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  • from: orimasaさん

    2008年04月24日 10時09分50秒

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    日本周遊紀行(108) 相馬・「野馬追」

    雲雀ケ原で行はれる甲冑姿の「神旗争奪戦」


    仙台東部道路から国道6へ出る、別名「陸前浜海道」ともいう・。  交通の要衝・岩沼市、歴史の街・亘理町を過ぎる・・。 
    山元町は亘理町と合併し「亘理市」として発足する見込みであり、そして、ここは県境いでもある。 いよいよ福島県だ・・、我が故郷の県である。

    国道6号が相馬市内に入って、その一角に中村神社・城跡が在る。 
    相馬氏代々の氏神と居城跡であり、 17世紀、相馬18代藩主・相馬義胤(そうま よしたね)公により建立されている。 始めは平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷遠征の際に、北の守りを固めた「砦」として造営されたのが始まりとも言われる。

    元々、相馬家は下総国(千葉県流山市)の住人で千葉氏の一族であった。 
    源頼朝の奥州平泉の藤原征伐、いわゆる、奥州合戦に従軍し、その功績によって奥州行方郡(今の鹿島町・原町市・小高町辺り)地を与えられ、これが奥州・相馬家の成立の起因となった。
    相馬氏の居城は、元は小高城であったがこの頃、対立抗争を続けてきた伊達政宗が仙台城に移ってから、これに呼応して伊達氏に備えて中村の地に築城移転したといわれる。

    相馬・中村神社は別名「お妙見さま」とよばれ親しまれている。 相馬氏の中村移城にともなって、同時に妙見宮を小高から移して祀った。 妙見信仰は相馬武士の精神的支柱であり、今でも「相馬野馬追」の総大将はここ「妙見宮」から出陣している。



    さて『相馬野馬追』のこと・・。
    相馬氏の祖国、下総国相馬郡小金原に野生馬を放し、敵兵に見たてて軍事訓練をしたことに始まるといわれている。 捕えた馬は神への捧げ物として、相馬家の守護神である「妙見様」に奉納したという。
    奥州相馬氏の祖・相馬義胤が陸奥国行方郡にこの神事を移して以降、戦国時代には伊達氏をはじめとする奥州諸豪に備えるための訓練として、又、「妙見宮」へと奉納する神馬の神事として続けられた。
    相馬・中村藩時代には現在の原町市街地の南部一帯を「妙見神馬の牧場」として馬を放牧しながら、甲州・武田流の兵法を野馬追に応用し、その陣立てによる騎馬の訓練をも行っていた。 併せて、野馬を追い駿馬を捕らえて「妙見社」に奉納する行事をも兼ねたといわれる。

    明治以降は、妙見三社(小高神社・太田神社・中村神社)による祭礼行事として定着していたが、明治5年頃には野馬原の野馬はすべて狩り獲られ、旧来の「野馬追」は消滅したという・・。 その後、相馬三妙見の一つである太田神社(原町市)中心となって野馬追祭の再興が図られ、それが今日の「相馬野馬追」祭礼の原型になっているといわれる。

    現在は、相馬野馬追執行委員会(委員長=原町市長)が中心となり、新地町、相馬市、鹿島町、原町市、小高町、浪江町、双葉町、大熊町、葛尾村、飯舘村が支援する祭りとなっている。 祭礼は毎年の7月23日〜25日の3日間に亘って行はれ、特に最終日、原ノ町郊外の「雲雀ケ原」で行はれる、甲冑競馬や神旗争奪戦は見物である・・。
    国の重要無形民俗文化財 千葉県流山市とは姉妹友好都市。

    歴史の街,・相馬は全国的に知られた民謡のふるさとでもある、この地方だけで十数種の民謡が残る。名の通った曲は今日でも全国的に愛唱されている。    
    「相馬流れ山」は、相馬藩主が下総の「流山」から移ってきたために命名された。元は軍事陣立の唄であり、今でも勇壮な「相馬野馬追い」の祭りには必ず唄われる。

    <font size="2" color="#0000FF">『相馬流れ山』 福島県民謡

    相馬流れ山ナァーエ ナァーエ     青い野馬原
    習ゐたか ござれナァーエ       一夜の中に
    五月中の申ナァーエ ナァーエ     花が咲いたよ
    アノサお野馬追ナァーエ♪♪      騎馬の花
         (以下囃子略)

    『新相馬節』 
    ハアーア 遥かかなたは 相馬の空か    秋の夜寒に針の手とめて
    ナンダコラヨート チョーイチョイ     (お囃子)
    相馬恋しや なつかしやナンダコラヨート  主の安否を 思いやる
    ハアチョーイチョイ            (お囃子)

    『相馬盆唄』
    ハアアーアイョー
    今年ゃ豊年だよ アコーリャコリャ    道の小草に
    穂に穂が咲いてよヨー コラショット   米がなるときは
    ハアアー道の小草にも          山の木萱に 
    ヤレサナ米がなるヨ           米がなる
    アヨイヨイヨーイトナ

     
    国道6号線・陸前浜街道を南下する。 
    沿岸地ではあるが、やや内陸部を走り海面は見渡せない・・。 丘陵地の裾には田園地帯が連なり、いかにも東北の温暖地と言える風景である。
    「陸前浜街道」の名称はすでに8世紀初頭、陸奥の国の国府 として多賀城(宮城県)が置かれ、そこに通じる官道「海道」として開かれた事に始まる。 
    JR東日本の常磐線が並行して走り、常磐高速道は富岡町まで延びていた。


    次回は、 小生の故郷・「いわき湯本」
    尚、G・Wは期間(4月25〜5月7日頃)は、都合により投稿を一時中断致しますので悪しからず・・。 今後もお楽しみに・・!!。

    下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001  『旅の記憶』

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  • from: orimasaさん

    2008年04月23日 10時18分32秒

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    日本周遊紀行(108) 仙台Ⅲ・「東北楽天ゴールデンイーグルス」


