駆けている姿は実にたくましい、苦難の(昭和)25年も先生の陰の一人として戦い抜いて来た、この多忙の中に朝十分程の五大部の受講をすでに中ばを過ぎんとしている。青年部では作戦参謀として四部隊統合の重要な舵取りである。
     早くから家庭的に独立して戦って来た同君はこゝに内助の良夫人を得て更に力を増すであろう。同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君おめでとう。
     新婦白木かねさんの一家は学会屈指の強信の一族である。水の如く続いた信心の力は実に大きい、戦時中から戦い切って来た数少ない同家はお父さん薫次氏は矢口地区部長として大蒲田に欠くべからざる人、お母さんは蒲田の婦人部長として実に清らかな信心の人であり、この御両親のもと母親似のかねさんは実に人のめんどうが良い、池田君の内助の人として無上の縁であろう。
     学会の青年(女子)部では森田部隊の班長として随一の成績を挙げ、教学部では真剣に御書の研究に励む彼女はまた真の強固な内面を持っている」
     白木薫次は中央区の小網町の砂糖取引会社・井筒商会の常務で、二年後には再版された『御書』を、個人最高部数の二百部申し込み、創価学会の理事に就任する学会有力者だった。またその甥にあたる白木義一郎は阪急の投手で、この年一月、大阪への移転にともない、関西に創価学会を移植し、31年以来参議院議員をつとめるエリートである。
      池田には24年後、新婚当時と、その少し前を回想した語録がある。池田の人間性の一面と当時の生活ぶりを示すものとして、長くなるが掲げておく。
    「新婚当時、賞与を全部すられたことがあった。電車の中でやられたと思うが、帰宅して賞与をもらったよ、ポケットに手を突っ込んだらなかった。でも、うちのは(奥さん)案外ケロリとしていた。
     一番困ったのは、下宿していた時代に信心を理由に追い出された時だ。家賃は350円だったが、石田次男、秋谷、中西たちも来た。大森駅から歩いて20分かかった。道路の真ん中を下駄をはいて歩いたものだ。
     ようやくにして次の下宿先を見つけたが、蚊が多くて閉口した。北向きの一番小さい四畳半の部屋だった。自分のところだけはカヤがない。そのために他の部屋の蚊が全部集ってきたのには困った。御本尊を拝むと隣の部屋から、うるさいと怒鳴られカベをたたかれた。
     二年目の9月ごろ、はじめて蚊取り線香があることを知った。ふとんは一年間ぐらい敷き放しだった。カギも開け放し。どうせ何もないから盗られないと思っていた。
     ある時、蚊取り線香をつけ放しで寝てしまった。夢の中で太陽がこうこうと輝き、とても温かい気持ちになった。ふと目がさめると、机の上にジカに置いた蚊取り線香が、机に燃え移り、煙が部屋中に満ちていた。あわてて消しとめてことなきを得たが、じつは蚊取り線香の扱い方を知らなかったために起きたボヤだった。
     滝の夢を見た。二月の寒い最中だった。滝のしつ゛くがかかって冷たくてしようがない。目をさましたら天井から水がたれていた。二階の人が水道を出し放しにして外出したのであふれて落ちてきたことが分った。お蔭で一つしかないふとんも台無しになった。
     また、こんなこともあった。アパートの便所へ入っていたら外からカギをかけられてしまった。(だれかが間違ってかけた。)そんな時にかぎって誰も通らない。
    弱っていたら、外を結婚する前の女房が会合の連絡か何かでやってくるのが見えた。それで窓から大声を出してあけてくれと頼んだら、びっくりしていた」(昭和51年3月23日、内部文書)
     池田には庶民の出自として親しめる一面があるが、彼はその権力の肥大化とともに、「若き日」を語らず、語ったとしてもひと理屈つけて自己の偉大さを証するためにだけ語るようになる。本語録はまれな例である。
     男子部幹部の池田のライバルたちは、それぞれ戸田の肝煎りで女子部の幹部を伴侶に選んでいた。たとえば石田次男は女子部長・小島栄子と、森田一哉は第五部隊長・高島秀子と、北条浩は第三部隊長・坂本弘子と結婚した。
     白木かねは二月の青年部男女合同研究発表会で、「霊魂論の誤っているわけ」を五分間論じ、十点満点で5.6点を得るなど、女子部の活動分子ではあったが、幹部とはいえなかった。彼女の強みはもっぱら血族に会内エリートを持つ点にあり、池田はそのような娘を配偶者に選んだ。それは青年部幹部同士の結婚に較べて、次期会長をめざす池田の野心にふさわしいものであった。
     かねはまた、高校卒業後、住友銀行に勤めるBG(ビジネス・ガール)だったが、池田によれば、「くったくのない御嬢さん育ち」だという。現在、彼女の名は池田の太作から大作のようには正式に改名されていないが、活字で登場する際には香峯子と変えられている。
     結婚後、池田は目黒の借家で三ヵ月ほど暮らし、9月、大森・山王の二間のアパート秀山荘に移った。戸田は池田の月給を一万円ほど上げ、時に小遣いを与えたという(央、『池田大作論』)。


