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  • from: Infophysさん

    2012年05月29日 22時29分40秒

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    就活の病み

    就活の時期になると、病む学生が出てくる。
    そう友達が言っていた。たしかに。

    自分づくりがうまくいっている人はスムーズに就職していくようだが、
    それがなかなか難しいもの。

    僕の友人が就活で悩んでる。
    助けようにも自分が頼りなくてどうにもならない。

    僕自身、自分をどう構築したらいいのかよくわかってない。
    いざとなると大したことない、悪いパターンだ。
    そもそもぼくは就職組ではなく博士課程志望組だから、共感が難しい。
    構築が重要なのは同じことなのだが。

    結局、考えることによって自分(の心)を構築する、そして、経験を大事にする。特にこの二つの重要性は感じる。

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  • from: Infophysさん

    2012年05月26日 22時08分33秒

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    広がり

    グランドキャニオンとかアマゾン河を見てみたい!
    「広がり」を体験することの重要性!
    思考視野の拡大も図りたい。

    月までの距離。実感がわかない。

    太陽。あの大きさに見える。あの輝き。
    実はイメージよりずっと遠くにあるようだ。

    星々からの光。想像を絶する、その距離。
    距離と言う言葉を使ったとき、
    その自分の言葉は「その距離」を全く捉えていない。

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    juno

  • from: Infophysさん

    2012年05月18日 08時30分45秒

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    ・・・好き、嫌い、好き、嫌い、好き、・・・

    入れ子構造は確かに真理のように思う。
    ライプニッツの達見だな。

    こどもが言葉遊びで、

    ・・の反対の反対の反対の・・・

    とやる。
    これも捉え方によっては、入れ子構造かも。
    つまり、

    ・・・→肯定→否定→肯定→否定→肯定→・・・
    は、
    ・・→コスモス→カオス→コスモス→カオス→コスモス→・・・
    という入れ子構造、階層構造の階層を下っていく、または上っていく様子なのかもしれない。彼らが意図しているかどうかはともかく。

    例えば、花びらを引き抜きながら、彼女は僕のことが好き、嫌い、好き、嫌いとやっていく。あれは必ず有限回で終わる。
    しかし、本来、自然宇宙のスケールの階層構造は無限とも考えられるので、
    いわば、カオスとコスモスを止揚するような結果に導かれるのかもしれない。

    つまり、スケールの階層を下っていくときは、カオスでもコスモスでもない、中正(neutral)ともいえるような、なにかに結論が収束的に創造されるのかもしれない。逆にスケールの階層を上るときは、もちろんカオスでもコスモスでもないが、発散してしまうのか!?
    西田の絶対矛盾命題はその辺りの話ではないだろうか。



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  • from: Infophysさん

    2012年05月16日 00時56分45秒

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    学問とは。宗教とは。自分とは。知の逆説。逆説の知へ。

    学問というのは
    情報を転がして遊んでるうちに、
    様々な要(かなめ)が意識の中に浮上してきて、
    それらを頼りに、また、コロコロ転がして遊んでると、
    また違ったスケールの要(かなめ)が見えてくる。
    関係性がわかってくるからだ。

    次第に人間は「要領」が良くなってくる。
    つまり、かなめを領る[し(る)=知る]ようになる。
    要となる情報を発見し、思いのままに操り、結果として、世界を自分の思いのままにせんとしている。

    仏教の、ままならない、我が計らいにあらず、とまるで真逆を行っているように見える。しかし、もし、この「かなめ」たちが、自ずから発見されるモノに過ぎなかったとなると、その矛盾は氷解する気もする。僕らは努力している、ように思っている。しかし、本当はどうなのだろうか。自分が努力してる、それは本当に自分なのか、自分って何だ、自分は自分であって自分でない?ただの現象とどう違うというのか?

