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  • from: 庵主さん

    2025/12/31 18:35:58

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    【日本語ジャングル】 日本人はなぜ“コツコツ”が好きなのか。

    【言の葉庵】メールマガジン(まぐまぐ)専用コンテンツ、「日本語ジャングル」。これまで、オフィシャルブログ【言の葉庵】では定期的に発信していませんでした


    【言の葉庵】メールマガジン(まぐまぐ)専用コンテンツ、「日本語ジャングル」。これまで、オフィシャルブログ【言の葉庵】では定期的に発信していませんでした。
    今回より、まぐまぐメールマガジン以外でも、言の葉庵各姉妹ブログでご紹介していくこととしました。

    これまで、日本語に関連する「いろは歌」「五七調」「敬語」「辞世の句」「標準語」「役割語(造語)」などのテーマにて展開してきました。

    今回は、日本人が昔より教育・啓蒙の指針として好んできた、いわゆる"コツコツ系"のことわざ・故事成語・慣用句にハイライトを当てて、その起源・由来・意味内容などを探っていきたいと思います。
    まずは、現代日本から始め、徐々に歴史をさかのぼって、最後は古代中国へとタイムマシンでご案内していきましょう。

    さて、まず"コツコツ系"成語の定義ですが、条件は2つあります。
    一つ目は小さなことをコツコツと努力すること。そして2つ目は、それを長期的に継続すること。この2つが合わさって、はじめて大きな成果へとつながっていくのです。
    教育や成長、自己実現はすべてここから始まります。地球や自然などマクロな視点からはSDG'sの実践ともいえるでしょう。

    最初は現代日本から。イチロー選手のコツコツ系名言をご紹介します。

    1.小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道。
    (2004年、メジャーリーグ年間安打記録を破った際の記者会見より)

    誰にも真似のできない偉業を達成した、イチロー選手ならではの説得力に富む名言だと思います。

    次に、ぼくたちが日常的に耳にする現代の慣用句をいくつか見てみましょう。

    2.塵も積もれば山となる
    3.石の上にも三年
    4.継続は力なり

    まず疑問に思うのが、コツコツと努力を続けるのが、一体どのくらいの期間か、というもの。それは目指す目標や成果によるのですが、ことわざ、慣用句として「石の上にも三年」が定着していますね。忍耐の限度の目安としたものですが、三年間我慢しても一向に先が見えぬ場合、そこでいったん再考するというのは人間に与えられた人生の残り時間を考えると、「ほどよい」のかもしれません。

    次は、江戸時代末の二宮尊徳の至言です。

    5.積小為大 (せきしょういだい)
    (『報徳記』富田高慶著)巻第一の「小を積めば、則ち大と為る」より。

    二宮尊徳は金次郎の通称で知られた江戸末期の農政改革家。貧しい農家より身を起こし、少年期に川の氾濫によって、家も田畑もすべて失います。が、ある時捨てられた苗を開墾した荒地に作付けしたところ、秋には一俵の籾を収穫したと伝えます。ここから尊徳の仕法の根幹を為す「積小為大」の思想が生まれました。コツコツと村から村へと農政指導(仕法)を続け、生涯に北関東と東北の廃村600ヵ村を復興再生させたのです。

    次は、中国漢代の故事成語です。

    6.点滴穿石 (てんてきせんせき)
    (『漢書』枚乗伝)

    (読み下し文)
    書の上りて呉王を諌む「太山の霤は石を穿つ」
    (しょのたてまつりて、ごおうをいさむ。たいざんのりゅうはいしをうがつ)

    霤は、雨だれ、またはしたたりのことです。
    太山は、中国山東省にある標高1,545mの名山「泰山」の異表記。古くから信仰の対象とされ、歴代の皇帝が国家統一を天に報告する「封禅の儀」を行った聖地として知られています。
    ぽとりぽとりとしたたる山の水滴が、何十年、何百年とかけて、ついには巨石にも穴を穿つ、という意味。出典は『漢書』枚乗伝です。呉王を家臣が諫めた書からの言葉ですが、これは謀反を企む王を抑止するためのたとえで、小さな悪事もやがて大きな災いを招く、という意味です。他の慣用句や成語とは異なり、小さな積み重ねを否定的に表現したところがこの句の特徴です。

