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  • from: 21世紀さん

    2011年06月26日 19時34分19秒

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    牧口常三郎の実像

    牧口常三郎関連年表------------------------------------------------------------------

    牧口常三郎関連年表

    --------------------------------------------------------------------------------

    <明治36年> 『人生地理学』を発刊
    ●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
    -----------------------
    しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。


    <大正1年>
    ●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
    -----------------------
    この国家観は入信後も変わらなかったようである。


    <大正3年頃> 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
    [画像]:大日本皇道立教会のメンバー


    <大正5年> 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
    ●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)


    <昭和3年>
    ・6月 東京・常在寺所属の信徒で直達講講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信

    ・秋 後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信(『慧妙』H18.3.1)
    ●(牧口氏入信の動機について)貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう(柳田国男著『牧口君入信の動機』/『慧妙』H18.3.1)


    <昭和5年>
    ・11月 「創価教育学会」の名で『創価教育学大系』第1巻を発刊(この日が後に"学会創立の日"とコジツケられた)


    <昭和6年>
    ●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

    ・3月 『創価教育学大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表
    ◆百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです(牧口常三郎『獄中書簡』/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
     すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
     これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
     結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。(『慧妙』H18.3.1)


     さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
     これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮(※住職は堀米泰栄尊師=後の第65世日淳上人)を事実上の所属寺院とするようになりました。(『慧妙』H18.3.1)


    <昭和12年>
    ・夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

     昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。
     それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証言)。
     実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。
     この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。

    ●牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。(『慧妙』H18.3.1)

    ●本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗であります。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。(『慧妙』H18.3.1)


    <昭和16年>
    ・11月
    ●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)


    <昭和17年>
    ・1月
    ●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

    ・5月 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

    ・5月17日 創価教育学会第4回総会

    ・11月 創価教育学会第5回総会


    <昭和18年>
    ・4月 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

    ・5月
    ●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

    ・6月
    ●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

    ・6月初旬 本山での神札指導
    ●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

    ・7月6日 牧口、逮捕
    ●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)


    <昭和19年>
    ・9月6日
    ●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    牧口会長による日淳上人誹謗を懺悔


    <昭和20年>
    ・7月5日
    ●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)

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    from: 21世紀さん

    2011年07月26日 07時17分57秒

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    「Re:牧口常三郎の実像」【「和泉ミヨさんの手帳」】創価学会員は今頃(H17)になって「和泉ミヨさんの手帳」なるものをインターネットの掲示板上で出して

    from: 21世紀さん

    2011年07月25日 12時53分37秒

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    「Re:牧口常三郎の実像」<転向>**********************************************************

  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時23分01秒

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    池田大作「権力者」の構造

    折伏大行進と大蔵商事の商法昭和26年5月、戸田は創価学会本部に常置する本尊の下賜を総本山に請願した。それはその請願書に、「一国大折伏の時機到来せり・・

     折伏大行進と大蔵商事の商法

    昭和26年5月、戸田は創価学会本部に常置する本尊の下賜を総本山に請願した。それはその請願書に、「一国大折伏の時機到来せり・・・・・大折伏大願成就の為の大御本尊」とあったように、同会の広宣流布という大目的の公然化と、それへの起請文にほかならなかった(またその請願は、同年4月公布施行された宗教法人法の宗教団体の定義に、「礼拝の施設を備える」という一句があり、それを字義通りに受けたうえでの、日蓮正宗から独立した宗教法人設立に向けての用意周到な布石をも兼ねていた)。
    戸田の号令一下、創価学会は折伏大行進の臨戦態勢下に入り、以後、暴力的といわれるまでの折伏が創価学会の常態になった。
    戸田の下ではすべてが組織伸張を基準に処断された。6月には10名近くを除名し、少し遅れて、前に理事長からおろした矢島周平を休養の名目で、さらに指導監査部長からもおろし、後任を柏原ヤスに兼任させた。27年4月、矢島は復帰がかなったものの、翌28年8月に出家して日蓮正宗の僧にならなければならなかった。
    池田は矢島について、「矢島さんは良い調子で派閥を作った。親の心、子知らずで、戸田先生の気持ち等全然わからず、良い調子になった」(『社長会記録』昭和43年4月29日)と語っているが、矢島自身は、「ひとくちにいえば、戸田さんに追い出されたんです。私は彼の教学に批判的だったし、事業のやり方にも反対だった。それをしばしば口にしたわけです。それが戸田さんには気に入らなかった」(『週刊ポスト』昭和53年9月22日号)としている。
    彼は昭和8(1933)年の長野県赤化教員事件で検挙された一人だったというが、昭和10年創価教育学会に入会、18年に牧口、戸田とともに検挙され、20年4月まで入獄という経歴が語るように強い意志を持つ草創期からの幹部だった。
    人事は原則として能力と実績だけで考課された。
    ふつう新興宗教では、選挙によらない非民主主義的な形態にもかかわらず、他教団との競争や分派発生防止のため、実力第一主義の人事が行われ、一般の社会のような学歴、顔、買収、追従などは通用しないとされる(高木宏夫『日本の新興宗教』)が、戸田の人事も、たとえば元子爵夫人・北条ツネ子に教学部の名誉教授を授け、その血族・北条浩の早い登用など、元華族の偏重を除けば、大約その例外ではなかった。
    池田の置かれた地位は、その当否はともかく、彼にとっては大いに満足すべきものであった。彼は最初から幹部候補生としてノミネートされていた。
     戸田の就任前には、池田は、一日の大部分の時間と精力とを大蔵商事の信用の確保と、新しい営業分野の開拓に費やし、「彼ひとり人知れぬ分野で孤軍奮闘し」(池田、前掲書)なければならなかったため、その会活動は皆無に等しく、「池田は〝退転〟したのではないか」と噂されるほどだったが、彼が日本正学館や東京建設信用組合の困難な業務に見せた努力は、戸田の心証をよくし、会活動にかわる経歴と考えられていた。
    そのころ池田は前に述べたように、蒲田支部の大森地区委員だったが、当時の戸田の池田評価は、「竜年光君、池田大作君・・・・・等は共に熱血をたぎらせて広宣流布の闘志として養成され邪宗折伏においての獅子吼は相手に一撃を加えずにはおかない」という聖教新聞(昭和26年5月1日)評とほぼ同一と見られ、池田は同支部幹部の竜年光の一ランク下ぐらいに位置つ゛けられていた。
    会員がまだ少なく、聖教新聞も同人連絡紙のおもかげを漂わす時代に零細企業で苦楽をともにしたという戸田へのコネを持つ池田は、きわめて有利な場所にいたといえよう。彼には、戸田の会長就任後一ヵ月で、さらにもう一つの有利さが加わった。
    6月、池田の勤める大蔵商事は新宿から市ヶ谷駅前の市ヶ谷ビルに移転した。戸田は翌年4月、同ビルの一室に創価学会の分室を設けたが、分室と称して差し支えないほどに西神田の創価学会本部と近く、池田の会活動には便利となった。
    また大蔵商事の社業好転も池田の活躍を助けてあまりあるものがあった。
     創価学会員の増加とともに、池田をしばり、苦しめ、彼のハンディキャップとなっていた戸田の事業は発展に向かい、昭和27年春には、戸田の7、8,000万円という借財は、三割返済を含んでいたものの、ともかく皆済されるほどであった。
     大蔵商事の営む不動産や保険代理業、高利貸し等は、いずれも顔と信用が物をいう業種であり、同社の最高顧問である戸田の背後に多数の信者が控えていることは、そのまま絶大な信用につながったし、また聖教新聞に「資金の融通は大蔵商事」と広告をうっていることからも、会員との取引が増大したことは十分察知される。
     大蔵商事の主業務は手形の割引であった。
    「割り引いてもらいたい者は創価学会支部長の紹介状をもらって朝9時までに大蔵商事に行く。商事では手形を預かり、3時にまた来いというわけだ。それから、目と鼻の先の三菱銀行市ヶ谷支店に運んで、銀行の手で振出し銀行に問い合わせ、ふるいにかけて2時に戻ってくる。割引率はふつう1割5分、3ヵ月手形なら4割5分を引く。一方、会員からは日歩15銭で運用してやると金を集めていた」(前出、瀬尾正吉談)
     池田はまた債務の取立てで「病人の寝ている布団をはぐ」こともしたといわれている。池田ののちの回顧「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どおしてこんないやな仕事をするのかと思った」(『社長会記録』昭和43年2月10日)が、その業務の非情さを裏つ゛けていよう。
     同社の繁昌は創価学会の隆盛に負うものであった。
     大蔵商事の発展は、それまでとは逆に池田の会活動を保証するものに変わった。社業がうまくいっている以上、戸田が他の事業家の誰よりも、創価学会員である部下の会活動に理解を示すのは見やすいところであり、その点、池田は他の青年男子部員の誰よりも、それ以上望みようがないほど恵まれた勤務環境にあったといえよう。
     さらに四六時中、戸田と顔をつきあわせている生活は、戸田の意向を汲み取ることを池田の得手にさせた。池田の追随的な事務家の能力は、戸田のアイデアを実行するうえに、ソツがなかった。




