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  • from: 庵主さん

    2010年11月27日 20時38分18秒

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    茶人列伝 第四回「利休と近縁茶人」

    今回は、桃山時代名茶人の姿を今に伝える、茶の湯逸話集『茶話指月集』よりご紹介。
    千利休をはじめとして、相弟子・妻・孫等、利休近縁者の味わい深いひとこまを読んでみましょう。


    ■千利休と秀吉

     春の比(ころ)、秀吉公、大きなる金(かね)の鉢に水を入れて床に直させ、傍(かたわ)らに紅梅一えだ置かせられ、宗易に
    「花つこうまつれ」
     と仰せらるる。御近習の人々
    「難題かな」
     とささやかれけるを、宗易、紅梅の枝逆手にとり、水鉢にさらりとこき入れたれば、開きたると蕾(つぼみ)とうちまじり、水上に浮かみたるが、えもいわぬ風流にてぞ有りける。公、
    「何とぞして、利休めをこまらしょうとすれども、こまらぬやつじゃ」
     との上意、御機嫌斜めならず。

    〔ひとこと〕
    茶道史上有名な「朝顔の茶会」。以来、利休と秀吉の茶席のエピソードは、茶の湯を語る上では欠かせません。
    上は、利休が山崎の合戦以降、秀吉の茶頭となって間もない頃の逸話。秀吉が茶席で利休に、公案問答のごとく無理難題を迫り、利休がこれに対し、目の覚めるような創意で切り返すというパターン。秀吉は「あっと」驚かされ、その興趣に素直に感嘆するのです。ここには天下人とはいえ、師と弟子の純粋な心の交流が感じられます。が、後年「野菊の茶会」
    http://bit.ly/h3hgLq
    などでは、悲しいことにその暖かい関係性は徐々に失われてしまうのでした。


    ■藪内紹智(やぶのうちじょうち)

     一とせ、休、雪の暁、葭屋(よしや)町(まち)の宅より蓑(みの)笠(かさ)きて紹知の所へたずねられしが、露地に入りて、みの笠ぬぐとて、紹知迎えに出たれば、千鳥の香炉に火の取りたるを、
    「これ、紹知」
     とて、右の袖より渡せば、紹知うけとり、
    「私も懐中候」
     とて、左の手より香炉をわたす。休、はなはだ入興(にゅうきょう)せらるると也。

    〔ひとこと〕
    「かなうは良し、かないたがるは悪しし」(南方録)。師と弟子の心がぴたりと一致する。これほど芸道の世界で美しい瞬間はありません。厳寒の雪の朝、相手を思いやる気持ちが二つの香炉でほこほこと温まる。なんと"真の茶の心"がほとばしる瞬間ではないでしょうか。

    ■千宗旦

     先年、さる人、旦翁へ見舞うたれば、折ふし、茶の湯前にて、僕(しもべ)露地の掃除しつるを、翁のみて、
    「あの片隅の蜘の巣ひとつは、そのまま残して仕まえ」
     と也。
    「古人の風流、今様のたぐいにあらず。感じ侍りぬ」
     とかたる。予も是を聞きて、かの兼好法師の、
    「何(いずれ)も、事のととのおりたるは、あしきこと也。し残したるを、さてうち置きたるは、おもしろく、いきのぶるわざ也(『徒然草』第八二段)」
     といわれしを、おもいあわせ侍りぬ。

    〔ひとこと〕
    わびの真骨頂は、ひとつわざと残した「くもの巣」にあらわれる。それは単なる美意識ではなく、"いきのぶるわざ"。すなわち、生命感の発露であるといいます。侘びとは、いのち。言の葉庵、過去のトピックスをご参照ください。
    http://bit.ly/gvozaq


    ■宗恩(利休妻)

    一とせ千鳥の香炉千貫に求めて、やや時うつる程、畳に置(す)えてみけるを、休が妻宗恩、
    「われにもみせ給え」
     とてしばし見て、
    「足が一分高うて格好悪しし。きり給え」
     という。休、
    「われも先ほどより、さおもうなり。玉屋(職人)をよべ」
     とて、ついに一分きる也。比の宗恩は、物数寄すぐれて、短檠(たんけい)にむかしは取手の穴なかりしを、はじめて明けさせたる人なり。

    〔ひとこと〕
    曇りなき"数奇の眼"により、大名物の足をためらいなく斬る、利休後妻の宗恩。この夫にして、この妻ありというべきでしょうか。

    『茶話指月集』(平凡社 東洋文庫 昭和47年)


