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  • from: orimasaさん

    2009年08月02日 12時12分40秒

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    日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】(3)

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    日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】(3)

    「四国」について・・、
    四国は、古くは奈良時代の古事記に『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれている。
    面四ツとは、阿波(徳島)、土佐(高知)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)のことであり、一にして四、四にして一の世界であるとしている。 徳島、高知・・等の県名は明治期以降に付けられたものであるが、それ以前の奈良朝の頃まで遡っても、やはり四つの旧地域名で示されていた。(戦国期の一時期、長宗我部氏によって統一されたこともあった)

    四国で、イの1番に思い起こす事は、やはり四国・霊場のことであろう。 
    今から1200年も前に、弘法大師が人々に災難を除くために開いた霊場が四国霊場である。
    大師は、奈良後期の774年に地元、讃岐国多度郡屏風ケ浦(現75番・善通寺誕生院)に生まれている。 幼少のころより高い教育を受け、歴史や文学などを勉強し、基礎的な力をつけた。 ある時、出家し名を無空と改めて山岳修行者に身を投じ、石鎚山等で厳しい修業を重ねた。 20歳の時、和泉国槙尾山寺(西国四番札所)で得度出家し、名を「空海」と改めている。 延暦23年(804年)、空海30才のとき、時の政府より最澄(さいちょう・延暦寺開祖)らととに遣唐使として中国(唐)へ派遣され、2年間、唐の西明寺で修行している。 42歳で自身の宗教的な体験を一層深めるため、天皇の許可を得て「高野山」に堂宇を建立した。 その高野山の金剛峰寺において、空海は62歳で入定(聖者の死去)している。 延喜21年(921年)、醍醐天皇より「弘法大師」号を贈られた。 大師の教えは、現世に理想の社会を築き、人全てがそのまま仏となって幸わせが得られるという極めて現実的なものであった。

    ところで、四国八十八ヵ所は、弘仁6年(815年)弘法大師42歳のときに開創され、後に大師の高弟が大師の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりとも云われる。
    八十八という数字は、八十八の煩悩に由来するとか、「米」の字を分解したことによるとか、あるいは男四十二、女三十三、子供十三の厄年を合わせたともいわれている。
    八十八の寺院めぐりは、不治の病や難病が霊場を巡礼するうちに全快したという話もあり、遍路道をたどる中で大師の「お陰」をいただき、心身の毒素が浄化されていくと言われる。 いわば巡礼地・四国は大自然の病院であるともいう。
    四国の観音霊場の巡拝は、巡礼と言わず一般に「遍路」と言うらしい、「辺路」に通じている。 お遍路さんが着用する白い衣は死に装束といわれ、手にする金剛杖には五輪の梵字が刻まれ墓標そのものであるとするし、菅笠は、弘法大師と共に行くという意味で「同行二人」と記入する慣わしがあるという。 
    遍路は、昔は辺鄙(へんぴ)の地を巡る道、即ち「辺路」で、死を覚悟した厳しい「修行」だった。 お遍路さんは何日も、何十日も懸けて弘法大師のご利益を戴くのである。


    さて神代の国・「九州」である・・、
    紀元前後300年、つまり約600年間は「弥生時代」といわれ、日本列島に日本という国の基礎ともいうべきいろいろなことが起きた時代であった。
    縄文時代の末期には、大陸から九州北部に水田を利用した稲作技術や鉄の製造方法が伝わり、生活様式に急激な変化が現れてきた。 併せて、大陸及び朝鮮半島南部から九州北部への、渡来人の流入が相次いで起こり、北部九州に住む在来の人々と渡来人との間の混血が急速に進んだともされる。
    現代の我々日本人は、この倭人といわれる人達の末裔であるといって良いであろう。
    この新しいタイプの人達が、弥生時代の主役となり、弥生時代文化を花開かせ、「倭人」 といわれる日本人の祖となり、倭国(邪馬台国)といわれる国を形作った。 邪馬台国の北九州説(伊都の国、現在の福岡県前原市を中心とした地域・・?)である。

    「古事記」や「日本書紀」では、高天原から九州に降臨した神々を主題にした物語であるが、高天原とは朝鮮半島(或いは大陸のどこか)を意味し、天孫族とは、朝鮮半島からの渡来人として無理なく解釈できる。 この物語は、この天孫族の神(天津神)が国津神(原住民の神)を征服していく物語である。 
    そして、「天孫降臨」の物語は、九州南部の地より始まる。
    天孫降臨したのは宮崎・高千穂の地(別な見方もある)であり、これ等の神々は天照大神
    の子又は孫とされる瓊瓊杵尊 (ニニギ)の一行であった。 ニニギは、その子である火火出見尊 (ホホデミ・山幸彦)を生み、そのまた子である鵜草葦不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)を生むことになる。 この三神は、九州南部の地に各々の山稜(天皇の墓陵)及び神宮に、「神代三代天皇」(歴史上の天皇の祖)として祀られている。 更に、鵜草葦不合尊の子が歴代天皇の初代天皇とされる「神武天皇」であった。 
    その神武天皇は九州から東征のため近畿に遠征し、そして橿原の地に「天皇」として初めて即位することになる。 この即位した年を紀元元年(紀元前660年)とし、即位日の2月11日を紀元節(現在の建国記念日)としたのである。
    九州各地には、これら古代神話に登場する天孫降臨(天津神、天孫族、大和族)の神々の伝承が数多く伝わり、各社殿に祭られているのである。


