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  • from: orimasaさん

    2008年12月26日 10時43分54秒

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    日本周遊紀行(118)佐世保 「軍港・佐世保」

    佐世保軍港で米軍兵士の“黒ちゃん”に捕まった・・!、

    間もなく佐世保市へ入った模様である。 
    佐世保は、2005年4月、吉井町、世知原町を編入し、新「佐世保市」になっているが、更に、来年、2006年3月31日を以って小佐々町、宇久町を佐世保市に編入する予定らしい。 宇久町を地図上で佐世保周辺を見回したが、見つからず、はて、何処にあるもんか・・?と更に探し出すと在りまして、平戸島の西方の島(宇久島)の領域であった。
    佐世保市街に到り、著名な軍港でもあるので港へ出て軍艦の一隻でも見物しようと車を進めると、突然、米軍基地の正門へ達してしまった。 「シマッタ・・!」と思ったが遅かった、米軍の“黒ちゃん”に捕まってしまったのである。 直ちに二人の日本人守衛に引き渡されて、免許証の提示や車内検査をやられ、軽い身体検査までさせられた。 事情を丁寧に話すと、どうやら納得したようで、終いには「此れからどちらへ・・」とか「厚木の基地はどうですか・・」とか世間話にまで及んでしまった。 相手は、中年相当の人で、盛んに“ばってん”とか・・“よかばって”・・と地方訛、長崎弁をまくし立てられたが、最後に気持ち良く見送ってくれた。どうやら軍艦は、一般の人は市中からは望めないらしい、それもそうだな・・、と変に納得した。 いやはやとんだ目に合いました、出発初日、横須賀軍港で同じ事をやらかしたのを思い出した。

    佐世保港は三方を高い山に囲まれ、水深が概ね10m以上あるため、天然の良港といわれ、ここに目をつけた旧帝国海軍は明治22年頃から軍港とし、第三海軍区佐世保鎮守府として戦事一色の港になった。 昭和20年に終戦を迎え、一端は、軍港としての幕を閉じ、昭和23年には貿易港の指定を受けたが、同年6月に勃発した朝鮮戦争により、港湾施設の大半を米軍に接収され、再び軍港としての色合を濃くした。 他の港にない特徴としては、港内の水域の約83%が「日米地位協定」に基づく、米軍への「提供水域」として米軍により管理され、日本の船が航行する場合にはいろんな規制や制限が課せられているという。
    太平洋戦争末期、米軍は佐世保の市街地だけを爆撃し、広大な軍港の施設、巨大な弾薬庫や貯油施設をほぼ無傷で残した。このことは通常の常識では考えられない全く逆の軍事攻撃を行ったのであり、そして、まんまと思惑通り軍事施設をそっくりそのまま手に入れたのである。 戦後はそのまま米海軍第七艦隊の基地となり、朝鮮、ベトナム、湾岸、アフガンに出撃、現在はイラク戦争の最大の補給基地になっている。 沖縄と佐世保の米軍基地がなければ、イラク戦争は遂行できなかったともいわれる。
    軍港のイメージが強い佐世保であるが、もともとは西海国立公園の九十九島を始め、市街地北部に連なる弓張岳、烏帽子岳など景勝地も多く、これに西海橋や、昨今では「ハウステンボス」などのテーマタウンも加わわって、観光都市としての色彩も十分である。

    さて、先へ進もう・・、直に国道と港に面した佐世保駅前で暫し港を見物して(軍港ではない)一部、西九州道を乗り継いで、例のハウステンボスへ向かってみた。 
    佐世保の南側の海域、陸域は,これまた複雑な地形になっている。 琵琶湖よりも小ぶりな「大村湾」だが、この海域は細い二つの瀬戸(幅の狭い海峡になっていて、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところ)で外洋に繋がっている。 西側の西海町を隔てている「針尾の瀬戸」と東側の「早岐瀬戸」(はいきのせと)である。 早岐瀬戸は、佐世保市早岐町付近を南北に通じているが、一見、川の様でもあるし、陸地を切り削って造った運河のようでもあるが、しかし、れっきとした海峡で海である。長さ12キロ、平均幅50mで、日本でも最も狭い海峡と言われ、現に東側の陸地は針尾島という島であることから。
    最狭部は早岐町の国道202号線に架かる、その名も「観潮橋」といい、僅かに10m足らずの幅で轟音を立てながら海水が流れているという。 おまけに、川べり、でなく海べりに「潮音荘」という旅館が在り、潮を観るのではなく、潮の音を聞く旅館というのが味噌(醤油、味の素)である。実は世界で最も狭い海峡として、小豆島の土淵海峡(どぶちかいきょう)がギネスに登録されているという。
    因みに、針尾の瀬戸は、日本三大潮流(阿波の水門:鳴門海峡、早靹ノ瀬戸:関門海峡)の一つである。 又、この大村湾の最奥部が諫早で、この地域は東側には例の干拓で物議のある有明湾に接してもいる。尚、諫早の干拓については後の記載いたします。
    この「早岐の瀬戸」の大村湾寄りの針尾島側に、オランダの街並みを再現した「ハウステンボス」が所在する。
    このヨーロピアン・タウンは、東京ドームの33個分という広大な敷地に17世紀のオランダの街並みが再現されたウォーターフロントリゾートである。 ハウステンボスとは、オランダ語で「森の家」という意味で、街には船が行き交う全長6kmの運河が走り、ホテルを主体に様々なアミューズメント・ミュージアム施設をはじめ、ショッピングやレストランも充実している。郵便局や銀行等生活する街としての機能も備えているという。
    変わったところでは高貴な「迎賓館」というオランダ王室等のVIP宿泊用に設けられたホテルもある。過去に宿泊した主なVIP は天皇・皇后両陛下(2002年11月、「全国豊かな海づくり大会臨席時」)ベアトリクス女王(オランダ女王)、秋篠宮文仁親王・紀子妃夫妻、有名人にはマイケル・ジャクソンなどもいる。

    西九州道よりR205へ、早岐瀬戸大橋を渡り(当日は、正直、この地が早岐瀬戸とは全く気ずかず、普通の川でと思って通過している)、案内板に従ってハウステンボス方面へ向かと、間もなく、緑の中に煌びやかな建物群が現れた。様子を伺いながら奥のほうのガラガラの駐車場へ車を置いて全貌を眺める。手前の水辺に回遊船であろうか、十数隻の船が、暇そうに係留されている、尤も、今日あたりはウィークデイの平日である。
    その向こう遠方にシンボルタワーの『ドムトールン』とかいう十字架が天を指す高層の建物が聳えている。 高さ105mのタワーは、敷地内のどこからでも見える“道しるべ”的存在であろうか。 それにしても平日のせいとはいえ、人の姿は殆ど見受けられない。
    この「ハウステンボス」は1992年3月25日にオープンし、建設などにかかった費用は総額2千数百億円といわれる。巨額の投資でオープンした、さしものテーマパークも、時勢というか不況の煽りで、2003年2月26日、遂に会社更生法を適用し事実上倒産した。負債総額は2289億円といわれる・・が、更生法適用後はスポンサー企業の申し出も殺到しているそうである。 総合保養地域整備法(リゾート法)の適用も受けているらしいが、ガンバレ・・!!「ハウステンボス」。

