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  • from: ashiyaの人 - 2さん

    2012年06月06日 02時50分54秒

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    過ぎ去った五月

     先月は音楽界で著名な方が亡くなられました。
     フィッシャー・ディースカウ氏(5/18)、吉田秀和氏(5/22)、畑中良輔氏(5/24)であります。
     
     我が家では日経新聞しか購読してないので、その記事の量から判断するとディースカウ=中、吉田=特大、畑中=極小の割合です。
     しかし、日経新聞の記事の多寡は商業ペースで自社に対して貢献したかどうかに比例すると解釈すれば致し方ないけれど、このご三方は日本の音楽界に等しく大きな影響を与えた方といえるでしょう。

     Franz先生の「今日この頃」の畑中先生の思い出は、音楽の現場にいる音楽人にとっては忘れられないことと思います。

     普通の大学合唱団出身の私から見ると、ブル先生は非常に怖い先生でした。しかし先生からみると「プロの卵の芸大生には厳しいけれど、普通の大学生には楽譜を投げつけたりはしていない。」というように、甘く指導していたことがわかります。

     ブル先生がアマチュア合唱団に手を染めたのは1959年。戦後のどさくさ時代が過ぎて、まだ娯楽が少ない、貧しい時代に学生グリークラブが花を開き始めて間もない時でした。
     すでに二期会オペラで活躍され、パパゲーノは当たり役でした(私は観てない)。
     私が最初に観た実際のオペラは、二期会のブリテン作曲「真夏の夜の夢」(本邦初演、東京文化会館)で、ブル先生は妖精パックでした。
    チケットを半額にしていただいてクラブの学生が多く観に行きました(1962年ころ)。
     後年(2005年ころ)、学生の夏合宿で志賀高原へ行ったとき、先生にそのオペラの話を申し上げました。すると、妖精のダンスのステップが難しく、足がもつれてもうダメだと思った、それでオペラを引退したんだ、と申されました。
     オペラ歌手を辞めてからは教育者、指揮者、作曲家、随筆家、二期会理事として活躍されました。

     関西では大阪音大の公開講座で「日本歌曲を辿って」と題して8回(2年)にわたって、滝廉太郎からの歴史と逸話と作品と実演(関西の一流歌手に対する歌唱指導)を聞かせていただきました(2008〜2010年)。
     聴講生は、関西の声楽人が多く来られ、音大生も多く見受けられ、一般人は少数派でした(@ミレニアムホール)。
     プロの歌手の育成とはこんなものかと思い知らされた講座でした。
    それでもブル先生は、実演歌手のメンツを壊してはならないので随分気を使った、と講演終了後におっしゃっていました。

     52年間指導してこられた大学合唱団の指揮者を引退された時の演奏会(2012.01.08)のCDを改めて聴き、ブラームス「運命の歌」の解説を話されて、思わず涙が出てしまいました。


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