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  • from: ハムスターさん

    2010年07月30日 21時49分02秒

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    :「人間革命の正しい読み方」慧妙編集室編 連載十一回目

    暑い日が続きますが、みなさんお元気でしょうか。7月はバタバタしてお山へ行けませんでしたが、毎月登山しているときは思わないのですが、期間が空くとお山へ行


    暑い日が続きますが、みなさんお元気でしょうか。
    7月はバタバタしてお山へ行けませんでしたが、毎月登山しているときは思わないのですが、期間が空くとお山へ行きたくなります。

    「牧口時代の学会は空転」という意味(第五巻「随喜」の章より)

    『人問革命』第一巻に初代会長牧口常三郎氏の「価値論」批判が載っていることは有名だが、第五巻“随喜"の章にも、簡単だが、牧口会長率いる創価教育学会批判が描かれている。

    「彼(※戸田城聖二代会長)は、会長就任と同時に、戦後にはじまる弱体組織を一擲(いってき)していつた。(中略)敗戦下の邪悪な、多くの新興宗団の急激な跋扈(ばっこ)を目にして、主軸たる彼の活動が、実は空転していたとさえ思えてならない。彼はまだよい。先師牧口にいたってはまったくの空転に終わったとさえ、時に思われた。彼の反省は深かった。」(第五巻“随喜”の章)

    この、牧口会長の時代が「まったくの空転」であったとは意味深だが、その意味するところは何であろうか。

    池田は、右の記述に続けて、
    「彼はこれまでの学会に欠けていたものこそ、この御本尊にほかならぬと悟ったのである。創価学会に、金剛不壊(こんごうふえ)の大車軸としての御本尊のご安置がなくして、妙法の組織が生命の力をもつはずがない」
    と、「空転」の原因を、創価学会常住の御本尊がなかったからだとしているが、それは皮相的にすぎよう。

    たとえば、『人間革命』第一巻にある池田白身の牧口批判を挙げてみる。
    「牧口の価値論から入った、大善生活を思う時、そこには、彼独特の、倫理的臭味を帯びてくる。さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇(はんちゅう)に入ることになってしまう。----ここに催尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが陰となって射(さ)して来るようだ。(中略) 彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。しかし、大聖人の大生命哲理からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた。」

    要するに、 牧口氏が価値論と仏法とを混同させていたことへの批判であるが、「催尊入卑」という厳しい言葉を使つていることから考えて、冒頭の戸田氏の「反省」が、単に、常住御本尊の有無のことだけであったとは思えない。

    次に、戸田会長当時の青年部大幹部だった石田次男氏の牧口批判を挙げると、
    「牧口先生は失敗会長であられて、わかっていないのに会長になればどうなるか、という見本が眼前に在る。
    牧口先生は生命論も十界論も一度も説いていない。
    牧口先生が正宗の信仰の会の会長として失敗会長であられたことは、石田が勝手に気づいたのではない。戸田先生に教えられて判ったことである。

    先生は石田には『(牧口)先生の行き方---仏法へ価値論が入ってしまうこと。価値論での信仰生活指導を指す---でやれば、仏法ではなくなる。
    ここに戦前の失敗があった。価値論は九重の劣だから捨てた。だから(戸田は)生命論と十界論から説くのだ』と明示しておられたし、幹部一般に対しては『戦前は一つには組織がないから潰(つぶ)れた。もう一つには教学が無くて潰れた』と表現して教えておられた。、弟子として露骨に師を失敗会長とは表現できないから、大勢に対してはこういう言い方で教えておられた」(石田次男著『内外一致の妙法』)と記している。

    一読してわかるとおり、石田氏の方が、池田よりも踏み込んだ批判となっているが、それは、戸田氏から直接指名を受けた三代会長候補(※石田氏が三代会長候補であった事実については、後に詳述する)として、戸田氏の苦悩を一番深く理解していた証左と言えよう。

    石田氏は、さらに創価教育学会が潰れた理由を、次のように説明する。
    「仏法でないもの(社会科学)を信仰者の生活指導原理に持ち込んだこと・・・・・これが当時の学会の致命傷だったのであります。俗諦(ぞくたい)で信心の指導をすれば、必ず六道輪廻してしまう---だから創価教育学会は跡形も無く消え去っただけであります。このことが、入獄前からの戸田先生の密(ひそ)かなる悩みでありました。当時それを表立てて表明できない弟子の苦悩・・・・察すべきであります。」(既出『内外一致の妙法』)

    こうした戸田氏の苦悩は、若くして次期会長の指名を受けた石田氏でなければ理解できなかったことかもしれない。

    また、他にも、当時の戸田氏の肉声を伝えるものとして、牧口門下生で創価教育学会の理事を務めていた野島辰次氏の記述がある。

    「((※野島氏)『ところで、先頃の学会の検挙のことを、あなた(※戸田氏)はいったいどういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大し、あんなに長びき、その挙げ句に真木先生(牧口氏のこと)の獄死ということになったのでしょうか、これについて、あなたは反省してみたことがありますか。』(中略)

    (※戸田氏)『それは二通りに考えられると思いますよ。 その一応は、学会が発迹顕本(ほしゃくけんぽん)の時になってぃたのだということ、それからもう一つ、二応としては、真木先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように軽く扱ったということ (後略)。』」
    (野島辰次著『我が心の遍歴』)

    これらの資料が示すとおり、戸田氏自身が牧口氏を「失敗会長」と見ており、また、創価教育学会崩壊の原因として、牧口氏の「価値論」を挙げていることが明らかである。

    以上のことから、先の池田の記述「先師牧口にいたっては、まったくの空転に終わった」という、真実の原因は、やはり、牧口氏の「価値論」による失敗であったことが察せられる。

    さて、この「価値論」は、創価教育学会が壊減してから、はじめて批判の対象になったのかというと、そうではない。

    牧口氏は、昭和三年六月頃、常在寺の法華講員・三谷素啓氏の折伏によって日蓮正宗に入信し、同寺の法華講「大石講」に所属し、さらに、各寺院からの希望参加者を横に繋(つな)いだ組織「直達講」にも所属している。
    牧口氏は、そこでも「価値論」を持論として展開し、直達講の講頭であった三谷氏からも注意を受けていた。

    石田氏は、このことを次のように書いている。
    「昭和五年暮れまでの時点では、牧口先生は三谷氏の指導の傘下(さんか)にいた。そして三谷氏から『価値論は宗祖の教えとは無関係だから信心の中へ持ち込むな』と諫(いさ)められていた最中である。そして、おそらく、このためであろうと思うが、先生は三谷氏と絶交するに至る。絶交の時は、おそらく三谷氏最晩年の昭和七年か、早くても昭和六年中かであろう。」(『内外一致の妙法』既出)

    石田氏が、牧口氏と三谷氏が絶交に至った原因を、“価値論に対する批判”と見ているのは彼の推測の域を出ていないが、 あながち的外れでもあるまい。

    ちなみに、第三文明社刊『牧口常三郎全集』第十巻は、その補注で、牧口氏と三谷氏との「絶交」について
    「牧口も当初『仏教の奥義に対し、将(はたま)た東西の歴史に対して驚くべき篤学者(とくがくしゃ)』と評価していたが、牧口の信仰が深化する一方で、三谷の人格が熟知されるに及んで三谷とは決別し、創価教育学会を創立するのである。また、日蓮正宗の教義や信仰の実践については直接、堀米泰栄尊師(後の第六十五世日淳上人)に求めていった」と記している。

    もちろん、「三谷氏の人格」云々というのは、学会側の勝手な言い分であって、まったく客観的な事実ではない。 むしろ、幾多の証言から見て、石田氏がぃうょうに、牧口氏の教義理解が及ばず「価値論」に固執してしまった結果が、講中からの孤立といった状況を招いてしまった、と解釈するのが妥当であろう。

    このことは、「直達講」の副講頭であった竹尾清澄氏も牧口氏を評して、
    「牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いようなところが見られた」(竹尾清登者『畑毛日記』)と書いていることからも、容易に推測できる。

    まさに、創価教育学会の「空転」の始まりは、根本原因としては、牧口氏が「価値論」に固執したところにこそあった。

    さらに、直達講を離れた後の牧口氏が、歓喜寮で日淳上人の指導を受けることになったものの、
    「牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師と議論し、
    『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴(け)って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会はここで日蓮正宗と縁が切れ」(竹尾清澄著『畑毛日記』)
    とあるように、宗門から離れて学会独自の路線を指向したところに、「空転」の極みがあったといえよう。

    しかし、弾圧による組織の壊滅という辛酸(しんさん)を味わった戸田氏は、出獄後、日淳上人のもとを訪れ

    「申し訳ありませんでした。二年間、牢で勉強して自分の間違っていたことが、わかりました。(中略) これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(法照寺御住職・石井栄純尊師が六十五世日淳上人の奥様から伺ったお話)と、深く懺悔(ざんげ)の姿を示したという。

    その後の戸田氏はこうした反省を踏まえ、信仰的に「空転」していた創価学会を日蓮正宗の信徒団体として軌道修正し、多くの学会員を成仏に導いていったのである。

    しかるに今日、宗門から破門され、会員には「魂の独立」などと言葉を濁して、日蓮大聖人の御法魂たる戒壇の大御本尊と御法主上人から会員を遠ざける池田大作---これでは戸田氏の苦労も全て水の泡であり、池田が頻繁(ひんぱん)に口にする「師弟不二」も空々しく響くばかりではないか。

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  • from: 21世紀さん

    2010年07月29日 18時41分11秒

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    大白法 平成22年5月16日号より

    南米(ブラジル、アルゼンチン)裁判が解決に至った道のり南米(ブラジル・アルゼンチン)では、これまで長年にわたって、某宗教団体インターナショナルによる様

    南米(ブラジル、アルゼンチン)裁判が解決に至った道のり


    南米(ブラジル・アルゼンチン)では、これまで長年にわたって、某宗教団体インターナショナルによる様々な画策により宗教活動が妨害されてきた。その妨害工作は、当該政府当局をはじめ、マスコミ関連、他宗教、近隣住民等を巻き込んで行われ、日蓮正宗に関して虚偽の告発や悪宣伝を流したため、ブラジルでは、御法主上人猊下をはじめ関係者の入国ビザ申請が却下され御親修法要が延期されるに至り、アルゼンチンでは、宗教法人登録抹消処分、宗教活動停止にまで追い込まれた。この影響は非常に大きく、南米ばかりではなく、他の海外各国の布教活動にも悪影響を及ぼすほどの深刻な事態に陥った。