    さて古来、小さいこと、わずかなことの比喩として「毛」という言葉が中国、そして日本で使用されてきました。たとえば「毛ほど」は、文字通り「毛の先ほど」のわずかな量を指します。非常に小さいこと、些細なことを表現する際に用いられました。

    ・使用例
    「毛ほども疑わない」:全く疑わない
    「毛ほども知らない」:全く知らない
    「毛ほども考えていない」:全く考えていない

    この「毛」は度量衡でも単位として用いられますが、長さでいえば一毛は約0.03mm、重量では一毛が3.75mgに相当します。吹けば飛ぶほどの微細な存在です。

    自分自身をこの吹けば飛ぶような軽くて、小さな存在として表現したのが、中国前漢の歴史家、『史記』の作者である司馬遷です。その書簡の中で使用した「九牛の一毛」が故事成語として広く知られています。

    7.九牛の一毛(きゅうぎゅうのいちもう)

    (白文)
    假令僕伏法受誅 若九牛亡一毛 與螻螘何異 而世又不與能死節者比

    (読み下し文)
    假令僕の法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡なふが若し、螻螘となんぞ異なる。
    而して、世も又能く節に死せる者と比さず。

    (現代語訳)
    もしも私が、法に従って罰せられたとしても、多くの牛の中から一本の毛を失ったようなもので、虫けらみたいなものです。結局、世間も節を守って死んだものと比べもしないでしょう。

    (司馬遷 報任少卿書(『漢書司馬遷伝』『文選』所録)

    司馬遷は、友である李陵を弁護したため武帝の怒りに触れ、宮刑に処されました。当人にとっては死にまさる恥辱だったのですが、世間は些事としか思っていないであろうと自らを突き放して書いたもの。九牛とは多くの牛の意味。一毛とは、その多数の牛の中、一頭の牛の毛一本という意味。ここからわざわざ取り上げる価値や、重要視する必要がないような些事を「九牛の一毛」と言い表したのです。
    しかし司馬遷はこの苦難を乗り越え、ついに家の悲願である歴史書、『史記』を成しました。

    8.千里の道も一歩から

    『老子』第64章

    (白文)
    合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土、千里之行、始於足下。

    (読み下し文)
    合抱(ごうほう)の木も毫末(ごうまつ)より生じ、九層の台も累土(るいど)より起こり、千里の行(こう)も足下(そっか)より始まる。

    (現代語訳)
    一抱えもある大木も毛先ほどの芽から生まれ、大きな建物も土台を盛ることから始め、千里の道のりも足下の一歩から始まる。

    「毫」はもともと毛の意味で、日本の「毛」と同様に非常に小さな単位を表します。長さでいえば一毫は約0.03mm。一毛と同じです。よって前句の毫末は毛先一本ほどの新芽から、巨木が成長する。つまりそれを後句の足下(一歩)と千里とに対比させて、非常に些末なものを積み重ねることで偉大なものが成り立つ、というたとえとなっているのです。

    9. 山の一毛をも毀つ能わ不らん

    『列子』湯問篇:「愚公山を移す」より

    列子は、戦国時代(紀元前5世紀 - 紀元前221年)の鄭の道家思想家、列禦寇(れつぎょこう)のこと。その書を『列子』といいます。『漢書』芸文志には列子について、「荘子に先立ち、荘子これを称う」(荘子の前の時代の人で、荘子は列子を称賛した)とあることから、道家では「老子→列子→荘子」という系譜になっています。

    『列子』は『荘子』と同じく、道家の深い真理をわかりやすい民間のたとえ話として構成しており、この「愚公山を移す」の段落も、コツコツ系の代表的な寓話となっています。二つの高山に家をはさまれ、往来をふさがれ困り果てていた90歳の愚かな老人。しかし一念発起し、家族と力を合わせてこれらの山を自分たちで取り除こうとした途方もない逸話です。
    まずは、読み下し文と現代語訳にてご案内しましょう。

