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  • from: orimasaさん

    2009年03月27日 11時51分59秒

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    日本周遊紀行(170) 安心院 「ストンサークル」


    写真:米神山の「ストンサークル」

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    本日の各種新聞、情報及び「万有百科事典・ウィキペディア」が御覧になれます。
    http://blog.livedoor.jp/orimasa2008/ 
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    安心院町熊地区では「米神山巨石祭」という珍しい神事が執り行われる・・、

    安心院・妻垣地区から北東の方角、高速道路を挟んで佐田地区があり、この地に妻垣山にも模した端正な「米神山」が盛り上がっている。 この山の7〜8合目以上には、100基にも及ぶ立石遺跡があり、「佐田京石」と言われるが、更に、山頂付近には環状列石・ストンサークルと思しものもあり、何れも人間の背丈ほどもある列石で、誰がなんの為に造ったか定かではないという。 
    又、一部の石柱の下からは写経が出土しているものもあり、埋納経の標石かとも思われるが、こちらも何時ごろ、何のために納めたかは定かでなく、しかも全部の石柱から出土している訳ではなく、摩訶不思議な石柱だといわれる。 写経を埋めた石柱は、仏教的には「一字一石経を根本に納める」という思想もあるようで写経石とも呼ばれ、経石から転じて「京石」になったともいわれるが・・?。 何れも太古の祭祀場、鳥居の原型、埋納経の標石といろんな説があるようで、人が営むための祭祀の場所であったともいわれる。 

    それにしても、「ストンサークル」というのは、世界遺産にも認定されているイギリスの謎の巨石建造物・「ストーンヘンジ」でも超有名であるが、世界各地にも在り、日本でも特に北海道や東北地方のは有名で、縄文中期後半から後期に築造されたものという。 他にも日本各地で発見例があるが、九州地方では珍しいと言われる。
    米神山の巨石群を縄文時代の人々が、何のために造ったかは、実態は解明されていないといい、又、京石(経石)は鎌倉〜江戸の遺構との見立てが可能で、仏教関係者が何故写経などを石柱に埋めたのかも疑問とされている。 米神山はこれらの遺構、史跡が学術的に未解明の部分が多いナゾの霊山聖地とされ、超古代の巨石文化遺跡として全国各地より熱い視線が集中し、今後も学者の間で研究が期待されているという。
    安心院町熊地区では毎年3月、「米神山巨石祭」という珍しい神事が執り行われ、佐田京石群を祭祀し奉るという。

    それにしても、安心院の妻垣山に一柱騰宮・妻垣神社が建立された伝記・伝承といい、米神山の巨石の遺構建造物(・・?)といい、これらには何らかの関係や繋がりが有るのか・・?、これが究明された時、“あじむ”がお馴染みの呼称に成るかも知れない。
    安心院町の北隣は院内町であり、いずれも「院」の字を含むことから宇佐市を含めて、これらの1市2町を総称して宇佐両院(うさりょういん)とも呼ばれている。 又、安心院町の「心」という文字を使った自治体は、全国でもここだけと言われる。

    次回は、「宇佐」

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  • from: orimasaさん

    2009年03月27日 11時51分14秒

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    日本周遊紀行(170) 安心院 「一柱騰宮・妻垣神社」



    写真:一柱騰宮と妻垣神社(横長の拝殿と流れ造りの本殿が並ぶ)

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    本日の各種新聞、情報及び「万有百科事典・ウィキペディア」が御覧になれます。
    http://blog.livedoor.jp/orimasa2008/ 
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    「安心院」と書いて“あじむ”と読む、この地は「宇佐」の下院でもある・・、

    津久見の町外れから高速道が繋がっている、近年繋がったと見えて、真新しい「東九州道」であった。 その高速道から一気に「宇佐」まで走ることにした。
    大分の町並みを右に望み、更に別府の町並みが遥か下方に見えている。 別府湾S・Aで小休止をとったが、このS・Aは風光雄大なところで別府市街から別府湾が一望の下である。 更に、あの懐かしい鉄輪温泉の湯煙がそちこちから漂い、反対側からは明礬温泉の特異な地形が見て取れる。 ほのかに硫黄の香がするようだが、きっと、そこから漂ってくるのだろう・・?。
    日出JCTより安心院、更に宇佐に至る・・、 
    ところで、安心院と書いて「あんしんいん」ではなく「あじむ」と読む。 大昔は、この辺りは葦が生えてる湿性盆地であったらしく、ここから葦が生える、あしうむ、あじむ、に変じたという、・・がどうも納得できない読みと、語字である。 発音からすると渡来語のような気もする、北に位置する、あの八幡様の根源・「宇佐八幡」は渡来の守り神とも言うし、その南側に隠れた様に位置するのが安心院である。 他に仏教的意味合いの読みではなかったか・・?、尤も仏教そのものが渡来の物であったが・・。

    安心院は、豊後国と豊前国の境にある町で、古来、北の隣町・宇佐との関わり合いが深い。特に、八幡信仰の総本社・宇佐八幡(宇佐神宮)とは関係が深く、宇佐神宮の八摂社の一社である「妻垣神社」が鎮座している。
    安心院の中心街から南へ3kmほど、安心院盆地にお椀を伏したような端正な小山・妻垣山が聳える。 この山裾に、古社とされる妻垣神社が鎮座している。県道50号線沿いの神社の入口には「一柱騰宮・妻垣神社」と記された大きな案内標柱も建っている。 “一柱騰宮”とは、地元の人は“いっちゅうとうぐうさん”と称しているようだが、正式(古式)には「あしひとつあがりのみや」と、ゆかしい読み方らしく、このことは古代歴史書・日本書紀に記されているらしい。 

    日本書紀の「神代」の記載の一項には・・、
    日向(美々津)から大和を目指して東征する神武天皇が、先ず最初に寄ったのが筑紫の国の宇佐の地であり、天皇は、一帯を治めている菟狭(宇佐)津彦(ウサツヒコ)と菟狭(宇佐)津媛(ウサツヒメ)の兄妹達とお会いになり、この時、「一柱騰宮」を造って天皇を饗応したとある。 
    この「一柱騰宮」があったのが、安心院の「妻垣」の地であると言い伝えられていて、神代の昔から祭祀されていた伝説の宮といわれる。 又この時、神武天皇は共鑰山に、母である玉依姫(比〓大神)の霊を祀る廟を造営し、侍臣の天種子命(アマノタネコノミコト・神武天皇の侍臣)に廟の守護を命じて東征の途についたという。 