    ※茶話指月集(さわしげつしゅう)
    利休の孫である千宗旦(1578-1658)が、その高弟「宗旦四天王」の一人、藤村庸軒(ふじむらようけん;1613〜99)に伝えた逸話を、庸軒の門人で女婿の久須見疎安(くずみそあん;1636〜1728)が筆録、編集したもので、庸軒没後の元禄14年(1701)に板行された茶書。

    ※藪内紹智(やぶのうちじょうち)
    茶道藪内流祖、初代 薮中斎 剣仲紹智。1536年、信長の臣藪九十郎禅正の次男として生まれ、のちに藪内宗把の嗣子となる。武野紹鴎のもとで茶の湯を学び、利休とは兄弟弟子。1579年に摂津尼ヶ崎から上京(洛北紫竹村)。利休没後、一時聚楽に出仕するが、晩年は隠居して、茶三昧に入った。
    1595年の還暦に、大徳寺 春屋和尚から堂号を認可。このころ下長者町新町西入ル鷹司町の西隣に居を移している。また、利休の媒酌で、古田織部の妹善室を妻にしている。

    ※千宗旦
    1578年(天正6年1月1日)〜1658年12月13日(万治元年11月19日)) 父は利休の後妻千宗恩の連れ子千少庵。母は利休の娘お亀であり、少庵の京千家を継いだ。千家三代。宗旦流(三千家)の祖。

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  • from: 庵主さん

    2010年11月22日 23時21分00秒

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    茶人列伝 第三回「山上宗二」

    千利休の商人茶人中、一番弟子とされる。侘び茶の未来を嘱望されるが、天正18年(1590)小田原征伐の折、当の北条家中にて茶の湯の指南に従事。攻め手の秀吉と対面を果たすが、「秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て」(長闇堂記)逆鱗に触れ、耳・鼻を殺がれるという極刑をもって一命を落とした。師、利休切腹の前年に冥土へと旅立ったのである。主著「山上宗二記」は、珠光〜紹鴎〜利休へといたる侘び茶の系譜を今に伝える、茶道史の第一級史料。今回は、「山上宗二記」からその主要部分をご紹介します。


    茶の湯者覚悟十体

    一 上を粗相に、下を律儀に。これを信念とする。
    一 万事にたしなみ、気遣い。
    一 心の内より、きれい好き。
    一 暁の会、夜話の会の時は、寅の上刻 より茶の湯を仕込む。
    一 酒色を慎め。
    一 茶の湯のこころ。冬・春は雪をこころに昼、夜ともに点てる。夏・秋は初夜 過ぎまでの茶席を当然とする。月の夜は、われひとりであっても深更まで釜をかけおく。
    一 われより上の人と交わるがよい。人を見知って伴うものだ。
    一 茶の湯では、座敷・露地・環境が大事である。竹木・松の生えるところがよい。野がけには、畳を直に敷けることが大事となる。
    一 よい道具を持つことである。(ただし、珠光・引拙・紹鷗・宗易などの心に掛けた道具をいう)
    一 茶の湯者は、無芸であること一芸となる。紹鷗が弟子どもに、
    「人間六十が寿命といえども、身の盛りはわずか二十年ほどのこと。絶えず茶の湯に身を染めてはいても、なかなか上手になれはせぬ。いずれの道でも同じである。まして他芸に心奪われては、皆々下手となってしまおう。ただし、書と文学のみ、心にかけよ」
     といわれた。


    追加十体

    一 目明き
     茶の湯道具はいうにおよばす、いずれの品であっても、見たままに善悪を見分け、人の誂え物を殊勝に好むよう始めることがまず第一である。してはならぬ目利きは、名品に似たものばかりを偏好することである。

    一 点前
     薄茶を点てることが、専らの大事となる。これを真の茶という。世間で、真の茶※を濃茶としているが、これは誤りである。濃茶の点てようは、点前にも姿勢にもかまわず、茶が固まらぬよう、息の抜けぬようにする。これが習いである。そのほかの点前については、台子四つ組、ならびに小壺・肩衝の扱いの中にある。

    一 囲炉裏(いろり)・風炉(ふろ)・炭・灰の事
     朝は、炭が自然とくずれ面白いように置くものである。冬は、寅の刻より、茶の湯をしかける。そうすれば日の出に炉中のさまが面白い。茶事の前にあっては、湯が早く沸くように無心に炭を置くこと。また、客人帰り間際には、面白く置く。日中は炭の形にこだわらず、成り行きにまかせ置くのである。日暮れから夜話の席では、夜が更けるにしたがって面白く置くべし。灰については、炭の手際を真に入り、粗相に見えるよう灰を入れるのである。口伝する。

