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  • from: orimasaさん

    2008年03月31日 08時31分22秒

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    日本周遊紀行(93) 八戸・「戸(へ)とは・・?」


    奥入瀬川の海運橋を渡ると「八戸市」である。
    地図を見るまでも無く、八戸市周辺は八戸をはじめ「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く。

    ここで『戸』について・・。
    平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家が源頼朝によって滅ぼされる。
    頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を賜る。 
    糠部郡は現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。

    この地方は藤原時代から大いに馬を育成していたことは既に知られていた・・、所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。 
    頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。
    南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。
    この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「戸」の起こりといわれる・・。

    「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 
    その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そしてここ八戸市がある。 
    だが、四戸がありませんね・・、 四戸の地名が消えた理由は、四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないか・・という説が有力だといわれる・・?。
    尚、「四戸」の所領は、現在の馬渕川沿いの「剣吉」から「櫛引」に懸けての地域といわれる。 古文書によると今の「櫛引八幡宮」は、かっては「四戸八幡宮」と書かれてあったとも云われる。

    八戸市八幡に鎮座する「櫛引八幡宮」は、南部氏代々が崇拝した南部藩の総鎮守で、南部一の宮とも呼ばれる。 八幡宮は、奥州藤原氏討伐の戦功により糠部郡を賜った南部光行が、甲斐国の八幡大明神を建久3年(1192年:鎌倉幕府創立))に六戸瀧ノ沢村に仮宮として移したのが始まりで、後に櫛引村に神殿を構え櫛引八幡宮と称したと伝えられている。

    八戸市とその周辺には「えんぶり」という行事がある。
    元々は、旧正月に行われていた 田楽・「田植え踊り」の一種で、「八戸えんぶり」ともいわれ、2月17日から20日まで行われる。
    「エブリ」(柄振・穀物の実などを掻き寄せ、また水田の土をならすのに用いる)という農機具をを持って踊ったのが始まりとされ、古くから農作業に活躍した馬の頭をかたどったとされる大きい烏帽子を被った3〜5人の太夫が舞い踊る。 
    舞は二種有って、古式にのっとった、ゆったりとした「ながえんぶり」と、新しい形で動きの活発な「どうさいえんぶり」がある。 えんぶり組は、太夫とその他の舞手、太鼓・笛・手平鉦の囃子方、唄い手など総勢20〜30人から成り、少年少女の舞手(稚児)はたっぷり厚化粧して実に可愛らしいという・・。 
    起源、伝説は様々な説があるようだが、南部氏の開祖・南部光行公が奥州下向した頃に始まったというのが通説で、鎌倉時代の始めといわれる。 
     
    八戸藩主・南部光行は、頼朝から奥州糠部郡を拝領し、甲州(今の山梨県)から当国へ下ってきたことは既に述べた。 
    光行が赴任した奥州で迎える初めての正月に、光行は自分の家来達に武装させ、有力者たちの家を訪問させて酒を酌み交わしたが、酒の勢い余って家来達は抜刀乱舞したため、家人たちは恐れ慄いた。 このとき、その場に居合わせた農民・藤九郎という機転の利く男が、賑やかに田植歌を歌い、農具を手に持って踊ったところ家来達は刀を納めてその様子を見物し、丸く治まったという。
    この藤九郎の機転の利いた様態が、後に上北地方で行われる「八戸えんぶり」に継承されたといわれる・・。

    「えんぶり」の起りはユニークで・・、「吾妻鏡」(鎌倉後期成立の史書で、全52巻という長大な書。鎌倉幕府の事跡を日記体風に編述すたもので、源頼政の挙兵から凡そ87年間記載された重要資料)によれば・・、初代光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談に言ったところ光行曰く「ならば南部の正月は12日だ」と鶴の一声で正月を延期したという。 
    以後、南部家の正月は12日となり、正月の伝統行事とされた「八戸えんぶり」は、以降、延々と引き継がれ、継承されたといわれる。
    このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重であるともいわれる。 
    後の南部氏といえば・・、藩政当時は今の盛岡であり盛岡藩が主藩、主城であり、現在の岩手県中北部から青森県東部にかけての地域を治めた藩で、「南部藩」とも呼ばれるのが通称である。石高は表高10万石であるが、実石高は20万石といわれた。

    次回は、 八戸・「南部地方」

    <font size="2" color="#FF0000">下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。

    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001  『旅の記憶』

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  • from: orimasaさん

    2008年03月30日 11時02分44秒

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    日本周遊紀行(92) 三沢・「基地と・・」

    国道338を南下する・・、三沢に至って六川目という所でのんびり昼食を摂る。
    この時(平成16年10月2日AM)、ラジオニュースが大リーグ・マリナーズの鈴木イチローが257本の「安打世界記録」を達成した、・・と報じた。 ウレシイネ・・!イチローといい、ヤンキースの松井といい、日本人大リーガーが活躍してくれることは・・。

    この国道は別名、「東部上北広域農道」というらしい、南下するに従って、五川目、四川目・・・一川目まで順に地名が付いていた。 川筋を境に付けたのであろうか・・?まあどうでもいい事だけど、なにか曰く(いわく)は有りそうだ・・。

    前項の東通村でもそうであったが、青森県は縄文文化の宝庫であるが、三沢市周辺でも二万年前から人類が住み着き、縄文期の遺跡も数多く発見、出土されているという。
    小川原湖周辺の野口貝塚や早稲田貝塚は特に有名であるという。

    この縄文文化が華やいだ三沢の土地は、藩政時代には盛岡南部藩最大の牧場になっていた。 ここは南部駒の産地として知られて、今でも郊外ではゆっくりと草をはむ馬や牛の情景を見る。 
    しかし、三沢を著名ならしめているのは、やはり「基地」であろう。 基地といえば、小生の住む「厚木市」の隣町にも、終戦直後マッカーサーが降り立った基地として知られる「厚木基地」が在るが・・、(実際の所在は綾瀬市)このことは東日本の最終日、地元・厚木の項で述べるとして・・。

    太平洋戦争後、広大な牧草地域に米軍三沢基地が建設され、飛行場も開設されている。 
    現在、米軍三沢基地を離陸するF16C戦闘機など防空網制圧の特殊部隊として、アジア北東部から中東までの広い範囲をカバーしているといわれる。
    小川原湖と三沢市街の間に三沢基地はある。
    昭和13年に旧日本海軍が建設に着手し、昭和17年2月に三沢海軍飛行隊の飛行場として開設している。
    終戦後、米陸軍施設工兵隊に接収され、飛行場等施設の建設改修が行われ、米空軍戦闘航空群が駐留した。 朝鮮動乱により、三沢基地は前線支援基地として重要性が一段と増し、滑走路等の整備拡張が急速に行われた。 
    その後は、在日米軍の縮小計画が発表され、飛行部隊が韓国や米本土へ移駐し、三沢基地から飛行部隊が撤去され、西太平洋艦隊航空隊(厚木海軍航空基地)の傘下に属することとなった。
    一方、航空自衛隊は北部航空方面隊司令部として、在日米軍三沢基地との共同使用を開始している。 三沢航空基地は、民間・三沢空港も併設され、日本で唯一民間、航空自衛隊、アメリカ空軍の三者が共用する飛行場でもある。