    案内標柱の奥には鳥居そして参道石段が連ねて、古社らしい厳かな雰囲気が漂い、その頂上に燦然と朱塗りの神門そして流れ屋造りの本殿が鎮座している。 本殿横には「磐座」への案内板があり、そして社殿の正面には標高241メートルの妻垣山(ともかきやま・「共鑰山」とも書く)が控えている。 その山頂直下に、石の囲いが施された苔むした巨岩が祀られていて、これが「磐座」であり、“いわくら”と読むらしい。 巨岩信仰の一つであろう、神秘的な雰囲気が漂っていて、この磐座が一柱騰宮の奥宮とされている。 
    ここには案内板もあって、『 共鑰山の院(御神山)の謂われ、・・比〓大神(神武天皇御母、玉依姫)の御在所(院)である。・・玉依姫が「安楽の御心」となられた故に、ここは共鑰山の「ご神体の相当する」場所である。従って、「安心院」の名所は、玉依姫が、この磐座(いわくら)の院の内において「安心」された事に由来する訳である。  妻垣神社 』、と記されてある。 
    要約すると・・、「御神山(共鑰山=妻垣山)は、玉依姫命が降臨された御在所であり、この院の内において玉依姫命と共に利生(りしょう・仏用語:仏が衆生に御利益に叶うこと)についての語らいをされた。つまり、この磐座は、妻垣山の御神体に相当する。安心院の名前の由来も、玉依姫命がこの磐座で安心されたから」ということになる。
    「磐座」は、原始信仰という形で聖地とされ、古代より現在まで引き継がれ、残されているものであろう。 
    つまり、現在の妻垣神社は、上社・下社の二社からなっていて、山宮・里宮とも呼ばれる。 山宮とされる山中にある「磐座」は、神の依代として古代より奉祀していたものだが、(元より古代は社殿を持たない)、時代が下り麓の村里が発展するにつれて、身近な山麓に勧請して建てたのが社殿を有する妻垣神社であり、里宮とされている。
    太古・比〓大神は、霊地・妻垣(ともかき)山に御降臨され、妻垣神社に奉られている、そして、宇佐神宮の第二殿にも祀られているのである。

    妻垣神社の祭神は、主祭神を比〓大神(比売大神と同じ、玉依姫命)とし、相神を応神天皇(八幡大神)とその母君・神功皇后であり、これは宇佐神宮の祭神と全く同じである。 
    「妻垣神社由緒記」には、『神武天皇東征の砌(みぎり・とき、おり、ころ、時節)、宇佐国造の祖菟狭津彦(うさつひこ)此ノ処ニ宮殿を建立、奉饗シ旧跡デ、当時、天皇、天種子命ヲ以テ比〓大神ヲ祭ラセ給ウ。当社ハ比〓大神ヲ祭ッテ八幡宮ト号シ云々』、と記され、つまり、比〓(ひめ)大神が八幡神であると伝えている。

    「比〓大神」については、次項の「宇佐」のところで詳しく述べるが・・、
    比〓神(ヒメノカミ)は、神道の神で、神社の祭神を示すときには、並んで比売神とも書かれるともいう。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神の総称を指すものともされている。 最も有名な比〓神は、八幡社の比〓大神である。
    この比〓大神は宗像三女神、又は三女神の母后ともされ、三女神の末姫が三人の男子を生み、それぞれ成人すると長男は伊予国へ、次男は土佐国へ、そして末っ子の「ウサヒコ」は母とともに残って宇佐の国造りを始めると言う伝説が残されている。 
    宗像三姫の末姫は「イチキシマ姫」(弁天様で知られる)といい、邪馬台国の女王・卑弥呼と言う説もある。つまり、宇佐八幡宮の祭神・比〓大神とは邪馬台国の女王・卑弥呼なのでは・・、と。
    ところで、「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん・中国の正史・「三国志」の中の「魏書」に書かれている日本に関する条項)によると、邪馬台国(昔の日本)の中心は大分県中津市から宇佐市にかけての一帯に位置していたという表記がある。(豊前説)
    邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒメコと訓む)は、宇佐神宮の比売(ヒメ)大神であり、宇佐神宮の亀山の地が卑弥呼の墓であるとも言われるが・・、更に、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神=天照大神(アマテラスオオカミ)であるという説もある。 いずれにしても、神代よりまします比〓大神は、かくと断定され得ない神ともされている。

    妻垣神社は、元より八幡信仰の総本社・宇佐神宮とかかわりが深く、「宇佐神宮行幸会八社」の一社で境外摂社とされている。
    大神(邪馬台国の女王卑弥呼ともいう)の降臨の宇佐島はこの妻垣山であり、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はこの安心院であり、女王・卑弥呼の墓は妻垣神社の境内にある一柱騰宮であるという史家もいるほど謎のある神社でもある。
    古代、九州の政治・経済・文化の中心は筑紫、日向にあり、ここから豊後の国東半島を経て瀬戸内海へむかう位置に「宇佐」がある。 ここから潮流に乗って大阪にあがり、奈良の都へ出る古代の海の道があったことは、伝記・「神武天皇の東征」と一致する。
    一柱騰宮-妻垣神社-玉依姫-宇佐-神武天皇-大和という繋がりは、たとえ神武東征説話が架空だとしても、古代史の謎を解く鍵としては、歴家たちは興味津々であろう。

    今は亡き推理作家の巨匠・松本清張は、代表作の一つと言える短編・『陸行水行』を残している。 当時の歴史世評は邪馬台国のブームと言ってもよく、この時、清張自身も安心院の妻垣神社を訪れ、日本の古代史に興味を持ったとされている。
    物語は、『東京の大学で歴史科の講師をしている私は、「宇佐の研究」のため安心院の妻垣神社へやって来る・・・、』から始まり・・、宇佐神宮が最初のテーマとなり、安心院の風景があり、宇佐神宮の奥宮とされる妻垣神社のことが描写されている。 そして、耶馬台国はどこにあったか・・?、など、古代の旅路を自ら辿りながらスリラー風に描かれている。

    次回は、安心院・米神山

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  • from: orimasaさん

    2009年03月18日 11時08分45秒

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    日本周遊紀行(163)宮崎 「神武天皇」



    写真:宮崎神宮、神門より拝殿
    資料:神武天皇祖神の譜系



    「宮崎神宮」は、地元では親しみを込めて「神武(じんむ)さま」と呼ばれていて、神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)=神武天皇(初代の天皇)を主祭神とし、父君・ウガヤフキアエズ、母君のタマヨリヒメ(玉依姫命)を相神としている。 創建は社伝によると神代までさかのぼるが、現在の社殿は明治40 年に建て替えられたものという。 
    社伝によれば、鎮座地である宮崎は、神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた天皇の孫とされる建磐龍命(タケイワタツノミコト)が、その縁に因んでこの地に創祀したという。この神は、日本神話にも登場する人物で、阿蘇神社の主祭神であり、神武天皇の孫として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。
    最初の天皇といわれる神武天皇が誕生した地は、同県内の高原町の「皇子原」といい、奇しくも、祖神であるニニギが降臨したとされる高千穂峰の山麓に当たる。 幼名が「狭野尊」(サノノミコト)といわれたため同地に「狭野神社」が祀られている。その後、宮崎神宮に西方、「皇宮屋」(下北方町)というところに住むようになった。
    45 歳の時、「東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る・・」と察し、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)稲飯命(イナヒノミコト)と共に全国統一をめざして兄弟三人で日向を発つ。 そして現在の日向市の美々津(みみつ)港から船で東方へ旅立ったと伝えられている。(詳細は美々津の項で記載) 
    天下を統一し、政治(まつりごと)を行うべく、はるばる東遷の途に立たれたが、神武天皇は直接、大和に入ったのではなく、いろいろと寄り道をしている。 日向⇒宇佐⇒筑紫の国の岡水門(おかのみなと)⇒安芸の国の埃宮(えのみや)⇒吉備の国の高島宮(たかしまのみや)と、数年かけている。
    その後、浪速の津(大阪)へ上陸して生駒山の方から大和に入ろうとする。ところが大和の長髄彦(ナガスネヒコ)の激しい抵抗に合い、進路を阻まれる。このとき、神武天皇の長兄のヒコイツセは傷を負い、それが元で亡くなっている。 神武天皇は、「太陽に向かって攻撃するのが良くない」として、熊野のほうに迂回する。 回り道をし熊野の地にたどり着いたが、今度は、熊野の荒ぶれる神の毒気に当たり病に伏せる。元気を取り戻した彼は、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末にナガスネヒコを滅ぼし、こうして幾多の困難に遭いながら東征から6年目で漸く(ようやく)大和の国に到達し安住の地とした。 畝傍(うねび)の橿原(かしはら)の宮において即位の礼(神武天皇に即位)を挙げ、天皇を中心とした国の基を建てられ(建国)、荒ぶる国々を平定された。 大和三山の一つ畝傍山の北東麓、玉砂利の参道と素木の大鳥居が立つところに神武天皇御陵があり、その南側に、明治天皇により創建された神武天皇祭神の「橿原神宮」が鎮座する。

