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  • from: 庵主さん

    2020年03月29日 17時48分05秒

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    AI 対 人間。古典は自動翻訳できるのか。

    1000年前の日本語を、あたかも現代文のようにスラスラ読めたら...。
    言の葉庵読者の皆様の中には、そのように感じている方もいらっしゃるかもしれません。

    期待されている、AI翻訳。
    異言語間の翻訳については、IOTの進化に伴い日進月歩です。
    スマートフォンのような手のひらサイズの端末で、
    英語、中国語、ドイツ語など、音声入力すれば
    日常会話ならほぼ実用レベルで使用可の自動翻訳機が実現しています。

    さて、では同一言語内の古語/現代語変換は現在どの程度進化しているのでしょうか。
    そもそも機械に古文の現代語訳が可能なのか...。
    現在、ネット上に公開されている古文/現代文翻訳ソフトの精度を
    2種比較してみました。
    原文は世阿弥の『風姿花伝』第七別紙口伝の一文を使用。
    まずは、下記翻訳結果をごらんください。

    【風姿花伝 AI翻訳(現代語訳)対比例】

    第七 別紙口伝

    1.原文

    しかれば、芸能の位上れば、過ぎし風体をし捨てし捨て忘るゝ事、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のまゝにて、種なければ、手折れる枝の花の如し。
    種あらば、年々時々の比に、などか逢はざらん。たゞ、返すがへす、初心を忘るべからず。されば、常の批判にも、若き為手をば、「早く上がりたる」「功入りたる」など褒め、年寄りたるをば、「若やぎたる」など批判するなり。
    これ、珍らしき理ならずや。十体の内を色どらば、百色にもなるべし。その上に、年々去来の品々を、一身当芸に持ちたらんは、いか程の花ぞや。

    2.現代語訳

    A.ネット翻訳ソフト(1)

    そうであるので、芸能の位上るので、過ぎた風体を捨てた捨て忘れる事、ひたすら花の種を失うそうであるはずだ。それの時々にかつての花のままで、種がないので、手折った枝の花のようだ。
    種あるなら、年々時々のころに、どうして逢わなかろう。ただ、返すがえす、初心を忘れるべきでない。だから、常の批判にも、若い為手を、「元々上がっている」「功入っている」など褒め、年寄っていることを、「若やいている」など批判するのだ。
    これ、珍らしき道理でないか。十体の内を色どらば、百色にもなるべきだ。それの上に、年々去来の品々を、一身当芸に持っていようのは、いか程の花は。

    (ねこいりねこ : JavaScript https://catincat.jp/javascript/gendaigo.html)

    ネット翻訳ソフト(2)

    だから、芸能の位を上ると、過ぎた風を体をしてしまった捨て忘れる事、もっぱら花の種を失うのであるべきである。その時々であった花のままで、種がないと、手で折っている枝の花がのようである。
    種があるなら、年々時々の比に、どうして逢わないだろうか。まっすぐ、返すのがへする、初心を忘れるべきではない。それゆえ、通常の批判にも、若いため手を、「早く上がっている」「功績が入っている」などと褒めて、年をとっているおば、「若いなあがぎである」などと批判をするのである。
    これ、すばらしい道理ではないか。10体の内を色がどらは、100色にもなるべきである。その上に、年々去来の身分家柄々を、1身当が芸に持っているようなのは、どのようである様子程の花なのである。

    (古文翻訳装置 ver3.1 http://honnyaku.okunohosomichi.net/atfirst.htm)

    上は、各翻訳ソフトのデフォルトでの出力例です。
    ソフトの設定より各パラメーターを細かく指定し直せば精度は向上するのかもしれませんが、
    ぱっと見た印象では、人間でいえばまだよちよち歩きの状態ですね。
    比喩表現がまず類推できておらず、言葉も文法も崩壊。意味が通じません。
    異言語音声同時通訳ソフトに比べ、同言語古文/現代文翻訳は開発途上にあります。

    さてAIに対し、人間の翻訳はどうでしょうか。
    同書同文について、2社の現代語訳文を以下、比べてみます。

    ■風姿花伝 翻訳(現代語訳)対比例

    B.翻訳家(1)

    であるから、芸の位が高くなるにつれて、過去に演じてきた作品や技術をその場限りで忘れ去ってしまうことは、みすみす花を咲かせる基本になる種を失ってしまうことなのである。しかも、そのときどきに咲いていた花を忘れないといっても、過去の舞台における観客の批判や自己の満足感だけ覚えていて、どんな考えかたのもとに、どんな技術をもって演じたかという、花の種を忘れてしまったのでは、それは、手折った枝の花と同様で、ふたたびそれを満開させることは不可能である。種があれば、毎年その季節になれば美しい花を咲かせられるのであって、能においても、過去の演能をつくりあげた思考や技術の源泉を忘れないことが必要である。くれぐれも、若い時代から現在まで、その時期々々での初めての経験〈初心〉を忘れてはならない。常に耳にする批評にも、若い演者に対して「年齢の割に早く上達した」とか「若いのに舞台に味がでている」などと褒めたり、老年の演者の能に「若々しい」といった言いかたがある。これは、観客が、その演者について前もって持っていた印象と異なった、新しい発見をしたからであって、すなわち珍しいということが花である証拠である。
    前に述べたごとく、十分多彩な基本技術を体得し、そのうえにいろいろ研究を加えていけば、演戯の幅は百色にも多様になる。こうした演戯の横の広がりのうえに、その年代々々におけるさまざまな花、つまり演戯の縦の積み重ねを、現在の能の中に全部そなえているならば、はかり知れないほど多くの花を持った理想的な演者であるはずだ。

