新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

日本一周の旅

日本一周の旅>掲示板

公開 メンバー数:5人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: orimasaさん

    2008年05月31日 09時29分53秒

    icon

    日本周遊紀行(115) 水戸Ⅱ・「水戸黄門」



    <font size="2" color="#0000FF">徳川頼房の三男、水戸藩二代藩主が「水戸光圀」である。
    水戸藩主は徳川御三家の中でも唯一江戸常勤が定められ、将軍を補佐する役目を受け持っていたため「天下の副将軍」と言われた。 
    徳川家康の孫に当たる、御存じ『水戸黄門』としても知られ、諡号(しごう:帝王・相国などの貴人の死後に奉る、贈り名)は「義公」と称した。

    光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。 日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、麺類をはじめ、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、黒豆納豆などがあるという。 肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は五代将軍徳川綱吉が制定した「生類憐れみの令」を無視して牛肉、豚肉、ヒツジなどを食べていたともいう・・。 
    学問を好み、若い頃には中国の歴史書「史記」などの歴史書を愛読し、遂に、大書「大日本史」を著わすことになる。

    当書は、神武天皇から後小松天皇までの百代の帝王の治世を、「紀伝体」といわれる文体で記した日本の歴史書で、徳川光圀によって執筆が開始され、光圀死後には水戸藩及び水戸徳川家の事業として執筆・校訂が継続されて明治時代に完成した。 完成させるまで実に250年の歳月を要したといわれる。
    「紀伝体」(きでんたい)という名前は史書において、「本紀」と「列伝」の下の文字を取って付したもので、歴史叙述の一体裁を現したものという。 歴史現象の総体を本紀(帝王1代の年譜)、列伝(民族や個人の伝記)、志(特殊な分野の変遷)、表(制度の一覧)に分類して記述することで、史記で試みられ漢書で確立、以後中国の正史は多くはこの体裁をとっている。 個人や一つの国に関しての情報が纏めて紹介されているため、その人物や国に関しては理解しやすいという。

    「大日本史」の編纂により、学芸が振興し隆盛となって「水戸学」を生み出し、後世(幕末)に大きな影響を与えた。 
    一方では、藩の年間財政収入の三分の一近くをこの事業につぎ込むこととなり、領民への負担が多く、そのため農民の逃散が絶えなかったともいう。(一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。) 
    ○公○民とは、農家に割り当てた米による租税率で、徳川家康は慶長6年から10年に亘り、全国の総検地を行い、課役の法を定めて、四公六民を常率としていた。 だが、全国260余藩の大名は、各自に税率を定めていたとされ、七公三民では重税と言われた時代である。八公二民が如何に重税であったかか判ろうというものである・・。

    因みに、幕末の「尊皇攘夷」の元となった水戸学では、水戸徳川家は天皇と対立した場合、徳川の血筋を残すため、天皇側につくために将軍を出さないように作られていたと考えらていたが、結果的に幕末第15代将軍「徳川慶喜」を出すことになる。  
    だが、風雲急を告げる江戸幕末、水戸学の精神は尊王攘夷運動に強い影響を与え、明治維新の原動力の一つにもつながった。 しかし、明治維新後における政府の保護は得られず、元水戸藩士が明治の主要役人になっていることは余り聞こえない・・。 

    水戸光圀の「大日本史」の編纂実績は、250年後の明治の時代に「親政」を生むことになる・・。水戸学における「尊王攘夷」は幕末の革命に繋がり、攘夷はともかく尊王の精神は明治政府に受け継がれ、天皇親政の時代が平安期以来、再来するのである。 これが昭和の終戦まで続くことになる。


    水戸光圀が「水戸黄門」としての諸国行脚伝説が生まれ、講談や歌舞伎の題材として流布され、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされたことは周知である。 尤も、その内容は大半がフィクションであるが・・。
    光圀は、大日本史編纂のために家臣の各層の学者らを日本各地へ派遣したといわれているが、彼自身が諸国を漫遊したという史実はないとされている。 在世当時の光圀は名君としての誉れが高く、亡くなったときには
    『 天が下 二つの宝 つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門 』という狂歌が流行った。このような名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると思われるのである。

    劇中「水戸黄門」の家臣に、助さん・格さんが登場し、人気の的になっている。 劇中の名は佐々木助三郎、渥美格之進であるが・・。
    通称・助さんは実在の光圀候の家臣であった「佐々十竹」(じっちくは号、本名宗淳:むねあつ)がモデルであるといわれ、大日本史編纂の専門校「彰考館」の総裁であったともいう。
    佐々氏は戦国武将、あのアルプス越えで有名な佐々成政の末裔(実姉曾孫)であり、その縁から佐々姓を名乗っていたという。 讃岐国出身で15歳のとき僧侶となったが、仏教以外の諸学問にも通じていた。 38歳のとき仏教に疑問を持ち寺僧と大論争をした末に寺を追われて、還俗して水戸藩に仕えるようになる。 徳川光圀はその大胆さと見識を愛して側近として用いたという。

    一方の格さんは、まじめで実直と言う設定であり、彼のモデルは、水戸藩士の安積澹泊(あさか たんぱく:通称、覚兵衛)といわれる。 安積氏は江戸中期の儒学者で、光圀を助けて「大日本史」を編纂し、その歴史観は水戸学の基礎を築いたともいわれ、評価されてるという。


    次回は、 鹿島・「鹿島神宮」

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月30日 11時13分42秒

    icon

    日本周遊紀行(115) 水戸・「水戸藩」



    市街地より那珂川の海門橋を渡ると、海洋観光地「大洗」である・・。
    大洗には素敵な民謡が有った。  

    <font size="2" color="#0000FF">「磯節」
      茨城県民謡
    ハーサイショネ
    磯で名所は 大洗様よ
    ハーサイショネ
    松が見えます ほのぼのと 
    松がネ
    見えますイソ ほのぼのと