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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時21分38秒

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    池田大作「権力者」の構造

    第三章戸田城聖の番頭から創価学会の大幹部へ狂信者戸田の指導と組織力昭和26(1951)年5月3日、創価学会会長の地位についた戸田は、「私が生きている間

    第三章 戸田城聖の番頭から創価学会の大幹部へ

     狂信者戸田の指導と組織力

     昭和26(1951)年5月3日、創価学会会長の地位についた戸田は、「私が生きている間に75万世帯の折伏は私の手でいたします。・・・・・もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出して下さるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!」
     といったという(もっともこの75万世帯は、『聖教新聞』昭和27年5月10日では「断じて150万の世帯にならなければ」となっている。が、いずれにしろ戸田の死没寸前に達成されたとされる、その75万世帯は、一世帯一人としても、就任時の会員数約3,000名の250倍にあたる)。
     戸田の願望は大きかったが、彼はそれに見合うだけの、強信に基つ゛く使命感と能力とに欠けていなかった。彼にとっては、創価学会の強化と拡大だけが広宣流布に直結して、そのまま善であったから、会の拡大が彼にもたらすはずの莫大な利益を思って後ろめたさを感じるようなことは、まずもってなかった。会員増と彼の利益の一致は、「折伏大行進」への彼の声を大きくするものの、小さくする性質のものではない。
     戸田の強みはすべて、強信に負っていた。強信でこそ、彼は他の牧口門下生を圧倒し、彼らの会長就任反対の意向を無視、あるいは封殺して独裁体制を確立することができたし、また会員を折伏という会員獲得運動に臆面もなく、強制動員することができたのである。
     マックファーランドは、ホッファーの「運動は能弁な者によって開拓され、狂信者によって実体化され、行動者によって強化される」という言葉を創価学会の三代にあてはめ、戸田は狂信的な人間で、彼の指導と組織力のもとで創価学会は勢力が著しく伸びたとしている(内藤、杉本訳『神々のラッシュアワー』)。
     戸田の強信は、それによる儲けを忘れなかったとはいえ、たしかに狂信といって差し支えないものだったし、その指導力や組織力も、牧口に較べれば文句なく、また池田に較べればその創始性において、屹立するものであった。彼がいったという「ぼくが舞台を作っておく」(池田『人間革命』四)には、誰がいったかは別として、毛ほどの偽りもない。



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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時20分11秒