    三沢は、縄文遺跡埋蔵の地、広大な牧場の跡地、そして空港のある街と、多彩な顔、多様な歴史と異国情緒あふれる国際都市としての性格を持っているのである。

     
    五川目から・・二川目、一川目を過ぎて、すでに「百石町」に来ていた、百石はヒャッコクではなくモモイシと呼ぶ。 モモイシとは、アイヌの意味で「流れが豊かな甚だ曲がりくねった川」と称すらしい。
    これが地名の由来となったという、あの有名な十和田湖を源流とする「奥入瀬川」は、この地を現在も豊かに流れている。 百石の街はこの奥入瀬にへばり付くように発展したのだろう・・。
    街の近くに架かる橋を「幸運橋」、川下に架かる橋を「開運橋」と言い、実に響きの良い名称である・・。
    町の北に在る「いちょう公園」の中に、町のシンボル「自由の女神像」が建っているともいう。 ニューヨークと同緯度で結ばれていることから、北緯40度40分の「4」の数字にこだわり、本家の4分の1の大きさで健立したという、実にユニークである。

    橋の名前といい、自由の女神像といい、この街には幸運を呼ぶ何かがありそうだ・・。

    次回は、 八戸・「『戸』とは・・?」

    <font size="2" color="#FF0000">下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。

    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  (『日本周遊紀行』)
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  • from: orimasaさん

    2008年03月29日 14時25分30秒

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    日本周遊紀行(91) 原子力発電・「高速増殖炉」

    日本周遊紀行(91) 原子力発電・「高速増殖炉」


    前回の続きで、『高速増殖炉』について・・・、
    一方で・・、燃えないウラン238を、燃えるプルトニウム239に効率よく変換することで、消費した以上の燃料を生み出すことができるという。 これを「増殖」といい増殖によりウラン資源を有効利用できるとされる。 又、中性子の中に、エネルギー値の高い「高速中性子」というのがあり、ウラン238に捕獲されてプルトニウム239を生成する確率が高く、この中性子を使用することで「高速増殖炉」と言われる。
    燃やした燃料よりも多くのプルトニウムが炉内で生成される、つまり発電しながらん燃料が増えてゆくわけである。
    この高速増殖炉を使うことによって、プルトニウムを利用しない場合に比べ、ウラン資源の利用効率が100倍以上と飛躍的に向上するともいわれる。

    ウランを輸入に頼っている日本にとっては貴重な「国産燃料」が獲得でき、将来のエネルギー政策の本命と位置づけられている。
    現在、福井県敦賀市で試運転中の『もんじゅ』と云われるのがそれである。

    高速増殖炉『もんじゅ』について・・、 
    ウランの混合酸化物燃料を燃やす過程で、燃料のプルトニウムが生成され増殖する。
    これは、今だ研究開発段階の原子炉のことで平成3年4月、福井県敦賀市に完成し、同6年4月に初臨界を迎えた。 
    『もんじゅ』には、水と激しく反応するナトリウムを冷却材に使用しており、7年12月8日、試験運転中に冷却管の温度計のサヤが折れて約640kgのナトリウムが漏れ、火災が発生するという事故が発生している。 
    この時、開発事業団の事故隠しや対応の遅れなど不透明性さが社会的批判を浴びた。 そのため現在は操業中止になっている。 
    因みに『もんじゅ』の命名は、仏教の文殊菩薩に由来する。

    ところで、この高速増殖炉で使用、抽出されるプルトニウム(Pu239)は次のような性質をもつ。 
    ● もともと自然には存在せず、本来は核爆弾をつくるために原子炉から抽出した物質(長崎型のプルトニウム核爆弾)である。 
    ● Pu自体超猛毒の性質をもつ。 
    ● 核分裂の反応速度が速いため原子炉の冷却用に特殊な材料(液体ナトリウム)を使用する。
    ● 製造過程から発生する高濃度の放射性廃棄物が発生する。
    等々・・、管理上非常に厳しい面があり、それらが世界の主要国でも敬遠され、国内でも問題が提起されている所以である・・。

    「放射性廃棄物」について・・。
    原子力発電所などから出る廃棄物のうち、原子炉関係の放射性物質を扱っている区域から出る廃棄物を「放射性廃棄物」といい、これには厳重な管理が必要である・・。 
    特にPu等を扱う再処理工場から出る使用済燃料廃液のことを「高レベル放射性廃棄物」といい、強い放射線や熱を出す。 
    したがって一般的処理方法として、耐久性・耐熱性が高く、安全性に優れた処理をしなければならない。
    過去には、海底深度の深い海溝などに、ドラム缶に詰めた放射性廃棄物を船上から投棄した国もあったようだが、日本では、地震や火山噴火等に耐える強固な施設でなくてはならず、地下水にも汚染がないよう地下300mの箇所に多重バリアを用いて処理する手法が提示されている。
    特に問題となる高レベル放射性廃棄物については、ドイツでは既に高深度の地下の岩塩層や廃鉱跡地に埋設処理することで具体的な対策を検討中であるらしい。 
    従って、これら廃棄物を処理する行政地域の場所の選定が大変である。
    現時点で国内では候補地の目途すら立たない状況で、現在も各地域において処理場を模索中であるとのこと・・。


    現在、電気エネルギーの主な材料は化石燃料だが、全エネルギーの三割は原子力発電が担っていると言われる。 火力発電に使われる化石燃料も原子力発電に使われるウラン燃料も、今のペースで使い続けると、将来の枯渇が心配される。
    再処理工場や高速増殖炉でプルトニウムを利用することにより、ウラン資源は利用年数が数世紀以上に伸び、これにより原子力による発電が長期にわたって可能となるという。
    この国の施策にのっとって、この地「六ヶ所村」が村民あげて・・?原子力行政に前向きに努めている事に対して敬意を表したいのである。


    又、六ヶ所村は他に、核融合実験や風力発電など三つのエネルギー施策を行っているという。
    六ヶ所村は、エネルギーの村であり、日本でも最も注目されつつある「村」なのである。