    最後に「日本海圏・北陸」について・・、
    日本海に面する日本国土は、大陸とは一衣帯水(一筋の帯のように、細く長い川や海峡)の地域で、昔で言う筑紫、出雲、越の国、陸奥、蝦夷であり、何れも大陸と深い結びつきがあった。 縄文期の頃から流通はあったが、特に弥生期、有史期になると大陸文明が一期になだれ込むことになる。 それによって日本の古来の倭人(和人)が駆逐され、静かなる渡来人たちと融合した大和民族が出来上がったと言ってもいい。 ただ逆に古来、日本の文化文明が大陸へ持ち込まれた例は余り聞かない。 
    因みに、一衣帯水の日本が大陸によって侵攻侵略され、植民地化され、征服され、果ては日本国土、国民が、有史以来滅亡するという国家存亡の危機が三度あったとされる。 一つに、飛鳥期の7世紀(663年)に起こった「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)で朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いにおいて日本は完膚なまでに敗れ、その後、唐・新羅軍の大軍が日本に押し寄せるという懸念があった。(これは心配に終わったが・・、実際に、九州各地や中国、近畿には防御城が20箇所も造られている)二つ目は、ご存知鎌倉期の「元寇」である。そして、三つ目が幕末から先の大戦時であった。 しかし、この三回に渡る日本本土侵攻は不発に終わり、幸なことに古代から現在に至るまで、そっくりそのまま現存しているのである。(現在、周辺諸島で不当占拠や干渉はあるが・・!)

    日本海に面する地域、特に九州から越後にかけては「日本海沿岸文化圏」とも言われたが、
    この文化圏と中央圏(大和、京)の交差点に当るのが「北陸」であった。 この北陸(主に若狭地方)と京を結ぶ「鯖街道」(小浜)なるものがあったが、更に面白いのが大和と結んでいたことであった。 それは小浜・若狭神宮寺における「お水送り」と、奈良・東大寺の「お水取り」の古式神事が、地下水脈で連結されていたのである。


    そして「世界遺産」であるが・・、
    西日本を巡っているうち、世界遺産の箇所に数箇所めぐり合う機会があった・・、
    詳しいことは本文にお願いするとして、面白いのは、先ず我等夫婦が北海道旅行をし、「知床」を巡観した直後にその知床が世界遺産に指定された。 又、やはり夫婦で南紀地方(熊野一帯)を旅行した直後に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に認定されたのである。 思えば、世界遺産の奈良、京都の寺社群も全てではないが、そうであった。 そして、今度は小生が日本一周で周遊した後の直後、2007年(平成19年)7月1日に「石見銀山遺跡」が世界遺産に認定されている。


    「旅のまとめ」について・・、
    旅の要素には、三つの段階が有ると小生は思っている、 事前、事中、事後の三要素である。
    何処へ、何時、何の為に、どの様に・・、「事前」つまり思い立った時点、計画、下調べが始まった時から既に旅は始まっているのである。 そして「事中」、実行段階で体感し、感性が刺激され、記憶に留まるのである。 「事後」は、記録、整理をしながら、それらの背景を再度調べてみて再確認する。 これらの事を能動的に行うことによって、旅は一層楽しく、記憶に残るものになると思われ、更に、最近は、ネットやホームページで公開することも出来る。
    この度の外周旅行において、ただ通過しただけの村や町、地域が多数あったのだが、これらの「ところ」がどの様な特性や特色を有しているのか、歴史的建造物、史跡や寺社、これらの歴史や背景は何なのか、等々が気になるのである。 
    これらの「事後調べ」を行うのに、書籍本は無論であるが、インターネットという便利で重宝な手段も有り、ネット情報等を多いに参考に活用させて戴いた。 その為の「整理の時間」に、旅の道中の時間の数倍にも増して期間を費やすことになってしまったのである。

    本文中、出来るだけ自分なりに調査し、考察し、編集し、掲載したが、文中、引用していただいた中には、個別の保護や権利等の問題も含まれるかもしれません。 これらの当事者、関係者に、もしも御迷惑をお掛けしたなら、改めて御礼と御詫びを申し上げる次第であります。

       『渇いた心に、オアシスと清風を求めて、明日も旅たつ・・・』 orimasa・「風」

    『終』


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  • from: orimasaさん

    2009年08月02日 12時11分36秒

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    日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】(2)

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    日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】(2)

    次に、「近畿圏」においては・・、
    伊勢の地に鎮座している伊勢神宮は天照大神(大和族)を祀り、天皇の皇祖とされ、無論、我ら大和民族の高祖でもある。 
    一般に神様は新しいものがお好きなようで・・!!、この神宮は20年に一度、遷宮が行われるのである。 式年遷宮(しきねんせんぐう)とは、神社の正殿を造営・修理する際や、正殿を新たに建てた場合に、御神体を遷すことで、式年とは定められた年であって20年に一度行われる。 第1回の式年遷宮が内宮で行われたのは7世紀 (690)のことで、それから一度の途絶えることなく1300年にわたって続けられ、平成5年には第61回が行われ、平成25年に第62回を予定している。 遷宮のための敷地は、隣にチャンと用意してある。

