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  • from: orimasaさん

    2009年02月28日 12時13分04秒

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    日本周遊紀行(160) 知覧 「麓と“ぼっけもん”」



    「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」 薩摩藩内規・・、

    1602年、江戸開幕(幕府を開く)の頃、島津家久は「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて鶴丸城(鹿児島城)が城山の南麓に築城された。同時に、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋(麓の政庁、支庁舎)を中心に「麓」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせた。
    江戸期に至っては幕府の政策の一つである「一国一城令」により、全国に散らばっている殆どの城が廃城となった。しかし、薩摩国は幕府の権力が、遠方且つ、力のある島津には及ばなかったので、外城はそのまま残存したという。
    江戸中期、薩摩藩は地方行政区分(現在の支庁)の外城を「郷」に改めている。 藩内を113に区画し、「百二の外城」といわれる地頭仮屋を設けその周囲に「麓」、「郷」といわれる武士集落を構成し、地域の行政を執り行う外城(とじょう)制度を設けた。 更に、薩摩には(特に幕末から)厳しい階層があり、薩摩の藩士達は鹿児島城下に住む「城下士」と、地方に住む「郷士」に大きく分類した。
    薩摩藩は77万石といわれ、100万石の加賀藩に次ぐ雄藩といわれるが、しかし米高に直すと37万石程度であり、又、総人口の4分の1が士族で、この比率は全国平均の6倍もあり、財政的には非常に苦しかったようである。 しかるに外城に勤める藩士の多くは、普段の生活では農耕に携わり、定期的に軍事訓練を受けて、イザ・・!事が起きれば武士集落がそのまま軍となってなって戦う制度になっていた。 それに、財政的に逼迫していたため、、藩士(郷士)は自給自足を原則とし、そこに藩の精神とが重なって、謂わば、屯田兵制度(北海道の警備と開拓のために設けられた兵制)のようなものでもあった。
    このような生活習慣があって、薩摩では「郷士」と「城下士」の対立は非常に激しく、郷士は専業武士である城下士に絶対服従というきびしい身分差があった。
    因みに西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)は城下士であり、一方、郷士出身者には有馬新七、田中新兵衛、中村半次郎(桐野利秋)ら多数が輩出している。
    この敵対意識が明治維新後の西南戦争の引き金となった・・、とも言われている。 従って、「郷士」と言われる武士達は、城下の武士達以上に武士らしい気概、気構えで暮らし、農耕における体力増進をも兼ねていた。 
    “男とは、こういうものだ”、という薩摩武士の見本が薩摩の「ぼっけもん」と言われるようで、薩摩隼人が怒ったり気合を入れる時に「ちぇすとー!」と掛け声を上げる。 これらが、薩摩国内各地の「麓」におけるに「郷士」達のおおよその姿であった。 しかし、本来の「武士道」には優しき味があり、薩摩での武士精神には利口者を卑しみ、朴訥(ぼくとつ)を是としたといわれる。 その朴訥はユーモアに通じ、優しさの裏付けともいわれ、純真な心持を尊重するものでもあった。
    明治維新後は、俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め、地主として成功した者も多いといい、それに、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士も多かったとも言われる。 西南戦争とは、「明治」という近代日本がもう始まっているというのに、未だに武士でいた者たちの自滅の戦いでもあるとも言われ、この戦いを最後に薩摩武士がこの世から消えたのである。
    特攻記念館を見て、特攻隊の大和魂と薩摩武士の“ぼっけもん”が重なって見えなくもない・・?。

    次回、鹿児島の芋焼酎

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  • from: orimasaさん

    2009年02月28日 12時12分37秒

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    日本周遊紀行(160) 知覧 「映画になった特攻隊員」



    石原慎太郎氏が作った映画・『俺は、君のためにこそ死ににいく』・・、

    2001年、「ホタル」という映画が上映された。
    小生は残念ながら観ていないが・・、(後日、ビデオで観ました)当時、富屋食堂(実名)は若者達に、母親のように親しまれていた山本富子(鳥浜トメ役:奈良岡朋子)が経営していた。 ここは、少年たちの自由に出入りが出来る憩いの場であり、彼女は何くれと無く彼等を面倒見た。 彼らは食堂の主人を「カアさん・・!」と自然に呼ぶようになった。 或る日、韓国出身の金山少尉(実名・宮川三郎役:小澤 征悦)に出撃命令が下った。その夜、富屋食堂で彼が自国の唄・「アリラン」を歌い、「私が亡くなったら、明日この時間にホタルになって帰ってくるという」と言い残し、戦地へ旅立った。 翌夜、何時ものように富屋食堂には、若い特攻隊員たちが集まっていた、この時、予告した時刻に一匹のホタルが食堂に入ってきた、皆シーンとホタルを見ていた。
    そして画面は現代に替わる・・、鹿児島の小さな町・・、 山岡(高倉健)は病弱の妻(田中裕子)とともに静かに暮らしていた。 特攻隊の生き残りである山岡の脳裏には、折に触れて戦争当時の悲しい思い出が甦る。 志半ばにして命を散らした若者たち、引き裂かれた恋、この物語の中心に位置するのが富屋食堂であり、その女主人であであった。 ある時、この女主人(カアさん)から金山の遺品を届けるのと慰問のため、山岡に故郷の韓国へ行くようにお願いする。 やがて、彼はさまざまな思いを胸に、金山の故郷の韓国を訪れる。
    幾つもの傷を心に負った生き残り特攻隊員の出会いと運命を描いた、東映50周年記念製作で、主演、高倉 健、田中裕子を始めとする充実のキャスト、監督・降旗康男である。
    鹿児島湾、桜島、開聞岳や青森の八甲田山など、美しい日本の四季の移ろいを交えて 丁寧かつ重厚に描き出す。 物語のクライマックスは韓国の魂が息づく伝統の村・ 河回(ハフェ:金山少尉の実家)の地に高倉らがロケーションを敢行。 富屋食堂の主人・鳥浜トメを演ずるのは名女優の奈良岡朋子、そして、ここ特攻記念館も脇の役目で登場している。
    映画「ホタル」が平成13年夏に上映されて以来、知覧を訪れる人が急増したといわれる。