    大洗の北、町界を悠々と「那珂川」が太平洋に注ぐ・・。
    関東第三の大河である那珂川は関東随一の清流としても知られ、多くの魚類が生息しており、往時はサケの遡上する河川として江戸期には水戸藩へも献上品とされていた。 
    江戸初期、那珂川から涸沼、北浦を結ぶ運河の整備が計画されていた。 水戸と江戸を結ぶ流通を発展させることを目的に、鹿島灘を迂回せずに直接北浦から利根川を経て江戸に物資を輸送させることで、財政難にあえぐ水戸藩の財政を好転させることを目的としていた。
    しかし、財政難で農民の負担が余りにも大きく、大規模な百姓一揆を誘発したこともあって事業は頓挫している。 だが、那珂川が舟運として使われていたことには変わりなく、水戸藩は水運河港として大いに盛え、水運は近代まで存在していた。 
    「水戸」の名称は、この「水運の戸口」とされていた事に由来するという。

    ご存知「水戸」は水戸・徳川家所縁(ゆかり)の地で、水戸黄門(徳川光圀)、日本の三名園・梅の偕楽園で知られ、また、明治時代以降は、納豆の生産と消費が盛んであり、水戸納豆として親しまれている。

    水戸は、無論、常陸の国が前進である。 
    常陸は今の茨城県を指すが、当初の常陸国は現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県から宮城県南部にまで至る辺境の広大な国であり、奈良期の7世紀に成立している古い国柄である。
    奈良期・八世紀初頭の養老年頃の編集とされる「常陸風土記」によると、常陸国の国柄、名の由来は、以下の様に記されている。
     
    「 然と名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」 「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」 又、常陸国風土記が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ 」とある。
    「常陸」は、常世の国(陸は極楽)として名付けられたようだ・・。
    奈良期の政庁・国府は現在の石岡市にあったとされ、遺跡も発掘されている。又、官寺である国分寺も石岡市府中にあった。

    さて、水戸の始まりは、平安末期に、常陸の国の名門・大掾氏(だいじょう)一門が、水戸台地に居館(水戸城)を構えたのが最初と言われる。
    戦国期、常陸は戦国大名・佐竹氏が豊臣秀吉によって支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際54万石の佐竹義宣は東軍・徳川方に加担しなかったため、出羽秋田(久保田藩20万石)に減量転封されている。  

    余談だが・・、
    佐竹氏は、秋田に左遷されるにあたって、藩主家の墓地と水戸の美人を根刮ぎ、転封先に持っていったと云われ、これが、秋田美人のルーツともされるようだが、このため近年に至って秋田は美人の産地となり、水戸には美人がいなくなったとも云われているが・・??。
    佐竹氏の後、徳川幕府が開かれ、家康が駿府に移動するに当たって、家康の11男・徳川頼房が25万石で入って「水戸藩」が成立する。 水戸市の原形は、この頼房によって拓かれてゆくことになる・・。

    次回は、 水戸・・Ⅱへ

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月29日 09時25分20秒

    icon

    日本周遊紀行(114) ひたちなか・「常陸(ひたち)」


    <font size="2" color="#0000FF">日立市内からは国道6号から、より沿岸の国道245を行くことになる・・、「東海村」 である。
    国道沿いの松林と高い塀に囲まれた広大な一角は原子力関連の施設である。
    東海村は日本で最初にの原子力火が灯った地として知られて、原子力研究所や開発機構、関連企業や事業所等、原子力産業施設が集積している。

    この東海村の原子力施設の一角で、日本で初の放射能事故を起こしたのだ・・・。
    1999年9月、J・C・O(株式会社ジェー・シー・オー:住友金属鉱山の子会社)という会社の核燃料加工施設において、臨界事故が発生し,放射能汚染が起こった。
    臨界事故とは核物質が核分裂を起こし、この連鎖反応が一定の割合で継続している状態、この時多量の放射能が漏れ出した状態をいう。 
    この事故で3名の従業員が重度の被ばくをし、2名が死亡ほか関係者、社員および事業所周辺の住民等600名以上が被ばくした過去最悪の原子力事故となった。 東海村をはじめ、内外に大きな衝撃を与え、原子力は安全である・・、の神話が崩れたのだった・・。


    隣町は「ひたちなか市」である。
    この那珂川の上流、JR勝田駅の南方に「武田」という地名が有る。 ここは甲斐武田の発祥の地といわれる・・。

    源氏である清和天皇を祖にする奥州陸奥の覇者・源義家(八幡太郎)と、その弟常陸国の統治者・源義光(新羅三郎)は平安後期の名の知れた勇猛武者であった。 
    義光は知謀に富み、武勇に優れ「京」の都の中央官職として任務に当っていた。 その長男・義業(よしなり)に佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市。下って戦国期頃までは、これより北部の福島・岩城から会津まで広大な地域を支配するが、関が原合戦で西軍=三成派に就いた佐竹義宣は、合戦以降、家康によって陸奥・秋田へ転封される。現、秋田市の基礎となる)に配し、三男の義清を、「武田郷」(現在の茨城県ひたちなか市武田)に配した。 源義清は武田郷に居を構え、武田冠者義清と称した。 これが「武田」姓の始まりという。
    義清とその子清光は、共に武勇に優れていた。 だが、これを恐れた常陸国司(都から派遣された貴族)は清光の「乱行」をでっちあげ、これを理由に義清・清光父子を甲斐国への配流を命じたのであった。 これが甲斐武田の祖となるのである・・。

    甲斐は、甲斐駒という名馬の産地でもあった。 武勇を誇る武田氏は、この馬を乗りこなし有名な「武田騎馬軍団」の元になり、やがて武田家は、新羅三郎義光から十八代の後、甲斐の武田信玄という希代の名将を生み出すことになる。 
    因みに、この武田一族の一派が、陸奥の国へ派遣され南部藩、八戸藩の祖となることは先に記した・。
     
    ところで、「ひたちなか市」は小生の故郷「いわき市」と同様、ひらがな文字の地域名である。「ひらがな」というのは、本来もっている漢字の意味合いを、すくなからず減じているのはたしかであろう・・。 
    地名に関しては、地域住民の総意で決したものであることは重々承知で、尚、余計なお世話かもしれないが・・、「いわき」は磐城又は岩城で「ひたちなか」は常陸那珂で良かったのではないか・・、とも思われるが・・。

    昨今、平成の大合併でさまざまな土地の名前が消え、また生まれようとしている。 そんな中、怪しげな、意味不明の地名もあるように感じられる。 
    地名というものは、そこに暮らした先人達の全てが重なり合い、積み上げられ、そこに住む人達のかけがえのない財産でもある。 地名に誇りを持つということは、地域人の一つのアイデンティティーではなかろうか・・?。 今時の人間が浅はかに、いじくりまわして、改変していい、というものではないようにも思うが・・?。

    地名は、地域の歴史を伝える、文化遺産だともいう。 これは小生の勝手な思考だが、前述したように、この地は常陸国で武田郷という由緒ある地域名であった。 「ひたちなか」という、ひらがなの合成語なんかではなく、いっそのこと「武田市」にして、そして甲斐の「甲府市」と姉妹都市の提携でもしたら意味のある、結構な事ではないか・・・??。 小生の思い過ぎ・・??