    西海パールライン、眺めのいい針尾の瀬戸の西海橋をわたり、国道202から更に国道206南下する。大村湾の西部、西彼半島の北部に位置する西彼町(せいひちょう)にやって来たところで、今度は赤レンガの洒落た洋風の建物群が現れた、こちらは「オランダ村」である。 ところが、ハウステンボスとは違って、ここは人気は全く感じられず静まり返っている。それもそのはず、当地は2001年に閉鎖していたのである。
    長崎オランダ村は、町役場職員の神近義邦氏によってバブル(泡、気泡、泡沫、転じて実体のない見せかけだけのものという意味)景気絶頂の時期の1983年に開園している。 彼は「長崎県にゆかりの深いオランダの街並みを、路面に敷かれたレンガ一つまで忠実にそっくりそのまま大村湾の入江に再現する」という大胆な意気込みで、国内旅行需要増加も手伝い長崎観光の新しい目玉にした。佐世保市のテーマーパークのハウステンボスのルーツとなった施設でもある。 だが、バブルの波が去った2001年には閉園し、現在も跡地利用のめどは立っていないといわれる。
    最終日の10月21日には、新聞報道によると6500人という入場者があったそうである。 乗り物や釣などもみんな無料で、土産屋は安売りなどもされていたが、ちょっと寂し気であった・・、と来場者は語っていた。その日は生憎の雨となり、オランダ村がなくなるのを惜しんでいるようでもあったという。

    西彼町は大瀬戸町、西海町、大島町(島部)、崎戸町(島部)の計5町は2005年4月に合併して、新しく西海市(さいかいし)が誕生している。

    次回から、いよいよ「長崎」に入ります。
    尚、『日本周遊紀行』について御感想をお待ちしてます。
    又、誤解や誤文が有りましたら御一報ください。
    メール orimasa2001@yahoo.co.jp  





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  • from: orimasaさん

    2008年12月25日 10時52分44秒

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    日本周遊紀行(117)対馬 「李承晩ライン」


    「李承晩ライン」・・・!!、若い人はご存知であろうか・・?、

    しかし、李承晩は「対馬、竹島は韓国のもの」と、更に主張を通すため実力行使に出た。
    李承晩ライン(りしょうばんライン)は、昭和27年(1952年)1月18日、韓国初代大統領の李承晩の海洋主権宣言に基づき設定した漁船立入禁止線で、韓国では「平和線」と呼んでいる。 海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で 行うことを禁止したものである。これに違反した漁船(主として日本国籍)は 韓国側による拿捕・臨検の対象となり、実際に銃撃される事件まで起こった。 国際法上の慣例を無視した措置として日本側は強く抗議したが、このラインの廃止は昭和40年(1965年)の「日韓漁業協定」の成立まで待たなくてはならなかった。
    協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えたという。

    今現在、韓国は李承晩ラインによって「竹島」を実効支配しているが・・?、
    壱岐、対馬の歴史的価値は、日本の稲作文明、鉄器文明の海上経由の地であり、中国、朝鮮の中継基地であった。 日本が開いた根源の地であったが、「通商多くして、尚、人民馴染めず」で過去から現在まで大方そのようで、昨今も中国、韓国とは領土的にもお互い一線をかし、政治的にも相容れないものがある。
    近隣の国同士とは、このようなものであろうか・・?、ここには国威意識があるようだが、日本は果たして・・??。


    再び、朱色の平戸大橋を渡り返して国道204を南下する。
    山間部を少々走ると道の駅「昆虫の里・たびら」(田平町)があった、こちらで小服をとる。 それにしても、敷地内入口にカブトムシの大きなモニュメントが、目立つように建っている。 季節になると多種な昆虫が生息し、あるいわ採取できるのであろうか・・?。確かに、周辺は低山地帯に囲まれた田園、里山の風情があり、日本の田舎原風景を呈している。豊かな緑に囲まれた環境には、多くの甲殻昆虫が生息し、淡水の魚類も多そうではある。 赤い屋根のログハウス風の建物の情報によると、この近くにはやはりというか・・「たびら昆虫館」とやらがあって、館といっても自然のままの畑や小川、池、雑木林、草原を再現し、そこに集まる昆虫などの生物を観察する施設であるという。 子供達に人気のカブト虫やクワガタ、蝶やトンボなどの昆虫が沢山生息しており、案内の係員が丁寧に説明してくれるので楽しく学べるという。
    今、休憩しながら、今夜の宿を確保するために地図を広げている。 長崎県というのは複雑な地形をしているのに、今更ながら驚いた。中心に大村湾という大きな海域を有していて、沿岸にそって一筆書きのような行程を進めると、どうも具合が悪いようである。 沿岸地方の地域を周回気味に進行して小生ではあるが、ここ長崎に到っては要地、要所を選択しながら行くしかないようである。 ともあれ、今夜の宿は雲仙の温泉地・小浜温泉にどうやら決められたので一安心である、そこを目標に進むとする。

    国道204は相変わらず山中をひた走る、同じように鉄道が並んでいる。 江迎町、佐々町と丘陵地に囲まれた田園地帯を行く、田舎とはいえ道は良く整備され、山中ではあるが上下動、左右の屈曲は殆ど無く、目に優しい青葉の緑を満喫しながらの快適なドライブである。
    丘陵地の山肌には、濃い緑色の葉をもつ「枇杷」の木が目立つ、 西九州は枇杷の産地か・・?、果実に害虫除けであろう白い袋が被せてあるのも有る。今が成熟期であろうか、細長い葉の間に橙色の枇杷の実が点々と繁っていて、山肌全体に濃い緑と橙色と白色の配色が実に奇麗である。
    枇杷の木は中国が原産で、江戸期に長崎に入ってきたらしい。樹木は 10メートルぐらいになるそうだが、栽培用としては、他の果物と同様に、収穫しやすい高さに手入れをされている。 国内の主な生産地は長崎の「茂木枇杷」(長崎市の南地区)だそうで、やはりこの辺りが移入原産になるのかもしれない・・?。 他に、千葉県以南の「富浦町の枇杷」、四国「伊予市の唐川」などが主要産地らしい。
    枇杷の実は種が大きいのが、やや難点だが、熟したものは皮がスルスルと剥け、実はチュルチュルと甘く美味しい、小生の好みの果実の一品である。 又、枇杷の葉は「茶」として「枇杷葉湯」と呼ばれ、サポニン、アミグダリン、ビタミンB17、タンニン等を含み、美容、健康によいと言われている。

    次回は、佐世保です・・、



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  • from: orimasaさん

    2008年12月25日 10時52分11秒

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    日本周遊紀行(116)壱岐・対馬 「大陸文明中継地」


    壱岐、対馬は日本の弥生文化を広めた中継基地であった・・、

    平戸は平戸島で、架橋で渡れる九州本土とは接近している島であり、近代日本の先駆けの島であった。一方、同じ長崎県に属するが本土から20kmも離れた「壱岐」が在り、更に130kmも離れて対馬列島が浮かぶ。 何れの島も歴史的には「古事記」にも記載されるような興味深い所などで、序ながら両島のことについて少々述べたい。