    記念館の前には、『慟哭の誓い・・この鎮魂、慰霊、慟哭のなかに、我ら国を超え、民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓う』と歌った、堂々たる歌碑もある。 
    当時、運輸大臣・石原氏(現東京都知事)が当館を訪れ、その後、鳥浜トメ氏を尋ねている。 彼はトメさんの感動的な話を聞き、身を正したという。 拝見した古いアルバムは、ほとんどの写真が剥がされ、黒い台紙が残るのみであった。それは戦後、知覧を訪れた遺族に乞われるまま、貴重な写真を分け与えてしまったからである。そして、「ここにこうして残っているのは、韓園と台湾出身の方々のものばかりです 」・・と。
    その際、石原氏はトメさんを「国民栄誉賞」に推薦したそうであるが、時の首相・宮沢氏の無理解により賞の授与には至らなかったという、石原都知事は“タカ派”の国会議員として知られるが・・、記念館を見学し、鳥浜トメ氏のに会って、現状日本を政治家としてどう感じたか、興味のあるところである。
    その後、石原氏は2007年5月、『俺は、君のためにこそ死ににいく』という映画を、脚本・制作総指揮して製作している。 太平洋戦争末期、知覧で飛行訓練を受けていた美しい青春が、特攻のために無残にも散っていった物語で、そこには、陸軍飛行兵や母親のように慕われていた鳥浜トメ氏、そして特攻隊員となった青年達を描いている。

    ところで、館内に掲示されている1036もの遺影は、60年間続いた平和日本に安堵しているのであろうか・・?。 何時々々までも、この館が人々にノーモァー戦争を、そして憲法9条の遵守を呼びかけ、平和を希求する館であって欲しいとは思うが、尚言えば、現状、半ば平和ボケしている「日本の実情」をどう感じているか・・?も、気になるところではある。 館内にいると次第に、何か心が閉ざされた、やや陰鬱な気分になるのは先日の訪館の時と同じであった。会館から出て公園の緑と空の明るさを見て、気持ちも元に開放されるのである。
    車へ戻る、今はまだ十数台の数であるが、この大きな駐車場は平日でも大型バスを連ねて、ほぼ満車状態になるというし、まして休日などは見物客で大混雑するという。 少々、穿った(うがった)見かたをすれば、知覧特攻平和会館は確固とした反戦・平和理念の施設で、特攻隊に関するあらゆる資料を集めて、その本質を追求するところではあろうけれど、昨今、記念館や資料館の建設ラッシュにも見られるように、むしろ特攻をネタにした観光施設の色合いが濃い所と言えなくもないと思ったが・・?。
    近隣の武家屋敷へ向かう道々、整列に並ぶ「特攻灯篭」を見て上の孫は「あれ、ナーニ・・」と問われて、適当に返事はしておいた。 ただ、初め見た目は「珍しさ」もあったが今、冷静に見て、由緒ある神社仏閣が控えているならともかく、たかが(・・?)記念館でここまでやるか、という感触も否めなかった。いっその事、実際に特攻神社なるものを創建してみてはどうか・・?、(不遜な考えに無礼もうし候)
    だいぶ上空も明るくなって、一部には青空も見えている。“麓”と言われる「武家屋敷跡」に着いた。 孫達は道端の清流に悠然と泳ぐ鯉の群れに嬌声を上げている。
    小生は先刻頂いた案内書を元に、武家屋敷の路地へと案内した。皆は個々別の屋敷前に佇む庭園の見事さに驚嘆していた。尤も、この地域は別名「武家屋敷庭園群」とも言われる程なのである・・。

    次回は、その「麓」について

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  • from: orimasaさん

    2009年02月27日 11時33分08秒

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    日本周遊紀行(160) 知覧 「特攻隊員」



    写真:現在の富屋食堂(ホタル館、資料館併設)と出撃隊員に書いた記念タオル
    歌詞には・・、『散るために 咲いてくれたか さくら花 
                 散るこそものの みごとなりけり』



    富屋食堂の常連、板津忠正に出撃命令が下った。しかし・・!、

    館内に展示されている若き隊員達の「遺書・文言」には、強烈に胸を打つものがあり、純真さ、健気さを強調する内容とも言えるが、当時は手紙一通にしても軍の検閲があったことは確かである。 従って、全くの本心は書き難い面があったかもしれないが、しかし、そこに書かれた言葉は決して嘘や偽りでは無く、万感の思いで書かれたことも確かであろう・・。
    だが、こんな検閲厳しき兵舎内で、しかも、特攻隊員という死に際にあった彼らにも自由を謳歌し、純真無垢にする時と憩いの場所はあった。その場所の名は「富屋食堂」といい、彼らの集散の会食の場であった。そこには彼らを母と呼ばせた女主人がいた。

    昭和4年、鳥浜トメ氏は27歳の時、現在の知覧町役場近くの通りに「富屋食堂」を開いた。 南国特有の明るい性格と、気さくな性格の彼女は、たちまち若い隊員たちの人気となった。 食堂は陸軍の「指定食堂」でもあり、やって来る少年兵を我が子のように可愛がり、誰言うともなく隊員たちはトメを「母さん」と呼ぶようになっていた。 
    こんな時期の昭和20年、突然、知覧は特攻基地に変身した。 毎日のように出撃命令を受ける少年兵たちはトメに出撃を報告し、故郷に住む母への手紙を託したとも言う。 次々に知覧の飛行場を飛び立ち、誰一人帰ってくる者はいなかったし、トメに託した手紙こそ真心、本心の手紙だったのである。
    こんな中に、板津忠正という隊員がいて、彼は1945年5月、知覧飛行場より出撃した。 だが、沖縄へ向かう途中エンジンの不調に気がつき、それでも編隊飛行を続けようとしたものの高度1500mのところでエンジンが完全にストップし、徳之島へ不時着してしまった。その後、二度ほど出撃命令を受けるが天候不良のため出撃中止となり、結局、出撃する機会を失ったまま終戦を迎えることになった。 生き残った特攻兵、板津忠正は虚脱状態を引きずっていた。
    こんな時に、鳥浜トメが言うには、「生き残ったことは、残されたということだよ。神様があんたに、“他に何かをやりなさい”とおっしゃっていることがあるはずだよ」と、 自分だけ生き残った罪の意識を抱えながらも、この一言で彼は意思を取り戻し、その後、遺族の元を一人ずつ訪ねる巡礼の旅に費やされたという。 戦友たちがこの世に託したかったことは何だったのか、彼ら一人一人のわずかな言葉を拾い集めることに、戦後の全てを捧げた。 それはある意味で、死んだ者よりも長く厳しい道のりだったのであるが・・。
    こうして昭和62年、板津氏は彼らの声を永遠に語り継ぐために、この地に自己の財を全て投げ打って「知覧特攻平和会館」を設立したのである。 遺影や遺品のほとんどは彼が独力で集めてきたものといい、収集に区切りがついたのは戦後50余年を経てからという。 この時、板津氏は知覧特攻平和記念館の初代館長をも勤めている。
    ここに、小生は、板津氏の行った行為は、赤穂浪士の「寺坂吉右衛門信行」を彷彿させた。
    首尾良く本懐を遂げ、全員打揃って泉岳寺に向かう途中、大石内蔵助は、吉右衛門に対し一人結盟同士を抜けて使者に立つように命じた。 吉右衛門は命に従い、討入りの顛末を仔細に申し伝えるべく、また義士らの残された遺族らの生活を助けるべく、遺族たちの元へ旅立っていくのである。

