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  • from: Infophysさん

    2013年06月24日 04時28分01秒

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    これから僕らはどう生きて行ったらいいのだろうか

    コンプレックス=自然な自分が認められないこと
    よって、自分を知ることによって、劣等感は克服可能である。
     汝自身を知れ、というギリシャ七賢人の最後の自然哲学者の言葉は、文明的で競争的な社会の到来に対応する警鐘とも思えるのだが。ロゴスの発生と人類の世界が文明的になってくるのはおおまかに考えて同時期だと思う(2600年前)。つまり、システム(system)が重要になってくる時代ってわけだ。血統も含めて上下関係など、ヒエラルキーの発生も同じ枠に入れられるはず。すべてが、システマティックに処理されることで巨大な社会が形成されるようになった。人間一人一人が歯車同前、ピラミッドのブロック同然に扱われるという極めて不幸な時代の始まりを意味したといえるだろう。その中で比較という行為から自分を守るための言葉としても、この、汝自身を知れ、という言葉は人々を救ってきたはずなのだ。デルフォイの神殿の柱に刻まれたというだけあって、宗教的な言葉でもあると言えよう。
     現在、英語圏が支配的な世の中になったのもある程度うなずける。英語はシステマティックな言語だ。というのもいわゆる上から順番に枝分かれ(sys-tem)していく図がそのまま、英語の文頭から文末に向かって当てはまってしまうからだ。つまり、英語というのは後へ行くほど条件説明が首尾よく連なっていく構造になっている。重要なものほど最初に書かれ、言われる。だから、そういう気持ちで読み下せば、多少のことはあっても英語はすーっと頭に入っていくはずなのだ。
     つまり、彼らの頭の中はそもそも「デフォルトで」システマティックなのだ。まさに、形而下の事物を統御・統制するのに都合の良い構造になっているのだ。効率から考えれば最強の思考になるかもしれない。その意味で合理性が高いといえるだろう。
     しかし、一方日本語はというと摩訶不思議なほど語順が自由でヒエラルキー的じゃない。何でもありの世界だ。形なきものが美しいというのは日本人の美学の本質らしいのだが、決まった形を持たないこの言語のあり方にもそれは表れているのかもしれない。その意味で、僕は形而上学をやるのに日本語は向いているかもしれないと思ったりもする。
     英語のように上から下へとトップダウンに物事を統制していくのが習慣的になっている言語は具体的な事物向けの言語なんじゃないだろうか。物質文明はお手の物かもしれない。
    しかし、形なきものを統制するにはやはり、もっと自由度が必要なのではないだろうか。日本語は自由なだけではなく、非常に微妙なことまで表現しようとしているように思える。ひらがなの美しさに比肩しうる文字を僕は見たことがないしね。(日本人の主観にすぎないといわれるかもだが)
     僕は言語とは抱いているイメージをいかにうまく統制・統御するかという課題にこたえる存在だと思っている。その正確さにおいて、日本語の右に出る言語はないとさえ僕は思っているのだ。ぼくはつぶさに自分の脳で起きていることを観察しているが、だれでも何か不安定なまだ認識がされていないもやもやのイメージに対して、一生懸命それが何であるかを探っている時間があるだろう。そこで、なんどかそれになるべく整合する言葉を割り当てて見てはやり直すということをやっているはずだ。それを概念的な営為と言うことは全く適当であると思っている。すなわち、概ねのイメージ(念?)をとらえる、とぼくならば解釈するだろう。これを脳が行う情報処理として見ることは可能だと思う。
     思考が物事を解決に導くやり方は、まさにこれを大きな領域に対して行うことだと思っている。これがうまくいかないといつまでたっても、その事象は解決されずにもやもや悩んだままだ。バッチリ、そのもやもやに整合する概念的認識を得るのに何十年、いや真理というものが対象なら、何百何千年たってもそれができずに悩み苦しむという羽目になるのだ。人間の苦しみというのは結局それであるとも言えるだろう。
     とにかくこの世界のことが何が何だかわからない。なのに生きていかないといけない、というか少なくとも死にたくないし、どうせ生きるなら「善く生き」たい。そもそも「生」も「死」も本当にはわかってはいないんだが取り合えず得たこの肉体を維持したいという欲求に常にとらわれているというわけである。
     人間はかくも不安な状態でこの何百万年もの間生き延びてきた。大したものである。いまや人間の生存できない環境はないといわんばかりの状況である。なのに、なのになぜ人類滅亡の危機などといわれる場合があるのか。それはぼくは思考そのものにその原因を求めたくなる。思考は物事を分断し認識してきた。そうやって人間の世界を安定させてきた。
     しかし、人間はその思考力に身を任せるようになってから、本能すなわち直観を鈍らせるようになった。つまり、全体を見る力を失ってきたのだ。部分にとらわれることで、物事の真の像を観ることを逆に難しくしてしまったのだ。全体が見えない状態で部分を正確に認識したなどと言うことはできないともいえるからだ。本来人間は他の動物たちと同じように、全身で事物を把握していたんじゃないかと僕は思っている。当たり前と言えばそうだけど。つまり、正確に物事を把握し安定的に暮らし始めたと思われているが、実は逆説的に、世界の部分にとらわれて虚妄の中で生活するようになったというのが実態であると言わざるを得ないだろう。だからこそ、環境問題も生じたのだし、みな目先のことで精いっぱいで、楽な生活を求めてお金のために働いたところがかえって欲にとらわれて時間を失い、働きすぎで、病にかかるという本末転倒な有様に陥っている。
     文明をやめることはできない。しかし、健全な生活もしたい。というのが本音だろう。そのためにはぼくはクリエーションとか直観を大切にして、人間本来の善さ、すなわち、道徳観を復活させる必要があると思っている。中庸(ほどよさ)がなぜ古今東西大切にされてきたのか。それはクリエーションのためだと僕は解釈している。最適化を行わなければよいクリエーションはうまく起きない。だから、中庸が大事なのだ。微積分で極値を求めることがなぜ大事なのか。ちょうどいいところを求めるためだった。これも中庸のためとも言えなくもない。人間が生き生きと暮らす。そのためにクリエーション(cf.create,creatvity,creation,creature)が必要なのは言うまでもなく文字通りというべきだろうが、そういう認識を持つ人は案外少ない。コミュニケーション能力がなぜ大事なのか。それもクリエーションのためだろう。急激に局地的にクリエーションを起こそうとすることは好ましくないだろう。つまり、中庸(ほどよさ)の方が実は普遍的な概念であろう。しかし、なぜほどよくバランスをとることが大切なのかといえばやはり、クリエーションのためだとおもうし、各々が全体視、大局観、直観、本能を大切にすることでそのような部分にとらわれることを回避することが望ましいといえるだろう。