    壱岐、対馬は日本海・玄界灘に浮かぶ島で、今は壱岐市、対馬市となり長崎県の行政区分である。古事記の冒頭に国生みの話が出てくる、「次に壱岐を生み、次に対馬を生みき・・」とあり、神代の時代から認識されていたらしい。
    日本の農耕稲作文化を弥生式文化といい、この時期に日本の国、国名である「倭国」が出来ている。倭国という国名は、中国(三国時代・魏、蜀、呉の時代)が付けたのか、日本人が付けたのか詳細は不明であるが、中国人が日本人を呼ぶときに「倭人」と呼んでいて、倭人の国だから倭国と称していたことは当時の「魏志倭人伝」にも記されている。
    日本では、その後「倭」は「和」に通じ、やがて「大和の国」を成立させている。 この時期に朝鮮半島から鉄器が到来して、鉄器時代を迎え、国土が出来上がる。 以前の土・石の時代を「縄文文化時代」と称したのに対し、鉄器の来入、鉄器の時代を一般に「弥生式文化」と呼んでいる。 「魏志倭人伝」の中には、鉄が日本に伝わる状況が詳しく記されているという。
    この時期の鉄というのは、鉄の原材料である砂鉄、もしくは鉄を荒加工したものと言われる。

    壱岐、対馬は日本の弥生文化を広めた中継基地であった。 
    ただ、壱岐と対馬は地形的に全く異なるという、壱岐は平地多くして水が豊富であるが、一方、対馬は「土地は山険しく、深い森が多く、良田無し」とまで魏志倭人伝にも記されている。 壱岐からは、往時の鉄器と思われる多数の遺跡が発掘されている、対馬にはそれが無い。 地理的に見ると対馬のほうが朝鮮に極めて近く、尚且つ、国土も広いが、地形がそれを拒んだと見るべきであろう。 壱岐の農耕文化に対し、対馬は「良田無く、海物を食って自活せり・・」とも魏志倭人伝が言っている通り海洋漁民文化であり、長崎沖の日本海に浮かぶ同じ島国でありながら、全く異なる相違性を示しているのは面白い。 
    因みに、長崎県自体丘陵、山域の地で平野が少ない。同様に長崎市にいたっても三方を山に囲まれ、市街自体も坂の町である。干拓で有名な諫早地域が最も広い平地を持つともいう。壱岐は島としては珍らしく、島全体が諫早に次ぐ平地を抱えて農地化されているという。

    中国では6〜7世紀、三国時代から隋、唐へと移り、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の時代であった。新興国・唐は領土拡大・覇権のために他民族の諸国を侵略し出した。朝鮮半島にも進出しようとしたが、高句麗や百済が抵抗して簡単には行かず、そのため唐は新羅と同盟した。その連合軍の攻撃によって百済は攻め滅ぼされたのである。
    百済は当時親交のあった倭国(日本)へ救済を求め、倭国・日本は同意して朝鮮へ上陸し、連合して戦った。(白村江・はくすきにえの戦い)しかし、百済・日本連合軍は水上決戦で唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされた。
    そして唐・新羅の本土侵攻に脅威を感じた日本は、対馬・壱岐及び筑紫に防人(さきもり)と烽(のろし)を置いた。
    対馬は元より「自給自足」の出来ない国であり、古来、歴史を通して本土や朝鮮から食料を仰ぐことが重要な要素になっていた(今の日本に似ている・・?)。 下って8世紀頃、九州統括の「大宰府」は対馬に食料を送る官船を出していた。これは、防人という余人が多数やって来たので、当然食糧難になり「対馬、食料船」を用意したのである。
    鎌倉期になって元寇の博多攻めの時、蒙古の一部船団が対馬へ寄港した。 前もって幕府より蒙古襲来の危機の通報を受けていた対馬では、地頭職・守備団を結成し、僅か100名足らずで待機していたが、千人余の蒙古将兵によって瞬時に壊滅された。 元より蒙古軍は一時停泊で、休息後は博多へ向かうはずだったらしいが、武士団は当時の世の習いに従って、少数ながら敵陣に突っ込み、武士の一分を果たしたまでであったというが・・。

    江戸期、「対馬」は華やいだ・・、
    江戸時代になって、幕府が対馬に藩を置き城下を造り、この地に朝鮮外交の事務局を置いたのである。 将軍が交代するたびに鎖国下においても、朝鮮通信士(数百人にものぼる朝鮮外交団)がこの対馬を経由して、はるばる江戸を往来したという。この時期、沿道、諸国、日本はある種の朝鮮ブームだったと言われる。
    明治期の近代においては、ロシア、イギリスによる対馬への接近に脅威を感じた日本政府は、軍を配置し国境最前線である対馬島の要塞化を図った。 国境線に近い海岸線の各地域に砲台が築かれ、昭和前期には対馬海峡全体を防衛できるほど整備された。 特に豊砲台には、軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40cm連装砲塔が、又、竜ノ崎砲台には戦艦「摂津」の30cm連装砲塔が設置された。豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。

    終戦後の昭和23年頃のある時期、韓国・李承晩大統領が「対馬は韓国の領土だ・・!」と言い放った。 当時の日本は米国の占領下にあったから、日本の領土に関することは米国・国務省に持ち込むのが筋であったが、しかも、日本に辛苦を嘗めさせられた代償に、対馬をよこせ・・、と言うならまだしも我が領土だ・・!と言い放ったのは拙かった。 
    昨今公開された国務省機密文書によると、大統領の意を組んだ韓国の駐米大使がダレス長官に会い、対馬の領有を主張した・・とある。(日本が敗戦で苦悩している最中の、ドサクサまぎれに・・!) 
    古来、朝鮮・韓国が領土の件で、外交問題化したのは稀有だという。 この申し入れに対してダレス長官は「対馬は極めて長期間にわたり日本の領土である」とキッパリ言って、この件を一蹴させている。

    続きは、次回へ・・、



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  • from: orimasaさん

    2008年12月25日 10時51分00秒

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    日本周遊紀行(115)平戸 「開国の島」



    写真:平戸湾に浮かぶ・・?「平戸城」(下部に無粋な建物が無ければ・・、)

    平戸は、近世日本の先駆けであった・・、

    並行していた松浦鉄道も平戸に渡ることはなく、Uターン気味に佐世保方面に向かっている。ここには鄙びた「田平平戸口駅」があり、ここは日本最西端の駅(現在は本土最西端、2003年に沖縄都市モノレール線が開業し那覇空港駅が日本最西端である)としても知られるようで、駅前には記念碑も立っている。
    こちらは、平戸市内へ向う・・、 
    平戸瀬戸と呼ばれる海峡に架かる「平戸大橋」を渡る。鮮やかな朱色のつり橋で通行料は片道100円とあるが、高いのか安いのか、必要ないのか・・?、地元の人の往来にその都度200円はやはり負担だろうな、などと変に気を回したりして。 
    橋から見る景色は実にいい、ゆっくり走って景色を楽しむ。橋を渡りきってすぐに、平戸側の左手に広い駐車場の公園があり、一息入れながら大橋の展望を楽しむ、天気も良く、遠くの島々もよく見える。 九州本島とつながっているのはここ平戸大橋だけで、平戸自体は島であることが何となく実感できる。
    平戸市街はここより少々北に行った地点にあった。 海へ迫り出した小高い丘の上に「平戸城」の勇姿が見えた。車を寄せて本丸入り口を覗いたが、入場料500円もさることながら、中学生の騒々しい団体に遭遇したため、記念写真を撮ってそのまま引き返した。
    平戸市街、港は平戸の瀬戸から更に深い入り江をなしていて、この入り江の南側から平戸湾越しに見る「平戸城」が実にいい、初めて見る者にとっては足を止め、車を止めて暫し見上げ、見惚れるのは必定であろう。 湾と入江に浮かび上がる緑に囲まれた城郭は一見、唐津城に周辺様相が似ているが、本丸はこちらがやや小ぶりであろうか。 それでも、三重の本丸天守閣に鯱(しゃちほこ)が対で載ってる姿がいい、左へ離れて二の丸が控え、二つの城郭の対比が素晴しい。左端海上には真っ赤な「平戸大橋」も小さく望める。
    しかしである・・、この素晴らしい情景の麓に、巨大なコンクリートの建物が大きく横たわっている。県の施設らしいがこの美景を台無しにしているのである。 お役人というのは無粋な事、アホなことを平気でするもんだと、つくずく思った。

