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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月30日 16時20分34秒

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    求める心

    智(または自由)はもとめることで得られるのではない。
    求めないことで得られる。

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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月19日 09時14分35秒

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    哲学

     哲学という行為は別に偉いわけではない。
     確かに人類が真っ当に、そしてより良く生きるのには欠かせない。
     実際、人間はどうしようもなく行き詰まることがあるが、そういう時、習慣にとらわれず、ものごとを改めて捉え直す必要がある。このときにこそ哲学は本質的に役立つ。
     しかし結局は、自分達が自分達で自分達のために自分達の抱える問題を解決する手段・方法・あり方であり、それ以上でもそれ以下でもない。
     真理を高く見るのは人間の悪癖である。そうなるのは我々が人間であるからに過ぎない。真理の探究が高貴だと思っているかぎり、我々は結局、真理に(その存在を仮定する場合)近づけず、「考えること」を他より高く見ているかぎり、真理のみならず次に求める世界にも、永久に近付けないのだ。
     なにしろ、高貴だとか下賎だとかは我々人間の感覚の問題に過ぎないのであるし、考えるという行為は、真理からみて不完全である、ことば(概念や論理)の世界からほとんどはみ出るものではないというだけでなく、それ自身が人間などに特徴的であるという認識とそれを高く見ることが合わさることで生ずる、近代に特徴的な、人間を中心とする世界の捉え方から抜け出すことを難しくするからである。
     別に、人間は今現在も(その思考行動を含めて)そのあらゆる可能性において人間らしく在る、というだけであり、その様態が他の生物種のそれに比べて高位であるとか低位であるとかも、不明であり、語る意味はないだろう。
     それより、我々が行うべきは、自分達自身を含める、およそ人類全体の「心」に、訴えるもののある本物の「思想」をあらためて生み出すことである。人間が本当に変貌し得るのは上っ面の理屈・理念によってというより、その「心」に与えられる影響自体によってであるから。

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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月12日 17時58分44秒

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    自由

     個人にとって真に自由な状態とは自分に起きている様々な「はたらき」に
    「おまかせする」ことで得られる「自然な自分」のことである。

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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月11日 08時51分06秒

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    気とエントロピー

    (以下仮説的)
     気は秩序を形成したり保つはたらきを持つ。
     しかし、一般に物理法則によれば世界は無秩序さが増す方向に進む(エントロピー増大法則)。
     現在、気は物理学の理解を越えている。物と心、どちらの世界にも影響を与える気は、世界の基底的存在と言えそうだ。
     しかし、エントロピーの定義・意味が無秩序さ(を表す量)であるから、この用語の適用範囲を物質界から拡張してすべての対象に用いれば、気はエントロピーの増大を抑えるはたらきを持つという言い方ができる。
     現在、エントロピーの定義は歴史的順序で並べると、熱力学的定義と統計力学的定義、情報理論における定義、がある。情報量による定義は物質的意味が捨象されており、もっとも求める定義に近いかもしれない。
     今世界を情報一元論的に観るのがポピュラーだが、上記の考え方から、情報一元論は中国で歴史的に重要な気一元論とダブりそうだ。
     問題は心の世界の仕組みについてはまだわからないことが多いという点だ。
     情報という概念は心に対して影響を与えるものとしても捉えられるが、心の世界の仕組みを説明するのに充分な概念と言えるかどうかはわからない。
     心理学が定量的学問になるとは考えにくいのだが、心にもエントロピーが定義できるとして、それははたして数学的に定義され得るのか、はたまたそんなことは望むべきではないのか。
     世界の基底的存在たる気を詳細な理論によって捉えることは、混乱気味な現代世界に対して吉とでるか凶とでるか、それ自体もよくわからない。

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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月01日 20時00分53秒

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    学知の移行期3

     実は道(タオ)もさっき示唆したようにはっきりとした構造を持たない、定義できず、しっかりわかるものではないと言った。つまり構造主義的な理解ができないポスト構造主義的な概念なのだ。このことはとても示唆的だ。
     これは時代が論理的思考という自我機能の最たるものから東洋的な直観重視の時代へと移行しつつあると考えられないだろうか。もちろん数学にも論理主義と直観主義とがあり、じりじりと前者側から後者側にむかって重心移動しつつあると僕も感じている。
    そもそも人間の精神機能はユングのタイプ論的に(縦軸):思考⇔感情、(横軸):直観⇔感覚の4種がある。人間に特に特徴的なのは縦軸だと考えられるが、もちろんこれは文明的機能とも言えそうだ。これからは横軸が重視される可能性が高い。少なくとも今までみたいな因果律一辺倒ではなくなるはずだ。単純には文明的に進み過ぎれば自然との乖離で滅びかねないということだが、もうちょっと理屈っぽく述べれば今みたいになる。
    わかると思うけど直観的とは宗教的とも言える。学問は思考的。つまり、学問は宗教にやや近付きつつあるということになる。パラダイムの最も大きなうねりといえないだろうか。本当の結末はどうなるかわからないが、僕の最も根本的な意味での「予測」は以上のようだ。もちろん、そのときの学問の姿の具体的な形がどんなものかまでは今の僕にはイメージできない。しかし方法論的な大きな変更、つまり、「論理実証主義」→「全体を直観する(精神が知的に直接見る)ことを以前より重視」を受けることがわかったなら全体の姿がどうなるかは少しは予測できるのかもしれないが(統合融合が進み全体主義的知への試みが盛んになるという皆が言ってることくらいだ)、詳細についてとなると僕には全く手に余ることになる。