    (読み下し文)

    太形、王屋二山は、方七百里、高万仭。本は冀州之南と、河陽之北に在り。北山の愚公なる者、年且(まさ)に九十、山に面し而居る。山北之塞、出入之迂に懲りる也。室を聚め而謀りて曰く、「吾与汝力を畢して険しきを平らげ、指して予南に通じ、漢陰にとどかん。可なる乎」と。雑然として相い許す。其の妻、疑いを献(さしはさん)で曰く、「君之力を以て、曽ち魁父之丘も損つ能わ不らん。太形、王屋の如きは何なるか。且つ、焉んぞ土石を置(す)てん」と。雑(うから)曰く、「諸を渤海之尾、隠土之北に投げん」と。遂に子孫を率いて荷を担える者三夫、石を叩き壌(つち)を墾(ひら)き、箕畚(キホン)もて渤海之尾に運ぶ。隣人の京城氏之孀妻(やもめ)に、遺せる男有り。始めて齓(かけば)なるも、跳びて往きて之を助く。寒暑節(とき)を易え、始めて一たび反りたり。河曲の智叟、笑い而之を止めて曰く、「甚しきかな汝之恵まれ不る。残せる年の余力を以て、曽ち山之一毛をも毀つ能わ不らん。其れ土石の如きや何とせん」と。北山の愚公長く息して曰く、「汝心之固なる、固さる可から不。曽ち孀妻のおさなき子にも若か不。我死に之くと雖も、子の存有り焉(なん)。子又孫を生み、孫又子を生み、子又子有り、子又孫有り、子子孫孫、匱(つ)き窮(きわま)る无き也。而るに山増すを加え不、いかんぞ而て平なら不らんや」と。河曲の智叟、以て応うる亡し。操蛇之神之を聞きて、其の已ま不るを懼るる也、之を帝に告ぐ。帝其の誠に感じ、夸蛾氏(コガシ)の二子に命じて二山を負い、一を朔東にうつし、一を雍南に厝せしむ。此れ自り冀之南、漢之陰、隴(おか)の断(けわし)き无くなりぬ。

    (現代語訳)

    太行山と王屋山の二つの山は、七百里四方で、高さが一万仭。もとは冀州の南、河陽の北にあった山である。
    北山の愚公は当時、九十歳になろうとしていた。太行と王屋、二つの山の南に住んでいたため、険しい山で北側をふさがれ、往来に大きく迂回しなければならないことに悩んでいた。
    そこで愚公は一族を集めて、相談したのである。
    「みなで力を合わせて山を平らにし、予州の南へと道路をつくる。そして漢水の南岸まで道を通したいと思うが、どうだろう」。
    一族はみなもっともだとして、賛成する。しかし、愚公の妻は疑っていう。
    「あなたの力では、小さな丘でさえも崩すことはできません。ましてや太行、王屋のような大きな山をどうすることができましょうか。その上、山を崩した土はどこに捨てるのですか」。
    みなは、「崩した土は渤海の端や、隠土の北の方に捨てましょう」といった。

    ついに愚公は、子や孫たちを引き連れ、土や石を運ぶ者三人で、石を打ち砕き、土地を切り開き、箕(み)やもっこを使ってそれらを渤海の端の方へまで運んでいったのだ。
    愚公の隣人である京城氏の未亡人に子がいて、ようやく歯が抜け替わるぐらいの年齢になっていた。その子も喜び勇んで手伝ってくれた。冬が過ぎ、夏が去って、みなはいったん家に帰ることにした。
    黄河のほとりに住む利口な老人が、あざ笑っていった。
    「あんたの愚かさはどうしようもないな。老い先短い身では、山の土1ミリさえ取り除くことはできまい。ましてや、あれらの土石をどうすることができよう」。
    愚公は深くため息をついて、
    「あんたの頭の固さこそ、なんとしたことか。あの未亡人の幼子にも劣るぞよ。
    たとえわしが死んだとしても、子は残る。その子はさらに孫を生み、孫はまた子を生む。
    その子にはまた子ができ、子にはまた孫が。と、子子孫孫、尽き果てることはない。
    一方、山の方は今後増えることも高くなることもない。どうして平らにならぬことがあろうか」
    といった。黄河の利口な老人は、返す言葉もなかった。

