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    2007年08月31日 12時40分28秒

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    「十住心論再解釈」

    十住心論を再び見直してみました。
    十段階目がまだ原意の汲み取りが不十分ですが、ふさわしい内容をご存知でしたらお願いします。


    ●第一住心 異生羝羊心 (いしょうていようしん)

    「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但し淫食を念ずること、彼の羝羊の如し。」

    凡人は性欲を満たすことと食欲を満たして生活することが心の中心にあって、生活の中に宗教的な価値を求めることがなくそれが過ちであることに気がつかない。それは捕まえることのできない水に映った月を欲している子供のようで掴もうとしても掴むことのできない虚しさだけが付きまとうものである。しかし、その虚しさがどこから来るのかを悟ることができないでいる。

    思春期では食べ物をたらふく食べたい、異性を自分のものにしたいという肉心の欲望が強くなる。しかし、そのような心に戸惑いつつ、はじめは主管の仕方がわからない、ここで道を迷わないようにするのは羊飼いたる親の愛である。


    ●第二住心 愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)

    「外の因縁に由って、忽ちに節食を思う。施心萌動して、穀の縁に遇うが如し。」

    他人の目が気になって、欲望のままに生きることは控えるべきだと思う。友達と協力し合って生きたいと思うのは、穀物が発芽するように芽生えるものである。

    これを成長段階に当てはめるなら親が兄弟姉妹を分け隔てなく育てるように異性も人間であって人格を持っており、欲望のままに見つめることよりも人格を見るべきことを悟るようになる。また、食べられない不幸な人がいる前で自分だけが食べるのは申し訳ないと思う。親が育ててくれた愛に感謝して人間は協力し合って時には与える立場にも立つべきだと言う心が幼いながら芽生えはじめる。


    ●第三住心 嬰童無畏心(ようどうむいしん)

    「外道天に生じて、暫く蘇息を得。彼の嬰児と、犢子との母に随うが如し。」

    罪人であるが、善なる理と喜びを知って安らぎを得る。それは母の愛の元にいたいと思うようなものである。その喜びがあるうちは善人として生きることができる。

    これを成長段階に当てはめるなら、親や教師に善なることをして褒められたり愛されたりしているうちは神様の愛を感じ、その喜びのうちに生きようと奉仕など為に生きたいと思うがそのような環境でない場合はまだ自発的な心はまだ弱い状態であり否定されればやめてしまう。


    ●第四住心 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)

    「ただ法有を解して、我人みな遮す。羊車の三蔵、ことごとくこの句に摂す。」

    ただ、天法があるからこそすべてのものは存在することを知り、自身も天法があるからこそ存在するのだと言うことを知り、我欲を捨て天法によって生きるべきであることを悟る。

    これを成長段階に当てはめるなら、すべては神様によって創造原理が定められているからこそ存在することを知り、自分中心の生き方を捨て神様の定めた創造目的を実現するように天法を守り為に生きることが大切であることを悟る。


    ●第五住心 抜業因種心(ばつごういんしゅしん)

    「身を十二に修して、無明、種を抜く。業生、已に除いて、無言に果を得。」

    十二因縁「無明、行、識、名色(自己中心な判断)、六処(五官と知覚力)、触(識別力)、受(感情)、愛(渇愛)、取(執着)、有(区分)、生、老死」を修めて、一切が相対的関係と授受作用から成り立っていることを知って、無知のもとをとりのぞく。何も言われずとも自ずと善を行い為に生きるべきだと悟る。

    これを成長段階に当てはめるなら、授受作用のあり方を分別をもって正して肉心を主管し、霊界を知って生死の意義を知り、宗教的価値を悟るようになる。


    ●第六住心 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)

    「無縁に悲を起して、大悲初めて発る。幻影に心を観じて、唯識、境を遮す。」
     
    「救われないものに悲しみを感じ、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべてのなかに迷いがあると観じて、ただ良心に生きるべきだという境地を知る。」

    これを成長段階に当てはめるなら、神様を知らずに救われない世界に、悲しみを感ずる。万民・万物に博愛を持って、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべてのものを復帰の過程であると感じて、ただ神様の心情と創造目的だけが本然の世界であると悟る。


    ●第七住心 覚心不生心(かくしんふしょうしん)

    「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。」

    「あらゆる現象からくる迷いを否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じれば、邪な妄想はなく安楽である。」