    一 所作。花の生け方。絵・墨跡掛物。
    一 台天目での茶の飲みよう。同じく、数の台※と万の台の時。
    一 濃茶の飲みよう。床への道具、上げ下ろし。
    一 四方盆に飾った小壺・肩衝。客となって、拝見の事。
    一 風炉、小板に釜を真に据える仕方。同じく、囲炉裏の釜の釣り方。そのほか、手元の所作全般。
    一 懐石の場合、点前は色々と毎度変わるものである。正しい作法なるものは、毎日何度してもよいものである。珍しい手立ては、十回の茶席にせいぜい一度か二度か。名物を所持した、若い出世人の衆など三度も四度も珍しい手立てをするものだ。名物を用いて、粗相に見えるように点前することが大切である。おおかた茶の湯で作意をなす場合は、第一、懐石、または暁の茶会に客を呼ぶか、客の方から押しかけてくる時。第二、道具の飾り方が変わった場合、または給仕が珍しい場合。女に給仕させる場合もあるのだ。ただし、人の作意を真似てはならぬ。貴人をお招きする時は、珍しい手立てをすべし。紹鷗の時代より十年以前には、金銀散りばめた道具を使ったり、二の膳、三の膳まで出したものである。

    一 客の振る舞いこそ、一座建立※の要である。細部にわたって秘伝の多いもの。初心者のため、その意義を紹鷗は語り伝えた。ただし、当時このように教えることを宗易は嫌ったもの。それで、夜話のついでにぽつりぽつりと語ったのである。一番大事なことは、朝会夜会に寄り集まった間合いであれ、道具披き、口切の茶会はいうにおよばず、普段の茶会であっても、露地に入り、露地より出づるまで、一期に一度の会と思い、亭主を畏敬することである。世間話は無用。夢庵※の狂歌、

      わが仏 隣の宝聟(むこ)舅(しゅうと) 天下の軍(いくさ) 人の善悪

     この歌にて心得るべきである。もっぱら茶の湯の事、数寄談義を語るべし。

    一 茶の点前は無言でなす。次に亭主ぶりとは、心の底より客人を敬うこと。貴人で茶の湯上手はいうにおよばず、平凡な参客をも、心の底で名人のごとく思うべし。かように客となり亭主となって招き合うことが第一である。道具披きには、客一人か。

    一 数寄雑談のこと。古人が言い伝えてきた、古い名物の評判や茶会の話題をなすべし。達人に二十年以上は習うべきものである。

    一 茶の湯では、習い・基本・法度が大事であるが、まずもって数寄になるということである。秘伝である。達人の弟子となり、尋ねるべし。ただし、この五箇条ことごとく究めるといえども、創作がなければ、若狭屋宗可※・梅雪※のように立ち枯れてしまう。茶の湯の作法・習いは伝統に専ら従うべき。創作は新しいかどうかが命。独自の風を確立した先達に学ぶべし。また、その時代に合うように思案するのだ。

    一 茶の湯の師と袂(たもと)を分かった後、すべての分野の上手を師とする心がけをもつ。仏法・歌道ならびに、能・乱舞・剣法の上手に、さらにまた端々の所作までをも、名人の仕事を茶の湯と目明きの手本とするのだ。茶の湯の師たる心がけで、茶の湯ひとすじに三十年身を抛ち、己の茶の湯に精進し、こと茶に関しては決して茶坊主にはなるまい、と逼塞(ひっそく)する目利きをば、おのずから天下は呼び出すものである。わが茶の湯のたけを取り違え、天下一と茶頭ぶるものは、梅雪同然落ちぶれる。茶席での控え方は、右に述べたような心がけでなすものである。さらに口伝する。

     以上十体ともに秘伝がある。

     子曰く、「われ十五にして、学に志すと云々」※。
     この句を、紹鷗・道陳・宗易の秘伝とする。

     十五より三十までは、万事師に打ち任せる。三十より四十一までは、わが考えを出す。習い、基本、法度、数寄批評は、心に任せてよい。しかし、十の内、五まで我を出すべし。四十より五十までは、師とは西東、全く反対のやり方で万事なす。その中で、自己流を打ち出して、上手の名を取るのである。茶の湯を若返らせるのだ。また、五十より六十までの十年間は、かつて師匠がなしたごとく、一椀の水をそのままもう一椀へと移すようにする。名人の所作を万事手本となすのである。七十にして、宗易今の茶の湯の風体、名人にあらざれば真似することは出来ぬ。この年、六十八歳にふさわしい位である。紹鷗は五十四で亡くなった。このほかに、細々と口伝がある。