    武田地区の住宅の一角に、武田氏館(たけだうじやかた)が在る。 主屋には甲斐武田氏発祥の関係資料などを展示している。


    次回は、 「水戸・大洗」

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月28日 11時10分59秒

    icon

    日本周遊紀行(113) 日立・「水木浜」


    紙の町・高萩の沿岸から十王町、日立市に入った。
    十王町は本年(2004年)、日立市と合併し新日立市になっている・・。 

    御存知、日立製作所は、ここが発祥の地である・・。 往時の日立の山地は銅鉱石の産地であり、明治期、殖産興業、軍事増産の掛け声で、「日立鉱山」として発足し、採鉱、精錬を開始している・・。 「日立鉱山」を取り巻く電気、機械の修理部門だった工場が、自社製品の開発、販売にのりだし、そして独立したのが日立製作所である。 現在は日立グループとして、家電関係はもとより、ITやバイオテクノロジー、ナノテクノロジーなどの最先端技術や知識を結集し、次世代の中核事業を担っている。

    又、「日立」は太平洋戦争に過酷な歴史を体験した。
    昭和10年代、日立鉱山と日立製作所は益々発展する中、世間は軍事色が強まってくる。 同社の金属製造、加工技術は次第に軍事関連へと向かい、戦争関連産業の拠点になっていった。
    太平洋戦争に突入した日本は昭和20年には沖縄占領、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下等敗色が濃厚になってゆく・・。 そんな最中(さなか)、軍事産業都市の日立も、当然攻撃目標の対象になった。 
    米軍の艦砲射撃、爆撃攻撃は激しく、全市街地の約7割が焦土と化し、壊滅的な打撃を受け、1500人を超える市民の命を失ったという。 当時、小生の故郷「いわき湯本」でも艦砲射撃の音と、燃え上がる日立の街の様子が確認出来たという・・。
     
    市街地の北部、国道6号線に沿って「神峰公園」がある。 高台、丘陵地にあって太平洋の展望がすこぶる良く、動物園、遊園地、レジャーランドなど市民の憩いの場所になっている。
    ここの一角に神社があり、立派な石造りの階段の上に本殿、拝殿がある。 
    創建は、室町中期(1428年)とされ、祭神は日本創生の神、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)を祀る。 こちらの社殿及び山頂社から眺める大洋もすこぶる良い・・。

    江戸期の1695年、徳川光圀候が神峰神社に参拝した時、海上から朝日の昇る様子を観て、『朝日の立ち上る様は領内随一』として、一帯を「日立」と命名したといわれる。 無論、日立は常陸(ひたち)の国からきていることは疑いの余地がない・・。
    徳川光圀(とくがわみつくに)といえば、・・三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて「控え居ろう・・!!この紋所が目に入らぬか」と曰く、御存じ「水戸黄門」のことである。 光圀候のことは水戸の項で述べることにする・・。


    日立の南に「水木浜」という浜辺が在る。 ここは、何と72年年毎に神事が行われる祭事場である・・。
    茨城県内陸部、水府村に「東金砂神社」と金砂郷町に「西金砂神社」と両神社が鎮座している。 両神は平安初期に日立市の水木浜の大島という磯に出現し、後に内陸地の東金砂山と西金砂山と相対して聳える山上に、其々祀られたという。伝 説によると西金砂山の神は女神で、東金砂山の男神に嫁いで夫婦になったとも伝えられている。

    金砂両神社の大祭礼は何と・・、「72年毎」に行われるという、なぜ、72年毎かは定かでないが、祭礼は「磯出大祭礼」といい「金砂大田楽」とも言われる。 磯出大祭礼の当日は、東、西金砂神社が、それぞれに総勢500人を超える氏子が7日間(6泊)をかけ、常陸太田市を経て日立の「水木浜」までの往復約70kmの道のりを古式にのっとり渡御(行列)し、水木浜の清い潮水で御神体を浄めるという神事である。 これはは五穀豊穣、天下泰平を祈願して72年ごとの未年(ひつじ年)に行われるという。

    第1回目が平安初期の(西暦851年)から第16回目の前回が昭和6年に行われ、第17回目が昨年の平成15年3月に行われた。 
    この間、時代の変遷、変動期にも一回として途絶える事無く、受け継がれているという・・。 渡御の途中には、休憩して神事を行う御休場(おやすみば)と、宿泊して田楽舞や神事を行う御泊場(おとまりば)が各地に設けられる。
    金砂大田楽の田楽とは、民間の舞踊で田植の時、笛や太鼓を鳴らして五穀豊穣、万民豊楽を願うもの・・。 昨今では田楽舞といって伝統の舞踊形式になっていて、渡御行列の際に奉納されている。 又、この期間は地元地域の郷土芸能や伝統行事の奉納披露が行えわれ、大祭を盛り上げる。 

    ただ、往年の平均寿命は72歳以下であろうし、神社の氏子、祭事関係者は無論、御近所さん達にしても存命中にこの大祭礼に遭遇することもなく、正に、一生に一度の祭礼なのである。 運良く祭事に携わった人達は、正に「天運」といっても過言ではなく、更に、参拝に授かった人々も「幸運」の持ち主なのである。

    ところで、小生、ふとした縁で、昨年の大祭に孫娘と一緒に参拝し、御札(おふだ)まで授かっているのである。 そして渡御行列及び水木浜での神事を謹んで参見している。
    実に小生も、所謂、幸運の一人なのである・・。
    小生のその時の記録・・・、