    神武天皇は、日向の国・高千穂に降臨したニニギノミコトから数えて四代目、天孫族の頭領・アマテラスからは六代目(又は五代目)そして、国生みの神々の祖神とされるイザナギ・イザナミからは七代目に当たるとされる。 日向の「高千穂」という地名の起こりは、ニニギがこの地に降臨するとき千本の稲穂をつみ、その籾(もみ)をしごいて蒔いたとことから「千穂」というようになり、その上にニニギノミコトの尊さを意味する「高」の字を付けて「高千穂」と呼ぶようになったと言われている。
    参考までに、高祖神々の系譜の概略を述べてみよう(参考・日本書紀系)・・、
    日本神話に登場する最初の夫婦神とされるイザナギとイザナミがおられた。そして、その子の一人(神)が天照大御神である。
    天照神以降の譜系は・・、
    天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代、高千穂神社、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命・ トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命・タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹:玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵) ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。 天照大御神から代代辿って、神武天皇までは六代目に当る

    日向・宮崎は、神話と伝説の古里と言われており、天地が作られた天地開闢(テンチカイビャク)から天孫降臨、そして神武遠征まで様々な言い伝えが残り、宮崎の各地に祀られている。 市内では、国生み神生みの日本最古の神、イザナギとイザナミのご神体を祀る「江田神社」、イザナギノミコトが禊(みそぎ)を行ったとされる阿波岐原のみそぎ池、イザナギノミコトを祀るイザナキの禊にまつわる「小戸神社」、イザナギの禊(みそぎ)の際に綿津見三神(ワタツミ・アマテラスの姉弟、住吉三神)を祀った「住吉神社」、ニニギの妻で海幸彦・山幸彦の母であるオオヤマツミの娘・コノハナサクヤが祀られている「木花神社 (きばな神社)」、山幸彦、豊玉姫のご夫婦神を祀っている青島神社、それにニニギは、高千穂町の高千穂神社、北川町に墓稜とされる可愛山稜に祀られている。
    そして、神武天皇の東征前の皇居跡と伝えられる皇宮屋(こぐや・皇宮神社)、初代天皇である神武天皇とその父の鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズノミコト) と母の玉依姫命(タマヨリヒメ)を祀る「宮崎神宮」などがある。

    次回は、佐野原

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    2009年03月18日 11時07分54秒

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    ◎日本周遊紀行(163)宮崎 「宮崎神宮」


    写真:宮崎神宮、拝所とその奥が拝殿


    一ッ葉道路は、国道10号の交通渋滞を解消するバイパスとして主に海岸を北上して佐土原に至っている、別名「くろしおライン」ともいう。 北部地域には、隣接している「フェニックス・シーガイア・リゾート」のグリーン地帯があり、こちらは世界でも屈指の施設で、自然と環境を備えた世界に誇れるリゾートだと当事者は自認しているようである。 因みに、シーガイアとは、英語で海を意味する「Sea」と地球を意味する「Gaia」を組み合わせた造語である。
    昨夜は、この道路のP・Aで夜を明かした。
    車には柔らかな朝日が入り込んでくる、今日もいい天気のようである。 海岸へ出ると陽光が海面に反射して一寸眩しいくらいである、陽気のわりに打ち寄せる波は大きく白の飛沫を上げている、やはり日向の海である。 近くのセブン・イレブンで配送したての朝食と、沸かしたての熱ったかコーヒーで鋭気を注入して、朝日に見送られながら出発である。
    今朝一番は、先ず宮崎市街地の「宮崎神宮」へ向かう。 

    JR日豊線のその名も宮崎神宮駅は、神宮を模した木造建築で、赤の銅版屋根と朱に塗られた柱などの神宮との調和と風情を考慮したデザインの駅舎である。だが、木造の建物駅舎は長年風雨に晒され痛みも激しく、近年、取り壊しが決まっているらしい。 目の前に宮崎神宮の銅板張りの大きな鳥居がデーンと建っていて、その奥に鬱蒼とした緑の森が広がっている、神宮の森であろう。
    駅前からゆっくり進めると、東神苑という大きな駐車場が現れる。我が愛車をこちらに止めて、そこから左方向へ玉砂利が敷き詰められた参道を行く。 両側を宮崎を代表する照葉樹(シイ、カシ、タブノキ等)の森が鬱蒼と広がり、限りなく続いているようである。境内の広さは広大で、何でも東京ドームの五倍以上もあるという。 いかにも神苑の森といった感じで、その神聖な空気を味わいながら、暫くすると本殿正面のエリアに到達する。西神苑の御奉安所というところには古代船・「おきよ丸」と称して、神武東征の神話を基に、西都原古墳群から出土したという“舟形埴輪”をモデルとした和船が展示されている。秋の10月下旬に行なわれる御神幸行列で、神武天皇役やその姫であるアヒラツヒメ役らが乗船し、祭りの新しい目玉の一つになっているという。
    ニの鳥居、三の鳥居から立派な社務所をすぎると、真っ直ぐな参道がいよいよ本殿に達している。 先ず神門があって、その左手前には「手水所」があり参拝のための手や口を清める、所作は左手、右手の順に洗い、そして水を口に含んで清めるのが作法である。
    本殿を模したとされる神門も豪奢な造りであり、左右の門扉には如何にも天皇家の祖神らしく神紋である大きな「菊の御紋」(正確には「菊花・三つ割菊に矢」というらしい)が配されている。 
    神門をくぐると、石組みの参道が拝所まで真っ直ぐに延び、石畳みの両側は整然と掃き清められた玉砂利が敷かれている。 神門も拝所も本殿と同じ「神明造り」といわれる造りで、屋根上には突き出た「千木」や「鰹木」が乗っている。 拝所とは我等がお参りするところで、こちらで、心新たかにして鄭重に参拝を済ませる。 この拝所には「神武天皇」と書かれた立派な額がかかっており、初代・神武天皇の御社であることが判る、周囲は菊の御紋を記した、小さな御旗が取り囲んでいて、一層、厳かな雰囲気を醸し出している。
    拝所の奥に、荘厳な拝殿が配してある・・?。 拝殿の左右二つの左側が神饌所(しんせんどころ:お供え物を調理する所)、そして、右側に御料屋(神事を行うための色々な道具類を保管する一種の倉庫)と称している。そして中央奥に正殿があるが社殿に隠れ、殆ど見ることは出来ない。
    因みに、拝所と拝殿は、何れも本殿(正殿)に安置されている御神体を礼拝する場所であり、同じ意味合いを持つようであるが、ここでいう「拝所」は、一般参拝者が正殿に礼拝する所であり、「拝殿」は、正殿に宮司や神職のたちが神饌(神に供える飲食物、稲・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜ソサイ・塩・水など)を調理し、奉げて礼拝するところであり、又、記帳して御祓いを受ける参拝者が拝礼するところと理解する。
    各社殿は、霧島神宮や鵜戸神宮の色彩豊かな華やかさとは違って、伊勢神宮に模した古代の神社様式とされる見事な「神明造り」である。 落ち着いた木目の入った白木造りの建屋に、屋根は銅板葺きで千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が設けられ、その直線的で簡素な佇まいには、やはり伊勢神宮様式の影響が顕著である。
    尚、伊勢神宮・正殿は他の神明造りとは異なり、独自の様式を備えているため、特に「唯一神明造り」とも呼ばれている。