    館内展示遺品に、出身地が「朝鮮」となっている者が11名いて、中には日本名と朝鮮名が併記されている者が7名いるという。 この事は先刻、訪れた時に記したが、館の公園の一角に「アリランの歌碑」があり、更に、「ホタル」の石碑がある。 その、朝鮮人とホタルについて・・、
    富屋食堂の常連、宮川三郎(当時、軍曹)に出撃命令が下った。
    「父上様母上様、幼き日よりの数々の慈しみ、不肖、決して忘れは致しません。中学校時代、寒い中を出迎えに来て下さった父上の顔、今もなお、深く頭の中に残っております。」
    その遺書には“お国のため”、という言葉はなく、ひたすら故郷への想いが綴られている。
    出撃前夜、富屋食堂にやってきた宮川(朝鮮人・現、韓国人)は、トメさんと子供達に別れを告げた。そして「死んだらホタルになって戻ってくるから」と言って、飛び立っていったのである。 トメさんは後に語っている、「サブちゃんはホタルになって会いに来るといっていたが、そしたら本当に時間どおりに参りましたヨ、ホタルが・・、」、「ホラ皆さん、このホタルは宮川サブちゃんですよ」、「本当かね、カアさん」といって、皆んなで「同期の桜」を歌ったという。 
    これは実話である・・、そして、この事実は映画にもなった。

    次回は、「映画になった特攻隊員」


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  • from: orimasaさん

    2009年02月27日 11時32分19秒

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    日本周遊紀行(160) 知覧 「特攻平和会館」


    写真:特攻平和会館前の実物大の戦闘機(零戦・・?)



    以前に、知覧の項で「特攻」について述べたが、更に・・、

    食後、ホテル周辺の緑豊かな庭園を孫達とじゃれ合いながら散策したい・・、と思っていたが、ところだが生憎の雨模様である。 代わって広い館内をぶらつきながら、部屋へ戻って孫たちと一暴れした。 テレビがニュース、天気予報を伝えていて、地元地方の予報によれば、本日は「曇り時々雨」と伝えていた。 
    ぼちぼち出発である、先ず、景勝「池田湖」へ向かった。
    近くを通るR226(南薩道路)を池田湖の南部から辿ってみた、薩摩富士の開聞岳が至近のはずであるが、今は靄に煙っていて、その姿はホンノリ見えるのみであった。それでも僅かながら三角錐の形が幽かながら見て取れた時、「ヘー、あれが薩摩富士か、やっぱり富士山だな・・!」と婿殿が感心していた。 西側湖畔を行くが、湖面は灰色に沈んでいて、この辺りは鹿児島南部の景勝地の一つでもあるが、この日ばかりは、その美事さは感じられず、その辺の湖沼と変わらないような陰気な様子で佇んでいる。やはり、自然の景観は晴れた日の、太陽の下での立体的な輝く姿が、より印象的であろう。 小生が先日訪れた湖畔の園地を訪れてみたが、やはり、小雨に煙ぶっていて芝生は濡れて歩きにくく、本来、湖面より浮かび上がる薩摩富士の勇姿は、こちらも同様であった。
     
    指宿スカイラインを、昨日とは逆に北上する。
    知覧付近は、例によって延々と(遠々と・・)茶畑が広がっている。 静岡に次いで西日本一の知覧茶の産地ということで、皆々驚いていた。
    先ず、知覧の「知覧特攻平和会館」へ既行者として案内する。 特に子育て真っ最中の若夫婦にはジックリ見てもらいたいのである。 幸いに館前に着く頃には、すっかり明るくなって雨も上がってきたようだ。 広ーく、整備された公園を孫達は、跳ねるように車から飛び出していった。 その先は、やはりあの二機の戦闘機が外部展示してあるところであった、「ワー・・飛行機だ・・!」 乗り物に興味を持ち始めた4歳の男孫である、「かっこいいナ・・」実物大の飛行機を、こうやって触りながら見るのは、勿論初めてだろう、父親も「おお、スゲー!!」といってニコニコ顔で一緒に写真に納まっていた。
    所定の入館料を払って全員で入場した。先ず、壁一面にずらりと並んだ1036名の若い顔の遺影、達筆で書かれた遺書品々、日の丸への寄せ書き等々、小生は、一応拝見しているので冷静であったが、若夫婦をはじめ、年寄りの義母、そして上さんも、それらの品々に食い入るように観ていて、徐々に吸い寄せられていくようである。 面白がっていた孫達も親と一緒に眺めてて「これ、ナーニ・・?」と質問されて、親は説明、返答に窮しているようだが・・、そのうち飽きてきて嬌声を発し、飛び跳ねはじめた、子守は勿論、小生である。 大人の真剣さと、孫の無邪気さが好対照で面白い・・?。
    近くで見物していた茶髪の少女・女学生風の数人が「ウッソー・・」、「マジ・・?」などと言って、俄かに信じられない風であったが、次第に食い入るように特攻隊員の遺書を読んでいる姿が見て取れる。 当時、桜の小枝を打ち振って特攻隊員の死への門出を見送る知覧高女の女学生達がいたのはご存知かな・・?、これら隊員たちを見送ったのは、丁度貴女たちの年代でしたよ・・!。

    次回は、知覧・特攻隊員


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    2009年02月26日 10時30分43秒

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    日本周遊紀行(159) 指宿 「ホテルと温泉」


    写真:指宿フェニックスホテル



    「砂蒸し湯」の周りで、孫たち3人も素っ裸で・・、

    「指宿フェニックスホテル」は、指宿名物・砂蒸し風呂や洞窟露天風呂で人気があるようだ。 昨夜は、我が家族一行が到着しだい、これらの名物風呂を堪能した。 
    娘夫婦と上さんが「川の字」になって砂に埋もれている。 係員に許可をもらって孫3人も素っ裸で川の字の回りを、はしゃぎながら砂を掛け合っている。 「顔に掛けちゃ駄目だよ・・」、「はーい」、「ハーイ」、小生は先日体験したので、今回は遠慮して孫の監視役である。
    砂湯は先ず、受付の係りのおばさんに案内され、手早く浅い穴を砂に掘り、頭を乗せる枕代わりに一箇所砂を少し高く盛り、その上にタオルを敷く。 その穴に横たわると、今度は身体の上に砂がかけられていく。 上半身から下半身へ、勢いよく砂を乗せられると下腹部に重さを感じる。 顔以外すべて砂に埋まったら、後はおとなしく10〜15分そのままボーッとしている。 すると、砂はじんわり温かく知らぬ間に汗が出てくる。 低温火傷というのがあるらしく、どんなんだか不明だが、そんな時は身体をモコモコ動かすといいらしい。 砂の重みのせいか、ズキンズキンと自分の脈動を感じるのである。まあ、この砂の重さと温かさが心地よいのである。 
    砂むし温泉は、いわば天然のサウナであり、砂の重みはマッサージ効果もあるようで、あつい砂の中に体を横たえるとじわじわと温まり、爽快な汗とともに気分もすっきりリフレッシュできる。 指宿の旅で、思い出一つの体験としては絶妙であろう。
    次に、砂を落して広大な室内浴場、露天風呂へと浴槽入浴に移る、孫達とっては遊園地のようなプールである。 幸いにと言うか、この広い浴場に他の客は誰一人居無く、貸切り状態なので気兼ねは不必要であった。 ただ、孫たちが勢いよく突走って、転ぶのが心配だったが・・。 大浴場、露天風呂とも展望もよく、気持ちよくレフレッシュできた。