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    池田大作「権力者」の構造

    戸田城聖の破産と教団指導業への転進昭和25(1950)年6月、東京建設信用組合の預金払い戻しは急増し、7月に入ると取りつけまがいの騒ぎさえ起こった。焦

    戸田城聖の破産と教団指導業への転進

     昭和25(1950)年6月、東京建設信用組合の預金払い戻しは急増し、7月に入ると取りつけまがいの騒ぎさえ起こった。焦げつき債権の回収も、優良組合との合併策も思うにまかせず、払い戻し請求には、なりふりかまわぬ居留守と平謝りの一手しかなかった。
     同組合の被害者のひとりは、のちに戸田をインチキと激しく非難している。
    「昭和24年、当時戸田が西神田にある『東京建設信用組合』なるものの経営をしているとき、知人を通し゛て手形の割引きを依頼されました。まだ保全経済会などの事件も起きぬ前で、インフレの名残りで、高い利率にもそれほど不審も抱かず、手形の割引きを、4、5回したものです。
     また、その信用組合は定期預金なるものを作り、3ヵ月、6ヵ月満期の定期にも加入させられました。そのときすでに多額の貸付金コゲツキのため、四苦八苦の最中だとは、定期の満期の迫ったとき知ったのです。
     ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼鏡をタタミにすりつけて平身低頭『生きている限り、必ずこの戸田が誓って全額返済します』といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、2年後に彼の負債(1,500万円とか)は三割返済の決議により清算されました」(『週刊朝日』昭和31年9月2日号、読者投書)
     結局、事業家・戸田の論理は宗教家・戸田の論理とゴッチャになって、無い袖は振れぬだった。戸田のなめた苦しみは、他人に対して無責任で酷薄な言い抜けや一時しのぎを許す権利を授けたわけである。
     8月、東京建設信用組合は大蔵省から営業停止を命ぜられ、ここに戸田は事業家として致命的に敗れて組合法違反を問われ、また取り立てにからむ刑事事件をひきおこし、債権者からは告訴されることになった。そのため彼は創価学会理事長の職を辞任し、後任を矢島周平に譲って夏季講習会にも出られず、一時は城聖の名を城正と変え(佐木、小口『創価学会』)、雲がくれした。戸田の破産は多くの会員を動揺させ、彼に出資していた一部会員を離反させたばかりか、中には数十世帯を集めて分派を結成するものさえ現れてきた。
     戸田は刑事事件としていつ起訴されるかも知れない身であり、彼の妻は生活のために働きはじめ、池田は牧口門下の清算事務局長の下で、毎日を希望のない善後策に走りまわり、疲労しきっていた。
     池田はのちに当時をこう回想している。
    「昭和25年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜悪口を云った。(池田先生が)私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。25年の12月には、もう駄目かも知れぬと思った」
    「記者が玉の井で遊んだ時、その売娼婦が信用組合に金を出して損をした話をした。26万だまされたと話したので、それをネタにして乗り込んできた。一応、私が会って、その晩玉の井へ行った。遊郭へ行って、その女に会って話をした。あなたは若いのに真心がある、あなたが来てくれたのだから、その話はもうしないと約束してくれた」(いずれも『社長会記録』昭和43年4月29日)
     東京建設信用組合は春をひさぐしか生きられない底辺庶民の金さえ、結果的にはだましとったのだから、その瓦解が明らかになったとき、出資者たちの怒りが戸田や社員に集中したのは当然である。若い22歳の池田ならずとも、修羅場と感じる。
     《御本尊さまにこの苦しみだけは逃れさして下さい、という願いをして御題目を六十万遍唱えることにしました。逃れ(られ)なければやめようと思っていたのです。それが不思議にも百日過ぎて急によくなったのです。その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は三年だけです。信仰しなければ二十三くらいで死んだだろうといわれています。信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから六年経っていますが、ずっと順調で申し分のない幸を得ております》
     「この苦しみ」とは貧困や病弱、家族や友人からの信仰への反対も指そうが、中心は東京建設信用組合の事後処理問題であろう。池田は一切から閉ざされてもなお将来を賭けた戸田に、最大の苦悩を背負わされた。「逃れられなければやめようと思っていた」は、信用組合や信仰を、であろう。
     実際は、同僚はつぎつぎにやめ、池田としても苦しむために勤めるような気持にもなったにちがいない。のちに池田は「大半の人がいなくなり、私一人になった。その時、しめた! これで自分の人生は勝った! と思った」(昭和50年6月6日、第一回本部代表者会議で、内部文書)と述べているが、自らの先見性を証するための創作であり、「やめようと思った」が偽りのない気持ちだったろう。
     が、池田によれば、昭和26年1月下旬、信用組合は「大いに心配がなくなった。目鼻がついたので(戸田は)会長就任の決意を2月11日の誕生日になさった」(『社長会記録』昭和43年4月29日)という。
    「先生は事業を譲って」とあるのは、東京建設信用組合の清算事務を、牧口門下で戸田の事業仲間でもある会理事に委ねたこと、また25年秋、戸田は小口金融、不動産、保険代理業などを営む大蔵商事を設立したが、彼自らは世間をはばかってその顧問で控え、社長に会理事の和泉覚、専務理事に戸田の公認の妾である森重紀美子を立てた(由比、前掲書参照)ことの二つを指すものと思われる。
     池田が六十万遍の唱題を発心したのは、入信から満三年を経た25年晩秋のことであったが、唱題の当初は、相変わらず給料遅配で、その冬もオーバーをあきらめざるを得ないような実効性にとぼしいものであった。が、彼のいう「身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も」のうち、まず「社会的地位」が早くも彼にほほえんでくれた。
    「本日、営業部長に、昇格する。一、経済の勉強をいたすべき事、一、事業の発展に、責任を、一段と深くすべき事、一、学会の前進に、遅れざる事」(池田『若き日の日記から』11月27日)
     大蔵商事の社員は池田のほか、戸田の親戚二、三人にすぎなかったというから、「営業部長」は、およそ名刺上の箔つ゛けだけにとどまっていたにちがいない。事実、部長にともなう手当や給与の方も、翌28日を見ると、「今月で、三ヵ月給料遅配。本日、少々戴く。帰り、大森にて、シャツ等を購入。金、百六十円也」という情けない仕儀であった。
     大蔵商事は12月、新宿百人町に移転したが、その事務所が地肌のままの土間だったことに見合って、営業成績もいっこうに振るわなかった。が、22歳の池田は生まれてはじめて「長」を与えられ、大いに戸田への心証をよくしたと同時に、その妾にも仕える腰巾着の地位を、職制のうえで確立したのだった。
     池田が唱題を始めて、ほぼ「百日」後の26年2月ころから、効験はいよいよ実をともないはじめた。二月初旬、信用組合を解散してもよい、という大蔵省の内意が伝えられて3月11日、東京建設信用組合は正式に解散し、戸田への責任追及はひとまず解消した。
     戸田がどのような手段で法的制裁を免れたかは不明である。
     池田への真の救いは同じころ、戸田が、牧口以後長らく空席のままであった創価学会会長の地位につく意向を表明したことによってもたらされた。その時点で戸田に会長就任の決意をかためさせたものは、「ここに、不思議のことありて、大確信を得」(戸田『論文集』とある「不思議のこと」であり、その意味するところは、明らかに、彼には「ありがたい御本尊の功徳」と映じた、この信用組合の免責であった。それが立正佼成会(昭和35年に大日本立正交成会から改称)への敵対心と相乗して、ふいに戸田を会長に立たせたのである。
     立正佼成会は創価学会と同じく日蓮系で、法華経を重視し、また設立年月も昭和13年で、創価学会の設立と近接している。が、当時会員は約20万を数えて、3,000の創価学会とは雲泥の差であり、新興宗教中、最高の成長率と最大の教勢を誇っていた。
     佼成会は戸田にとって、教義上はもとより、いわば近親憎悪といった面でも敵であり、思いのたけをこめて打倒すべき邪宗以外の何ものでもなかった。
    「学会と立正佼成会は同じく正と邪の道を開き、しかも、いまだかれら邪宗をつぶすにいたらず。このまま便々としては、大御本尊様よりお叱りあることをおそる」(同前)
     が、佼成会に対する戸田の敵愾心には、一筋縄ではいかない、陰微な嫉視や競争心も混入していた。佼成会の発展は戸田には、なにより不正不当な、横取りされたような成功と感じられた。
    「学会再発足のとき、立正佼成会も同じく小さな教団として、やっと息をついていたのは、自分たちのよく知っているところである。しかるに、7ヵ年の時を経過して、かれは大なる教団となって邪教の臭気を世にばらまいている」(同前)
     規模もスタートも同じくして、一方は「邪教」の分際で大教団、一方は事業家として塗炭の苦しみ――この事実に戸田は事業上の挫折を天啓と見、また新事業を着想する視点をも得た。
     彼は信用組合が営業停止命令を受けたとき、「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこの世で、負けたのではない」といったという。確かに、再起不能なまでに信用も資金も失った戸田は、この世で負けたのではなかった。ふつうの事業であくせくする必要は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして「信者を30人集めれば食っていける勘定の、べラぼうに高収益のあがる商売」(大宅壮一)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への道はそれ以外になかった。
     戸田は早速会長着任をめざして布石を始め、まず会員間に会長推戴署名運動を起こさせ、3,000人の署名を集めた。戦前からの会員の一部は署名を拒否したが、戸田は歯牙にもかけなかった。ついで4月6日、支部をA級(1,000世帯以上)、B級(500世帯以上)、C級(500世帯以下)の3段階、12支部に格つ゛け、再編し、支部長を任命して組織再編成をはかった。また旬刊、ブランケット判二頁の『聖教新聞』の創刊にも着手し、編集主幹に入信まもない、芝浦工専卒の石田次男をあて、4月20日、第一号3,000部を刊行した。
     戸田はこれらの措置によって会長就任の花道をしつらえた後、5月3日、東京向島の常泉寺で行われた会長推戴式に臨んだ。
     式後、戸田は新組織機構と人事を発表した。筆頭理事に和泉覚、理事に柏原ヤス、森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治、辻武寿をあて、理事長は空席のままで、それまでの理事長・矢島周平をヒラの理事からも追い落とした。各部の部長は、指導監査に矢島、財務和泉、講義原島、指導柏原、婦人和泉みよ、青年辻、男子牛田寛、女子小島栄子、企画原島、秘書室石田次男という構成で、講義部の部員は教授―助教授―講師―助師の四段階にランクつ゛けされた。
     池田はただ講義部の最後尾の助師と、蒲田支部の大森地区委員に任命されたにすぎなかったが、それでも、創価学会の発展が即、池田の出世という位置にかろうじて連なっていた。ようやく池田に「順調で申し分のない幸」が訪れかかっていたのである。