    ここで、「社殿」について一言・・、
    日本における古代神物(仏ではない・・、)信仰には、神社とか社殿などは元々存在しなかった。 本来、神は目に見えない存在であり、特定の場所に常住しているわけでもなく、古代の人々は、祭りの度毎に祭祀場を設けて、神聖視された巨岩や樹木に神を迎えて、祭りが行われた。 神が降臨し、依り代とされる神籬(ひもろぎ:古来、神霊が宿っていると考えた自然物である山・森・老木などの周囲に常磐木を植え巡らし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)という様式は、今でも地鎮祭などの祭場が小規模、簡素化した姿が見られる。
    「神」が社殿の内に常住し、「人間」の住む家の形をした神社が建てられるようになったのは、寺院様式の建築の影響が大であるという。 仏教伝来以後に初めて、寺院に真似て神社の社殿が造られるようになったとする説は、史学界では有力とされ、仏教伝来が6世紀頃とされるので、それ以降に神社、神殿が造られ始めたことになる。
    だが、神の住居としての独自性を強調するために、仏教寺院建築の様式とは別の、古来からの建築様式を神社の本殿建築に採用したともいう。それは、弥生時代からの伝統である高床式の倉庫建築であるといわれ、穀倉倉庫を模した建物であるとされている。それが高じて高床式建物は神聖視され、更に神に近づくため次第に高所化され、出雲大社のような高床の社殿が出来上がったのかもしれない。(出雲大社はこの後、記載します)
    社殿造営で、古代の神社様式とされるのは神明造り、大社造り、住吉造りといわれる三つの古社様式であり、春日造り(奈良の春日神社本殿の形式・近畿地方に広く分布)、流造り(賀茂御祖神社・賀茂別雷神社の本殿の形式、全国に広く分布)、八幡造り(宇佐八幡宮本殿の形式)などが採用されるのは奈良・平安時代になってからである。
    銅板葺きの屋根飾りには「鰹木と千木」が装飾されているが、神社本殿などの棟木の上に横たえて並べた装飾の木を鰹木といい、形は円柱状で鰹節に似ていることからという、勝男木とも書く場合がある。千木は屋根隅の破風と呼ばれる所に、先端が延びて交叉した木のことで、祭神が男神の社は千木先端を垂直に削り、女神の社は水平に削るとされている。また鰹木の数は其々、奇数は陽数で男神、偶数は陰数で女神とされていて、何れも、他の神社でもこれに倣っているものが多いという。 当然、当社宮の祭神は神武天皇なので、拝殿の鰹木は7ヶ(神門は5ヶ)で千木先端は垂直の切込みである。 因みに、伊勢神宮・御正殿は、祭神が女性の「天照大神」なので鰹木は10ヶ、千木先端は水平に切られている。
    千木・鰹木ともに元々は古来の建築方法に倣い、補強のためのものであったと考えられている。

    次回は、神武天皇


    .

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    2009年03月16日 10時50分43秒

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    日本周遊紀行(169) 津久見 「大友宗麟」

    .

    津久見は、大友宗麟の最後の居住地であり、終焉の地でもある・・、

    道路は、番匠大橋で国道10号線と別れ、佐伯市内は海岸沿いの国道217号線となっている。市内を去って程なく海岸の高台に至ったとき、佐伯の町並みが鮮やかに望下できた。その正面遠方に元越山(もとごえざん・582m)であろうか、尖がり山が佐伯の町を見守っているようだ。
    こちらには、ほぼ三角形の彦岳が眼前に迫り、その裾野の海岸ギリギリのところを日豊線と国道が走っている。 これらの地域は、山腹がいきなり海岸に落ち込んでいる険しいリヤス海岸で、所々、トンネルが貫通して無理やり通ってる感じでもある。 
    程なく津久見へ達している、市域としては比較的小さなエリアのようである。 平成の大合併で自治体の数が少なくなり、その分、各自治エリアが広くなっている感があるが、そんな中、津久見は隣の市町、臼杵市、上浦町に対して合併協議を申し入れているが、いずれも合併に対して、慎重な姿勢を変えていないという。
    ところで、九州のなかでも大分県は、日本の「懐」というべき瀬戸内海や豊後水道に面し、台風の襲来や冬の厳しい季節風から守られているため、比較的温暖な気候に恵まれているという。 そういえば、九州地方が台風や梅雨時の大雨による被害が報告される中、大分地方は意外とニュースになっていないのに気が付く。 津久見は、この温暖な気候と地形を利用してのミカンの栽培が盛んで、「津久見ミカン」は全国でも有名ブランドでもある。

    その津久見は、戦国期には大友氏の支配下にあり、大友宗麟が津久見を最後の居住地と位置づけ、宗麟(1530〜1587)終焉の地でもあるという。 宗麟は、大友家の嫡男として豊後府内城に誕生、世に言う「大友二階崩れの変」(豊後大友家での御家騒動)で家督を継いだ。 その後、毛利氏や秋月氏等との抗争を続けながら、その最盛期には豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向と四国・伊予半国を支配し、強大な戦国大名となった。 
    ところが、九州の関が原といわれる「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人達の反乱が相次ぎ、島津義久などの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。 こんな中、天正14年(1586年)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請し、了解した秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し、各地で島津軍を破っていく。 だが宗麟自身は、戦局が一気に好転していく中で病気に倒れ、豊後国・津久見で病死している、58歳であった。
    九州征伐後、秀吉の計らいで大友義統(よしむね・宗麟の長男)には豊後一国を安堵したが・・、その前に秀吉は、宗麟に日向の地を与えようとしていたらしいが、宗麟自身は既に統治意欲を失っていて、これを辞退したという・・、もしくは直前に死去したとされている。
    墓は津久見市内と京都市北区の大徳寺にあり、さらに津久見市上宮本町の響流山・長泉寺に位牌がある。

    キリシタン大名としても知られる宗麟であるが・・、
    天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との最初の出会いであった。その後、キリシタンに帰依(洗礼名をフランシスコ・ソウリン)し、キリスト教の領内での布教を許可したり、施設団をローマ教皇のもとに送ったりしている。 宗麟がキリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。 
    一方では、キリシタンになったことが大友家臣団の宗教対立にも結びつき、これは宗麟の晩年に国人衆の蜂起という形で、不利な立場に置かれることに成ったのは皮肉である。 又、宗麟は、キリスト教をかなり厚く信仰していたため、神社仏閣を徹底的に破壊したという逸話があるようだが。しかし、これは隣国の日向の国侵攻において新たなキリスト教国の建設を夢見たとされ、宗麟が日向国内において限定的に行った行為であり、本拠である豊後国内では宗麟が寺社仏閣を破壊したという資料は見当たらないという。 
    耳川の合戦で敗色濃厚となって篭城する際に、宗麟は、キリスト教徒もそうでない者も城内に避難させ、自ら握り飯をつくって配ったともいう。又、宗麟は、信仰を深めるほど、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世との間で葛藤し続けたともいう。

