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  • from: orimasaさん

    2008年08月30日 09時23分59秒

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    日本周遊紀行:【あとがき(1)】


    日本周遊紀行:【あとがき(1)】

    先ず、「脳」の話から・・、
    <font size="2" color="#0000FF">巻末になって突飛で、唐突であるが・・、旅や旅行とは無縁に思える「脳」の話からであります・・。
    執筆(・・とはいってもP・C上のことであるが)の最中に養老孟司氏の「バカの壁」を読んで見た。 なんでも近頃の超ヒット作品で300とか400万部を売ったとか言われる本である。そして更に最近、春山茂雄氏の「脳内革命」という書をペラペラとめくる機会もあった、これらが理由によるのかもしれないが・・?。

    最近の社会現象ともいえる人間関係においてよく「切れる、きれる、キレル・・・」という現象が言われる。そして極端で、その最たる例が親の子殺し、子による親殺し、兄弟間、夫婦間にもそのような凄惨なニュースが巷に時折視られる・・。
    極く最近では、「通り魔」などといって、無差別殺人なるものも起きているようだが・・・。 これらの例は、右脳の働きが相当鈍くなっているか、全く機能しなくなっているといわれる。
    脳は、大人に近ずくに従って右脳から次第に左脳へ移行してゆき、特に熟年になってくると右脳は休眠状態に陥るともいわれている。 
    つまり、ある種の思考や行動が凝り固まって、変化に対応することが困難になりつつあり、しかも、これらを敬遠する傾向になってしまうということらしい・・。

    「バカの壁」とは、「人間だからこうだろう」という「常識」を脳生理的に、脳と心の関係で解説しているもので、その常識の壁を突破する方を暗示させてくれる著である。 
    師曰く、「最近の学生(大学生)は授業を真剣に聞かなくなった・・」と述懐している・・。共通するのは物事に対する考え方が浅いこと、自分・他者に対して我慢が足りないこと、等々を傾向としてあげている。
    人間として、ベーシック的なことが欠如しているのもバカの壁のせいだと嘆いている・・。 これらは、先に記した人間関係における「キレル」という現象に相関性があるようでもある・・。

    養老孟司は、時折テレビなどで拝見したりするが、そのソフトな語り口にも人柄が現れて好感が持てる一人である。 医学界の解剖学者であるが、大学教授で科学者で哲学者でもある・・。 
    彼は、バカの壁の前に「唯脳論」をも著している・・、言語、意識、心はもちろん文化や伝統、社会制度など人のあらゆる営みは脳という器官の構造に対応しているという考え方である。

    又、春山氏の脳内革命は、脳の生理現象を示し、それに合わせた養生の仕方を表したものであるが、両著とも、その後の「脳トレーニング」、「右脳を鍛える・・・」などの脳に関する書物のブームの先駆けをなしたものでもあるといわれる。
    普通の人間の脳は、本来持っている能力(脳力)のわずか3%位しか使っていないとも言われる。 それは、記憶容量が小さいため短期的に記憶するが、一方でどんどん忘れていくからだという。 これらは左脳の働きなのであるが、残りの97%は休止しているという・・、つまり、そのキーワードの一つが「右脳」だともいう。

    子供たちの頭の中はいつもイメージに満ちあふれ、子供たちの能力は大人の理解を越えているという・・。 尤も、大人になっても左脳人間型と右脳人間型の両タイプがあるといい、2 種類に分類することもできるという。
    一般に、左脳の働きは、論理・常識・言語を司り、普段の人間は左脳を使っているという・・。
    又、左脳が右半身、右脳が左半身を支配しているともいわれ、左脳の機能が損なわれると右半身が思うように動かなくなったりもするらしい。
    現代人は左脳の方がやや大きく、手や足が右利きということは、脳の左利きに関連があるとも言われている。
    一方、右脳の働きは感性、独創性、大量の記憶を司るといい、極論すれば、左脳の 100 万倍の記憶能力があるとも言われるが、その潜在能力を発揮できている人間は殆どいないという・・。 
    脳内革命の春山氏に言わせれば、右脳を活発にしている文科系の人は、長生きするというデータもあるともいっている・・。

    又、最近テレビで人気の脳学者「茂木 健一郎」の、人間の脳に関してのユニーな発言も面白い。 彼は「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードに、脳と心の関係(心脳問題)を研究している。
    NHKの人気テレビ番組「プロフェッショナル (仕事の流儀)」のパーソナリティーを務めていてお馴染みであろう・・。

