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  • from: 庵主さん

    2025/12/10 18:15:35

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    名言名句 第八十一回 平知盛「見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき。」(平家物語)


    見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき。平知盛『平家物語 巻第十一内侍所都入』より

    今回の名言名句は、源平合戦の最終戦、壇ノ浦の戦いで敗れ、入水し最期を遂げた平知盛の末期のことばです。

    平知盛は、清盛の四男で、その生まれもった資質と才能から、清盛にもっとも愛され、後事を託そうとされた知将であり、影の実力者です。
    総大将たる兄、宗盛が凡庸であったため、代わって平家一門を率い、都の防衛から、壇ノ浦での滅亡に至るまで、軍事の中心となって戦いました。

    壇ノ浦で、安徳天皇と二位の尼の入水により、平氏滅亡を悟った知盛が、「見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき」のことばを遺し、信頼する乳母兄弟の平家長とともに、入水、自害するのです。
    まずは、知盛入水の段落を、平家物語巻第十一から〈原文〉と〈現代語訳〉にてご紹介します。

    〈原文〉

    新中納言知盛卿は、見るべきほどの事は見つ、今は何をか期すべきとて乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、日比の契約をば違へまじきか、と宣へば、さる事候ふ、とて中納言にも鎧二領着せ奉り我が身も鎧二領着て手に手を取り組み一所に海にぞ入り給ふ。これを見て二十余人の侍共後続いて海にぞ沈みける。されどもその中に越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は何としてかは遁れたりけん其処をもつひに落ちにけり。
    海上には赤旗赤標切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田川の紅葉葉を嵐の吹き散らしたるに異ならず。汀に寄する白波は薄紅にぞ成りにける。主もなき空しき舟は潮に引かれ風に任せて何方を指すともなく揺られ行くこそ悲しけれ。

    〈現代語訳〉

    新中納言知盛殿は、「見るべきことは、もはやすべて見た。この上何を望もうか」と、乳母兄弟の伊賀平内左衛門家長を呼び寄せた。「これまでの約束に違うまいな」と仰ると「もちろんです」と答える。知盛殿に鎧を二領着せ、自分自身も鎧を二領着て、手に手を取って海にとび入った。これを見て二十余人の侍どもも、跡に続いて海に沈んでいったのだ。しかしそんな中、越中次郎兵衛盛嗣殿、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清、飛騨四郎兵衛・伊藤景高は、どのように逃れ得たのであろうか。そこをもついに落ち延びたのであった。
    海上には赤旗・赤印が切り捨て、かなぐり捨てられている。龍田川の紅葉葉を嵐が吹き散らしたがごとくであった。水際に寄せる白波は薄紅に染まっている。主を失ったうつろ舟が、潮に引かれ風に任せて、いずかたをも知らず揺られ漂うさまは悲しい。
    (水野聡訳 2025/12/10)

    知盛の「見るべきほどの事」とは、どんなものだったのでしょうか。人が一生の間に見られるもの、経験できること、成し遂げたこと、そして失敗と恥辱の数々。
    権勢並ぶべきもののない、平家一門の御曹子として生まれ、栄耀栄華を極めたのが、まさに知盛の前半生でした。そして晩年、といっても享年三十四歳ですが、一転して平氏追討の地獄を見る。都落ちから始まり、敗戦し、逃げ惑う日々。一の谷では一子、知章が父、知盛をかばって討ち死にし、ついに壇ノ浦の平氏滅亡をわが目で見届ける生涯でした。短い一生の間、一般庶民では決して経験のできぬ「見るべきほどの事」を見た。そして「今は何をか期すべき」と船から海中へと身を躍らせるのでした。

    「見るべきほどの事」とは、自分の身の丈に合った、一生で経験できるすべて、という意味です。ぼくも含め、一般の方が「見るべきほどの事」は、知盛のような数奇で波乱万丈な経験ではないかもしれません。ところが、貧しく平凡な農村の一青年が、霊力により、およそ考えられぬほどの成功と出世、栄達を実現してしまう、という物語があります。中国唐代の伝奇小説『枕中記』(作者 沈既済)です。
    後世、日本の能〈邯鄲〉の原作となった、不思議な枕の物語。まずは、あらすじをご紹介しましょう。