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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時18分47秒

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    池田大作「権力者」の構造

    投機的強信者の弟子それほどまでに強く池田をとらえた戸田の人柄は、ざっくばらんに過ぎて人に面白がられはするものの、決して一般には尊敬をかち得られるもので

    投機的強信者の弟子

     それほどまでに強く池田をとらえた戸田の人柄は、ざっくばらんに過ぎて人に面白がられはするものの、決して一般には尊敬をかち得られるものではなかった。
     戸田は初代会長・牧口常三郎の法要の席で、牧口と対比して彼自身のひととなりを次のように語ったことがある。
    「わたくしと先生はまったく違う。先生は理論の面から、御本尊様を信じきっていた。わたくしは、功徳の面で信じている。わたくしはある体験から、ぜったいの功徳を信じ、日蓮正宗のために命をささげるものです。先生は謹厳そのもので、わたくしは世の中をふざけて生きている。先生は謹直で、わたくしはルーズだし、先生は目白に、わたくしは目黒に住んでいる。先生は非常な勉強家で、わたくしはさっぱり勉強せぬ。先生は飲まないし、わたくしは大酒飲みだ。これだけ、まったく正反対の性格でありながら、先生とわたくしは境地はピッタリ一致していた」(戸田『講演集』上、昭和27年11月)
     戸田の酒は、「29の年から44で牢屋に入るまで一晩もかかさず、出獄後今日まで一晩もかかさない。前は料理屋と待合で飲んだが、今は本部と自宅で飲む。量は今ではウイスキーのオールドびん一本が3日間」(週刊朝日』昭和31年7月29日号)というもので、酔って大石寺での会員質問会にも臨んだ。
     また「料理屋と待合で飲んだ」ことからもうかがえるように、戸田は女性に対しても発展家であった。
     夕張郡真谷地尋常小学校に奉職中には、複数の女性と恋愛し、「恋にもつれ、恋に狂いて、最も神聖なる教職を汚」(戸田『若き日の手記・獄中記』)した結果、その清算のために退職しなければならなかった。また戦前には三角関係を経験し(小口、前掲書)、当時も、戦前、彼の経営する会社の会計役であり、会員でもあった森重紀美子との関係をつつ゛け、彼女との間には子まであったようだ。森重は創価学会幹部間で公認されていた戸田の二号である(由比宏道『毒鼓の縁』)。
     戸田には己の弱所を口にして憚らない率直さはあったものの――おそらくそれは「この世に遊びにきた」(戸田『講演集』上)という彼の行動的、快楽主義的な空無観に通じる一種の達観と関連したものであり、そうした率直さの点では池田よりはるかに上だが――、内省的な深みはまったく欠けていた。
     彼は昭和31年、参院選で柏原ヤスが落選した挙げ句、多くの会員が選挙違反に問われた際には、「(官憲は)買収をしたのじゃないかと買収の証拠を探そうとしている。柏原参議院落選候補のオチンコを探すようなものだ。ワシは柏原だけはオチンコがないから、落ちんと思っていた」(『週刊朝日』前掲号)と野卑な駄洒落をとばしたりした。軽度のアルコール依存症患者は下界に対して上機嫌で円満な態度を持し、駄洒落を好むというが、戸田のこうした言葉はまさしくその症状と思われる。
     戸田にインタビューした大宅壮一は彼の印象を「如才がなく、ぬけめのなさそうなところは、小さな印刷屋や製本屋のオヤジ、でなければ、地方の小学校校長か役場の収入役といった感じである。・・・・・そういえば金貸しにもむきそうな面がまえである」(『婦人公論』昭和32年10月号)と記した。
     戸田の人相、風体、言動、著作物などいずれも聖性とは縁遠く、そのすべてに俗臭が立ちこめていた。池田はそのようなものの弟子であり、戸田から池田への進化はただ一つ、後者がスノビズムを身に付けたことだけであった。
     総じて生前の戸田を知る人々の戸田像は、もうけを片時も忘れることのない小事業家、「勝負」に生きがいを見出す投機的商人、はったりと大言壮語で人をけむにまく山師的性格、さばけた苦労人といったものであった(日隈、前掲書)。
     が、そのような戸田にも、戦前、当局の弾圧に「退転」しなかったことに典型的に見られる、強い力がひそんでいた。戸田を支えた力は、初めは牧口への敬愛の念だったろうが、後には日蓮正宗への強信と入れ替わった。彼の強信は、信仰のフィルターを通せば、その人柄を十分魅力的に、人物を尊敬に値するように見させたのだろうし、一見性格的に相容れそうもない池田をはじめ、多くの青年の心をつなぎ得たのだろう。
     池田は戸田のカバン持ちとして、信用組合の厄介な外交戦の第一線に、責任を負って立たされ、金や法、人や組織、インチキや嘘や脅しなど多くのものを学んだ。
    「毎日の目標をきちんと立てさせる。私も戸田先生から厳しくやられた。耐えられる人はいないね、窒息してしまう。今日はどこに行って何をどれだけやってくるのか。株も勉強させてもらった。二百万円位やらせてもらって二年で三十五万円位損をした」(池田の回想、『社長会記録』昭和46年7月27日)
     この実地教育が大世学院で教える課目以上に有用だったことはいうまでもない。池田は後に修羅場で学んだその知識や技能をおおいに創価学会の経営に役立てたし、また創価学会の成功により、その試練の期間を、池田の先見の明を表す証左ともしたのである。




