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  • from: orimasaさん

    2008年09月01日 09時34分10秒

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    日本周遊紀行:【あとがきⅡ】

    日本周遊紀行:【あとがきⅡ】

    旅の印象・・、
    東日本、西日本を二度に分けての慌しい旅であったが、それでも延日数で43日間(東16日、西27日)、総距離:12535km(東5403、西7132km)を要している。 
    その「東日本」について、印象的、特徴的なところを掻い摘んで述べてみよう・・。

    先ず東北では・・、夕景、日の入りを謳う日本海、それとは逆に朝日や日の出を愛でる太平洋岸であった。
    確かに両海は「陰と陽」とよく言われるが、それを変に実感したのが、日本海側の秋田から青森にかけての延々と続く「松枯れ」の様子であった。 それに対して太平洋側の岩手三陸から宮城の沿岸は赤松や黒松の緑が映えていた・・。(台風の影響もあったらしい・・?) 
    今は、裏日本とか、表日本という言葉は無くなっているらしいが、あまりの対照的なのが気になった次第である。

    日本海側の同じ沿岸でも、山形県と秋田県とは土地感、生活感に差異が感じられたのは何故か・・??、 県勢からして、出羽・秋田は米どころ、美人どころで「食い倒れ、着倒れ」と楽天的イメージが有り、更に、ゆったりと大きい家に住んでいるようで、それだけに預貯金は逆に下位レベルであるというデータもある。 
    庄内・山形はその点、米沢藩を代表するように質素・倹約を旨として、狭い屋敷でも堅実な生活を営んでいるようである・・。

    出羽・秋田は関東の雄、雅(みやび)の「佐竹氏」が拓いたとされ、佐竹氏は戦国末期、徳川、上杉、前田、毛利、島津そして佐竹氏の六大大名の一つであるとされ、源氏の時代より常陸の国を治めた関東の由緒正しき名家なのである。 
    佐竹氏は清和源氏の本流で、平安期、あの東北の乱で活躍した源頼義、八幡太郎義家、そして新羅三郎源義光を祖先とするということで、清和天皇に遡ることが出来るのである。 戦国期以降、常陸の国(54万石)から減封されたとはいえ秋田でも20万石という大大名であった。 転封の折、選りすぐりの常陸美人(京美人に通ず)を同行させたため、秋田は美人が多いという噂も有り、中でも国内(藩内)では戦国期以降これといった戦乱がなかったことも特徴的であろう・・。

    一方、庄内・山形は始終戦乱(最上氏の時代から)の中に翻弄され、越後の上杉氏や徳川譜代の酒井氏などが統治し、質素倹約、質実剛健が伝統なのである。
    これは、地元出身の藤沢周平の小説、海坂藩(庄内藩)での下級武士の生活振りでも判る。 山形と秋田は、これら人柄の違いが土地感、生活感の違いに現れているのかもしれない・・。

    出羽の国(現秋田県)といえば、芭蕉が予定外の地といわれる「象潟」(きさかた)を行脚している。 「奥の細道」に、「俤(おもかげ)松島に通いて」とあるように、象潟は松島の景観を思わせるものがあったらしい・・。 
    芭蕉が訪ねたのは元禄2年(1689)だが、その100年余り後の文化元年(1804)に大地震が起こっている。 その時、水に覆われていた「潟」は、地震の変動で陸地に様変わりしてしまい、往年のあの美しい面影は失われているのである。 
    ただ、美景であった往年の象潟は失われたが、土地の変化にともなって自然の干拓が行われ、今では稲穂が実る美しい田園に変身している。 それに、水を張った田んぼには、かっての島々が浮かび上がり、往時の象潟の面影を彷彿させるともいう・・。


    北海道へ渡ると早速ながら函館戦争と江差・開陽丸との関連が・・、又、日本海側のニシン漁の盛衰と松前藩・・、そして稚内と樺太の関係などなどの歴史も興味深い。 
    だが、サロベツ原野と直線道路・・、北海道・道東地区(根室から釧路)を1時間走っても対向車が来ない大自然の中の無人海道・・、代表格は世界遺産・「知床」・・、等等、やはり北海道の原始原生の大自然には圧倒的に心を打たれるのがある・・。

    <font size="2" color="#0000FF">因みに「知床」であるが・・、

    知床半島全体が殆どの地域が人跡未踏の自然の宝庫であるが、中でも少ない人跡のある「カムイワッカ湯の滝」は超見所であろう。 
    知床半島の中央にある活火山の硫黄山から流れる出る温泉の川で、海岸までの連続した温泉の沢、滝になっている。 林道から目的地入り口までダートの道を車で数十分、ここより温泉の沢、大きな滝壺、ナメ滝が続いていて当然危険な箇所も有り、ここを歩くこと20分余りでようやく到達する。 温泉の混じったカムイワッカの渓流は直接、オホーツク海に落下している。

    カムイワッカの滝とは滝自体が温泉という、野趣溢れる豪快な天然の露天風呂の「野湯」であり、そのため、カムイワッカ湯の滝とも呼ばれる。 
    多段式の滝壺毎にそれぞれ天然の湯船があり、日本国中探しても、これだけ密林の中の野生の温泉場はないであろう・・。 水浴びならぬ湯浴びに際して、艶かしい女性の水着姿や全裸でもタオルを巻いた姿で入浴する男性など・・。 若者などは準備よく水着パンツ姿で入浴する姿もあるが、小生は当然スッポンポンであったが・・。