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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月01日 20時00分05秒

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    学知の移行期2

     しかし、自我は心理学的に見て自然からの人間の自立に必要なものだった。(母親からの男子の自立、とも比較されることがある)
    脳の機能でいえば大脳とくに前頭葉だ(自己顕示欲や思考、情操、推理、計画、…)。
    つまり文明を生み出したのは、この自我…大脳(前頭葉)だといってもいい。これを完全否定することは人類文明の自滅を意味しかねない。

    だから単純な否定もできない。
    ところが本当は東洋思想(老子や仏教、そして気の思想など。孔子はやや文明よりかもしれない)は自我を完全否定しているのではなく、やはり偏りのない中道を目指している(例えば仏教は小欲知足)。だから、思想は再びこちらにやや重心移動すればいいはずだ(西洋文明にたいして中庸的に)。

    問題は、どう重心移動するかだが…。自我が自我自身を強く否定するのは、結局、自我的な行為であるから元もこもない。つまり自身が強く否定しようとする分、自身の働きが強くなる。自身で自身の勢いをそごうとするなら「自身が主体的にゆるやかに鎮まる」方法しかない。しかしこの自我に対する条件を、自我自身を主体に置いて論理的思考を用いて表現すると(=自我中心的に表現すると)、「自我(私)は明在系において自身の考え・意見を否定したり肯定したりしない」ということによって鎮まる。つまり「近代的な自我がその内部において自分を間違ってると判断したり正しいと判断したりしない」という解釈になると僕は思った(自明ではないが)。それによってこそ自我中心主義から巧妙に抜け出し得ると。ただしこれは、「自分の内部で自分の意見の正誤は判断できない」という、ゲーデルの不完全性定理における論理パラドックスと似た『事態』に「はまる」と言いたいわけではないことに少し注意が要る(あくまで「判断しない」という考えであって「判断できない」という主張ではない)。ゲーデルのアイディアを詳説するのは僕には手に余るが、例えば単
    純な例で、「私は嘘つきです」という命題が論理構造上、解釈不能におちいるというものだ(この命題自身が先程の『事態』における「自分の意見」に対応する)。ゲーデルのその帰結は厳密に論理構造的に無矛盾な閉じた(数学)理論系は実際には存在しえない、ということだった。

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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月01日 19時59分11秒

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    学知の移行期

     僕は「正しさ」へのとらわれから解放されつつあるのではないかという感覚がある。


    もちろん何も僕は人倫の道を安易に踏み外していいなどとは思っていない。

    むしろ逆に老子的な概念、道(タオ)に生きることができればいいのではないかと思っている。簡単じゃないけど。

    道はあるがまま、自然のままであること(自ずから然かること)、自然の原理などの意味があるけが、本当は、その意味ははっきりとは限定しえないものだ。

     しかし、大まかな意味は上に述べたことでいい。そして道は中庸、中正、中道と言い換えることができるらしい。これは結局仏教と似ている。大乗仏教徒の大理論家ナーガールジュナは「非有非無の中道」を唱えていた。これは物質的な見える世界でもなく心の世界つまり無の世界でもない、その中庸的な世界こそニルヴァーナ、つまり悟りの境地であると言った。これは結局、道教でいう気の世界を言うのではないかと思う。なぜなら気は物質的でもあり、精神的でもある、中庸的な存在だからだ。

     気は自ずから秩序を形成し生命を成り立たせる存在。言わば我々生命にとって本質的であり、互いをつなぐ存在だ。
    (気功は自ずから然かるための訓練のようなものだ)
    仏陀の話によると、どうもこれを体感・実感することは「悟り」にとって必要不可欠なことだったようだ。彼が気を知っていたかどうかはわからないが、苦行をやめたあと、王子時代に儀式時にやったことのある行で心の底から喜びが沸いて来るものがあったことを思い出し、それをやり始めてから悟りへと大きく近づいたそうだ。

    東洋では真理は自我、つまり思考を超えたところにあるとされるわけだから、実際にこの域に達するのは難しいだろう。

    そうだとしても…僕たちはデカルト的な近代的自我中心主義を抜け出さなければ次の時代を生きることはできないらしい。環境問題、異文化間問題など近代的な問題の根元でもあるこの主義から抜け出す思想。それが求められている。

    そこで、以前、京大で会ったおもしろい先生が言うには、これからは東洋の世紀になる、のだそうだ。実際、今までの議論から自我中心主義のまともな否定型は端的に言って東洋思想だと思える。

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