    <font size="1" color="#FF0000"> 「金砂神社磯出大祭礼」に寄せて


    花井○○は現在満3歳である
    此の度、縁あって72年毎に行われる「金砂神社大祭礼」に際し、西金砂社殿に参拝し、幼少ながら「家内安全」「健康豊楽」を付添人と共に祈願することが出来た。 そして社宮より、72年に一度発行される記念すべき御札を授受することができた。 つきましては、身内安泰と無病長寿を成就し、この御札を72年後の次期大祭(第18回)に西金砂神社に返拝することを願う。そして次に72年に一度の東金砂神社の御札を授かることを、併せて希望する。
    時に西暦2075年、花井○○75歳の御時節である。
    付添人 織内 ○○ 64歳(花井○○ 祖父)
    神奈川県厚木市
    平成15年3月31日(西暦2003)大吉日


     「金砂神社磯出大祭礼」概要
    磯出大祭礼は、西金砂神社(茨城県久慈郡金砂郷町)と東金砂神社(茨城県久慈郡水府村)が、五穀豊穣、天下泰平、万民豊楽を祈願し、72年ごとの未の年に同時期に執行しているお祭りで、金砂大田楽(かなさおおでんがく)ともいわれています。仁寿元年(851年)に第1回目を執行して以来、一度も途絶えることなく続けられてきたとされ、総勢500有余人にも及ぶ渡御行列と祭事、そして、金砂田楽(田楽舞)から成る。 
    西金砂神社あるいは東金砂神社からそれぞれ出社した数百人規模の行列は、古式服飾にてり6泊7日をかけて日立市水木浜までの往復約75kmの道のりを歩く。 行程の途中数箇所で祭事や国選択民俗芸能・茨城県指定無形民俗文化財の「金砂田楽(西金砂神社田楽舞・東金砂神社田楽舞)」を披露奉納します。
    第17回目の大祭礼は、西金砂神社が平成15年3月22日(土)から3月28日(金)まで、東金砂神社は3日遅れて平成15年3月25日(火)から3月31日(月)までの日程で行われました。


     
    次回は、 「常陸」

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月27日 15時43分23秒

    icon

    日本周遊紀行(112) 北茨城・「天心と雨情」



    六角堂
    雨情記念館と生家

    日本周遊紀行(112) 北茨城・「天心と雨情」

    国道6号線は、美しい勿来の海岸を見ながら「茨城県」に入った。
    「北茨城」には、景観な五浦海岸(いづらかいがん)があり、日本美術界の重鎮、「岡倉天心」が居を構えたところでも知られる・・。
    明治中期頃までは辺鄙な地ではあるが、太平洋を臨む風光明媚で変化に富む景観地でもある。 この地に魅了され、住居の東側の崖の上に朱塗りの「六角堂」(観瀾亭)を建てたのが天心であった。 
    この六角堂に後輩の「横山大観」等を呼んで美術論、文芸論に興じ研究し、雄大な海の色彩や怒涛渦巻く波の形の絵画を生んだのはこの地であった。
    又、明治初期、新政府の神仏分離令によって廃仏棄釈が盛んになり、仏像等の美術品が破壊され、また海外に流出していったが、この時いち早く反対し、古美術の保存、保護に尽力したのも「天心」だったと・・。


    五浦を出て、JR磯原駅前へ至る。
    こちらは童謡作家として一世を風靡した「野口雨情」の生誕地である。
    <font size="2" color="#0000FF">「童謡とは、童心より流れて、童心をうたう自然詩である。
    童心とは、天より与えられた純真無垢なもので、
    全愛の心をもち、もののあはれを感ずるものである。 
    詩とは、言葉の音楽で読んで味わうものではなく、うたうものである。 
    民謡とは、民族生活の情緒をつたふ唯一の郷土詩であり、土の自然詩である。」
    ・・と雨情は言っている。

    「赤とんぼ」、「シャボン玉」、「七つの子」、「青い目の人形」、「赤い靴」、「雨降りお月さん」・・
    そして「船頭小唄」等々・・お馴染みである。

    我々幼少の頃は学校で唱歌の時間に多くの童謡を教わり、心に馴染み、口ずさんでいたものだが・・、今の子供たちはどうなんだろう・・?。 
    雨情の童謡は、日本の情景や日本人の情緒に、溢れんばかりの情愛を感ずる。 純真無垢な子供達に、是非、これらの童謡を聞かせて、口ずさんでほしいものだ・・。
    そういえば、「シャボン玉」のことをを知ってますか・・?、「屋根まで飛んで壊れて消えた・・」、雨情の長女が病気で2歳で亡くなり、その想いを詩にしたそうです。

    野口雨情は生涯に2000余の詩を作っているが、童謡ばかりでなく、ご当地ソングといわれる民謡や学校校歌なども多数ある。  
    国道を挟んだ向かい側に記念館がある。

    童謡 「七つの子」 野口雨情作詞・本居長世作曲
    烏 なぜ啼くの 烏は山に    山の古巣に 行つて見て御覧
    可愛七つの 子があるからよ   丸い眼をした いい子だよ
    可愛 可愛と烏は啼くの
    可愛 可愛と啼くんだよ


    次回は、 「日立」

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月21日 10時29分17秒

    icon

    日本周遊紀行(111) いわき市Ⅲ・「勿来の関」



    いわき湯本から旧国道(6号)を経て、茨城県の県境でもある「勿来」へ来た・・。
    国道から勿来海岸の反対側に小高い丘があり、その一角に古来の「勿来の関」がある。
    東北の三古関(白河の関、念珠関=鼠ヶ関)の一つであり、因みに、念珠が関(ねずがせき)は小生が出発して2日目に通過している。又、この古関は源義経と弁慶ら主従一行が平泉に逃避する際に通過してことで知られる。 

    「勿来の関」は、往年の東北の都・多賀城へ通ずる、陸前浜海道の東北(蝦夷)への入り口として重要な関所であった。 古記には大和朝廷期にヤマトタケルが蝦夷(えみし)の蛮族を征伐するのに通った・・、との記載もあり、4世紀ごろから主要街道として機能していたという。 

    平安期の後期(1051年)においては東北・陸奥の国で一大動乱(前九年の役、後三年の役)が勃発する。朝廷はこれを治めるべく源氏の棟梁「源義家」(八幡太郎義家)を陸奥国守として任地の陸奥国に赴かせる。 この時、源義家は「勿来の関」で休泊の時、一句詠んでいる
    <font size="2" color="#0000FF">「 吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背にちる 山桜かな 」
                      