    大長編ドラえもん、のび太のパラレル西遊記、を見たことがあるだろうか。お釈迦様(ドラえもん)の手から、勢いよく飛び出し、宇宙の彼方にまで飛んでいった孫悟空(のび太)が、そこでまたお釈迦様の大きな手に出会ってしまう。
    つまり、どんな努力をしようと、人間はお釈迦様から逃れることはできない。自我は自己の影響下から逃れることができない。ほとんど無力だ。そういう仏教のメッセージをうまく伝えていると思う。
    我々が見いだしてきた、知識たちは、どうだろうか。

    最先端を行く相対論や量子論。まさにこの物理学は仏教と同じようなことを言うようになってきている(といわれることがままある)。これは西洋知が孫悟空で東洋知がお釈迦様という対応に、モロになってしまっている。自我は自己から離れんばかりに頑張ったところが(結局我は外界に向かって離れ、宇宙の彼方へたどり着いたどころか)、己を知る方向に向かっていたことになる。

    世界は逆説に満ち満ちている。そう言った人がいる。
    素粒子論は極小の世界を覗いていたつもりが宇宙時空の彼方のことを理解することにつながり、逆もまたしかりだったのだ。

    ではひょっとして、外界を研究していたつもりが内界の研究にたどり着いた、っていうことはないだろうか。僕は量子論や相対論はきっとそうだと思う。これ以上を言うと変な目で見られるから、やめとこっ

    偏りは知とは真逆だ。何かをやることはたいてい偏ることだ。真実が逆説的であるのは、そのためだと思える。
    つまり、何かの説明をしようとする。すると予定していたことの逆の事象を説明していたりする。
    何かの問題を解決しようとしたら、悪化したりする。行きすぎたのだろう。
    及ばざるは過ぎたるより勝れり(家康)。余計なことをしなかった分、偉いのだ。
    中正。そこにしか真実はない。

    西洋と東洋は元々ひとつのものが分かれたにすぎない。
    アフリカの大地にいた頃に、心を戻すときが来たと思えないだろうか。

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  • from: Infophysさん

    2012年05月14日 06時17分49秒

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    価値観の押し付け、という言い方

    僕はどうも解せない。
    自分の価値観を押し付けていると言われることがあった。
    ぼくにとっては実に当たり前の、社会的動物であるはずの人間は挨拶すべきだ、して当然だ、という考え方。


    価値観の押し付けをするのは良くない、という価値観を
    一方的に押し付けられている気がするのは僕だけだろうか。

    かれらは単に古い価値観を受け入れたくない、認めることによって、自分の自由を狭めたくない、だから、否定したい、というだけではないのか。

    謙虚に人類の伝えてきたものの意義を理解しようという気がないことがうかがえる。
    とかく慣習や儀礼的なことは軽視され過ぎな傾向を感じるが、
    本当にいいのだろうか。

    そういう彼らこそ自分の価値観を強く主張していると言える。
    自分の自由を守るために、他者の自由も保証しようとすることは、一見筋は通っているが、その姿勢は結局、自我中心主義から脱してはいない。

    なぜなら、本質は、自分が相手を尊重するから自分が尊重されるという結果論なのであって、それを目的化する姿勢は必ずしも正しいとは言えない。なぜなら、相手が尊重されたいことは、自分と同じであったり、理解できているとは限らないからだ。自由なら押し付けにならないのか。よく考えてみよう。
    自由とはなにか。それ自体あいまいではないか。
    それほど正確に共有していないではないか。
    それにそれは絶対的な価値を持つと言い切れるのか。
    それより大事なものがないと言い切れるのか。

    ぼくは「自由」だって「押し付け」が可能である、つまり
    押し付けでありうると思う。
    自分の望まない自由を与えられて、よかったと思えるかは疑問だ。挨拶をしない自由。それは僕にとって真の意味での自由ではない。
    行きすぎた自由であり、不快ですらある。これが価値観の押し付けといいたくならない方が不思議だ。
    自由からの逃走、そんな言葉があった。
    人間はそんなに自由ばかりがいいとは限らない。
    僕的には、真の自由とは、自由という観念にさえとらわれない東洋的な自由のことだ。
    エゴの限定のない肯定。
    (自己肯定と自我肯定では180°意味が違う)
    それを自由とか解放だとかいっても近代の繰り返しである。
    帝国主義と同根である。
    自由を強く主張する人々が本当の解放を知っているとは、
    ぼくは思わない。

