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  • from: 哲ちゃんさん

    2014年11月10日 22時15分59秒

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    「青春」なんですよねぇ

    ザ・ダウンタウンズ物語       2014/11/08

    先日、広島の古い友人(昔ザ・ダウンタウンズ時代の
    リーダーでボーカルが高音域で抜群だったM君)
    から当時の事を思い出す貴重な資料が送られて来た
    「へえ~そうだったのかー」と僕自身もあらためて驚いたり
    感心したり少し泣けてきたり
    (何だかなー涙もろいのだよこの頃まったく
    例の「ごめんね青春!」でも高校生達がドヤドヤ
    やってるところでは「わかんねーなー」てな時も
    あるのは事実なのだが主人公の錦戸亮先生が
    生徒達に説く場面でついつい涙がチョチョぎれる・古い!)
    と言うわけでこの頃はダウンタウンズ時代の音源を
    引っ張り出して来て夜寝ながらiPodで聴いている
    1964年
    広島県立皆実高校ではザ・トーンダイヤモンズ
    と言うグループを拓郎が作って(4人組コーラスバンド)
    いたが活躍の場は無かった
    当時はまだ若者の音楽熱みたいなものが低く
    学校内では発表の機会も無かった
    一方、広島県立広島商業高校では
    後にザ・ダウンタウンズに合流するメンバーが
    すでにロックバンドを結成し学内で演奏会などを催していた
    バンド名はザ・スカイラークス(タバコみたい?)
    トーンダイヤモンズは名前をプレイボーイズと変えて
    (考えてみるとバンド名っていいかげんだ)
    スカイラークスの演奏会にゲスト出演した
    スカイラークスのレパートリーは「レッドリバーバレーロック」
    とかベンチャーズ系が主で時にマヒナスターズなどもやっていた
    (マヒナスターズ・・わかるかな)
    1965年3月
    全員が高校を卒業した
    同時に両校の2つのバンドが合流し
    ザ・バチェラーズを結成する(また名前が変わるのだ)
    練習場所はベースのO宅や近所の公園だった
    (電気楽器だから自宅はキツイ・まして公園って?)
    1965年9月12日
    広島平和記念館集会室にてバチェラーズ初のリサイタル
    入場料は100円
    3時と6時の2回公演で観客は900人
    客が途中から踊り始めて大騒ぎになり
    以後この会場はエレキバンドの使用が禁止になった
    1966年3月31日
    広島見真講堂にて第2回リサイタル開催
    入場料は200円700人が集まった
    1966年4月5日(ありゃ、こりゃあ誕生日じゃん!)
    拓郎とバンドのMが家出し上京を企てる
    途中、京都で同志社大学生のKと合流
    東京では歯科大学生のFと供に
    「渡辺プロダクション」を訪問
    チャーリー石黒氏の面接を受けたが
    「君達のような若者が毎日来るんだ」と言われた
    演奏を録音したテープ(拓郎のオリジナル曲も含む)
    を置いて帰ったがその後音沙汰は無かった
    その場にデビュー前と思われるが?森進一の姿があった
    この後目標を失いバチェラーズは自然消滅する
    拓郎はソロ活動を始めフォークソングの大会などに挑戦
    千葉県の検見川という所の「広徳院」というお寺に
    居候しながらプロへの道を探るが
    新宿フォークヴィレッジに出演し東京の音楽事情に
    幻滅を覚えその旨をMに手紙で知らせる
    ザ・ダウンタウンズ結成の構想を話し合い
    広島へ帰る決心をする(音楽しかなかったんだなあ)
    1967年3月4日
    拓郎が帰広と同時にバンド結成
    M(ギターボーカル)広島大学、O(ベースボーカル)銀行員
    K(ドラム)会社員、拓郎(ギターボーカル)広島商大の4人
    広島カワイ楽器店を中心に(拓郎、Mはギター教室も開く)
    毎月第1第2日曜日の夜にカワイショップ5Fホールにて
    無料コンサートを定期開催し好評をはくす
    ここは広島中のアマチュアロックバンドの登竜門となる
    第1回ヤマハライトミュージックコンテスト中四国大会で
    優勝「好きになったよ女の娘」「ハングオンスルーピー」
    ロック部門では唯一のボーカルバンドだった
    (当時は皆ベンチャーズなどのインストゥルメンタルバンド
    のコピーだった)
    以後市内のディスコクラブ等に定期出演したり
    岩国の米軍キャンプ将校クラブなどにも出演
    ダンスパーティーでは売れっ子バンドとなる
    1968年
    第2回ヤマハLMC中四国大会にて
    ボーカル&グループサウンズ部門で優勝
    「ホールドオン」「好きになったよ女の娘」
    1968年11月3日
    同全国大会が渋谷公会堂で行われる(渋公だったんだー)
    「ホールドオン」「ハングオンスルーピー」
    優勝は横浜のマックスだった
    (彼等は後に拓郎のバックをつとめた)
    帰広後は目標を失ったため活動が次第に減少して行った
    1968年12月23日
    広島フォーク村が開村
    拓郎は個人で参加したがダウンタウンズはフォークバンド
    ではないため参加せず
    1969年
    Mが就職、Oが結婚
    ザ・ダウンタウンズは自然消滅する
    解散コンサートもやらなかった
    拓郎は河合楽器に就職が決まっていたが
    辞退し再度上京本格的にプロ活動に入った
    ザ・ダウンタウンズ追記
    1サラリーマンが入ったバンドだったので
    練習時間に大きな制約があった
    2当時としては皆が身分不相応の高い楽器を持ち
    借金だらけだった(ギター教室がいいアルバイト)
    3女子の親衛隊が50人くらい居た(アハハ)
    4拓郎は時々ステージ上でギターを壊す
    パフォーマンスをやった(ザ・フーの真似か)
    5今でも当時の演奏の様子がテープに残っていて
    メンバー各自が楽しんでいる
    6メンバー全員が「素晴らしい青春だった」と話す
    (そう本当に貴重な体験だった)


    そうなんですよねぇ、これが「青春」なんですよねぇ。。。

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