    一般に「右脳型」の人の特徴として可能性を感じ取る、先見性がある 、新しい考えを思い付く、不可能に挑戦する 、創意工夫を施す、予測不能の状況にも対応できる人・・と、経営者型人間を指している。
    いずれにしても、右脳は人間本来の情緒性、感受性、夢想・連想、創造性、記憶性等を司る極めて重要な働きをすると言われ、右脳を活性化させるには、既存の概念に捉われないフレッシュな感覚を常に心がけるべきで、その為には自然への回帰、未知への挑戦を説いているのである・・。


    さて、能書き(脳書き)が長くなったが、旅に出て、絶景に触れたり、新しい見聞をすることによって、心身ともにリフレッシュされる。 
    感性である「右脳」が刺激され、逆に日常酷使している「左脳」を休めることで、身体のバランスが良くなるといわれる・・。

    「日本一周」の長い旅を終えて、二,三日は何となくボンヤリしてしまい、時折、過ぎ去った時間や空間に想いを巡らしているのである。 
    不可思議な地形に驚嘆し、深山幽谷、大洋の蒼さに心安らぎ、又、壮大な寺・社殿を観るにつけ悠久の歴史の流れを実感したのである。 
    そんな思いが脳裏を駆け巡り、何とも癒えぬ気(け)だるさを感じているのであが・・、これは決して旅の疲れではなく、日常へ戻る為、今まで働いていた右脳と従来型の左脳がせめぎ合っているのかもしれないのである。 
    熟年になってからの長丁場の一人旅、正直ストレスがなかった訳ではない、・・それにしても余りある、実感と体感はやはり得がたい物が有った。


    次回、「旅の印象」・・、



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  • from: orimasaさん

    2008年08月29日 09時55分09秒

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    日本周遊紀行:「まとめ」(東日本編)


    日本周遊紀行:「まとめ」(東日本編)


    延日数
    16日間   出発日 2004年9月20日 ⇒⇒⇒⇒最終日 2004年10月6日

    通過都道府県(沿岸部)
    神奈川(厚木)⇒ 山梨⇒ 長野⇒ 新潟⇒ 山形⇒ 秋田⇒ 青森⇒ 北海道⇒ 岩手⇒ 宮城⇒ 福島⇒ 茨城⇒ 千葉⇒ 神奈川(厚木)

    宿泊地
    宿泊施設 7日  道の駅(車中) 8日
    1日目・白馬村(別宅)、2日目・温海町(道)、3日目・男鹿温泉(保)、4日目・浅虫温泉(保)、5日目・湯の川温泉(H)、6日目・島牧村(道)、7日目・小平町(道)、8日目・紋別市(道)、9日目・羅臼温泉(H)、10日目・白糠町(道)、11日目・登別温泉(H)、12日目・大畑町(車)13日目・田老町(道)、14日目・湯の原温泉(旅)、15日目・水郷潮来(道)

    (道):道の駅車中 (保):施設、保養所 (H)ホテル (旅)旅館、民宿

    温泉(立寄湯)
    白馬温泉、温海温泉、男鹿温泉、不老不死温泉、浅虫温泉、湯の川温泉、宮内(ぐうない)温泉、神居岩温泉(留萌)、とっかりの湯(紋別)、カムイワッカの湯(知床)、羅臼温泉、
    登別温泉、下風呂温泉(大畑)、奥薬研温泉、恐山温泉、小本温泉(岩泉)、湯の原温泉(松島)、湯本温泉(福島いわき)


    勝手に選んだベスト五選

    名所五選
    竜飛崎(青森) 仏が浦(青森) サロベツ原野(北海道) 知床と五湖(北海道) 恐山(青森)

    温泉五選
    カムイワッカの湯(北海道)  不老不死温泉(青森)  奥薬研・かっぱの湯(青森)  登別温泉(北海道)  下風呂温泉(青森)  次点は温海温泉(山形)

    景観「道」五選
    サロベツ原野(道道106号) 黄金道路(襟裳〜広尾、R336) 龍泊ラインと国道階段(青森・竜飛、R339) 羽州浜海道(山北、R345) 松林海道(紫雲寺、中条、R113)

    「道の駅」五選
    「鳥海」 「象潟」 「オホーツク紋別」 「高田松原」 「津山もくもくランド」

    その他
    【総走行距離】  5403km(1日平均 338km)
    【消費燃料】  494L  (1日平均 31L・ガソリン)
    【車種】  トヨタ タウンエース「ノア」 2000cc  


     続いて、「あとがき」です・・、



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  • from: orimasaさん

    2008年08月28日 08時44分00秒

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    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅹ「厚木の山地(3)」


    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅹ「厚木の山地(3)」

    引続き厚木周辺のハイキングコースの紹介です。

    ★ 鳶尾山コース(コース多彩)
    鳶尾山は小生宅の裏山といっていい位の至近距離にあって、トレーニンググラウンドでもある。 
    厚木、この地に在住して以来30数年この山の世話になっていて、今でもほぼ毎日のように1時間前後は徒歩、強歩を楽しんでいる。
    山は、家族で十分楽しめるコースで、明るく開けた野道がつづき、時おり猿の軍団に出会う事もある。