    (『世阿弥』~風姿花伝 山崎正和責任編集 中央公論社 昭和58年9月)

    翻訳家(2)

    されば芸の位が上がったといって、過ぎし芸風をやり捨てやり捨てしては忘れてしまうこと。ひたすら花の種を失い続けることとなる。その時々に咲く花ばかりで種がなければ、手(た)折(お)られた枝の花のようなもの。種があり、毎年毎年季節が廻りさえすれば、なぜまたその花に逢えないことなどあろうか。ただかえすがえすも、初心忘るべからず。されば常の批評にも、若いシテに「はや完成した」「年季が入っている」などと褒め、老シテには「若やいでいた」などというのである。これぞ珍しさの理ではあるまいか。十体をそれぞれ彩れば百色にも及ぶ。さらにその上、年々去来の品々を今一身に持てたとしたら、どれほどの花になることであろうか。

    (『現代語訳 風姿花伝』水野聡訳 PHPエディターズクラブ 2005)

    (1)と(2)は、訳出方針が異なるため、大きく訳文の印象が変わっています。
    しかしながら、上のAI翻訳と比べれば文章として、プロ・アマ以前に
    雲泥の差だということがおわかりいただけると思います。

    AIと日本語能力について【言の葉庵】では4年前にも取り上げました。
    (日本語力の危機。〔人間はAIに勝てるのか〕http://nobunsha.jp/blog/ai.html )

    学力の「東ロボくん」プロジェクトに比べ、4年経ってもAIの日本語力の達成度は低い。とりわけ古語/現代語の翻訳の分野ではまだまだ"遠い夢"といえそうです。
    将来、機械が人間の心を獲得できるまでは。

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  • from: 庵主さん

    2020年03月10日 18時17分59秒

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    日本語ジャングル。“笑う村”言の葉庵 笑話ベストセレクション

    日本昔話を代表とする、日本の民話。
    長者(お金持ち)ものや、仏教奇譚、愚か聟・愚か嫁、動物の恩返しなど、
    国々村々のあらゆる言い伝えや古伝承が語り継がれてきました。
    なかでもひときわ親しみやすいのが、「笑話」とよばれる、滑稽話の一群。

    落語や狂言の母型となった、様々な人たちの面白い話、おかしな話は、
    一服の清涼剤となって長年民衆に愛されてきたのです。
    今回、日本語ジャングルでは代表的な笑話をピックアップし、昔の日本人の
    秀逸なユーモアセンスを再発見したいと思います。
    「笑う村」でごゆるりとおくつろぎくだされ。
    ※以下6話は、(『日本の民話400選』永田義直著 金園社 昭和53年8月)
    より引用しました。

    1.茶の実
    郡代様が村へまわって来て、庄屋の家に泊まった。
    「茶の実がほしいから、村で一ばんの茶の実を持ってまいれ」
    という御沙汰があった。村の人たちはこれを聞いて、
    「さて、村で一ばんの茶飲みといったら、誰だろうかしら」
    と、相談をはじめた。そして、村でも指折りの茶飲み婆さんを、
    篭に入れてみんなでかついで連れてきた。
    「茶の実を持って参ったか」
    と、郡代様がたずねるので、
    「はい。さっそく探し出して持ってきました」
    と答えた。
    「では、ここへ持ってこい」
    というので、婆さんを郡代様の前へ連れていって、
    「これが村で一ばんの茶飲みでございます」。
    これには郡代様も腹を立てて、
    「これが生えるか」
    といって叱ると、婆さんは篭から出てきて、
    「はいはい、ごそりごそりと這えまする」
    といった。
    (福岡県)

    2.閻魔の失敗
    鍛冶屋は疝気で、軽業師は赤痢で、歯医者は卒中で、山伏は脚気で死んだ。
    そしてみんな揃って、閻魔の前へ出た。
    型の通り前世の身分・職業・病気をたずねられた末に、地獄の針の山へ
    送られたが、鍛冶屋は金のわらじを作って、軽業師が三人を肩に乗せて登っていった。
    これを見て、閻魔は怒って、地獄の釜の中へ投げ込むと、山伏は祈祷をして
    熱湯を水にしてしまい、
    「三助ぬるいからもっとわかせ」
    といってさわいだ。
    閻魔は仕方がないので、今度は鬼に食わせると、歯医者は鬼の歯を
    みんな抜いてしまったので、腹の中に入り、泣き笑いをする筋を引っ張ったので、
    鬼は泣き笑いをし、吐き出す筋を引いたので外へ吐き出された。
    これには閻魔も始末に困って、
    「ここに来るのはまだ早い。さっさと娑婆へ帰れ」
    といったので、みんな生き返った。
    (秋田県)

    3.福禄神(福禄寿)の頭
    福禄神が旅に出て、日が暮れたので一軒の百姓家に泊めてもらった。
    ところが、福禄神の頭が長すぎて、あちらこちらにつかえたので、
    壁に大きな穴をあけて、そこから外へ頭を出して寝た。
    すると、近所の者が通りがかって、
    「おや、これはめずらしく長い、大きな冬瓜だ。わしに売ってはくれまいか」
    というので、福禄神は、
    「これは冬瓜じゃないぞ。福禄神だ」
    といった。
    ところが、これを聞き違えて、
    「百六十文だって?それは高すぎる。もっと負からんか」
    というのを聞いて、福禄神は
    「曲からんから、こうやって頭を出して寝ているんだ」。
    (長野県)

    ☆続きはこちら 【言の葉庵】⇓
    http://nobunsha.jp/blog/post_238.html

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