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  • from: 21世紀さん

    2011/07/06 19:47:04

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    本山での神札指導

    --------------------------------------------------------------------------------

    【富士宗学要集】


    (左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした、が心中には次の様に考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神国だ、神風が吹く、1億一心となつて神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆う者があると、国賊だ、非国民だといつて、特高警察や憲兵のつけねらう所となつた、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的であつて、信仰祈願すべきではないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた。(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

    -----------------------
    「会長の応急策」こそは、会員に対し、神札を粗末に扱わなうよう指導する通牒だったのである。学会は、神札受取を勧めた当事者の1人である日亨上人がウソをついているというのか。まことに不知恩の極みである。


    ************************************************************
     『慧妙』(平成5年6月1日付)は、『富士宗学要集』(堀日亨上人編)第9巻に、「18年6月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた牧口会長は、その場では暫く柔らかにお受した」と記されていることを取り上げ、あたかも創価学会側が、宗門の指示する神札甘受を認めたかのように記している。
     しかも、この『富士宗学要集』第9巻の文について、「左の一編は小平芳平氏の記に依る」と『富士宗学要集』に書かれていることをもって、これを創価学会の公式見解であると解釈している。根拠は、小平氏が本稿執筆当時に創価学会教学部長であったということになる。
     たしかに小平氏は、創価学会を代表して「昭和度」の法難史を記したものであろうが、『富士宗学要集』の編者が日亨上人であることから、編者への遠慮があったものと思われる。日亨上人は昭和18年6月、神札甘受についての宗門より創価教育学会への申し渡しに立ち会われている。
     そして、いわずもがなのことであるが、宗門の戦中の罪をかばって創価学会側が露骨な表現を避けたと考えられる。(『地涌』第667号)
    ------------------------------------------------------------
    ◆『富士宗学要集』第9巻は、昭和32年10月10日発刊である。(『地涌』第667号)
    -----------------------
    『富士宗学要集』第9巻は昭和32年10月10日の発刊であり、翌月に日亨上人は御遷化なされた。つまり、既に戸田会長が『創価学会の歴史と確信』(昭和26年)で"神札拒否"や"登山停止"について、公式に言及した後のことである。あたかも、学会の"公式の歴史"の誤りを糾すかのように、歴史の生き証人の1人として日亨上人は、信徒団体・創価学会をも含む日蓮正宗の宗学書(しかも学会の発行)に、"創価学会による神札受容"を歴史的事実として、永遠に記載したのである。

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  • from: 21世紀さん

    2011/07/05 22:17:11

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    宗門を悩ませた牧口会長の独善性

    --------------------------------------------------------------------------------
    ―自ら宗門を離れた歴史は明らか―

    (『慧妙』H6?)