    この東北の都・100万人都市の仙台に近年一大歓心事が発生した、プロ野球球団を誘致したのだ・・。 球団名は「東北楽天ゴールデンイーグルス」・・!!。 

    2004年のプロ野球界は激動・激変の一年だった。 パ・リーグ球団は長年、経営不振の赤字に悩んでいた。そんな中、近鉄球団が解散しオリックスに吸収合併すること発表したため、各球団オーナーはセ・パのバランス上11球団の1リーグ制を支持した・・。 
    一方、プロ選手会側が合併問題を一年間先送りすることを主張、要求拒否の場合にはストライキの可能性をも示唆した。  この時、或るオーナーが「たかが選手の分際で無礼な事を言うな、分をわきまえろ・・」と言い、物議をかもしている。 
    その後、球団と合併凍結を求める選手会の会合が何回か行われたが決裂となり、プロ球界初となる9月18・19の両日、セパ両リーグでストライキが決行された。

    後に両球団のバランスを保つために、パ・リーグにおいて新球団を設立することを決定する。 この時、IT企業のライブドアが新球団設立に参加し、本拠地を宮城県仙台市の宮城球場にすると発表するが、同じくIT企業の「楽天」が新球団の設立に名乗りを上げ、本拠地をライブドアと同じ仙台にすると発表した。 
    プロ野球オーナー会議が開かれ、近鉄・オリックスの球団合併を承認し「オリックス」とする、また来季パ・リーグに新規参入する球団として「楽天」を承認、ここに「東北楽天ゴールデンイーグルス」が正式に誕生したのである。

    「東北楽天ゴールデンイーグルス」は初代オーナーに楽天社長の三木谷氏を当て、監督に田尾氏、主な選手に投手は岩熊、一場、川尻・・、内野手は野村、吉岡、星野、高須・・、外野手は磯部、飯田、関川・・、等々が新規球団入りした。 
    尚、「ゴールデンイーグル」は英語で「イヌワシ」のこと。イヌワシは東北6県の深山に棲息し、陸上の食物連鎖の頂点に立つ猛禽類で、国天然記念物に指定されている。 『優雅に飛んで狙った獲物は逃がさない』という意味を込めて球団が名付けたという。
    因みにこの年、、王監督の「ダイエーホークス」はやはりIT企業のソフトバンクが買収し「ソフトバンクホークス」となっている・・。 

    <font size="3" color="#FF0000">東北人は、「楽天・イーグルス」を応援しよう・・!!
    頑張れ・・!! 「楽天・イーグルス」・・。


    楽天イーグルスの過去の成績・・、
    2005年度(初代監督:田尾安志)==38勝97敗1分(勝率.281)で最下位。5位・日本ハムと25ゲーム差、優勝したロッテから47ゲーム差、首位のソフトバンクからは51.5ゲーム差・・。
    2006年度(2代目監督:野村克也)==2年連続最下位に終わったものの、前年より9勝多い47勝(85敗4分)を挙げ、5位・オリックスとは4.5ゲーム差・・。
    2007年度(監督:野村克也)==球団創設3年目にして初めての最下位脱出を決め、単独4位。 最終成績は67勝75敗2分勝率.472で4位。優勝チーム日本ハムとの差は13.5差、3位ソフトバンクとのゲーム差7.5・・。


    次回は、 陸前浜街道・「相馬」


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  • from: orimasaさん

    2008年04月22日 10時05分36秒

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    日本周遊紀行(107) 仙台Ⅱ・「仙台城(青葉城)」


    主城・「仙台城」は伊達政宗によって江戸開府直前の1601年に築城が始まり、併せて城下町・仙台の建設をはじめ、居城も完成と同時に岩出山から仙台城へ移している。 
    政宗は、「大坂の役」では重臣・片倉重長が後藤基次(後藤又兵衛)らを討ち取り、又、真田幸村の攻勢を受けて立つなど大きな功があり、開府後、家康より60万石を安堵されている。
    幕藩体制時代になって世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、先にも触れたが「貞山堀」と呼ばれる運河を整備し、北上川水系の流域を整理、開拓し、現代まで続く穀倉地帯を造り上げた。 
    この結果、仙台藩は石高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保したという。 一説には江戸中期には300万石を超えていたとも言われる。
    文化的にも上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、大崎八幡神社や「瑞巌寺」などの建造物を残している。

    「仙台城」は、現在の仙台市の青葉山にある山城で、慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に亘り、伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。 幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、幕末、奥羽越列藩同盟など戊辰戦争を経るも、一度も戦火にまみえることなく要塞としての機能を終えた。
    その後城郭は、明治初期から大正にかけて本丸破却、大火により二の丸焼失、又、昭和期の戦災によってその大半が失われたという。

    「仙台城」の本丸は、海抜115〜140mの丘陵台地に立地し、東西約240m、南北260mの広さがあって、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山と呼ばれる深い原生林に囲まれ、南側を竜の口峡谷が囲むという天険の要害となっていた。
    青葉山に位置する事から「青葉城」という雅称を持ち、一般的に青葉城と呼ばれる事が多い。 青葉山は、仙台七崎の一つ「青葉ヶ崎」に由来する。
    正宗は、仙台城は山城で、江戸期における平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていたともいう。

    「仙台城」、「仙台」の名前の由来は・・?中世に遡るという。
    中世期・国分氏の居城があって、その名を「千代城」と名付けていた。
    陸奥国の国分氏は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族であり、戦国時代末に伊達氏に臣従したが、伊達政宗の不興を買って滅んでいる。
    1601年、伊達政宗 が今井宗薫(秀吉の御伽衆として仕え、秀吉没後は徳川家康と接近し、家康の子・松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫:いろは姫の婚約成立に尽力している。)にあてた書状の中に、『去る十四日此地仙台へ相移り申候』と記されていることから、 伊達政宗が「千代」から「仙台」に命名されたといわれる。

    仙台土産に有名な「萩の月」が有る・・、
    宮城県の県花「萩」と秋中の名月と正宗の辞世の句の月をイメージしたとされる・・?、 因みに、20世紀を代表する土産品アンケートでは、全国ベスト10の第3位であるとか・・。


    次回は、 仙台・「楽天イーグルス」

    <font size="2" color="#FF0000">下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。