    一 茶の湯は禅宗より出る。すなわち僧の行を専らとする所以。珠光・紹鷗、みな禅宗である。

    一 大名、もしくは唐物名物所持の人の給仕には、稚児(ちご)のように髪を分けた子供に袴ばかりを付けさせて用いる。また、喝食(かつじき)※をも用いるのだ。武士・若衆は使わず。十二、三の沙弥(しゃみ)※も使う。これは貴人から下々まで、どんな客にもふさわしいもの。近頃宗易がいうには、二畳敷ほどの侘茶の湯には、給仕しかるべからずとのことである。


    ※真の茶 本来は台子飾りの濃茶を重きものとみなしていたが、利休侘び茶の理念により、薄茶を「真の茶」へと価値の転換をしたのである。
    ※数の台 七つ台のこと。「珠光一紙目録」
    ※一座建立 さまざまな人が寄り合い、心を一つにして茶会を成り立たせるという、茶の湯の根本精神を意味することば。
    ※夢庵 室町時代の連歌師、牡丹花肖柏(一四四三-一五二七)。
    ※若狭屋宗可 室町末-安土時代の堺の商人・茶人。村田宗珠門下。
    ※梅雪 京都上京、新在家在住の茶人。村田宗珠門下。号、不住庵。信長の茶頭をつとめるが罷免される。
    ※子曰く、「われ十五にして、学に志すと云々」 『論語』学而篇より。
    ※喝食 禅寺で、食事時を大声で呼ばわる役柄の僧。のちには髪を伸ばした侍童。
    ※沙弥 仏門に入ったばかりの人。


    『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社2006/5
    http://bit.ly/bY9WYv

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  • from: 庵主さん

    2010年11月20日 20時48分33秒

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    茶人列伝 第ニ回「武野紹鴎」

     室町時代、仏門の隠者である正徹・心敬・宗祇等によって連歌が興隆する。それまでの雅な平安王朝文化、和歌の世界に対抗し、連歌は「冷え・枯れ・侘び・かじけ」を新しい時代の美意識として提唱。以降、徐々にこの美的価値観は日本文化の各分野に浸透していくのである。
    従来ネガティブなイメージであった「侘び」や「寂び」が一転して、積極的な美の基準として採用、確立された。「数奇者」は、この時代連歌師をさす代名詞であった。が、侘び茶を深化させ、推進した紹鴎以来、茶の湯者の別称として普及していくのである。


    ■武野紹鴎 たけのじょうおう

    1502〜1555。若狭国の守護、武田氏の後裔。父の信久は諸国流浪ののち泉州堺に住み付き、姓を武野と改める。一説に信久は「種まきておなじ武田の末なれど あれてぞ今は野となりにけり」と詠み武士から町人となり、姓を武野と改めたという。紹鴎は三好氏の後援で武具調製の皮革商を営み財を成した。
     幼名、松菊丸。長じて新五郎仲材と称した。歌道を志し、京都、三条西実隆に師事して修行。元は連歌師であった。その後、村田珠光の流れを汲む藤田宗理、十四屋宗伍などに茶の湯を学んだが、ある時実隆から『詠歌大概之序』の講義を聞いて、茶道の極意を開眼したという(山上宗二記)。
    千利休は、はじめ北向道陳に茶の湯を学び、のちに道陳の紹介により、武野紹鴎に師事し、侘び茶に邁進することとなる。
    晩年、下京四条の夷堂の隣に茶室大黒庵を設ける。現在、堺の天慶院にこの茶室は再現されている。床に仏間をしつらえた、四畳半の席である。


    『山上宗二記』
    当代千万ノ道具ハ、皆紹鴎ノ目明ヲ以テ被召出也。

    『南方録』
    紹鴎に成りて四畳半座敷所に改め、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床の塗うちをうすぬり又は白木にし、之を草の座敷と申されし也。鴎はこの座に台子は飾られず。

    紹鴎のわび茶の湯の心ハ、新古今集の中定家朝臣の歌に、見わたせは花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕くれ。此歌の心にてこそあれと被申しと也。