    『新報』(8月3日付)は、渡辺日容(慈海)尊能化著『日恭上人の御師範』を基に、次のように述べている。

    ************************************************************
     昭和18年2月のこと、日蓮正宗の当時庶務部長であった渡辺慈海氏のもとに静岡県富士地区特高課から呼び出しの電話があった。渡辺氏が署へ出頭してみると、幸いにもその特高課の課長は同氏の旧友であった。その課長は渡辺氏に「静岡県庁特高課で聞いたことだが、日蓮正宗に不敬罪の嫌疑がかけられており近く手入があるらしいぞ」と注意した。
     渡辺慈海氏はさあ一大事だと、当時の鈴木日恭法主に報告。そして法主の命で上京した。時の官界権威者(元内閣書記官長)であり数年前から正宗信徒になっていたE氏に頼んで警視庁へ事の真偽を照会してもらうためである。E氏は警視庁の官房主事A氏に万事、手配をした。渡辺氏が車をとばし、警視庁を訪ねると、A氏への直々の面会を許可された。A氏は渡辺氏から委細を聞くと、同庁内の第2特高課長を呼び出し、真相を質(ただ)した。
     はたせるかな、日蓮正宗の不敬問題は調査中であった。大石寺信者である創価教育学会々員末梢(まっしょう)の人の苛烈な他宗破折や神道攻撃、公衆の面前での神札破棄などの行動に"不敬"があるとして、これらが告訴されたことによるものであった。そのために学会本部や大石寺管長の取り調べ、全国4、5ヵ所に司直の手が入ることになっていることが明瞭になった。
     そこで渡辺氏は第2特高課長に、学会と正宗の関係を説明し、「会員のなかに脱線的な分野もあって苛烈な折伏をすることは日蓮正宗の本山が直接知らないことであり、また正宗の純信者や末寺には不敬の行為は絶対にない」と力説した。そこへ官房主事A氏から「日蓮正宗本体が不敬でもなさそうだ。ここにはE閣下など多数の信者もあることじゃ、一部反対者の告訴のみで、戦時中管長召喚など穏かでないよ、本山の動揺のみか日本の問題だから、根拠も薄弱のようだ、君やめといたほらがよいよ」と口添があった。警視庁官房主事に言われて、さすがの第2特高課長も平身低頭、その場で卓上電話をとって静岡県庁特高課へ取消命令を下した--。(『新報』)
    -----------------------
    渡辺氏は"不敬"行為をやめない学会員は「日蓮正宗の純信者」ではないかのごとくいい、学会の熱心な折伏は「日蓮正宗の本山が直接知らないこと」であるといって、学会の行動と日蓮正宗本体との関わりを完全に否定している。そこには、自らに火の粉がふりかかるのを恐れる自己保身の体質が歴然である(『新報』)
    ------------------------------------------------------------
     どうやら学会は、自らを「謗法厳誡にして神札を峻拒(しゅんきょ)した健気(けなげ)な信徒団体」であるとする妄想から、いまだに抜けきれておらぬようだが、実際は、当時の学会は、けっして「純信者」などとは言い切れない状態だったのである。
     直達講(講頭・三谷素啓氏、牧口氏も同講に所属していた)の副講頭であった竹尾清澄氏は、当時の牧口氏の信仰を次のように記している。
     「牧口氏は(中略)利善美の理論などを説き、畑毛を中心に左右の山地を取り入れた一大仏都建設の構想などを述べていたそうであるが、是は全く日蓮正宗を無視する異流と云わざるを得ない。牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いような所が見られた。」
     こうした「日蓮正宗を無視する異流」の信仰を持つ牧口氏であったが故に、「この日本の大戦争を勝たせるためには、どうしても広宣流布しなければ勝てっこはない。まずこの時こそ、天皇陛下が自ら目覚められて、尊い御本尊を拝まなくてはならん」(妙悟空著『人間革命』)と、戦争勝利のための信仰を主張するようになるのである(本紙第17号参照)。
