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  • from: caminoさん

    2010年08月27日 15時19分19秒

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    フロンティア

    アメリカ高速鉄道の受注競争がホットなんですって。
    ただ受注に至る競争は困難。さらに受注できたとしても、建設資金や運用段階での障害も、やっぱり大きいんですって。

    http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819587E2E5E2E2E18DE3E7E2EAE0E2E3E29494E0E2E2E2

    なんかね、線路を敷くね。車より、ずっと速く、遠くまで移動できるね。ただね、駅から先はレンタカー借りて!みたいな計画なんだって。なんだそりゃ、アメリカどんだけ広いのっていう。

    雇用対策の色合いが強いんですて。
    だったらわざわざ苦労する意味なんてあんのか?
    どうなんでしょう?

    例えば、一生懸命勉強したり練習したりして、自分ではかなり到達したぞ、という感覚は、わりと得ることが可能ね。
    でも、そうやって培ったものが実際、役に立つか?金になるか?と言うと、そりゃ別の話ですわな。

    だから、荒野を切り拓いて(いるつもりで)進んでいる間は、よくわからないんだな。どこに着くのか。そもそもどこかにたどり着くのか?

    でもとりあえず、進みたいわけだ。いつの時代にもフロンティアは存在するし、それに挑戦することが許される人は幸せでしょう。そういう人は、ぼくだけじゃあないし、あんただけでもない。
    暗黙のうちに仲間なのさ。少なくとも、ぼくは孤独じゃあない、と思うのだ。理由なんかないんだけども。

    だからかどうかわからないが、一歩一歩はそれ自体、それなりに楽しい。
    そしてとりあえず距離は稼げるわけさ。遠いところまでは、どうやら進んできたぞと。

    確かに、ここからどうしよう?となるかもしれない。はっきりした目標があるわけじゃないからさ。

    ただ退屈はしない、とは言えるな。

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  • from: caminoさん

    2010年08月18日 23時02分10秒

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    この道は

    おばあちゃんが死んだとき、親族の誰かがが遺品の中からいく編かの詩を見つけた。それは紙にタイプされ、額に収まり実家に飾ってある。

    ひとつは「この道は川越まで続く長い道...」と始まる。

    実家は埼玉県さいたま市にありまして、家のすぐ近くを県道2号が走っている。昔は国道16号と呼ばれていたんですが、名称が変わった。詩は、この旧国道16号についての書いたもの。

    川越は、文字通り川を越えて隣の市。距離にすると20キロ弱か。おばあちゃんにとっては、川越まで続けば長い道であった。思い返す記憶の舞台はことごとく国道16号だったのだろうか。

    この道は幼稚園の先生だったおばあちゃんの毎日の通勤路であって、戦時中は空襲警報に怯えながら、園児を引率した。

    しかし国道16号というと、さんざんドライブした。友人が千葉県柏市で美容師の修行をしていた。当時は月に一度くらいは訪ねて行った。夜だと1時間半、16号一本。西に向かえば八王子、横浜、wikiによれば、これ環状線で、首都圏を一周する。三浦半島をサイクリングしてると、これ16号か、と思ったりする。まあ、国道だから。

    確かに長い道だ。
    川越を越えてどこまでも続く。

    「人間は、行く場所があれば必ずそこへ行くし、事実、行くべきなんですよ。」とアシモフは言ってる(聖者の行進より)。

    孫としては、もうちょっと先の世界も見てみたい。

    お盆の時期、いつもより少しセンチメンタルなタイムラインを眺めていると、そういうことを考えた。

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  • from: caminoさん

    2010年08月07日 17時36分20秒

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    「月と6ペンス」を読んで(いて)

    「月と6ペンス」を読んでます。まだ途中。

    半年くらい前かなと思って調べたら、1年半も前か、テレビで「駅路」という松本清張ドラマを見たのを思い出して、あ、これを下敷きにしてたのね。そういえばそんなシーンもあったような、という。