    平戸城は松浦党の子孫、松浦鎮信(しげのぶ)が朝鮮出兵から帰還し、慶長4年(1599年)に築城するのだが嫡子・久信の急死のせいか、幕府への政治的な配慮か、完成を待たず自ら焼き捨てるという異行を行ってしまう。 その後、百年余りにわたって城が築かれることはなかったが、江戸中期の元禄15年、沿岸警備の必要性もあって幕府に築城を願い出、特別に許可され再度この地に城を築いたという。 築城縄張りは山鹿素行によるものといい、素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者で、忠臣蔵で大石内蔵助が討ち入りの際に打った「一打ち、二打ち、三流れ、これぞ山鹿流の陣太鼓!」は有名である。 素行は、陸奥国会津若松で生れ、林羅山の門人となり朱子学を学び、甲州流軍学を修得、赤穂藩主浅野長直に禄高一千石で仕えた。 忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、幕末の吉田松陰も山鹿流を学んでいる。

    東シナ海の風に吹かれ、潮に流されて行き着く所、ここが日本本土に一番近い平戸であり、海風に乗って色んな物がこの地へ流れ着いた。
    平戸は、戦国初期から江戸初期までの凡そ100年間、海外と接触していたとされる。
    城を築いた松浦鎮信の父・隆信(たかのぶ:1529〜1599年)は大名でありながら、交易家としての誉れが高い。海人・松浦氏は倭寇と呼ばれ、元来、海賊行為をしていたが、やがては中国、朝鮮と事実上の交易を始める。 隆信はこれに飽き足らず、当時、欧州では「大航海時代」に入りつつ有ったのもきっかけにして、欧州・ポルトガルを招き寄せる。その後、オランダ、スペインといった国とも通商をはじめるのである。所謂、南蛮貿易を開始して、鉄砲や大砲といった飛び道具を日本で初めて購入し、欧州特有の異国文化をも導入するきっかけを創った。しかも、平戸城下に彼等を住まわせるなどして、貿易による巨万の富を築き上げ、その財力を背景にして松浦半島を制圧したとも云われる。 松浦隆信は戦国大名への躍進と近世への存続の安泰を確実なものとした名君であった。平戸市・松浦史料博物館前には彼の銅像も建つ。

    平戸は海外貿易をきっかけに、長崎をはじめ天草、五島などと共にキリシタンの島としても知られる。当時、日本唯一の国際貿易港として繁栄を極め、日本でいちはやくフランシスコ・ザビエルによりキリスト教の布教が始まったのも平戸からであった。
    島内には、長い歴史を誇る当時の史跡が数多く残り、歴史的建造物や異国情緒を漂わせた町並みが残っている。中でも紐差教会(ひもさし きょうかい:国内で2番目大きい教会、最大は長崎・浦上天主堂)、宝亀(ほうき)教会(ユネスコの世界遺産〈文化遺産〉暫定リスト「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の1つ、県有形重文)、聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂(平戸教会)、田平天主堂(「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産暫定リスト、国指定重要文化財)等、平戸市内各所には多くの美しい教会・天主堂が存在する。
    又、平戸オランダ商館は、オランダ東インド会社が平戸の崎方地区に設置した日本で最初の外国商館である。(後に、長崎・出島へ移転)この商館を通じて日本で初めて、いろんな物が移入してきた。 主なものは・・、
    【タバコ】 1601年、タバコの種子が初めて平戸に上陸し、このとき藩主・松浦鎮信に贈られ、種子などを徳川家康に献上している。
    【ペンキ】 1609年、オランダ商館が建てられた時、その外観を彩ったのが、日本で最初に使われたペンキであり、住民は一種のカルチャーショックを受けた。
    【甘藷(さつまいも)】 1615年、ウィリアム・アダムズ(※)が琉球から伝える、初めて甘藷の栽培を行う。
    【ビール】 1613年、英国船「グローブ号」が平戸に来航した時、日本へ初のビールが伝来と言われている。
    【西洋医学】 航海船が西洋医学を日本にもたらされた。その医学を学んだ嵐山甫庵(あらしやまほあん)は、平戸判田(はんだ)家の出身で、西洋医学(蘭学)の先駆者として知らる。
    【日本禅宗とお茶】 臨済宗の祖・栄西(えいさい)は、渡「宋」の帰途、平戸に数カ月滞在し、禅宗を広め、また、中国で入手したお茶の種子を蒔き、製茶や喫茶の方法を日本に伝える・
    等々、平戸は日本の先駆けであった。
    (※)ウィリアム・アダムズはオランダの貿易会社東洋派遣隊の航海士で、後に徳川家康に召し抱えられ、幕府の外交顧問となる。和名「三浦按針(みうらあんじん)」は余りにも有名で、平戸オランダ商館の設置と通商における中心人物の一人であった。 三浦の姓は家康が三浦半島の一部を与えたことから、その名が付いた。

    次回は、壱岐、対馬について



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    2008年12月24日 11時08分45秒

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    日本周遊紀行(114)松浦 「渡辺綱」


    先に、松浦党について述べたが、再び「松浦」について・・、

    瀬戸町から伊万里大橋を渡って対岸の鳴石地区へ渡る。 
    鋭いV状の湾が途中で対岸と最も接近している場所では指呼の間である。しかし、V先端の河口市街までは未だ相当の距離を残している。 従って、松浦市方面や平戸方面に行くには伊万里市街地を通り、かなりの大回りコースを余儀なくされた。だが、幸いに平成15年、山代町と黒川町を繋ぐ延長約3kmの伊万里港臨港道路、つまり伊万里大橋が完成した。この大橋の完成により15キロ約40分ほどの時間短縮になるという。
    先ほどまで松浦半島の西を走行していた時は、入り組んだ道路で余り展望は望めなかったが、こちら湾の西側来て伊万里湾の深い入江に面した穏やかな海が望め、湾内には大小の島々が浮かぶ風光が垣間見える。
    すぐ横を松浦鉄道が走る。 国鉄時代、炭鉱があった頃は急行が走るほどの大盛況だったそうだが、その後の合理化のあおりで第三セクター鉄道「松浦鉄道㈱」になり再スタートを切ったようである。 赤と青の線を施した白の車体の汽動車(ジーゼルカー・・?)が海岸沿いを、ゆったりと走る姿はいい眺めである。 最近は、列車本数も大幅に増やし、新しく作られた駅は、国鉄時代より2倍にも増え、利便性は大幅にアップした。 その結果利用客も増え、最近では黒字経営になっているという。全国的にも珍しい成功例であろう。