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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時16分59秒

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    池田大作「権力者」の構造

    信仰の証としての労苦――池田の前時代的性格東京建設信用組合は、池田によれば、その年6月ころ戸田のもとに持ち込まれた東京建設信用購買利用組合を種目変更し

    信仰の証としての労苦――池田の前時代的性格

     東京建設信用組合は、池田によれば、その年6月ころ戸田のもとに持ち込まれた東京建設信用購買利用組合を種目変更したものであり、専務理事を務める戸田に一切の経営責任があった。それは、「およそ事業の基礎というものは、最後には金融資本の掌握が必要となってくることを、痛感していた」(池田『人間革命』四)という資本家・戸田の経営学の実践であった以上に、敗北につく゛敗北のなかでの、それ以外にしょうことのない戸田の窮余の一策であった。ドッジ・ラインの進行によるデフレ不況は、つくつ゛く金繰りさえつけばとの思いを戸田に強いたことだったろう。
     しかし、その場合、窮すれば通ずという格言は適用せず、同信用組合は正式発足後、一年ももたずに破産した。預金額が借り入れの申し込みに反し、思うようにのびなかったのだというが、戸田や日本正学館社員のにわか転用では、およそ能力に限りがあり、いきおい無理と知りつつ、あこぎな手口もとらざるを得なかったようだ。
     が、その結果は昭和24年暮れから翌々26年にかけて戸田も池田も債鬼に追われて困窮と過労の度を深めるというものであった。降って湧いた朝鮮特需による世の好況をよそに、戸田はウラボロとあだ名されたように裏地がボロボロの背広を着通さなければならなかったし、それでなくとも数少ない社員は半年以上も出ない給与に愛想をつかして、次々と去った。
     池田もまた50キロ以下にやせて頬がこけ、「お前の顔で、指にささったトゲが掘れる」と揶揄されたばかりか、24年秋、病弱を表むきの理由に、一年半通った大世学院を中退するはめになった。
    「体が悪かったのも中退の原因でしたが、本当のところ、戸田先生がやめろ、と言われたんです。“おれが教えてやるから十分だ”というのです」と、池田はのちに語っている(央忠邦『日本の潮流』)。
      以後、池田は日曜日ごとに、後には毎朝一時間ずつ、矢田俊隆『世界史』、熊谷幸次郎『日本史――概説と問題点』、鵜飼信成『憲法』、鈴木安蔵『政治学』、高田保馬『経済学原理』、ガモフ全集などを教材に戸田の教えを受けたとされている(草柳大蔵「"手つ゛くり人間"池田大作」、『文藝春秋』昭和44年9月号)。
    戸田が学校教材風のこれらすべてを実際に用いたかは疑問であり、また戸田の講義を受けたのは池田ばかりでなく、たとえば26年入信の秋谷城永(のちに、栄之助)も受講者の一人だった。「(秋谷は8:30から)9:00までの30分、かならず博学の戸田会長から雑談ふうの講義をきいた。池田現名誉会長も仲間であった」(『文芸朝日』昭和38年8月号)
     彼らは貧弱の中で、いっそう身を寄せ合い、時に叱られながらも、猥雑なまでに密着した。
    「『さあ、寝るか、伸(池田をさす)、ぼくの布団で一緒に寝ようよ』戸田は隣室の布団に入った」
    「幾度か 戦の庭に 起てる身の 捨てず持つは 君が太刀ぞよ」(戸田から池田への返歌という、いずれも池田『人間革命』四)
     池田にとって戸田とともにする労苦は信仰の危機ではなく、信仰の証だった。彼は、「この地を受けつぐだけでなく、天国をも受けつぐことを定められながら、今はおとなしい様子をしている王子である」(E・ホッファー『大衆運動』)と自分自身を考えていた。そういう池田にとっては、あと半年通えば卒業できた大世学院を断念させられようと、金銭的に恵まれなさ過ぎようと、戸田を見限るなどは論外であり、彼はひたすらマゾヒスティックな快感さえ覚えて、日々を試練として耐えつつ゛けた。一方、それは池田のいうとおり、使われるよりは仕える境地でもあり、彼の前時代的な作風が、自己犠牲をしのびやすくしたのも事実である。



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    2011年06月26日 21時27分07秒

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    池田大作「権力者」の構造

    日本正学館の破産《戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。14、5人の研究会の仲間からもやられました》家族は池田の創価学会入信に反