    指宿温泉は、薩摩半島の南端の海岸沿いに5kmにわたって湧き出る温泉で、豊富な湯量に恵まれ、市内いたる所から湧き出る。 一日の温泉湧出量は約12万t、泉源は約800箇所在ると言わ、源泉温度は60から80度の高温泉で、泉質のナトリウム・塩化物泉は神経痛、筋肉痛、関節痛、胃腸病、肩こり等々に良いとされる。 
    旅館やホテルが建ち並ぶ温泉街のメインストリートは、フェニックスの街路樹が茂り、年間を通してハイビスカスやブーゲンビリアなどの花が咲き、南国情緒あふれる地域である。 かつては静かな湯治場として親しまれていたらしいが、現在でも町内には10ヶ所程の共同浴場が在り、何れも入湯料200円前後浸かれるという。 今も自炊施設を持つ宿もあり、湯治の長逗留の人も結構いるらしい。
    そして、指宿温泉の特徴は、何といっても名物の「天然砂むし風呂」であろう。 摺ケ浜(すりがはま)海岸の砂浜に湧く天然の砂むし湯は、日本唯一の天然砂むし風呂が体験できる温泉地ある。 「砂蒸」そのものも、300年以上の歴史があるといい、近隣の海岸に出て適当に砂を掘れば、場所によっては砂蒸しができる場所がある。 海岸なので海水浴をし、その後、砂蒸しをするという優雅な温水浴ができる。また、高温の場所に「薩摩芋」あるいは「生卵」を埋めておけば、ふかし芋あるいはゆで卵が出来上がし、味付けは海水で十分であるという。

    お風呂の後は楽しい食事である・・、
    ホテルの食事は夕・朝共にバイキング方式で、皆でワイワイ言いながら楽しくガツガツと戴きである。 孫達は爺・婆が世話役で、当の親の娘夫婦は承知したもんで、まかせっきりの素知らぬ顔で箸を口に運んでいる。 もっとも、小生はビール片手に、上の孫とお喋りをしながらの食事で、手は懸からないのであるが。 そんなこんなで、久しく賑やかな一日を家族と共に過ごし、枕を並べて夢路を辿ったのであった。

    目覚めると久しぶりの雨の様気である、長々と雨無しのカラカラ渇水期が続ていたので、少々お湿りが欲しいところであるが、家族との楽しい一時である、今日だけは欲しくなかったのが・・。 孫達は、まるでランダムに転がしたように、アッチャコッチャの寝姿である、夕べの宵っ張りが効いてか未だ未だ(まだまだ)夢の中である、どんな夢かって・・? 幼児も夢見るよネ・・?!。
    小生は例によって朝湯である、上さんも起きてきて一緒に出掛けた。 大浴場から露天風呂の表へ出てみると、柔らかに降る雨は辺りをシットリと湿らせ、庭園の木々は緑を一層光らしている。 朝の入浴は身体を特に洗うことなく、のんびり入って体中の神経の目覚めを待つのである。 サッパリ湯上り後にホテル内をブラついて、後はご一行と朝食である、さすがの孫どもも半睡半眠(半覚半眠・・?)で、時々、ダダも・・!!

    次回は、再び「知覧」へ


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    2009年02月26日 10時30分06秒

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    日本周遊紀行(159) 指宿 「孫」



    「なんでこんなに 可愛いのかよ 孫という名の 宝もの・・」、

    桜島を満喫した後、その国道224号の所謂、袴腰-赤水の「溶岩直線道路」を通り、鹿児島へ渡るためにフェリー乗り場へ向かう。 
    その前に港の前にある「道の駅・桜島」へ小用で寄った。 赤い四角錐の屋根が印象的な駅であり、意外と人が多いのに驚いた。例によって、「フレッシュ」が合い言葉の農産品、農産加工品などが地元産が並んでいるが、中でも目に入ったのが、特産の「桜島小ミカン」や「桜島大根」などであった。 上さんが(妻)、気を利かして1袋購入し、早速、手にしたところ実に小さい、皮をむくと1口で食べられるほどである。そして、この甘さが抜群であった。 孫たちも「ジージ、このみかん可愛くて、甘いよ・・!」と、「そうだよ、お前たちと一緒だよ」、「・・?」
    桜島小ミカンは、ギネスブックにも登録されるほど世界一小さなミカンで、更に「世界一甘いミカン」だと地元の人は云っている。意外と歴史も古く、島津義弘が文禄・慶長の役の際に朝鮮半島から持ち帰ったと言われている。 更に驚きは、こちらは世界最大といわれる桜島大根が、やはりギネスに登録されているという。 この小さな島の一角に、世界一の物産が二個並んでいるのも稀有であろう。

    桟橋へ向かう・・、すぐ前は既に鹿児島の市街、ビル群が迫っている。 高速道の料金所よろしく、車に全員が乗ったまま代金を払って、そのまま待機しているフェリーに乗り込む。 4階構造の華やかなフェリーで1階が大型車、2階が普通車で3,4階が一般乗客である。
    航行時間わずか13分と非常に短い航路だが24時間運行を行っており、一日88便も運行されている。 日中は10分間隔で発着を繰り返しており、恐らく日本で最も便数の多い航路ではないだろうか。 僅か10分少々の乗船時間であるが、船内にはコーヒースタンドや立ち食いソバなどの設備も整っていて飲んで、食っている最中(さなか)に着いてしまう。
    出航後間もなく鹿児島からのフェリーとすれ違う、孫たちも大はしゃぎで元気一杯である。そんな、こんなもしない内に鹿児島埠頭に着いてしまった。下りてすぐ水族館があって、早速、孫どもが「ねえー、水族館連れてって・・」と強請る(ねだる)、時間の関係上、どうしても無理なことを説得するのに一苦労である。 
    日本西南の大都市・鹿児島の市内見物することもなく、(小生は既に済んでいるが・・、)鹿児島中央駅前から一寸、長目の「武岡トンネル」を抜け、九州道の鹿児島I・Cへ飛び乗った。 行き先は「指宿スカイライン」から、今夜の泊まり宿・指宿である。 