    次回は、 三沢・「基地と・・」


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  • from: orimasaさん

    2008年03月25日 14時16分50秒

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    日本周遊紀行(91) 六ヶ所村・「原発について・・」


    日本周遊紀行(91) 六ヶ所村・「原発について・・」

     国道338を南下すると間もなく六ヶ所村である・・、そして、その原発の本場が、この村である。 
    既に周知の事だが、この村は今や全国的にすっかり有名になってしまった・・。 
    六ヶ所村・尾駮(おぶち)沼の北西部に日本でも初の巨大な「原子燃料サイクル」という施設がある。 その中の主な施設に、ウラン濃縮工場、再処理工場、放射性廃棄物埋設センター等、原子力発電に関する施設が並んでいるのである。
    ところで、原子力とか原子力発電とは、判っているようで実は判りにくい、 ここでチョットそれらについておさらいをしてみよう・・。


    (資料提供者に感謝します)

    地球上に天然に存在する物質元素で「U:ウラニウム」(ウラン)というのが有る。 
    ウランには、中性子(分子の中の粒子)の数が異なる「ウラン235(質量数)」と「ウラン238」の同位体(同位元素)がある。 天然に存在するウランの99.3%は核分裂しにくい(燃え難い)U238で、残りの0.7%が核分裂しやすい(燃え易い)U235である。

    U235にある条件で「中性子」を当てると、原子核が2つに分裂(核分裂)し、その際に2〜3個の中性子と熱エネルギー(放射性)として放出する。 飛び出した中性子は次々に別のU235に当たり、連続して核分裂を起こして(核分裂の連鎖反応)膨大な熱エネルギーを生み出すことになる。

    原子力発電所は、核分裂しやすいU235の割合を3〜5%まで高めたもの(低濃縮ウランといい、ウラン濃縮工場で生産される)を燃料として使用する。 
    そして、ここで発生した熱で水を沸騰させ、蒸気でタービンを回転させ発電する仕組み(軽水炉型)なのである。
    「原子爆弾」は、このU235を高濃度に濃縮し、起爆剤をつかって超短時間に核分裂の連鎖反応を起こさせたもので、・・「広島型原爆」といわれるものであった・・。


    ところで、現在、地球上の天然資源エネルギー(石油、天然ガス、石炭等)で許容埋蔵量は100〜200年と云われる。 そして、U235は60数年と云われるている・・、無論、U235はO.7%分が対象である。 
    ナーンダ、燃料ウランはこれだけか・・? と思われるが・・、 ここで実はU238の99.3%にも使いみちが有ったのである。

    原子炉内で起こるU238の核反応によって、核分質・プルトニウム(使用済核燃料 Pu・天然には存在しない人口の核物質といわれる)が生成されて、原子炉材になるのである。
    これを計算すると60(年)×99.3/0.7≒8500年になるというわけである・・。
    (註) プルトニウムは、以前は完全な人工元素と考えられていたが、最近、ウラン鉱石中にわずかに含まれていることが知られるようになった。 超ウラン元素で、アクチノイド系(周期表においてランタノイドやアクチノイドは欄外に別記されている。元素周期律表)の元素の一つ、元素記号はPu。

    ここで、このPuを分離・再生・抽出する施設として必要なのが「再処理工場」と世間で云われるものである・・。 再処理工場では、使用済み核燃料に化学的処理を行いPu239が生成される、これを燃料として使えるようにする、云わばプルトニウム生産工場である。
    Pu239は、燃えないウラン238と混合し、混合酸化物(Mixed Oxide)として使用される。 この混合燃料をMOX燃料と呼び、日本では「プルサーマル燃料」とも呼んでいる。 
    「プルサーマル」という言葉は、「plutonium thermal use」と日本人得意の和製英語で、Puと熱(thermal)中性子の合成語をプルサーマルといわれる。
    MOX燃料は、軽水炉の原発で濃縮ウランと同様に使用できるのである。

    以上が、青森県・六ヶ所村で行われている「核燃料サイクル」といわれる核化学工場である。 原発の使用済み核燃料から、再び燃料として使用可能なUとPuを回収し発電を行う仕組みで、現在のところは建設途上にある。
    再処理工場の最大処理能力は800トンと推定され、MOX燃料工場はいまだ未完成ながら2010年前後には竣工の見通しといわれる。
    エネルギー資源の少ない(U235も含む)日本では、「核燃料サイクル」を早急に完成させる必要があるとも云われる所以である。


    次回は、 原発・「高速増殖炉」

    <font size="2" color="#FF0000">下記「goo-URL」の巻末で「旅、旅行の案内」致しております。 宜しかったらご覧ください・・!!、
    『日本周遊紀行』と『旅の記憶』です
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001


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  • from: orimasaさん

    2008年03月24日 12時00分44秒

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    日本周遊紀行(90) 青森・東通村

    主に沿岸地方の「日本一周」を終えて、
    概ね、日本の自然風土、歴史文化に触れることが出来た。
    今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」や温泉、絶景地等を
    ピックアップして、当サイトに紹介致します。
    御意見、御感想宜しく・・!!。


    周遊は、神奈川県厚木市を出発して、以下の順に巡りました。

    『東日本編』: :行程・・・神奈川県(出発地)→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県→宮城県→福島県→茨城県→千葉県→東京→神奈川帰着
    (今回より東北・東沿岸を巡ります・・。)


    小生、若年よりの『旅』の記録です。
    宜しかったらどうぞ・・。
    http://www.geocities.jp/orimasa2001/



    日本周遊紀行(90) 青森・東通村

    <font size="2" color="#0000FF">東北へ再び戻ってきた。
    本州・最北部、下北半島の大間へ再び上陸して、次に東部の沿岸地を巡ります。
    尚、まさかり(鉞)、斧に似た鉄の刃の部々である恐山や薬研温泉、下風呂温泉は「温泉・観光」の項で別途記載します。

    「むつ」の市街地を抜けて、国道279から県道7の小高い丘のような「冷水峠」を越えると「東通村」(ひがしどおりむら)へ入る。 
    下北半島の頭の先端部分が東通村である。 本州北東端に位置して、津軽海峡と太平洋に面しており、海岸線だけでも約60kmに及び、面積も約300km2と大きな村である。 
    この雄大な自然から、当然ながら豊富な海・山・里の幸に恵まれている。

    しかし、この村のチョットユニークなところは、村は既に100年以上もの歴史をもつが、最近、流行(はやり)の合併の話も無いようで独自の村経営を行っている様なのである。 更に、面白いのは村が誕生して100年もの間、隣の町(田名部=むつ市)に役場・庁舎を置いてあった事で、いわば、居候の役所であったのである。 村が発祥して100周年を記念し、やっと庁舎を地元に設けたという。