    山の神はこの話を聞き、愚公が山を崩してしまうのではないかと心配し、天帝に報告した。
    天帝は愚公の誠に感じ、怪力の神である夸蛾氏の二人の子神に命じて、太行と王屋の二つの山をそれぞれ背負わせて、一つは朔北の東部に移し、もう一つは雍州の南部に移させたという。
    こうして、冀州の南から漢水の南側にかけて、険しい山はなくなったのである。

    (現代語訳 水野聡 2025年12月)

    逸話のあらすじ:
    物語の主人公の愚公は固有の人名ではなく、愚かな老人の意です。同様に智叟も名前ではなく、賢い老人という類型名です。
    山に囲まれた愚公が、邪魔な二つの山を子や孫とともに切り崩そうとある日決心します。それを見た智叟が「お前のような老いぼれに、どうしてこのような大きな山を崩せるものか」と笑う。しかし愚公は「わしが死んでも子があり、子が死んでも孫がいる。子々孫々と代を重ねれば、いつか必ず山は平らになる」と答えました。この愚公の決意を聞いた神(天帝)が彼を哀れに思い、一夜にして山を動かしたという話です。

    意味の転換:
    「山の一毛をも毀つ能わ不らん」は、老人には大山のほんの1ミリさえ崩すことはできまい、と愚公の無力さ否定する意味合いで使われています。しかし、これが子々孫々と時を経て、一毛(わずかなこと)が原因で、大山(大きなもの)さえ崩すことができるという、正反対の教訓的な意味合いを持つ成語へと変化したものと考えられるのです。
    まさに「コツコツ系」の信念と誠意が山をも動かした、というのが同話の核心でしょう。

    道家思想の背景:
    コツコツ系と聞けば、ぼくたちは勤勉さを奨励する儒教的な思想を想像するものです。が、「8.千里の道も一歩」は老子、「9. 山の一毛をも毀つ」は列子。ともに道家の思想から生まれた成語です。

    道家の思想は、「道」や「無為自然」など、人間と宇宙(自然)との合一(調和)を説きます。愚公の物語も、大きな自然(山)とちっぽけな人間の関係を描いたもの。愚公が「子々孫々」と語るように、道家思想には悠久の時間の中で物事が刻々と変化していくという壮大な時間の概念があります。この永遠にも等しい長い時間の中では、たとえ目に見えぬほどの微小な存在であっても、それが代々積み重なり、影響を及ぼすことにより、とてつもなく大きなものへと変化生成していくことが可能です。

    コツコツと愚公の一族が何十世代にもわたって山を平らにしたのであれば、儒教的な教訓説話となるのですが、『列子』では、天帝と山の神が一夜にして2つの山を移動してしまいます。人間も困るが、崩されてしまっては山も困るからです。古代の神々が直接人間と接する道教的な結末となっており、そこがコツコツ系を生真面目に説教する思想哲学ではなく、民衆に面白おかしく受け入れられてきた老荘哲学の寓話の底力ではないでしょうか。

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  • from: 庵主さん

    2025/12/10 18:15:35

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    名言名句 第八十一回 平知盛「見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき。」(平家物語)

    見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき。平知盛『平家物語巻第十一内侍所都入』より今回の名言名句は、源平合戦の最終戦、壇ノ浦の戦いで敗れ、入水し最期