    連歌ハ枯レカジカケテ寒カレと。茶ノ湯ノ果テモソノ如クナリタキト、紹鴎常ニ言ウト。

    『長闇堂記』
    つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、数寄をせられし時、初てこの作意有となん

    『紹鴎わびの文』
    天下侘の根元は、天照御神にて、日国の大主にて、金銀珠玉をちりばめ殿作り候へばとて、誰あってしかるもの無候に、茅ぶき黒米の御供、その外何から何まで、慎み深く、おこたりたまわぬ御事、世にすぐれたる茶人に御座候。

     侘びと云ふこと葉は、故人もいろいろに歌にも詠じけれども、ちかくは正直に慎み深く、おごらぬさまを侘びと云ふ。
     一年のうちにも十月こそ侘びなれ。定家卿の歌にも、

     いつはりのなき世なりけり神無月(かんなづき)
      誰(た)がまことより時雨そめけん

     と詠みとりけるも定家卿なればなり。誰が誠より、とは心・言葉も及ばざるところを、さすがに定家卿に御入り候。ものごとの上にもれぬところなり。
     茶事、もと閑居(かんきょ)して物外(ぶつがい)をたのしみ居る所へ、知人とぶらひ来て、茶点て、もてなし何かなと、花を生けてなぐさみ候すがたにて候。


    武野紹鴎は、珠光四畳半茶の湯を一層深化させた。藁屋根の四畳半に炉を切り、唐物道具のかわりに、信楽水指、備前こぼし、竹自在鉤、釣瓶水指、曲物の建水、竹蓋置など、日常雑器を茶の湯に取り入れ「わび茶」を完成させたのである。

    南方録 全文現代語訳↓
    http://bit.ly/cQhyih

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  • from: 庵主さん

    2010年11月19日 21時09分16秒

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    茶人列伝 第一回「村田珠光」

    侘び茶の湯創成期、足利義政東山文化の室町時代後期から、利休登場により「茶の湯黄金期」を迎えた安土桃山・戦国時代、そして「へうげもの」織部、「きれい寂び」遠州の江戸初期まで。歴史に名を遺す、歴代名茶人のエピソードとプロフィールを各時代の茶書からひろい、紹介していきましょう。


    1.村田珠光

     比道(このみち)、第一わろき事は、心のがまむがしやう也。こふ者をばそねみ、初心の者をば見下す事、一段勿体無き事共也。こふしやにはちかづきて一言をもなげき、又、初心の物をばいかにも育つべき事也。比道の一大事は、和漢のさかいをまぎらかす事、肝要肝要、ようじんあるべき事也。
     又、当時、ひえかるると申て、初心の人躰(じんてい)がびぜん物、しがらき物などをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也。かるると云事は、よき道具をもち、其(その)あぢわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらみて、後までひへやせてこそ面白くあるべき也。
     又、さはあれ共、一向かなわぬ人躰(じんてい)は、道具にはからかふべからず候也。いか様のてとり風情にても、なげく所、肝要にて候。ただがまんがしやうがわろき事にて候。又は、がまんなくてもならぬ道也。銘道にいわく、

      心の師とはなれ、心を師とせざれ

     と古人もいわれし也。

    (古市播磨法師あて『珠光心の文』)

    訳文・解説↓
    http://bit.ly/9ZQ6hJ


    ■村田珠光(むらたしゅこう)

    室町中期の茶人。応永30年(1423)〜文亀2年(1502)。奈良御門の村田杢市検校の子。幼名は茂吉。もとは奈良称名寺の僧。のち一休宗純に参禅。印可として「圜悟の墨跡」を与えられる。禅院での茶の湯に点茶の本意を会得したといわれ、侘び茶を創始して茶道の開祖となった。
    (古市播磨→珠光心の文に資料あり)

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  • from: 庵主さん

    2010年11月18日 18時42分17秒

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    11/22(月)寺子屋「山上宗二記」「南方録」

    次週月曜夜、寺子屋素読ノ会(茶書クラス)あります。
    http://bit.ly/alUNRw

    17:30-19:00「山上宗二記」
    珠光一紙目録大壷の次第より、読みます。

    19:30-21:00「南方録」
    今回より「滅後」の段落を読み始めます。

    新橋駅より3分の生涯教育センターばるーんにて開講。
    途中受講大歓迎。どうぞお気軽に。

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    2010年11月14日 09時11分38秒

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    能面・能装束入門 第七回

    ・能装束の分類

    装束は着付け類、上着類、袴類に分けられる。演者は一番下に肌着をつけ、次に着付け、袴(着けない場合もある)、上着を順に重ねて着ていく。

    着付け類
    摺箔(すりはく)…無地の小袖に金や銀の箔で模様をつけたもの。
    縫箔(ぬいはく)…刺繍と箔で模様をつけた小袖。
    厚板(あついた)…地厚の織物で、力強い模様が施されている。