    今日、朝早くから慌しい一日であったろう、車中、孫どもは疲れきって、三人ともすっかり寝込んでしまった。 上の女の子は小生の膝枕で、気持ち良さそうに寝息を立てている、可愛い孫たちである・・!!。
    小生宅は子供三人、女、男、女であり、周囲の身内、親戚、友人の子供たちも、皆、偶然ではあろうが子供三人で女男女の順番も同じである、おまけに、車中の娘の子(孫)も同様なのである。 自分の子供達は飼育・・?に夢中であって「可愛さ」というのは余り実感が無かったようだが、 実際、大泉逸郎の「孫」という唄ではないが歌詞に「何でこんなに可愛いのかよ、孫という名の宝物」・・と本当に可愛いのである。
    毎週末にやって来ては「ばばちゃん」、「じーじ」と纏わり付いてくる。 そのうち、おもちゃ箱へ行って、引っ掻き回し、部屋中にカッ散らかして悪さを始める・・、「コラッ・・」と怒鳴っても「イー・・」といって逃げてしまう。 親娘は、そんな孫たちには素知らぬ振りでテレビに夢中なのであり、爺・婆の家だから出来るのである。 たまには孫と一緒と遊び、動き回るときもあるが、あのハイテンションの声と動きには付いてゆけず、しまいには疲れてしまうのである。 婿(娘の旦那)も来て夕食をともにした後、間断なく吹き荒れた豆台風が、勝ち誇ったように意気揚揚と引き上げる。後は、残された爺・婆は、しばし放心状態に陥るのでのである。 外孫であるが・・、外であれ内であれ、孫の可愛さには変わりがない、外孫であるだけに日々の成長がわかって嬉しいものである。 尤も、内孫も近所にいるのだが、未だ、小さくて実感が無いが、その内、暴れだすのであろう・・!。
    今は、車中でジックリ休眠とっているが、その後、ホテルへ着いたら、珍しさもあって一暴れ、二暴れするのだろう、その時は大いに付き合ってやろうじゃないか・・!。
    上さんの実母である義母も、80歳を過ぎたとはいえ未だゲートボール、カラオケにと元気に暮らしている。 長旅の疲れもあり、車には弱いはずであるが、今のところ、それらしい気配はなくホッとしている。

    指宿スカイラインは九州道に直結した日本列島の最も南にある豪快なロードであり、薩摩半島の尾根を左右に分けて東には錦江湾が見える観光道路である。 道路は次第に高度をあげ、左側には錦江湾と桜島から立ち上る煙が見え、右側には広々とした尾根が広がっている。山の頂上を走っているのに景色を遮る木がほとんどないのでロケーションは抜群である。
    知覧インター付近には雄大なお茶畑が広がっている。ここからは小生が先日通った道程であるが、運転はしてないので快適さを満喫できる。 知覧インターを過ぎると今度は道は下り坂になる。スカイラインの終点には、あの池田湖であるが観光は明日に行うとして、このまま指宿市内へ向かう。
    先日と同じルートから市郊外のR226を南下して、南端部・指宿枕崎鉄道が交差する辺り、派手に立ち上がっている「指宿フェニックスホテル」に到着した。 白亜の建物で、南国ムードいっぱいの庭園に囲まれた風光明媚な高台に建つ。 広大な敷地の庭園も見ごたえあるし、錦江湾を眼下に右手には山川港、遠くには本土最南端佐多岬まで遠望できる圧巻のロケーションである。 ホテルは、掛け流しの温泉は勿論であるが、洞窟風の露天風呂や中でも指宿名物の「砂むし温泉」も完備していた。
    着後、一眠りして元気づいた孫達が、早速暴れだした・・!!。

    『孫』 曲・唄 大泉逸郎
    なんでこんなに 可愛いのかよ
    孫という名の 宝もの
    じいちゃんあんたに そっくりだよと
    人に言われりゃ 嬉しくなって
    下がる目じりが 下がる目じりが えびす顔

    もみじみたいな 小さな手でも
    いまにつかむよ 幸せを
    仕事いちずで 果たせなかった
    親の役割 代りの孫に
    今は返して 今は返して いるところ

    引き続き、指宿温泉


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  • from: orimasaさん

    2009年02月25日 10時25分13秒

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    日本周遊紀行(158) 桜島 「火山島・桜島(2)」



    写真:大正年間の大噴火の様子(家並みは鹿児島)と東部、黒神地区、黒神神社の埋没鳥居
    (資料提供:鹿児島市)



    島名の由来は、ニニギの嫁さんの木花咲耶姫を祭る神社があり、咲耶島(さくやしま)か転じて桜島となった・・、

    桜島火山は、姶良(あいら)カルデラという南部に生じた成層火山で北岳、中岳、南岳の三 峰と権現山、鍋山、引ノ平などの側火山からなり、人口が密集する鹿児島市の市街地に近接している。 有史後の山頂噴火は南岳に限られるが、山腹や付近の海底からも噴火はしているという。 江戸中期そして大正、昭和等の各年間に発生した大噴火はすべて山腹噴火であり、多量の溶岩を流出し、火砕流や泥流の発生もあった。 
    桜島は東西10km、南北8km、周囲40km の島であったが、1914 年(大正3 年)の大噴火で山腹から流出した溶岩により大隅半島と陸続きになった。 南岳山頂火口は、1955 年10 月の爆発以来今日まで長期間にわたって活発な噴火活動を続けており、噴出物(火山ガス・火山灰・火山礫・噴石など)や爆発時の空振、また、二次災害としての土石流などにより各方面に被害を及ぼしているという。
    南岳山頂火口から2km 以内は、現在も立ち入り禁止となっていて、平成の現代になっても尚、活動は活発といわれる。 平成12 の爆発では火山灰、噴石が噴出する被害を出し、年間の爆発回数も169 回にも及び、鹿児島市周辺でも直径2 〜 3mm の火山礫も飛散したという。 尚、平成14年以降は比較的静穏が続いているという。
    この激しくも恐ろしい火の山に、どうして、優雅な「桜島」という名がついたのだろう・・?。
    島名の由来については、島内に木花咲耶姫命と夫:瓊瓊杵尊(コノハナサクヤヒメ、ニニギノミコト)を祭る神社が鎮座していて、当初は、島の名を祭神に因んで咲耶島(さくやしま)と呼んでいたが、いつしか転訛して桜島となったとする説がある。一方、10世紀中頃、大隅守として京都から赴任してきた「桜島忠信」の名前からとったという説の二つが有るという。
    桜島は時に、雨が激しいときには大隅半島(垂水方面)から桜島へと渡る国道が閉鎖され、又、常に噴火する可能性があるので、飛来する(かもしれない)噴石避けのための「避難壕」が島内の各所に設置されている。 そして定期的に、人口4,700人の桜島町では、噴火を想定した島からの避難訓練が行われているらしい。 尚、国立公園は何処もそうであるが、桜島の溶岩類は許可がなければ持ち出しはできない。