    宗門はその打開のため、様々な方策を講じると共に、クロウ事件でも実績をあげた弁護団を再編し、両国の政府関係者等に日蓮正宗の真実の姿と活動内容を正しく判断してもらうよう努めてきた。こうした弁護団と関係各位の多年にわたる尽力が功を奏し、今般の解決に至ったわけである。 今回は、南米での一連の問題を解決した弁護団の中心者であるカルマン弁護士を迎え、南米問題の本質に触れながら解決に至るまでを秋元渉外部長と語り合っていただいた。


    <秋元渉外部長> カルマン先生、また大石寺にようこそおいでくださいました。

    <カルマン弁護士> ありがとうございます。総本山に来て秋元渉外部長と御僧侶の皆さん、もちろん御法主上人猊下ともお目にかかれるのはいつも楽しみです。
    秋元 数年前にはクロウ事件の件でインタビューさせていただきました。あの事件ではワシントン州シアトルにおいて仕事をする機会が多かったと思いますが、最近ロサンゼルスから引っ越されたそうですね。

    <カルマン> はい、クロウ事件の仕事をしている間にシアトルがとても気に入ったものですから、引っ越すことにしました。ただ家を離れることが多くて。主に宗門の仕事のためですが。

    <秋元> そうでしょう、今日はその仕事のお話をお願いします。まず、これまでどんな仕事をなさってきたか、お伺いします。

    <カルマン> はい。喜んでお答えします。私はクロウ事件の仕事が終わって一年ほどしてから、宗門の海外での別件の仕事をするようになりました。そして平成16年頃から私のメインの仕事は、ブラジルで宗門が置かれていた困難な状況を好転させるという仕事になりました。現地では信徒の宗教活動の自由が脅かされ、サンパウロの正法寺が開設できなくなっていました。私はブラジルの弁護士たちとも協力して取り組んだ結果、何とか状況を好転させることができ、正法寺も平成17年7月に無事落慶法要を営むことができました。それ以降ブラジルでは大きな問題はありません。
    ブラジルでの仕事を終えた後は、アルゼンチンの問題に取り組むことになりました。日蓮正宗にはここでもブラジルと同じような障害がありました。と言うのは、アルゼンチン政府が、同国内での日蓮正宗の活動を非常に難しくするような処置を取っていたからです。ここでも弁護士をはじめ各方面の専門家の力をお借りして、やっと状況を好転させることができました。

    <秋元> 私もよく覚えていますが、先生が南米での仕事に取りかかった頃は、ブラジルでもアルゼンチンでも宗門は非常に厳しい状況に置かれていました。一体どのような状況にあったのか、また状況を好転させるためにどのようなことを行ったのか、詳しくお話いただけますか。まずブラジルについてお聞かせください。

    以下、下記サイト参照
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/758/789.htm#1

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  • from: 21世紀さん

    2010年07月26日 19時19分54秒

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    週刊新潮 2010年7月29日号(2010/07/22発売)

    ▼掌中にキャスティングボート「池田大作」創価学会名誉会長の高笑いが聞こえないhttp://www.shinchosha.co.jp/shukanshi


    ▼掌中にキャスティングボート「池田大作」創価学会名誉会長の高笑いが聞こえない
    http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/newest/

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    from: ハムスターさん

    2010年07月27日 19時38分20秒

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    「Re:Re:週刊新潮2010年7月29日号(2010/07/22発売)」>生きているとは思いますが、意志表示がきちんと出来るのか疑問です。>週刊新潮

    from: 正義顕揚さん

    2010年07月26日 23時44分43秒

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    「Re:週刊新潮2010年7月29日号(2010/07/22発売)」生きているとは思いますが、意志表示がきちんと出来るのか疑問です。週刊新潮の内容から

  • from: 22世紀さん

    2010年07月27日 19時10分12秒

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    池田大作の人物像

    池田大作の人物像池田大作は東京都大田区の朝鮮人部落に生まれた。ネット新聞の「国民新聞」によれば、池田の両親は日本に帰化した朝鮮人とされ、あれほど訴訟が

    池田大作の人物像

    池田大作は東京都大田区の朝鮮人部落に生まれた。ネット新聞の「国民新聞」によれば、池田の両親は日本に帰化した朝鮮人とされ、あれほど訴訟が大好きで「訴訟テロリズム」と呼ばれる創価学会がこの問題については沈黙を守っていることを見ても、池田大作は朝鮮人、と断定していいだろう。これほど日本社会に影響力を持つ公人が朝鮮人であるということは大問題である。
     事実、聖教新聞は「日韓」と表記せず、「韓日」と記している。また、日本は中国や韓国に永久に謝罪すべきだ、といった極端な被虐史観を主張している。公明党がしきりに在日朝鮮人の地方参政権付与を主張しているのも、朝鮮人池田大作へのオベッカといえよう。創価学会副会長は数百人いるが、その3分の2が在日朝鮮人だという統計もある。こうしてみると、創価学会は統一教会と同様、朝鮮系新興宗教の枠に入れることが出来る。(ちなみにオウム真理教の教祖麻原も父親は朝鮮人である)
     池田の次のような歴史的事実を無視した朝鮮絶賛=日本罵倒を見ても彼が朝鮮人というのは動かない事実であろう。
    「韓国の「情」は厚く、深い。5千年の間、苦難の歴史を耐えて乗りこえ、しかも情け深さをなくさなかった人達である。 憎しみを人に向けるよりも、悲しみを雪のように胸の奥に積もらせながら、明日を信じて微笑んできた人々である。 愛の国、美の国、文の国。 その平和の人々が、「何十世代の後までも忘れぬ」と、怒りを骨に刻んだ相手が、日本の残虐な国家主義者であった。行く先々での略奪。暴行。殺戮。「禽獣にも劣る」、文化なき「悪鬼」と呼ばれた」
     言うまでもなく朝鮮の歴史が5千年というのは史実の裏づけのない朝鮮人特有の妄想であるし、日韓併合は国際法に基づき、朝鮮政府の要請に基づいて結ばれてものであって、併合に際して日本は一人の朝鮮人も殺していない。また「略奪」「暴行」どころか、当時世界で最貧国であった朝鮮を近代化するために日本が莫大な血税を投入した「救済合併」であることは世界の常識になっている。池田の歴史観は、南北朝鮮政府の洗脳歴史観と全く同じレベルである。

     池田は前創価学会会長の戸田城聖の元で、高利貸し会社「大蔵商事」の営業部長として辣腕を振るった。病気で寝ている人間を叩き起こして布団まで持って帰ったというエピソードが残っている。
     戸田会長の後継者は、理論家で学究肌の石田次男であった、というのが定説だが、戸田亡き後、池田はさまざまな謀略を使って第三代会長となった。それをまるで生前から戸田氏が池田氏を特別視していたかのように嘘八百を並べて作ったフィクションが「人間革命」である。ちなみにこの小説は池田大作著、となっているがゴーストライター(学会系出版社東西書院社長の篠原善太郎)が書いたものであり、このことから「池田代作」と揶揄されることがしばしばある。

    池田の仏教理解はきわめて低く、その哲学は企業の営業マンの処世術の域を出ない。聖教新聞を読むと、「仏法は勝負だ」「勝って勝って勝ちまくれ」といった勝負論が中心だが、これは「我執を取り去れ」(釈迦の基本思想)、「自分のことより先に、他人を幸せにせよ」(大乗仏教における菩薩道の基本思想)という仏教の理念からは程遠い。というか、真逆である。

    池田は昭和50年前後、自分の弟子・福島源次郎を使って「池田大作本仏論」を流行らせた。これは日蓮の生まれ変わりが池田大作である、という思想であり、この当時、愚かな創価学会員たちは、仏壇の曼荼羅の横に池田大作の写真を立て、池田大作に向かって祈っていたものだ。
     当時口コミで「池田先生が車に乗ると赤信号で止まることが無い」という幼稚なものから、日蓮ゆかりの場所に池田が訪れたときに巨大な松の老木を撫ぜながら、「あれから大きく育ったのう」と呟かれた、などとというエピソードが全国に伝わったものだ。ちなみにその松の木は樹齢600年だったというから、日蓮在世の時期に生えたものではない。傑作な話である。

    池田の品性を顕著に物語るものに「キンマンコ」発言というのがある。これは沖縄の糸満市に創価学会の会館が出来たときに、以下のように池田がスピーチしたことに由来する。
    「んもー、イトマン平和会館なんて、名前変えた方がいいんじゃないか、うまく、ダメか、ウーマンぽい、ウーマンぽい、イトマンなんてウーマンぽい、ダメか、ダメか、もっといいねー、もっといいその、キンマン、イトマン、キンマンコだよ」

    この程度の人物なのである。その知性のレベルは押して知るべしだろう。
     かれの学歴は短期大学の中でも最底辺のレベルにある富士短期大学中退である。創価学会会長になってから、どういう裏の手を使ったのか「卒業」の形式をとった。よほどこだわりがあったことが分かる。彼は松下幸之助やらトインビーやらの有名人と対談集を多数出しているが、実際の会談内容は「茶飲み話」程度で、本の内容の大半は影のインテリグループが勝手に「創作」したものだと言われている。(原島嵩元創価学会教学部長、創価学会元顧問弁護士山崎正友初め、創価学会に反対する立場になった元幹部の多くは、創価学会内部にゴーストライター的な役割を担う専門の部署があり、池田の著作のほとんどがそこで執筆されていると語っている)