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  • from: orimasaさん

    2008年04月21日 09時45分26秒

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    日本周遊紀行(106) 仙台・「伊達政宗」



    国道45はそのまま行くと仙台市内であるが、小生は沿岸部の国道6号線を行くことになる。
    杜の都・「仙台市」は慶長5年(1600年)伊達政宗が開いたというのは衆知のことで、仙台といえば伊達藩、伊達藩と言えば「伊達政宗」であろう・・。

    東北の覇者、「伊達者」(だてもの)といわれた正宗は、御存じ「戦国の雄」として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」ともいわれる。 
    「伊達者(だてもの)」とは、朝鮮出兵時に政宗が揃えた戦装束が余りに派手で華美なものであり、上洛の道中において巷間(ちまた)の噂となったことから呼ばれるようになったといわれる。 これ以来、派手な装いを好み、着こなす人を指してと伊達者と呼ぶようになったと伝えられる。
    だが、正宗の本音は派手好みの秀吉の気に入るよう、危ない橋を渡らないよう計算したものであった。 
    この「伊達者」から、人目につくように形を表す意味;侠気を示す意;派手に振舞うの意になり「伊達な若い衆」、「伊達や粋狂じゃない」などと言われ、又、見えを張ること;外見を飾ることで「伊達めがね」などと言われるようになった・・。

    伊達政宗は1567年に「米沢城」で生まれている。 1567年といえば室町末期に当り、世は戦国期の動乱に入ろうとしていた時期である。 
    因みに、同時期の織田信長(34歳)は美濃・斉藤家の稲葉山城を陥し、「天下布武」を発して京に上った時期であり、秀吉(31歳)は信長傘下で墨俣城を築城し、美濃攻めで稲葉山城を攻略、美濃の竹中半兵衛を軍師に迎える。 又、家康(26歳は)、今川義元亡き後、武田信玄と協定して今川氏の領国を割譲し、遠江(とうとうみ)を得ている。

    「米沢城」は、米沢藩の主城であり、上杉家の名相・上杉景勝、上杉鷹山(ようざん・治憲、日向国高鍋藩出身)などの居城として有名である。 築城は鎌倉期、源頼朝の事務方大番頭・大江広元の2男、長井時広が奥州征伐後(奥州藤原氏)に頼朝の命で地頭職になったのをきっかけに築城されたようである・・。
    長井氏は8代・約150年続くが、室町初期(1380年)に伊達宗遠(8代)が置賜地方を攻略すると、伊達家の支配下となっている。 
    伊達政宗(17代)もこの城で生まれ、伊達家の全盛期を築くことになる。

    伊達氏は政宗の時代に一時、会津若松城移るが秀吉によってすぐに米沢城に戻されてる。そして秀吉の「小田原攻め」に遅参した伊達政宗は、岩出山の一揆を扇動したという理由も付加させられて、米沢城から「岩出山城」に左遷されている。

    現在の岩出山は仙台市の北、古川市と鳴子の間に位置する岩出山町である。 
    移封に先立ち、当時奥州の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城に約40日滞在し、その間に城の縄張りや改修修築を行っている。 その後に、伊達政宗への引渡しを行ったとされている。 以後、仙台城築城までの12年間伊達政宗の居城となった。 
    その後、正宗が仙台城に移ってからは、岩出山城は仙台城の支城、仙台藩主一門の岩出山・伊達氏が居住する要害になり、明治維新まで続くこといなる。 
    尚、岩出山城には仙台藩の藩校のひとつである「有備館」が置かれ、現存する最古の藩校として名所、史跡に指定されている。

    「伊達政宗」は豊臣政権時代から隙あらば天下を収奪しようと何度も策略していたとされ、中央から常に警戒されてもいたという。 彼は「あと20年早く生まれていれば・・、天下が取れたのに)」と悔しがっていたともいわれる。

    徳川期の正宗は、後の三代将軍・徳川家光からは尊敬されていたらしい・・。
    家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたこともあり、将軍就任の際に、正宗は率先して頭を下げ諸侯を抑えたともいわれる。 
    病床に着いた際も将軍・家光自らが見舞ったり、医者の手配をするなど配慮を見せている。 将軍の前での脇差帯刀も許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったともいわれる。
    伊達者・伊達政宗は、1636年(寛永13年)5月江戸で永眠した、享年70歳であった。 
    独眼流正宗は、「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられているという。

    辞世の句は・・、
    『曇りなき 心の月を先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く 』


    次回、 「仙台城(青葉城)」

    <font size="2" color="#FF0000">下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。

    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
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  • from: orimasaさん

    2008年04月19日 13時47分55秒

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    日本周遊紀行(105) 宮城・「塩釜」


    「塩竈神社」本殿


    昨日から相変わらずの小雨模様であった。
    日本周遊の旅に出て、幸いにして殆どの期間が秋日の好天に恵まれてきたが、旅の終わりになってどうやら雨に遭遇したようである。 四季晴雨の豊かな国土・日本である・・、雨も良しとしよう。

    松島の「湯の原温泉」を早々に後にした。
    塩釜市の繁華街で・・、とは言っても街は未だ朝の寂の中だが・・、小生の好物、「吉野家」で朝定を食し、人心地がついた・・。

    塩釜市は、「鹽竈神社」の門前町である。
    地域名は、現在の通称文字である「塩釜」であるが、本来は鹽竈神社から由来しているので、「鹽竈」が正しいともいわれる。 しかし、現代の用語としては、余りにも字画が煩雑難解であり、従って、鹽と塩は同意語であることから、鹽を塩と変えて「塩竈」としているようである。 
    公の機関の官公庁、公文書等、本来の意味を尊ぶ呼称としては「塩竈」としているが、竈の字も、これまた字画・字形としては難解であるので、一般的な書き方は「塩釜」になっていて、これで良いことになっているらしい。 
    しかし本来「釜」は、ご承知ご飯を煮炊きする「かま」であり、「竈」は「かまど」と称して「釜」を載せて下から火で焚くものである。 「釜」と「竈」は、類似語のようで同意語ではないといい、疑問を呈する人もいるこた・・。
    「鹽竈」を「塩釜」としたのは、些か無理があったようだが・・、それにしても、昔の人は難解な字を平気で使用していたものである。

