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  • from: 哲ちゃんさん

    2022年08月22日 23時55分38秒

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    拓郎さん、ブログ第50弾!

    このエッセイをcopy&転載する事を強くお断りいたします


    T:「睦月(むつき)よおー今度は俺もエレキで歌うから

    替わりの誰かリズム感のいいヤツ探してくんねえーか?

    これまでは俺がドラムで時々は歌っていたけど

    これからはお前と2人で交互にリードボーカルやったり

    ジョンとポールみたいにハモったりしたいと思うんだよ」

    M:「わかったよ!タクロウは俺よりエレキ上手いんだから

    俺が歌う時は間奏とかのリードギターを弾いてくれると

    俺もボーカルに集中出来るからいいね」

    T:「誰かこれからの俺たちの方向性に合ったパワフルなヤツ

    心当たりはあるかい?」

    M:「俺のギター教室に来てる生徒でギターはダメそうだが

    体力あるから、あの小松(こまつ)ってのにやらせてみないか?」

    T:「日曜日にカワイ楽器の5階の練習場に呼んで来いよ

    俺がドラムをおしえてみたいからさあー」

    M:「ベースはどうする?見勢井(みせい)は仕事が忙しくて

    これからの俺たちの活動にはちょっと無理そうなんだよ」

    T:「小野(おの)はどうだい?あいつはもともとギターだけど

    ベースを練習させてみたら?銀行勤めだから仕事の時間は

    かなりキッチリしてるはずだし、練習時間は取れそうだよな

    そして・・お前が新しいバンドのリーダーになってくれよな」

    ザ・ダウンタウンズはこうして結成に至った

    睦月は広島大学政経学部、タクロウは現修道大学商学部

    小野が広島の大手銀行、小松も広島で有名なCar社勤務

    小松は1歳年下で、学校も違い顔見知りではなかったが

    残る3人は中学時代からのつき合いがあり、高校時代には

    ロックバンドを作ってベンチャーズやシャドウズ

    そしてビートルズのコピーなどに興じていた

    ザ・ダウンタウンズは当初はタクロウの志向が反映されて

    アメリカンポップス中心のレパートリーで始まったが

    (デル・シャノン、ポール・アンカ、ニール・セダカ

    リック・ネルソン、エルビス・プレスリーなど)

    結成半年あたりからリーダーの睦月の意向が強くなり

    50年代、60年代のアメリカンR&Bの色あいを増して行く

    彼が好んで歌うのはジェームス・ブラウン、サム・クック

    オーティス・レディング、ウイルソン・ピケットそして

    サム&デイブなど黒人アーティストの曲がほとんどで

    毎週日曜日のバンド練習では初めのうちは残り3人が

    その音楽へのアプローチで大いに戸惑う事になった

    ドラムもベースもエレキも、それまでの単純なコードに添った

    演奏ではなく、ベンチャーズやアメリカンポップスで

    演奏していたパターンが「まったく面白くなくなる!」ほど

    トリッキーで刺激的な「楽器のリズム感」を要求されたからだ

    タクロウは、まず「バンド全員の楽器を揃えよう」と提案した

    それまでは演奏するたびにレンタルの楽器が中心だったが

    4人全員が借金してでも愛用の楽器で演奏すべきだと提案した

    またボーカル中心バンドだから当時はなかなか手に入れにくい

    「ボーカル用のモニター&アンプとマイク3本」を購入した

    睦月、小野、タクロウ使用のボーカルマイクはAKG製を選んだ

    ベースとエレキギター用のアンプはエーストーン60Wだった

    リーダーの睦月はイタリア製のエレキを手に入れて

    鼻高々だったが・・後に分割払いで苦しんだエピソードを

    2019年に広島で最後の夕食会をやった時に聞かされて笑った

    (睦月は無念にも・・近年に天国へと旅立った)

    ベースの小野はドイツのヘフナー製を月賦で購入

    小松のドラムセットは基本はラディック製で

    シンバル類はジルジャンだった

    タクロウはアメリカの本場R&Bのレコードを聴きながら

    エレキギターの「音色」が自分のと違うのではないか?