    インチキ宗教の教祖がしばしば女性問題を起こしているように、池田にもその類の醜聞は多い。よく知られているのは「月刊ペン事件」と「信平レイプ訴訟」である。
     「月刊ペン事件」は「月刊ペン」の編集長が、池田が婦人部の複数の大幹部や芸者などと性的不倫関係にあることを暴いたものだった。創価学会は名誉毀損で告訴したが、告訴するその裏で笹川良一氏、腸平氏父子に頼んで、「月刊ペン」社とその弁護人の懐柔工作を行い、二千万円を相手側に支払ってもみ消そうとした。結局この裁判は月刊ペン側に30万の形式的な罰金が言い渡されたのみで(編集長はそれも不服として控訴したが死亡のために審議が打ち切られた)、実質的には池田の淫らな女性関係の真実性を証明する結果に終わった。
     「信平レイプ訴訟」とは池田が側近の女性幹部の信平信子さんを数回にわたって強姦したとして、信平夫婦が起こした裁判である。この裁判は全く異例なこととに、事実審理もなく、池田の証人出廷もなく、「時効」と「訴権の乱用」という信じられない解釈で信平さん側が敗訴した。創価学会は「総体革命」を旗印に、司法、行政、立法、、経済界などに会員を送り込んで裏のネットワークを構築している。この「信平訴訟」はレイプ事件としては異例中の異例の判決であり、司法が創価学会に取り込まれていることを如実に示すものであろう。

    ここ数年の聖教新聞の一面は、池田が世界中から名誉市民や名誉博士などの栄誉を受けた記事で占められている。おそらく数百から千を超える名誉○○をもらっていることだろう。言うまでもなくこれらは金で買った名誉であり、そのことは韓国の忠清大学のチョン・ジョンテク学長が「私は(創価大学から)名誉博士号を受けたし、わが校を助けてくれたんだ。図書資金を5000(万ウォン=約500万円)出してくれて、発展基金に2億出してくれて、また文化祭で3億ウォン出してくれて、だから、、、、、」 と証言したことでも明らかである。
     日蓮は「名聞名利にとらわれること無かれ」(世間的な名誉を欲しがってならない)と述べている。池田の行動は日蓮の弟子とはいえない、実に愚かな俗世権力への擦りよりである。
     彼がもらう栄誉の大半は南米やアジアなど発展途上国のものばかりで、また大学も無名大学ばかりである。一方、日本の大学で池田に名誉博士などを与えたところは一校も無い。このことがよほど悔しいらしく、聖教新聞には「島国日本」「嫉妬日本」といった売国奴的記述が多く見られる。また、そういう池田の心情を推し量って、会員は国からの勲章をもらってはならない、という不文律ができているという。それに反して竹入公明党元委員長が勲一等旭日大綬章をもらったことに嫉妬し、聖教新聞では、再三にわたって竹入氏の個人攻撃(罵詈雑言と言える下劣なもの)を行っている。

    尚、創価学会は病気になったり事故にあったりした人に「それは信心が足りないためだ」と言い、特に他宗の関係者が癌などで死亡すると「罰が当たった」と罵り喜ぶのが習性になっている。この「罰論」に照らして池田大作自身の家族を見るとどうなるだろう。次期創価学会会長になると見られていた次男は29歳という若さで胃に穴が開いて死亡した。さらに長男の子供(池田にとっての孫)は身体障害者で、世間にそれが知られるのを恐れ妻の実家で隠して育てられているという(「日蓮宗新聞」)。この事実を創価学会員はどう思うだろうか。「仏罰」やら「現証」を信じるのであれば、仏は池田大作にこそ罰を与えていることになる。本人に直接罰が当たらず、周囲からじわじわと真綿で首を絞めるように現れる罰を「冥罰」というが、まさに池田自身は冥罰に当ったっていることになる。他宗の不幸に対する罵倒が、まさに自分に跳ね帰っているのである。罰論に従えば、池田大作こそ信心が足りない、ということになるのだが、創価学会員はこの「現証」をどう解釈するのだろうか?

    田中角栄は池田を評して「法華経を唱えるヒトラー」といい、石原慎太郎は「悪しき天才、巨大な俗物」と喝破した。
     最後になぜこのような品性下劣な人間が巨大宗教のトップに座っているのかを検証したい。テリー伊藤は「お笑い創価学会」の中で池田大作ホスト説を述べている。家庭に不満のあるオバサン信者達にとって池田はフェロモンを発するホストだというのだ。この説は、池田が割合ハンサムだった青年時代には通じるが現在のブタのように肥え太った池田には当てはまらないと私は思う。
     この程度の人物にカリスマ性を感じる日本人がいるのは、日本人の中に「父親の不在」があり、理想の父親像を池田に見出しているのだろう。
     父親が人格者であった場合や、逆に父親がダメ人間で父に対する批判力が培われている人間には、自分の心の中に理想の体現者として、また道徳的亀鑑としての父親のイメージが定着する。この場合は、一瞬にして池田の俗物性を見破るので騙されることは無い。心の中に父親のイメージを持たない人間にとっては、この世は不安だらけで、行動の規範がもてない。そういうところに、世界中から名誉勲章を受けている池田大作という人物が現れると、批判力が無いだけに、簡単に尊敬してしまうのだろう。
     なお、父親のイメージ、とは「倫理観」や「人格美」と密接なかかわりがある。敗戦後の日本はGHQの日本弱体化政策により武士道をはじめとする戦前の美徳を全て否定した。その父親不在の混乱期に乱立した新宗教は、拠って立つべき人生の指針を失った国民に「教祖という偉大な父親像」を示してみせた。その父親像が創価学会にあっては戸田城聖であり池田大作だったのである。戸田はあくまでも信徒の指導者として分限を超えることはなかったが、池田は自らを本仏視させ、「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」と発言し、自らを本仏とする野望まで抱いた。池田大作の本質は、異常心理学のいう「自己愛型人格障害」(注1)の典型例だと私は思う。
     もし池田大作が本物の人格美を尊ぶ江戸や明治の時代に生まれていたとすれば、この程度の人物が世に出る余地はなかっただろうし、万一何かの間違いで権力の座についたとすれば憂国の士によって天誅の名の下に屠られていたに違いない。

    今日は朝早く起きたので、私の創価学会批判を書いてみた。この文を読んで一人でも多くの人が創価学会について正しい認識を持ち、一人でも多くの学会員が事実に気づいて脱会して欲しいものだ。
      (現在、フランス、オーストリア、ベルギー、チリの4カ国が、創価学会をカルト指定している)





    注1.アメリカ精神医学会では自己愛型人格障害の特徴を以下のように列記している。



    自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
    限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
    自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
    過剰な賞賛を求める。
    特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
    対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
    共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
    しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
    尊大で傲慢な行勤 または態度。

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  • from: 22世紀さん

    2010年07月23日 21時43分28秒

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    金と権力を生む宗教の本音

    あるH.Pからの転載ですが、当時のことが生々とよみがえってきます。それもそのはずです。このH.Pの製作者は、元池田大作の側近だったのです。参考になれば

     あるH.Pからの転載ですが、当時のことが生々とよみがえってきます。

     それもそのはずです。このH.Pの製作者は、元池田大作の側近だったのです。

     参考になれば幸いです。

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  • from: 22世紀さん

    2010年07月23日 21時19分40秒

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    金と権力を生む宗教の本音 、その5

    高利貸池田大作〝取り立て〟のすご腕〝信仰心〟という〝葉っぱ〟を〝月三分〟という高利でくすぐり、〝出資金〟という〝お札〟に替えることに成功した大蔵商事は

    高利貸池田大作〝取り立て〟のすご腕
      〝信仰心〟という〝葉っぱ〟を〝月三分〟という高利でくすぐり、〝出資金〟という〝お札〟に替えることに成功した大蔵商事は、その金を〝月七分〟以上で貸しつけ、或いは〝月一割〟という高利で手形割引にまわした。

     現在、年利一%台の預金金利が常識となっている時代には、一般庶民には考えられないような高利の世界である。だが、終戦直後のインフレ期からようやく抜け出そうという昭和二十五年当時では、当然といってよい金利であるし、現在でも、暴力団金融、町金融では、月五分、月八分、といった金利は、むしろ良識的ですらある。〝トイチ〟(十日で一割)とか、〝カラス銭〟(カラスがカーと鳴いたら一割上るという、日歩一割〟といった金融もいまだに根強く存在しているのである。  〝高利〟には、貸倒れに対する危険保障がふくまれる。貸倒れになる確率の高い金融ほど利息が高いのである。

     つまり、大蔵商事の貸付金利は、当時の経済情勢からすれば、リーズナブルなものであったのではないか。そして、その金利で利益を上げるということは、〝回収の確実性〟が必要である。貸しつける元金を確保するのも大仕事であるが、貸付けた金の回収は、もっと大仕事である。だからこそ、弁護士や、取立て屋や、更には暴力団などがそこでシノギをしている。だが、こうした〝取立て職人〟をつかえば、コストは飛躍的にはね上る。少々の利息など吹きとんでしまう。

     金融の営業マンの腕の見せどころは、まさに「取り立て」にあると言えるのである。  貸し出すときの調査、法律手続、担保、そして、コゲついた時の対応。  先述の森重章は、  「それは、池田先生は、群を抜いていましたよ。だれも及びませんでした」 と語った。  学会員から金を借り入れる時の、ニコヤカで礼儀正しい青年が、取り立てる時は、冷酷非情に徹しなくてはならない。

     よく、  「寝ている病人のフトンをはがして行く」 とか、  「ナベ、カマまで持って行く」 とかいわれるが、それに似た徹底さがなくては、金融業はやっていけない。  東京安全信用組合の失敗や教訓として、戸田城聖と池田大作は、貸出先を厳選した。聖教新聞の広告を見て、倒産間ぎわの学会員が大蔵商事を訪れても初めから相手にされなかった。  「うちは、あなたのような人が利用するところではありませんよ。利息は高いし、一度借金地獄に入ると抜けられなくなります。悪いことはいわないから、地道に努力しなさい。あなたのために言うんです」  会員をいたわるような口調でていねいにことわられる。  ことわられた会員は、  「戸田先生は、商売気抜きでそこまで私のためを思って下さる」 と逆に感激する。  その一方で、回収の見込みがあり、或いは担保の充分ある相手にはどんどん貸し付ける。それでもコゲついたら、容赦なく担保を流す。足りなかったら、「寝ているフトンをはがす」こともやる。