    鹽竈神社は文字通り製塩の神様で、御神体に塩の神が祀られている。 製塩が行われた地域には全国に何箇所か、この名称の神社があるという。 
    因みに、鹽竈神社は奥州一の宮である。 一の宮、二の宮というのは、平安期に朝廷が社宮を核付けしたもので、その国で最も社挌の高い神社のことをいい、宮中央(朝廷)から各国に国司が赴任したときなどに一の宮、二の宮、三の宮と巡拝しなければならなかったという。

    塩釜の隣町が「多賀城市」である。
    多賀城は奈良・平安期に朝廷の国府「多賀城」が築かれた地であり、東北の中心地であった。 坂上田村麻呂が蝦夷(エミシ)の人々との争いを封じるため、都よりはるばる遠征して来て、北の拠点としたのも、この地であった。 
    陸奥国の総鎮守、多賀城から見て北東の方角に位置する鬼門として建てられのが「塩竃神社」であったという。

    その塩竈神社は、塩釜市街地の西、その名も宮町に広大な境内を有して鎮座している。
    陸奥国の一宮であり、全国にある塩竈神社(塩釜神社とも表記する)の総本社でもある。
    塩土老翁神(シホツチノヲヂ)を主祭神とし、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、経津主神(ふつぬしのかみ;いずれも古事記、日本書紀に登場する日本の神々)を相祭神とする。 塩土老翁神は、海や塩を神格化した神と考えられ、神武天皇や山幸彦(火遠理命:ホオリノミコト・神武天皇の祖父)を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。
    境内に、「志波彦神社」が同座している。 祭神は、志波彦神(しはひこのかみ)とされているが、志波(しは)と鹽(塩・しほ)の読みから塩土老翁神とする説もある。

    神社の由緒は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
    奥州藤原氏など歴代の領主からも崇敬され、伊達政宗は仙台城築城の際に社殿を修造し、以降、歴代の仙台藩主が手厚く保護したという。

    塩釜神社境内には「シオガマザクラ」という貴重な桜の一種があり、毎年メディアに取り上げられるほど有名である。
    塩竈神社の主各殿、志波彦神社及びシオガマザクラは国、県の文化財に指定されている。

    堀川天皇(平安時代後期の第73代天皇)は、次のようなシオガマ桜の歌を詠んでいる。
    『あけ暮れて さぞな愛で見む 塩釜の 桜が下の 海士のかくれ家』

    次回は、伊達仙台・「伊達政宗」

    <font size="2" color="#FF0000">下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。

    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
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    2008年04月18日 09時44分58秒

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    日本周遊紀行(104) 石巻・「北上川流域の盛衰」


    石巻へ来た、市街の中心を清冽な「北上川」が流れ注ぐ。
    この北上川は「旧北上川」と称している・・が, 一方、「新北上川」が追波湾に注いでいることは、先回(103・「牡鹿半島」)の項で述べた。
    「新北上川」は、旧北上川の流量調節や、農業・水運のため、昭和の初頭、津山(柳津)で分流し、旧追波川を改修、合流させ運河として造成したものという。
    北上川は岩手の中枢を流域とし、往時は水運文化として栄え、栄華を極めた地域である。  その流域には、一関、平泉、衣川、前沢、水沢、胆沢(いさわ)、江刺、金ヶ崎、北上、花巻といった、既に大和朝廷の古代から知られる地域名が多く並んでいる。 

    古代奈良期の頃は、この辺りは未だ東国・蝦夷といわれた処の中心で、蝦夷・エミシの棟梁である「アテルイ」という人物が古代東北を治めていたことは、東北の歴史に興味のある人は周知のことであろう・・。
    大和の国統一を計る朝廷は宮城・多賀城に根拠を持ち、幾度となくエミシの中枢である水沢、胆沢を攻めるが、アテルイによってことごとく阻まれてる。 そして最後に登場するのが征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(・・後述)で、彼によって決着をつけられるのだが・・、この時期に北上川は多いに利用され改修もされたという。
    後には俘囚(ふしゅう・朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化したエミシ)と呼ばれる安倍氏の反乱である「前9年の役」などを経ながら藤原全盛期を迎えることになる。 平泉の藤原三代の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される奥州・藤原文化のように東北独特の文化圏を形成した。 それには「北上川」が社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。

    宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など、流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」といえる。 
    ただ、岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は、<font size="2" color="#FF0000">『古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。こんな国が他にあるだろうか・・』
    ・・とも。
    北上川には、国指定史跡、名勝、天然記念物の多くが川沿いに分布しているが、それは苦難の歴史を秘めていることでもあり、今は只、ゆったりと流れている。
     

    江戸時代の石巻港は、北上川水運によって南部藩領からも米が下り、河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽二大貿易港として全国的に有名であった。
    伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え、江戸へと向かったという。 これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、石巻発展の礎となった。

    旧北上川河口から松島湾岸を経て阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約60kmに及ぶ日本最長の運河「貞山運河」(ていざんうんが)が延びている。 この運河により、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野の全ての水系、および、福島県の阿武隈川水系がつながっている、この運河を「貞山堀」とも呼ばれる・・。 伊達政宗の命により開削されたため、諡号(しごう:主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号のこと)を名付けて「貞山公」と名付けられたという。

    戦国末期(1558年)の頃より、阿武隈川河口から北上川河口まで、政宗が堀削に着手してから明治期の1884年頃まで永々と掘りに掘って、仙台湾の海岸線約130kmの内、凡そ半分の約60kmに及ぶ日本最長の運河が出来上がったのである。 
    運河は、岩手県北上盆地・宮城県仙台平野・福島県中通りの広大な河川交通・物流に供するものであったが、仙台平野においては、江戸時代初期の新田開発における灌漑用水路、排水路としての機能も重要であった。
    しかし、北上川の度々の洪水や鉄道輸送との競合によって、近年はその役割を終えている。 現在は、物流に用いられる例はまれであるが、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーに用いられている。 運河沿いの一部には自転車専用道路も設置されているとか・・。