    平安期の頃は東北(蝦夷)の戦乱期も加わって、この浜海道は大往来時代を迎えている。近くには「三箱の湯」もあって、高家、武人、都人、文人墨客(万葉人)等も多く行き来していた。
    太洋を望む美景の丘・「勿来の関」は、奥州三古関 と呼ばれており、古くから万葉集の中でも詠まれ、その後も多くの歌人らによって詠まれたのがこの地である。
    この周辺は古来より風光明媚な地にあって、松のこずえ越しに太平洋が一望でき、今でも山桜の名勝としても有名で、県立自然公園に指定されている名勝である。

    そして歌枕としても名高い「勿来の関」は、古来、“やんごとなき”人々より愛され、詠まれているのである。
    「 みるめ刈る 海人のゆきゝの 湊路に 勿来の関も わが据なくに 」   新勅撰和歌集 「小野小町」  
    《海人が往来す湊路に来ないで、などという関は設けていないのに最近あなたは逢いに来てくれないのね》

    「 惜しめども とまりもあへず 行く春を 勿来の山の 関もとめなむ 」    夫木和歌集 「紀 貫之」    
    《いくら惜しんでも過ぎて行く春だけど、勿来の関よどうか春を止めて欲しい》

    「 なこそとは 誰かはいひし 云はねども 心に据ふる 関とこそみれ 」   玉葉和歌集 「和泉式部」    
    《逢いに行けないと言う恋人の返事に《来ないでなんて誰が言ったと言うの、いいえ誰も言ってはいないわ、あなたが心に関を作って私に逢いに来ないだけだわ》

    「 ほととぎす 勿来の関の なかりせば 君が寝覚めに ますぞ聞かまし 」 「藤中将実方」

    「 吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背にちる 山桜かな 」 千載和歌集 「源 義家」    
    《花を散らす風は「来るな」、と言う勿来の関には来ないはずだが、何と道いっぱいに山桜が散っているとは・・・》

    「 陸奥の 信夫の里に やすらいで 勿来の関を 越えぞわずらふ 」 新勅撰和歌集 「西行」
    《誰にも言えぬ人目を忍ぶ恋に、「来るな」と言う関を越すべきか越さざるべきか迷い悩む私です》

    「 聞くたびに 勿来の関の 名もつらし 行きては帰へる 身に知られける 」 「後嵯峨天皇」

    「 越えわぶる 逢坂よりも 音に聞く 勿来は難き 関と知らなん 」 新千載和歌集 「藤原道綱の母」    
    《越すのに難儀する逢坂の関よりも更に噂の高い勿来の関の堅固さは貴方もご存知でしょう、私は勿来の関なの 口説いても 無駄よ》

    「 よひよひに かよふ心も かひぞなき 勿来の関の つらきへだては 」 朝五百番歌合せ 「大僧正頼意」
    《毎晩逢いに言っても貴女は合ってくれない 貴女のガードは勿来の関のようなのがつらい》

    「 名にしおはば 勿来といふと わぎもこに 我てふこさば ゆるせ関守 」 堀川百首 「藤原基俊」
    《噂では絶対に通さないと言う堅固な勿来の関の関守よ 彼女に逢うのをみのがしてくれ》

    「 いとはるゝ 我が身勿来の 関の名は つれなき中や 初めなるらん 」  新続古今和歌集 「藤原為氏」
    《なぜか貴女に厭われる私 勿来の関の由来もこんなつれない二人の仲からきてるのかな》

    「 恋侘びて 昨日もけふも 越ゆべきに 勿来の関を 誰かすゑけん 」  堀河百首 「河内・・」
    《いつだってあなたに逢いたくて恋わずらうのに 勿来の関を設けて逢えなくしてるのは誰なの あんたでしょう》

    「 なこそせに 勿来の関は 行きかふと 人も咎めず 名のみなりけり 」 「源 信明」
    《名高い勿来の関だから簡単に行ったり来たり出来ないと思ったが、そんな事は無いんだ、 名前だけで全然人を咎めないよ》

    「 都には 君に相坂 近ければ 勿来の関は とほきとを知れ 」 続千載和歌集 「源 頼朝」

    「 聞くもうし たれを勿来の 関の名ぞ 行あふ道を いそぐ心に 」  新拾遺和歌集 「綬二位為子」
    《勿来の関の名を聞くのもつらい事だわ 彼に逢いに道を急ぐ私に「来てはならん」と言う名の関のあるのは》

    「 東じは 勿来の関も あるものを いかでか春の こへてきつらん 」 後拾遺和歌集 「源 師賢」

    「 都人 恋しきまでに おとせぬは 勿来の関を さはるにやあらん 」 永久百首 「源 兼昌」
    《都のあなたにこんなに恋しく思っているのに 便りさえくれないのは勿来の関のせいにしてない・・?》

    「 あずま路に ききし勿来の 関をしも 我が故郷に 誰かすゑけん 」 季花集 「宗良親王」


    次回は、 北茨城・「野口雨情」

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月20日 09時33分14秒

    icon

    日本周遊紀行(111) いわき市Ⅱ・「草野心平」

    「いわき」を語る時、一人の偉大な人物がいた・・、しかも、小生の大先輩でもあるから是非紹介しておきたい。 
    かえるの詩人・「草野心平」氏である。          

    <font size="2" color="#0000FF">「春の歌」; 詩 草野 心平

    かえるは、冬のあいだは土のなかにいて、春になると地上に出てきます。
    そのはじめての日のうた。

    「ほっ まぶしいな。
    ほっ うれしいな。
    みずはつるつる。
    かぜはそよそよ。
    ケルルン クック。
    ああいいにおいだ。
    ケルルン クック。
    ほっ いぬのふぐりがさいている。
    ほっ おおきなくもがうごいてくる。
    ケルルン クック。
    ケルルン クック。」