    それはともかく近年、特に世界遺産指定後の知床は、観光客の急増に伴い厳しい立入規制が行われるようになっている。 
    当然、上流へ行くほど滝壺の湯温は熱くなるが、滝壺の湯温といい大きさといい深さといい申し分ないのである。 だが途中、何箇所か難しい岩場などによる危険度が高かったことも事実である。

    2005年に知床が世界遺産に登録されたことにより観光客が激増し、転落や落石の危険がより増したため、翌2006年には、車道から100メートルほどのところで立ち入り禁止の処置がとられたのである・・。 従って、お目当ての滝壺での入浴はできない状態になってしまい、今日では人の目のとどかないカムイワッカ・「神の水」として、野生の森へ戻ったのである。 
    小生は過去2度にわたってこの野生の温泉に入浴し、その雰囲気を味わっているので真にラッキーだったといえる。


    北海道は歴史の奥深さにも驚嘆するのである。 
    アイヌ文化やオホーツク文化といわれる独特の文化が栄えた。
    当時の人々の所謂、縄文風の生活は、現代に繋がる稲作文明より、かなり裕福な生活を営んでいたのかも知れない。 オホーツク海の流氷、各河川の魚類の遡上など、なにせ季節ともなると「食料」が向こうからやって来るのである・・、これらを想像するだけで面白い。 
    各地の縄文遺跡、それに青森の「三内円山遺跡」などがそれらを物語っているのである。

    それと、文字を持たなかったアイヌ人の悲的事象も忘れられない・・、静内や根室などは和人との激しい騒乱もあった。 だが北海道の開発は、邦人の入植、移民なしには考えられないのである、北海道を巡回する処々方々で、これらの痕跡が残されている。 
    因みに、「静内」の入植者は四国の淡路島の人々であり、この因果については、つい先ごろ「北の零年」という映画にもなり、物語にも描かれている。
    私事であるが、北海道を訪れる度に銘菓「マルセイバターサンド」という御菓子を土産にする。(小生は「白い恋人」より優先している) このお菓子も元はといえば、伊豆・松崎の入植者に因(ゆかり)のある物なのである・・。

    強いて結論を言えば・・、
    東日本の特有は、やはり奥深く雄大な太古の自然が、そこ・ここに残されていることであろう・・。 西日本は、どちらかというと歴史や文化が深く息ずいていることが主体であろう・・。
    源自然は人類創生以前の地球の営みを見るようで、圧倒的に迫ってくるものがある。
    又、歴史や文化というものは、どの時代を通じても全て繋がりの連続性を持っていて、澱(よど)みなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものであろう。 
    時代という河を綿々と流れてきた歴史的事項が重なり合い、後世に一つの現象を生み出し、影響を与えていくものであろう、こんなんが歴史の面白さでもあろうか・・。


    そして「世界遺産」であるが・・、
    我等夫婦が北海道旅行をし、「知床」を巡観した直後にその知床が世界遺産に指定されている。 そして、やはり夫婦で南紀地方(熊野一帯)を旅行した直後に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に認定されたのである。
    思えば・・、京都の寺社群も、全てではないが、そうであった・・。
    そして、これは後編(西日本編)になるが、小生が「日本一周」途上立寄った直後の2007年(平成19年7月1日)に「石見銀山遺跡」が世界遺産に認定されている。
    何れも面白き因縁である・・・。

    尚、西日本の「旅の印象」は、「西日本編」終了後記載いたします。


    旅の要素・・、
    旅の要素には、三つの段階が有ると小生は思っている、 事前、事中、事後の三要素である・・。
    何処へ、何時、何の為に、どの様に・・、「事前」つまり思い立った時点、計画、下調べが始まった時から既に旅は始まっているのである。 
    そして「事中」、実行段階で体感し、感性が刺激され、記憶に留まるのである。 
    「事後」は、記録、整理をしながら、それらの背景を再度調べてみて再確認する・・。 
    これらの事を能動的に行うことによって旅は一層楽しく、記憶に残るものになると思われ、更に、最近は、ネットやホームページで公開することも出来る。

    この度の外周旅行において、ただ通過しただけの村や町、地域が多数あったのだが、これらの「ところ」がどの様な特性や特色を有しているのか・・、歴史的建造物、史跡や寺社、これらの歴史や背景は何なのか・・等々が気になるのである・・。 
    これらの「事後調べ」を行うのに、書籍本は無論であるが、インターネットという便利で重宝な手段も有り、ネット情報等多いに参考に活用させて戴いた。
    その為の「整理の時間」に、旅の道中の時間の数倍にも増して期間を費やすことになってしまったのであるが・・。

    本文中、出来るだけ自分なりに考察し、編集し、掲載したが・・、文中、引用していただいた中には個別の保護や権利等の問題もあるやもしれません・・、これらの当事者、関係者に、もしも御迷惑をお掛けしたなら改めて御礼と御詫びを申し上げる次第であります。
    ご協力有難うございました・・!!。

       『渇いた心に、オアシスと清風を求めて、明日も旅たつ・・・』  風人

    この後引続き、「日本周遊歴史紀行」(西日本編)を記載いたします。


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