     そして、その主張・行動の延長が、「脱線的な」「苛烈(かれつ)な折伏」を引き起こすのである。
     事実、昭和18年6月5日、東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決めつけたため、怒った相手から訴えられる、という事件が起き、これを契機(けいき)に学会弾圧が始まっている。この模様は『富士宗学要集』第9巻にも記録されており、小平芳平・元教学部長自身が、かかる「脱線的な」行為を「行き過ぎ(罰論)」と表現しているのである。
     さらに、渡辺尊能化が「本山が直接知らないこと」とした事情は、前掲の竹尾氏の記録に明らかである。そこには、
     「牧口氏の所謂(いわゆる)不敬罪事件について、私は宗務当事者が特高課の追及を恐れ、また特高課が宗門の介入により事件の拡大するのを好まず、牧口氏だけの問題として処理する結果となったものと考えていた。(中略)牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰師のお話から感じられた。
     牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師(後の日淳上人)と議論し、『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は茲(ここ)で日運正宗と縁が切れ、(中略)この様な状勢の中で、天照太神に対する牧口氏の不敬事件は、個人の問題として取り扱われ」
    と記されている。
     すなわち創価教育学会は、牧口氏独自の異流義と、師に背く傲慢(ごうまん)な信仰態度によって、自ら宗門より離れていったのである。
     このような牧口氏の率いる学会が、「脱線的な」「行き過ぎ」た「苛烈な」布教を行なったとしても、「日蓮正宗の本山が直接知らないこと」として扱われることは、むしろ当然であった。
     なお、『新報』は、戦時中、「神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)論」を唱えた某師と日恭上人の間に交わされた往復文書中、日恭上人の第4信に、「宗祖を本地と云ひ、天照大神を垂迹などと云へば不敬に渡る事ゆえ、言ふべからざる事と存侯」とあるのを取り挙げて、「仏本神迹説は不敬となるから、今後は言わないことを明言している」と非難しているが、これは切り文である。
     その前段には、次のようにある。
     「是等(※仏本神迹論)は第一義の法門にして、世間悉檀(せけんしつだん)、所謂(いわゆる)日本の国体より君臣の義よりすれば、天照大神は御皇室の御先祖、日蓮聖人は御臣下に在(ましま)す故に宗祖を本地と云ひ、天照大神をし垂迹など云へば不敬に渡る故に…。」
     すなわち、当時の時局や人々の機を考えて、無用の反発を生むことのなきよう、第一義悉檀で「仏本神迹」を表にするのではなく、世間悉檀の上から衆生教化を目されていたことが明らかである。
     また、この往復書簡を通読すると、某師は日恭上人に、わざと「神本仏迹説は邪義」と言わせることに腐心していた形跡がうかがわれる。つまり、書簡は私信ではあっても、某師の裏には軍部が控えており、わずかでも不敬にあたる言説があれば、弾圧、ひいては宗門断絶の危険性があったということであり、日恭上人はこの罠(わな)にも似た策謀を、四悉檀を駆使して巧みにかわされているのである。
     こうした、日恭上人の筆舌に尽くせぬ御苦労があって、今日、我々が妙法を信受できるのであり、多くの民衆が成仏の境界を享受(きょうじゅ)できるのである。
     後年、2代会長戸田城聖氏は、某師に向かい、
     「あなたの神本仏迹論を、潔く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです」(『人間革命』第6巻)
    と呵責したそうだが、大法を護持しぬかれた日恭上人を誹謗する学会こそ、この呵責(かしゃく)を我が身に引き当て、真摯(しんし)に受けとめるべきであろう。

