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  • from: Infophysさん

    2012年05月16日 00時56分45秒

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    学問とは。宗教とは。自分とは。知の逆説。逆説の知へ。

    学問というのは
    情報を転がして遊んでるうちに、
    様々な要(かなめ)が意識の中に浮上してきて、
    それらを頼りに、また、コロコロ転がして遊んでると、
    また違ったスケールの要(かなめ)が見えてくる。
    関係性がわかってくるからだ。

    次第に人間は「要領」が良くなってくる。
    つまり、かなめを領る[し(る)=知る]ようになる。
    要となる情報を発見し、思いのままに操り、結果として、世界を自分の思いのままにせんとしている。

    仏教の、ままならない、我が計らいにあらず、とまるで真逆を行っているように見える。しかし、もし、この「かなめ」たちが、自ずから発見されるモノに過ぎなかったとなると、その矛盾は氷解する気もする。僕らは努力している、ように思っている。しかし、本当はどうなのだろうか。自分が努力してる、それは本当に自分なのか、自分って何だ、自分は自分であって自分でない?ただの現象とどう違うというのか?

    大長編ドラえもん、のび太のパラレル西遊記、を見たことがあるだろうか。お釈迦様(ドラえもん)の手から、勢いよく飛び出し、宇宙の彼方にまで飛んでいった孫悟空(のび太)が、そこでまたお釈迦様の大きな手に出会ってしまう。
    つまり、どんな努力をしようと、人間はお釈迦様から逃れることはできない。自我は自己の影響下から逃れることができない。ほとんど無力だ。そういう仏教のメッセージをうまく伝えていると思う。
    我々が見いだしてきた、知識たちは、どうだろうか。

    最先端を行く相対論や量子論。まさにこの物理学は仏教と同じようなことを言うようになってきている(といわれることがままある)。これは西洋知が孫悟空で東洋知がお釈迦様という対応に、モロになってしまっている。自我は自己から離れんばかりに頑張ったところが(結局我は外界に向かって離れ、宇宙の彼方へたどり着いたどころか)、己を知る方向に向かっていたことになる。

    世界は逆説に満ち満ちている。そう言った人がいる。
    素粒子論は極小の世界を覗いていたつもりが宇宙時空の彼方のことを理解することにつながり、逆もまたしかりだったのだ。

    ではひょっとして、外界を研究していたつもりが内界の研究にたどり着いた、っていうことはないだろうか。僕は量子論や相対論はきっとそうだと思う。これ以上を言うと変な目で見られるから、やめとこっ

    偏りは知とは真逆だ。何かをやることはたいてい偏ることだ。真実が逆説的であるのは、そのためだと思える。
    つまり、何かの説明をしようとする。すると予定していたことの逆の事象を説明していたりする。
    何かの問題を解決しようとしたら、悪化したりする。行きすぎたのだろう。
    及ばざるは過ぎたるより勝れり(家康)。余計なことをしなかった分、偉いのだ。
    中正。そこにしか真実はない。

    西洋と東洋は元々ひとつのものが分かれたにすぎない。
    アフリカの大地にいた頃に、心を戻すときが来たと思えないだろうか。

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