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from: Infophysさん
2012/04/02 19:15:14
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社会性の無さの功罪
お二人の意見を見ていて、ぼくはやはり、社会性がないなと思いました。
そういう視点のない者が学問をやるということには、先生方を見ていても、かつての学者たちのやって来たことをかんがみても、まったく危なっかしいものだと思うものです。実際危なっかしいではなく、大惨事がゴロゴロしてます。
ぼくも今自分が取り組んでいる、下に書いたような研究が果たして人間社会に必ずしもよい影響だけがあるのかと悩むことはあります。純粋に理論的な事柄であっても、もちろんそうなのです。
アインシュタインのE=mc^2がなければ(彼でなくともだれかが見出だしたでしょうが)、原子爆弾も原子力もありません。幸不幸に変化は生じなかったかもしれません。しかし、科学と哲学の歴史から見て、あれが発見されることは、たぶん、必然だったのではないでしょうか。
それで良しとしていいわけはありませんし、実によい反省の対象になるでしょう。
しかし、歴史にIFを言ってもしょうがないという面は、学問の歴史についても言えるかもしれませんから、前向きにこれからの学問や宗教、もっと言えば、芸術、サブカルチャー、政治などのあり方を議論することはとても重要なことのように思います。
なぜ、学問という行為が始まり、なぜそれが行き詰まっているのか。
それはまず押さえたいところですよね。
僕が思うに、学問というより、言葉の存在自体がプラグマティックなものであると言えなくもないのです。
頭のいい人は自分だけで納得しちゃってムカつくやつだ、
という文句はまったく的を得ていて、西洋の学問は事実上、宗教ではなくとも、言葉教であるとも言いたくなる代物です。
言葉に乗っからないものは信じない、みたいな勢いです。
一方、宗教は信じるもの救われる、みたいなところがある。
僕らの足をすくうつもりなのか、とか
僕の従兄弟が「名言」を吐いてました 笑
学問よ、人の役に立て!
それはそのルーツを考えれば当然と言えるかもしれません。
しかし、冷静に考えると、何が人の役に立つのか、それがまずわかりません。数学のルーツが測量術であったり、理論一般が、何かの事象についての言葉による説明に過ぎなかったりするところからみて、どうやら少なくとも人の心を直接的に救うのは難しそうですね。
まだしも、誰かの言葉が誰かの心を救ったということは多々あるでしょう。
しかし、理論が人の心を救ったということはありはしても、そう多くはなさそうです。しかし、間接的には救ったことも多いでしょう。つまり、何がその人の救済になるかは自明ではないですよね。食べ物を多く生産することができたなら、多くの人が餓えをしのげます。病気が治せれば、それはある意味救いでしょう。しかし、多くの人の病を根治できる技術は、人口増加という形で、地球への負担を大きくし、逆に、地球に住む生命すべてにまた反動が返ってきます。今の論が正しくなくとも、何かを二つに分け、一方を立てれば他方が成り立たなくなるどころか、共倒れが起きることがあるというのは想像にかたくありません。
しかし、一見、そうは見えても、相反する二つの考えを越えた見方は発見できることがあります。(止揚、またはアウフヘーベンとも言います。哲学者ヘーゲルがこれに関して有名です)
なぜなら、そもそもそれを分けて考えているのは人間においてほかならないからです。多くの同時になりたたないような命題たちがある場合をアポリア、すなわち、哲学的難題とか言ったりしますが、これの解決は多くの場合、前提が間違っているということが、それに起因していたりします。
現代の抱える問題の多くは二文法によるのかもしれません。
しかし、人間は思考を行うことが止まないのが普通ですし、現実の問題に対処するのに思考をやめることなどあり得ません。
しかし、何もかも細分化していては、どんなにコミュニケーション能力を鍛えても限界がありそうです。
そこで、ひとつの理念的なアイディアですが全体情報の部分への分配という策があるようです。ライプニッツのモナドロジー(華厳経に似ているそうです)の部分と全体の関係性に関する考察をヒントにしているのだと思いますが、この方法の有効性は、すでに、カーナビで立証されていると言えるかもしれません。
つまり、全体の状態を部分である個人が把握することで交通渋滞が緩和されるというような、結局、部分も全体も状態が良くなる考え方です(全体情報の部分へのフィードバックという、生命体が用いているホメオスタシスのような原理)。
学問のやった始末は学問にしかできない。それに似たことを恩師に教わったことがあります。
学問や宗教、芸術の功罪は早く検討し直して、次の人類のあり方を見出だせねば、本当に窮地に陥る可能性は否定できないとも言いたくなる気分ですが、こうも、ごったかえした現状はさっき、のべたような生命の本質を仏教と似たレベルでおさえていたかもしれないライプニッツのモナドロジーなども参考にしながら、自己組織化の安定的な実現を図ることがひとつの希望のようにも見えます(ライプニッツは来るべき時代の設計者とも言われる学者です)。僕の師もなかなか頼りになります。今度、思想史の高校参考書を
書かれるかも知れないとのことです。
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