    やがて伊万里湾が離れる辺り、長崎県に到ったようである、松浦市である。 
    「今福」の港を過ぎ、平尾の岬あたりへ来ると一段と伊万里湾・外浦のパノラマ絶景、入り組んだ島々の明媚な風光が、目に眩いほどの鮮やかさで飛び込んでくる。風評だが、弘法大師があまりの美しさに筆を投げたと伝えられているのも大いに納得である。そして、ここは正真の「松浦」である。 古来、この湾に海人・水軍、松浦党が発祥し発展したのも頷ける。 この松浦の海岸を抜けてR204の唐津街道(平戸街道)は、平戸へ向っている。
    松浦海岸の大火力発電所を見送ると、すぐ「御厨」という小さな港があった。この鄙びた田舎に「御厨」(みくりや)という地名、地域名は以外だった。 御厨とは、狭義には神饌(しんせん・神えのお供え物を調進する屋舎。御台所)、広義には古代・中世、皇室の供御や神社の神饌の料を献納した皇室・神社所属の領地のことで、古代末には、その荘園の一種とされていた。 
    当地の「御厨」は、古代・平安期の頃は宇野御厨と称して伊勢・皇大神宮の官領であったらしく、伊勢神宮に海産類などを御供していたとされる。「和名抄」(平安中期に編纂された百科事典に相当)には荘園として、先に述べた「東松浦」は松浦荘、西南北松浦は「宇野御厨荘」と記され、この宇野御厨は神社、朝廷に魚貝類を献上していたと記されている。
    平安末期、御厨の住民は源平合戦で平家に味方した者が多かったが、当地が皇大神宮に属し、敬虔な生業(なりわい)をしていたということで、領地没収にはならなかったといわれる。

    松浦党の発祥については先に記したが平安中期の990年頃、摂津・渡辺の庄にあった源頼光が肥前守に任ぜられ、渡辺綱(わたなべのつな:平安中期の武将。源氏の一族で本名は源綱。坂田公時、平貞道、卜部季武とならんで源頼光の四天王と称された:大江山の酒呑童子退治で有名)を同伴して松浦郡に下向したからと云われる。
    任期を終えて帰洛したが、綱はこの間に男子・子供をもうける。又、後に渡辺綱の孫に当る松浦 久が「宇野御厨」の検校(けんぎょう:荘、社寺の総務を監督する役)となって「今福」に着任している。 これらが松浦市の北部沿岸に松浦家・松浦党が発祥した直接的な事由であり、祖先が肥前国と関係をもった最初でもあるという。

    渡辺氏は、摂津国の渡辺津(大阪市中央区)を本拠地とする渡辺党と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与し、瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に皇室領の大江御厨(摂津の御厨)をも統轄していた。 彼らは摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)を拠点に、海運、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したとされる。肥前国の松浦氏もその庶氏の一人で、松浦党をはじめ山代氏に連なる松浦氏族を輩出している。
    尚、綱は「源満仲」(清和源氏の祖、源氏の祖)の子・頼光に仕えて四天王の一人と称せられたが、この綱の子が摂津・渡辺党となってこの地に展開した。 渡辺氏は元々は嵯峨源氏(嵯峨天皇の一族、嵯峨源氏)の一党で、その一人源綱(みなもとの・つな)が、清和源氏の源満仲の娘婿の養子となり、母方の里の摂津国渡辺(現・大阪市中央区)に住み、同地を本拠地として渡辺綱(渡辺源氏)と名のり渡辺氏の祖となったと云われている。その兄弟達は、名乗りが一字であることが特徴的で、綱の子達から多くの諸流渡辺氏が生まれた。九州の水軍・松浦党の祖の松浦久(渡辺久、源久、渡辺綱の孫)もまた渡辺氏の出である。
    尚、源 満仲(みなもと の みつなか、清和源氏3代目)は平安中期の武将で、清和源氏・六孫王経基(清和源氏2代目、清和天皇の第6皇子の子、皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされる)の子で、「多田」を号したことから多田 満仲(ただ の みつなか)とも呼ばれる。その子達が各地へ散って、その地の源氏の名を起こす。長子の源頼光は摂津源氏、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏のそれぞれの祖となっている。 
    又、清和天皇を祖とする清和源氏は、主に源 満仲から武家源氏の道を歩んだとされ、その代表に河内源氏の源頼朝がいる。

    次回は「平戸」へ渡ります。



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    2008年12月24日 11時08分19秒

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    日本周遊紀行(113)伊万里 「伊万里焼」


    伊万里焼は、朝鮮から連れ帰った陶工から始まったという・・、

    国道204号を南下する。南下といっても湾岸は複雑に入り組んでいて、道路もそれに合わせて振り回されるように西に東に移動しながらの走行である。
    地図上で、右手が伊万里湾のはずであるが、なかなかそれらしい姿は見えてこない。伊万里湾は、東松浦と長崎を含む北松浦の両岸が大きく南へV状に入り込んだ深い浦を成している。 そのV状の上部は大小の島々や、出張った岬で覆っているし、南端の江の部分は、伊万里川、有田川の大きな河川が流れ込んでいる。 したがって、この浦・湾は風波に影響されることなく静かで、最奥部は汽水状態を呈している。
    この条件の中、伊万里湾は日本最大のカブトガニの繁殖地となっていというのも頷ける。 伊万里市木須町の多々良海岸は、「カブトガニの産卵を見れる」地として有名であり、産卵期の夏の大潮の満潮の頃は砂浜にあがって雌が砂を堀り数100個の卵を生む、雄はそれに砂をかけてやるという。
    伊万里湾は、その他にも色々な顔を持つ。 江戸時代の記録には、冬になるとイルカの群れが押し寄せ、湾に臨む小高い丘には三百頭以上のイルカが揚がったという記念碑も残る。

    昭和初期石炭産業が華やかだったころ、伊万里市山代町と東山代町には五つの大きな炭鉱が集中していた。久原駅からは何両も連なる貨車が、伊万里湾沿いの桟橋からは機帆船(発動機・エンジン付き帆船の略)が沖合で待つ大型船へ向かって「黒いダイヤ」を積み出した。 合わせて、軍国風潮の頃は、軍港は南側の入り江である長崎・佐世保に決まったが、伊万里一帯は昭和15年から軍関係の輸送基地となり、20数棟の施設が並んでいたという。 施設は、食糧や弾薬の戦地への供給基地であり、鉄道や船で運び込まれた物資は、夕暮れに乗じて輸送船団が静かに湾の沖へ移動、護衛艦を伴い戦地に向かったという。 浦ノ崎には今も、爆薬を乗せ敵艦に体当たりする「人間魚雷」を造った造船所の廃虚が横たわる。

    しかし何といっても伊万里は焼き物であろう、伊万里の南隣りに有田町があり、日本の伝統工芸品の一つ、有田焼の産地として知られている。(2006年3月1日、西有田町と有田町が対等合併し、新町制による有田町が発足する)。 
    有田、伊万里で焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里焼」と呼ばれていた。 現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。 「有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もあるという。
    有田焼の祖とされる韓国人・李参平(イ・サムピョン、)は、1616年頃に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに焼窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、李参平が日本磁器の祖であるといわれる。
    肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まったと言われ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本本国へと連れ帰ったといわれる。 日本ではじめて磁器が生まれたのは、江戸時代初頭、現在の佐賀県有田町であった。 この日本で唯一の磁器生産地を持った鍋島藩は有田の優秀な陶工を集めて藩直営の窯を築き、御用窯として城内の調度品、また献上、贈答用の磁器を焼かせた。 1675年頃になって、藩窯は山深い伊万里市「大川内山」に移り、技術の流出を防ぐため窯元を厳しい管理下に置いた。鍋島藩では大川内山の麓に関所まで設けて、人々の出入りをチェックしたという。
    当時、大川内山で焼かれたものは「鍋島物」と呼ばれ、日本国内向けに幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた。特に献上品は格調が高く、風格があるといわれた最高級品であったという。 
    有田・伊万里・波佐見周辺で作られた焼きものは、船に乗って有田川・伊万里川を下り、伊万里港から国内外に輸出された。 現在の鍋島焼と言われるものの殆どは、この大川内山で焼かれたものであり、現在も大川内山には30数軒ほどの窯元がある。又、周辺には、江戸期の関所跡や朝鮮から陶工が来て焼物をつくっていた証とされる高麗人の墓や無名の陶工たちの無縁塔等がある。 

    次回は、再び「松浦」について・・、



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  • from: orimasaさん

    2008年12月23日 10時38分54秒

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    日本周遊紀行(112)呼子 「名護屋」


    秀吉の行った半島進出は朝鮮の出兵か、侵略か、征伐か・・?