    上着類
    唐織(からおり)…様々な色糸で模様が織り出されている小袖型の装束。
    長絹(ちょうけん)…袖が広く、胸と袖部分に組紐がつけられている。
    水衣(みずごろも)…生地の薄い広袖の装束で能独自のもの。
    袴類
    大口(おおくち)…しっかりとした生地で作られた両横に広がった袴。
    半切(はんぎり)…大口に似た袴で華麗な模様が施されている。
    指貫(さしぬき)…裾に通してある紐を膝の下で閉めて袋状にする袴。

    ・能装束の着付け

    普通、舞台で用いられる能面の100種程度に比べ、装束の種類はさほど多くない。単(ひとえ)・袷(あわせ)の別、織り方の変化や、無地か模様かといったことを別にすると、着付けのたぐい六、上衣(小袖の類)六、外衣(袍(ほう)の類)九、袴のたぐい四といった程度で、基本の扮装の類型は90種程度である。しかし、装束の取り合わせや、つけ方(唐織を例にとれば、ワンピース的用法のほか、ツーピース的なつけ方、右袖脱いだ着方など六通りの変化がある)、単と袷の違い、帽子、烏帽子、冠、仮髪などの変化、鬘(かつら)を締める鬘帯(かづらおび)、また腰の前に垂らす腰帯の選択などで、類型を破るくふうを凝らす。これも、基本を極端に少なくして、無限を表現しようとする能の理念によるものである。

    着流し(きながし)…女性役の代表的な扮装で、袴を付けずに唐織などを着る方法。
    腰巻き(こしまき)…小袖の上半身部分を袖を通さずに腰に巻き付ける方法。
    肩脱ぎ(かたぬぎ)…長絹などの右袖を脱いで後に巻き込む方法。

    着付例↓
    http://bit.ly/aD99II

    ・能装束の効果

    能装束には細かに揺れ動く縮緬(ちりめん)の類を用いないから、そのデザインはむしろ直線的な明快さ、張りの強い材質の重厚さに貫かれ、木彫りの能面と、幾何学的に抽象化された演技とに調和する。また様式化が極度に進んだため、むしろ面や装束が演出を規制するともいえる。たとえば、若く美しい女性の役は「紅(いろ)入り」といって赤い色の装束を用い、母親の世代や中年以降は「紅(いろ)無し」、つまり赤を用いず、これを演出の大きな基準とする。3年の孤閨(こけい)に耐えかね、夫を恨みつつ死んでいく「砧(きぬた)」のシテを、新婚まもない妻とし「紅入り」とするか、性的に円熟した「紅無し」の年齢に設定するかは、大きな曲目の解釈の相違である。
    また胸元にわずかにのぞく襟の色の選択一つによっても、演出が左右されるほどである。曲目や流儀により決まりの組合せがあり、模様まで指定される場合がある。
    昔は専門の物着方(ものきせかた)がいたが、現在では後見が着せる。同じ装束でも時代によってつけ方に変化と洗練がみられるのは、女性の役の基本の扮装に、五流の能と山形県の黒川能に大きな差があることをもっても知られる。
    世阿弥時代の絵には、鬼の役が「けがりは」とよばれる沓(くつ)を履いているが、今日では履き物はいっさい用いず、すべて白足袋(しろたび)で、足の運びの美しさを強調する。

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  • from: 庵主さん

    2010年11月12日 21時44分49秒

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    次週の能と茶のカルチャー講座

    途中受講、大歓迎です。
    ご参加お待ちしています!
    http://bit.ly/awi1Ck

    11/16(火)13:00〜14:30「能の奇跡を観る」
    第二回 吉野の神の奇跡「国栖」
    〈東京渋谷・東急セミナーBE〉

    11/18(木)10:30-12:00「千利休と侘び茶の世界」
    第二回 「数奇」とは?『南方録』覚書②
    〈東京中央区・銀座おとな塾産経学園〉

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  • from: 庵主さん

    2010年11月12日 20時02分34秒

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    明日教育TVで能の放送あります!