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  • from: 22世紀さん

    2011/07/05 19:57:50

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    池田大作「権力者」の構造

      参謀部の設置と狸祭り

     27年は日蓮の宗旨建立700年記念の年であった。
     2月9日、男子部に参謀部が設置され、池田は主任参謀・石田次男のもとで竜年光とならんで参謀に抜擢され、男子部の作戦、行動に関する司令センターの一員となった。
     そのため池田は竜部隊の班長を解かれて最前線から離脱したが、それは彼にとって幸いなことであった。彼の資質は対等の人間として一対一で渡りあうより、特定の立場を保持したうえで行動することになじむものがあった。彼は身をもってする折伏に決して得手ではなかった。
     「『折伏をしろ』っていうから、私は自分の友達を10人ぐらい呼んだのです。信心してから間もなくのことですよ。一生懸命いいました。御本尊様の話を。一度なんかは、会長先生がわざわざ、私のおよびした会合に出て下さったこともありました。しかし誰も信心しないのですよ。一生懸命やってもね。みな友達がはなれっちゃうんだよ」(『聖教新聞』昭和34年2月6日、池田談)
     一対一で行う折伏は、行うものの人間性がすぐれてあらわになる作業である。池田は一個の人間として未熟だったが、その資質は幹部として通用した。そういう池田に、追従と権威主義の混交を思わせる参謀業務はうってつけで、以後、彼は会長就任の一年前まで参謀畑を歩くことになる。
     参謀に任命されたとき、池田はその所感を次のように述べた。
    「仏法日本に渡って大聖人様出現迄702年、今大聖人様仏法を確立されてより700年、仏法に誤り無ければ必ずや後二年に何事かあらん。学会は仏意である。従って青年は広宣流布の大業を為せといはれて居る。之を行わなければ如何に恐ろしい事か。今後700年際に向い大闘争あらん」(『聖教新聞』昭和27年2月20日)
     ここにはすでに、幼稚な数へのフェティシズム、「学会は仏意である」といいきって疑わない確信、壮士風の気概等が表れている。池田はこのように語ることによって、さらに自らの創価学会に対する情意を昴めていった。
      参謀としての池田の、初の大仕事はほどなくやってきた。
     4月28日、大石寺で宗旨建立700年記念慶祝大法会が挙行された。その前日から戸田は創価学会員約4,000名を引き連れ、大石寺に乗り込んでいた。彼は単に式典に参加するだけでなく、その場を創価学会の力を誇示し、日蓮正宗支配の橋頭堡にしようと計画し、「狸祭り」といわれる暴力事件を敢行した。
     狸とは日蓮正宗の老僧・小笠原慈聞(おがさわらじぶん)をさした。
     小笠原は戦時中、日蓮正宗の身延への合同を策し、神本仏迹論(神が本体で仏はその影)を唱えていた。戸田は創価教育学会弾圧の発端は彼が作ったとし、その責任を問う形で彼をデモンストレーションの犠牲に供した。
     大法会に先立つ3月2日、戸田は青年部に小笠原糾弾を指示し、池田を含めて青年部幹部はその実行手筈を打ち合わせて行動部隊47人を選び、プラカード等を用意した。
     27日夜、行動部隊は大石寺内の僧坊をまわって小笠原を探し歩き、彼を寂日坊に見つけて謝罪を要求した。が、小笠原は反論して埒があかず、竜部隊は業をにやして彼をかつぎあげ、「いよいよ外え出んとした時池田君の知らせで戸田」も寂日坊にかけつけた(『聖教新聞』昭和27年5月10日)
     事件後、小笠原が発表した手記『創価学会戸田城聖己下団員暴行事件の顛末』によると、戸田は〝生意気いうな〟と小笠原の左耳の上と右横頭を強打し、行動部隊の多数も殴る蹴るの暴行を働き、彼の衣を脱がせてシャツ一枚にしたという。
     その後行動部隊は小笠原をかつぎあげ、筆頭理事・和泉覚の指揮で喊声をあげつつ、寺内の牧口常三郎の墓まで彼を運びこんだ。ここで小笠原を再び責めたてたあげく、用意した案文通りの謝罪文を彼に書かせた。この間、地元の消防団や村民が騒ぎを聞きつけて詰めかけ、暗夜の墓地で乱闘が始まり、墓石が倒れ、けが人が出た。
     戸田はその夜からただちに事件の収拾工作を行ったが、小笠原をまるめこむことは出来ず、小笠原は全国の日蓮正宗の末寺に創価学会を告発するパンフレットを送り、同会に牛耳られた総本山管長を告訴した。また警察も動き、戸田や和泉覚は勾留、取り調べを受けた。日蓮正宗側も事件を重視し、その宗会は、戸田の謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止を全会一致で決議した。
     戸田は早速、巻き返しに出、幹部に宗会議員を訪ねさせて各個撃破し、決議を事実上つぶした。池田も7月、文京区戸崎町の白蓮院を訪問し、全面取り消しを約束させている。戸田はまた本山には五重塔の修復を申し出て宗会決議の適用をまぬがれたうえ、宗務院の一部役員を小笠原抑え込みに動員した。さらに日蓮正宗信者で創価学会批判者の関戸了三の公表した文書によると、創価学会は総本山宗務院の役員を伊東温泉に招き、芸者をあげて接待したという。こうした戸田の根回しによる本山の圧力と30万円の慰謝料で、小笠原は否応なく手をうたされ、後には創価学会の資金援助で同会との争論を詫びる『日蓮正宗入門』を刊行するまでに懐柔された(「黒い〝鶴〟のタブー」、『赤旗』昭和45年5月1日、2日所載)。
     戸田は狸祭り事件によって本山内の創価学会反対派を畏怖させ、日蓮正宗内に同会の正統性と優越性をあざやかな駆け引きで示し、法主の権威を創価学会会長と一体化する道を開いた。