    歴史といえば、青森県全域にいえる事だが、この地も、超古代人(縄文人)が生活してた痕跡・遺跡が多数発見されている。 特に尻屋地区等北部に集中しているといい、これは北海道との関連も覗えるが・・、南へ下って青森の三内円山の縄文文化にも影響を及ぼしているのかも知れない・・。 しかも、この地に北海道特有の文化と言われる「擦文文化」の跡も発見されているという。
    「擦文文化」とは北海道の道中においても記載したが・・、8〜13世紀、北海道全域と東北地方北端に見られる文化で、北海道特有の続縄文文化に当時の本州の文化が刺激を与え、成立したものとされている。 即ち、石器、土器は消滅し鉄器が普及しはじめ、農耕(稲作は含まず)も行われたが、生活基盤はあくまで狩猟・漁労にを置いたもので、近世アイヌ文化の先駆となる文化である。

    それらの文化が今に継承されているのだろうか・・?、現在に至って先人から受け継いだ能舞、もちつき踊、神楽・獅子舞等の歴史的伝統文化、民俗文化が今も華開いているという。  
    車で走っていても、何の変哲も無さそうな人口8000人足らずの寒村に、長大な人類の足跡が残されていたのは驚きであった。

    北東端には「尻屋崎」があり、この周辺で目を引くのが、周年、放牧されている津軽馬といわれる「寒立馬」は有名である。
    粗食に耐え、寒風吹きすさぶ厳寒の季節、力強く立ちつくす姿は、命の尊さと、たくましさを感じさせるという。 

    歴史的伝統文化と自然の豊かな東通村だが、この村に既に原始力発電所の誘致が決定しているという。
    東通村は歴史ある村であるが、未来志向の村でもあった。


    次回は、 六ヶ所村・「原子力発電」
     

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    2008年03月19日 17時55分00秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(29) 虻田・「洞爺湖温泉と洞爺湖」

    左の山は「羊蹄山」

    日本周遊紀行:温泉と観光編(29) 虻田・「洞爺湖温泉と洞爺湖」

    <font size="2" color="#0000FF"> 洞爺湖の湖岸に出ると高層のホテル群が湖岸に面して屹立している。 
    「洞爺湖温泉」は、この洞爺湖湖畔に広がっていて、遊覧船の発着場でのあり、観光の中心地となっている。 

    開湯は比較的新しく1917年頃で、洞爺湖の湖水が熱い場所があることを知った三松、杉山、安西の3氏が、湖岸で43℃の源泉を発見したことが温泉の始まりであったという。
    その後、北海道庁から温泉利用許可を取得し、「竜湖館」という旅館を開業させたのが第一号であった。
    開湯当初は「床丹温泉」という名前であったが、後に湖名に因んで洞爺湖温泉となったという。


    有珠山の噴火で出来た噴火口が、この温泉街の間近に存在するのである。
    2000年(平成12年)3月の有珠山の火山噴火では麓に広がる温泉街を、一瞬にして灰の街へと変えた。 ただ、地域の住民の多くは前回、前々回、中にはそのさらに前の噴火を経験した人もいること。
    有珠山は、比較的「噴火予知のしやすい火山」とも云われ、噴火を繰り返す周期が短く、かつ一定であるという。
    住民は、「温泉などの、有珠山の火山活動による恩恵を受けて暮らしているのだから、30年に1度の噴火は当然受け入れなければいけないこと」という意識が高く、周辺市町のハザードマップの作成や、普段からの児童への教育などがもなされていると・・。 
    今回の噴火でも街は多大な被害を受けたが、危険地域を避けた適切な避難誘導を行ったことなどが被害が最小限で済んだ要因の一つであるといわれている。
    噴火から数年、復興は進んだ・・、今日ではすっかり活気をとり戻し、観光客で賑わっている。


    2000年の噴火口からは今も白煙が上がる(有珠山遊歩道より)

    洞爺湖町は北海道において、もっとも気候温暖な地方といわれ、交通の便もよく観光景観に恵まれていることから、年間400万人以上もの観光客が訪れる北海道有数の観光地となっている。
    湖畔の温泉街では露天風呂、温泉はもちろん足湯、手湯、果ては犬専用の足湯もあるという。
    洞爺湖温泉の泉質は、ナトリウム・カルシウム・塩化物、硫酸塩、炭酸水素塩泉。 湧出温度は40℃〜70℃。 温泉の効能は神経痛・筋肉痛・動脈硬化症などとされる。


    温泉街の正面に絵のような「洞爺湖」が広がる。
    洞爺湖は周囲約43kmで東京の山手線とほぼ同程度という。 最大深度179m、平均深度116mの火山湖で、中央に4島からなる「中島」がある。 
    湖は河川の流入で、その水質が酸が強いため湖水のph(ペーハー:水素イオン指数濃度のことで、中性が7、数値がこれより小さいと酸性といい、大きいとアルカリ性という)が低下し一時はph5になり、湖の生息魚類にとっては危険な状況となった。 
    酸性湖とは、通常は硫酸などに起因する無機酸性湖のことを指し、火山や硫黄質温泉が出る付近に多いとされる。 
    因みに、宮城県にある潟沼の酸性度(pH1.4)は世界最強であり、日本ではこのほかに、猪苗代湖や田沢湖、道内では屈斜路湖などが該当するという。

    洞爺湖はその後有珠山の噴火があり、湖にも大量の火山灰が降った。 
    火山灰がアルカリ性であるために酸性の湖水と中和し水質が改善され、 現在では中性であるph7前後を維持しているとのこと。 
    魚類も順調に増加し、ワカサギ、サクラマス、アメマス、ニジマス、等が生息しているという。


    湖から帰路の途中、洞爺湖温泉街で車をユックリ後退させていたら、後ろからコツンと当てられた・・?、小生急いで降りて、「御免なさい・・」というと、乗用車の中年のオバサンも「あら、私こそ御免なさい、ほんの一寸よそ見していて・・」 
    お互いの車には此れといったキズは無く、何となく恐縮しながら笑顔で別れた・・。 クワバラ・クワバラ・・・。


    湖畔を走っていると湖の西側、緑の山の頂上付近に白亜台形の巨大な建物が見て取れる。
    2008年の7月に開催される予定の、「北海道洞爺湖サミット会場」となる「ザ・ウィンザーホテル洞爺」というらしい・・。 



    現、安倍首相(2007年9月からは福田総理)、は、日本で開かれる主要国首脳会議(サミット)を、北海道洞爺湖町で開催することを決め、首脳陣会議の開催を同ホテルに決めた。