    ルートは、最短で15分から、鳶尾山を延長すると半日ルートまでと多彩である。
    最長のルートは鳶尾団地1丁目の取り付きから鳶尾山中腹の林道を通り、八菅神社の八菅山から中津川カントリーのゴルフ場を経て国道412号へ至る約10kmのコースである。 
    一般的には鳶尾団地4丁目の明治天皇が行幸したとされる「天覧台」から金比羅宮、石碑(展望塔あり)、砕石跡の窪地から鳶尾本峰(235m)に登って松蔭団地へ降りるコースである。 道々、丹沢大山や相模湾、中津川の展望を楽しむことができる。

    鳶尾山には「鳶尾山に桜を植える会・・?」という愛山会があって、既に数千本もの桜が植えられており、さらに増植中である。春の桜の時期は、特に良い。
    小鳶尾山には、金毘羅宮(跡)があり、小生はその都度、祈願御参りしているが・・。
    慶安3(1650)年、伝染病沈静化、養蚕繁盛祈願のために四国・讃岐の本社より勧請し、建立されたもので庶民信仰が厚かったが、昭和30年代に焼失し、社宮小屋とわずかな石仏のみが残る。

    小生の住む鳶尾団地は鳶尾山の山麓、東南の台地に拓かれている風光明媚な地柄である。 
    昭和40年代に造成された住宅団地で、造成される前に県により埋蔵文化財の発掘調査が実施された。 その結果、この地には多くの住居跡が発見され、高床式の住居もあり、ここが古代平安期の愛甲郡家(郡役所)の跡である事が推定されている。
    古代から鳶尾山麓は地形的にも高台で風光も良く人間生活には適地であり、この地方を支配するのにも好立地にあり、愛甲郡の文化的中心地であったとされている。
    ◎ 徒歩時間:30分〜半日  バスは本厚木⇒鳶尾団地、松蔭団地行き・・

    厚木近郊には、その他にも丹沢大山、大山三ッ峰山、そして丹沢山塊など身近に自然を楽しめる地域が満載である。 
    又、海にも近く、横浜、東京の大都会へ出るのにも短時間ですむ・・。
    厚木が気に入っている所以である・・、
    ビバ厚木・・!!

    尚、厚木ではハイキングMapや各種観光ガイドを発行しております。問い合わせは下記へ・・。
    厚木観光協会 http://www.atsugi-kankou.jp/index.htm            
    厚木市役所 http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/index.html 


    山好きな小生の勝手に感じた「山の歩き方」数ヶ条、(長時間の登降:2時間以上、ただし岩場、沢筋、雪上・・など特殊な歩程は含まず)

    『登り編』
    1、登山靴は底が厚く、踝(くるぶし)が隠れるほどの周囲のしっかりしたもの・・、
    2、歩き始め、出来るだけ平坦の徐歩区間を設ける(ウォーミング・アップ)
    3、いきなり急な登りの場合、普段のペースより意識的に遅くする
    4、足の底の全面をつかい、体重を預けるように一歩一歩前進(ベタ足、)
    5、小幅、小股で、引きずるように安全な着地面を歩く(スリ足)
    6、急斜面は避ける(有れば迂回路を取る)
    7、滑りの注意(濡れた木の根っこや石を避ける、靴底の濡れにも注意)
    8、急登の場合両手を腰に当てる(ステッキを余り頼りにしない)
    9、息切れしそうな時は意識的に深呼吸をしながら・・(できれば腹式呼吸)
    10、息切れした時、大きく一吸小さく二吐、又は、二吸二吐
    11、チョイ休止(息入れ)、小休止、大休止を計りながら・・
    12、水分の補給は十分に、登行中は食べ過ぎない、食べない、飲みすぎない(歩行中アメ、チョコなどはOK)
    13、・・・


    『下り編』
    1、走らない、跳ねない、急がない
    2、リズミカルに・・
    3、有ればステッキを上手に利用する
    4、両手は必ず空けておく(物を持たない・ステッキは除く)
    5、小幅、小股(左右の膝を並べる感じで)
    6、登りとは逆に、軟らかく着地(カカトより着地、体重を抜く感じ)
    7、浮石、根っこ、枯葉など足の取られに注意・・!!
    8、濡れ靴、濡れ石、濡れ根っこ注意(滑り注意)
    9、急斜面は避ける(迂回路を取る)
    10、きき足の反対の脚(弱脚、通常左脚)をカバーしながら・・
    11、膝の笑いだしに(ガクガク・・)注意する(ゆっくりと・・)
    12、膝関節が痛みだしたらステッキを利用(棒切れでもよい)
    13、・・・、