    次回は、 宮城・「塩釜」
    ( 『松島』については「温泉と観光」の項で記載します)

    下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。
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    2008年04月17日 10時05分03秒

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    日本周遊紀行(103) 「牡鹿半島」


    国道45はこの後、志津川町からは内陸へ向うので、ここで分かれて沿岸沿いの国道398を行くことになる。
    志津川の市街地を通過して、志津川湾を見ながら、神割の岬から北上町(石巻市)に入ると、やがて、R398は北上川の河岸を行くようになる。 砂州を両側に形成しながら雄大に流れ、河口がまた広大である・・!!、間もなく新北上大橋を渡る。

    こちらの河川はその名も「新北上川」と称している。
    北上川は、岩手県、宮城県を流れる北上川水系の本流で一級河川、流路延長249km、流域面積は東北最大であり、また、日本の河川としては勾配がかなり緩いことも特徴となっている。
    岩手県岩手町の「弓弭の泉」(ゆはずのいずみ)を主な源流とし、東に北上山地、西の奥羽山脈の間の岩手県中央部である盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを貫流しながら北から南へと流れる。 宮城県に入り、仙台平野に流れ出た北上川は大きく蛇行を繰り返しながら、登米市、津山町付近で洪水防止のため新たに開削された「新北上川」と「旧北上川」とに分かれる。 
    新北上川はその後東へ向きを変え、石巻市北上町で追波湾(おっぱわん)に注ぐ、古称では追波川とも呼んでいた。 旧北上川は迫川・江合川と合流、南流し石巻市で石巻湾に注ぐが・・、このことは後ほど・・。

    国道を南下し鎌谷峠のトンネルを抜ける、再び海岸へ出ると女川街道となる、又の名を「リアスブルーライン」ともいうらしい・・。 女川市街の手前まで来ると、崎山展望公園があり、ここからの女川湾が雄大に見渡せる。 沿道の桜の並木が多く、名所になっているらしい・・。
    牡鹿半島の付根にあたる、女川町(おながわ)は東北の原子力発電の街としても知られている。女川原発では、現在3機が稼動し、東北電力全体の電力量の13%にもあたる発電が操業中とか・・。 ちなみに全国の総電力量の約30%は、原子力発電によって造られると言われる。
    その女川町は又、金華山沖漁場という日本有数の漁場を抱える。 そこは暖流・寒流が交差する豊かな漁場で、豊富な魚種が数多く水揚げされることで知られる。
    女川町は小さな町域であるが、豊かな漁場と原子力発電などの交付金によって財政は豊かであり、そのためか、周辺地域(北上町、牡鹿町など・・)が石巻市と合併する中、石巻市域に囲まれながらも自主独立を保っている。


    牡鹿半島はオガ(男鹿半島・秋田)だはなく、オシカと呼ぶ。 
    小生は勘違いで宮城の「オガ」と読んでいたが・・。 その半島の牡鹿町は、永い間「捕鯨の街」だったらしい・・。
    日本沿岸では、昔からセミクジラの回遊があり、湾や入江に迷い込んだ”クジラ”やシャチ等を捕獲していた。 また南氷洋での操業が始まった昭和初期には、国内の大手捕鯨会社が集まって、牡鹿の鮎川浜は捕鯨の基地となっていた。 
    しかし、昭和47年、捕鯨を取り巻く国際的な環境が変化し、圧力も年々増し、ついに昭和62年(1987年)を最後に、一部の鯨種を除いて捕鯨が全面禁止となってしまったという。
    日々の食卓に欠かせなかったクジラ肉が姿を消し、有数の捕鯨基地であった牡鹿町もかっての面影はなくなった。 
    現在、ミンククジラについては、IWC(国際捕鯨委員会)でも資源量が十分であることがすでに確認されている。 国と牡鹿町では、沿岸捕鯨の再開とともに、南氷洋で増え過ぎたミンククジラの「年間50頭の捕鯨の再開」をIWCなどで訴え続けているという。
    半島の大部分を占める牡鹿町は、2005年4月1日に石巻地域1市6町で合併し、石巻市となった。

    牡鹿半島のすぐ東に、気象通報でお馴染の離島である「金華山」が在る。
    奈良朝期、東北地方で我が国最初の金が産出され、朝廷に献上されたことから「金華山」と呼ばれるようになったという。 
    港の正面に、その名も「黄金山神社」が鎮座している。
    1200余年前に創建されたという、歴史ある黄金山神社の本殿、拝殿等の社殿が立ち並び、祭神は、金銀財宝を司る金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)、金山毘賣神(カナヤマヒメノカミ)であると・・。
    金華山は、出羽三山、恐山とともに東奥三大霊場とされ、明治以前までは女人禁制の島・霊島として、全国から尊崇を集めていたという。 
    島全体が鬱蒼(うっそう)とした原生林が生い茂り、四季おりおりの美しさがある。また野生の鹿が「神の使い」として大切に守られ、参拝の人々を出迎えてくれるし、角切りの神事も行われてるという。


    次回は、石巻・「北上川流域の盛衰」

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  • from: orimasaさん

    2008年04月16日 09時36分43秒

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    日本周遊紀行(102) 三陸南部・「気仙沼」


    白砂と松の緑で目の保養をし、更に国道45を南下する。
    広田湾を見ながら、「宮城県」に入ったようである・・。 
    三陸名物のリアス海岸を味わえる場所としては唐桑半島もその一つであろう、半島の何れからも、断崖絶壁が広がり、眼下には大小の鋭い奇岩・怪岩が連なる。 半島の東側にある二つの岬、シンボルは巨大な石柱で「折石」という・・、高さ16m、幅3mの大理石の石柱で、荒波の海にヌッとそそり立っている。 なんでも「折れ」と頭につくのは三陸大津波で先端が折れたかららしい・・。 
    風光明媚な海岸線が続く唐桑半島であるが、その地形から過去に大きな津波の被害を受けてきた地域でもある。 