     こういう仕事の過程で暴力団など裏の組織との接触も当然生じる。  終戦直後のインフレ、そして次にデフレ。戦災で打ちのめされていた日本経済に、チャンスが訪れていた。  昭和二十五年から七年にかけての朝鮮動乱は、我が国に〝特需景気〟をもたらし、経済は一気に立ちなおりはじめた。  「一ヵ月たつと物価が倍になり、お札の値打ちは半分になる」 といった時代。  「ものを作ろうにも金も資材もなく、作っても売れない」 といった時代。  それをしのいだ後に、  「作りさえすれば売れる」 という時代が到来したのである。  町工場も企業も、設備投資と増産に走り、そしてそれがもうけにつながった。強い資金需要と好景気の中で、大蔵商事にとって有利な貸付先に不自由せず、しかも倒産とか貸倒れといったケースが少ないという経済状況は、願ってもないことであった。



    担保品売りさばく〝東洋精光(物産)〟
      その中で、戸田城聖は、更に抜け目なく手を打った。  貸出し先の会社を強引に乗っとると、その会社で、大蔵商事が引きあげて来た担保流れの品を、学会員向けに売りさばくことを始めたのである。  これが「東洋精光」後の「東洋物産」であり「社長会」のメンバーで記録係の一人をつとめたとされる木村靖氏は、その社長である。  もっとも、「東洋精光」のスタート時は、社長は北条浩であった。後の四代会長であり、池田創価学会の大番頭として常に№2として君臨した人物である。

    大蔵商事=池田大作、東洋精光=北条浩と、三代、四代会長がいずれも創価学会本体からではなく、外郭会社から出ていることは、まことに興味深い。  北条浩は、小田原の北条早雲の子孫で、戦前の侯爵・貴族院議員の家の長男である。海軍兵学校を卒業後、〝銀河〟のパイロットになり、終戦を迎えた。戦後は、一介のサラリーマンとして北陸路に勤務したりしていたが、柏原ヤスの折伏で創価学会に入った。  戸田城聖は、北条浩の家柄と人格に目をつけ、青年部発足時には、〝第一部隊長〟に任命している。このとき、池田大作は、竜年光第四部隊長の元で班長だった。

     この北条浩を東洋精光の社長にすえ、池田大作ひきいる大蔵商事と営業成績をきそわせたのである。  大蔵商事が学会員から集めた金を、高利で貸しつけ、運用する。その際生じた担保流れ品を中心に、いろいろな物品を東洋精光で、学会員に売ってもうける。  東洋精光は、学会幹部のセールスマンをつかって、学会員に、ナベ、カマなどの日用品から、電気製品にいたるまで、何でも売っていた。それも、利幅の大きい、二流、三流のブランド品であった。

     社長会記録によれば、池田大作は、この東洋精光に対して、もっともひんぱんに口出しし、実質的な社長兼営業部長の観がある。  私が中西治雄に聞いたところでは、  「戸田先生は、池田先生と北条さんに、大蔵商事と東洋精光でもうけをきそわせていました。しかし、いつも池田先生が上でした」という。  池田大作は、金融業もさることながら、物品販売にも異常な関心を示している。大蔵商事から手を引いた後は聖教新聞等の出版収入と外郭会社の物品販売が〝池田商法〟の中心になる。それは、後刻、「社長会記録」の解析によって明らかにする。  要するに、東洋精光もまた、創価学会と一体不二の関係の企業であり、池田大作が〝葉っぱ〟即ち〝信仰心〟をお札にかえるための工房であった。この大蔵商事と東洋精光で、当時、創価学会の首脳は養われていた。

    〝金をにぎるものはすべてを支配する〟

     池田大作が田中角栄氏らと同じような支配構造をつくっているのは、この時の経験によるものである。  聖教新聞などによる出版収入で職員が養えるようになるには、さらに二〜三年の月日が必要だったこの時代、大蔵商事の利益で養われる創価学会首脳が、次第に池田大作に頭が上らなくなるのは、当然のなりゆきであり、池田大作は、大蔵商事の実績を足場に創価学会の中枢にのし上っていく。  昭和三十五年(一九六〇)、会長就任直後に出席した神奈川県横浜市鶴見区の幹部会で、池田大作は次のように述べている。

     「昭和二十五年頃は、毎日のように仕事で鶴見に来ていた。戸田先生は会長になることを嫌って罰を受け、事業面でも大きな困難にぶつかっていた。そのとき、ある人から〝戸田なんかに使われるのはやめたまえ〟といわれたが、彼は現在、半気違いのようになってみすぼらしい姿で生活している。また〝戸田につかないでおれの商売をやれ〟といった者が、その後はさびしそうに小さな店をもって暮らしている。」  

    また、昭和二十七年三月十日付聖教新聞には  「池田大作君、白木かねさん、御結婚お目出とう」 という見出しで、次のような記事が掲載されている。  「池田大作君と白木かねさんの婚約が発表され、媒酌は飛躍を続ける大支部蒲田の総帥・小泉隆理事(中略)」  「数年間戸田先生に忠実に御仕えて朝から夜迄縦横に全東京を駆けている姿は実にたくましい。苦難の二十五年も先生の陰の一人として戦い抜いて来た」  「同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君、御目出とう」(このかね婦人も、後日「香峯子」と改名している。太作、かねの夫婦では、大教団のトップとしてはいささかサマにならない。大作、香峯子と、それぞれ「名前の整形手術」を行なったわけである)。

     この二つの引用にも明らかなように、この当時、創価学会の活動も戸田城聖の事業活動も同一視され、まさに、後の創価学会と公明党のように、〝一体不二〟の関係にあった。切りはなしても両方が死に、また一方がつぶれたら他方も倒れるという、シャム双生児の関係である。  「戸田先生は、五〇〇〇万集めろ、それで証券会社でも何でもやって、学会がどうなっても、やって行けるようにせよ、とおっしゃった。その時は集められなかった」(社長会記録昭和四十六年十二月三十一日)  戸田城聖も池田大作も、〝もうだめかも知れぬ〟と思った昭和二十五年十二月思い出話である。  だが、幸か不幸か創価学会はだめにならず、その会員の信仰心を利用することで、戸田城聖の事業は立ち直った。  戸田城聖は、大蔵商事の利益で負債を返済するとともに、創価学会運営のための経費をねん出したのであった。そして、死亡時には、八千万円の私財をたくわえていたのである。  「私もすべて『世界一』を目ざして来た戸田先生のもとで、それは真剣に勉強した。生命をかけての努力をした。その努力があって今の私がある。」(平成六年一月二十六日、於創価大学)  池田大作が戸田城聖から生命がけで学んだ〝葉っぱをお札にかえる術〟は、今も創価学会の中に脈々と生きつづけており、貪欲に増殖して日本列島を呑み込もうとしているのである。  昭和二十五年頃から、戸田城聖は、行きづまった事業にはダミーを立てて一線から身を引き、かわって創価学会へと軸足を移した。以後、創価学会はすさまじい勢いで進撃を開始したが、それにともなって多くのトラブルも生じた。



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  • from: 22世紀さん

    2010年07月23日 21時15分15秒

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    金と権力を生む宗教の本音 、その4

    池田営業部長、色と欲の二筋道大蔵商事のスタートの話から、いきなり今日の結論の話へと飛んでしまったが、それは昭和三十四年に入信し、昭和四十五年に創価学会

    池田営業部長、色と欲の二筋道
     大蔵商事のスタートの話から、いきなり今日の結論の話へと飛んでしまったが、それは昭和三十四年に入信し、昭和四十五年に創価学会本部中枢に入った私が、なぜこの会社とかかわりを持ったかということを説明するためである。本論は、あくまで、池田大作が大蔵商事で何をやったかである。

     「要するに、金を持っていそうな学会員に目をつけて金を借り、それを貸しつけて利ざやをかせぐ仕事でした」  「池田先生は、金を借りてくるのが実にうまかった。」  森重章は、私に語った。  裕福そうな学会員、或いは、学会員の紹介で資産家のところに、池田大作と中西治雄がしげしげと通い、  「月三分(年利三六%)の利息を払います。どこに預けるよりも有利ですよ」 と言って言葉巧みに出資を勧誘した。

     その頃の二人は、二十二、三才。さっぱりと刈り上げたヘアスタイル、地味だがキチンとした身なりで、誠実さを演出した。  東京安全信用組合の時代は、世間のだれも金を出してくれなかったが、〝創価学会〟をバックに、  「実は、戸田先生の事業です」 といえば、話は違った。  創価学会では、戸田城聖の権威は絶対的である。しかも、創価学会の背後には、富士山麓に七百年の歴史をほこる日蓮正宗大石寺の存在がある。

     池田大作には、さらに、奥の手があった。  森重章はいった。  「役職や議員バッチの効き目は抜群でしたよ。私には、そんな権限はない。」  気前良く出資してくれた学会員は、後に戸田城聖に進言して無条件で創価学会の幹部に登用し、そして市会議員、町会議員等に推薦するのである。  軍隊組織をまねた創価学会において、幹部は絶大な権勢を振るう。特に〝大幹部〟といわれる、支部長以上、部隊長クラス、それと同格の監事クラスになると、数百、数千の会員の上に君臨する。一つ階級が違えば、下の者は上の者に絶対服従させられる。幹部達にとって、会合のとき壇上の〝ヒナ壇〟に上れるか否か、序列はどうかということは、最大の関心事の一つである。  会員の信仰心と日蓮正宗の信徒団体としての創価学会への信用、そして役職や議員の肩書きによる欲望の刺激の効き目は池田大作自身驚くほどであったらしい。

     〝葉っぱをお金にする〟の〝葉っぱ〟とは、他ならぬ〝宗教〟〝会員の信仰心〟のことであったわけである。  池田大作の営業に協力したおかげで本人や息子らが創価学会で出世したり地方議員になったりした例は、神奈川県のY氏一家をはじめ数え切れないほどいた。  とりわけ顕著だったのが、埼玉県大宮市の松島勇氏一家であった。  国鉄大宮機関区に勤めていた松島氏は、池田大作の勧誘に応じて出資に応じたばかりか、機関区の仲間や同僚達に働きかけてその退職金や共済金までも出資させることに成功した。大蔵商事にとってその利益は、一時は決定的といえるほどで、池田大作は、この仕事の成功で、大蔵商事の中心者にのし上がったのである。  松島氏は、やがて支部長、理事、副理事長と出世し、創価学会の推薦で大宮市の市議会議員に出馬、当選した。  松島氏は、組織のオルガナイザーとしては最低で、いつもトラブルをおこしており、その収拾に、北条浩ら最高幹部は手を焼いたが、松島氏がどんなにヘマをやろうと、また不公平、不正を働こうと、更迭されることはなかった。池田大作が、更迭を許さなかったのである。