    日本には「神道」という、自然を媒介として、神と人が結ばれた日本固有の民族宗教がある。 神社の存在や冠婚葬祭、年中行事は、神とともに生きてきた日本人の心を物語るものであり、しきたり、風習、そして、ものの感じ方、私たちの生活にも神道が広く関わっている。 人々は山や巨岩、大木を神の座と崇め周囲の森を「神聖なる場所」とした。 やがてそれが神社になった。 神社に祭られる神々は、日本神話に登場する神々である。 そして、日本国民、天皇が最も尊敬、崇拝する神が天照大神であり、伊勢神宮なのである。
    日本人と神道については天皇家と密接に関係をもちながら、古代から今日まで営々と受け継がれている。 

    しかし、神道は一時廃れる・・、
    飛鳥、奈良期に「仏教」が輸入されて蘇我氏と物部氏との争いを経、天皇の加護も受けて隆盛になり、そのうち外来の仏が古来の神を凌駕し乗っ取ってしまう結果になる。(神仏習合:本地垂迹) これが平安初期から明治期に至るまで営々と続くことになる。
    仏教は鎌倉期に最も隆盛を極めるが、この時期あたりから天皇は軽んじられ、政権天皇は武家に移ることになる。 神道が地に堕ち、天皇が疎んじられ、その存続すら危うくなりがちであるが、(平安期、天皇継承事件・和気清麻呂と道鏡)そこは日本人のDNAが生かされ、天皇制は何とか維持するのである。(昭和天皇まで124代=今上天皇125代を数える)
    これが唯物史観の他国、特に西洋であったりすると、天皇制はかなりの衰退か、滅亡の憂き目をみたであろうと想像できる。 明治期になって、やっと神道が復活し、再び天皇も主権者として登場するのであるが・・!。
     
    この先駆けになったのが江戸期幕末の尊皇攘夷の志士であり、彼等の筆頭にいたのが吉田松陰たちであった。 松蔭の所属する長州藩の毛利家は、始祖は相模の国の厚木の庄であるり、その毛利家の祖である大江 広元(おおえの ひろもと、元は中原氏)は、頼朝に仕えた事務方の重臣で、宮中で天皇に仕える貴族(官人)であった。 元より大江家は、古代期より濃い天皇家の血が混じっているといわれ、歴代藩主は勤皇に励んできているのである。
    松蔭も、武士でありながら歴代毛利家に倣ったのは当然でありながら、更に、自書の中に「天下は天朝(朝廷)の天下にして即ち、天下の天下なり、幕府の私有にあらず・・」、として「神々が大八洲(日本列島)や山川草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神(アマテラスオオミカミ)をお生みになった。それ以来、天皇が国土、自然、人民を保護してきたのである」としている。 天皇と国民の絆(きずな)の“真の性質”は、①「神話的血縁関係」、②「道徳的紐帯(ちゅうたい・社会をつくりあげている条件)」それに③「法的義務」としている。
    維新の推進役となった彼等尊王の志士達には、このような基本思想が有ったのである。
      
    その伊勢神宮は、大国主神(出雲族)を祭神とする出雲大社とは神代の昔、敵対関係にあった。 「国譲り」の戦に破れて、出雲大国は一部を除いて消失することになる。
    その出雲の国は素戔男尊(スサノオ)が開き、大国主が平定した古代・出雲大国は広大で、日本海側に限定すれば北九州から越後・新潟(越の国)にまで影響を及ぼしていたことが判る。 大国主の伝承は、鳥取の「白兎伝承」、能登の開発(気多大社と鵜祭)、そして翡翠と奴奈川姫を求めて越後へも赴いている。 越後では奴奈川姫と結ばれ「建御名方」を生むことになるが、この時、かの「国譲り」が行われ、建御名方は常陸の国(茨城)の武甕槌神(大和族・鹿島神宮の主祭神)とが合い争い敗れるが、これが現在の「大相撲」の起源であるともされる。 敗れた建御名方は御柱祭や神無月で有名な「諏訪大社」の主祭神として祭られることになる。 併せて、大国主と奴奈川姫は地元、糸魚川の奴奈川神社に祀られているが、越中高岡の一の宮気多神社にも夫婦神が祀られている。 因みに、能登一の宮の気多大社の主祭神は大国主神でもある。

    序ながら、大国主に因んで出雲地方で面白かったのは、スサノオの「八岐の大蛇」の伝承であろう・・、
    スサノオが日本海地方に国を拓く時、

     『八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を 』  古事記

    と詠んで、この国を「出雲の国」と制定している。 
    この歌は日本で初の和歌を詠んだ神(人物)として文化的な英雄の側面も有しているが、何と言ってもスサノオを有名にしているのは「八岐大蛇退治」の英雄譚であろう。 その解釈は、優秀な渡来人を平定して鉄の製法を得た物語として象徴され、天叢雲剣の取得はその「鉄」を得た事象であると解釈できる。 
    古代神代の物語で、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)以外には、蛇と名の付くものは殆ど出てこないとされ、この大蛇のモデルになったのが出雲地域の船通山を源流とし宍道湖に流れ込む「斐伊川」とされる。 
    大蛇の格好は怪物、妖怪として物語に登場する・・、
    先ず頭が八つとされるのは、斐伊川河口付近では扇状の地となって多くの支流を造っていること。 尾が八つとされるのは、上流の谷筋で多くの支川を集めていることで説明できる。 胴体に苔や樹木が生えているのは、川岸には苔や草があり周辺は樹木で覆うわれているのである。 腹が常に血でただれているのは、中国山地の土には砂鉄が多く含み、酸化すると赤くなっている現象とする。
     又、神話で大蛇の尾から神剣が出現したとあるのは、この地域で砂鉄を取り出し、タタラ(炉へ足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご)で精錬して、刀剣製作に用いたことで説明がつくとされる。
    斐伊川(ひいがわ)は昔は肥川といわれ、肥は赤や火を意味する。 古代の伝承や神話は、現実の世界を物語風に描いたものとされるが、「八岐大蛇」伝説などは実際の様子を目の当たりすることも出来るのである。
    更に、それら出雲系(渡来人を含む)や古代製鉄に繋がる物語として、中国地方の吉備の国の吉備津神社が、桃太郎の戦史物語として描かれている伝承も面白い。