    G・S(ガソリンスタンド)に寄り、昼時(ひるどき)なので「何処っか、美味しいラーメン屋はないかね・・、」、「すぐ其処に有りますよ・・、」・・と小生の車のプレートNoを見ながら「気仙沼はフカヒレラーメンですよ・・!」・・。
    言われるままに紅いノレンをくぐって早速食してみた、ヌルッとした食感はサッパリ味で良い、汁も実にいい味を出していた。

    フカヒレといえば、漁業で栄えた港町・気仙沼が本場である。
    ふかひれはサメのヒレを晒して干した白色か淡黄色の半透明状の食品のことで、高級中華料理の材料として知られてる。 フカヒレスープやフカヒレ姿煮として加工され、ふかひれラーメンやふかひれ寿しは気仙沼の味として全国的にも有名である。 
    栄養価としてもコンドロイチンやコラーゲンが多量に含み、不老長寿、百薬の源と健康食としても優等生である。

    気仙沼の見所はやはり大島瀬戸を挟んで、目の前に浮かぶ「大島」であろう。 緑の真珠の島といわれ、気仙沼湾入口の周囲22kmの島で、亀山、十八鳴浜、海中公園、竜舞崎と景観が並ぶ・・。
    平成18年、気仙沼市と本吉郡唐桑町が合併し、新気仙沼市が誕生する。


    国道45は別名「東浜海道」ともいう、並行して気仙沼線が海岸を行く。
    元吉町の大谷海岸から小泉海岸は明るい景観が続く、特に小泉海岸は砂浜の美しいところである。 「白砂青松100選」にも選ばれ、若者がサーフィンに興じていた。

    歌津町も緑の濃い街で小さな町域であるが、しかしそれなりの歴史があった。
    源頼朝の奥州討伐により藤原氏は壊滅し、その後、歌津一帯は鎌倉・源氏の支配下になり、さらに戦国期、豊臣秀吉時代から伊達氏の所領となる。 
    伊達藩政以前は、歌津をはじめ三陸一帯の海岸には、一本の黒松もなく、見渡す限り荒涼たる浜で怒涛が岩をかみ、飛沫は遠く飛散して内陸に及び、作物は塩害に晒されたという。 この状態を見て「伊達政宗」が殖産のため防潮林の育成策を打ち出し、それから三百余年の今日まで、種子が次々と飛散して三陸沿岸一体が黒松林で覆われるようになったと伝えられている。
    三陸界隈の松林は、自然林ではなく人工林だったのである・・。 
    南下の途中、緑濃き三陸地域に感心していたが、古人の英知に改めて敬服し、敬意を表したい・・。

    志津川町・歌津町は合併協議が順調に進み、来年度「南三陸町」として新たに発足することが決まっている。


    次回は、 「石巻」

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  • from: orimasaさん

    2008年04月15日 11時00分54秒

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    日本周遊紀行(101) 三陸・「陸前高田」



    国道.45にはリアス海岸の小さな半島を越えるたびに、いくつもの大小の峠を越えるようになる。
    大船渡の細長い町並みを抜けると広田半島(末崎半島)・・?の付け根に当たる山地を行くようになる。 この通岡峠は、その中でも比較的大きめの峠であろう・・、標高はわずかに170mであるが海から一気に登るので、そのわりに道は急坂で険しい。
    峠からは遠くに海を臨むことができ、すぐ南に神奈川県民としては懐かしい「箱根山」というのが聳えていて三陸を代表するような松の緑も秀麗で目を潤す。
    この通岡峠を境に「陸前高田」に入る、峠直下では「三陸自動車道」のトンネルが掘削中のようでもある。

    国道45のドライブで、そろそろ一息入れたいと思っていた時に「道の駅・高田松原」が現れた。 ゆっくり休憩しながら案内板を見ると、このすぐ裏手に名勝「高田松原」があった。 
    小雨模様だった薄暗い様気も、今はすっかり晴上がっているし、そこまで脚を延ばしてみた。

    三陸の海岸は、リアス海岸で断崖絶壁ばかりかと思われているが、実は平坦美景な砂浜も多少はある。 中でも有名なのが、ここ「高田松原」であろう、こちらも三陸を代表する景勝地で、約2km続く弓形の砂浜は、背後には樹齢300年を超える数万本の赤松や黒松が続いている。
    日本百景にも数えられる白砂青松の浜はさすがであった・・。

    「高田松原」は、往時の江戸初期の頃は、ただの砂浜や湿地帯であったという。
    気仙川から運ばれた土砂が、広田湾の沿岸流によって堆積され、これが高潮の時や風によって飛び砂となり地域の人々は難渋していたという。 
    高田松原は江戸初期(1667年)、菅野杢之助(かんのもくのすけ)翁が仙台藩の許しを得、地元民の力をかりて「松」を植栽したのが始まりで、三代にわたり植えられ保護されてきた。 
    更に、享保年間(1716〜1736)には、松坂新右衛門翁が植栽を続け、ここに、現在にいたる松原の原型が誕生したとされる。 しかし、昭和35年のチリ地震津波では、200メートルにわたって砂浜が流失したという・・。
    高田松原は、自然にできたものではなく、数百年の永年にわたり、人の手により作られ保護されてきたものであった。

    地元・盛岡出身の歌人・「石川啄木」は折に触れてこの地を訪れ、高田松原や広田半島などの自然に浸り、時を忘れ、その美しい風景に感動して多くの歌や句に詠んでいる。

    砂浜を漫ろ(そぞろ)歩きしながら・・、啄木の歌を思い出した。

    「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹に<font size="2" color="#FF0000">ハサマル
    」・・と、駄洒落ながら・・。

    石川啄木は「一握の砂」の詩集の冒頭に・・、
    『函館なる郁雨・宮崎大四郎君(啄木に対し変わらぬ敬慕の情を抱き、物資両面にわたって援助を惜しまなかった歌人・宮崎大四郎:郁雨・いくう)。 同国の友、文学士花明・金田一京助君(アイヌに造詣のある言語学者)に、この集を両君に捧ぐ。 予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。 従つて両君はここに歌はれたる歌の一、一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。・・明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。・・「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり・・』とある。 