     池田大作は、中西治雄と二人で、そしていつの間にか単身で、仕事にかこつけて松島家に足しげく通うようになる。  松島家には、当時の創価学会内で有名だった才媛が二人居た。姉が郁子さん、妹が通子さんである。姉は、藤原行正氏(元公明党東京都議会議員、同都議会幹事長、後に池田大作に造反)に嫁ぎ、妹は、現在、渡部一郎(元公明党代議士)の妻である。  池田大作は、とりわけ妹の松島通子さんに気があって、通子さんの方もまんざらではなく、やがて二人は深い仲となった。  通子さんには、当時青年部長だった辻武寿も執心で、同氏が松島家を訪れ、通子さんの手を取ってメンメンと口説いていたところを婦人の信者に目撃されている。

     だが、創価学会での役職がはるかに上の辻氏を打倒して池田大作は、恋の勝利者となる。その勝因は、池田大作の〝金力〟であった。  この頃、二十三、四才の池田大作の月給は、月二十万円であったという。当時の総理大臣の月給が十一万円で、国家公務員の初任給が七千六百五十円であった。  ちなみに、私がそれより十数年後に司法修習生になった時の月給が、特別手当を加算しても二万七千円であった。それでも人にうらやましがられたし、弁護士になって、月収十万円にこぎつけるのに、二年ばかりかかった。

     現在の価値に換算するとどのくらいになるだろうか。おそらく、五百万円は下らないのではなかろうか。  さらに、社長会記録(六十九年六月一日)によれば、 「三年かかってかせいだ歩合のお金。私の貰い分が二百万。今(昭和四十三年〜四年頃)の金にすると数千万円になるな。それで先生(戸田氏)の借金を返した」 という。  池田大作は、この金を、創価学会のこれはという幹部を手なづけるのに使う、そしてまた、目をつけた女性を落とすためにつかった。

     当時、松島氏宅の三畳間で、池田大作が素っ裸で仁王立ちになり、通子さんにタオルで身体をふかせていたところを小沢よねさんら二人の婦人会員に見られている。二人は、この事実を〝月刊ペン〟事件のやりなおし裁判の法廷で証言したが、創価学会側は通子さんの弟らに偽証させて、  「三畳間など、当時なかった」 と主張し、二人の証言を弾がいした。裁判所は、なぜか二人の証言を正面をから取り上げずに隈部氏に有罪を宣言した。

     だが、後日、造反した竜年光氏(元創価学会総務、公明党東京都議会議員、都議会副議長)は、  「私は、当時、松島氏の選挙の応援などで松島家に行っているが、三畳間はたしかにあった」 と証言している。  また、通子さんの姉、郁子さんの夫、藤原行正氏は、私に、  「〝月刊ペン事件〟の時、私は学会本部によばれ、秋谷氏(現会長)、八尋弁護士(現副会長、ルノワール絵画疑惑の中心人物)らから、〝三畳間なかった〟という偽証をたのまれたが、〝私はわからんし、女房や母は、法廷に出たら何を言うかわからんですよ〟と答えたら、あきらめて、弟にたのんだ」 と語っている。

     色と欲の二筋道を共に満足させてくれる大宮市の松島家は、池田大作にとって〝極楽〟の地であったに違いない。  戸田城聖は、愛人の柏原ヤスさんを参議院議員にしたが、池田大作はこれにならって後日、愛人の通子さんを衆議院議員にしてしまった。  これも、池田大作流〝アメとムチ〟の論功行賞の典型であり、創価学会私物化の典型である。  「広宣流布のため」「王仏冥合のため」と言って、必死の選挙運動をさせられた学会員こそ良い面の皮である。

     余談であるが、池田大作は、大蔵商事時代に自分に金をつぎ込んだ者の他に自分に貞操をささげた女性とその一家を、ことの他手厚く遇している。彼女や彼らが、池田大作の寵愛を鼻にかけて、やりたい放題をしても、だれも咎めることはできない。そんなことをしたら、逆に池田大作にあることないこと言いつけられ、その結果、理事会などの席で立たされて池田大作から目の玉が飛び出るほどドヤされるからである。  さて、戸田城聖から、金融業の奥の手を直々に指南され、腕ききの営業マンとなった池田大作は、創価学会員という願ってもないマーケットを与えられ、いかんなくその力を発揮した。  やがて、聖教新聞にも広告をのせるようになる。  




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    2010年07月23日 21時10分52秒

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    金と権力を生む宗教の本音 、その3

    一方、学会本部、公明党関係の裏金ルートは、私が北条浩副会長のそばにいたおかげでそのほとんど全容を知ることができた。中西治雄は、その後、私や原島嵩氏の造

    一方、学会本部、公明党関係の裏金ルートは、私が北条浩副会長のそばにいたおかげでそのほとんど全容を知ることができた。  中西治雄は、その後、私や原島嵩氏の造反(昭和五十五年頃)と時を同じくして池田大作との間が冷え、やがて一線から自ら身を引いた。その原因は、池田大作の命令で勝手に板本尊をつくらされた「ニセ本尊模刻事件」の実行者としての自分にいやけがさしたためと見られる。余談であるが、中西治雄が八王子の土地取引をめぐって業者から受取ったリベートを、池田大作が専用室にしまっていたところ、昭和五十二年、国会での追及をおそれて、全国一斉に専用室をとりこわした際、金庫ごと聖教新聞社地下倉庫に移した。これを、中西治雄が引退した後、何も知らない職員が〝粗大ゴミ〟として捨ててしまった。  平成元年六月三十日、横浜のゴミ捨て場から一億七千万円入りの金庫が捨てられているのが発見された事件のこれが真相である。  私は、写真で見た風呂敷のもように見覚えがあり、リベートを贈った業者に確認したところ、「金額も、風呂敷も、あの時のものだ」との回答を得ている。  この事件は、中西治雄が、外郭会社の利益をクスねて着服したものを金庫に入れたまま忘れていた、ということで、除名処分になってドロをかぶってフタをした。  その後、今日まで、中西治雄は沈黙をまもり、その代価として生活は保障されゴルフ三昧の優雅な生活を送っている。  星生務は、正本堂募金の処理をめぐってミソをつけたのがケチのつきはじめで、次第に会内での権勢を失い、今ではほとんど目立たない。


    大蔵商事のしりぬぐいに正本堂御供養金
     さて、大蔵商事の営業はどのようなものであったか。  話は少し先にとぶが、私は、昭和四十六年頃、大蔵商事の後身である「大同商事」の負債整理を、中西治雄らと共に行なった。 池田大作は、創価学会三代会長に就任した後、和泉覚、星生務、中西治雄らを引きつれて創価学会本部に乗り込んだ。そして、大蔵商事とは絶縁する。〝二度と汚い仕事などするものか〟  残された大蔵商事は、森重紀美子と、その甥である森重章が経営するところとなり、創価学会とは切り離される。だが、昭和四十年代の初めには、脱税で国税局の手入れを受け、ダメージを受けたばかりか、経営の基盤であった創価学会から切られたため、次第に営業不振に陥り、多大な負債をかかえて、森重章は、池田大作に泣きついた。それは、  「大同商事(大蔵商事)が倒産したら、古くからの債権者(学会員もかなり残ったいた)がさわぎ、池田先生の名前も出て創価学会にも迷惑がかかるでしょう」 という、〝どうなっても知りませんよ〟といわんばかりの投げ出し方であった。  池田大作の指示で、森重紀美子に連絡が行ったが、  「まことにすみません。御迷惑をおかけしますが、よろしく」 と逆にゲタをあずけられる始末。  森重紀美子の一人息子光生は、「和光商事」という会社の社長であったが、これは、聖教新聞社の用紙を一手に扱う会社で、すべての製紙会社がこの会社をとおして創価学会関係の紙を納入する〝利権会社〟であり、莫大な利益を保証されていた。これは、池田大作が、大蔵商事時代、自分をひいきしてくれ、今日の地位をきずかせてくれた森重紀美子に対する感謝のプレゼントであった。  戸田城聖の本妻、幾子に対しては、死後、ただちにトラック二台で邸に乗り込み、戸田城聖の遺品と称して目ぼしいものをすべて引き上げる、という非情な仕打ちをした池田大作が、森重紀美子には、惜しげもなく創価学会の利益の分け前を終生与えつづけた。この〝アメ〟と〝ムチ〟のつかい分けのきびしさは、池田大作の人心掌らん術の特徴である。

     池田大作は、  「これだけ利益を分けてやっているのだから、大同商事のあと始末くらい自分でしたらどうか」 と言いたかったのだが、あにはからんや、森重光生は、〝銀座の帝王〟と呼ばれた遊とう児で、あらんかぎりの金を、女遊びにつぎ込み、和光商事には一文のたくわえもなかった。  あきれ、怒った池田大作ではあったが、背に腹はかえられず、私達に善処を命じる他なかった。  私は、森重章らに会って、会社の実情調査を行なった。  森重章は、自らの放漫経営はたなに上げて、  「私は、池田先生らがおいしいところを全部吸って行なったカスの会社を引き受けさせられたんです。当時からの貸金のコゲ付きもまだ残っているし、それに、学会は、その後全く面倒を見てくれないばかりか、有力な出資者に手を引くようにしむけたんです。」 と、うらみつらみを述べ立てた。  創価学会の発展とタイアップして伸び、維持されて来た会社だけに、創価学会と切り離されたことが致命傷になったことは当然である。だが、森重章らは、それにもかかわらず放漫経営と浪費を続けた。  「母が、池田大作のめんどうを見、引きたてたおかげで池田大作は会長になれた。学会が森重一族の面倒を見るのは当たり前だ」 という態度を露骨に見せながら、森重章は大蔵商事以来の由来と経営の実態を私に話した。

     大同商事は、信じられないほどの巨額の負債をかかえ、その債権者の多くは学会員であった。また、池田大作や中西治雄が開拓した出資先も多くのこっていた。  しょせん、創価学会に寄生していたにすぎない会社が、寄生主である創価学会から切り離されて生きていけるわけがないのである。森重一族は、大同商事を投げ出し、創価学会にゲタを預ける気でいたから、どうしようもない。  私は、部下の弁護士とともに、大同商事の整理を行ない、再生させる作業にとりかかった。社名を「日章」に変更し、社長や役員も、創価学会青年部にとりかえた。監査役には、私の部下の弁護士が入った。  肝心の〝負債の穴うめ〟は、中西治雄の仕事であった。