    大都市から離れ、参加首脳の警備が容易なことに加え、洞爺湖や有珠山を望む豊かな自然環境に恵まれていることなどが決め手となったという。 
    このホテルは、標高約600メートルの高さにそびえ建つ地上11階地下1階のホテルであり、山上の単独のホテルでもある。 
    尚、メディアセンターとして、湖の北方にあるリゾート地「ルスツリゾート」が選ばれた。この地は道内のスキーリゾート地としても有名であり、我等もつい最近二家族の大勢で訪れたのが記憶に新しい。

    「サミット」とは、summitのことで「頂上」を意味する。
    通常G8サミットといわれ、日、米、英、仏、独、伊、加、露の8か国の首脳及びEUの委員長が参加して毎年開催される首脳会議のことであり、併せて外相会合及び財相会合など別会場で行はれる。 
    今回の主要テーマは、安倍総理の掲げる「美しい日本」を規範とした、地球温暖化問題に係る新提案「美しい星50」、「地球環境」などであるとか・・。



    洞爺湖の北方に北海道百景に指定されている「浮見堂」がある。
    背後に有珠山が控えていた。



    以上で北海道に関する『周遊紀行』は終了しました、永らくの御愛読有難うございます。
    引続き東北の東部沿岸を南下します、 お楽しみに・・!!。

    小生、若年よりの『旅』の記録です。
    宜しかったらどうぞ・・。
    http://www.geocities.jp/orimasa2001/

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  • from: orimasaさん

    2008年03月19日 10時20分20秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(28) 「昭和新山と有珠山」

    「有珠山の噴火」、洞爺湖畔サイロ展望台から(2000年4月1日撮影・・提供者に感謝)

    日本周遊紀行:温泉と観光編(28) 「昭和新山と有珠山」


    <font size="2" color="#0000FF">国道の「入江」の交差点から、道央道の虻田洞爺湖I・Cの横を通って、洞爺湖へ抜けようと思っていたが、かの、有珠山噴火で洞爺湖方面は今も通行止めであった。 しかたなく、「長和」まで戻って国道453号で昭和新山方面へ向かうことにした。

    先ず、右側に白煙を出しながら、茶褐色の岩肌を露呈している「昭和新山」のグロテスクな姿が現れた。 そしてまずは良く整備された駐車場で、「昭和新山」の姿をジックリ拝見した。



    「昭和新山」は1943年から1945年にかけ、有珠山の噴火活動の一環として新山が形成された山として有名である。 噴火は普通の畑や林(麦畑や松林)が地割れと共に隆起し忽然として始まったという。 
    粘性の高いマグマが地表に押し出し、溶岩ドームを形成し、噴火が収 まった後も地盤の隆起は続き、1945年9月頃までに海抜 407mの昭和新山を造り上げた。 
    火山礫が吹っ飛び、溶岩が噴出するような破壊型噴火ではなく、いわゆる静的噴火に留まっていた。  
    これは火山学史上でも稀有なことで、全山が学術的にも大変貴重な山として、支笏洞爺国立公園特別保護地区、国の天然記念物に指定されている。


    案内板より
    『目前にそびえる昭和新山は、私達に大自然のいとなみの不思議を物語ってくれます。
     今あなたの立っているこの一帯は、かつてはのどかな麦畑でしたが、突然火山活動の舞台となりました。昭和18年12月28日に激しい地震が始まり、多い時には身体に感じるものだけでも1日200回を越え、翌19年4月頃には元の地面から50mも隆起しました。
     さらに昭和19年6月23日、盛り上がった畑に噴火が始まり、7個の噴火口をつくりながら、4ヶ月も爆発を繰り返しました。その間も、田畑、民家(フカバ部落)、鉄道共々隆起が続き標高300mの台地(屋根山)をつくりました。11月になって噴火口群の中央から地中で固まった溶岩が推し上り始め、翌20年9月末に標高407mに達し、ようやくその活動を休止しました。
     今なお噴気を上げるピラミット型レンガ色の部分が溶岩塔で、このタイプの火山をベロニーテ型火山といい、世界的にも珍しい形式の火山です。』



    次に、昭和新山の正面に悠然と聳えるのが「有珠山」(732m・ウスザン)である。
    洞爺湖の南面には、眼前に迫る巨大な火山が二つあるのです。  
    周知の如く2000年(平成12年)3月31日、北海道洞爺湖の南側に位置する「有珠山」が23年ぶりに 噴火したのである。 
    その時、噴煙は約3000m以上の高さ に達し、その後、洞爺湖温泉町のすぐ南にある金比羅山付近からも噴火が起こり、水蒸気爆発や小規模なマグマ水蒸気爆発を繰り返し、凡そ、1年後にマグマの活動(噴火)は終息したという。

    この噴火で、周辺四市町村の住宅、道路、ライフラインの被害は230億円に達したという。 特に、2度目の噴火(洞爺湖温泉南)は国道230号線の本線上が噴火口になったため完全に破壊され、現在でも道央道の虻田洞爺湖I ・Cと湖畔間は、国道は破壊され消滅しているのである。

    有珠山大噴火で、特に西山付近の噴火の跡が、現在では遊歩道が整備されて一般に公開されている。
    まさに天地がひっくり返ったような驚天動地、大地の咆吼,地底の息吹がこの遊歩道から確認する事ができる。
    完全に破壊された民家や幼稚園舎、メチャメチャに破壊された道路、道路のアスファルトや水道管が巨大な力で数mも押し上げられている現状・・。 
    人家のすぐ横に、膨大な量の土砂が吹き飛ばされて出来た噴火口や遊歩道の一番奥には、今でも盛んに蒸気を吹き上げている巨大な火口がある。





    写真上より(提供者に感謝)
    ●虻田町「消防署」、 “止まれ”の標識は何を意味するか・・?
    ●道路が階段・・??、断層です。
    ●惨状・・!!、手前が噴火口・・!!。

    これら地点は、先刻の国道37の入江の交差点から、道央道の虻田洞爺湖I・Cの横を通って、洞爺湖へ抜けようとした道で、この西山噴火のため通行が遮断されている所であった。

    しかし、噴火活動が温泉街、人家の近くの山麓で発生したわりには、人的被害は一人も出さなかったという、これは奇跡ともいわれる。 
    噴火の数日前から群発性の火山性地震が発生し、第1号の臨時火山情報を出し、噴火の2日前には緊急火山情報を出して住民を避難させ、噴火が発生した頃は17000人という住民全員が避難を完了していたという。