    「かえるのシンペイ」は・1987年の文化勲章を受章している。

    昭和6年、東京・麻布十番で焼鳥屋台「いわき」を開店した・・、
    昭和27年、文京区に居酒屋「火の車」を開店・・、
    昭和32年には新宿にバー「学校」を開いている。
    かえるのシンペイは、やはりかえる同様、水に縁があったようだ・・。 
    それでも貧乏神はシンペイの元を去らず、未だ面識のなかった宮沢賢治あてに「コメ1ピョウタノム」と電報を打った。 賢治に電報を打ったのは、彼が農場を持っているのを知っていたのである。

    この賢治のことをシンペイは、『現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。 世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。 彼の存在は私に力を与える(中略)、私は今只、世間ではほとんど無名に近い一人のすばらしい詩人の存在を大声で叫びたいのである。(中略) 今後、彼はどんな仕事をしていくか、恐るべき彼の未来を想うのは私にとって恐ろしい悦びである・・。 宮沢賢治の芸術は世界の第一級の芸術の一つである・・』・・と断言している。
    そして、若き天才・宮沢賢治の死後まもない昭和8年、「日本詩壇」に載ったシンペイが送った追悼文の末尾に、『最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である。』と書いている。   

    宮沢賢治の偉大さと、又それを見抜いた草野心平の凄さがよく理解でき、草野心平はただ単なる「蛙の詩人」ではなく、彼こそ原始から未来への線上で大光芒を放つ詩人であり、世界に誇る哲学的詩人である。 
    宮沢賢治と並ぶ・・・もう一人の「東北人らしい感性豊かな人の代表」なのである。

    「草野心平」はただ単なる「蛙の詩人」ではない、偉大なる「蛙の詩人」なのである。
    詩集「第百階級」の扉には、四行の題詞が書かれている。
    「蛙はでつかい自然の讃嘆者である」
    「蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである」
    「蛙は明朗性なアナルシストである」
    そして、「蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す、この定義は悪魔だ。 蛙をみて人間に不信任状を出したい僕は、それ故にのみ“かへる”を慈しみ、嫉妬の如き憎む・・」とある。

    「かえる」は、自然の食物連鎖の中に組み込まれ、他の生物の食料になる可能性の中にいることが、他の生物を食料とすることの正当性がある。 人間は自然の枠外に出て、しかも食物連鎖の頂点に立つ・・、もはや正当性はない。 互いに殺しあうことによってのみ、その正当性を無理やり見出す。 幸、不幸を云うならば悪夢を持たない「蛙」のなんと幸福なこと・・!!・・、と「蛙」を賛美している。


    草野心平は、1903年石城郡上小川(現いわき市小川)で生まれている。 兄も詩人で、心平に大きな影響を与えたという。
    旧制磐城中学(現、磐城高校・・小生の大先輩)、慶応大学普通部と入・退学を繰り返し、中国に渡って嶺南大学(現、中山大学)で学ぶ。 帰国後、詩を書きながら貧窮の中で各地を転々としながら、編集者、記者、宣伝部員から貸本屋、焼鳥屋、居酒屋の経営まで手がけるが、商売上手ではなかったようである。 
    そんな中で、宮沢賢治と八木重吉を広く世に紹介し、高村光太郎との温かい友情は終生続いたという。
    詩人としては、詩集「第百階級」「定本・蛙」などで評価を確立し、蛙を通して生命力への賛美と自然のエネルギーをうたう「蛙の詩人」と親しまれた。
    それが縁で、隣の福島県川内村(天然記念物モリアオガエルの生息地)の名誉村民になって毎年村を訪れ、自分の蔵書を村に寄付しているという。
    いわき市名誉市民、日本芸術院会員、文化功労者のほか、昭和62年には文化勲章受賞。 昭和63年(1988)11月12日、85歳で生涯を終えている。
      

    次回は、 いわき勿来・「勿来の関」


    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月19日 09時36分44秒

    icon

    日本周遊紀行(111) いわき市・「平(たいら)」

    「いわき市」は当時は、ひらがなの地域名として珍しがられた。 
    昨今、多くの市町村が合併する際、さまざまな思惑から「ひらがな名」とした例が多いが、本市はその魁(さきがけ)といえる。 そして、2003年4月までは日本一の面積を誇っていた。 

    昭和40年の初め磐城地方の中心都市の平市(平・四倉地区))、炭鉱と歴史の内郷市(内郷・白水地区)、温泉と炭鉱の常磐市(湯本・湯長谷地区))、港湾都市の磐城市(小名浜・泉地区)、海浜と歴史の勿来市(勿来・植田地区)、と周辺五市が大合併して現在の「いわき市」が誕生している。

    しかし、2003年4月、静岡市と清水市の合併で、最大面積を持つ市の座を明け渡すこととなり、現在は、岐阜県高山市が日本一面積の大きな市となっている。ちなみに本年(2004年)では、地域面積は第三位になっているようだが・・、が最近の平成の大合併で、今後多いに変動する可能性はある。

    <font size="2" color="#0000FF">2006年4月現在の市町村面積
    (km2)
    1  岐阜県 高山市  2,177.67
    2  静岡県 浜松市  1,511.17
    3  栃木県 日光市  1,449.87
    4  北海道 北見市  1,427.56
    5 北海道足寄郡 足寄町 1,408.09
    ・・
    13  福島県 いわき市  1,231.34

    「いわき市」は、福島県浜通りの南東に位置し、東は太平洋に面し、西は阿武隈高地に面し7割が山間部で、残る3割に居住区が分散する。 
    東北地方としては珍しく、涼夏暖冬地域で、比較的寒暖の差も少なく、山間部を除いてめったに雪は降らない。 又、地盤が硬いために大きな地震が起き難いと云われるようである・・。
    この、いわきの中心、浜通り地区の最大都市が「平地区」である。 
    行政、商勢圏とも今、再開発の発展途上にあるようで、駅前辺りの景観がガラリと変わるらしい。 駅名は、近年の平成6年(1994年)、常磐線・平駅から市民の要望により「いわき駅」に改名している。

