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  • from: 庵主さん

    2011年06月15日 19時46分42秒

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    『千利休由緒書』現代語訳

    千家所蔵の茶道史史料のひとつ、『千利休由緒書』。江戸初期、紀州徳川家による徳川家康年譜作成事業に伴い、千家系譜を作成。同藩儒臣により、表千家四世江岑宗左逢源斎へ直接下問、その内容を記録させたものと伝えます。当時元伯宗旦は高齢にて存命。宗左は不明部分を随時、父宗旦に問い合わせながら答えました。
    利休経歴と系譜について、生前の利休を直接知る人々から聞き合わせた『千利休由緒書』。茶道史史料としての信憑性は、数ある利休関係茶書の中で高く評価されています。

    本書内容は、まず利休の系譜。足利義政の同朋衆であったとされる、利休祖父田中千阿弥から、茶の湯の師、村田珠光、武野紹鴎の足跡にも及びます。筆録者より質問が集中した、利休賜死の真相と経過については当然多くの紙幅が割かれることに。利休と秀吉の確執、大徳寺山門木像事件の経緯、切腹当日の様子、少庵、道安の処置。そして秀吉の死後はじめて明かされた、利休娘の聚楽第奉公のいきさつ。利休をめぐる多くの歴史の真実が、浮き彫りとなる好資料といえましょう。

    言の葉庵では『千利休由緒書』を歴史ファン、一般の方に、もっと身近に触れていただこうと、読みやすい直訳にてお届けしました。今回、「信長・秀吉・家康と利休」「天正十九年、利休賜死にいたる過程」「利休娘の聚楽第奉公」の三つの段落をご紹介しましょう。


    『千利休由緒書』 現代語訳抜粋版 水野聡訳 2011年6月


    紀州徳川藩茶堂、江岑宗左談。同藩臣李一陽、宇佐美彦四郎筆録。承応二年編、寛文六年編


    (質問)
    利休は、いつ頃信長公に召しだされたのか。

     以下、宗左の返答。当時堺では、地元の茶人、今井宗久(菜屋)、津田宗及(天王寺屋)二名の茶名が高かったゆえ、信長公より各々三千石が下されていた。宗久は利休と親友であったため(利休は紹鴎の弟子。宗久は紹鴎の婿であったため親友となった)、利休を信長公に推薦する。利休は安土城に召され、茶を差し上げたが、ことのほかすぐれた点前であったゆえ、即座に三千石をもって召しだされることとなる。その後、安土へ詰め、毎度の茶の湯と茶堂を命ぜられ、並ぶもののない出世を遂げたのである。
     天正六年信長公は上洛。そのまま堺へ赴き、宗久、宗及、道叱宅にて茶会を開かれたが、その折、利休宅へも立ち寄られ茶を召し上がられたという。信長公が亡くなられた後は、秀吉公に召し出され、引き続き天下の茶堂としてご奉公することとなる。

     天正十二年春、秀吉公と家康様の間で合戦となった。秀吉公は不利であったため、自ら家康様の妹婿となって和談をすすめた。にもかかわらず家康様は上洛しようとなされぬゆえ、大政所様を岡崎へ人質として差し出されたのである。
     これにより、ようやく家康様は上洛。新町通三条猪熊の南、中島清延宅に到着された。これを聞いた秀吉公は早馬にて一行の旅宿、茶屋四郎次郎(訳者注 中島清延のこと)屋敷へ駆けつける。ここに家康様との対面がなったのである。この時、利休は棗の茶入を襟にかけ、秀吉公につき従う。家康様へ、茶弁当にて点前し、茶を一服差し上げた。秀吉公が、
    「徳川殿。この坊主を知っておられるか」
     と話しかけられた。家康様は、
    「いずれかで見かけたような」
     とのご返答。秀吉公、
    「この者は千宗易と申して、今の天下の名人です」
     家康様、
    「なるほど。安土城で度々見かけたゆえ見覚えていました」
     と仰られた。秀吉公は、
    「昨年、閏八月より聚楽第工事を始めました。残念ながらいまだ完成しておりませんので、大坂城にて貴殿を歓待いたしたい。私は明日大坂へ参りますので、家康殿もぜひご一緒に」
     と誘い、二人で大坂へ出向いたのである。
     さっそく大坂城天守にて利休を亭主として茶会が開かれた。秀吉公も客となって、家康様、織田常真 (信雄)様同座にて、利休が茶を点てたという。その場で秀吉公は白雲の大壺と不動国行の太刀を引き出物として家康様に献じる。このことがあってより、家康様の御前へ利休は召されるようになり、ねんごろな間柄となったのである。