    話が脱線して「出雲」の方へ行ってしまったが、「近畿圏」のことであった・・、
    「近畿」(畿内とも云う)は古代から永年、日本の中枢であった。
    ヤマト王権以前の邪馬台国(倭国)の所在地について、九州説と畿内説がある。 九州説は九州北部、卑弥呼(ひみこ)女王が住んでいたとする旧伊都国か、又は佐賀・吉野(弥生期の吉野ケ里遺跡)ともいう説がある。 対峙して「畿内説」にたてば、即ち大和王権がこの時期、既に成立していたとの見方である。 一般には「九州で成立して、瀬戸内海を東征しながら畿内に、さらに紀州熊野から北上して奈良盆地に至って国を統一した」とする邪馬台国東征説もある。 これは概ね、神武天皇東征神話マッチする。 何れにしても、旧来の大和王権が存在していたとしても、その後、大和へ入った新勢力によって新規ヤマト王権が成立したことは史実に近い。 所在地とされているのは主に大和の奈良盆地周辺である。 
    「近畿」は昔は畿内とも云われ、難波宮や藤原京や平城京や平安京などの首都、もしくは過去の首都の所在地で、現代っぽい用語に直せば首都圏であり、日本の中枢であった。 
    古代日本の地方区分は「五畿七道」(五畿は山城国、摂津国、河内国、和泉国、大和国)とも称して、現在の近畿地方中心部の5箇国と、それ以外の地方を七つに分けた七道(北海道を含めると八道)のことで、これは奇しくも現在、物議を醸している道州制でもあった。

    さて、近畿・紀州といえば「熊野三山」であろう・・、
    熊野の地名が初めて登場する文献は「日本書紀」である。 伊邪那美命(イザナミノミコト)の葬られた土地として登場し、併せて少彦名命(スクナヒコナノミコト)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)も登場する、いずれも日本神話に登場する「国造り」の神々である。
    だが元々の熊野三神は、熊野の深山霊地を祖とする祖神、・自然神を崇めたものであった。 自然神は、本宮大社は元の社地・大斎原(おおゆのはら:熊野川の畔)の原生照葉樹林帯と熊野川、那智大社は那智の大滝、そして速玉大社は神倉山の岩山が御神体とされていた。 その熊野は平安期「仏教」が入り込んで、神仏習合・本地垂迹の大代表的地域になってしまったのである。

    飛鳥、奈良期になって新しい文化「仏教」が渡来し(538年)た。 はじめ神殿の脇に小さな仏舎が建てられるが、その内、神殿の中に居候、間借していたものが次第に勢力が増してきたのである。 この時期から神と仏が対等になり、やがて、境内に堂々と神宮寺や別当寺が建てられ仏が神を凌駕するようになる。 つまり、小さな仏舎にいた居候の仏が神殿を乗っ取り、入れ替わってしまったのである。 神事を行うのにも、神殿の中で仏式の作法による坊さんがお経を詠むようになったのである。 
    しかも、後に彼等は教団といった組織をつくり、門徒、宗徒らは袈裟を着て、首には数珠を下げながら、腰には刀を差し、手に槍を持って武力集団にまで成り上がり、武士達へ挑んでいったのである。(代表が比叡山・延暦寺)
    「熊野三山」となったのは、これら神仏習合以降のことであり、「三山」という仏教的な呼び方から、仏教が大きな影響を与えたことが判るのであった。 「山・さん」というのは寺院に添える語の山号のことであり、特に、比叡山延暦寺など「開山、本山、山門」といった意味のことである。
    本体(仏像)である仏や菩薩を「本地」といい、仮に神(神意)となって現われることを「垂迹」とい、また、仮に現れた神のことを権現(ごんげん)と称した・・、「本地垂迹」である。
     
    これ以来大和地方の人々は、熊野を死者の国(死後の世界)に近い場所と考えていたようで、後に浄土信仰が盛んになったときに、熊野は、やはり死者の国であるとして「浄土」と結びつけられた。 神仏習合や浄土信仰の隆盛により、本宮社は阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮社は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、那智社は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられようになり、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになった。 そして、「蟻の行列」とも喩えられた熊野詣が盛んになるのである。
    以降盛衰1000年余を経て明治以降の神仏分離政策により、熊野三山の他の二つである本宮大社、速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂のみが破却を免れ、後に信者の手によって「青岸渡寺」として復興しているのである。 現在、熊野那智大社と青岸渡寺が隣接して建っていて、熊野三山中、今も神仏習合時代の名残りを留めている。