     中西治雄は、その財源をまず「正本堂御供養金」にもとめ、続いて学会本部に求め、更に日蓮正宗に求めた。

     一、正本堂、及び同建立事業にともなう末寺建設の際の、〝災害保険〟をすべて「日章」の扱いとし、手数料収入あげる。


     二、創価学会関係の施設の災害保険を一手に扱わせ、手数料収入をあげる。  三、正本堂建立にともなう記念品やグッズ、本山売店での販売品、創価学会の使う物品の納入を「日章」経由で行なう。


     四、会員用の物品をとり扱わせる。

     こうした方法で、中西治雄氏は、「日章」となった大蔵商事の赤字の穴うめをした。その金は、先述のとおり、正本堂募金(三百五十五億円)日蓮正宗、そして創価学会から支出され、或いは会員のフトコロから出た。

     結局のところすべて学会員の負担で行なったのである。  これらは、すべて、池田大作の決裁と指示で行なわれた。 社長会記録には次のような記述がある。  


    「(念珠)一手に買い取り、卸せば良い。もう内の人達が使うもので、外郭に儲けさせる事はない。線香もローソクも東洋精光でやんなさい。正本堂のみやげものも作れ、とにかく作るものは全部東洋にやらせる」(第24回)


     「一連50円の儲けとしても、10年間に1、000万本としても5億だ。年間5、000万だ、大きいよ」(第29回)  


    「北海道 絵はがき6万売った。うまいことをした。来年は栞を5枚一組で50円位で売る」(第47回)  


    「杉本君(栄光建設=注)の方はどうだ。東海研修所、小さいがやんなさい」(第48回)


     「白糸の近所、5、000坪のものを建てる、それも栄光でやれ」(同)


     「(本山バザール)1、900万売り上げるか、それはいい。しっかりやれ」(第51回)



     金に関することは、こうした細かいことまで、池田大作は自ら指図していたことを証明する記録である。  正本堂が落成した昭和四十七年頃学会員であった人達は、〝記念〟にもらったり本山売店で買ったりした〝金盃〟(もちろんメッキである)などのグッズを覚えている人も多いだろう。その代金の何割かは、大蔵商事の赤字の穴うめに使われたのである。  現在も、「日章」は、東京都千代田区富士見二ノ三のビルの二階に本社がある。社長の佐藤武一は、創価学会の古参幹部である。取締役には、森重紀美子の一人息子、光生の妻裕子の名がまだ残っている。これは、光生の死後、その遺族を池田大作が面倒を見ているのである。監査役には福島啓充弁護士がずっと務めている。法学委員会出身で、数年検事をつとめたあと弁護士になり「日章」の整理を担当した。現在創価学会副会長であり、創価学会の訴訟事件の多くの主任弁護士を務める。

     創価学会系総合雑誌「潮」には、次のような広告を出している。  平成七年十二月四日、参議院宗教法人等に関する特別委員会に秋谷栄之助が参考人として呼ばれたとき、共産党の橋本敦議員は、創価学会施設に関する損害保険契約をエサに保険会社に対し、公明党への選挙協力を強要していることについて、  「明らかに公選法違反の利益誘導罪が、特定の創価学会の巨大な財産の保険契約との関係、その特別の利害関係を通じての誘導行為に当たるということで、これは公選法違反の利益誘導罪に当たるということは、私は間違いない事案だと確信して話をしているんですよ。

    それでもう一つ、秋谷さん、重大な問題は、この問題の基礎になっている境内建物、礼拝所、その他創価学会の資産は、これは非課税の資金で蓄積された大事な資産でしょう。そして、礼拝所は固定資産税非課税の建物でしょう。二重に非課税の建物が、創価学会のこの利益誘導によって特定政党支持活動の公選法違反の犯罪のまさにその母体になっていることは、これは社会的に重大な問題じゃありませんか。こういう問題について率直にあなたは反省されないのかどうか。まさに創価学会の責任者として徹底的に調べなさいよ。徹底的に調べて国会に報告する、それぐらいのことはしなさいよ。どうですか。」と追及した。(議事録引用)  これらの保険契約も、日章をとおして行なわれている。

     平成六年十一月二十五日号「週刊ポスト」で、「長期総合保険をめぐって学会及び聖教新聞社と東京海上の間で交わされている十億二千九百六十二万六千九十円の保険の不正契約の一件」がスクープされているが、同契約の取扱代理店はすべて「日章」である。「日章」は、二千五百万円の手数料をかせいでいる。(野田常雄氏著「池田大作の金脈」より)  大蔵商事、大同商事、日章と、社名を転々と変えながら、池田大作の「葉っぱをお札にかえる工房」である会社は、ひっそりと創価学会への寄生をつづけているのである。それは、表立って「関連企業」と名乗ることを許されず、日陰でつながっていて、あたかも、かつての主宰者であった戸田城聖の愛人、森重紀美子さんの立場を象徴するようでもある。

     池田大作は、後に、熱海の東海研修道場の庭園で、一ぱしの俳人気取りで私に言った。  「どうだ。萩の花は風情があるだろう。どこか、さみしげで、萩は、二号さんの花だな。私は萩が好きなんだよ。」  好きなのも当然だろう。  池田大作は、戸田城聖の二号さんに「お母さんお母さん」とオベッカをつかい、引立ててもらったおかげで、創価学会会長への足場を固めることが出来たのだから。  池田大作が、後日  「戸田先生は、何で私に金貸しのような汚い仕事をさせたのか……」 と怨みつづけるほど汚い仕事をつづけた舞台の大蔵商事―今日の「日章」を、池田大作はしかし切りすてることはできない。日陰で、養い続けなくてはならない。  池田大作にとって、創価学会が本妻なら、大蔵商事―日章は、正に二号にあたるといえよう。  要するに、創価学会からうまい汁を吸う会社を切りはなしたが、結局、元のように寄生状態にもどしただけである。

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  • from: 22世紀さん

    2010年07月23日 21時03分48秒

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    金と権力を生む宗教の本音 、その2

    草創期、創価学会再建当時の教団と事業宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖〝金と宗教〟の奇妙な混合は創価学会設立のときか

    草創期、創価学会再建当時の教団と事業
    宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖
     宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖 〝金と宗教〟の奇妙な混合は創価学会設立のときからつきまとう特質である。まずそのことを、歴史をふまえて検証したい。  昭和二十年七月三日、戸田城聖という男が東京都中野区・豊多摩刑務所から出所した。 「創価学会」の歴史はこの時から始まる。

     牧口常三郎が会長として主宰した「創価教育学会」は、当時、軍部が進めていた宗教政策からはみ出す存在として弾圧を受け、牧口会長とともに理事長の戸田城聖も投獄された。  もっとも、その理由は、池田大作らが後世ねつ造して宣伝したごとく、「反戦・平和」を主張したからではなく、軍部が進める日蓮宗各派統合政策に反対し、また、「日蓮によって祈らなくては国が亡びる」と強く主張したことが、国家神道とそぐわなかったから、ということが主なものであった。創価教育学会も、当時の他宗教と同じく、〝戦勝祈願〟を行ない、また、座談会の初めには宮城よう拝を行なっていたのであって、その当時、〝反戦〟とか〝平和〟とか言う人物や団体は、日本の社会には存在しなかったか、できなかったのである(そんな歴史のイロハも知らずして、「創価学会は反戦・平和で軍部に弾圧された」という神話をウノミにして創価学会シンパとなった進歩的文化人が現実にいるから驚かされる)。

     牧口常三郎氏は獄死した(もっとも、当時を知る数少ない人の証言によると、心身ともに消耗し、廃人状態となって釈放された後、死亡した、という説もある。いずれにせよ、軍国主義の犠牲となったのであり、いたましいことであった)。戸田城聖の出獄後、一ヵ月余り、八月十五日、第二次世界大戦は、日本の無条件降伏によって終結した。  同年十二月九日、GHQは、「国家と神道の分離令」を発令し、国家神道、神社神道に対する政府の保障、保全等が廃止された。そして、戦前の宗教法人法は廃止され、ポツダム勅令にもとづく宗教法人令が施行された。

     戦前の宗教団体法は、政府の宗教団体に対する監督権が強く、国家による宗教支配と弾圧の根拠の一つになったことにかんがみ、宗教法人令は、国家の宗教支配の排除、神道を事実上の国教とする戦前の政教一致体制を否定し、あらゆる宗教団体を平等に扱い、宗教法人となる道を開いた。  翌二十二年五月三日には、新憲法が制定され「信教の自由」と「政教分離」が明確に保障された。  GHQの占領政策によって突然もたらされた「信教の自由」と「政教分離」のもとで、神道は閉塞し、既成仏教教団も農地解放策の打撃でなすすべもなかった。そして国民の生活苦と社会の混乱の中で新興宗教が雨後のたけのこの如く誕生し、発展した。霊友会、立正佼成会等の教団が全国を風びし、また、戦前、弾圧を受けて逼塞していた天理教、PL教団等も息を吹きかえした。  こうした、我が国の宗教界に大きな風穴があいた状況の中で、創価学会は再スタートを切った。  もっとも、戸田城聖が、出獄後まず手がけたのは、事業の再建であった。

     昭和二十年八月二十日、終戦からわずか五日後に、東京、上大崎に『日本正学館』の仮事務所を設立し、通信教育の広告を新聞等に掲載している。戸田城聖四十六才の時である。それから十三年後、五十八才の若さで世を去るまで駆け足で走りぬけた人生の間に、彼は、百三十万世帯という驚異的な巨大教団をきずき上げた。  同年十月、西神田に『日本正学館』の事務所を移した戸田城聖は、政治家古島一雄氏、弁護士大滝某を相談相手として、教育、出版事業に精力注いだ。  これに遅れること五ヵ月、昭和二十一年三月、戸田城聖は、『日本正学館』の事務所にやっと『創価学会』の看板を並べた。