    次回は、安心院(あじむ)


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    2009年03月15日 10時09分40秒

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    日本周遊紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」


    写真:佐伯を代表する三の丸・櫓門の威容



    秀吉子飼の毛利高政が、現在の「佐伯」の基礎を形造った・・、

    北川町の道の駅、「北川はゆま」で一寸遅い朝食をとる、朝食とはいっても、一片のパンと飲物くらいであるが・・。 ところで「はゆま」とは早馬(はやうま)から転じたもので、江戸期に設けられた駅制度により、駅(宿場)に置かれた馬のことであるらしい。 ここは現在は国道10号線であるが、この地に昔の駅舎が在ったかどうか定かでないが、九州南北を往来する昔からのメインルートでもあった。 
    列車レールに駅があるように、車の道路にも全国的に駅やサービス・ステーションがある。この「道の駅」は、休憩のためのパーキングとしてはもちろん、人と町の交流ステーションであり、地域の文化や歴史、名所や特産品などを紹介、発信する情報交流の場としても魅力を発揮している。 小生のように、全国を股にかけている旅の者にとっては実に重宝で、一宿一飯の地にもなっている。 それを示すように、駅の一角に巨大な「駅馬」のモニュメントが建っている。
    国道10号線は、宮崎県から大分県に入ったようである。 緑鮮やかな山間の地で、起伏曲折は多いが、さすがに1級国道で造りは立派、時速にして60kmで悠々と走れている。
    内陸部の宇目町、直川町の山地をようやく抜けて、佐伯の町に来たようで、佐伯市は、2005年(平成17年)3月、上浦町・弥生町・本匠村・宇目町・直川村・鶴見町・米水津村・蒲江町が合併し、新市制によって広範な佐伯市が発足している。
    元々、この地域は南海部郡(みなみあまべぐん)といって、以前から「佐伯南郡」と呼ばれ、強い結び付きを有しているらしく、住民の日常社会生活圏は連帯意識をもち、経済圏もほぼ一体的であったという。 そのため、県内でも最も早く合併に向けて2000年12月には佐伯市・南海部郡5町3村任意合併協議会が設置され、2005年に合併したことから、面積が九州最大となる新たな佐伯市が誕生している。 本来、各地域は支所や支庁と言われるところ、ここではユニークにも「振興局」という名称が付けられているという。

    国道10号線が番匠川に達した辺りから沿岸域に出たようである。この辺りの海岸線は、凡そ200kmに及ぶ「日豊海岸国定公園」にも指定されてるリアス式海岸が続く峻険な地である。そんな中、佐伯市街は九州有数の清流・番匠川の豊かな水に恵まれた地域であり、市の中心地はその番匠川の河口に広がる小域な沖積平野に市域を形造っている。
    番匠大橋を渡って右折し、川沿いを行くと間もなく佐伯市街に入ったようで、街路案内によって左折すると、いきなり巨大な城門が現れた。 歩道には石畳を敷き詰め、クロマツの並木を造り、一部区間では電線を地下埋設していて、シットリとした白壁の土塀が続く。旧藩政時代の武家屋敷の佇まいで歴史的景観、街路の調和が実に良い。
    この地域、市内中心部の大手前から城山の麓にそって養賢寺(ようけんじ)までの約700mは「日本の道100選」にも選ばれているという。 城門は、三の丸御殿の正門として、寛永14年に創建された櫓門(やぐらもん)といい、江戸時代の城郭建築を色濃く残す、歴史的建造物でもある。

    佐伯は、元より海の幸、山の幸に恵まれた富める海辺の村であったが、江戸開府と同時に大いに発展してゆくことになる。
    佐伯藩初代藩主・毛利高政は慶長6年(1601年)、日隈城(ひのくまじょう:大分県日田市亀山町)から佐伯二万石を封ぜられ、番匠川下流の左岸に位置する八幡山(城山)に佐伯城を築き、番匠川の河口付近の干潟を埋め立てて城下町を整備している。 町の南側を大きく曲がり込む番匠川の本流が外堀となり、支流や入江も自然の防御線となっている。 更に湿地帯が内堀のようにして残され、軍事的な防備だけでなく、防火線にもなっていると言われる。 番匠川は、下流部を中心に古くから舟運が発達しており、江戸時代から舟運のための流路や水深を確保するための工事が行われていたという。 江戸時代の船着き場は藩主専用の乗船場、藩士の乗船場、一般の乗船場などに分けられていて、渡し船や定期船も多く、河川に沿って街が賑わいを見せていたという。
    櫓門を起点にして武家屋敷の町並みが尽きるところに、藩主・毛利家の菩提寺であった名刹、養賢寺があり、裏の高台にもある毛利家累代の御廟所も壮麗である。

    この地方は平安期より「豊後・佐伯の荘」と称していた・・、
    鎌倉期には豪族・佐伯氏が領主として豊後守護・大友氏に属し、番匠川の上流の標高224mの栂牟礼山(とがむれさん)の山上に山城を築き、ここを本拠としてたが、戦国期の九州騒乱で主家・大友氏が失脚にともない佐伯氏も改易、城を去っている。 
    現在の佐伯城(城址)は慶長6年(1601)、豊後日田の日隈城から移封された毛利高政が11年の歳月を費やして、標高140mの八幡山に築城した山城である。 高政は、豊臣秀吉子飼いの武将で、元々、森を姓としていた。 ところが天正10年(1582年)秀吉による中国攻めの最中、本能寺の変で織田信長が凶刃に倒れたため、秀吉は中国の毛利氏と急遽和議を結んで、森高政を毛利方への人質とした。 ところが高政は、当主・毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にもあり、以後、毛利姓を名乗るようになる。 その後は、大坂城の築城や秀吉による朝鮮出兵の際の対馬に城を築くなど活躍、豊後・日田二万石の大名となって五層の天守(日隈城)を築くなど威勢を張った。 しかし、毛利高政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で石田三成方の西軍に組したため、徳川家康によって佐伯二万石へ転封された。 以後、佐伯城は、毛利氏12代の永きに亘って居城となし、明治維新まで続くことになる。 関ヶ原の合戦を経て佐伯藩に移封、築城と町づくりの礎を固めることになるが、江戸期、多くの藩が移封、転封される中、秀吉子飼いの大名でありながら、綿々と引き継がれ明治維新まで存続できたのは佐伯藩だけであるという。
    尚、戦乱の時代も去った寛永14年(1637)、毛利氏三代目・高尚は八幡山麓の三の丸に居館を移したため、佐伯城は山城としての役目を終えることになる。 そして、三の丸への登城門が現在の「櫓門」である。 尚、佐伯城城郭は、明治の「廃城令」で城が取り壊されて現在は遺構のみが残っている。山城へのルートは幾筋かあるが、いずれも昔の面影を残しており、山頂からは佐伯の町が一望できる。