    これには、前回(1977年)の噴火後に、地元に住まいを移して研究を続けてきた北大教授・火山研究者の岡田弘氏を中心とした研究員、行政、地域住民の結束によるところが大きいという。 
    岡田氏はいわば「有珠山のホームドクター」と言われ、平成13年、安全防災に顕著であったとして、総理大臣官邸で平成13年度防災功労者内閣総理大臣表彰を受賞している。


    次回は、 北海道最終回・・「洞爺湖温泉・・・」




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  • from: orimasaさん

    2008年03月18日 10時03分23秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(27) 室蘭・「地球岬」



    日本周遊紀行:温泉と観光編(27) 室蘭・「地球岬」

    <font size="2" color="#0000FF">国道36(室蘭国道)より室蘭へ、そして「地球岬」へ向かう。
    室蘭市街地の一角から、右折方向の国道は37号線になる、伊達方面である。
    我は直進で室蘭半島へ向う・・、案内板に従って進むとこれが結構な上り坂なのである。 通称「地球岬観光道路」と云うらしいが、別に普通の生活道路と変わらない、それが証拠に周辺は住宅が密集しているのである。
    これだけの傾斜地では雪の季節は大変だろうなと・・、余計な心配をしながら、登りきった処が園地のようになっていて、ここが地球岬の展望公園らしい・・。

    観光客、見物人は誰ーれもいないが、園地整備のおじさん、おばさん達が草刈機でガーガーとやっていて、些か騒音で雰囲気を壊しているのは残念である・・。
    先端に展望台が在った、本日も好天で快晴の大洋は蒼く澄んでいる。 
    東の方は陽光が反射して眩しいくらいである・・、さすがに「地球岬」の名だけあって大洋の展望は雄大である。
    ただ、地球岬の語源はアイヌ語のチケップ(断崖)からきたと言う、チケップ→チケフ→チキウ→チキュウそして地球になったとか・・その名のとおり視野一杯に広がる水平線は丸みを帯びて「地球が丸い」ことを実感させられる・・??

    ところで、「地球が丸く見える」 とは巷間よく耳にする言葉であり、海に面した展望台ではみんなそう思うし、感じているようである・・。 
    実際にそんな風に見える気がするし、いや、はっきりとそう見えるのである、やはり地球は丸いのだ・・・・・と。

    だが、どうやらそれは間違いらしい・・、超巨大な地球の丸さが展望台くらいの高さでは見えるはずがないのである・・。 
    例えば、島影や障害物が全くない「大洋のド真ん中」に居るとしよう、高いマストのテッペンから見渡すと全周囲の水平線はどのように見えるであろうか・・? 
    ギザギザの多角形に見えるか・・?ナメラカな円形に見えるか・・? 言語で既に「周囲」と言っているように当然、円形に見えてるはずである・・。 
    もっと具体的にゆうと、マストに立っている点は円形の「中心」であり、視界までの距離はその「半径」に相当するのである。 
    岬の先端で水平線を見るとき、丸味がかって見えるのは、円形の部分(円弧)をみているのであって、尚且つ視野(視角)が大きければ、円弧はハッキリ見えるはずである。
    つまり、視野、視界が丸みを帯びて見えているのであって、「地球の丸さ」とは全く関係はないわけである・・。

    因みに、展望台には大抵の場合、手摺がある、左右にまっすぐ伸びている手すりを目の高さを加減して、水平線と手すりが重なるようにして見てみると、今まで大きく彎曲していた水平線が手すりの直線とぴったり重なるという。手すりの替わりに長い紐を両手でピンと張って代用してもよい。 
    「地上や船の上で、地球の丸さが見える」というのはどうやら錯覚らしい・・。

    計算上では「地球が丸く見える展望台」というのは、気球や飛行機程度の高さでは駄目で、人工衛星程度まで上がらないとだめらしい、地球はそれ程大きいということである・・。 最近では、人工衛星からTVカメラで、地球の外観を撮影してその映像が送られてくる、この時はさすがに地球の丸さを実感できるのである・・。


    チキウ岬は、内浦湾(噴火湾)の湾口東端に位置していて、地図上では「チキウ」となっていっるが、地球岬とも表記されている。 
    この辺りの太平洋側は、海抜100m前後の断崖が延長13kmに渡って連なっており、特に、地球岬展望台(海抜147m)の西側にある海食崖の「馬ノ背」といいいれる箇所は、断崖絶壁が続く風光明媚な景勝地である。 
    この地域は、渡り鳥のルート上にあり、渡り鳥を狙ったハヤブサの営巣地としても知られるという・・。

    「地球岬」は、朝日新聞社主催の北海道の自然100選の得票では第1位となり、一躍全国区の知名度となった名所で、毎年の元旦には多くの人達が初日の出を見拝にやってくるという。 
    「北海道の自然100選」及び「北海道景勝地」でそれぞれ首位を獲得した景勝地でもある。

    岬の先端に立つ白亜八角形の灯台があり、こちらも「日本の灯台50選」にも選ばれている。 灯塔高15m、標高131mで、光度 は59万カンデラ、光達距離24海里(約44km) で、残念ながら、一般公開されていなが、毎年1〜2回、特別に内部が公開されることがある。

    帰路、近くの展望台から見える「蓬莱門」という海から突き出た岩峰が見事である、これぞ元祖「チケップ岬」であろう・・。
    [[attached(画像番号,center)]]


    国道右に旧時代と思われる重厚な駅舎が見えた・・と思ったがこれは旧駅舎であった。 明治後期の建物で、北海道内の駅舎の中では「最古の木造建築物」であり、建築様式も珍しく重要文化財に指定されているとか・・。 
    今は市の観光施設として使用されていて、 近隣にモダンな新駅舎が開業している・・。

    「室蘭」はご存知・・、室蘭港、鉄工業を中心として発展してきた北海道を代表する重化学工業都市である。 中心に新日鉄・室蘭をはじめ、日鋼、日石といった、いわゆる製鉄、製鋼、造船などが湾を囲むように隣接している。

    暫くすると大きく美しい橋が現れた、その名も「白鳥大橋」という。 
    「白鳥大橋」は半島先端から本陸の国道36、国道37と道央自動車道を結ぶ橋梁であり、室蘭港の港口部に架かる橋長1380mの吊橋で、関東以北では最大であるとか。 
    因みに、我が神奈川の横浜港口に架かる横浜ベイブリッジとは構造的には異なるが、その優美さにおいてはトントンであろう・・。


    次回は、 「洞爺湖とサミット」


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  • from: orimasaさん

    2008年03月17日 11時20分44秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(26) 「登別温泉」