    大正3年(1914年)の大噴火について・・、
    未だお屠蘇気分覚めやらぬ正月12日の午前10時、桜島南岳が轟然として噴火を始め、鹿児島市内にも大量の降灰が始まった。 噴火は次第に熾烈になり、桜島全島が黒煙、白煙に包まれ、更に、上下動の激しい地震が発生、鹿児島市内では家屋や石塀が倒壊したという。 更に、噴火は拡大し、夜になって爆発音は更に激烈になってきて人々は混乱し、逃げ惑ったとされている。 そして、この噴火で流出した溶岩は、それまで錦江湾に浮かぶ文字通り島だった桜島と大隅半島の間の幅400m、深さ72mの海峡を埋め尽くし、半島と桜島は陸続きとなったという。 今も、東部・黒神地区の神社の鳥居は、上部を残す埋没した姿で痕跡を残し、そのすさまじい降灰の量を端的に物語っている。 この時の噴煙は上空8,000mに達し、遠くカムチャッカ半島にまで灰を降らせたといわれる。 当時の様子を誌書には「その状況は筆舌に尽くし能わざる・・、犠牲者は死者35人、行方不明23人・・、」と記されている。

    次回は、「孫」


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  • from: orimasaさん

    2009年02月25日 10時24分30秒

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    日本周遊紀行(158) 桜島 「火山島・桜島」


    写真:有村溶岩展望所よりの「「さくらじま」



    垂水から桜島へ渡る時、「早崎」なのに「早咲」と命名したのは何故・・?

    油津、南郷、志布志を経て、小生が昨日辿った道を逆方向へ進み、垂水から向かうは火山島・「桜島」である。
    途中、きのう見過ごした都井岬へ寄ろうと提案したが、時間の都合上やはり素通りすることにした。 串間辺りの220号沿線には「大黒」という大きな看板が目立つ。 ホテルや温泉施設、式場等の広告看板であろうが、たぶん“だいこく”と読むんだろうけど、我々はどうしても“おおぐろ”と読んでしまうのである。 車中は、次にサッカーの話で盛り上がる、一昨夜、W杯のアジア地区最終予選で北朝鮮との決勝戦で、「大黒」が決定的と思えるゴールを決めたからである。
    志布志、串良から鹿屋の錦江湾へ出た。 既に海上から錦港湾に浮かぶ桜島が見え隠れしている。 垂水の変哲もない市街地を通り抜けると、海岸に沿って家並が続く、所々に廃隧道や線路跡らしきものが望める。 そう、克っての国鉄大隈線の跡であった名残である。先にも記したが、大隅線は志布志町(現・志布志市)の志布志駅から同県国分市(現・霧島市)の国分駅までを結んでいた、国鉄の鉄道路線である。 国鉄再建の特定地方交通線に指定され、1987年に廃止された鉄路で、志布志から大隈半島を横断して古江から錦江湾沿いを北上して国分に到っていた。
    海潟(あいかた)温泉は錦江湾、桜島を望む温泉宿数軒の鄙びた温泉地であるが、泉温は大隅半島唯一の高温温泉で46〜52度の天然温泉で地域の人たちの人気が高いという。 
    和田辺りまで来ると、桜島がチラホラ見えているので、思い切って和田の海潟の波止場へ出てみた。 案の定、忽然と煙たなびく桜島が海上に浮かぶように現れた、実に迫力あるポイントである。 もしかしたら、この地が桜島のビュウポイント・ナンバーワンではなかろうか・・?、おまけに、波止場岸壁のすぐ横には、懐かしい「江乃島」がこんもりと浮かぶ、実に気が和む風景であった。
    いよいよ桜島へ向かう、国道220号の垂水市海潟〜牛根間は「早咲大橋」いう海岸海上の大橋を渡る。それにしても、右岸は急斜面の山肌が迫り、周囲の風景と相まって中々美事な橋である。 なんでも右手の早崎山・火山が噴火の時、火山岩や火砕流が錦江湾に向かった流れた際、急激に冷されて急な崖になったところらしい。 山裾にはかって旧道があったらしいが、過去の集中豪雨や台風の異常気象時に土砂災害を多く受けて、その度に斜面崩壊が発生して交通が途絶遮断した。そのために、早咲大橋を急遽、建設、開通させたという。
    ところで、「早崎」なのに「早咲」と命名したことは何故・・?、役所の職員に、そそっかしい人がいて正式書類に早崎を早咲と書き込んでしまい、それが認可されてしまった・・?、などど邪推するが、定かでない。 全長は888mと実にキリが良い・・!、この数値には懐かしい思い出がある。小生20代前半の頃、実家である田舎町(いわき市湯本)に、888(ぱぱや)という名称の小奇麗な飲み屋(昔のバー)があり、そこのホステスと相思相愛・・?の仲に成ってしまったのである。(これは余計)

    渡りきると鹿児島市桜島町である。 桜島は、今でも活発な火山活動を続けているが、1914年(大正3年)の大噴火の際、桜島と大隅半島の間の瀬戸海峡が溶岩で埋まり、大隅半島が今のように陸続きになった。現在の垂水市であり、その市境を戸柱鼻という。
    ここからは国道224号線になり、斜面の山肌は特有のゴツゴツした火山岩で覆うわれていて、別称、溶岩道路(Lava Road)の名が付いている。 桜島が陸続きとなった戸柱鼻から2キロくらのところに「有村展望所」があり、道の内陸側に駐車場、みやげ物屋が数軒並んでいる。 展望所は、1946年(昭和21年)の大爆発で流出した溶岩原の小高い丘にあり、正面に桜島本山を始め、360度に広がる眺めである。 全長1kmに及ぶ溶岩遊歩道の途中にあり、世界的活火山「桜島」の迫力と錦江湾を手にとるように望むことができる。 東屋のある展望所は三か所あり、周辺は溶岩石や火山砂といった荒涼とした風景が広がっている。 溶岩地帯は遊歩道を散策でき、徒歩5分〜20分くらいで、時間に合わせて自由にコースを設定できる。 桜島山を正面に望める溶岩原の中に、「霧島・屋久国立公園・さくらじま」と標板が立ち、撮影ポイントを示しているのだろう・。 