    名護屋湾が深く入り組んでいる。その途中の大橋を渡ると鎮西の「名護屋」である。 
    秀吉が晩年、執念をもって外夷に走った有名処であり、方々各所に秀吉直臣だった福島、堀、黒田の各氏、又、徳川、上杉といった大大名の名も連ねる陣屋跡である。
    名護屋城は今から400年程前、全国平定をなしとげた豊臣秀吉がさらに朝鮮半島、明国(今の中国)へ向けて出兵(文禄、慶長の役)するため、その前進根拠地として築かせた城郭である。城郭は元々松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であったところで垣副城と称していた。その跡に秀吉が大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりに築城したものである。
    天正19年(1591年)8月に起工、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、九州の諸大名を中心に総動員し、突貫工事で挙行、僅か八ヶ月後の文禄元年(1592年)には完成したという。 規模は、当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであったらしく、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に五重七階の天守が築かれた。 城跡からは、金箔を施した瓦が出土しており、派手好きの秀吉らしく戦争の為に構えた城郭であっても絢爛豪華であったことが伺える。 城郭の周辺には各大名の陣屋が配置され、最近、秀吉の茶室跡等が見つかったと話題を呼んだ。

    朝鮮の役は、豊臣秀吉が1592(文禄1)〜93年,1597(慶長2)〜98年の2度にわたって朝鮮を侵略した戦争である。
    全国を統一した秀吉は、国内の支配体制をさらに強化し、領土を広げようとして明(中国)の征服を画策し、朝鮮側(李氏朝鮮)に道案内を求めた。 しかし朝鮮が断ったので二度にわたって16万人ともいえる兵団を朝鮮へ向かわせた。 はじめ,朝鮮の都・ソウルを陥落させ北方まで進んだが,後に明・朝鮮の連合軍に苦戦したが、1598年、秀吉の病死によって終戦となり兵を引きあげた。
    この戦は近年になって物議をかもし、「朝鮮出兵」と呼ばれることが多いが、朝鮮側が受けた被害に関心をもつ立場などからは「朝鮮侵略」と呼ぶこともある。これに対し日本側の立場からは朝鮮征伐と呼ばれる場合もあるとか。 豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、明の征服をも目指していたことから唐入り、唐の御陣、また高麗陣、朝鮮の陣などと呼ばれたこともあるとか・・。 又、近年の教科書には、当事国の意を汲んで朝鮮侵略と表記されていることが多いという。
    現在、これら陣屋跡の発掘が進んでいるようである。
    中でも有力大名であった前田利家が置いたとされる陣屋の発掘調査がこのほど終了したといい、調査では利家の大規模な邸宅跡も確認されている。又、昨今、名護屋城跡の周辺では、全国から終結した徳川家康ら有力武将の陣屋が、約130箇所程確認されていると言う。

    名護屋は、昔は名護屋村と称していたが、今は鎮西町の行政区のようである。 鎮西(ちんぜい)と聞くと、高校野球の鎮西高校、鎮西学院など熊本を連想するし、それに鎮西といったら九州のイメージになるが。
    奈良期、大宰府を改称して設けられた九州統督の役所を鎮西府とした。 平安期、身内の諍い(いさかい)で九州へ追放となった源 為朝(ためとも:頼朝の叔父)は、九州を制圧したことから「鎮西八郎為朝」と名乗って、その威風を都にまでとどろかせた。 又、鎌倉期、1185年、源頼朝が家臣を九州地方に派遣して、平家残党や逃亡中の義経の監視及び元平家の九州御家人を統制さする所謂、「鎮西奉行」、「鎮西探題」を設置した(鎮西守護)。
    元来、「鎮西」とは、九州の地を鎮めるという形容的意味合いで呼ばれたものであって、地域の固有名ではなかった。地方の小さな行政名が、故あっての事とは思うが、「鎮西」としたのは些か名前負けはしないだろうか・・?、 尤も、鎮西町は呼子町など八市町村が合併し、2005年1月1日に新「唐津市」となってる。 従って、九州地区の自治体名で「鎮西」というのは現存していないらしい。

    次回は、伊万里の伊万里焼



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  • from: orimasaさん

    2008年12月23日 10時37分58秒

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    日本周遊紀行(111)松浦半島 「松浦党」


    邪馬台国の時代、この辺りを「末羅国」(まつらのくに・松浦の国)と言った・・、

    唐津湾の西側を玄界灘に向かって突き出ているのが、松浦半島(東松浦半島)である。 この最先端に「呼子」といういう港がある。 海辺は深く入れ込んで江を造り、浦の両側には山が迫っている。正面には加部島(かべしま)があり、この大きな島が、外洋の風波を避けるために衝立のように港口をふさいでいる。 こちらの港町も、壱岐、対馬伝いに大陸に向かう古代の交通の要衝だったという。 江戸期には、廻船が行き交う港町として栄えたところであり、今は入り組んだ入江に大きな照明灯を付けたイカ釣り船が並び、漁港としての朝市も盛んだという。 呼子大橋を渡ると加部島、江戸期には捕鯨も行われたところでもある。
     