    (質問)
    利休賜死にいたる過程はいかようなものか

     宗左の返答は以下。大徳寺山門を再興したことに端を発する咎である。大徳寺山門は、応仁の乱以来、破壊されたままこれを立て直す人もなかった。連歌師島田宗長が再興に取り掛かったものの資金不足により門が出来上がったばかり。上の閣を欠いていたため、利休が作事を引き継ぎ、門の上に閣を建てたのである。額を掲げ、己の木像を造らせ閣上に設置させた。像には頭巾を被らせ、尻切雪駄を履かせた。このように天下に傑出し、無双の出世を遂げたため、讒言する輩もある。これらを耳にし秀吉公は機嫌を損ねたのであろう。
    竜宝寺の山門は帝も行幸なされ、院も御幸、摂家・清華家の尊貴な方々、みな通られる門である。その門上にわが木像に草履を履かせ据え置くとは無礼千万、との咎めによって、天正十八年霜月に利休を勘当。翌十九年正月十三日堺へ追い下され、閉門が命ぜられた。

     加賀大納言前田利家卿より内々に、
    「大政所様、北政所様に助力を仰ぎ、詫びをお入れすれば許されるであろう」
     と申し入れがある。利休は、
    「天下に名の知られたわれらが、命惜しさに女性方に泣きつくなど、無念の極み。たとえ命を落とそうともいたしかたございませぬ」
     とお断り申し上げた。

     二月二十六日、秀吉の命により帰京。葭屋町の自邸に入る。そうしたところ、利休弟子の諸大名が身柄を奪回せんとの噂が立つ。秀吉公は上杉景勝に命じ、侍大将三人、足軽大将三人に率いられた六組、総勢三千人の軍勢により利休屋敷をひしひしと取り固めて両日厳しく警固させたと伝える。
     同月二十八日、尼子三郎左衛門、安威摂津守、蒔田淡路守を検使に迎え、利休は切腹して果てた。辞世の頌(しょう)、和歌を別紙に書き留め宇佐美彦四郎に渡した。


    ・秀頼公の小姓、古田九郎八直談の十市縫殿助(といちぬいどのすけ)物語

     天正十七年二月、秀吉公は東山近辺へ鷹狩に出かけられた。黒谷吉問(田か)近くで、手に鷹を据え徒歩で通る道すがら、畑の中に花見帰りらしい、三十歳ばかりの女房を見かける。乗り物を供にもたせ、幼児を三人連れ、下人男女十人ばかりを従えている。先払いの木下半助が「上様の御成りである。脇へ控えよ」と告げたため、かの花見一行は柳陰にてつくばい控えていた。
     秀吉公が側を通りながら見てみると、主人とおぼしき女房は器量が類稀なほどすぐれ、年も三十、女盛りの様子。そこで供の小姓を使いに遣り、
    「何者の妻女であるか」
    と聞かせると
    「千利休娘、万代屋宗安の後家でございます」
     と答えた。

     聚楽第に戻った秀吉公は、寵愛する尼、幸蔵司(こうぞうす)を呼び、かの女房へと書状を届けさせた。
    「聚楽第へご奉公にお出でなさい」
     との内意。女房は、
    「幼少の子等が大勢おりますので、ご奉公には参れません。どうかお許しください」
     と上意には応じなかった。
     秀吉公は徳善院 (前田玄以)を使いとして、父利休へ「娘を奉公させよ」と命じさせた。利休は、
    「娘をご奉公に差し出したならば、きっと人に、利休めは娘のおかげで出世した、となじられましょう。そのようなことにでもなれば、これまでの佳名もみな水に流れてしまう。思いも寄らぬことでございます」
     と強く要求をはねつけたのである。秀吉公よりその後三度まで命ぜられたにもかかわらず、利休は頑として受け入れなかった。そのため秀吉公は、はなはだ利休を怨むようになったのである。
     しかしこれしきのことで罰しては、世間の目もいかが、としばし目をつむり、
    「利休の罪を待ち、その折誅伐してくれよう」
     と思っていた。まさにこうした時、大徳寺山門の件が耳に入り、ついに利休は誅伐されたのである。

     以上は、古田九郎八の直談を長曽我部盛親方にて十市縫殿助が聞いたものである。大坂城落城後に、十市縫殿助が語ったところによる。九郎八は古田織部の嫡子、秀頼公の小姓組であった。

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  • from: 庵主さん

    2011年06月06日 21時47分17秒

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    『山上宗二記』の真実 第十回  新田・初花・楢柴

    引き続き「珠光一紙目録」より。
    天下三名物茶入れの項目をご紹介しましょう。

    一 新田肩衝 珠光が所持する。天下一である。  関白様
    一 初花(はつはな)   同
    一 楢柴(ならしば)   同
     引拙は、茄子茶入を手放した後も、この一品をなおさら楽しんだものである。ただし、自分は見ていない。宗易が話すのをよく聞いて記憶した。壺の形、尻のふくらみ具合がよい。釉薬は飴色だがひときわ濃く、釉が濃いという意味でならしばと名をつけたのである。「なれはまさらで恋のまさらん」という歌からとったものか。数寄の目からは、これぞ天下一といおうか。天下に三つの名物の一である。