    次回は、「津久見」

    本文とほぼ同じ内容で、「gooブログ」にも掲載しております。
    日本周遊紀行 
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005 

    日本周遊紀行 【閑話休題】
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005/e/9cfe2574af698b774ae74c9ab448f7db

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  • from: orimasaさん

    2009年03月14日 10時10分44秒

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    日本周遊紀行(167) 九州山地 「米良地方」



    次に、米良地方(めらちほう)について・・、

    先ず、伝説を一つ・・、
    日向・高千穂に降臨したニニギノミコトが巡遊しているとき、好漢と見たオオヤマミズミコトは二人の娘のイワナガヒメ(姉)とコノハナノサクヤビメ(妹)の両方を嫁にしようとした。だが、ニニギは、花のような美人である妹のコノハナノサクヤだけを選び、妻とした。 失意のイワナガヒメは一ツ瀬川を遡り、この地に田を開き、実り豊かな稲作を作られたという。 ヒメの作った米が非常に「良い米」であったので、この地方に「米良」という名が起こったという。 そして後々、良い米から米焼酎が作られ、好まれるようになったという。

    日向、肥後国境付近の山間には椎葉(椎葉山・椎葉荘)と米良(米良山・米良荘)呼ばれる地域があり、山深い地域のため、有力大名の支配も及びにくく、半独立的な地域であった。
    米良地方は椎葉同様、平家落人の隠遁僻地として知られる。 なかでも「村所」を中心とする米良部落は、南北朝時代の末期、肥後の菊池一族が足利方の九州探題・今川氏に敗れ、この米良の山奥に隠れ住んだといわれる。 入山した菊池氏は、それ以来、米良姓を名乗り、文武に優れ、礼節を重んじ、村では合議制による民主的な施政を敷き、幕末までの約400年にわたり統治したという。 そして、明治期の版籍奉還に際し、最後の領主となった米良(菊池)則忠公は、領地の全てを領民に分かち与え、人々の生活を担保したとされ、その遺徳は今もなお、米良の歴史とともに語り継がれているという。 九州では、現在でも米良姓を名乗る人は、その菊池一族ゆかりの末商だとも称している。
    この米良地方は、近年になって明治22年(1881)に西米良村と東米良村に分割され、更に、昭和期の1962年に一ツ瀬川の銀嶺地区辺りを境に、東側の東米良村は西都市・木城町に編入されている。
    西米良村は、九州山地にへばりついている村で、一ツ瀬川の最上流部が村を貫通している。
    江戸期まで米良地方は肥後・人吉藩の領地であったらしいが、明治初期の廃藩置県により日向・宮崎県に割譲された。従って、地風は肥後・菊池氏の影響もあって、人吉・球磨地方の色合いが濃く、宮崎県になって130年たった今でも、米良地方と肥後・球磨地方の人々は、年賀を欠かかさず、お互い交流しあっているという。

    ところで、焼酎処とも言われる西米良村の中心地、「村所」の酒屋の店先には、「白岳」、「極楽」といった球磨焼酎の銘柄が正面に並び、日向の「霧島」などは隅っこに追いやられているという。酒屋さん曰く、「西米良では今は焼酎はつくっとらんが、球磨焼酎がやっぱり地元になりますね、白岳がよう出ます」といった具合で、西米良村民達は、独特な球磨焼酎を求めているという。
    人吉地方は、球磨焼酎作りのメッカといわれる・・、垣根の向こうから「ちょっとお茶でもせんかね」(ちょっとお茶でも飲んでいきませんか)と、声がかかる。「それでは えんりょなく」と、垣根の内に入れば 爺さんが球磨焼酎の一升びんと湯のみを持ってくる。肴は自家製の漬物。これを指でつまみながら、焼酎をちびりちびりとやるうちに心と心がつながってきて・・、 
    一方、日向地方は、薩摩が焼酎作り日本一なら、宮崎は焼酎消費の日本一だそうである。米良地方は日向・宮崎に属しているが、歴史の流れからも窺えるように、人脈、物資の流通は昔から肥後・人吉、八代との繋がりが強いといわれる。今でも流通路である国道など、熊本県方面は概ね整備が進められているが、宮崎・西都市方面は交通が困難な難所区間がある。

    肥後・球磨地方の湯前町から西米良へ通ずる横谷峠越えは、通称・横谷越え(現、国道219号線)と言われる難所中の難所で、昔は、凡そ20k行程の山道を荷駄で行き来した旅人や焼酎のびんを積み上げた馬方さんが往来し、その旺盛な脚力には敬服していたとされ、 又、近年に至っても、道路の状況はあまり変わらず、ここを走っていた定期運行の国鉄バスのドライバーのテクニックには感心したといわれている。 現在は、横谷峠直下に長大なトンネルをぶち抜いて、相当に交通が楽になっている。
    村は、村所地区を中心にして菊池氏・所縁(ゆかり)の城址、御所跡、神社仏閣、記念館など歴史、文化、自然や風土など地域固有の観光資源がある。 又、最近では特に、生涯現役元気村と名打って、「カリコボーズの休暇村・米良の庄」等、テーマ性を持たせた地域づくりを推進しているという。 「カリコボーズ」とは、山を守るもの、森の精霊、神的存在の言霊ともいうべきもので、村おこしのイメージ・キャラクターとしているらしい。
    米良で善政を施した菊池氏の本拠は、現在のその名も熊本県菊池市で、古来から市名に名を残す由緒ある一族であり、平安期までは九州の政治・文化の中心地として栄えた。このような関係から現在、西米良村と菊池市は「友好姉妹都市」を結んでいる。
    米良地区は、これまで、2004(平成16)年度に地域づくり総務大臣表彰、2000(平成12)年度に過疎地域自立活性化優良事例国土庁長官賞、優秀観光地づくり賞を受賞している。 更に、2004(平成16)年度は黒木村長が観光カリスマ百選にも選ばれ、2005(平成17)年度は、オーライ!ニッポン大賞を受賞していて、正に、地域振興の牽引的役割と見本を示している。 

    次回は、「佐伯」


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    2009年03月14日 10時09分22秒

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    日本周遊紀行(167) 九州山地 「南郷村」



    椎葉の南に位置する南郷村は、百済王の伝説の地であった・・、

    飛鳥期の660年代、「白村江の戦い」(はくすきのえ:朝鮮南西部を流れる錦江と呼ばれる河口付近で、日本と唐:中国との海戦が行われた。今から1300年以上も昔のことである)において、朝鮮半島の百済の国の要請により応援にかけつけた大和(日本)の水軍であったが、錦江下流、白村江の河口に乗りこんだとき、そこには唐と新羅の連合水軍170艘が、時こそ来れりと待ち構えていて挟み撃ちにされ、無念の惨敗を喫してしまう。
    朝鮮の史記の記述によれば、「大和軍の船は火災につつまれて次々と沈没、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まったという惨状であった」とされている。 敗戦の悲報は、翌月には早くも筑紫の「那の津」(現在の博多)の本営にもたらされ、やがて敗残兵や戦に敗れて亡命する百済人たちが那の津の浜に次々と渡来してきた。 この時、連合軍に滅ぼされた百済の王族達は大和・畿内地方に亡命してきたが、その後、国内の内戦、動乱に巻き込まれ、その王族たちは日本を転々としながら最終的に落ち着いたのが、「南郷村」であったという。
    南郷村の中心に位置し、守護神でもある「神門(みかど)神社」には、百済王の御神体が祀られ、隣にある「西の正倉院」といわれる倉庫には、百済製とされる銅鏡や馬鈴・馬鐸(鈴などの馬に付ける装飾具)などの遺品が多数収蔵されているという。
    古色蒼然たる神門神社の創建は西暦718年という古社で、主祭神に大山祀命(オオヤマズミノミコト)と百済国・禎嘉帝を奉ってある。