    又、北九州のこの辺りは、往年、「松浦党」なる海人、水軍の割拠した地域であった。
    松浦氏、松浦党という名称の由来は、歴史上に登場する松浦の地名から生じたことは疑わない。 現在の地域区分は、長崎・佐賀両県にまたがる東西両松浦郡、及び南北両松浦郡で、ご丁寧に東西南北の松浦郡が存在する。地名称も松浦半島、松浦市、松浦川などに見られる。
    歴史的に見てみると松浦とされていた地理的範囲はかなり広域だったようで、東西両松浦郡を上松浦、南北両松浦郡を下松浦と呼ぶこともあるらしく、広域には壱岐や五島列島の方まで達していたとされる。
    「松浦」の呼称は、「まつうら」が一般的であるが、往年の長い間、「まつら」と呼ばれていたようである。 古代「魏志倭人伝」(中国の魏の史書、日本古代史、弥生期に関する事が納められた最古の史料)には日本を「邪馬台国」(やまたいこく)と称し、この辺りの地方を「末羅国」(まつらのくに)と記されている。
    松浦氏は、平安中期の11世紀頃、摂津国(現在の大阪府)渡辺庄の渡辺氏が、肥前国松浦郡の今福(現在の松浦市今福町)に下向し、この地の統治者となって松浦と称した・・、という見方が一般的とされる。一方、東北の陸奥の戦乱(前九年、後三年の役)で滅ぼされた安陪氏の支族が福岡・宗像の大島辺りに流されて、それが松浦党の前身であるとの説もある。 
    いずれにしても松浦党は海や船のことに関しての知識や技術はかなり発達し、地域、地形的にも海人たちの絶好の住処であったため、松浦党は日本水軍の創始者とも言われている。
    松浦党は、平安期は平家の家人となっていたが、日本の歴史上一つの山場となった源平合戦の時は、平氏側として水上戦においてはかなり源氏を苦しめたとされている、しかし壇ノ浦の戦いでは源氏側に寝返ったとも言われている。 その後、鎌倉幕府が成立し鎌倉時代となるわけだが、本来なら、源氏と敵対していたわけだから、処罰を受けてしかるべきなのに、逆に、領土の安堵が成されている。これは源氏側への寝返りの結果こうなったのか、あるいは松浦党が大多数の集合体(武士団の連合・水軍)であったために、統治者・惣領(中心となる人物、又は、領主)がいないため、責任を誰に押し付ければよいのか幕府側も判らなかった為ともされている。
    ただ、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に付与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり「地頭」となるが、源頼朝は元平家家人の九州の豪族への信頼は薄く、九州の抑えとして島津氏、大友氏を守護として九州に送ったのである。その結果松浦氏は、同じ環境の秋月氏(平家の家人だったが、壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に付いた)などと同じく、これらの新参の東国御家人の所謂、「下り衆」と言われるの統治者の傘下に置かれることになる。
    鎌倉中期に、「元」の国から二度にわたる襲来を受けた「元寇」の時も、松浦党は最前線の防衛の役割を担い、そのせいで一部では多大な損害を受けた。 後に鎌倉幕府に恩賞を求めたりしたが、これも全体の統治者が不確定のためか・・?、幕府側の対応は厳しく、松浦党側としては不納得であった。
    これらが要因かどうかは疑問もあるが、松浦党の武士たちは朝鮮半島や中国沿岸で海賊的な行為をするようになる所謂、「倭寇」として怖れられることになる。だが後には、対朝鮮との正式な貿易が以前にも増して大きく展開し、国の発展の基となる。
    そして日本は戦国時代を迎え、豊臣秀吉が天下統一を達成した後、それだけでは飽きたらず周りの反対を押し切って、二度にわたる朝鮮出兵を断行する。この朝鮮出兵に関しても、松浦党は朝鮮本土まで渡り、激しい戦いを繰りひろげたとされていて、ここでも、一族の多数の者が戦死したとされている。
    これにより連合的武士団の松浦党もいくつかに統合され、平戸藩主となった松浦氏(初代藩主・隆信)が、その後中心となって江戸初期(平戸藩6万3千国石)から現在に至っているという。
    尚、松浦氏、松浦党に関しては、後ほど更に述べる予定です。

    その朝鮮出兵の拠点が松浦の地元・「呼子の名護屋」であった、これは次回へ・・、


     

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    2008年12月22日 11時06分59秒

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    日本周遊紀行(110)唐津 「虹ノ松原・唐津城」



    写真:虹ノ松原と名城・「唐津城」


    「虹ノ松原一揆」の円満解決は、唐津藩主・水野氏の英断によるもの・・、

    昨日というか、昨夜というか・・、癒しの温泉、上質の食事に美酒、素敵な和室の泊まりで、尚且つ前の晩の寝不足も手伝って行動記録を執筆中に寝込んでしまったようだ。今朝は、たっぷり睡眠を取ったせいか気持ちよく、スッキリと目覚めた。時計の針は間もなく6時を指そうとしている。本日も連日と同様、好天気のようなので先ずは朝の散策ウオークと決める。
    虹ノ松原は、それにしても圧倒的な松林であり、殆どが黒松のようである。太い幹は地面スレスレに変形、曲がりくねったものも有るし、それがかえって奇妙な雅趣と風情を演出している。冬季に起きる強烈な海風の影響で樹枝は屈曲を成しているという。樹齢数百年を越える老木から幼木にいたるまで約100万本を数え,松原内を通る国道202号は、さながら緑のトンネルの様相を呈し、特異な雰囲気をだしている。
    この景勝の地は、1771年に「虹ノ松原一揆」の舞台ともなった所であり、松原のほぼ中央「海濱館」の片隅に平原村の大庄屋・冨田才治の顕彰碑が昨年(2004年)、子孫たちや関係者によって建てられたという。

    事件は三河の岡崎から唐津藩へ転封してきた「水野氏」が発端となった。 水野氏は財政改革として、税の増収対策を講じた。しかし、領民は明和年間の凶作も重なって不満が一挙に高じ、一揆へと発展するのである。 虹ノ松原に2万5千人の農・漁民を集結させ、指導者・冨田才治数名が城内で直談判すること数回、農漁民と藩との静かな睨み合いが続いた。一揆は府内への進軍はなく、虹ノ松原に座して動かず、抑制の効いた無抵抗運動であり、遂に唐津藩は税制改正の全面撤回という譲歩を行なったという。
    通常の一揆は大方、流血の騒動になるのだが、一滴の血も流すことなく成功に導いたのは極めて稀有であり、又、農漁民の動員規模においても唐津一揆は、江戸期における最大規模の農漁民一揆の一つという。しかし、一揆の首謀者が死罪になるという、幕藩体制下での掟は唐津藩でも例外ではなく、富田才治を指導者とする数名が自首し処刑せれたのであった。
    虹の松原は、「三保」、「天橋立」と並んで日本三大松原の一つ、日本の特別指定名勝になっている。幅500m、長さ5Kmに及ぶ松林で、NHKが21世紀に残したい「日本の風景」で全国第5位にも選ばれている。

    のんびり朝食を摂って、宿を出たのが7時半を回っていた。
    虹ノ松原の尽きる所の西端部は、一級河川の「松浦川」の河口になっている。尤も、河口から奥まった所まで、松原砂州の西南地域は広大な水域をなしている。 唐津城の築城主の寺沢氏が慶長7年から13年にかけ、松浦川の大改修など土地の改良に努め、現在の姿になったという。 
    河口の先端に水に写して「唐津城」が立つ。 松浦川河口に架けられた舞鶴橋、洒落た造りの欄干の端に石灯篭風の石柱に、平仮名で「まいずるばし」と刻してある。 この橋を手前に配して、緑の小山(舞鶴公園)の頂きに唐津城天守閣が毅然と立ち上がっている。実にすばらしく、一服の絵をみるようである。 この城は、東に虹ノ松原と西側に西の松原が広がり、左右両翼に広がる松原があたかも「鶴が翼」を広げた姿に似ていることから、「舞鶴城」とも別名で呼ばれている。
    城域の下部へ到って、海抜43mの高度がある石段を息せきって登る。 入城門まで達したが、やはり時間外で城内入城は出来なかった、写真で我慢しよう。 見上げると、そそり立つ石垣の上に白亜の天主が朝日に輝いていた。

    唐津の北方松浦半島の先端に、「文禄・慶長の役」に際し築かれた豊臣秀吉築城の「名護屋城」が在った。 時過ぎて江戸・徳川期には無用の長物となって廃城になっていた。この城を石垣までの取り壊し、その解体資材を用いて慶長13年(1608)に築城されたのがここ「唐津城」だったいう。 代官を任せられたのが克っての秀吉の側近の一人、唐津藩初代藩主・寺沢広高であった。唐津湾に面した小高い満島山に配置され、松浦川の流れを引き寄せて南側には堀割を造り、東側には河口を開き防御と舟運の便を図った。これら唐津城の築城技術は特筆すべきもので、広高によって7年の歳月を掛け築城された。
    戦と無縁の現代においては、その景観の素晴しさが最大の魅力である。 城をシンボルとして唐津の風光明媚な町並の基礎を築いた初代藩主・寺沢広高の功績は多大なものがあると言える。初代寺沢家の後、大久保家、 松平家、 土井家、水野家、 小笠原家と徳川譜代の大名衆が引継ぐが、水野家の初代忠任(ただとう)の時に「虹ノ松原一揆」が起こったことは先に述べた。
    唐津藩主・水野家第4代藩主忠邦(ただくに)は、藩政の傍ら幕閣入りの活動も積極的に行い、希望が叶って徳川家のお膝元・浜松へ転封した後、大坂城代・京都所司代などを経て江戸出府、幕府・老中と出世している。 忠邦が行った「天保の改革」は有名であり、天保10年(1839年)に老中首座となっている。
    唐津城は、時代が流れて明治の廃藩置県によって廃城となったが、昭和41年(1966)に現在のものとして復元されている。