    表題の『一握の砂』の内、砂に纏わる歌集を集めてみた・・。       

    「我を愛する歌」 より・・
    「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
    「砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日」
    「大という字を 百あまり砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり」
    「頬につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず」
    「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ」
    ・・・・


    啄木は、東京朝日新聞の朝日歌壇の選者になったのを機会に、更に歌人として精進したいと考え、従来、「一行」で発表した短歌を「三行書き」に改め、新作を加えて551首の『一握の砂』という題で明治43年に刊行している。 
    望郷と漂泊の天才詩人として知られる石川啄木は、僅か26年の生涯ながら「歌は私の悲しい玩具である」、 「歌を作るのは不幸な日だ」と告白しながら、「一生に二度とは帰って来ない命の時の一秒」をいとおしみ、消え去る刹那の感動を見事に表現しているという。 

    啄木は、岩手県玉山村(盛岡市北東の村、2006年:平成18年1月10日に、盛岡市に編入合併されて消滅した。)生まれ、1902年、盛岡中学を自主退学して上京し与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねている。
    病気で帰郷の後、 故郷での代用教員、北海道での新聞記者生活のなどを経て、1910年「一握の砂」を発表、出版している。
    1912年肺結核のため東京で26歳の若さで永眠。 第二歌集「悲しき玩具」は死後出版されたものという。
    ただ、石川啄木が、この地「高田松原」の砂浜に、腹這いしたかどうかは、定かでない・・。


    陸前高田市街地の北部、大船渡線で一駅の地区に「竹駒」という地区がある、あの演歌歌手「千昌夫」の出身地である。 
    彼は高校2年のとき、修学旅行で上京した際、作曲家・遠藤実氏の門をたたき、「北国の春」を歌ったのは周知である。 北国の春は1977年発売、最終的に 300 万枚を売上げたという超ヒット曲で、今では日本以外のアジア各国でも大ヒットし、中国では、現在でも最も有名な日本の楽曲の一つとされている。

    寒い北風の中、氷点下の冬を過ごす北国に住む人にとって春の到来を告げる南風は待ち遠しい・・。 「北国の春」は、千昌夫の故郷、出身地である陸前高田の竹駒地区を連想させるが・・、実際は、この歌を作詞した「いで・はく」は信州・南牧村の出身で、故郷の野辺山周辺をイメージして作詞したといわれる。

    カラオケ好きの小生にとって「北国の春」は、良く唄う歌ではあるが、それ以前にヒットした「星影のワルツ」が強烈に印象に残っている歌なのである。 
    私事ながら・・、東京へ転勤になって一人寂しい暮らしが始まった時でもあり、その孤独感を癒してくれた或る女性とのつかの間の「愛」を育んできたが・・、とある事情で露と消えてしまった時期でもあった。 
    この時に大ヒットしていたのが「星影のワルツ」であり、巷では厭でもこの曲が流れていて耳に入る。 まるで悲壮感漂う小生の心境を謳いあげているような錯覚さえしたもんであり、この曲だけは歌好きの小生でも、今も歌うことが出来ないのである・・。

    『星影のワルツ』 詩:白鳥園枝  曲:遠藤実(昭和43年)
    1  別れることは つらいけど       2  一緒になれる 倖せを
      仕方がないんだ 君のため        二人で夢見た ほほえんだ
      別れに星影の ワルツをうたおう     別れに星影の ワルツをうたおう
      冷たい心じゃ ないんだよ        あんなに愛した 仲なのに
      冷たい心じゃ ないんだよ        あんなに愛した 仲なのに
      今でも好きだ 死ぬ程に         涙がにじむ 夜の窓

    3  さよならなんて どうしても
      いえないだろうな 泣くだろうな
      別れに星影の ワルツをうたおう
      遠くで祈ろう 倖せを
      遠くで祈ろう 倖せを
      今夜も星が 降るようだ


    次回は、 宮城県・「気仙沼」

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  • from: orimasaさん

    2008年04月14日 09時36分57秒

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    日本周遊紀行(100) 「三陸地方と大船渡」

    祝・・!!100回記念
    神奈川県厚木市を出発して→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県と巡り、今回で丁度100回になりました。
    今後とも宜しくお願いいたします・・!!


    小生、若年よりの『旅』の記録です。
    宜しかったらどうぞ・・。
    http://www.geocities.jp/orimasa2001/


    日本周遊紀行(100) 「三陸地方と大船渡」

    国道45は、相変わらず山坂が多い。
    この辺りの三陸リアス海岸は、奥行き数キロにも及ぶ半島と入江や湾とが交互に入れ替わり、地図を見ても所謂、ギザギザの地形が連続しているのが判る。 
    半島部分は概ね山岳地となっていて、ヘアーピンカーブの峠やトンネルを登り降りしながらの走行となる。
    いつもの風景であるが、集落や街へでると概ね海岸であるが、しかし直ぐに山中へ分け入るのである。 こんなことの繰り返しで、些かウンザリしそうだが、気が付くと岩手の海道は黒松、赤松が多く、小雨に濡れて更に緑を濃く彩っている。 
    過日、通過した日本海側、特に秋田県側の荒涼とした松枯れの風景とは対照なのが面白く気になったが、何故なのか些か疑問はあったが・・、深い緑は目には良いことは確かである。
    (黒松については、後の項=「気仙沼」・・?あたりで記載します)
    概ね並行して「三陸鉄道」が走っている。 この鉄道も、各半島付け根に当たる山岳地の殆どの部分がトンネルで、喘ぎあえぎ走っていることが想像される。 三陸の鉄道の歴史も新しく、近年僅かに20数年前の開通とか・・。 