    見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき。平知盛『平家物語 巻第十一内侍所都入』より

    今回の名言名句は、源平合戦の最終戦、壇ノ浦の戦いで敗れ、入水し最期を遂げた平知盛の末期のことばです。

    平知盛は、清盛の四男で、その生まれもった資質と才能から、清盛にもっとも愛され、後事を託そうとされた知将であり、影の実力者です。
    総大将たる兄、宗盛が凡庸であったため、代わって平家一門を率い、都の防衛から、壇ノ浦での滅亡に至るまで、軍事の中心となって戦いました。

    壇ノ浦で、安徳天皇と二位の尼の入水により、平氏滅亡を悟った知盛が、「見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき」のことばを遺し、信頼する乳母兄弟の平家長とともに、入水、自害するのです。
    まずは、知盛入水の段落を、平家物語巻第十一から〈原文〉と〈現代語訳〉にてご紹介します。

    〈原文〉

    新中納言知盛卿は、見るべきほどの事は見つ、今は何をか期すべきとて乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、日比の契約をば違へまじきか、と宣へば、さる事候ふ、とて中納言にも鎧二領着せ奉り我が身も鎧二領着て手に手を取り組み一所に海にぞ入り給ふ。これを見て二十余人の侍共後続いて海にぞ沈みける。されどもその中に越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は何としてかは遁れたりけん其処をもつひに落ちにけり。
    海上には赤旗赤標切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田川の紅葉葉を嵐の吹き散らしたるに異ならず。汀に寄する白波は薄紅にぞ成りにける。主もなき空しき舟は潮に引かれ風に任せて何方を指すともなく揺られ行くこそ悲しけれ。

    〈現代語訳〉

    新中納言知盛殿は、「見るべきことは、もはやすべて見た。この上何を望もうか」と、乳母兄弟の伊賀平内左衛門家長を呼び寄せた。「これまでの約束に違うまいな」と仰ると「もちろんです」と答える。知盛殿に鎧を二領着せ、自分自身も鎧を二領着て、手に手を取って海にとび入った。これを見て二十余人の侍どもも、跡に続いて海に沈んでいったのだ。しかしそんな中、越中次郎兵衛盛嗣殿、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清、飛騨四郎兵衛・伊藤景高は、どのように逃れ得たのであろうか。そこをもついに落ち延びたのであった。
    海上には赤旗・赤印が切り捨て、かなぐり捨てられている。龍田川の紅葉葉を嵐が吹き散らしたがごとくであった。水際に寄せる白波は薄紅に染まっている。主を失ったうつろ舟が、潮に引かれ風に任せて、いずかたをも知らず揺られ漂うさまは悲しい。
    (水野聡訳 2025/12/10)

    知盛の「見るべきほどの事」とは、どんなものだったのでしょうか。人が一生の間に見られるもの、経験できること、成し遂げたこと、そして失敗と恥辱の数々。
    権勢並ぶべきもののない、平家一門の御曹子として生まれ、栄耀栄華を極めたのが、まさに知盛の前半生でした。そして晩年、といっても享年三十四歳ですが、一転して平氏追討の地獄を見る。都落ちから始まり、敗戦し、逃げ惑う日々。一の谷では一子、知章が父、知盛をかばって討ち死にし、ついに壇ノ浦の平氏滅亡をわが目で見届ける生涯でした。短い一生の間、一般庶民では決して経験のできぬ「見るべきほどの事」を見た。そして「今は何をか期すべき」と船から海中へと身を躍らせるのでした。

    「見るべきほどの事」とは、自分の身の丈に合った、一生で経験できるすべて、という意味です。ぼくも含め、一般の方が「見るべきほどの事」は、知盛のような数奇で波乱万丈な経験ではないかもしれません。ところが、貧しく平凡な農村の一青年が、霊力により、およそ考えられぬほどの成功と出世、栄達を実現してしまう、という物語があります。中国唐代の伝奇小説『枕中記』(作者 沈既済)です。
    後世、日本の能〈邯鄲〉の原作となった、不思議な枕の物語。まずは、あらすじをご紹介しましょう。