    あらゆる物の「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」に心を乱すことがなく、全てのものが相対的関係から生じたことがわかれば、迷いや悪は不完全な一時的なものであり、完全なものは中和的主体である親なる神様の心情からしか生じないことを知れば、神様の普遍的な愛の前に感謝して安らぎを得る事ができる。


    ●第八住心 一通無為心(いちどうむいしん)

    「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。」

    「すべてのものは本来清浄であって、認識としての主観も客観もともに統一している。 そのような心の本性を知るものを、仏という。」

    これを成長期間に当てはめるなら、万物の特性も五官の欲望もすべてには創造目的があって創造本性であることを実感する。心身は和合統一し、世界は神様の心情において統一される。このように創造目的を悟り神様の心情において心身が統一されたものを個性完成という。多くの聖人たちは個性完成に相当する悟りを得る前にもう一度、愛の最終試練を受け、誘惑を退けなければならなかった。


    ●第九住心 極無自性心(ごくむじしょうしん)

    「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」

    「水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。さとりの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。」

    水は定まった形は待たない。かぜによって波が立つように応答する。すべては相対的世界、二性性相の世界であり、授受して為に生きる世界であるがゆえに恩讐はない。そのような真の愛によって個人が究極でないことを知り、さらに前進し、全世界が神様の愛を知るまで為に生き続けるのが真の生き方である。それゆえに、男女は結婚し家庭を築く準備をしなければならない。
     

    ●第十住心 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)

    「秘密は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、たちまちに現れて、あらゆる価値が実現される。」

    祝福結婚の道が開かれる。創造原理、堕落論、復帰原理が明らかにされた今、堕落による分別を超え、真の父母様の祝福によって創造目的を中心とした真の家庭、真の民族、真の国家、真の世界を建設していくことを持って大きな喜びの心を持って万人が神様を親として迎え、神様に侍って暮らすことのできる天国の扉が開かれる。そのとき万民が神様の心情を知ることができるのである。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年08月30日 13時12分30秒

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    「Re:十住心論 第六から第十住心までの原理的解釈」

    > とても素晴らしいと感じます。
    > 弘法大師もたいへん喜んでいると思います。

    > 祝福は神様の懐に帰ることを意味しているのですからね。


    今回、原理的解釈とはいえ、原意の言っている内容からあまりはずれたものにならないように、ホームページで検索したり仏教独特の表現は調べたりもしましたが、一般には「顕教ではない真言密教でこそ真の悟りの境地が開かれる」と言う内容が要約としてあげられているので意味を表す内容としてはふさわしくないと感じましたが、様々な解説を見てみると意味するところはそうではないかと感じました。


    ホームページには
    http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_ed11.html

    第十住心

    秘密は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、たちまちに現れて
    、あらゆる価値が実現されるのである。

    ここに至って万物は真実のあらわれとして、大きな歓びをもって万人の知、情、意に受けとめられる。
    言葉、文字を超えた秘密の世界を説く世界。
    「全ての人は、貪り、瞋り、痴さを離れ、月輪の観想をすることにより本来の心の姿を見ることができる。
    それは清らかで、満月のように虚空に普くして隔てがない。」
    修業者の心と、仏、そして生きとし生ける者一つ一つの心が互いに溶け合っている様子を悟る。三密の合一によって、仏の不思議な力を感じそして、この世界にはいることができる。心が量り知れないことを知り、身体も無量であり、知も無量である。生きとし生けるものも(衆生も)無量であり、虚空も量り知れない。無量の心識、無量の身を会得する、ここに秘密荘厳心がある。
    一つの平等の身より普く一切の威儀を現ずる。この威儀は秘密の印でないものはない。一平等の語より普く一切の音声を表わす。しかし、この大日如来の三昧地の法を未潅頂の者に説いてはならない。たとえ、同じ行をしているものにも、容易く説いてはならないと、戒められている。


    http://www.layer.ne.jp/~ushio-ekidan/houon/kidou413.html

    秘密荘厳心とは、

    如来秘密の三業を以って、衆生本具の功徳を開顕し、荘厳する心にて、行者が自心の源底を覚知して、六大縁起・四種曼荼羅・三密の美徳を証悟する事を言う、空海自ら創設した真言宗の住心(平安の二大宗派の一つ、京都の東寺、和歌山の高野山等を中心)の事なので、最上位に置くのは当然の事である。