    神仏習合文化に観られる日本人の寛大さ、寛容さ、即ち、融合性を表した特徴的文化は、此れは世界でも類例が無いとされる。 欧州では、他宗教同士が融合することなどは考えられず、忽ち戦争(宗教戦争)を引き起こしてきた。
    日本人の“なあなあ”、“まあまあ”精神、つまり「物事をはっきり言わない」、「自主性がない」とも云われるが、むしろ曖昧だからこそ、その「曖昧力」が日本が世界有数の安全で豊かな国になれたともいう知識層もいる。
    近畿地方の南端・・、
    紀州沿岸が日本の調味料である味噌、醤油の発祥地であり、柑橘の梅、みかんの栽培でも知られる。 これが黒潮に乗って関東や房総へ達したこと(紀州と房総に共通する地域名称)等、歴史の流れの面白さを味わえた。

    次回は、四国から


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  • from: orimasaさん

    2009年08月02日 12時10分49秒

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    日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】

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     日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】

    熟年になってからの長丁場の一人旅、正直、不安やストレスがなかった訳ではない、それにしても余りある実感と体感はやはり、得がたいインパクト・感歎が有った。
    東日本、西日本を二度に分けての慌しい旅であったが、それでも延日数で43日間(東16日、西27日)、総距離:12535km(東5403、西7132km)を要している。 
    ここで大雑把な感想を述べたいが、東日本については既に記しているので、西日本について掻い摘んでその特徴的なのを述べてみよう。
     
    まず、西日本ついて特徴的結論を言えば・・、
    東日本の特有は、やはり奥深く雄大な太古の自然が、ソコ・ココに残されていることであろうが、西日本は、どちらかというと歴史や文化が深く息ずいていることが主体であろう。
    ところで、歴史というものはどの時代を通じても、全て繋がりの連続性を持っていて澱(よど)みなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものであろう。 そして、多岐に渡る小河の歴史が寄せ集まり、厳選されて現代に繋がっているのである。 更に、時代という綿々と流れてきた歴史大河は、事項が重なり合って後世に一つの現象を生み出し、影響を与えながら未来へと繋がっていくものであろう。 
    西日本は日本の歴史を形作った謂わば、源流域であろうか・・!。
    例えば、九州薩摩を巡りながら、「西南戦争」を調べていると、突如として東北の庄内藩が出現してきて、西郷隆盛と庄内藩との意外な関わりが顕になってくる。 その薩摩の幕末は、関が原に起こった事変、因果が幕末維新に影響を与えていたりしている。 西郷の計らいで薩摩の地に坂本龍馬が“おりょう”と共に新婚旅行に来ていたが、この地は、遠い過去の平安初期、和気清麻呂も訪れていた土地だった。 尤も、清麻呂の場合は平安初期の8世紀、「宇佐八幡宮神託事件」で有名な天皇制護持活動で、宗教界のトップ・道鏡の皇位簒奪(こういさんだつ・帝位を奪いとること)を防いだことで知られるが、この時、道鏡に誼(よしみ)のあった時の天皇(称徳天皇)の怒りをかい大隅国(現在の鹿児島県)に配流となっていたのである。中世の楠木正成、名和長年と並ぶ三忠臣としても知られる。 
    といった具合に、歴史を中心に「西日本」を整理してみた。


    先ず、「関東圏」について・・、
    小生の住む相模の国・鎌倉とその幕府にまつわる歴史は、司馬遼太郎の「三浦半島記」の中で・・、
    『三浦半島から12世紀末、それまでの日本史を、鉄と槌と鏨(たがね)でもって叩き割ったような鎌倉幕府が出現するのである・・・』、と先制紹介している。

    その鉄と槌と鏨で叩き割った張本人・「源頼朝」は幕府を起し、奥州から九州まで統治するに及ぶが、 この時期、小生の住む相模(神奈川厚木)周辺でも、その事例が見受けられる。 先ず、厚木市地域の「毛利の庄」からは戦国期に名高い毛利家を生み、以降、中国を統治・領有するに至る。 毛利家は更に時代を重ねて幕末、明治の革命を起こし中央政権で初代総理を生むのである。 又、おなじく鎌倉期において九州の雄・大友氏が誕生しているが、大友氏の初代・大友能直は相模国大友荘(小田原市大友)の出身で、頼朝の御手付きの子であったという説がある。 同じく九州の雄・島津氏の初代の島津 (惟宗)忠久は、母親が頼朝の妾であったとし、つまり御落胤であったというのが共通している。 大友氏も島津氏も、平家方だった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして九州に下っていくが、戦国期、わが国でも有数といわれる九州最大の戦い「耳川の戦い」で両者が激突、島津は大友を滅亡させ九州の覇者となる。 そして江戸幕末、明治の革命を起こした傑物・西郷隆盛を生むのである。
    又、同時期、頼朝の実弟・義経に至っては九州の内陸(竹田市)から北海道の果て積丹まで日本全土に亘って史実・伝承が残されているのである。
    鎌倉幕府が源頼朝によって創設されている。 所謂、武家政治が12世紀(1192年)から始まって、室町幕府、江戸幕府に引き継がれ、幕末の19世紀(1868年)、明治維新まで続くことになる。