     牧口常三郎は教育者であり、日蓮正宗の教義と独自の「価値論」を結合させ、「創価教育学会」を創立したのであるが、戸田城聖は、戦後、牧口常三郎氏の遺弟を糾合して再建するに当たり、「教育」の二字を取り去った。  戸田城聖は、教育そのものには関心がなかった。そして「信教の自由」「政教分離」がもたらすであろう社会変化を鋭く見とおして、来るべき「宗教の時代」そのものを、自分の野心を実現する舞台と考え、宗教を中心にすえる意味で〝教育〟の二字を除いたのであろう。  この点について後に、戸田城聖の遺言録(日蓮正宗開祖日興上人の〝遺戒置文〟になぞらえて、池田大作は、これを創価学会の〝遺戒置文〟と呼んだ)を池田大作が加筆、編纂した「水滸会記録」には次のような一節がある。

     『今日の日本では、経済界も政界でも教育界でも、組織がガッチリ出来上がって、これからのびて行く余地は少ない。ところが、宗教界だけは、ちょうど戦国時代のときのような乱戦状態である。法律でしばる何ものもない。縛を解いて虎を野に放ったようなものである。今こそ広宣流布できるチャンスだ。』  この言葉は、戸田城聖が宗教を、政治や経済活動と同列に、国家権力を争うための一つの手段として端的にとらえていることを示すものであり、これは、戸田城聖のポリシーを継承した池田大作の宗教観でもある。  もっとも、戸田城聖は、創価学会より、事業の再建を優先したが、それは、彼がそれまで〝すべての基盤は経済力にある〟との思想の持主であったからである。  同じく「水滸会記録」には戸田城聖の言葉として次のような記述がある。  「むかしの武器は刀であったが、現代の武器は金力(財力)である。むかしの兵力に相当するものは、金力である。」

     「今日は、新しい一つの理論を教えよう。広宣流布の基盤はどこに置くべきか。経済に基盤を置かなくてはならない。一億や十億の金では、広宣流布はできない。しからば、日本中の金がなければダメだ。大経済に腰をすえて君らがやるんだ。君らがやらないでだれがやるのか」  「一人の議員をつかんで自由に動かすのには、買収費と小遣いをいれて(当時)一年に四百万円かかる。百人で四億円だ。これが一つのホシになる。  四億円あれば、日本を動かすことができる。広宣流布も最後は経済だ。だから日銀総裁も、この中から出なければダメだ。」  この戸田城聖から個人的に薫とうを受け、その事業面の中心となって働いた池田大作が、経済活動と創価学会の宗教活動を渾然一体化してとらえるのは、当然のなり行きであろう。否、むしろ〝経済を支配する者はすべてを支配する〟という考えの持ち主であるといった方が正確である。ちなみに、池田大作は、「社長会」を拡大した外郭職員の会である「金剛会」において、自らが本部職員や聖教新聞社員ではなく、大蔵商事から出て創価学会の会長になったことを自賛して「外郭の諸君は源氏であり、本部職員は平家である」と宣言している。

     池田大作にとって、創価学会本体も、外郭会社群も、文字どおり〝一体不二〟なのであり、教団が、たまたま金もうけのために事業に手を出す、ということは根本的に違うのである。さらには創価学会本体より経済を支える外郭会社の重要性を強調することで自らの権威を高めようとしたとみられる。この点の認識がなくては、創価学会の拝金主義が正しく理解できないし「社長会記録」についてもその意味がよくつかめないのである。  前述のとおり、戸田城聖は、「日本正学館」の看板と「創価学会」の看板を並べて(もっとも、前者が主で、後者はつけ足しのような形)掛けた。  戸田城聖は、事業と宗教活動を一体視していたのであるが、この時期は、まだどちらかというと、「創価学会」の方は、片手間、といった印象を否めない。  さて、その創価学会は昭和二十一年五月一日の第一回幹部会で、戸田理事長のもと、牧口門下生の原島宏治氏、小泉隆氏、辻武寿氏らを理事に定め、一応、会の規約や綱領を発表した。教学、財務、婦人、青少年等、今日のひな形となる九部の組織を定めた。六月二十二日には十一名で青年部も発足している。



    池田大作入信の真相

     池田大作がこの草創期の創価学会に入信したのは、昭和二十二年八月二十四日である。後に、この日は「池田先生入信記念日」とされ、会員達は莫大な御祝儀や祝品を強要される日となっている。  池田大作著「小説人間革命」によれば、戸田城聖と池田大作は、この日大田区内の座談会で宿命的かつ劇的な出逢いをしたことになっている。 「戸田は無言でうなずいた。 一座の人々は、呆っ気にとられていた。 伸一は、軽く眼を閉じ、朗々と誦しはじめた。

    『旅びとよ  いづこより来り  いづこへ往かんとするか

    月は沈みぬ 日は いまだ昇らず  夜明けの前の混沌に 光 もとめて

    われ 進みゆく  心の 暗雲をはらわんと

     嵐に動かぬ大樹を求めて  われ 地より湧き出でん とするか』

    同行した、二人の文学青年は、拍手を送っていた。  一座の人々も、それにつられたように、拍手を送った。だが、なんと変わった青年だろうと、いささか度肝を抜かれた思いであった。  座談会で、詩をうたった青年は、これまで、一度も見なかったからである。詩の内容など、彼等の頭にはとどまらなかった。」

     ところが、である。  東京大学教授で東洋文化研究所長であった小口偉一氏が、学者や学生達といっしょに行なった新興教団の調査結果をまとめた「宗教と信仰の心理学」という書物が昭和三十年に発行されている。  その中には、創価学会幹部の体験談として当時の池田大作のインタビュー談が次のように紹介されている。

     「(御本尊下付について)三十分間ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやりに私に押しつけました。」、「家にかえっても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロなって、私ばかり狙っているように思ったので、その時思わず南無妙法蓮華経と口をついてでました」  小口偉一氏は、宗教学の第一人者であり、その流れの学者達が今日、各大学で宗教学を教えている。

    当時、日本で最も権威のあった東大東洋文化研究所関係者の学術調査をまとめた「宗教と信仰の心理学」で、ことさら偽の記載をするはずもないしその必要もなかろう。「小説人間革命」の中で、池田大作が、自らを神格化せんとしてウソをデッチ上げたことは疑いの余地もない。

     立ち上がって詩を朗読して入信した、というのはまっ赤なウソ。むりやり御本尊をもたせられ、ほうり出していたところ、カミナリにおびえて拝むようになった、というのだから、こっけいを通り越して異常である。ちなみに、池田大作に親がつけた名前は、じつは「太作」であった。これを、どういう手口をつかったのか、「大作」に改名している。平凡な自分の生い立ちを、ことさらきれいにかざり立てようとして歴史を改ざんし、つくりごとを考え出すのは、池田大作のクセである。

     池田大作は、入信後、中小企業団体の事務員などをしていたが、それ以前、ブラブラしていた時期、川崎市から大田区を縄張りにする暴力団金融の手先となって、貸金取立てなども手伝っていたという(あるいは、ヤクザとの関係は、後述の、東京建設信用組合の整理の際、生じたともいわれる)。  その池田大作が創価学会の座談会に出席したのは、ナンパした女性が学会員であり、さそわれて鼻の下を長くして出席したところ、きびしく折伏され、女性にとり入ろうとしていやいや入信したのである。

     余談であるが、この女性は池田大作をソデにしたため、一族は後になって池田大作から長期にわたって陰険な仕打ちを受け続けた。  入信しても、ロクに勤行もせず、ブラブラしていた池田大作に戸田城聖が目をつけたのは、その、あつかましさと抜け目のない〝商才〟であった。  池田大作は、入信後一年余りたった〝昭和二十三年秋、戸田城聖の「日本正学館」に職員として採用された。日本正学館は、当時はやりのエログロ雑誌「ルビー」と少年雑誌「冒険日本」を発行していたが、余りに売れなくて赤字がつづいていた。池田大作は、経営不振のため、給料がろくに払えなくてなり手のなかった少年雑誌の編集長に志願しておさまった。  このつかの間の「編集長」の肩書きを、池田大作はえらく気に入っていたとみえて、後日の思い出話の中でも再三出てくる。その頃のペンネーム「山本伸一」を、後の「小説人間革命」の著者名としてつかい、また、親衛隊に対して「伸一会」と名づけている。生まれた子に名付け親をたのまれると、「大作」の次に「伸一」「伸子」の名が多いし、ひところは、学会本部近くの小学校で教師が「大チャン」「伸一君」と呼ぶと、クラスの四分の一くらいの子が返事をしたという。対照的に池田大作が最もその才能を発揮した「大蔵商事」営業部長時代のことは、ほとんど語らない。自分の出世につながった〝金貸しの手代〟時代を、池田大作は、思い出すのもおぞましい〝汚い仕事〟として、ひた隠しているのである。


    戸田城聖の破綻と池田大作
     だが弱小出版社の雑誌編集は楽ではなかった。 「日本小学館」は昭和二十四年には六千万円の負債をかかえて倒産し、雑誌は廃刊となった。会社はそっくり東京建設信用組合に移行し、池田大作は、そこで働くことになる。この会社もインフレのあおりをうけて、悪戦苦闘の末昭和二十五年八月二十二日、当時の金額で七千万円の負債をのこして倒産し、戸田城聖は債権者に追われる羽目となった。今日でいえば、第二地銀クラスの金融機関の破たんになろうか。

     当時、小平芳平、神尾武雄、和泉覚ら、創価学会の中心幹部が社員でいたが、皆お人よしで無能なため、何の役にも立たない。その中で、若いながら世故にたけ、ものおじしない池田大作が一人で、戸田城聖のかわりに借金取りの矢おもてに立った。また、資金ぐりのため、有力な会員をまわって金集めに奔走した。  「昭和二十五年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜、悪口を言った。私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。二十五年の十二月には駄目かも知れぬと思った。………」(社長会記録昭和四十三年四月二十九日)  「八月の業務停止からまもなく給料は遅配から半額払いになり、やがて無配となっていった。一人去り二人去りして残った社員は、私のほか、二、三人になってしまったのである。私自身、ワイシャツ姿で晩秋を過ごさねばならなかった」(池田大作著「私の履歴書」日本経済新聞連載)  総勢十人に満たない小さな会社の新参の末席社員であった池田大作は、入社後一年余りで倒産の修羅場の中に投げ込まれ、気がついたら戸田城聖と二人きりで借金取りと立ち向かう羽目になっていた。しかも業種は、インフレの燃えさえるなかでの無尽に毛のはえたような街金融であった。