    人間にとっての自然な姿。それは気の観点から言えば、単純で、気の流れに淀みや歪みが無いことだと言えよう。
    しかし、一般的な言葉でそれを言い表そうと試みてもなかなかうまくいかない。

    道徳の徳の字の意味は、異文である悳にはっきり現れている。
    直き心。つまり、気持ちがまっすぐであること。
    気の流れが淀まないことなのだ。

    真に自由で解放された精神は、すなわちそのまま、道徳的精神なのだ。
    余計な考え、よこしまな心にとらわれていなければ気の流れが安定し、それは実現される。

    しかしみんながそうなるには、今の、人口対地球の広さの比、では無理かも知れない。

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  • from: Infophysさん

    2012年05月12日 23時29分15秒

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    知が真にグローバル化する時

    知の形成作用の内容として

    統合的精神の方法論としての科学と、 哲学によるその方法の根本的発想の提供、 という、二人三脚的な知の発展の仕方に、

    さらに、知のグローバル化とも言える、 民族学が加わり、三つ巴的に 新たな統合知の形成に挑むとなると、 知の性質は大きく変貌するのだろうか。

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  • from: Infophysさん

    2012年05月12日 21時29分13秒

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    観(知)の創造とその循環性―諸行無常と統合的精神の相克―

    ヘラクレイトスのいうように、万物は流転する。
    同じ流れに二度と戻ることはない。
    そう言う彼が言うところのロゴス、すなわち論理は
    ある種の形成作用であると西田は言う。

    となると、一人の人間ないし人類が、永久に不変の何か、即ち知を獲得することがあるとすれば、その知の形成作用そのものに対する認識・認知が真の知に相当すると言えないだろうか。
    我々の脳ないし精神がどのように次から次へとやって来る情報を処理していっているのか。

    恒に変動しているこの世界に対して、
    一定の見解を持ち続けようとしているとは思う。
    (諸行無常という観念もその一つだと思う。
    変化しないものはない、という定まった見解だ)
    そうでなければ安定・安心というものがなくなってしまう。

    一般に知というものは、ライプニッツ流に、この世界の全体情報を集約的に部分である我々の精神にフィードバックすることであるという言い方はできると思う。
    しかし、そこで実際に起きていることは、つまり、精神で起きていること、行われていること、すなわち集約という作業は、経験・体験・実験で得られる情報(データ)の整理や、帰納や演繹そして論理的思考による関係付けという形態で行われているのだが、これによって導き出される結論でさえ、真理と呼ぶのがためらわれるのはなぜなのか。つまり、哲学であれ、科学であれ、実証されたとされる方程式であれ、真理かといわれれば多くの人は言葉を濁さざるを得なくなる。

    この限界を突破したり、せめて、科学の成功すなわち集団知の成立による「普遍性」の獲得をより確かなものにしていくような方法論や考え方をどう見いだしたらいいのか。

    そこでもう一度はじめに戻って、ロゴス(論理、討議する言葉)というものを形成作用とみなし、それにまつわる法則性を探る、というのは意義があることのように思える。

    そして、その形成作用が人間(人類)の内部において、どのように進行していくのか。それを知る術(すべ)はあるだろうか。

    要は、汝自身を知れ、が哲学の至上命題であったように、
    今になってみると、知とはなんなのか、どういうものか、
    それを知るべき時が来た、
    特に科学という人類のあらたな偉大な創造物を前提としたうえでの知の自己循環的把握、それを人類はいまこそ、やろうとしているのではないかと思えるのだ。


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  • from: Infophysさん

    2012年05月10日 11時43分46秒

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    最近のひとこと集

    気付け!リズムとバランスの相補性。



    考えてもみようよ。心が 不細工だなんて言われたら。



    知的エクスタシーにこだわれ!最短距離の味を占めろ!笑



    ある事象についての優劣の判断には特定の観点が前提 にあ る。
    観点を変えると優劣は逆転するはず。
    そして、長に 短あり、短に長あり。

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