    更に、我が相模の国の一の宮「寒川神社」の事について・・、 
    近くを流れる相模川の守り神、鎮守神として広くし知られていて、大まかな由緒、縁起は知らされているが、発生源の大源(おおみなもと)は余り知られていない。
    ここは小生の推考ではあるが・・、
    天照大神を祀る伊勢神宮の内宮を、遷宮(大和から伊勢へ)案内したとされる倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に端を発すると思われるのである。 元より天照大神は大和の宮中に祀られていたが、神威が強いということで別地に祀られることになり、この倭姫命が道案内で内宮までたどり着き、伊勢の地に安住創建されたとている。 この時、倭姫命が伊勢の国・坂手から外城田川(ときたかわ:寒川)にそって遡ってきたとされる。 この外城田川や周辺が荒れていたので、この地を鎮護するために神社を造営したとされ、これが御船神社(内宮摂社)であり牟弥乃神社(むみのじんじゃ:内宮末社)であった。 そして、この地方を「寒川」と命名したともいわれる。 
    この社が、讃岐の国・寒川町(さんがわちょう)に大蓑彦神社として分社され、更に黒潮に乗って讃岐の古族・忌部氏らが相模の地(房総千葉の寒川神社も同じで、どちらが早いか遅いかは不明)へ勧請されている。 いずれにしても、荒れた川を鎮護するための神様であり、祭神である寒川比古命,寒川比女命を祀っている。 これらは、無論同一又は夫婦神で水の神、川の守り神なのであり、そして、伊勢神宮との縁のある神なのである。


    次に「東海圏」で言うならば・・、
    東海の三傑と言われる英雄は、戦国時代の代表的人物の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康であろう。 何れも、個性豊かで、波瀾万丈の人生を送り、時代劇や小説の主人公としてもよく取り上げられている。 これら三人の間ではどの人物、どの生き方に惹かれるか
    話題になることもある。
    三人の人物的評価で次の詩が良く言われる・・、
    『 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 』   織田信長
    『 鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス 』   豊臣秀吉
    『 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 』   徳川家康

    「織田信長」(おだのぶなが、1534〜1582年)は群雄割拠、下克上の戦国時代を終焉に導いた武将で、日本を鎌倉、室町の中世的観念から近世へと誘った発想の転換という点では、他の戦国武将たちの追随をゆるさない。 まさに鋭利な刃物のような天才的指導者といえる。 しかし、また同時に性格的な欠点が多いとされるが、これは一種人間離れした存在であったような気がするし、彼自身がそう願っていたのかもしれない。
    尾張国・那古屋城主(現在の名古屋城)織田信秀の次男または三男として生まれ、信長が嫡男として育てられたようで、幼児のときに既に城主となっている。
    幼少から奇行が目立ったが、尾張織田家の当主となると将才を発揮し、国内の内紛や謀反を次々と鎮圧している。 
    桶狭間の戦いで今川義元を破ると、三河(愛知県東部)の徳川家康と同盟し、美濃(岐阜県)の斎藤龍興を破り、1568年足利義昭を擁して上洛。 これにより織田信長は事実上天下を握ることになる。 その後、浅井長政・朝倉義景や武田勝頼らを滅ぼし一向宗と激しく争うなど、勢力拡大を実現していった。
    中国の毛利氏征伐に向かう途中、本能寺で家臣の明智光秀に襲われ,嫡男・織田信忠ともに自害した。 この時、敦盛の詩を謡い、舞ったという・・?、
    『人生50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか・・、』 信長は詩の通り50年の人生を閉じた・・。
    信長の評価は、比叡山焼き討ちや長島の一向一揆を火あぶりにしたことから残虐なサディストと見られがちだが、徹底した合理主義者でキリスト教の容認や楽市・楽座など、善政を行ったことも有名。
    尚、彼の姪で後に豊臣秀吉の側室となる淀殿(淀君)がいる。

    「豊臣秀吉」(とよとみひでよし、1537〜1598年)は、人民宗匠と言われる。 卑賤の身から天下統一を果たした日本史上稀有な英傑で、日本版サクセスストーリー」の極みといえよう。 「人たらし」という評価も得ているほど他人の心情に敏感で、その上機転も効き、この時代の寵児ともいえる。 夢途中で他界した先君信長の発想をアイデアマン秀吉なりの解釈で後継し実行した人物である。 ただ晩年の秀吉は跡継ぎの問題が絡んでからは、増長も見え、精細を欠いた。 信長・秀吉・家康の三人の中では一番人間味がある人物であろう。
    尾張国愛知郡中村(名古屋市の東に位置する)の百姓の子として生まれ、信長に仕え、次第に頭角を表す。 信長の下で着実に出世を重ねた秀吉は、本能寺の変で信長が明智光秀に攻められ自害すると、その光秀を討ち信長の後継者としての地位を得た。
    その後、公家の最高位である関白に就き、全国の大名を従え、信長の果たせなかった天下統一を成し遂げる。
    百姓から天下人まで上り詰めた秀吉は「戦国一の出世頭」と呼ばれる。 天下統一を果たした秀吉は、次の狙いを明国の征服と定め、その通り道となる朝鮮半島への出兵を行ったが、結局その望みは叶わず、第二次出兵のさなか1598年に没した。
    秀吉の生涯を見渡すと日本の歴史上稀にみる英雄であったことは間違いないが、しかし、その晩年は海外への無謀とも言える野望・後継者問題など、さすがの英雄も耄碌してしまった感がある。