    NHK教育テレビ
    チャンネル :教育TV 3ch/デジタル教育1
    放送日 :2010年11月13日(土)
    放送時間 :午後2:00〜午後4:00(120分)

    能「三山」金剛流 シテ豊嶋三千春、ワキ高安勝久
    能「七人猩々」宝生流 シテ大坪喜美雄、ワキ宝生欣哉
    仕舞「笹之段」宝生流 三川 泉

    「三山」「七人猩々」はそれぞれ流儀の中堅実力者。
    仕舞笠之段、三川師は人間国宝。今井師とならぶ宝生の大ベテランです。

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  • from: 庵主さん

    2010年11月11日 19時49分22秒

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    能面・能装束入門 第六回

    ■能装束

    能に用いる扮装(ふんそう)の総称。狭義には演能用の布製品であるが、広義には演者が身につけるもので、能面を除くすべてをさし、烏帽子(えぼし)、冠、仮髪の類も含まれる。能では衣装とはいわず、かならず装束と呼称する。


    ・能装束の歴史

    世阿弥-禅竹の伝書『人形図』を見ると、室町時代の能装束は、日常の衣装の流用、リアルな扮装程度だったと推定される。『風姿花伝』には、女に扮する場合の注意として「いかにもいかにも袖の長き物を着て、手先をも見すべからず。帯などをも弱々とすべし」とあり、今日の装束・着付とはあきらかに様子が違う。

     このように初期の能装束は質素なものであった。室町時代末期から、貴族や権力者が鑑賞するようになったため、徐々に絢爛豪華になっていく。唐織などの豪華な能装束が製作されるようになったのは、室町末期から桃山時代にかけて。特に豪華絢爛をこのんだ豊臣秀吉以降、格段と能装束の華美化は進んだとされている。
    今日舞台でみる能装束の様式は、演出の固定化された江戸中期にほぼ完成された。現存最古の能装束は、観世宗家に伝わる足利義政拝領のもので、秀吉より下賜された法被をはじめ、江戸時代の徳川家、井伊家、細川家ほかの大名家所有の装束も多く保存されている。

    ・能装束の特徴

    能装束は第一級の日本の伝統工芸作品であり、その美術的価値も高い。能装束に用いられる技術は織物が主体で、それに刺繍(ししゅう)、箔(はく)押しが用いられ、染めはほとんど用いられず、後世の友禅(ゆうぜん)染めなどは、まったく能装束に導入されなかった。

    代表的な唐織は、金銀箔の糸を加えた豪華なもので、すべて織りで模様を浮き出してある。西陣織の技術の発達と、能を愛した大名たちの財力によるものである。

    男の役や強い神、鬼などの着る狩衣(かりぎぬ)、法被(はっぴ)、側次(そばつぎ)、半切(はんぎり)(半切(はんぎれ)とも)などは金襴(きんらん)や錦(にしき)が多用され、かつては中国からの輸入裂(ぎれ)が用いられた。

    有職(ゆうそく)の装束をそのまま流用したものに、貴人の指貫(さしぬき)や直衣(のうし)、男の平服としての素袍(すおう)、官女の着る緋長袴(ひのながばかま)がある。ごわごわした袴である大口(おおぐち)、腰に結んで前に垂らす腰帯(こしおび)、男の役にも女にも用いる長絹(ちょうけん)は有職の転化したものである。長絹や、能独特のデザインとされる舞衣(まいぎぬ)、あるいは単(ひとえ)狩衣、単法被には、絽地金襴(ろじきんらん)や顕文紗(けんもんしゃ)が用いられる。ダスターコート風の無地の外衣である水衣(みずごろも)も、能独特のものである。

    織り方で「しけ」「よれ」の区別があり、また縞(しま)物もある。金銀の箔で模様を摺(す)り出した摺箔(すりはく)、刺繍と箔で文様をつくる縫箔(ぬいはく)も、主として女性の役に用いる。摺箔の三角の鱗(うろこ)の連続模様は、鬼女の性を表す決まりになっている。

