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  • from: Ryonukisさん

    2010年05月30日 21時28分29秒

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    最近考えたこと②

    〇自分を持った人になることは僕の課題だ。しかしその定義は何だろう。自分の思想を持ち、生き方に反映できる人のことだろうか。自分らしい生き方の出来る人?自分に気付いている人?どうも日本人はこれが苦手な傾向が…。謙虚なのか自分に自信がないのか。先に「とにかく」自信を持つ(笑)こと必要か?根拠のない?前の戦時期のような極端を避け、中道を行きたい。

    〇真の知識、すなわち、ものにした知識、これは自ら獲得しようともがいて手に入れるもの。日本には自前の思想らしい思想がない(神道はあてはまるだろうか。)これは日本が学問的に遅れをとる理由ではないだろうか。自前の思想を持つ逃してはならない好機はそろそろ来ているような気がする。というよりその必要に迫られている?

    〇魂は丹田にあり体中の経絡を通る気をつうじて情緒(自己)と接続されている?これら経絡の気を通して、魂はオーラ(=後光=気=オルゴンエネルギー=生命力)を発生させることができる?我々の自己-霊魂は神(世界霊)と結びついているから?それが正しいとすると、解脱が、自己が世界と一体になること、であるなら、「自分」が修業の末、自我を取り除き自己の存在に気付いた、又は到達した時にそれが実現されることは理屈の上では納得できるような気はする。だが心と体、気の状態がしっかりしない限り、近づくべきではない境地であることは間違いない。ニーチェ、ライヒなどの二の舞になる可能性が高い(僕はそんなレベルじゃないけど)。そもそもその器の者にしか許されぬ境地なのだろう。垣間見たとしても踏み入れる勇気は途絶える領域だ。しかし科学が未だに未熟であることがわかっただけで満足すべきだと思った。

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  • from: Ryonukisさん

    2010年05月30日 21時25分09秒

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    最近考えたこと①

    〇一般に真理は逆説的であり、逆説に気付くには執着・こだわり・偏見などを捨てる必要がある。

    ○一般に我々日本人は流されやすく、自己実現しにくいのではないか。

    ○特に最近日本人は本来持っていた情緒にみあわない方向に進んでいる気がする。日本人は本来、形なきもの(すべては時とともに移ろう=無常、四季の移ろいが典型)を美しいと考えて来たはずだが、明治以来、形あるものにとらわれるようになった。しかし、発想力や創造性には「形にとらわれない」ことが必要とされるのではないだろうか。季節感のない生活になれてしまうのも問題。

    〇日本人はまだがんばり屋であることが裏目にでているのではないか。時代は変わってきている。気力は確かに必要な場面があるが発想の転換が必要とされる際には頭を休めることも重要だと感じる。

    〇世界を記述する理論は、欲や、こだわりのない状態でしか実現されえないはず。無我夢中のさなかにおいてのみ理論は見出だされるのかもしれない。

    ことに万能な理論は完成しうるだろうか?世界の把握であると思われる悟りは言語活動を超えているらしい。だから逆に言えば、心、物、事などの世界の要素といえるサブ世界をすべて含む「全世界」を概念的に記述しきることは本当に可能なのか疑問が生じてしまう。一度にやらずわけて行えば済むかといえばそうではないだろう。全体は部分の単純な総和ではないことはよく知られている。

    〇日本人はおおざっぱに言って、素粒子論より複雑系理論に向いているのではないだろうか。日本人はもともと全体をひとまとまりとして見る傾向が強いからだ。

    〇つまり、これからの理論づくりには、「理解」しようとする姿勢より「知」ろうとする姿勢が必要とされる。何が言いたいかというと、「理解」とはこの世の法則に対して「分解」の姿勢でのぞむのに対し、「知る」は世界を心に感じ取り、真理をさとる心のはたらきを用いるという意味だからだ。どちらかといえば、全体的把握にふさわしい言葉だろう。

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  • from: Ryonukisさん

    2010年05月22日 11時26分47秒

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    真の「やりたいこと」とは!?


     仏教的に言って、様々な欲望や考えにとらわれない、そして、かたよらず、こだわらない心の実現がおそらく自己実現であり、その時こそ自分は「やりたいこと」をやっているのだと思います。
     この時にいう自分とは心理学的に言う自己であり、自我ではないのでしょう。もっと言うと真理が時間とともに変化するように自己も変化します(マンダラは世界の構造であるとともに、自己を映し出したものでしたね。南方熊楠によればこれは時間とともに変化するのです)。したがって「やりたいこと」は変化するはずです。
     ある意味これは理解しやすいかもしれません、常にずっと同じことを同じように繰り返しやりたい人はいません。定まったやりたいこと、それはあるかもしれませんが少なくとも微妙には変化していきます。
     この真理の「変化」は、仏教の修行が不断の努力を必要とするところと関係があるように思います。
     「諸行は滅の性質を内在している。勤勉をもって努力せよ」。これはブッダが死の床で残した最後の言葉です。全てのものは無常であり、自分ができるのは仏の境地への道を指し示すことだけであって、そこへ達するのは各々の努力しだいだという程度の意味だそうです。
     つまり、さっきの話に戻れば、「やりたいこと」をやり続けるためにはつねなる「努力」が必要とされるということです。そのかわり、重苦しい気分からは解放され、毎日生き生きと充実感を得ながら暮らすことが可能となるはずです。
     ただし「やりたいこと」への執着は逆に真の「やりたいこと」から自分を遠ざけてしまうような気がします。とにかく自我(エゴ)への執着とは人間にとって病の発生源であり、幸福から自分(自己)を遠ざけてしまうようです。自分を含め、苦しむ人を客観的によく見ればみな自我があるからだということは何となくわかるような気がします。
     しかし一端その「存在」を認識し、執着が引き起こす諸々の苦しみに気付き始めれば、「安心(あんじん)」への道は開かれつつあるのかもしれません。

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