    彼の言う「秘密」とは、衆生秘密・如来秘密の事で、例えば、如来の身・口・意は三密にて果分、我々凡夫の身・口・意は三業にて因分と言うように、如来秘密の三業を以って因分を選び簡略して、果分の境界へと衆生本具の無量の功徳を開発し、荘厳していく心覚の状態を説くのを云うとある。

    つまり、真言行者が如来秘密の六大・四曼、三密にて、即証悟出来る果分を説くのが、我が真言宗と云うのである。仮に、仏教の「空理」を我々の肉体的に連なる煩悩(業)からの離脱にあると云うなら、唯識は心(魂)の固執からの浄化にその目的があると言えるだろう。

    空海の説く密教は、神仏の霊性妙力(最高の人格神=宇宙の活力)等を認めて、我々との不ニなる心身の業による束縛から同時に解放される教法を説く処に、その特異性が見られるのである。

    などの解説があります。
    理趣経などの理想の実現から見ても、これは
    祝福による世界であると原理的には読み取れました。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年08月29日 06時47分53秒

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    「十住心論 第六から第十住心までの原理的解釈」

    今回はひらめきで与えられた感が強いので私の解釈とせず、原理的解釈としました。原文の意味を汲み取って祈って感じた内容から解釈しました。改めて御言葉の素晴らしさを感じさせられたような気がしました。

    ●第六住心 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)

    「無縁に悲を起して、大悲初めて発る。幻影に心を観じて、唯識、境を遮す。」
     むえんにひをおこして、たいひはじめておこる。げんえいにこころをかんじて、ゆいしき、きょうをしゃす。

    神様を知らずに救われない世界に、悲しみを感ずる。万民・万物に博愛を持って、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべてのものを復帰の過程であると感じて、ただ神様の心情と創造目的だけが本然の世界であると悟る。


    ●第七住心 覚心不生心(かくしんふしょうしん)

    「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。」
     はっぷにけをたち、いちねんにくうをみれば、しんげんくうじゃくにして、むそうあんらくなり。

    あらゆる物の「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」に心を乱すことがなく、全てのものが相対的関係から生じたことがわかれば、迷いや悪は不完全な一時的なものであり、完全なものは中和主体である神様の心情からしか生じないことを知れば、神様の普遍的な愛の前に感謝して安らぎを得る事ができる。


    ●第八住心 一通無為心(いちどうむいしん)

    「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。」
     いちじょほんじょうにして、きょうちともにゆうす。このしんしょうをしるを、ごうしてしゃなという。

    万物の特性も五官の欲望もすべてには創造目的があって創造本性である。心身は和合統一し、世界は神様の心情において統一されるのである。この創造目的を悟り心身が統一されたものを個性完成というのである。


    ●第九住心 極無自性心(ごくむじしょうしん)

    「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」
     みずはじしょうなし、かぜにおうてすなわちなみたつ。ほうかいはきょくにあらず、けいをこうむってたちまちにすすむ。

    水は定まった形は持たない。かぜによって波が立つように応答する。すべては相対的世界、二性性相の世界であり、授受して為に生きる世界であるがゆえに恩讐はない。そのような真の愛によって個人が究極でないことを知り、さらに前進し、全世界が神様の愛を知るまで為に生き続けるのが真の生き方である。


    ●第十住心 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)

    「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。」
     けんやくちりをはらい、しんごん、くらをひらく。ひほうたちまちにちんじて、まんどくすなわちしょうす。

    秘密は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、たちまちに現れて、あらゆる価値が実現される。
     
    堕落による分別を超え、真の父母様の祝福によって創造目的を中心とした真の家庭、真の民族、真の国家、真の世界を建設していくことをもって大きな喜びの心を持って万人が神様を親として迎える天国の扉が開かれる。そのとき万民が神様の心情を知ることができるのである。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年08月28日 07時05分35秒

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    「空海の説く如来とはまさしく神様のことですね」

    > 空海の本は、アマゾンで検索しますと今年に入って、毎月出版されてます。
    > 六月と三月は三冊も出てます。
    > なぜでしょうか?
    > いままで448冊出てます。

    > 日本人には、アブラハム、イサク、ヤコブと言っても、
    > ピンとくる人は、反応する人は殆どいませんよね。

    > なんといっても、日本人は、空海の霊界に生きていることを報告したいと思います。


    「図解雑学 空海」 並びに「空海の思想について」を読んでいます。
    http://books.yahoo.co.jp/book_detail/01071429

