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  • from: 三鷹の狸さん

    2008年09月01日 00時34分34秒

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    「愛はてしなく」の増8度とは?

    もう、2週間も経ってしまいました、「愛はてしなく」を鑑賞してから。

    はじめは、舞台全体が視野に入る席におり、
    スピーカーからの音楽も(曲も音も)素敵だったのですが、
    もっとピアノの生音を聴きたいと思い、休憩後は思い切ってオケピの近くに移動したら、

    はい、あの衝撃的な「増8度」が突き刺さってきました。
    盲目の少女の目が見えるようになった、あのときの音、です。

    人は人を許せるか、という重いテーマに関し、
    盲目の少女が、自分の親の命を奪うことに助力したマリアを許せたのは、
    目が見えるようになったから、その喜びの大きさゆえ、のことだと、観終わってすぐは思いました。
    でも、ずっと、そんなふうに短絡的にとらえていいのか、という思いが頭に残り、いろいろ、あれこれ、私にしては珍しく考え込み、
    「目が見えるようになる」→「新しい世界を知る」とか「別の世界に目を向ける」というふうにとらえて解釈すると、もっと「許し」ということに迫れるような気がしてきました。

    では、人はどうしたら、あるいは、どういうときに、
    「別の目」「別の視点」を持つことができるのでしょう?
    それは、「出会い」なのかなぁ、と思いました。
    人との出会い、本との出会い、音楽との出会い、自然現象との出会い、等々、「出会い」は日常生活の中でたくさんあるのに、
    「衝撃的な出会い」、それこそ、「増8度」に象徴されていたかのように思える、「奇跡のような出会い」というのは、自分の努力や模索の継続によって得られるものではなく、やはり、
    「天から与えられるもの」のような気がします。
    ただ、「与えられる」には、それなりの因果関係もあるような気はするので、努力することや模索し続けることを怠けてはいけないのかなぁ、とは思います。

    これ以上の完全はない「8度音程」を超えた「増8度」に
    いろいろ考えさせられた2週間でした。
    映画「パッション」を観たときの衝撃は、いまだに強烈に鮮明に私の記憶を支配していますが、いまは、あの映画を観たこと自体が私にとっての試練だったと思えるようになった分、少しだけ冷静になれそうです。

    遅ればせながら、
    熱演された出演者や演奏者の皆さんにも、ブラボーと感謝を捧げます。
    再演を期待しております。

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コメント: 全1件

from: franzさん

2008年09月05日 10時37分08秒

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「Re:「愛はてしなく」の増8度とは?」
> はい、あの衝撃的な「増8度」が突き刺さってきました。
> 盲目の少女の目が見えるようになった、あのときの音、です。

増8度とわざわざ名付けて下さってありがとうございます。
だんだん見えるようになるというんじゃドラマチックでないので、
あのような衝撃的な音と照明を用意したわけです。

奇蹟はすでに、
マリアがアンナを見つめながら、
「きっとあたしは地獄に堕ちるわね。
でもせめて、出来るだけ、残ったあたしの人生を、
懺悔の気持ちで、生きていきましょう。」
と歌う第二幕の終幕から、用意されるのです。
己の限界を知り、ふっと力が抜けて、
ゆだねる気持ちにならないと、
奇蹟は起こらないし、
真の出遭いもないのでしょう。

人間的な考えの中にいると、
世界は狭く、罪の中で身動きがとれなくなります。
マリアが娼婦の生活を捨てて、信仰の道に入っても、
常に周囲から、
「あれは所詮娼婦だった女だ。」
という視線にさらされ続けたでしょう。
「俺はあいつと寝たことがある。」
なんていう男があっちにもこっちにもいたらなおさらです。
でもマリアはきっと、上だけを見て、
わきめもふらず生きたのだと思います。

人間が、生き方を変えるというのは、
とても大変なことだと思います。
でも、想いが変わり、生き方が変わると、
その人の瞳に映る世界も変わってきます。
それを僕は奇蹟と呼びたい。
増8度のような衝撃的な変化は、
いつもあるわけではないけれど、
世界には奇蹟が充ち満ちているのです。

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