    「桜島」(桜島町)は鹿児島県の自治体として、町制施行30年余を経過しているが、平成16年11月1日に1市5町(鹿児島市、吉田町、桜島町、喜入町、松元町及び郡山町)と市町村合併を行うこととなり、新鹿児島市として発足、その長い歴史に幕をとじている。
    桜島山は、鹿児島市の東方わずか約4km先、鹿児島湾(錦江湾)上に位置し、現在も活動を続けている活火山がこの半島を形成している。 整った山容を静かな錦江湾に浮かべ、湾に面する各地域から眺められる秀麗な姿は、全国に例を見ない景観でもあり鹿児島県民の心の拠り所であろう。
    桜島の大きさは、周囲52キロメートル、北岳の高さ1117mで、円錐形の上半分が切断された半コニーデ式の火山である。 外周する道路は、北部は県道26号(桜島口=袴腰〜早咲大橋)と南部の国道224号で、国道は島内だけの僅か14km足らずの短い路線であり、袴腰-赤水の2キロ余は一直線に駆け抜ける「溶岩直線道路」と言われ、桜島避難道路としても使用されている。 海側を通っていた従来の国道は観光用道路として残されている。

    引き続き、火山島・「桜島」


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  • from: orimasaさん

    2009年02月24日 11時45分49秒

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    日本周遊紀行(157) 宮崎 「天孫降臨の地」



    天孫降臨の地、両・高千穂は譲らない・・!?、

    油津付近の展望の良い休憩地一服しながら、地元の焼酎、銘柄は何と「天孫降臨」が有るのに気が付いた。 500mlを1瓶、記念に購入したが、記念といっても飲んでしまえばすぐ無くなるのだが。 「天孫降臨」の銘柄の由来は勿論、アマテラスの御孫(天孫)の「ニニギ」御一行様が日向の国の「高千穂」に御降臨されたことに由来している。 

    再び、その「天孫降臨」の事であるが・・、
    降臨したのは高千穂とあるが、ただ、その高千穂は宮崎県、鹿児島県と両方に在り、両・高千穂の本家争いにまで発展しているともいう。 
    先ず、鹿児島は霧島山系の「高千穂峰」であるとの主張している。その理由は日本書紀に「日向の襲(熊襲・隼人)の高千穂峰・・」と書かれていることに由来し、襲は大隈地方のことであって、更に、降臨された山頂には青銅の「天の逆鉾(さかほこ)」があると記されている。 現に、大相撲の井筒親方は鹿児島出身で現役時は、これに因んで「逆鉾」(さかほこ)というシコナを付けている。
    これに対して宮崎は「高千穂町」であるとしている。 ニニギノミコトは稲穂のことであり、稲作農業の象徴とされる。つまり、降臨したのは火山灰(薩摩地方)が積もるような所ではなく、稲作に適した高千穂町であるとしている。 
    宮崎県、鹿児島県との本家争いはともかく、そも、「高千穂」という地名の起こりは、ニニギがこの地に降臨するとき千本の稲穂をつみ、その籾(もみ)をしごいて蒔いたとことから「千穂」というようになり、その上にニニギノミコトの尊さを意味する「高」の字を付けて「高千穂」と呼ぶようになったと言われている。

    「高千穂町」は九州山脈のほぼ中央部、宮崎県の最北端に位置し、町の中心部を五ヶ瀬川が西北から南東にかけて貫流し、途中、名勝・天然記念物「高千穂峡」が神秘的に創出している。 この地は、天孫降臨や天の岩戸開き、などの神話の高千穂町としても知られ、その起源は古く、古代遺跡の発掘や多くの出土品等の遺物により、紀元前4世紀頃から既に集落が作られたという史実もある。  又、神代の神社も多く在り、 高千穂神社は、創建はおよそ1800年前といわれ日向三代の神々と神武天皇の御兄君を祀っている。 神話を今に伝える「天岩戸神社」は、天照大神がお隠れになった天岩屋戸が御神体とされ、近くには岩戸開きの“ご神議”が開かれた「天安河原」もある。 高天原遙拝所、天孫降臨後に神々がこの丘に集い、天上の高天原を遙拝したと伝えられている。 くしふる神社や荒立神社といった、神話史跡や古代神々にまつわる社宮や史跡も多い。
    高千穂町の東方の北川町には、日向の海を見下ろす可愛山に、ニニギの墓地とされる「可愛山稜」が鎮座しているのである。

    又、宮崎の北方、西都市にはニニギに纏わる(まつわる)、都萬(つま)神社というのが鎮座している。 
    降臨の後、尊(ニニギ・天の神)と美しい姫・コナハナサクヤ(国津神の大山祗神・オオヤマツミ=地の神の娘)が結ばれる。この二神の結婚式は、日本最初の正式な結婚式といわれ、その式と新婚生活の場となったのがこの「都萬神社」と伝えられている。 日向三代の神話における最初のクライマックス「天と地の統合」である。 因みに、媛・コナハナサクヤは、「酒解子神」(さかどきこがみ)という別名を持ち、酒造りの神様としても、この社に祀られている。 媛が自分の子供を育てるのに自分の乳だけでは足りずに甘酒を作って三つ子の子供たちに与えたといい、銘柄は「甘甜酒(あまのたむざけ)」というのが日本最初の酒と言われる。 天孫降臨の地は、日本の清酒発祥の地であり、地元の銘柄に「天孫降臨」とあるのは納得である。
    西都市は宮崎県中部の市域で、往時は日向国府の所在地であり、その市街地西方に「西都原(サイトバル)古墳」という古墳群もある。 古墳とは、高く土盛りした古代の墳墓のことで、日本での多くは当時の王や豪族ら有力者の墓とされている。
    宮崎は古代「日向の国」とよばれた。
    この地は「神話と伝説のふるさと」ともいわれ、古事記や日本書紀にも多く記され、日向神話をはじめ、数多くの伝説や史跡があふれている。 「西都」はその日向の中心地であり、多くの神話や伝説が伝わっている地でもあるが、実質、「古墳」という形で現代までその史跡が残されているのである。 
    日本には時代区分に云う「古墳時代」というのもあり、今からおよそ1700年前の弥生時代が終わった3世紀末〜7世紀末頃までの凡そ400年間いい、巨大な墓づくりが行われた時代である。 異例なのが、弥生時代(中期ごろ)にも墳丘墓(ふんきゅうぼ)と呼ばれる大きな墓がつくられ、各地域ごとに、形もいろいろと独自につくられたらしいが、古墳時代になり、全国的に共通した形と内容を持つ古墳が造られたという。
    西都原一帯に色濃く残されている西都原古墳群は、300基もの古墳の存在が確認されていて、
    古代から相当な規模の国がこの地にあったと思われている。 その古墳の大部分はいまだ発掘されないまま、多くの謎を秘めて千数百年もの時を眠り続けているという。
    この古墳群の中で最大級の二つの古墳「男狭穂塚(おさほづか)」と「女狭穂塚(めさほづか)」というのが在り、この墳墓は、ニニギとコノハナサクヤの夫婦の墓とも伝えられている。