    日本正学館の破産

    《戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。14、5人の研究会の仲間からもやられました》
     家族は池田の創価学会入信に反対しつつ゛けたし、池田も四兄と同居の六畳間で朝晩、題目や経典をあげることをやめなかったから、両者の関係は当然、険悪であった。
     池田が文筆で立つ志望を持ち、五男であったかぎり、家と出版社とどちらを選ぶかは明白であった。また彼が世の荒波に揉まれて家や協友会の友人のもとに舞いもどり、おとなしく退転するには、それまで病・貧・争の苦しみに慣れすぎて免疫になっていたうえ、戸田の提供する体験の場が貧しいとはいえ、魅力的でありつつ゛けたのだろう。
     しかし、池田の別居には周囲の反対から逃れ、世に乗り出すという以上の積極的な意味がこめられていた。家族や友人からの離脱は、池田を否応なく戸田のもとに押しやり、もともと冷静な観察力に乏しく、対人関係に古風な一面をも残す池田をして戸田に、父なき世代にもかかわらず、父を見出せることになった。
     同年5月から池田は『冒険少年』の編集を手がけはじめ、原稿とりに野村胡堂や西条八十、挿絵画家などの家を訪ね、また時に山本紳一郎というペンネームで穴埋め記事を書いたという。
     そのころ、他の編集員・小平芳平らは前年までの『価値創造』にかわる創価学会の機関誌としての『大百蓮華』の編集にあたってい、戸田も自ら同誌の巻頭論文に「生命論」を寄稿した。
     シラミの話で始まる「生命論」は、生命とは過去、現在、未来の三世にわたって連続し、永遠に存在するもので宇宙自体が生命であるとの主張に尽き、せいぜい古代インドのウパニシャッド哲学以来の素朴な観念論のやきなおし(日隈、前掲書)にすぎないというしろものであったが、池田は当時の彼の感動として、「鮮烈な感動が、孤独に沈んでいた彼を、いきなり襲ってきた。彼はしばらく茫然としてしまった」と記すばかりか、現在の評価としても、「まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる宣言書」(池田『人間革命』四)など、思いつく限りの最大級の讃辞を連ねている。
      客観的にはどのように他愛のないものに感銘したのであれ、ほぼこの頃から池田は創価学会の教義に骨がらみからめとられたと見られる。人はまだ理解していないことにだけ絶対的な確信を持つことが出来るという定式からすれば、彼は「生命論」のつまらなさを理解せずに、信じこんだ訳であった。
     7月、『大百蓮華』創刊号が発刊された。月刊、B5判、32ページ、活版印刷で、謄写版の『価値創造』より立派な体裁ではあったが、創価学会の経済的負担をことごとく一人で賄ってきたという肝心な戸田の事業は悪化の度を深め、もはや機関誌どころではなくなっていた。
     日本正学館の敗北は誰の目にも明らかであった。同社の刊行物のうち、まず単行本の売れ行きが止まり、ついで『ルビー』『冒険少年』の二雑誌も返品が激増して採算点を割った。池田の担当する『冒険少年」は8月に『少年日本』と改題されたが、そのような細工では頽勢は改まらず、同年秋には返本率は7、8割に達し、月に数百万円からの赤字が累積して、ついには日本正学館全体で6,000万円に達したという。原稿料や画料の支払いの遅れはもちろん、出入りの紙屋や印刷屋は談じこみ、社員への給料は遅配した。
     池田が編集業務をおぼえる間もない10月、戸田は全社員を集めて一切の休刊(廃刊)と残務整理をいい渡し、かねて準備していた東京建設信用組合への社員の移行を明示した。信用組合の社屋は日本正学館のそれがそのままあてられ、浮き足だつ社員には分割で給料が支払われた。
     池田『若き日の日記から』(『週刊言論』昭和40年1月〜42年3月に断続的に連載)10月29日の条には、「六時、分割払いの給料を貰う。床屋にゆく。給料が安い、私も皆も大変だろう」とある。彼は念願の職場を否も応もなく奪われ、新しい職を押し付けられても、そこには低賃金、遅配、分割払いといったそれまでの「乞食同然」の生活から脱け出せる保証は一つとしてなかった。
     戸田の処置は時代相がどうであれ、経営者の無能力というより、無責任かつ残酷なものであり、宗教的紐帯なしには当然労働争議に発展している問題であった。池田も少なからず戸田に不満や怨みを抱いただろうが、それらの感情は発表時に手入れされたはずの『若き日の日記から』はうかがうべくもない。ただ、さすがの池田も休刊決定の夜には、座談会をさぼり、新橋で映画を見たという。