    空海の言う如来「法身仏」は初めから存在し法を授けるものということが「空海の思想について」に書かれておりました。
    ホームページでは如来は人間が悟ったものと言う定義が主だったので、その区別がはっきりわからなかったのがわかりました。
    空海の説く如来とはまさしく神様のことですね。

    たしかにこれだけ多くの本が出ていると言うことは空海の思想は知識人の関心事であることがわかります。また、仏教も700年生きたとか超長齢の人物が書かれているのですね。仏教に比べれば聖書は神話的要素がはるかに少ないように感じます。
    仏教を通じて聖書につなげていくことも可能かもと最近感じます。

    ただ、「天部の仏像辞典」でもあれだけ霊的な内容が書かれながら、著者は心の中のことを象徴的に言っているのだというとらえ方をしていて霊界を信じていないのですよね。
    そこらへんが今の仏教界の問題と感じます。


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    2007年08月27日 06時25分34秒

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    「Re:Re:十住心論 第五住心まで私の解釈」

    十住心論で少し気になったのは、性の問題というのは、確かにただ主管されている状態というのは低い段階のことですが、ある程度の段階に登っても、愛の価値観、生命という人間の幸福の根幹の問題に関わるため、最終的価値観の決定の段階でサタンの誘惑を受けるものであると思うのです。

    また、兄弟姉妹としての愛を確立するときも、神様が人類の親であるから親のような愛で見ようと言う意識が人格的に対するべきだという意識の根底になければ、完全なものとならないと思います。
    (もちろん、生涯独身で異性などに目を向けないのが宗教者の生き方だ的な意識でも分別はできますが・・)

    あと、相対的関係だからこの世には実体がないというわけでは本当はなく、創造目的があります。
    本当は創造目的を達成できない状況があるところに悲しみがあるわけです。
    しかし、それでも、人間が責任分担を果たすために神様は最善の選択をして条件を与えているのです。それは悪魔がいてもです。
    結局、神様の摂理に対して最善の結果が出せるように努力する。神様の愛を感じて絶対的に信じることが出来るのが本当の悟りの境地だと思うのです。

    そのような悟りの境地で文鮮明先生は摂理を歩まれ真のご家庭を築くことが出来たからこそ、サタン(ルーシェル・悪魔)が屈服したのだと思います。


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    2007年08月26日 06時40分48秒

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    「Re:十住心論 第五住心まで私の解釈」

    十住心の勉強と思って私なりに第五住心まで解釈してみました。

    第一住心
    異生羝羊心 (いしょうていようしん)

    「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但し淫食を念ずること、彼の羝羊の如し。」
     ぼんぷきょうすいして、わがひをさとらず。ただし、いんじきをねんずること、かのていようのごとし。

    「無知なものは迷って、自分の過ちを知らない。雄羊ように、ただ性と食を思い続けるだけ。さながら雄羊が水草や婬欲のみを思っているのと同じであり、さてまた無知な子供が水に映った月を欲しているようなものである。」

    凡人は性欲を満たすことと食欲を満たして生活することが心の中心にあって、生活の中に宗教的な価値を求めることがなくそれが過ちであることに気がつかない。それは捕まえることのできない水に映った月を欲している子供のようで掴もうとしても掴むことのできない虚しさだけが付きまとうものである。しかし、その虚しさがどこから来るのかを悟ることができないでいる。

    これを成長段階に当てはめるなら、思春期では食べ物をたらふく食べたい、異性を自分のものにしたいという肉心の欲望が強くなる。しかし、そのような心に戸惑いつつ、はじめは主管の仕方がわからない。


    第二住心
    愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)

    「外の因縁に由って、忽ちに節食を思う。施心萌動して、穀の縁に遇うが如し。」
     ほかのいんねんによって、たちまちにせつじきをおもう。せしんほうどうして、こくのえんにあうがごとし。

    他人の目が気になって、欲望のままに生きることは控えるべきだと思う。友達と協力し合って生きたいと思うのは、穀物が発芽するように芽生えるものである。

    これを成長段階に当てはめるなら異性も人間であって人格を持っており、欲望のままに見つめることよりも人格を見るべきことを悟るようになる。また、食べれない不幸な人がいる前で自分だけが食べるのは申し訳ないと思う。人間は協力し合って時には与える立場にも立つべきだと言う心が芽生えはじめる。