    一 抛頭巾(なげずきん)
     元珠光所持。へら目が四つある。向かい合って二つ、上下一文字に押し込んだへら目である。なだれ状の釉がかかるが、全体としては濃い飴色である。珠光が初めの茶の湯に用いたのが新田肩衝である。次が宗久文琳 、その後小茄子 を所持した。これを手放し代わりに、圓悟一軸とこの抛頭巾を入手した。
     珠光末期に宗珠へ譲り、
    「忌日には、圓悟墨蹟を掛け、抛頭巾に簸屑(ひくず) を入れて、茶の湯を手向けよ」
     と遺言した。楢柴、抛頭巾は数寄の眼目といえよう。なお口伝あり。


    宗二が“数奇の眼目”とした、楢柴、抛頭巾。むろん、利休も賞賛したであろうことは想像に難くありません。

    「楢柴」は、鳥居引拙の道具。もとは足利義政の東山御物と伝えられ、引拙のあと、博多の商人島井宗室、秋月種実とわたり、秀吉の手中に転がり込む。当時の値は今日換算で「数億円」ともいわれ、戦国武将の茶器争奪熱ここに極まれり、と思われます。
    そしてさらに数奇道具として興味をひかれるのが、珠光名物「抛頭巾」。利休ら後の茶人の「宗匠頭巾」姿にくらべ、珠光の抛頭巾姿の画は、いっそう侘びて風格を感じます。
    さて抛頭巾、珠光より宗珠へ伝わり、のちに利休女婿、万代屋宗安が所持します。利休切腹に前だって、とかく仲のしっくりいかない義父利休の助命のため、宗安より秀吉へ抛頭巾が差し出されたという。しかし結果は皆様ご承知の通り。頭巾はいうまでもなく、利休はわが宝剣を天に“なげうつ”のでした。

    利休は切腹の折、最後の茶会で用いた「おりすじの茶碗」、「自作茶杓」を形見として茶堂少厳に与え、
    「思ひ出さるる折ふし、一服一会為すべし。本望にて候」
    と遺言します。(『千利休由緒書』表千家)

    粗末な「ひくず」で一服回向すべし、と言付けた珠光。一本の竹茶杓に後日の一服一会を託す利休。
    珠光と利休が末期に伝えようとしたものは何か。今一度、思いをめぐらしてみたいものです。

     いにしへを思い出ずれば今になり
       今も昔にまた成ぬべし

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  • from: 庵主さん

    2011年06月02日 22時26分24秒

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    『山上宗二記』の真実 第九回

     さて『山上宗二記』珠光一紙目録は、まだまだ続くのですが、茶碗より、花入、肩衝、茶入(茄子)と続き、「台子四飾りの事」の段落では、その他の道具という意味で、台子珠光道具、台子引拙道具、火筋、内赤盆、侘花入、夏の花、冬の花…と補完的な記述がやや雑多に記録されています。
     その中で目を引いたのが、「四方盆の事」で触れられる塗り師、"羽田五郎"についての以下の記事でした。

    一 四方盆の事
     昔は、羽田(はねた)が塗り師の名人であった。中頃からは、法界門が上手である。紹鷗茄子を飾りはじめてより、塗りは法界門となった。上作は三十貫、中は二十貫、下は十貫である。
    『山上宗二記』能文社2006

     そもそもこの「羽田五郎」なる人物、塗師最古の人とされ、茶器の棗は羽田が珠光のために作ったのが最初である、という説があります。
     「羽田五郎」は、相国寺の"法界門"前に住み、足利義政の用命を受けたともいわれる。この頃、法界門前には塗師等が職人町を形成し、それらの製品は「法界門塗」と称されていたが、羽田五郎もその中の一人であったという説があるのです。また、「五郎」の実体は羽田以外を含む門前の塗師たちを基にした伝説上の人物ではないか、ともいわれています。

     楽焼や竹花入などにくらべ、利休道具としてさほど取り上げられない棗などの「塗り物」の発祥と経緯。紀三、与三、盛阿弥など、利休時代の塗師たちよりも前代の伝説の塗り師「羽田五郎」。珠光時代の塗り物については、非常に興味をそそられるため、さらなる茶道史の研究と調査結果が待たれますね。


     宗易が盛阿弥に、
    「棗は、漆の滓をまぜてざっと塗れ。中次は念を入れて真に塗れ」
     といいし。紀三、与三が棗は、塗りみごとすぎて、おもくれたり。
    『茶話指月集』

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