    「徳川家康」(とくがわいえやす、1542〜1616年)というと「忍耐の人」という印象があり、大器晩成型の象徴と考えている方も多い。 実はこの家康は、若いうちから大器の片鱗を見せていたという。 しかしながら信長・秀吉といった両巨星の後釜に拝した傾向は否めないとも言われる。 関東の草深い田舎に居を設け、以降、260年間日本を導いた英傑としては、三君の内ではピカ1であろう。 それと、家康は健康に気を配り(自身で薬を調剤した)、最も長生きしたことがを最後の勝利者として位置づける結果となった。 三人の中では最も道徳的で冷静であったとするが、ただ、晩年は秀吉同様に傲慢さが目立つようになり、彼の人格に関しては影武者説も色濃くあったという。
    家康は三河国・岡崎に岡崎城主・松平広忠の子としてうまれ、幼名は竹千代、隣国の覇者・今川氏に人質として出される。 信長の桶狭間合戦により独立、同盟したのが良かった。
    1573年、三方原の戦いで武田信玄に大敗するも、1575年長篠で信長とともに武田勝頼に勝利し勢力を伸ばす。 信長没後羽柴秀吉と対立し小牧・長久手で戦うが後に講和して、1590年、北条氏(戦国北条)滅亡後の関東に入封する。 1600年に関ヶ原の合戦で石田三成を破り、事実上天下を握る。 1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。 その後、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、戦国時代を終わらせた。 徳川幕府15代260年の太平の時代を開いた功績は現在であればノーベル平和賞ものである。

    名古屋に関する面白いH・Pを発見したので紹介します。
    キーワード 「名古屋はええよ!やっとかめ」
    http://www.geocities.jp/momo_harumi/yatokame2004/ 

    次回は、近畿圏


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  • from: orimasaさん

    2009年08月01日 09時09分47秒

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    日本周遊紀行(231) 「旅程・データ」

    .

    日本周遊紀行(231) 「旅程・データ」


    東日本編(東)  西日本編(西)=

    【延日数】
    (東) 16日間  出発日 2004年9月20日   最終日 2004年10月6日
    (西) 27日間  出発日 2005年5月22日   最終日 2005年6月17日

    【通過都道府県】
    (東) 神奈川⇒ 山梨 長野 新潟 山形 秋田 青森 北海道(西回り) 岩手 宮城 福島 茨城 千葉 ⇒神奈川

    (西) 神奈川⇒ 静岡 愛知 三重 和歌山 大阪 兵庫 四国全県(東回り) 岡山 広島 山口 九州全県(西回り) 山口 島根 鳥取 兵庫 京都 福井 石川 富山 新潟 長野 ⇒神奈川

    【宿泊地】
    (東) 一般宿泊施設 7日、  道の駅(車中)・8日

    (東) 1日目・白馬村(別宅)、2日目・温海町(道)、3日目・男鹿温泉(保)、4日目・浅虫温泉(保)、5日目・湯の川温泉(H)、6日目・島牧村(道)、7日目・小平町(道)、8日目・紋別市(道)、9日目・羅臼温泉(H)、10日目・白糠町(道)、11日目・登別温泉(H)、12日目・大畑町(車)13日目・田老町(道)、14日目・湯の原温泉(旅)、15日目・水郷潮来(道)、

    (西) 公共施設 11日、 旅館ホテル・5日、道の駅(車中)・6日、その他 5日

    (西) 1日目・伊豆松崎(道)、2日目・渥美田原(道)、3日目・鳥羽市(保)、4日目・南紀白浜(保)、5日目・淡路島(道)、6日目・高知南国市(車)、7日目・道後温泉(保)、8日目・相生(道)、9日目・安芸宮島(Y)、10日目・唐津(保)、11日目・小浜温泉(保)、12日目・阿蘇・赤水温泉(保)、13日目・別府・鉄輪温泉(旅)、14日目・(鉄輪温泉)、15日目・(鉄輪温泉)、16日目・(鉄輪温泉)、17日目・鹿児島阿久根(道)、18日目・指宿温泉(保)、19日目・宮崎青島(保)、20日目・指宿温泉(H)、21日目・宮崎(道)、22日目・下関(Y)、23日目・島根・湖陵町(保)、24日目・城崎温泉(保)、25日目・芦原温泉(旅)、26日目・和倉温泉(保)、27日目・白馬別宅

    【入浴温泉(立寄含)】
    (東) 白馬温泉、温海温泉、男鹿温泉、不老不死温泉、浅虫温泉、湯の川温泉、宮内(ぐうない)温泉、神居岩温泉(留萌)、とっかりの湯(紋別)、カムイワッカの湯(知床)、羅臼温泉、登別温泉、下風呂温泉(大畑)、奥薬研温泉、恐山温泉、小本温泉(岩泉)、湯の原温泉(松島)、湯本温泉(いわき)、

    (西) 伊豆大沢温泉、伊豆長岡温泉、鳥羽温泉、勝浦湯川温泉、白浜温泉、有馬温泉、南国市ながしま温泉、道後温泉、相生温泉、唐津鏡山温泉、小浜温泉、雲仙温泉、阿蘇赤水温泉、黒川温泉、別府鉄輪温泉、九重長者原温泉、由布院温泉、湯平温泉、阿久根温泉、霧島温泉、指宿温泉、青島温泉、下関日の出温泉、湖陵温泉、城崎温泉、芦原温泉、和倉温泉、白馬温泉


    ≪勝手に選んだ秀逸五選≫

    【名所五選】(道順)
    (東)竜飛崎(青森)、
       仏が浦(青森)、
       サロベツ原野(北海道)、
       知床と五湖(北海道)、
       恐山(青森)
    〈補〉野付半島〜根室(風蓮湖)、宗谷岬、松島(宮城)