    常磐線・平駅は、小生が学生の頃の昭和30年代前半頃までは、まだ、SL・蒸気機関車であった。 黒煙を吐きながら、力強く前進する蒸気機関車の列車が懐かしい・・。
    学生当時、平、湯本間を通学(県立磐城高校)していた頃、S・Lは、発車してもユックリしたもんで、改札を通らないで駅舎の端から線路沿いに追いかけて行ってデッキに飛び乗ったものであった。 3学年頃になって、気動車(ジーゼルカー)になり、発車速度も速く、自動ドアーになったため、その楽しみも出来なくなったが・・、後の昭和30年後半には平駅まで電化された。 その時も、電車の速さに驚いたものであった。
    因みに、当時のSLで平⇒上野は7時間前後かかっていたが、現在では2時間少々のようである・・。
    尚、平成6年(1994年)12月、平駅は、いわき市民の要望から「いわき駅」と改名している。


    「いわき」の歴史について・・、
    先にも記載したが・・、いわき地方は元は石城、石城郡と称し、小生幼少の頃は「福島県石城郡・・」であった。
    石城地方は、歴史的には古く、奈良時代までに遡るといわれる。 当時は常陸国(ひたちのくに)属し石城郡(いわきのこおり)と称し、大化の改新後、陸奥国・略して「みちのく」に編入され、同時に「磐城」に改名している。(明治になって周辺合併で、再び「石城郡」となる) 

    平安後期には、岩城氏が石城地方に勢力を得て、中心を「岩城の平」とした。 
    岩城氏は常陸・平氏 (ひたちへいし:武士の発生の大元と言われる常陸の平将門の同系)の血を汲む名族であり、その子孫が奥州に土着したことが岩城氏の始まりと言われ、その祖先の名を戴いて『平』としたらしい・・。
    岩城氏は、平安期の奥州藤原氏(清原氏)との関係も深く、石城一帯の領国支配に成功する。

    戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉に謁見し領土は安堵されるが、関ヶ原の戦いで石田三成に加担、徳川家康に降伏して磐城12万石は除封され、お家は断絶となる。 
    尚、当時の岩城貞隆は、後に信濃・川中島藩1万石の創設を許され、又、その息子である岩城吉隆は出羽秋田・亀田藩に封され藩主となったが、子供のなかった伯父・佐竹義宣(常陸の国より転封・初代秋田藩主)の養子に迎えられて秋田藩52万石の第二代藩主「佐竹義隆」となっている。

    江戸期においては、鳥居氏、内藤氏、井上氏、安藤氏の歴代藩主が其々入封している。
    鳥居氏は、あの有名な関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる「伏見城攻防」での功により、直接家康より賜っている・・、この時期に「磐城平城」が築城されている。 
    磐城平城は、「いわき駅」裏手の城山地区にあった城で、今は住宅地となり昔の面影は城址が僅かに残るのみである・・。 
    当時の姿は「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われ、この城の主目的は仙台藩・伊達氏の押さえにあったとされる。 
    平の街並も純然たる城下町で、今も鍛冶町、紺屋町、材木町といった往時の職人街と思しき地名が各所に残っている。

    鳥居家が山形に転封後、磐城に来たのが「内藤氏」であった。
    これにて磐城平藩は7万石となり、内藤家は永く、江戸初期から125年間、6代の永きに亘って治めていた。六代目内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられ、領民の不満が鬱積していた・・。
    そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。 その責任をとって内藤政樹は日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる・・。
    去るに及んで・・、

    『日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡) またみちのくの(磐城) 人に逢うべし』 と詠んでいる。

    江戸期最後の大名は「安藤氏」で、入封後、藩校・「施政堂」を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育を行うなど、善政を施している。 特に、歴代藩主の中で最も有名なのは、第五代藩主・「安藤信正」であった。
    幕末の桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の「坂下門外の変」(江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃した事件で、この結果、安藤は負傷し、老中を罷免された)で失脚した。 現在は「松ヶ岡公園」に銅像がある。
    幕末(戊辰戦争)では、奥羽越列藩同盟として西軍と決戦、鳥居氏築城から260余年を経て、いわき平城は落城している。
    昭和41年、5市(平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市)4町(四ツ倉町、小川町、遠野町、久ノ浜町) 5村(箕輪村、赤井村、三和村、好間村、大久村)が大同合併し現在の「いわき市」が発足している。
     

    次回は、 いわき地方・「草野心平」

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月16日 10時40分38秒

    icon

    日本周遊紀行(110) いわき湯本Ⅷ・「追筆・長谷寺」

    日本周遊紀行(110) いわき湯本Ⅷ・「追筆・長谷寺」

    過日、平成19年の秋分の日(2007年9月23日)に先祖が眠る故郷・田舎の寺院(白鳥山龍勝寺)がある白鳥、いわき湯本を墓参のために訪ねた。 そして、その帰路、上湯長谷の「宇治山長谷寺」へ立ち寄った。
    県道・湯本-植田線の下湯長谷地区・スーパー「マルト」の信号を上湯長谷地区に向かって1kmほど行くと、そこに広い境内を構えた長谷寺があり、正面に大きく「長谷寺」と書かれた石柱が立っていた。

    思えば、この辺りは子供の頃よく遊んだ地域でもあった。 
    小さな丘の東方に「湯本第一小学校」があって、この学校は小生の母校であり、しかも住居は小学校のすぐ隣にあったのである。 又、寺のすぐ北方直近には「湯本第一中学校」があって、通学途上は小学校の校庭を横断して寺の境内の直ぐ横を通り、通学していたものであった。 
    寺院境内の様子は、昔日と今日とではおのずと様変わりしているとは思われるが、いずれにせよ小学校時代や中学の通学途中の道草によく遊び、ヤンチャをしたものであり・・、実に懐かしい地域なのである。

    今日は、彼岸の御中日ということも有って、墓参のための檀家衆の出入りも激しく車の交通整理員が2人も3人も出ているほどで、舗装された坂道の両脇には大きな駐車場もあるが、ほぼ満車状態であった。
    昨今、われ等の生活状態も豊かになったのであろうか・・?、 気が付くことに何れの寺院の墓地、墓石も新調しているらしく、真新しく光り輝いているのである・・、無論、長谷寺の墓地も例外ではなかった。 
    同寺の主要な墓地・霊園は北面高所にあって、杉林の囲まれヒッソリと・・、と言いたいが、本日は彼岸ということもあって大勢の参拝者で賑わっている。  
    実は、小生は墓参に来たわけではなく、寺院本堂に参拝の傍ら、長谷寺の歴史に興味があって、それらに関して訊ねて来たのである・・。
     