    図書館で何の気なしに手に取った本から記憶が掘り起こされたので、驚いた。

    「月と6ペンス」はゴーギャンをモデルにした小説ということらしい。
    40がらみの男があるとき絵画に取り憑かれ、順風満帆に見える生活のすべてを捨てて蒸発する。奥さんには心当たりが全くない。

    「駅路」では、石坂浩二が真面目一徹と評判の銀行員。しかし定年を目前にして、地方に密かに囲っていた若い愛人と逃げる。部屋にはゴーギャンの絵が掛かっている。写真が趣味であるが、奥さんはこのことを全く知らない。

    で、「抑圧された日常」や「隠している情熱」やなんかに共感したわけです。自分もいよいよ老け込んできたかなと悲しく思ったりもした。

    さらにだ、放映数日後に役所広司が笑っていいともに出ていて、タモリさんから「ラストシーンがいいんだよねー!」と言われていたのも偶然見ていた。何かと波長が合う。

    役所広司のラストシーンというのは、
    「人生、我慢の連続!」
    とか酔っ払って後輩相手にクダをまく、というシーン。
    役所広司は、しがらみを捨てることはできない。
    列車のボックス席のひとコマで、すごく良い。ぜひどっかで見て欲しい。

    でもタモリさんも同じようなことを感じていたんだな、と思うよね。みんなそうやって生きてんのさ。ふん!あの人の100%が見たいと、ずっと思ってるんだけどな。そういうのは違うんだろうか。自分の100%ということも考えるからなあ!ふう。

    月と6ペンスの中から。

    「水に落ちた人間は、泳ぎが巧かろうと拙かろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、溺れ死ぬばかりだ」

    まだ途中なんだけどね。

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  • from: caminoさん

    2010年08月05日 14時28分04秒

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    抽象的な人々

    3日くらい前の朝のニュース。アーリントン墓地で遺体(200体とか)の取り違えがあったとのことで、その責任者の公聴会の様子が報道されていた。

    刑法を勉強してると「事実の錯誤」という問題があって、これを思い出した。

    ある男が、Aさんだと思って人を殺したところ、殺されたのは実はBさんであった。

    このとき、男が殺すつもりだったのはあくまでAさんだったのだから、B殺害は過失であって、殺人と言えないんじゃないか、という問題意識がある。

    で、もちろんそんな言い逃れは許されない。

    殺人罪とは「人」を殺す罪。
    AさんにしろBさんにしろ、およそ「人」であることに変わりない。男は「人」を殺すつもりで「人」を殺している。したがって殺人罪が成立する。

    法律の世界では個人は「人」として抽象化されることがある。

    埋葬されてる兵士は、これとは全く場面が違う。もちろん。
    遺族は、失った個人その人を追悼している。当然。

    でも、もしかしたら兵士とは抽象化される存在なのかもなと考えた。

    軍隊ってどうなんだろう?
    兵士は名前を持った個人として扱われるのかな。その最期ではどうなのか。

    映画なんかから想像すると、そこには階級と認識票はあっても個性やその人物の背景は意識されないのかもしれない。前線なんかでは特に。そういう余裕は戦地にはないのかもしれない。

    彼は一人の兵士であって個人ではないと、もしそう考えるなら、墓地での取り違えもあるのかもなあと思う。(勝手に)

    一方で自分が埋葬される兵士の側だとしたらどうだろう。

    従軍して、生死を共に運命に委ねるわけでしょう。仲間と。
    今日は友が死に、明日は自分かもしれないという生活。
    勝手に映画のイメージで想像してるんですけど、だったら、自分の死に個性は感じないだろうな。無名の一兵士として死ぬ。抽象的に死ぬ。軍隊でも多分人は抽象化される。そうしないと殺せないもんね。生きれないし、死ねない。

    でもその死は受け容れられるのかもしれない、と思うんですよ。兵士にしてみれば。もし任務や仲間に納得していたなら。

    もちろん命の犠牲を強いた国が取るべき態度としては、最低であるし、遺族の怒りにも完全に同意します。

    ただ、軍隊と兵士に限ったことじゃないかもな。
    個性つったってさ、死は余りに大きい。

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