    (西)熊野三山(和歌山)、
       安芸の宮島(広島)、
       雲仙地獄と普賢岳(長崎)、
       阿蘇山と九重山系(熊本、大分)  
       日南海岸と鵜戸神宮(宮崎)、 
       宇佐神宮(大分)
    〈補〉別府温泉地獄、城崎温泉

    【温泉五選】(道順)
    (東)不老不死温泉(青森)
       カムイワッカの湯(北海道) 
       登別温泉(北海道)
       奥薬研・かっぱの湯(青森)  
       白馬八方・塩の道温泉(長野、地元優先)

    (西)白浜温泉(和歌山)
       道後温泉(愛媛)
       指宿温泉(鹿児島)
       別府鉄輪温泉(大分) 
       城崎温泉(兵庫)

    【景観「道」五選】
    (東)サロベツ原野(道道106号)
       黄金道路(広尾〜襟裳、R336)
       龍泊ラインと国道階段(青森竜飛、R339)
       羽州浜海道(山形山北、R345)
       松林海道(新潟、紫雲寺・中条、R113)

    (西)足摺サニーロード(高知 国道321号) 
       しまなみ海道(瀬戸内海・西瀬戸自動車道) 
       九重やまなみハイウェイ(大分、熊本 県道11号) 
       指宿スカイライ(鹿児島 県道17号一般有料)  
       日南フェニックスロード(宮崎 国道220号)

    【道の駅・五選】(道順)
    (東) 鳥海(山形)、象潟(秋田)、オホーツク紋別(北海道)、高田松原(岩手)、津山もくもくランド(宮城)

    (西) 花の三聖苑・伊豆松崎(静岡)、一本松展望園(岡山)、本陣ふかえ(長崎)、ゆーひぱーく浜田(島根)、大栄(鳥取、道の駅・国内第1号)

    【車種】
    トヨタ タウンエース「ノア」 2000cc

    【総走行距離】
    (東) 5403km  1日平均 338km (厚木市自宅⇒厚木市自宅)
    (西) 7132km  1日平均 264km (厚木市自宅⇒長野・白馬村)

    【消費燃料】
    (東) 494L   1日平均 31L(ガソリン) (厚木市自宅⇒厚木市自宅)
    (西) 590L   1日平均 22,7L(ガソリン) (厚木市自宅⇒長野・白馬村) 

    【消費金額】
    (東) 合計187219円  1日平均 11700円  (現金 91424  カード 95795円)
    (西) 合計256075円  1日平均 9484円  (現金 110407  カード 145668円)


    次回、「あとがき」



    【小生の旅のリンク集】

    《日本周遊紀行・投稿ブログ》
    FC2ブログ http://orimasa2005.blog101.fc2.com/ 
    C・掲示板 http://www.c-player.com/ac79563/message
    FC2 H・P http://orimasa2001.web.fc2.com/
    gooブログ http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005
    yahooブログ http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2001

    《 旅の記録 》

    【旅行履歴】 http://www.geocities.jp/orimasa2001/kankou1.htm
    【日本周遊紀行:東日本編】 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/e-mokuji.htm
    【日本周遊紀行:西日本編】 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/w-mokuji.htm
    【日本一周・海道を往く】 http://park23.wakwak.com/~orimasa/  (こちらは別URLです)

    【日本の世界遺産紀行】 http://orimasa2005.web.fc2.com/
    「北海道・知床」 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/siretoko1.htm
    「白神山地」 http://orimasa2005.web.fc2.com/ss-1.htm
    「紀伊山地の霊場と参詣道」 http://orimasa2005.web.fc2.com/nk-1.htm
    「安芸の宮島・厳島神社」 http://orimasa2005.web.fc2.com/itukusima1.htm
    「石見銀山遺跡とその文化的景観」 http://orimasa2005.web.fc2.com/ig-1.htm

    「ハワイ旅行」 http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hawai2007.htm
    「沖縄旅行」 http://www.geocities.jp/orimasa2008/
    「北海道道北旅行」 http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hakkaido1.htm
    「北海道旅行2005」 http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hokkaidou2005.htm

    《 山歩の記録 》
    【山行履歴】 http://www.geocities.jp/orimasa2001/yama1.htm
    「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm 
    「白馬連峰登頂記(2004)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/hakuba-1.htm 
    「八ヶ岳(1966年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/yatu1966-1.htm
    「南ア・北岳(1969年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/kitadake1969.htm
    「北ア・槍-穂高(1968年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/yariho.htm
    「谷川岳(1967年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/tanigawa.htm
    「丹沢山(1969年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/tannzawasan.htm
    「西丹沢・大室山(1969年) http://www.geocities.jp/orimasa2001/oomurosan.htm
    「八ヶ岳越年登山(1969年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/yatuhuyu1.htm
    「西丹沢・檜洞丸(1970年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/hinokihora.htm
    「丹沢、山迷記(1970年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/sanmeiki.htm
    「上高地・明神(2008年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/myuojin.htm

    《山のエッセイ》
    【上高地雑感】 http://www.geocities.jp/orimasa2001/kamikoti.htm
    【上越国境・谷川岳】 http://www.geocities.jp/orimasa2001/kokkyou.htm
    【丹沢山塊】 http://www.geocities.jp/orimasa2001/tanzawa.htm
    【大菩薩峠】 http://www.geocities.jp/orimasa2001/daibosatu.htm

    《 スキーの記録 》
    【スキー履歴】 http://www.geocities.jp/orimasa2001/skirist1.htm



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