    第三住心
    嬰童無畏心(ようどうむいしん)

    「外道天に生じて、暫く蘇息を得。彼の嬰児と、犢子との母に随うが如し。」
     げどうてんにしょうじて、しばらくそそくをう。かのえいじと、とくしとのははにしたがうがごとし。」

    罪人であるが、善なる理と喜びを知って安らぎを得る。それは母の愛の元にいたいと思うようなものである。その喜びがあるうちは善人として生きることができる。

    これを成長段階に当てはめるなら、善なることをして褒められたり愛されているうちは神様の愛を感じ、その喜びのうちに生きようと奉仕など為に生きたいと思うがそのような環境でない場合はまだ自発的にはできない状態だと思われる。


    第四住心
    唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)

    「ただ法有を解して、我人みな遮す。羊車の三蔵、ことごとくこの句に摂す。」
     ただほうゆうをげして、われひとみなしゃす。ようしゃのさんぞう、ことごとくこのくにせっす。

    ただ、天法があるからこそすべてのものは存在することを知り、自身も天法があるからこそ存在するのだと言うことを知り、我欲を捨て天法によって生きるべきであることを悟る。

    これを成長段階に当てはめるなら、すべては創造原理があってこそ存在することを知り、自分中心の行き方を捨て神様の定めた創造目的を実現するように天法を守ることが大切であることを悟る。


    第五住心
    抜業因種心(ばつごういんしゅしん)

    「身を十二に修して、無明、種を抜く。業生、已に除いて、無言に果を得。」
     みをじゅうににしゅうして、むみょう、しゅをぬく。ごうしょう、すでにのぞいて、むごんにかをう。

    十二因縁「無明、行、識、名色(自己中心な判断)、六処(五官と知覚力)、触(識別力)、受(感情)、愛(渇愛)、取(執着)、有(区分)、生、老死」を修めて、(一切が相対的関係と授受作用から成り立っていることを知って、無知のもとをとりのぞく。
    何も言われずとも自ずと善を行い為に生きるべきだと悟る。

    授受作用のあり方を正して肉心を主管し、霊界を知って生死の意義を知り、宗教的価値を得る。


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    2007年08月25日 06時36分47秒

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    「Re:十住心論」

    >http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html

    このホームページを見ると、
    「他の宗派批判という形をとって、真言宗が最高であるとしているのです。」
    と書かれていますが、
    十住心論には、他の宗派を批判する意図はまったくないと思います。

    仏教は、仏教評論家によって、真意がゆがめられて伝えられてきましたね。

    創造目的学会としては、仏教の真意を明らかにしていきたいですね。

    そのためには、評論家の書いた解釈本ではなく、経典や開祖が書いたものに直接触れたほうがいいと感じています。


    >ただ、愛の関係をなすと言う四大心情圏を得ることが重要であるという
    >観点と創造本然的な幼少から大人までの成長という観点でなく、
    >仏教の場合、苦のない悟りの境地と言うのが重要視されているというのが気になるところです。


    仏教の限界ということもあると思います。
    仏教では、個人の救いというところまでしか達成できていないですから。

    また、「苦のない悟りの境地」の意味するところの真意が、
    一般の仏教評論家の理解するところと違っている部分もありますね。

    おっしゃるように、仏教家は「悟り」を強調するのですが、
    これは、経典に基づいて考えてみても、
    もともと、悪魔との関係、如来との関係を考えなければ、位置付けできないものです。

    ここのところを、見落としている仏教家もいると思います。

    しかし、空海は、ここのところをよく理解していますよ。
    それは、空海が書いたものを読むとわかります。

    弘法大師空海全集
    http://books.yahoo.co.jp/search?p=%B6%F5%B3%A4%C1%B4%BD%B8&sid=


    >また、私は一時期、スエーデンボルグの研究にかなり投資して
    >いたときがあり、善は神様が自分のなかにあって神様の完全な
    >る対象の立場にたってこそできるものなので自分がなすようで
    >も神様がなすのだという栄光在天思想から罪を退けていくと言
    >う世界観を学んだので仏教的な世界はその点に物足りなさを感
    >じています。