    次回は、松浦半島



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  • from: orimasaさん

    2008年12月22日 11時06分11秒

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    日本周遊紀行(109)能古島 「元寇」


    日元決戦の「文永の役」と「弘安の役」、結果は・・?、

    太宰府を後にして、福岡の外環道である高速2号線・立花寺JCTより5号線に乗り移り、一旦下りて国道202号線から再び、高速福岡前原道に乗り上げ佐賀・唐津方面へ向かう。 遠くに博多湾の今津浜と市街が望め、福岡湾の湾口に位置するところ、洋上にやや霞んだ「能古島」が浮かんでいた。 能古島は、人口800人ほどの島で、周りは海水浴場やリゾート施設などがある行楽地の島である。
    往時は、島の北面は玄界灘、「那の津」(博多の湊)から大陸に向かう船舶交通の要衝であった。言い換えれば、逆に外敵の侵攻に晒されやすい。
    刀伊(とい:平安時代の後期頃、対馬・壱岐・筑前を襲った朝鮮族で、大宰府の官人に撃退された。日本でこれを「刀伊の賊」と呼んだ)の侵攻や元寇などでしばしば島は蹂躙され、7世紀には白村江(はくすきのえ:朝鮮半島南西部を流れる錦江の河口にあった地名。現在の群山付近とされる)において、日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れると、海防の必要に迫られ、対馬や壱岐とともに防人が置かれたところである。
    又、今宿から北へ延びる糸島半島の東岸、今津、長浜海岸そして名勝・生の松原あたりは「元寇」のあった地点で著名ある。この辺りの松原は、海に向かって上り勾配になっているという。
    元寇の頃、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士達が築いた防塁が有ったところである、否、有ったのではなく、今でも有る。 防塁は、石で築かれ、高さが2m位であったが、その後、土砂に埋まり4, 5mの丘状をなしているという。そのため石塁は風化されずに、今でも当時のままの真新しい状態で発掘され、掘れば松原のどこにでも有るという。

    さて、時は鎌倉期、執権・北条時宗の時代である。
    そのころ、元(げん・中国)のフビライは、日本を征服する意図でたびたび使者をよこしたが、時宗は強い態度でこれを拒絶した。 広大な領土を支配した元のフビライ-ハンは、高麗を征服したのち、日本を従属しようとして使者を送ったが、執権・時宗はこれを拒否し九州の防備を固めた。
    1274年、元・高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸した。元軍は火薬を使い、戦闘具や戦闘力は彼らが圧倒的に優れていて、しかも、集団戦法で日本軍を苦しめた。 浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士たちの死者塁々とした惨状を呈した。死者の数は元軍2万人、九州の武士団はせいぜい1万足らずとも云われるが、日本軍の敗戦は明らかで、遂には後方の大宰府の水城近くまで退却した。幸い、日没前後に元軍は艦船に引揚げ、その夜半、一大暴風によって艦船の殆どが転覆、元軍は大打撃をうけ、侵攻は頓挫したのである。これを「文永の役」という。
    この経験をもとに主要な沿岸各地に武士はもとより、老若男女総動員で2m足らずの石塁を延々と築いた。 この今津の浜は主に南九州の大隈、薩摩の武士が受けもったという。
    そして予想通り7年後に、再び彼らはやって来た。1281年、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。 元は14万の大軍を二手に分けて、再び対馬・壱岐・博多湾を襲った。
    一っ飛びすれば飛び越せそうな2m足らずの石塁で、世界最強の帝国・侵略軍を防ごうというのであった・・が、この防塁は実によく役立ったのである。 元の上陸軍は悉くこれに引っかかり、内陸侵攻を阻まれたのである。 その日の戦闘が終わると、船に戻らざるをえなかったし、夜は日本軍の小船によるゲリラ戦に悩まされた。 2度、3度と上陸侵攻を試みたが、日本軍は先の経験を生かし、善戦し、又々、防塁に阻まれた。 遂には、再び大暴風雨の神風が襲い、自然の猛威によって蒙古軍を殲滅するのである。これを「弘安の役」と称した。

    『元寇』 作詩・作曲  永井建子 (明治25年)
    四百余州を挙る 十万余騎の敵
    国難ここに見る 弘安四年夏の頃
    なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
    正義武断の名 一喝して世に示す

    こころ筑紫の海に 浪おし分けて行く
    ますら猛夫(たけお)の身 仇を討ち還らずば
    死して護国の鬼と 誓し箱崎の
    神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし


    今宿辺りより「西九州道」、唐津街道を経て、「虹の松原」へ向かう、今日の泊まり地である。
    糸島半島の付け根部を横断して、二丈町あたりから唐津湾の沿岸を行くようになる。 低い山並みが海岸に迫り、過ぎ去ると再び唐津湾、否、松浦湾の紺碧の海原が光る、この地域は既に、筑前・佐賀に入っていた。そして海岸線の渚には、鮮やかな緑の絨毯が弧を描いて延びている、「虹の松原」である。 この湾の東端を走るR202(唐津街道)は海面からかなり高く、ここから遠望すると松の密林が如何に長大かがパノラマのように判る、もとは「二里の松原」と称していたらしい。
    秀吉の時代に、唐津城主となった寺沢氏が防風林として築いたものであり、その当時は二里の松原と呼んでいたらしい。 この松原は夕刻になると海面に映る夕景色の赤味を帯びた色合いと、松原の緑が相俟って、これが適度に弧を描いたいるので、まるで、虹のように映った。これが何時しか、語呂合いも良い「虹の松原」になったのだろう。

    この「虹の松原」の、ど真ん中に今夜の宿・国民宿舎「虹の松原ホテル」が在った。
    寛ぐ前に宿の主人が「近くに、いい温泉が有りますよ・・!、通常600円のところ、当館と提携しているので僅か100円で入れます」と案内してくれた。願ったり、叶ったりとはこの事で早速出向く。筑肥線の「虹の松原駅」前の踏み切りを渡り、国道202号線沿いに温泉は在った。「鏡山温泉茶屋 美人の湯」といい、開業して間もないらしくピカピカの温泉場である、これが100円とは嬉しい限りである・・ビバ・・!。
    広々とした室内浴槽の他に、和風の半屋根に大石を設え、石灯籠を配した風流な露天風呂、樽風呂や打たせ湯もありで、何とも極楽である。やや茶色味をおびた人肌湯の温泉で、泉質は天然ラジウム温泉、 糖尿病、リューマチ、痛風、動脈硬化などにきき目があるという。 戻った後のお待たせ料理も七色、虹色で配色され、いやはや・・、夕刻以降は虹一色であった。  実に満足、満足・・!!。

    次回は、唐津・「唐津城」



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