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  • from: 22世紀さん

    2011/07/04 20:23:34

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    創価学会関連サイトが妙観講に謝罪した深謀遠慮の裏側

     日蓮正宗の信徒団体である「妙観講」が、対立の続く創価学会の関連サイトを相手取って損害賠償請求を起こした。当然激しい応酬が予想されたのだが、サイト側は早々に「手打ち」を選んだという。一体、どんな事情があったのか。

     問題となったのは「ゴルゴとマリア」なる名前のサイト。先日から、以下のような文章が掲載されている。
    〈当ホームページにおいて、虚偽の事実もしくは何の裏付けもとれていない事柄を掲載したことにつき、(中略)深く謝罪するとともに、(中略)妙観講の名誉を毀損するような情報を公開しないことを確約いたします〉
     日蓮正宗の関係者が言う。
    「このサイトには、妙観講をはじめ創価学会と敵対する相手を中傷する内容の怪文書が片っ端から掲載されていました。妙観講がプロバイダに要請していた情報開示が昨年11月に認められ、サイト運営者の名が判明したのです」
     その正体は、創価学会の東京地区のさる幹部であった。妙観講は翌月、名誉を毀損されたとしてこの男性を相手取り、東京地裁に1160
    万円の損害賠償を求めて提訴したのだった。
    「中には数十年も前の怪文書もあり、その収集力は明らかに個人の域を超えていた。運営には学会が組織的に関与しているとみられていましたが、ほどなく被告の弁護士から和解の申し出があり、結局6月下旬、先方が謝罪文を掲載してサイトを閉鎖し、解決金を支払うという条件で和解が成立したのです」
     日頃、「仏敵」には容赦のない創価学会らしからぬ〝物分かりのよさ〟ではないか。

    守りの姿勢

    「今回、被告側が早々に和解を申し入れてきたのには、2つの理由が考えられます」
     解説するのは、ジャーナリストの乙骨正生氏である。
    「まず、裁判で学会としての不法行為責任を問われることを懸念したのでしょう。過去にも妙観講に対する中傷ビラが撒かれたことがありましたが、08年には東京高裁判決で『創価学会のいずれかの組織を構成する相当多数の学会員がその意思を通じて関与していたものと推認することができる』と指摘されています」
     02年には、NTTドコモの通信記録が不正に引き出される事件が発生。07年の一審判決では学会幹部の関与が認定されている。
    「こうした流れの中、さらに今回も関与が認められれば、『なぜこんな反社会的な団体が宗教法人として税制上の優遇を受けられるのか』という議論が必ず起こります。そのリスクを減らすためにも、和解できるケースは早く終わらせるというのが学会の本音だと思います」
     さらなる重大要因として、
    「背後には、名誉会長の健康問題があります。かりに『Xデー』ともなれば、内部が大混乱に陥るのは必定。権力闘争はもちろん、争いに敗れた人間が告発者となって大量に外に出る可能性もある。そうした事態を想定し、敵対集団をなるべく刺激しないよう、保身に走っているのだと思います」
     創価学会広報室は、
    「当会は(今回の裁判自体を)承知しておりません」
     と、あくまで関係を否定。その深謀遠慮は、まるで虹の彼方にまで及びそうな不気味さを帯びているのだ。

    『週刊新潮』平成23年7月7日号


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  • from: 21世紀さん

    2011/07/04 15:00:31

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    日達上人や日顕上人も52年路線当時は、池田大作や学会を厳しく糾弾されていた。しかし、池田が反省懺悔してからは、学会を擁護され、過分とも思えるほどの評価を与えられている。つまり、ある時点で正の評価があったことをもって、過去に負の実態がなかったことの証拠とはならないのである。