    仏教では、菩提心というのが、本心にあたります。
    どんな泥の中でも美しく咲いている蓮の花で象徴されますよね。

    真言密教では浄菩提心と言っています。

    両部曼荼羅 高野山霊宝館
    http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/know/manda/m_001.htm

    「金剛界曼荼羅には、私達が救いを求め修行し、煩悩を滅し、悟りを開いていく段階と、仏の方から、救い難いものたちの浄菩提心を目覚めさせ、悟りへと導く二つの働きがあるといれれています。 」


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  • from: from POCS MLさん

    2007年08月24日 06時56分00秒

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    「Re:十住心論」

    十住心論の内容を見て思うことは、(統一原理の御言葉を聞いた立場としては)
    これは、不完全な状態でいっぺんに上のほうの境地を完全に近づけさせながら下のほうの境地を底上げしていると言う感覚であると思います。

    不完全ながらも全部体験しているような気がするのです。
    神様に侍って暮らすというのはそういうところがあると思うのです。
    神様の心情を知っていくと罪や堕落性が減っていき下のほうの段階が引きあがっていく、そんな感じがします。

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  • from: from POCS MLさん

    2007年08月23日 06時36分54秒

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    「十住心論」

    > そういう中でも、空海は、経典の意味をほんとに
    > よく理解した人物だと思いますし、とても信仰的
    > で謙虚な人物であったと思います。
    >
    > 空海が著した十住心論を見れば、
    > その理解度が完全であることは明白ですよね。
    >
    > まさに摂理的な人物であったと思います。
    >

    http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html

    たしかに素晴らしい内容だと思います。心霊状態の指針になりそうですね。善悪の判別もない状態から、成長していく内容は、ある意味、堕落世界だけの問題でない内容もあると思います。

    ただ、愛の関係をなすと言う四大心情圏を得ることが重要であるという観点と創造本然的な幼少から大人までの成長という観点でなく、仏教の場合、苦のない悟りの境地と言うのが重要視されているというのが気になるところです。
    そこが私自身それほど心酔できない理由ではあります。ただ、「身を十二に修して、無明、種を抜く。」という関係性が説かれているのは素晴らしいですね。

    また、私は一時期、スエーデンボルグの研究にかなり投資していたときがあり、善は神様が自分のなかにあって神様の完全なる対象の立場にたってこそできるものなので自分がなすようでも神様がなすのだという栄光在天思想から罪を退けていくと言う世界観を学んだので、仏教的な世界はその点に物足りなさを感じています。


    話は変わりますが、女天についてですが「天部の仏像辞典」には、
    「決して女性としてのやさしさばかりを表しているとは言えません。荒々しい行動をとることも少なくなく、悪魔退治においては男性以上の華々しい活動をしています。」とあります。
    また、戦闘的性格から男性として祭る寺院もあるなどその多くは外見は美しくても女性であると断定できるような存在でないことが示されています。ただ、中にはキリスト教の聖霊にあたるような働きをすることもあるようですので、もう少し、整理していきます。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年08月23日 06時19分49秒

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    「Re:天部の仏像事典」

    「天部の仏像辞典」が到着しました。
    さっそく開いて、初めの「天の構成」ところを読んでみますと、
    「天部諸尊は、仏法そのものを、あるいは仏法を信奉する衆生を、その障害者から護ることを役目としていると言えます。」
    と書かれており、天部と天使の共通性を感じました。
    また、世俗化するにしたがって淫乱の神となるものもあり、その点も天使の堕落の内容と一致しています。

    ただ、仏教の天部は、聖書のように原点を勝手に書き換えたり解釈を加えないと言う規制がないせいか、偶像崇拝や神話化された内容が非常に多いと思われ、堕天使が己の正体を隠す企てがなされているのでは?とも思われます。

    ただ、多神教の神が自然神として数多く存在したものが、仏教が現れることによって天部となったことは、神が自然のなかに天使を多く配置されたと言う霊界のメッセージとも重なっていることは先も述べたとおりです。


    仏教の中には天女にあたる天部もいますが、仏教の天部はコーランなどの記述よりも物語化されている美しさや華麗さゆえに女性のように見えるということは十分理解できる話だとは思います。一応女天が出てきた背景を天部の仏像辞典で調べてみます。

    Mさんのあげた内容で天部は天使に当たるものだというのがわかりますので、いろいろな邪神的な側面の背景とかをある程度まとめれば、悪魔と天部の関係もはっきりしそうですね。

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