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  • from: 22世紀さん

    2011年06月26日 21時25分05秒

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    池田大作「権力者」の構造

    日本正学館の商法池田はさきにふれた通り、前年23年秋に小平芳平の推薦を受けて戸田へ履歴書を出し、日本正学館への入社を決めたが、同社の業績は、21年6月

    日本正学館の商法

     池田はさきにふれた通り、前年23年秋に小平芳平の推薦を受けて戸田へ履歴書を出し、日本正学館への入社を決めたが、同社の業績は、21年6月に謄写版刷りで再刊された「価値創造」が池田の入社内定とほぼ同時期、10月に第16号で停刊されたことにも見られるように、倒産寸前の状態にあった。
     20年8月、中学生相手の通信教授で営業開始した同社は、まず、その六ヵ月分前納という、堅実な営業を保証するはずの予約金制度が未曾有のインフレにかえって災いされて失敗した。前金内では日毎に騰貴する用紙代や印刷費をカバーしきれず、かといって予約金のたてまえ上、追加金もとれなかったのだという。ただこの通信教授により、いち早く紙と印刷のルートだけはつけられていた。
     そのため21年、戸田は単行本なら短期で捌けてインフレに強く、戦前、大道書房等から刊行した大衆小説の版権もあり、また売れ行きに関しては、刷れば売れるという時代で、なに一つ心配はないと考え、事業を単行本の出版に切りかえた。
     ことに戸田は、単行本切りかえの一環として、流行語の観を呈していた民主主義を早速稼業に結びつけ、『民主主義大講座』の刊行を企てた。責任編集者に室伏高信、今中次麿、加田哲二、堀真琴をあて、編集人員も強化し、編集長に矢島周平、編集員に小平芳平ほか数名を置いた。
     責任編集者の一人だった室伏は、のちに同講座とのつながりを回想している。当時の日本正学館の雰囲気と戸田の人柄をよく伝えていると思われ、長くなるが、次に引用する。
    「多分昭和21年であった。神田の西神田に一軒の小さい出版屋があった。日本正学館といった。その名もとっくに忘れていた。忘れるのがほんとうくらいの小さい、名もない、吹けばとぶような小出版社があった。戸田城聖がそこの社長であった。
     ここで『民主主義大講座』という十巻くらいのものを出版する計画があった。川瀬宏という友人の仲立ちで、わたしもその編集委員に名を連ねることになり、その中にいくつかの論文も書いている。
     そういう関係で、この出版社に、二度くらい行っている。株式会社となってはいたが、会社というのは名ばかりで、その実体は何かの商店の二階の一と間の借間会社だった。室の中に三つくらいの机があって、五、六人の社員がいた。二階に上がってゆくと戸田社長は手持ち無沙汰に、ポツネンと椅子にかけていた。
     その隅っこのほうに、一人の少年がいた。美少年でその礼儀正しさが、わたしの目をひきつけた。それが池田少年であったかどうかは、むろんわかっていない。・・・・・
     ところで、この小さい出版屋を訪れると、二度とも、戸田はわたしをうながして、梯子段を下り、裏口から小さい露地に出た。イタチのとおるくらいの小さい、陽の目を見ない露地だった。その突き当りに小さい一軒飲み屋が立っていた。立っていたというより蹲まるとか、しゃがむといったほうがぴったりする。そこに60がらみの老婆がいた。戸田の顔をみただけで徳利をもってきて、先生どうぞといった。古いおなじみだということが直ぐとわかった。先生ということばには尊敬も親しみもうかんでいた。しかし徳利一本きりで、あとをつつ゛けようともしなかったし、お酒の肴は何もそえてなかった。そのころ終戦後で、酒の事情も苦しかったせいもあろうが、戸田の懐事情がわかっていたからであろう。
     わたしはこの大講座にいくつかの論文を書いている。前に述べたとおりである。だから原稿料の問題で、戸田には債権債務の関係がある。わたしはそれがどうなったのかを、今は覚えていない。しかしその問題で、わざわざこの出版屋を二度も訪ねたとしたら、この間にすらすらいかないもののあったことはわかる。
     そのくらいの見すぼらしい出版屋であったと思う」(室伏、前掲書)
      この回想にもうかがえるが、通信教授にかわる単行本の出版も日本正学館の経営を安定させるには至らなかった。池田はその理由を、出版社の高い利益は再版によるが、再版の間に資材、印刷費が暴騰して初版と同じ定価では採算がとれず、また値上げしてなお売れる本も少なかったからとしている。
     23年、またしても戸田は、雑誌なら定価改訂でインフレに対応できようという、変わりばえしない思惑から、雑誌の発刊を決意し、雑誌を主、単行本を従とする経営に方針転換した。まず『冒険少年』を、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊し、池田によれば数カ月後には『冒険少年』十数万部、『ルビー』数万部を数えていたようだという。
     だが、昭和24年に入ると金融事情が逼迫したうえ、戦前からの大手出版社の本格的な回復が緒につき、乱立模様の小出版社が存続する余地は狭められていた。カストリ雑誌や仙花紙の時代は、復刊された『文藝春秋』『中央公論』『婦人公論』『オール読物』、創刊された『少年』や『婦人生活』に徐々にその席を譲りはじめ、そのような時点では、池田の日本正学館入社も、決して傍目にはよい就職口とはいえなかった。同社での池田の役目が、入社後しばらくは雑誌記者ではなく、彼のいうところの『小僧』だったことは、「会社の用事で、大八車を引いて銀座を歩いたこともある」(池田『勇気と確信と希望』)との一文からも、うなずかれる。たぶんそれは試用というより、小企業のため、手すきのものには何でもやらせたのだろうし、池田の健康も微熱が続く程度で、大八車を引くほどの労働には、どうやら耐え得たのだろう。
     このころ、彼は森ヶ埼の実家を出、大森・新井宿の青葉荘(二反長、前掲書)というアパートに一室を借り、一人住まいを始めた。それは通勤の便というより、家族との関係の悪化からであった。





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  • from: 21世紀さん

    2011年06月03日 21時17分48秒

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    無節操な理解者

    創価学会の教育論を市の教員研修に採用―京都市長選前教育長の門川氏――公明幹部明かす―(『しんぶん赤旗』H20.2.8)京都市長選に立候補している門川大

    創価学会の教育論を市の教員研修に採用
    ―京都市長選 前教育長の門川氏―
    ―公明幹部明かす―

    (『しんぶん赤旗』H20.2.8)

     京都市長選に立候補している門川大作氏=自民、公明、民主・社民両党府連推薦=が市教育長時代に、創価学会教育部の会合に何回も出席し、その意見を市の教員研修に採用していたことが、当事者の発言で明らかになりました。
     教育部は、創価学会文化本部に所属し、小中高校教員の学会員を統括する部門。元学会本部関係者によると「創価学会の教育理念を教育現場に普及するのが主な任務」です。教育長の立場で特定の宗教団体の正式な会議に出席し、教育行政に反映させたということは、憲法の政教分離原則にふれ、教育の公正・中立を侵害するものとして批判を浴びそうです。
     問題の発言が飛び出したのは、17日の投票日に向けて激しくたたかわれている京都市長選挙で、門川大作陣営の政談演説会(6日、公明党担当)でのことです。
     門川氏は、京都市の教育行政の最高責任者である教育長を出馬直前まで務めた公教育の責任者でした。
     この演説会で「(門川さんの)一番いいところは、(大作という)名前です」と、池田大作氏と同名であることを強調した竹内譲公明党府副代表は、門川氏が創価学会内部の教員の研修を「京都市の教師の研修に用いよということで採用された」と紹介しました。
     その後に演説に立った門川氏もこれを否定するどころか「(池田名誉会長の)完ぺきな言葉に私たちが進むべき道、しっかりと指し示していただいている」などとさらに力を込めました。
    ------------------------------------------------------------
    【政談演説会での発言から】
    ―竹内府副代表―
     「(門川氏は)創価学会の池田名誉会長、池田先生のですね、書かれた教育提言を…大変よく勉強されています。…創価学会が教育部というのがありまして…教育実践大会に門川さんもいつもこられてますし、じっと聞いてはるわけであります。そしてこれはすばらしいと、こういう体験に基づいた教育実践、方法、人の意見、体験を聞いて自らの、あるいは京都市のですね、この教師の研修に用いよ、ということで採用されたわけであります」