    〈枕中記 あらすじ〉

    唐の開元年間、呂翁という道士が、邯鄲(河北省)へ向かう道中、宿屋で休んでいた。そこへみすぼらしい身なりの若者廬生がやってきた。
    廬生は、立身出世を志しながらいつまでも田畑であくせく働いているわが身の不遇を歎いた。ふと廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて、うたた寝をした。すると、枕の中で夢幻の世界が展開する。

    廬生は名門の令嬢を娶り、科挙に及第する。官界で出世し、都の長官となり、夷狄の征伐で勲功をたて、栄進して中央の高官に任命された。
    のち、端州(広東省)に左遷されたが、三年後、都に召されて宰相の位に就き、天子をよく輔佐して善政を行った。

    その後、讒言に遭い、逆賊として捕えられたが、宦官に擁護されて死罪を免れ、驩州(ベトナム)へ流された。数年後、冤罪が晴れて中央政界に復帰した。
    五人の息子はみな高官に上り、名門豪族と縁組みし、十余人の孫を得た。位人臣を極め、天子から土地や豪邸、美女や名馬を賜った。八十歳を越えて老衰し、臨終に際して上奏文を奉ると、天子から格別のお褒めを賜り、その日の夕方に死去した。

    〈枕中記 最終段〉

    盧生があくびをして目を覚ますと、我が身は宿屋で横になり、呂翁はそのわきに座っている。店の主人は黍を蒸していたが、まだ蒸し上がっておらず、周りの物すべて元のままだった。盧生はガバッと跳ね起きて、「なんと夢だったのか」と言った。呂翁は盧生に向かって、「君の言う人生の満足というものも、またこんなものだよ」と言った。
    盧生は、しばらくの間、深い感慨に沈んでいた。そして、「寵愛と恥辱の道筋、困窮と栄達の運命、成功と失敗の道理、死と生の実情、すべてわかりました。枕を貸してくれたのは、私の欲望を塞ぐ方法だったのですね。謹んでお教えに従います」とお礼を述べた。そして、恭しく丁寧におじぎをして去って行った。

    (あらすじ/最終段ともに泉聲悠韻NOTEより)

    盧生が田舎から都へ、成功と栄達を夢見て上る途中立ち寄った宿で、道士から借りた魔法の枕でひと眠り。はっ、と目覚めるとそこは元の宿の部屋です。昼寝の間、炊いていた粟粥もまだ炊きあがっていない。実時間にして30分ほどでしょうか。しかし盧生は、夢の中で五十余年にも及ぶ、波乱に満ちた人生を、まさにその五十年分、リアルに詳細に経験し尽したのでした。
    「あれは決して夢などではない。たしかに自分は幾多の困難を乗り越え、ついに栄誉を得て八十余歳で幸せに生涯を終えたのだ」
    枕中記のラストで、盧生は「おじぎをして去って行った」とありますが、おそらく元来た道を戻り、ふるさとの農村へと帰っていったのでしょう。望みも夢もすべて叶った今、もはや都へ行く理由などないからです。

    これが、小説の中ですが、この青年の「見るべきほどの事」です。

    知盛は実際に、盧生は夢の中で、それぞれ壮絶で数奇な人生をたどりました。
    一般庶民であるぼくたちのそれは、平々凡々として、山や谷があったとしても、よりゆるやかなものでしょう。そして、どちらが幸せかと問えば、わからないのです。良い人生、悪い人生などというものはなく、それは他人が勝手に評価したもの。

    知盛は「見るべきほどの事は見つ」といい、盧生は呂翁に丁寧に礼をして感謝した。
    両者ともに、わが人生をすべて受け入れたのです。
    人の一生の八十余年は長いようにも思えます。しかし、人類の発祥は二百万年前、宇宙の誕生は百三十億年前。八十年など、くらべれば誤差にもなりません。その儚さは、粟粥の炊きあがりを待つ、短い春の夜の夢のごとしです。

    祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり

    娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す

    奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し

    猛き者もつひには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

    (平家物語 巻第一 祇園精舎)

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