    と当時なかなか入手困難なアメリカのミュージシャンの

    演奏中の画像を探しまくってエレキギターと使用アンプの

    メーカーをチェックしてみた

    多くのミュージシャンがエレキはフェンダーテレキャスターで

    アンプはフェンダーデラックスリバーブという機種である事を

    突き止めたが、残念ながら当時広島の楽器店にそんな海外製品

    そして高額な楽器が並ぶなんて事はあり得ない時代である

    タクロウは貧乏学生だし海外製のエレキなどとても買えない

    当時国産ではグヤトーンとテスコのエレキギターが

    入手しやすい価格で販売されていたのでグヤトーン製の

    リッケンバッカー(ビートルズ使用で世界に有名になった)を

    模倣したエレキを購入し、エレキやアンプの改造が得意だった

    睦月にたのんでピックアップ(エレキギターに付いているマイク)

    をテスコのエレキに付いているマイクに付け替えて弾いていた

    理由は、グヤトーンのエレキのネックは弾きやすいからOKだが

    マイクの音色が気に入らない、逆にテスコのエレキはネックは

    弾きにくいが付属のマイクの音色に特徴があって好きだから

    当時としては珍しい改造エレキギターとなったのだ

    黒人アーティスト達のレコードを聴くとバックでエレキギターが

    実に絶妙の「コードカッティングとリフ」を聴かせてくれる

    ドラムとベースの独特のリズムセクションに「絡むように」

    エレキが軽快なカッティングをみせてくれるのだ

    ここからタクロウのR&Bへの傾倒が始まることになる

    (後にアルバム「元気です」中の「高円寺」のカッティングなどは

    エレキギター的でR&B的なアイディアだった)

    タクロウはボーカルの面でも変化が起こりはじめる

    それまでは60年代アメリカンポップス中心に歌っていたが

    だんだんとR&Bの匂いがする曲を選ぶようになる

    マッコイズの「ハング・オン・スルーピー」

    (この曲でヤマハライトmusicコンテストで中国・四国優勝)