    〈枕中記 あらすじ〉

    唐の開元年間、呂翁という道士が、邯鄲(河北省)へ向かう道中、宿屋で休んでいた。そこへみすぼらしい身なりの若者廬生がやってきた。
    廬生は、立身出世を志しながらいつまでも田畑であくせく働いているわが身の不遇を歎いた。ふと廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて、うたた寝をした。すると、枕の中で夢幻の世界が展開する。

    廬生は名門の令嬢を娶り、科挙に及第する。官界で出世し、都の長官となり、夷狄の征伐で勲功をたて、栄進して中央の高官に任命された。
    のち、端州(広東省)に左遷されたが、三年後、都に召されて宰相の位に就き、天子をよく輔佐して善政を行った。

    その後、讒言に遭い、逆賊として捕えられたが、宦官に擁護されて死罪を免れ、驩州(ベトナム)へ流された。数年後、冤罪が晴れて中央政界に復帰した。
    五人の息子はみな高官に上り、名門豪族と縁組みし、十余人の孫を得た。位人臣を極め、天子から土地や豪邸、美女や名馬を賜った。八十歳を越えて老衰し、臨終に際して上奏文を奉ると、天子から格別のお褒めを賜り、その日の夕方に死去した。

    〈枕中記 最終段〉

    盧生があくびをして目を覚ますと、我が身は宿屋で横になり、呂翁はそのわきに座っている。店の主人は黍を蒸していたが、まだ蒸し上がっておらず、周りの物すべて元のままだった。盧生はガバッと跳ね起きて、「なんと夢だったのか」と言った。呂翁は盧生に向かって、「君の言う人生の満足というものも、またこんなものだよ」と言った。
    盧生は、しばらくの間、深い感慨に沈んでいた。そして、「寵愛と恥辱の道筋、困窮と栄達の運命、成功と失敗の道理、死と生の実情、すべてわかりました。枕を貸してくれたのは、私の欲望を塞ぐ方法だったのですね。謹んでお教えに従います」とお礼を述べた。そして、恭しく丁寧におじぎをして去って行った。

    (あらすじ/最終段ともに泉聲悠韻NOTEより)

    盧生が田舎から都へ、成功と栄達を夢見て上る途中立ち寄った宿で、道士から借りた魔法の枕でひと眠り。はっ、と目覚めるとそこは元の宿の部屋です。昼寝の間、炊いていた粟粥もまだ炊きあがっていない。実時間にして30分ほどでしょうか。しかし盧生は、夢の中で五十余年にも及ぶ、波乱に満ちた人生を、まさにその五十年分、リアルに詳細に経験し尽したのでした。
    「あれは決して夢などではない。たしかに自分は幾多の困難を乗り越え、ついに栄誉を得て八十余歳で幸せに生涯を終えたのだ」
    枕中記のラストで、盧生は「おじぎをして去って行った」とありますが、おそらく元来た道を戻り、ふるさとの農村へと帰っていったのでしょう。望みも夢もすべて叶った今、もはや都へ行く理由などないからです。

    これが、小説の中ですが、この青年の「見るべきほどの事」です。

    知盛は実際に、盧生は夢の中で、それぞれ壮絶で数奇な人生をたどりました。
    一般庶民であるぼくたちのそれは、平々凡々として、山や谷があったとしても、よりゆるやかなものでしょう。そして、どちらが幸せかと問えば、わからないのです。良い人生、悪い人生などというものはなく、それは他人が勝手に評価したもの。

    知盛は「見るべきほどの事は見つ」といい、盧生は呂翁に丁寧に礼をして感謝した。
    両者ともに、わが人生をすべて受け入れたのです。
    人の一生の八十余年は長いようにも思えます。しかし、人類の発祥は二百万年前、宇宙の誕生は百三十億年前。八十年など、くらべれば誤差にもなりません。その儚さは、粟粥の炊きあがりを待つ、短い春の夜の夢のごとしです。

    祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり

    娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す

    奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し

    猛き者もつひには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

    (平家物語 巻第一 祇園精舎)

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