    普通、日本各地の神社には、偉人や神格化された人物以外の例外を除いて、概ね、神話に出てくる国造りの神を主祭神としていて、大山祀神もその一神である。 ここ神門神社は、それ以外に韓国の百済滅亡の時逃れてきた禎嘉帝(伯智王ともいうらしい・・)をも奉ってある珍しい神社である。 神社はこの地に伝わる百済王伝説と密接なかかわりを持ち、しかも併せて、千年以上の長い間、百済王の秘宝とされる宝物が神社に保存され、地域の人々によって守り継がれてきたという。
    南郷村に落ち着いたとされる百済の王族は、禎嘉王とその子の福智王で、本国より追尾の手が迫ったが土地の豪族の援助もあり、これを撃退したと伝えられている。 王はこの地で崇敬され、死後、神として祀られたといい、福智王は現在の木城町に住んだとされ、町の比木神社に奉られている。 
    神門神社の近くには、「百済王禎嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられ、王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っているという。 又、本殿内には、千点以上の鉄鉾や鉄製の武器類が保管されており、当時の戦闘の様子や関わりが考えられるという。さらに、須恵器(古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器)の大甕(おおがめ・底の深い壺形の陶器)や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。 これらの宝物、遺蹟品は「西の正倉院」といわれる特別仕立ての倉に納められている。
    因みに、「正倉院」とは、奈良の東大寺・大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造り(あぜくらづくり)といわれる特殊な木造建築で造られた倉庫で、聖武天皇や光明皇后(東大寺や各地の国分寺を建立)に縁(ゆかり)の品をはじめとする、天平時代(奈良時代のこと)を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設である。 奈良・正倉院は、東大寺伽藍の一部として、「古都奈良の文化財」のユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
    「正倉」とは、中央や地方の官庁や寺が、宝物を収めるために設けた倉庫のことである。   

    南郷村の神門神社に保存されていた数々の遺品のうち、特に貴重とされる宝物も有ったという。それは奈良・正倉院にあるものと同じ伝世品(美術品などの、古くから大切にされて世に伝わってきたもの)の鏡銅といわれる宝物があり、しかも、奈良正倉院のものが、遺跡から発掘された出土品であるのに対して、こちらの神門神社の鏡は大切に保管、保存されていたものであった。 これによって更なる調査が始まり、数々の遺品を鄭重に保存すべく、東大寺・正倉院を忠実に再現した南郷・正倉院を建造することなったという。
    村人は、「本物をつくる」ことにこだわり抜き、門外不出の正倉院の設計図を学術目的で入手、木曽の国有林からヒノキを調達、建築方法から瓦、金具にいたるまで学術支援のもと、古代建築の修復などに携わった名工達を呼んで当たらせたという。 この間、柱を運ぶ御木曳式(おきびきしき)、礎石の上に柱を立てる立柱祭、上棟式など大切な行事には村人が総出で参加し、「西の正倉院」は計画から10ヶ年の歳月をかけて平成8年に完成したという。 
    現在、神門神社の東側には、西の正倉院といわれる奈良・東大寺の正倉院と寸分違わぬ造りで、巨大な姿を見せ、その高さは4階建てのビルに匹敵するほど大きいという。 館内には銅鏡をはじめ、神門神社に集積された宝物、又、百済王伝説の祭りとされる「師走まつり」に関連する物など、百済伝説を紹介する品々などが展示されている。 
    それにしても、よくぞ人口2500人足らずの貧村が、歴史に残る豪奢な建物を造ったもんであると感服する。 現在でも、離れ離れになった百済王の子孫達が、祖先である百済の人々の御霊をお祀つりするため、年に一度再会するという「師走祭り」が、1300年以上もの間村民によって受け継がれている。 
    南郷村の「百済小路」といわれる村を見下ろす小高い丘には、「南郷温泉・山霧」をはじめ西の正倉院、百済の里、恋人の丘、コテージ山霧・霧の宿等数多くの観光施設が点在している。

    次回は、「米良」


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  • from: orimasaさん

    2009年03月12日 11時23分34秒

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    日本周遊紀行(167) 九州山地 「椎葉村」



    次に、日向・宮崎の山村で、椎葉、米良、南郷地方について・・、

    「椎葉」は、九州山地の中央部の山襞深く、県境、五家荘や五木に接する日向の最奥部に位置し、共に平家の落人伝説を秘めた地である。 昔から人跡まれな秘境として知られ、俗に「推葉千軒」という一郡にも匹敵する広い面積の士地に、わずかな人家が散在していたのである。 昭和30年に、我国初のアーチ式ダムである上椎葉ダムができるまでは、車も行けない秘境であった。今は自動車で行けるが、けっして道は広くなく山また山を超えて細い道を行くことになる。 もともと日向・椎葉は、中央から離れ、陸の孤島とされた内陸の流刑地として、有名無名の罪人がこの地に遠流された地でもあった。

    1185年、源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は、全国各地へと落ち延びるが、ある一行は険しい山を越え、熊本の阿蘇路を経て九州山脈の最も奥深い椎葉へと辿り着き、かくれ住んだという。 だが、この山地も鎌倉幕府の知るところとなり、追手が迫ることになる。 源氏の棟梁・源頼朝より追討の命を受けたのは「扇の的射」で有名な那須与一宗高であった。ところが、与一自身は病の床に伏していたので、弟の那須大八郎宗久が軍勢を率いてこの椎葉を目指すことになる。 険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見するが、そこで大八郎が目にしたものは、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をしながら平和に暮す農民達であった。 大八郎は哀れに思い「椎葉の平家の残党は一人残らず討ち果たした・・、」と幕府に嘘の報告する。
    その後、大八郎はこの地に屋敷を構え、この場所で生活することを決め、やがて、平清盛の末裔とされる「鶴富姫」と出会い、二人の間にロマンスが芽生える。 そして姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音の合図に逢瀬を重ねる。 そんな中、幕府から、「すぐに兵をまとめて帰れ」との命が届き、仇敵平家の姫を連れて帰るわけにもいかず、大八郎は一人で帰ることにした。この時既に、鶴富姫は身ごもっており、大八郎は、「生まれた子が男子ならば我が故郷下野の国へつかわせ、女ならこの地で育てよ」と言い残し椎葉を発つ。
    この大八郎と鶴富の運命的な逢瀬の時、生まれたのが全国的にも有名な「ひえつき節」だという。

    『ひえつき節』 宮崎民謡
    庭の山椒(さんしゅう)の木 鳴る鈴かけて 
    ヨーオー ホイ(以下、おなじ)
    鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー

    鈴の鳴る時ゃ 何と言うて出ましょ 
    駒に水くりょと 言うて出ましょヨー

    おまや平家の 公達(きんだち)流れ 
    おまや追討の 那須の末ヨー

    那須の大八 鶴富捨てて(おいて) 
    椎葉たつ時ゃ 目に涙ヨー

    恋の別れの 那須大八が 
    鶴富捨てて 目に涙ヨー

    泣いて待つより 野に出て見やれ
    野には野菊の 花盛りヨ

    以上、那須の大八と鶴富姫の下りだが、歌詞は、まだまだ続くという・・。
    椎葉村は、標高千メートル近い山の斜面を切り開いて、雑木や雑草を焼き、残った灰を肥料としてソバやヒエが作られてきた。 有名な「ひえつき節」は、このような生活の中から生まれた椎葉を代表する民謡で、焼畑によって収穫されたヒエを木臼に入れて杵でつくときに歌われる労作業歌でもある。
    平家の鶴富姫と源氏の武将・那須大八郎の平家落人にまつわる伝説は、今も残っており、鶴富姫が住んでいたといわれる豪壮な屋敷も存在する。 平安期の寝殿造りで、建築様式から約300年前の建立と云われ、昭和31年国の重要文化財となっている。
    毎年11月の初旬の3日間「椎葉平家まつり」が行われ、祭りのハイライトは大和絵巻武者行列で十二単の平家方の鶴富姫と源氏方の那須大八郎が、よろい姿の騎兵と一緒に町中を練り歩くという。
     
    次回は、「南郷、米良」



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  • from: orimasaさん

    2009年03月12日 11時23分05秒

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    日本周遊紀行(167) 九州山地 「五家荘、五木村」


    序(ついで)ながら、「西南の役」で敗れて、敗残の薩摩軍が辿ったといわれる、所謂、九州脊梁山地の町村について述べてみよう。 北は阿蘇山系、南は霧島山系に挟まれ、宮崎と熊本の県境の九州の屋根と言われる山峡の地に、郷愁と伝説を秘めた村々や部落が点在する。
    先ず、肥後・熊本に属する「五家荘」(ごかのしょう)と「五木村」について・・、

    「五家荘」について・・、
    1300〜1700m級の九州山地の奥深い位置に点在する五家荘は現在、八代市泉町(旧:泉村)の中の旧村であった椎原、仁田尾、樅木、葉木、久連子の五つの集落の総称であって、特に五家荘という行政地名としては地図には載っていない。
    五家荘地方は、平家落人伝説の残る九州中央山地の奥深い山間に点在する集落のことで、九州の秘境中の秘境と言われている地域である。 管原道実の子孫や平家の落武者と源氏の追討など追われる者と追う者達が山奥深く入り込み、そのまま住みついてしまったという興味ある伝承の地でもある。
    菅原道真は、藤原氏の策略によって太宰府に左遷されるが、道真の死後、長男と次男にも追討の手が延び、それを逃れるためこの地に入り、左座(ぞうざ)という氏名を名乗って、仁田尾(にたお)、樅木(もみき)辺りに住みついたという。
    又、平家一門の平清経(平重盛の三男)は、源義仲が上洛したことにより豊後竹田の緒方氏を頼って四国から豊後鶴崎を経て竹田に入ったとされている。 緒方氏の娘を妻として緒方姓を名乗ったが、緒方維義が叛旗を翻し源氏方へ寝返ったため、清経は太宰府から山賀の城、柳が浦へと落ち、世をはかなんでそこで入水したとされる。 だが、五家荘の地へ逃げ込んだという伝承もあり、その後、三人の息子たちが其々の里に住み着き、庄屋として領地を開拓したという。 
    五家荘にある「平家の里」は、都を偲ぶ隠れ里の雰囲気が漂い、朱色が鮮やかな神殿造りの「平家伝説館」(資料館)には平家落人伝説の資料などが展示してある。又、能舞台や当時を偲ばせる古民家が点在し往時を偲ばせている。 他に、最奥部の樅木(もみき)地区には、現在は観光名所となっている「ロープの吊橋」が多数見られる。 
    「五家荘」は川辺川の上流域にあり、深い渓谷に架かる藤の蔓を使用した吊橋が、地域住民の日常生活に重要な役割を果してきた。だが現在は、大部分がワイヤーロープの吊橋に架け替えられ、五家荘の名所となっている。
    「五家荘」は、豊かな自然とロマンが今も残っている地域である。


    次に、五木村について・・、
    「おどま盆ぎり盆ぎり・・」と、どことなく哀愁をおびた子守唄である。
    「五木の子守唄」で有名な五木村は、川辺川上流に沿って集落が点在している。 現在、この五木の近辺はダム工事のために狭い道をダンプカーが行き来しており、道路工事などの最中であるらしく、いづれは、子守唄の里でもある五木の中心地は、ダムの底に沈むことになるようである。
    壇の浦の戦に破れた平家の一族である武将17人、そして従者135人が五木、五家荘の山中にひそみ、さらに世人の目をくらますため、源氏の武将の姓である土肥、椎葉、那須、黒木らを名のり、居着いた(いつき=五木)であろうという伝承(平家伝説)がある。
    五木村から肥後・八代へ抜けるのに「大通峠」というのがあり、かつて貧しい五木の名子(なご・中世から近世、一般農民より下位に置かれ、主家に隷属して賦役を提供した農民)達は、娘たちが七つ八つになると、ロベらし(クチ減らし・家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数を減らすこと)のため、町(八代)に女中奉公に出したもので、そのための親子は、必ずこの峠で別れなければならなかった。 「マチさ行けば毎日マンマ(御販)が食べられるとバイ」・・と、母親の声を後に泣きながら山を下って行く光景がしばしば見られたという。 五木の子守唄の一節に、「おどま親なし七つの年に、よその子守で苦労する、つらいもんばい他人の飯は、煮えちゅおれども のどこさぐ・・」
    と、当時の悲しい様子が見て取れる。
    子守唄公園には温泉センターや歌碑、ユニークな子守唄像が立っており、かやぶき茶屋や子守茶屋の店もあり、お茶や椎茸などの地元名産品などが販売されている。

    『五木の子守唄』  熊本県民謡
    おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
    盆が早よくりゃ 早よもどる

    辛いもんだな 他人の飯は
    煮えちゃおれども のどにたつ

    おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆
    よか衆ゃよか帯 よか着物

    歌詞にある「おどま勧進勧進」の勧進とは、「もの乞い、乞食」のことで、「私は乞食(こじき)」という意味である。
    哀愁を帯びたメロディーと切ない思いが伝わる日本でも代表的な子守歌であるが、レコード等で全国的に有名になった「五木の子守唄」とは別に、五木村で古くから唄い次がれてきた「正調五木の子守唄」もある。

    『正調五木の子守唄』 伝承者 吉松 保
    おどまいやいや 泣く子の守にや
    泣くと言われてにくまれる
    泣くと言われてにくまれる

    ねんねこした子の可愛さむぞさ
    おきて泣く子のつらにくさ
    おきて泣く子のつらにくさ

    全国的にも有名な「五木の子守唄」であるが、歌詞は様々なものが伝えられているという。 特に、正調五木の子守唄は歌詞で1番、2番というもはなく、どれが元唄で、何番まであるかなど全然判っていいないという。 専門家によると、多分、即興的に歌われ、そして消えていったものも多数有るともいわれている。
    又、歌詞やメロディの発生時期・時代についての記録も伝承もなく、自然発生的に歌われだしたものが、今日まで伝承されてきたと解釈されている。伝承者によって似たようなものもあれば、ひらがな、漢字などを含め、記述した人によっても微妙な違いがあるともいわれる。

    次回は、椎葉村


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