    リトルリチャードの「グッド・ゴーリー・ミス・モーリー」

    レイチャールズ「アンチェイン・マイ・ハート」

    アレサフランクリン「涙が頬をぬらす時」などは得意だった

    シャウトする唱法もここから始まった

    あの頃の広島はまだ文化的にあらゆる面で東京に遅れていた

    だが、その事がザ・ダウンタウンズにすれば大きな励みになり

    時々東京からやって来るグループサウンズ等を聴きに行っても

    「あれなら俺たちの方が先いってるし上だよな」という

    井の中の蛙ではあるが、ある種の誇りにもなっていた

    単独でのLiveコンサート、夏の海水浴場での無料Live

    山口県岩国市の米軍キャンプや将校クラブでのステージ

    若い女性スタッフで有名な喫茶店主催のダンスパーティー

    広島にも「東京を真似て出来た」ジャズ喫茶への出演

    これも流行に遅れまいと開店し始めたディスコでの生演奏

    バンドは2人の社会人を含む編成だったので

    なかなか時間的に自由にならない面も多かったのだが

    それでも小野と小松は「時に仕事を早退き」したりして

    音楽・バンドへの情熱を燃やし続けた

    女子高校生たちが中心になり東京のG.Sに負けじと

    親衛隊風なグループも出来ていた

    彼女たちの中心的な存在だった3人(ロコ・ミエ・カズエ)は

    ザ・ダウンタウンズの音楽性にとって、大きな存在となり

    バンド練習の時にも立ち合って意見を言い合う関係にあった

    またステージでの選曲などにも大きな影響力をもっていた

    しかしバンド活動は睦月とタクロウが大学4年生となり

    就職活動が必然となる頃には「誰からともなく」

    終息の気配を感じはじめる

    当時ザ・ダウンタウンズには泉(いずみ)という

    バンドのマネージメントを任された人物がいたが

    彼自身も大学卒業を間近にして就職活動に入ってしまい

    バンドとしての言わば「仕事」が減少し「演奏する場」が減る

    当然のごとく4人が集まって練習する時間も少なくなり

    徐々に学生と社会人との距離感が広がって行った

    睦月とタクロウがある夜「流川町のパンチ」というバーで

    「これから」を話し合った

    T:「やりたい事はやったよな・・楽しかったしな」

    M:「プロとかは以前には考えたけど今回のバンドでは

    まったく考えた事が無かったから俺も今は満足だよ」

    T:「音楽は楽しかったし女の娘とも時間を過ごせたし」

    M:「まだハッキリは言えないんだけど・・

    俺たちって青春に悔いはないんじゃーないかなあ」

    T:「・・青春かあ・・考えた事もないけど・・」

    M:「タクロウはもしかしたら広島から出て行く・・

    かも知れない・・なんて・・ちょっと思ってるよ」

    T:「そうだなあ・・音楽を・・俺の音楽を・・

    もっと広い世界でぶっつけて・・みたい・・かもなあ」

    その夜2人で朝までgirls抜きでジントニックを飲んだ

    上京して50年以上の音楽生活を体験したが

    あの時バンドのリーダーだった睦月の影響は見逃せない

    色々な音楽への挑戦が広がったと自覚している

    彼から学んだ黒人アーティストたちの発する「音」は

    時代がフォークであろうがニューミュージックであろうが

    タクロウにはいっさい関係なかった

    キャンディーズ「やさしい悪魔」を聴いた時に睦月から手紙

    「タクロウこれダウンタウンズでもやれたなあ」

    ・・嬉しかった

    広島というローカルに平凡に暮らしながらも

    4人で過ごしたザ・ダウンタウンズというバンドは

    まさに青春であり「生きた時間」だった

    音楽とガールフレンドとジントニックが

    いつも僕たちの「そこ」にあった

    すべては「そこ」から始まったのだ

    ありがとう!睦月、小野、小松、girls

    タクロウは君たちの夢をも実現できただろうか?

    いつか夢の中でまた・・一緒に・・ジントニックだな

    ・・・さて・・そろそろ・・ですか・・ね・・・

    引き潮が見えて来ました

    個人的には気持ちの「行く先」などすでに解決済みで

    許される限り平穏で「波静かな」人生の旅を続けます

    そして、このブログも近々にクローズといたします

    沢山のサポートをいただいていた事に

    心から・・本当に心を込め「ありがとう」をお伝えします

    そしてここを時々訪れていた皆さんとそのご家族の

    健康&ハッピーをお祈りいたしております

    「始まれば終わる」のがLifeだと思っています

    「永遠」は夢ですが・・「夢は夢として」抱きしめながら

    このままの流れにまかせて歩きます

    「心に響く過去からは未来が見えて来る」という真実

    「ah-面白かった」は、そんな「夢いっぱい」を描きながら

    完成させたアルバムでした

    このアルバムから感じとっていただきたかった事は

    「過去への郷愁」ではなく「そこを体験しての明日」でした

    吉田拓郎は「明日」に50年こだわり続けたのかもしれません

    そしてその明日のためには

    そこから立ち去る事でしか「見えない未来」もあります

    その未来図をはっきりと心に焼き付けて

    半歩ずつでもいい!歩いていきます

    本当に長い間ありがとうございました

    色々あったけど「ah-面白かった」でした

    今日までそして明日から 2022年8月 吉田拓郎





    拓郎さん、ゴメンナサイ!
    このブログ転載禁止、とありましたが転載しちゃいました。
    もうエイベックスサイトのブログも閉鎖しちゃうなんて・・。
    ますます寂しくなってきます!
    本当にリタイアされるんでしょうか。。。
    「いつものことじゃん!」と笑って言ってくれませんか!

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