    ―門川氏―
     「人間教育実践、研究大会、発表大会、毎回、国際文化会館に寄せていただき(拍手)、関西大会は奈良でも滋賀県でも大阪でもありました。皆勤賞と言われたくらい(笑い、拍手)みなさんようきてくれはるなあとお礼いうてくれはる。とんでもない、私の、そこにほんまもんの教師がある。正義感に満ちた教師がおられる。そして素晴らしい実践されている。本当に胸が熱くなる。もう目頭が潤むようなことがいっぱいありました。私はあちこちで教員研修や全国を回っていろんな話をする時にその話を誇らしげに語らしていただき…同時に公明党創立者、池田大作名誉会長のお言葉、子どもにとって最大の教育環境は教師自身である。この言葉の深みを感じました。またいま子供の学び、育ちをめぐって様々な課題があります。本当に社会一丸となって取り組んでいかねばならん。その時にまた名誉会長の社会のための教育ではなしに教育のための社会でなければならない、この完璧な言葉に私たちが進むべき道、しっかりと指し示していただいているなとそんなことを痛感いたしました…私は『潮』を愛読させていただいています。公明新聞、聖教新聞、長らく読ませていただいております(拍手)。昭和39年に日大講堂で公明党の結党大会があった。その時に2本の垂れ幕が下がった。…ますます公明党の存在が輝いている」


    --------------------------------------------------------------------------------

    ■京都市長選 創価学会べったり候補

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    ―宗教界に驚きと憤り―
    ―宗教と共存のまちに許せぬ/公正中立の教育蝕む―

    (『しんぶん赤旗』H20.2.15)

     17日投票の京都市長選挙で、現市政の「継承」をねらい、自民、公明、民主などが推す門川大作氏(57)が、市教育長時代に創価学会の正式な会合に何回も出席し、創価学会の意見を市の教員研修に採用していたことを公明党幹部と門川氏が述べた問題(8日付既報)で、京都の宗教者に驚きと憤りが広がっています。
     「とんでもないことだ。日本の都、京都は古くからさまざまな宗教や文化が共存してきたまちです。その京都で、特定の宗教団体の思想を政治に持ち込む、それも人間を育てる大切な教育にまで持ち込まれていたことは許せない」。こう語るのは、京都市上京区にある日蓮宗本山立本寺塔頭(りゅうほんじ・たっちゅう)・大輪院住職の石田良正さん(71)。「日本の教育は過去に、軍国教育という過ちを犯しているから、絶対に教育は自由かつ中立・公正でなくてはいけない。にもかかわらず、ほかの宗教を認めず、日蓮聖人を本仏と偽装する宗教団体と癒着していたとはひどい。門川氏は創価学会・公明党の求めている人材だということでしょう」
     日本聖公会司祭の大江真道さん(77)=京都市山科区=は、「公教育の責任者が一宗教団体の主張にベッタリの態度を表明したことは、非常識きわまりない。信仰者の集団が政治団体化して権力に迎合すること自体、憲法違反である。この団体の主張を、現職だった教育長が教員の研修の指導方針にすると公言することは到底、市長の座に坐(すわ)るにふさわしくない」と話します。
     京都市左京区の禅寺、臨済宗相国寺派・無礙光院(むげこういん)の和尚(おしょう)、阪口慈航さん(64)は、「特定の宗教団体と行政とが、ここまで癒着が進んでいたのかと驚いた。政治と宗教とは分離されていなければいけません。特定の宗教団体の言いなりなんてことは絶対に許されないことです。創価学会は『国立戒壇』、つまり権力をとることを目的に布教・折伏(しゃくぶく)を続けてきたところでしょう。そんな宗教団体の教義を公平であるべき教育に生かしてきた人物は、市長選に立候補する資格すらないと思います」。
     「驚きました。高校で日本史を教えていた元教師として、腹が立つやら情けないやら。京都の教育は、ここまで蝕(むしば)まれていたのか…」。上京区にある真宗大谷派の盛林寺(じょうりんじ)僧侶、橘知紹さん(68)は憤りを隠せません。
     「特異な教えを公の教育を担う教育長が、教員研修を通じて現場に押しつけるなんて許されることではありません。個人の信教・崇拝は自由ですが、創価学会の会合に出て賛美するような人物は、公の立場に立ってほしくありません」
     上京区の浄土真宗本願寺派・法林寺住職の三宅善昭さん(74)は言います。「市長になって、何をやろうとしているのか。あきれ返っています。創価学会にすり寄るだけでなく、先生の研修に使ってきたとは何事かと思います。そしてそのことを否定もせずに堂々と発言する。この姿には品格も資質のかけらもない。門川氏が実際にこのような教育現場に持ち込ませていたのが事実なら、信仰の自由や良心、思想の自由を定めた憲法に違反する行為です。門川氏の実像を、もっと知らせていかなければならないと思います」

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    from: 21世紀さん

    2011年06月26日 09時21分52秒

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    「北野教授(日大法学部)、税制から創価学会・池田大作問題を論ず」自由の砦(平成7年1月23日号)記念講演『租税問題から創価学会を斬る!』より創価学会問

    from: 21世紀さん

    2011年06月25日 22時56分37秒

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    「Re:無節操な理解者」ならば「創価学会」からもっと徴税せよ(日本大学教授・北野弘久『諸君!』H12.5抜粋)<亀井氏らの変節>ところが、このような宗

  • from: 21世紀さん

    2011年06月24日 22時22分39秒

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    怪文書の貼り付けサイトに関して  

    投稿者:熱血男子部投稿日:2011年6月23日(木)22時22分33秒信頼出来る情報筋によると、妙観講本部はウエッブ上、あるいは掲示板上において怪文書

    投稿者:熱血男子部 投稿日:2011年 6月23日(木)22時22分33秒  
    信頼出来る情報筋によると、妙観講本部はウエッブ上、あるいは掲示板上において怪文書を流している全てのサイトに関し、本格的にISPに対し情報の開示を求め、くまなく訴訟手続きを取るとのことだ。現在既に9件、創価系ホームページに対し、訴訟準備を始めているという情報を本日得た。

    「ゴルゴとマリア」の件における裁判所の判断事例が、今後大きくものを言う時代へと突入したというわけだ。妙観講本部では既にログを全て保管しており、削除をしても無駄であると確信を持っている。

    尚、「ゴルゴとマリア」でも分かるよう、全のコンテンツが削除されている。つまり妙観講、並びに大草講頭に関するニセ怪情報が問われているのではなく、宗門及び法華講に係る全ての怪文書に関し、この事例がアンブレラされているということである。

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    from: たかぼんさん

    2011年06月25日 08時48分32秒

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    「創価の怪文書で整備された日蓮正宗寺院の一覧」宗門作成http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/templea

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