    車を置いて本堂境内に向かう入り口に、これまた立派な石柱が立っていて、右に「宇治山・長谷寺」(うちさん・・)、左に「大同二年徳一大師開山」としてあった。 更に進むと左手の大きな堂宇があり、その正面の上部、横向き看板に「徳一大師開山1200年記念・・・」と記してあった。
    そうなのである・・、 本年は2007年、開山が平安初期の和暦の大同二年は西暦の807年に当たり、今年は実に限(きり)のいい1200年の開山記念の年なのである。 
    境内は古刹寺院の瀟洒(しょうしゃ)な面影を存分に漂わせていて、心が洗われる清楚な雰囲気を醸し出している。
    本堂に一礼を済まして横の寺務所を訪ねると、やはりというか、住職、若僧は秋の彼岸会などで不在であった。 家人に1200年記念法事の件や同寺院の縁起書、案内書なるものを訊ねたが要領を得ず、同寺の「観音立像」のパンフ一葉を有難く頂いて退所することにした・・。
    尚、1200年記念大法要は、本年11月初旬に行われるらしい・・。    


    <font size="2" color="#0000FF">「観音立像」の概要・・、
     『県重文(彫刻) 木造十一面観音立像 一体  本像は、別名長谷式十一面観音像といわれ、通常の十一面像と異なり、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、岩座に立つ姿であり、材質はカヤ材と判定される。・・・腕は豊満な丸みを帯び、・・肩から腰の衣文(いもん)、腰から下の裳(も)はゆるく反転してて彫が深く、重量感をかもし出す。天衣は仏体とともに木で、彫刀のさえはみごとであり、鎌倉時代末期の特色である写実味をかなり表現している。・・・なお、本像の胎内銘については昭和35年以降その読解に努力し、・・・それによると胎内の腹部・背部の内刳り(うちえぐり)部分と両肩の腕側継ぎ目、さらに足先の裏面から総計673文字の墨書銘が確認された。 造立は文保二年(1318年)。延べ38日で完成したらしく、・・・仏師は能慶。 また造立者は岩崎氏。同氏の隆義公が父、隆印の七回忌と祖先の供養を兼ねた。それらの人名は、岩崎氏系図の欠を補う。当地の地名「岩崎西郷内長谷村」も確認した。また「奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也」と徳一大師による堂宇建立を示す中世資料の所在を証左した。・・付記、いわき市常磐上湯長谷町堀の内  長谷寺所有。  「いわき市の文化財」「市史調査報告」より・・』
    と記している。

    概説すると・・、
    『現在の観音様は、鎌倉時代後期の作で文保2年(1318)いわきの豪族岩崎氏が同家の先祖菩提を念じて大仏師・能慶をして、カヤ材寄木造りの総丈約270センチの檀像を長谷寺に寄進したとする。
    観音様は右手に錫杖を持ち、岩座の台座に立つ典型的な長谷式の十一面観音である。 
    そして、衆生の苦悩の声を聞きつけると即座に台座より飛び降り、どんな地獄の底であっても杖をついて衆生に救いの掌をさしのべる、このような慈悲心溢れる姿で本堂中央に立っている・・。
    尚、観音像は難陀龍王(なんだりゅうおう:両手に宝珠を持つ八大龍王の筆頭)、雨寶童子(うほうどうじ:福を得て災を除くという。神仏習合によって日本で創造されたもので、難陀龍王と共に十一面観音の脇侍として祀られることが多い。)を両脇侍に従え、所謂、長谷観音三尊仏として多くの参詣者に拝まれている。』
     (平成19年:2007年9月下旬、 追加記載)


    次回は、 「いわき」



    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: orimasaさん

    2008年05月15日 10時43分04秒

    icon

    日本周遊紀行(110) いわき湯本Ⅶ・・「徳一と新興仏教」


    <font size="2" color="#0000FF">序ながら、「徳一」に関連する東北における奈良期から平安初期における仏僧について・・。
    仏教界で大きく飛躍するのは、奈良から平安にかけてで、新興宗教である「真言宗」と「天台宗」が、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 
    従来は、奈良仏教と言われ「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、平城から平安に京が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。
    その時期、徳一というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その中心にいたのが彼であった。 

    当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったといわれる。
    最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 徳一は、その最澄に反撃を加えて五カ年間にわたる理論闘争(三一権実諍論)を行い、その結果において最澄は徳一(法相宗)に勝てなかったとされている。 
    最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったという。

    一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 会津において磐梯恵日寺の建立時、空海は徳一に手紙を書いている・・。
    『聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重・・・』
     

    小生拙宅(神奈川・厚木市)の二階の窓から、丹沢山系の一つ「大山」(おおやま・1252m)が見渡せる・・。 山好きな小生が手軽に日帰りで行ける山であり、年に数度はトレーニング代わりに登山している山でもある。
    思えばこの山も、筑波山、湯の岳、強いては大和の三輪山に類似しているのである。 
    この大山も、神の山で古来より崇められ、江戸期にもなると「大山参り」といって近郷近在をはじめ遥か彼方より参詣にこられた由緒ある山なのである・・。
    820年、「空海」47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。
    山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は、富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。 現在は神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊が配してある・・。

    同時期、東北にはもう一人偉大な人物がいた・・。
    これが最澄の弟子といわれるのが皮肉で面白い・・、慈覚大師「円仁」である。 
    小生が東北を巡った際もお目にかかったが、東北の北端に三霊山と称される恐山・円通寺、瑞巌寺、それに中尊寺、山形市の立石寺(山寺)など、これら有名仏閣の開祖である。
    坂上田村麿の往くところ、「円仁」の蔭があるともいわれ、東北文化の成立に大きな役割を果たした高僧なのである。 
    円仁は最澄を超え、空海を超え、徳一を超えたともいわれ、円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方であった。 
    わが国が誇るべき世界の偉人であるとされている・・。


    「徳一」の偉大で、且つ特異さは貴族の出でありながら、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済を熱心に努めた大人物であった。
    その徳一が開祖した、いわき湯本の「長谷寺」は2007年(平成19年)で丁度、開建1200年の記念の年に当たる。
    過日、この寺院を訪ねた・・。

     
    次回は、 「追筆・長谷寺」

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

もっと見る icon