    日本周遊紀行:温泉と観光編(26) 「登別温泉」

    国道36から登別の温泉地へ向かった。
    「登別温泉」は北海道を代表する日本有数の温泉天国である。 

    旅行専門の『じゃらん』の温泉ランキングによると第一位は関東の「箱根湯本温泉」、第二位が九州の「由布院・湯平温泉」、第三位が同じく関東の「草津温泉」となっている。
    以降は<font size="3" color="#FF0000">登別温泉
    、黒川温泉、城崎温泉など有名どころの温泉がやはりランキング上位を占めている。

    じゃらん温泉のランキングは更に・・、
    『 第四位に入った「登別温泉」は北海道を代表する温泉で、札幌や函館からもアクセスが便利な立地条件とあわせて北海道でNo1の良質の温泉で美白効果も期待でき、旅で疲れた体を癒す疲労回復効果も絶大で、リピーターが多く訪れる北海道No1の温泉です。 』
    ・・としてある。

    「登別温泉」は自然湧出量1日1万トン、源泉温度45℃〜90℃の高温で、更にその魅力は世界的にも珍しい11種類もの温泉が湧出していることで、温泉のデパートとも言われる。 高温泉のため湯棚や湯車で湯の温度を調整し、湯船へは源泉100%を各所に供給している。

    登別温泉の泉質は主に硫黄泉、重曹泉が中心とされているが、その泉質と効用について述べてみよう・・。
    硫黄泉(慢性皮膚炎、慢性リューマチ、便秘、動脈硬化症、糖尿病、高血圧症など)、 重曹泉(皮膚病、火傷 慢性胃炎、胃酸過多など)、 明ばん泉(慢性湿疹、リューマチ性疾患など)、 芒硝泉(リューマチ、動脈硬化症、糖尿病、高血圧症、外傷など)、 石こう泉(慢性リューマチ症、動脈硬化症、高血圧症など)、 正苦味泉(脳卒中、動脈硬化症、高血圧症、慢性便秘など)、 食塩泉(リューマチ、神経痛、腰痛、飲用としては便秘、慢性カタルなど)、 単純炭酸泉(高血圧、更年期障害など)、 重炭酸土類泉(アレルギー性疾患、慢性皮膚炎など)、 鉄泉(慢性痔疾患、リューマチ性疾患、貧血症など)、放射能泉(神経痛、リューマチ、自律神経失調症など神経系統の疾患、婦人病 肥満症、痔疾患など)、 

    以上は観光協会のPR出版物よりの参考であるが、泉質は「新」とか「旧」とかの呼名が有るので紛らわしいが、上記は「旧」呼称であろう・・。

    各宿泊施設によって泉質が異なるようで・・、ここの温泉場で最大級を誇る「第一滝本館」の温泉は7種類の源泉がある。 
    因みに、日本最大湧出量を誇る大分・別府温泉は十種類の泉質が有るという。


    温泉街を抜けた最奥部に「赤鬼、青鬼」が地獄谷の入り口に、その名も地獄の番人として常時立っている。その高台に「地獄谷」があり、風向きによっては硫黄の臭いがガンガンしてくる。 
    箱根の大涌谷に類似していると思うが、こちらの方が激しく活性であろうか・・?。

    チョット目に付きにくいが、地獄谷展望丘の一角、石の台座に小祠を設けて一体の観音像が祀られ安置されている。 
    伊達・「円空と蝦夷」( http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2001/15523174.html )の項でも記したが・・、
    美濃国の僧、「円空上人」が道南各地を巡錫(じゅんしゃく:錫杖を携えて僧侶が各地を巡行して教導・遊化・ユゲすること)しながら鉈作りという、ナタ一丁(一刀彫)で観音像を刻んだという。 そのうちの一体が寛文6(1666)年、権現沢(地獄谷)に祀られたという。
    円空・観音像は「登別湯の権現」ともいわれ、元々は湯沢大権現・湯沢神社のご神体だったという。 神社は、地獄谷の入り口、第一滝本館の向いに鎮座する登別温泉の守り神で、第一滝本館の創始者・滝本金蔵翁が開祖したものという。


    「地獄谷」は一万年前の爆裂火口の跡だそうで、各所に○○地獄、△△地獄と名称が付いているが、ある数箇所の地獄は現在は、沈静化して大湯沼の方へ活動が移ったとという。
    その大湯沼はこの地獄谷の上部にある、周囲1キロたらずの小さな沼だが、全国的にも珍しい熱湯をたたえた沼である。 
    温度は表面で40〜50度、湯底では130度にも達するといい、湯面が時々噴気をあげている・・。 


    登別温泉は、大昔はアイヌの人々が温泉を薬湯として重宝していたといわれる。
    江戸時代には、最上徳内が「蝦夷草紙」の中でその存在を記し、『 湧き出した温泉水が川に流れ込み、底が見えないほど濁っていた 』と登別温泉を紹介した記事が残っている。

    北海道の父・松浦武四郎も訪れ、温泉の魅力を綴っているし、安政4年(1857年)には近江商人の岡田半兵衛が地獄谷から硫黄の採掘を行い、道路を開削し、その後、共同浴場を作ったことが温泉保養所としての始まりだったともいわれる。

    又、安政5年(1858年)には、滝本金蔵が妻のリュウマチを治すために訪れ、後に温泉宿を建て、私費で新たに道(現在の道筋)を整備し、湯治客が利用するようになったといわれる。 
    金蔵は平屋の一部を二階建てに改修したことをきっかけに、「湯本の滝本」と命名して旅館を開業しているが、それが現在の第一滝本館である。
    「第一滝本館」は温泉街の最奥部に位置してて地獄谷に最も近く、部屋数400の巨大ホテルである。 
    NTTが公社時代の特約保養所にもなっていて、上さん(妻)が電話局に勤務しているため、2、3度厄介になったことがあるが、その大きさといい、温泉の豊富さに驚いたものであった。

    余分だが、NTTの保養所として特約、契約、直営などの宿泊施設が全国各地に網の目のようにあって、この滝本館もそうであるが民営化されてからはすべてが解消され、現在は直営保養所のみの数箇所になってしまった。 
    民営化や合理化というのは、多々、訳有りで必要だとは思うが、我々低所得層の人間にとっての旅の楽しみを奪いかねない悲しい事でもある・・。 
    現在は無論、第一滝本館とNTTとは関係は解消されているらしい。


    登別温泉はその後、明治期、日露戦争の傷病兵の保養地に指定され、全国に知られるようになり、近年の温泉ブームを受けて更に繁栄したきた。
    この登別・ノボリベッはアイヌ語のヌプルペッ、「白く濁った川・色の濃い川」(一説に霊力のある川とも)の意味で、地名「登別」の語源となった。
    2004年、登別温泉地獄谷が北海道遺産に選定されている。