    なお、能の装束の絹に対し、狂言は麻を主材としている。足袋は能役者は白、狂言役者は薄い黄をはく。

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  • from: 庵主さん

    2010年11月10日 20時04分15秒

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    能面・能装束入門 第五回

    ・五番目〜鬼の曲に使用される面


    ■鬼神の面

     五番目、切能は一般的に「鬼畜物」とも言われるが、「融」「須磨源氏」「玄象」など、貴族や殿上人をシテとする曲や、「海士」のような龍女の曲もある。
     殿上人の三曲は、前シテが「笑尉」や「朝倉尉」、後シテが「中将」の面を使用している。
     海士は、前シテで「深井」や「曲見」という年配の女性の面を、後シテでは「泥眼(でいがん)」を使う。泥眼とは、白目部分に金色の彩色の入った女面で、葵上や砧のシテにも使う。目に金が入っているのは『この世の物でない』という約束で、鬼や天狗・幽霊の面は必ず金入りとなる。むろん、尉面や中将の目には金は入らない。
     また「春日龍神」や「張良」に出てくる龍神には「黒髭」を、「舎利」や「大会」に出てくる韋駄天や帝釈天等の力神には「天神」の面を使うこととなっている。


    ■鬼女の面

     葵上といえば「般若(はんにゃ)」の代表曲。般若には、「赤般若」「白般若」「黒般若」の三種があり、怒りを最も直接的に表象する赤が「道成寺」専用となる。高貴な女性としての品位を保つ白が「葵上」専用。遠国陸奥の鬼婆としての獣性を表す黒が「安達原」専用、というように使い分けられる。
     道成寺の場合は「赤頭」の小書が付くと「真蛇」や「泥蛇」と言う面に変わる。これはより強いイメージを出すと同時に、赤頭と面の赤が重複してしまうためと推測される。

     現在「紅葉狩」にも般若を使うことが多い。これは「鬼揃」の小書の時で、本来は「顰(しかみ)」と言う男の鬼の面を使う。この小書は明治になって作られたもの。広い会場(当時の万博)では、シテが一人では寂しいので、前ツレを全部鬼にして後半にも大勢鬼を出す事から始まった。ところが「顰」は基本的に一人しか使わない面で、一度に五つも六つも使うことはない。般若ならどこの家にも数多くあるので、鬼を鬼女に代えて般若を使うようになったのである。
     般若に似た面が「生成(なまなり)」である。これは「鉄輪」専用面。夫に捨てられた女が生き霊となって、別れた夫と後妻を取り殺そうとする曲で、他に「橋姫」という面もある。人間性を半分残しつつ鬼になり掛かった状態なので「生成」と名付けた。完全に鬼になってしまった般若を「本成」と言う。
    ちなみに般若とは本来仏教用語の「智慧」。般若の恐ろしさが能を通して、一般に定着することにより「般若」=恐ろしいというイメージが出来上がったのである。


    ■べしみ物

     この他にも天狗物の「鞍馬天狗」や「善界」に使う「大べしみ」。地獄の鬼「鵜飼」「松山鏡」「昭君」等に使う「小べしみ」。これは口を「へ」の字に結んでいることから「べしみ」と言われ、押さえた力強いイメージがある。
     「長霊べしみ」は大盗賊「熊坂長範」の顔で「熊坂」と「烏帽子折」に使う。
     これに対して「小鍛治」や「殺生石」に使う「小飛出(ことびで)」は軽快で切れ味鋭いイメージがあり、脇能に使う「大飛出」をスケールダウンしたような面。口をぐっとひきしめ力感を内に秘めた「べしみ」が陰、口も目もかっと開いた動的な「飛出」が陽の面といえるかもしれない。

    ■怨霊物

     鬼に対して幽霊になると「船弁慶」等に使う「怪士(あやかし)」や、「通小町」「藤戸」に使う「痩男(やせおとこ)」がある。今までの面に比べるとより人間臭く、暗い雰囲気があり、「黒頭」の下に付けるために一層陰鬱な表情に見える面であろう。似た顔の面に「一角仙人」に使う「一角仙人」と言う専用面もある。怪士の額に角を付けたようなおもむきである。
     老人の鬼という設定の「恋重荷」には「悪尉(あくじょう)」と言う面を使う。この「悪」と言う字は「悪い」ではなく「強い」と言う意味。様々な悪尉面がある。ただしまれに演じられる曲ばかりなので、舞台で見る機会は非常に少ない面といえよう。
    この分野の専用面としては前述の「生成」の他に「山姥」や「獅子口」などがある。獅子口は「石橋」の後シテで使う。文殊菩薩の愛獣である獅子の面で、能面の中で最も大きく、重い。首を振ったり、飛んだり、身体を激しく使うシテ方にとって、肉体的に大きな負担をかける面である。

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