    次回は、再び「桜島」


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  • from: orimasaさん

    2009年02月24日 11時45分23秒

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    日本周遊紀行(157) 宮崎 「神話と古代史」



    「くだらない」の語源は、「百済のではない」からきていると言われる・・、

    山彦・海彦の神話・・、
    日本神話と日本の古代史とは、かなりの関連性があるのは必定であろう。
    例えば、「山幸彦・海幸彦」の神話は、日本神話の天孫民族と隼人族(九州において)との闘争を重ね合わせたものとも考えられ、童話の浦島太郎との共通点も多く、民族学的にいえば南方渡来系民族の伝承に、この様な話が多いそうである。 日本人は中国大陸から渡来したモンゴル系の北方民族と、南方の太平洋に浮かぶ島々から渡来した民族が融合した民族であるといわれているが、この神話はまさにそれを象徴しているといわれる。 即ち、大陸系の民族の象徴が山幸彦であり、南方系の民族の象徴が海幸彦であるという。又、同様なことは、日本人の祖神とされるイザナキとイザナミにもいわれ、イザナキが大陸系でイザナミは南方系であると、二組の共通するところは海幸彦もイザナミも、早い段階で姿を消してしまうのである。 
    すぐれた文明である青銅器・鉄器製造と稲作の技術をもった大陸系の民族がしだいに南方系の民族を従えて、やがては大和朝廷成立に繋がっていくのであるが。他にも「山彦と海彦の物語」は、いろいろな象徴が込められているともいう。端的なのが弟の「山幸彦」が天孫系の北方渡来系であり、やがて日本を支配してゆく大和朝廷のことであり、一方、兄の「海幸彦」は南部九州の土着民、南方渡来系の隼人族の熊襲であり、朝廷に対して大規模な抵抗を見せる。 この時、朝廷側から「日本武尊」を九州へ遠征させ、熊襲を征したことでもしられ、史実では、朝廷から大伴旅人を大将とする軍が派遣され鎮圧されたとある。その後、隼人族やクマソは中央政権(大和朝廷)に組み込まれてゆくことになる。

    一般に言われていることは、日本民族は特に九州地方では、先ず。東南アジア系の南方系民族が渡来して「隼人」を形成したとされ、(縄文文化)次に、モンゴル、中国、朝鮮半島の北方民族の移民団が新しい技術を持って渡来し、次第に縄文人と融合し、或いは駆逐して弥生文化を広め、最終的には半島から、百済や任那諸国の多くの遺民が日本へ渡ってくることになる。(白村江の戦い)
    因みに、「くだらない」の語源は、「百済のではない」からきていると言われる。
    当時、百済のものは、進んだ大陸ブランドとして扱われていたそうで、百済以外のものは価値がないと思われ、「百済ではない」ものは、「くだらない」とされた。
    朝鮮半島における「百済」の建国神話には日本神話同様、ふたりの兄弟が登場するという。 神話上の兄弟、海と山の栄枯盛衰の物語で、日本の神話の「海彦・山彦物語」に共通する。 百済を建国したのは弟のほうで、兄は自殺したとも言われる。 しかし、この時、兄は、百済を南下して朝鮮半島南部に下り、日本までやってきたのではないかとも・・?。 日本における北方渡来人の元祖は百済系の人々といわれる。 日本の山幸彦の別名は、古事記には火遠理命(ホオリノミコト)であり、日本書紀においては彦火火出見尊(ホホデミ)となっている。 その山幸彦の子が神武天皇であり、大和朝廷にもつながることになる。 
    これらの神話は古代史の想像の域をでないが、一方、その謎を解く鍵を秘めているとも云われる。神話とは単なる「お話」ではなく、古代の人の考え方やものの見方を反映したものだという考え方があり、何よりも実際に起こったことを、現代とは異なる「古代人の眼」を通して語ったに相違はない。

    日本神話は、主に大きく分けて「四つの神話群」から成り立っているとされ、その神話の母体となっているのが「古事記」であり「日本書紀」であるが、両、歴史書は小さい相違はあるが大筋では大体同じであるという。 その神話体系には四つの神話群があり其々、「国生み神話」、「高天原神話」、「出雲神話」、「日向(ひむか)神話」が主に登場する。 これら物語の重要なポイントとなる場所は、現在でも色んな形で存在し、語られて、そして、そこに多種多様な神々が登場する。 
    我々日本人は信仰の有無にかかわらず、神社に初詣でに出かけたり、建物の新・改築の際には殆どが地鎮祭やお祓いを催す。 我々、日本人の生活の中には意識しないまでも、神々との接点は現代生活の中でも断たれていない。 お祓いや御祷りをするとき、これらの古代の神々の何れかを御参りすりことになる。 日本人を思うとき、神話世界の神々が常に付いて回っているのに今更ながらに思い至るのである。そして、我々の祖先から受け継いでいる、これら古代の神々に必ず行き当たるのである。

    一方、冷めた現実的な見方もあるようで・・、
    日本神話である古事記や日本書紀は八世紀頃、朝廷(主に天武天皇)が命じて歴史書を編纂し、文字に残した物という。 それは、天皇位をめぐる戦乱である「壬申の乱」(672年)以降、即位した天武天皇が自らの正統性を示すため、国史の製作を発足したといわれる。
    時の権力者が歴史に名を残すために、自伝書や歴史書などを記し、後に残すということはよくあることで、そこには必ず政治的な意図が含むのは当然である。 その目的は主に、自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流す事でもあり、自らの正当性を主張する事でもある。 しかし、それは併せて国体を維持確立し、天皇制を堅持することでもあった。
    全体を通して編纂に当ったのは、「藤原不比等」(飛鳥時代から奈良時代初期にかけての政治家、天智天皇の寵臣)である。 不比等は藤原鎌足(飛鳥時代の中枢政治家で藤原氏の始祖)の次男で、天武王朝の基礎を築きあげた張本人であり、古事記・日本書紀の編纂、律令制度の導入、平城京の建設、神道の導入など奈良の大仏建設(聖武天皇)以前の天武王朝の仕事をすべて遂行した人でもある。そして、「日本社会」の原型を作ったのは、藤原不比等ともいわれる。
    伊勢神宮の祭神・天照大神(アマテラス)は、日本でもっとも貴い神と信じられているが、これは藤原不比等が女帝・持統天皇(天武天皇の妻、皇后)を、そのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものだとも云われる。 神話の中でアマテラスは子ではなく、孫のニニギ(持統天皇の孫・軽皇子・かるのみこ、後の文武天皇)を地上界に降ろして王にしようとしたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統天皇系統の生涯に当てはまってしまいともいう。

    『 春過ぎて 夏来るらし 白妙の  
    衣乾したり 天の香具山』 (万葉集・第一巻)
    あまりにも有名な持統天皇の一句である。
    持統天皇は、天武天皇の遺業を受け継ぎ、中央集権の国家の体制をつくりあげた。 大和朝廷までの「倭・わ」という国名を改めて、「日本」という国号を新たに使い始めたのもこの時期であり、西暦690年、伊勢神宮の第一回の式年遷宮を行ったことでも知られる。

    次回は、「高千穂」


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