    帰路、温泉街中心部の極楽通り商店街の一角にある「閻魔堂」に立ち寄った。 
    巨大な閻魔様がお堂に鎮座していて「からくり閻魔堂」と称し、平素は何食わぬ顔をしているが、定刻になると「カラクリ」が動き出し、激しい閻魔 の形相に変化する。
    <

    年に一度「地獄谷」の釜の蓋が開き、地獄の入り口の番を勤める赤鬼、青鬼を引き連れたこの「閻魔大王」が温泉街に姿を現すという・・、 「地獄まつり」の主人公である・・。

    温泉街を戻って、先刻予約しておいた「登別万世閣ホテル」へ投宿した。
    こちらも立派な構えのホテルで1泊2食8000円はまずまず、ここの温泉は酸性硫化水素泉(硫黄泉)であった・・。
    それにしても、NTTに勤めるお上さんのいる小生にとっては、伝手(つて)を頼って「第一滝本館」に泊まりたかったのが正直のところである・・。


    次回は、 室蘭・「地球岬」


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  • from: orimasaさん

    2008年03月14日 10時47分06秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(25) 釧路・・Ⅱ「釧網本線」

    (国立公園協議会提供)

    <font size="3" color="#0000FF">日本周遊紀行:温泉と観光編(25) 釧路・・Ⅱ「釧網本線」</font

    <font size="2" color="#0000FF">小生は日本一周の途上、沿岸部ばかりを走っているので滅多に内陸部のこと紹介しないが、序(ついで)ながらここで「釧網本線」(せんもうほんせん)沿線の観光案内をしてみよう・・。
    何しろ「釧網本線」は、釧路から網走まで、三つの国立・国定公園を貫く日本でも有数、北海道随一の好景観路線なのである。


    「釧網本線」の釧路駅を出発した列車は、次の東釧路で根室本線と別れ釧路湿原を北上する。
    湿原の中を走るようで、特に広大な日本一の湿原原を堪能するには左側車窓がよかろう・・。
    「釧路湿原駅」という駅もあり、湿原の中枢とも言えるところで、時間が許すなら途中下車して「細岡展望台」で釧路湿原の展望を満喫するのもよい。
    又、「塘路駅」あたりでは「塘路湖」、「シラルトロ湖」の展望も絶佳である。

    釧路湿原を北部へ進むに従い、「五十石」(ごじっこく)駅のあたりで湿原が果て標茶(しべちゃ)に着く。
    この標茶駅は嘗て国後島が望める根室標津までの「標津線」が走っていた、このことについては先に述べたが・・。 

    湿原が果て、標茶から摩周にかけては牧場も多くなり、牛が草を食む風景が見られるようになる。
    「摩周駅」は阿寒国立公園の玄関口で、以前は「弟子屈」という駅名であった、「てしかが」と読むが、温泉地としても有名である。 
    元々は弟子屈温泉と呼ばれていたが、摩周湖への観光拠点であることを判りやすくするため、温泉地名に現在の呼称である摩周温泉が用いられて・・、1990年にはJR弟子屈駅も摩周駅と改称されている。 
    この辺り、冬季の冷え込みは厳しく、摩周、川湯辺りでは空気中の水分が凍ってキラキラひかる「ダイヤモンドダスト現象」が見られる所でもある。

    摩周から「緑駅」(みどり)にかけては、阿寒国立公園の中を走る。 
    沿線にある川湯温泉は、北海道でも有数の規模の温泉であり、人気の「屈斜路湖」にも近いが、しかし駅は何故か無人駅でらしい。 駅近くからは、硫黄の蒸気を噴出す硫黄山が不気味な姿をさらけ出しているところでもある。 

    川湯温泉から緑にかけては、釧路支庁と網走支庁の境界がある山越えの区間で、駅間距離も沿線最長の14.5kmあり、列車は湿原の開けた空間から鬱蒼とした森林の中を走ることになる。

    次に、緑から知床斜里にかけては対照的に田園風景が広がる。 
    このあたりの田園風景は、本州以南のそれとは異なり、ジャガイモ、麦畑やビート畑などが広がり、いかにも「北海道の大地」といった感じである。 
    車窓右側には、裾野が緩やかで頂上がとがった斜里岳が美しい山容を見せており、田園風景に彩りを添えている。 
    その「知床斜里駅」は「世界遺産・知床」の玄関口でもある。

    知床斜里を出ると、いよいよ車窓右側にオホーツク海が見えてくる。 こちらは、やはり流氷が沿岸まで押し寄せる厳寒期が見ごろであろう、
    一面流氷に閉ざされる風景は、まさに幻想的であり圧倒的迫力で迫る・・。 
    ただ、列車は海岸沿いの小高い丘陵の間を走る区間が多く、実際に海が見える区間は意外と少ないという。 

    一方、浜小清水から北浜にかけては、車窓左側に小清水原生花園が広がり、夏場は様々な花が咲き乱れる爽やかな風景が広がる。 こちらには先に紹介した駅舎の洒落た「原生花園駅」という臨時駅もあり、季節ともなると停車駅となって多くの客が訪れるという。
    まさに北海道の夏の優しさと冬の厳しさを、同時に味わえる路線である。 

    本線は、オホーツク海と濤沸湖に挟まれた細い砂州の間を進む・・。 
    又、この区間は別名「グルメライン」と呼ばれており、止別・北浜・藻琴の各駅は、駅舎に食堂や喫茶店を併設しており、浜小清水駅には道の駅も併設されている。
    尚、「北浜駅」は、目の前がオホーツク海で、オホーツク海に最も近い駅として知られている。

    終点の「網走」は、釧路と並ぶ道東観光の玄関口である。
    市内にも、網走刑務所・モヨロ貝塚・天都山など見所については既に述べているとおりである。


    まさに釧網本線は、日本中のどこを探しても、これだけ全線に亘って広大に広がる風景は、北海道でしか見ることができないであろう。
    近年は沿線の豊富な観光資源を背景にして、トロッコ列車(ノロッコ号)やSL列車などの観光列車が通年運転され、又、団体臨時列車も多く、リゾート列車、お座敷列車が入線することもあるという。

    特別事例として、2007年4月より藻琴駅〜浜小清水駅間において、「デュアル・モード・ビークル」といわれる車両が試験営業運転されているらしい。
    往路は軌道、復路は道路を通る循環ルートで土日・祝日のみの運行を予定しているとか・・。

    デュアル・モード・ビークル(DMV:Dual Mode Vehicle )とは、軌道と道路の両方を走れる構造を備えた車両(バス、軌陸車)であり、日本においては、利用の少ない路線のコストを削減するためにJR北海道などで開発を進めているという。


    次回は、 「登別温泉」



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