    <日淳上人誹謗>
    ●(※第59世堀日亨上人から伺(うかが)ったこととして)牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著『畑毛日記』/『慧妙』H18.3.1)

    ◆「過去十年来の結果に於て創価教育学会の信仰指導には何等の弊害はなかつた。但し将来は弊害がありそうである。」とは堀米尊師が昭和十七年十一月十六日、学会本部に於ける幹部十数人の面前に、数回の押問答の末に、漸く断言されたものである。
     従来本会の指導に対して多少の非難誹謗をするものがあつたらしく、又大した好感も持たれぬ様子であり、新しい信者が学会員の折伏によつて続々入信するのに対して、未だ曾つて一言の注意も、忠言も、はた感謝の辞も聞いたこともなかつた上で、斯かる断言を聞いたのは吾等の無上の安心とする所である。「愚人にほめられたるは第一の恥なり」といふ宗祖大聖人の仰をかしこむ吾々は、これこそ日蓮正宗の法義を正しく実践しようと念願して来られた結果と思へぱ、将来はともかく、今までのみではこれ以上の満足はないとするのである。(『大善生活実証録-第5回総会報告-』/『牧口常三郎全集』第10巻180頁)
    -----------------------
    日淳上人は「創価教育学会の信仰指導」について「将来は弊害がありそうである」と「断言」された。これに対し牧口会長は「愚人にほめられたるは第一の恥なり」という御書を引用して「斯かる断言を聞いたのは吾等の無上の安心とする所である」とまで言っている。まるで日淳上人が「愚人」であるかのような言い草であり、増上慢としか言いようが無い。これは、当時の牧口会長が日淳上人を快く思っていなかった証拠である。


    <戸田会長の懺悔>
    1●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)

    ●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
    -----------------------
    会話内容から考えて、上記『人間革命』での堀米尊師(日淳上人)との再開の場面と同じときのものであろう。


    <戸田会長の牧口観>
    ●彼(戸田)の活動が、実は空転していたとさえ思えてならない。彼はまだよい。先師牧口にいたってはまったくの空転に終わったとさえ、時に思われた。彼の反省は深かった。(『人間革命』第5巻「随喜」の章)
    -----------------------
    独りよがりの「謗法厳戒」で、組織を空転させてしまった罪は大きい。

    ●〔野島〕「あなたは真木(※牧口)先生の1番弟子であり、私も第何番目かの弟子の1人である。弟子として、私は真木先生の教えを忠実に守っていきたいし、また学会の正しい発展を願うことでは、敢えて人後に落ちない熱意を持っているつもりである。ところで先頃の学会の検挙のことを、あなたは一体どういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大し、あんなに長引き、そのあげくに、真木先生の獄死ということになったのでしょうか。これについて、あなたは反省してみたことがありますか。(中略)
    〔戸田〕それは2通りに考えられると思いますよ。その一応は、学会が発迹顕本の時になっていたのだということ。それからもう1つ、二応としては、真木先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように扱ったということ、御書に摧尊入卑という言葉がありまして、その摧尊入卑の罰とか罪とかいう言葉はないが、つまりそれに当たるのだと思う。学会の行き方としては、価値論から法華経へ、法華経から御本尊へというのでなければならないと思いますね」(野島辰次=牧口門下で創価教育学会の理事を務めていた『我が心の遍歴』/『慧妙』H15.2.16)

    2●牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味を帯びてくる。さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇に入ることになってしまう。-ここに摧尊入卑のきらいが影となって射して来るようだ。戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。 彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。・・・しかし、大聖人の大生命哲学からするならば、時に「九重の劣」とすら思えた(『人間革命』第1巻)
    ----------------------
    戸田理事長は、2代会長として学会再建に着手したが、まず牧口氏の根本的誤りを払拭すること(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷付けることなく、むしろ顕彰しながら行なう)に心を砕いた。その事実は、若かりし頃の池田大作が、迂闊にも『人間革命』第1巻の中に、次のように(2●)描写してしまったことからも明らかである。(『慧妙』)

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