     百鬼夜行の欲の皮を突っぱらせた金の亡者達が血まなこになって争う世界で、池田大作は、倒産、整理という衝撃的な作業からスタートして金融業の裏道を実地にたたき込まれたのである。金をめぐって情け容赦なく野獣のように喰い合う世界で、池田大作はその独特の金銭感覚をやしなったのである。

     昭和四十九年七月頃、池田大作は私をはじめ二、三人の側近とともに「今日は飲もう」と珍しく水割りを半分ほど飲んだ。そして、雑談の中で  「戸田先生の唯一の失敗は、私に、金貸しのような、汚い仕事をやらせたことだ。俺なら、後継者の人生経歴を、そんなことで傷つけたりしない」 と言った。戸田城聖は、人のつかい方はきちんとしたところがあり、創価学会の後継者と目していた石田次男氏(元参議院議員、公明党石田幸四郎委員長の実兄)には、一切自分の事業にはタッチさせなかった。反面池田大作を〝汚い〟仕事にこきつかったことは、戸田城聖が、池田大作を「創価学会」の後継者とは考えていなかった証拠ともいえる。  〝金融業〟それ自体は、れっきとした職業であり、必ずしも〝汚い〟仕事ではない。しかも、自分はそのおかげで、会長になるキッカケをつかめたのだ。にもかかわらず池田大作が〝汚い仕事〟と自己嫌悪をもって語るのは人には言えない、想像を絶する仕事であったことを問わず語りに白状したようなものである。実際、池田大作の金銭的感覚は、人並みはずれて意地汚くずるい。見えすいたウソを平気でつく。若い頃身についたその下品さは、終生ぬぐいきれないと見える。

     また池田大作は、 「資金ぐりが苦しく、金策にも四苦八苦している時、戸田先生と二人で皇居前広場を通りかかった。私がヤケクソ気味に『こんな男にだれがしたあ』と歌ったら、横から戸田先生が『俺だよ』とニコリともせず言った」 と思い出話を語った。  とにかく、池田大作が当時ヤケッパチになり、後に思い返してもへきえきする〝汚さ〟〝やりきれなさ〟を持った裏の裏の仕事に、手を染めていたことは間違いない。私も、池田大作に命令されて、今思えば身の毛のよだつような思いのする〝裏の仕事〟に従事したことを後悔しているだけにその心情だけはよくわかるし、いささかの同情もする。  私は、こうした仕事がいやになり、逃げ出して、池田大作から〝恐喝犯〟にされるというみせしめの制裁を受けた。池田大作は、〝毒をくらわば皿まで〟と戸田城聖のもと、汚れ役に徹し、後に創価学会の帝王にのし上がった。私は、しかし、池田大作の生き方を、決してうらやましいとは思わない。  ところで池田大作が、戸田城聖のもとで生命がけで身につけた金銭哲学はどんなものだったか。



    戸田の金銭哲学 葉っぱ(信仰)をお札に!
      昭和四十三年二月十日の社長会で、池田大作はこう語っている。 「戸田先生は葉っぱをお札にする。本当にする。そうしなければ広宣流布は出来ない。必ずそうする。広宣流布のためならば、葉っぱをお札にしてみせる、と言う戸田先生……」  じつに狐狸のたぐいが人を化かす方法として古来言い伝えられている〝葉っぱをお札にかえる〟方法が、戸田城聖が池田大作に伝えた秘伝だったのであり、この秘伝は、現在の創価学会の〝錬金術〟にも見事に生かされているのである。

     この、〝葉っぱをお札に〟の術は、倒産した東京建設信用組合について、大蔵省から組合解散の同意について内示を受け、事態収拾のメドが立った頃から実行に移される。  「事業だけを再建しようとしてもうまく行かない。そうだ。創価学会の会員を増やし、これと車の両輪の形で事業をやれば良いのだ」  戸田城聖は、改めてその思想の原点に立ちかえった。  戸田城聖は、東京建設信用組合の整理を進める一方で、昭和二十五年秋には秘かに別会社「大蔵商事」を設立し、やはり金融業を開始していた。最初の代表役員は、矢島周平氏。牧口門下生で、日本正学館では「ルビー」の編集長を、そして創価学会の理論誌「大白蓮華」初代編集長をつとめ、一時、戸田城聖にかわって創価学会理事長をつとめた。後に戸田城聖とたもとを分かち、出家して日蓮正宗僧侶となり、埼玉県大宮市で日蓮正宗寺院住職となった。二代目代表が和泉覚氏。現在、牧口門下生の数少ない生き残りとして、最古参の副会長であり、公明党参議院議員にもなった。  だが、彼らはただの名前だけで、会社の実権は、専務理事兼金庫番の森重紀美子がにぎり、そしてその背後で顧問

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  • from: 22世紀さん

    2010年07月23日 20時57分38秒

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    金と権力を生む宗教の本音 、その1

    金と権力を生む宗教の本音バブルがはじけた後の日本は、西を向いても東を向いても不景気な話ばかり。大手銀行や証券会社の倒産という、信じられないような事態と

    金と権力を生む宗教の本音
     バブルがはじけた後の日本は、西を向いても東を向いても不景気な話ばかり。大手銀行や証券会社の倒産という、信じられないような事態となった。  そんな中にあって、佐渡や鎌倉での広大な日蓮大聖人霊跡地買収、新潟での大規模霊園開発、そして東京板橋区での、住民の反対運動を押し切っての会館建設に象徴される会館建設ラッシュと、創価学会の大盤振舞いだけが突出している。  日蓮正宗から破門され、〝本尊〟を失った創価学会が金に糸目をつけず日蓮大聖人の御真筆御本尊を買い求めようとしている等のうわさも後を絶たない。  その一方で、公明議員の汚職事件が続発し、生活苦に陥った会員による犯罪も続発している。  昨年暮れの〝広布基金集め〟(例年の寄付集め)では、ついに「生活保護世帯からの集金はやめるように」との内部通達が出された。いまさらの感がするが、そこまで会員の経済状態も底をついてきたのである。

     会員からしぼりとった創価学会マネーは、この不景気のさなかにあって、銀行、ゼネコン等財界に大きな支配力を持つとともに、それは、政界にも巨大な影響を及ぼしている。  おこぼれにあずかろうと、銀行やゼネコンが創価学会本部に日参し、卑屈に頭を下げる。テレビやラジオ、新聞も、創価学会の巨額な広告料の前にひれ伏す。政界では独自路線を歩み出した公明をめぐって自民党も野党も色目をつかう。すべてこれ創価学会マネーの威力といって差し支えない。

     この巨大な財力は、設立以来の「宗教法人に対する免税恩典」を一二〇%利用して築かれたものであり、マインドコントロールされた会員から容赦なく収奪した金が蓄積されたものである。そして、これを、巧みに操縦する〝元金貸しの手代〟池田大作の辛辣な〝やり手経営〟が創価金満王国の原動力といえよう。そして、池田大作は、この資金力を、単に学会内に止まらず、これを土台として関連企業を一般の企業より優位に立たせ、やがて日本の経済界を支配しようという野望を持っていたのである。

     政治面だけでなく、経済面でも日本を支配しようとするその背景には、「権力の基盤は金」という戸田城聖から徹底してたたきこまれた哲学が存在する。宗教でマインドコントロールできない国民は、経済で支配し、権力を奪取する。この野望のもと、池田大作の経済戦略は組み立てられた。

     その手法は、学会及び学会員の有志で千、二千とたくさんの小さな事業を全国に展開し、〝時が来たら、これらを糾合して大会社、大商社をつくり、財界を支配する〟〝世間が気がついた時にはもうおそい、あっとおどろく〟という、池田大作一流の隠密作戦である。今、その作戦どおり、何千何万もの池田大作子飼いの企業が全国に展開しており、〝寿司屋〝レストラン〟〝書店〟〝喫茶店〟〝美容室〟〝葬儀会社〟等々、その業種も多彩である。

     公明議員の政治力を金にかえる〝公共事業〟〝清掃〟〝産業廃棄処理〟といった事業も、創価学会の得意とするところで、その進出はめざましい。  学会員は、これら学会系の店や、〝選挙の時に公明に票を入れてくれる〟商店や企業しか利用しない。すでに、〝学会経済圏〟といったものが出来つつあり、それは、他の一般企業に対するハンデキャップに他ならない。

     もっとも、これら学会企業及び学会系企業は、〝広布基金〟その他創価学会の収奪、上納金吸い上げというマイナスハンデを背負っているから、良いことばかりではない。  しかし、中心にいる池田大作がうるおう構造には変わりない。  この創価学会の、〝宗教と金もうけの二足のわらじ〟という構造、体質は、すでに、戸田城聖が戦後間もなく創価学会の再建にとりかかったときから存在した。創価学会にとって宗教活動と金もうけは、創立以来、持ちつ持たれつ、車の両輪の関係にあり、むしろ〟金もうけ〟の方が優位にあったといって差し支えない。  金もうけの責任者、大蔵商事役員の池田大作が、宗教活動の中心者だった石田次男を押しのけて戸田城聖の後継者の地位を奪い取った経過そのものが、このことを証明している。

     池田創価学会は、とにかく金にはどん欲で抜け目がない。  その本質と、恐るべき〝経済支配の野望とプロセス〟を、創価学会の真実の歴史と内部文書によって論証することが、本書の目的である。  池田大作の、政党支配による〝天下盗り〟の野望については、多くの人達の啓蒙努力によりすでに世間の人々が広く知るところとなり、これに対する〝ノー〟の世論の声が、平成八年秋の総選挙における新進党の敗北、そして、創価学会系候補の大量落選という結果となってあらわれた。しかし、それにまさるとも劣らぬ〝経済支配〟の野望の恐ろしさについては、余り知られていない。  国をあげてきびしい経済環境におかれている中で、貧しい庶民から搾取し、その金を無用な、経済効果のまるでないグロテスクな建築や池田大作の勲章あさりに浪費することは一国家の経済力を大きくそこなう反社会的な行為といわなくてはならない。  改めて、世論の注意を喚起する必要を感じるゆえんである。

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