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  • from: Infophysさん

    2013年06月24日 00時07分08秒

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    外に出ることの良さ

    外に出るほうが、情報処理が進む日が多い。
    特に(研究以外の)課題がないから家に閉じこもらなくていいということもあるけど。

    外に出ると、自分の中がシャッフルされてしまうせいか、自分の中の情報でも、家にいたのではつながりそうにないことまでつながりに気付くという感じがする。
    あと、対戦格闘ゲームをやってると負けたときにずがーんっと自我が破壊される。これもまた再編成を必要とし、破壊と構築を繰り返していることに気づく。研究も人生も同じなんだなあと思った。思考ばかりを要する生活でも試行錯誤には違いない。全部、思考実験で先が読めれば苦労はないのにね。悟りはそれが急激に進行したりするのかもしれない笑 あっという間に時空を超えてしまえる。

    自分の中でだんだん不動の部分が増えてきている感じがする。自我を構築していくというのは自分を知ることに等しいと思うのだが、またそのせいか後戻りもできない(したくもないのだが)ことも確かだ。(また自我崩壊をしない限りは。)何か「ベールをはぐ」ことに近い気がするのだが・・・。正しい答えが外に存在するというのはやはり誤りというべきだろう。自分の中に安定的に秩序づけられてこそ知ったということになる以上、知るということは自分を知ることに他ならない。可能な自我のあり方(の一部)を知るという意味になるだろう。

    自分の生まれ持った核となる「情報」があったとき、あとに、その「自分」に付随してくる情報は自動的に(=整合的に)決まってしまう気がするのだがどうなんだろう。それを縁のある存在というのかもしれない。三子の魂百までも。

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