    一般に「三陸地方」と言われるが、東北地方東部の宮城、岩手、青森の三県に跨る太平洋岸沿いの地域を指している。 三陸とは陸前・陸中・陸奥(むつ)の昔の地名に基づく呼称である。
    「陸前」は今の宮城県と一部は岩手県に属し、「陸中」は今の岩手県と一部は秋田県に属する。 「陸奥」は大部分は今の青森県と一部は岩手県に属する。 
    広義に「陸奥国」は、江戸時代まで日本の地方区分である国の一つであり、奥州とも呼ばれた。 現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県の県域に相当する地域を称していたが、明治維新後の明治元年に、陸奥国は陸奥、陸中、陸前、磐城、岩代の5ヶ国に分けられた・・?。

    その三陸海岸は、宮古市を境に北部は隆起地形で断崖絶壁の海岸となっているため、港に適した場所が少ない。 
    八戸市から久慈市辺りの海岸沿いでは、台地状でなだらかであるため、漁業よりも農業・牧畜などが盛んである。 一方、宮古市よりも南は沈降地形のリアス海岸となっているため、水深の深い入り江が多く、これが天然の良港となっているため漁業が盛んである。 世界三大漁場と言われる「三陸沖」には、この南部の漁港から主に出漁している。 この地域は平坦な台地状のところは殆どなく、海に面した急峻な谷間にできた僅かな沖積平野部が、陸上の主な生活の場となっている。

    三陸海岸の南部「三陸町」は、国の市町村合併政策の先駆けとして、早々、隣町の大船渡市と2001年に合併を果たし、新大船渡市として発足している。 
    その大船渡市は三陸町との合併により平成13年、「サンリク・オオフナト共和国」として「銀河連邦」に仲間入りしたという。 

    「銀河連邦」・・??、 
    普通このような呼称については、或る世界において用いられる架空の国、S・F、空想の社会での話であるが・・、実際は真面目に未来志向の研究がなされている共同体らしい。
    今、日本の宇宙科学分野では、宇宙科学研究所(現、独立行政法人)と言う文部科学省管轄の研究部門が各地にあるという。 
    これら各施設をかかえる2市3町が提携した友好都市関係のことを「銀河連邦」と呼んでいるらしい・・。 そして、構成している自治体、各市町を共和国、首長(市長・町長)のことを大統領と呼んでいるようである・・。  
    北は秋田県から南は鹿児島県まで、研究施設のある市町(3市2町)が握手し共和国として、昭和62年11月に発足、誕生しているという。

    因みに、各共和国と研究内容は・・、
    「サンリク・オオフナト共和国」(岩手県大船渡市)=三陸大気球観測(昭和45年開設)の施設が在り、科学観測用の気球の飛行実験、気球追跡、気球との送受信施設などを研究している。
    「ノシロ共和国」(秋田県能代市)=能代市南部の浅内浜に「能代多目的実験場」があり、鹿児島宇宙空間観測所から打ち上げられる観測ロケットや宇宙探査機打ち上げ用のM型ロケットの開発のため、必要な各種個体ロケットモーターの地上燃焼試験、およびエアターボラムロケットなどの将来型推進器の基礎研究を行っている。
    「サク共和国」(長野県佐久市)=臼田宇宙空間観測所の施設が在り、ハレー彗星観測用惑星探査機「さきがけ」、「すいせい」やその後の火星探査機「のぞみ」、小惑星探査機「はやぶさ」等の惑星探査機との通信用観測を行う。太陽系内にて観測を行っている深宇宙探査機に向けての動作指令や、探査機からの観測データの送受信を行えるよう、東洋一の大きさを誇る64mパラボラアンテナを持つ。
    「サガミハラ共和国」(神奈川県相模原市)=宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究本部相模原キャンパスがある(昭和58年開設)。飛翔体環境、構造機能等の試験等を行う。相模原は首都圏にも近く、全国の宇宙科学研究所施設の中核となってる。
     「ウチノウラ共和国」(鹿児島県内之浦町)=鹿児島宇宙空間観測所、観測ロケット及び科学衛星の打ち上げ、追跡、データ取得のための実験場を行う。

    以上の共和国は、互いの研究状況を連携し共有しあい、その他の行政や文化、物産、女性問題・・?、スポーツ、又、子ども達との交流に伴う人材育成、観光物産振興等、広範な地域交流を通じて友好のきずなを深めいるという。


    <font size="2" color="#0000FF">大船渡の景勝

    碁石海岸==大船渡市末崎半島の東南端約6kmの海岸線を「碁石海岸」と呼び、背後のアカマツや草花が彩りを添えるなど、変化に富んだ素晴らしい海岸景勝地で、「国の名勝・天然記念物」に指定されている、「日本の渚・百選」。 なかでも、穴通磯(アナトオシイソ)は、碁石海岸を代表する絶景スポットで、波の侵食作用により大きな洞門が三つ開いたその姿は、まさに自然の造形美であると・・。 又、乱曝谷(ランボウヤ)は数十mの切り立った岸壁が向かい合う海の谷間で、激しくぶつかって砕け散る波濤の迫力は強烈であると・・。 
    大船渡貝塚群==大船渡湾岸には、蛸ノ浦貝塚、下船渡貝塚、大洞貝塚など多くの貝塚や遺跡がみられ、何れも国の指定史跡になっている。 三陸沿岸は世界の三大漁場といわれ、北に親潮と南の黒潮がここで合流し、寒流、暖流の魚群が多く、食の豊富であった。この地は、縄文期から人が住み着き、生活を営んでいた形跡があり、貝塚からはアサリやカキ、ホタテなどのほか、マグロ、ブリ、カツオなどの魚の骨もあり、当時の海の豊かさを今に伝えている。


    大船渡の市街地を抜けて、高台の展望休憩地に「新沼謙治の出身地」と大きな看板が目に入った・・。
    彼の唄 では「津軽恋女」がいい・・、 

    『津軽恋女』 新沼謙治
    津軽の海よ 竜飛岬は吹雪に 凍えるよ
    日毎夜毎 海鳴りばかり 愚図る女の泣く声か
    津軽の女よ 別れ唄ひとつ 口ずさむ
    濁り酒に 思い出浮かべ かじかむ心の 空を見る
    降り積もる雪 雪 雪また雪よ
    津軽には 七つの雪がふるとか
    こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
    津軽の女よ ・・

    次回は、 「陸前高田」

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