    次回は『あとがき』をどうぞ・・、</font>


    ◎今回で「日本周遊紀行:東日本編」は終了しました、御声援有難うございました。
    引続き、「日本周遊歴史紀行:西日本編」を記載、投稿いたします、お楽しみに・・!!。




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  • from: orimasaさん

    2008年08月27日 09時22分48秒

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    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅸ「厚木の山地(2)」


    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅸ「厚木の山地(2)」

    前回に引続き「厚木周辺のハイキング・コース」の紹介です。

    <font size="3" color="#0000FF">★ 日向山コース(家族向き)

    広沢寺温泉から日向薬師へ向かうコース。 大沢川からは水のせせらぎが聞こえ、小さな鳥居が見えたら大釜弁財天で、せせらぎの音を聞きながらの森林浴は格別である。 山道に入ってしばらくは七曲りといわれる急な上り道、上りはやや急であるがほんの5分ほどで尾根道に出て、更に緩やかな上り道を歩くと標高404mの日向山頂上へ到着、木々の間から相模平野が眺める。 下りきったところが重厚な造りの日向薬師がある。

    「日向薬師」は平安時代後期には霊場として栄えていたといわれる。 寺伝では、奈良期の霊亀2年(716年)、行基の開山といわれる。 だが、境内からは奈良時代にさかのぼる寺院跡は発掘されておらず、実際の創建は10世紀頃と推定されているという。 修験道の霊場で、本堂、薬師三尊像は文化財。
    柴折薬師(高知県大豊町)・米山薬師(新潟県上越市柿崎区)とともに「日本三大薬師」に数えられることもある。 
    又、峯の薬師(相模原市津久井町)・高尾山薬王院・新井薬師とともに「武相四大薬師」としても信仰を集めており、源頼朝、政子も深い信仰を寄せていたという・・。 一時期は勅願寺になり、江戸時代末期には 13坊を数えたと言われる。
    ◎ 歩行時間:約2時間15分 バス本厚木⇒広沢寺温泉入口

    ★ 鐘ヶ嶽コース(ハイカー向き)
    広沢寺温泉付近の鐘ヶ嶽の登り口から、山頂手前の浅間神社まで、28の道程に分けてそれぞれの箇所に1丁目から28丁目までの石碑が置かれている。 鳥居をくぐり野道を進むと、やがて標高561メートルの釣鐘状の山が見える。 石碑や石仏が置かれた急な坂道を登りきると大岩を抱いた展望地が在る。ここから急な石段を登り切ると浅間神社があり、山頂はその裏手にある。

    下りは大山を正面に見ながら尾根道をゆき、山ノ神トンネルへ下りて林道から広沢寺温泉へ・・。 昔の人々が「山の神」として深い信仰心をこの山に寄せ、名残を残す旧跡などが点在している。 このコースはせまい急坂などチョット危なっかしい箇所もあるので、幼児連れのハイキングには遠慮したほうがいい。
    広沢寺温泉「玉翠楼」は、山間の落ち着いた和風一軒宿で、男女の露天風呂もあり、周囲は竹林に囲まれ、春には桜が見事である。 源泉泉質は ph10.3の強アルカリで美肌効果抜群であり、女性には特に評判が良いという。 名前の由来になった広沢寺が隣地にある。
    ◎ 歩行時間:2時間30分 バス本厚木駅⇒広沢寺温泉

    ★ 高取山(荻野)522.m華厳山602m、経ヶ岳633m⇒仏果山747m(ハイカー向き) 
    厚木市の国道412号の荻野地区から西に聳えているのが高取山、華厳山、経ヶ岳などの5〜6百m程度の山々で、この地区では西山と称されて親しまれている。 山麓はゴルフ場や民家が広がっていて登り口は判りにくいが、主にR412のバス停を「東谷戸」「源氏河原」「上荻野」などで降りて山方向へ向うと、所どころに高取山への案内板がある。 一端に取り付けば、あとは尾根筋の一本道で判りやすい。

    稜線の向こう側は大規模な採石場であるが、やがてこの尾根まで砕石箇所が延びてきて山道は無くなるらしい・・。 地元の自然愛好者は自然破壊だとして反対しているが行政も認可の方向らしい・・!。
    尾根道は樹林帯のため展望はあまり良くないが、経ヶ岳付近からは周囲、特に丹沢連邦の景色が良い。 西側の稜線上(経ヶ岳から半原越へ下る道)に「経石」と呼ばれる巨岩がある。

    この名は昔、弘法大師がこの岩に経文を納めたことに由来しており、この岩がある山だから経ヶ岳と呼ばれるようになったと言われている。 そう言えば華厳山、経ヶ岳、仏果山など仏に因んだ名称が多い。
    仏果山山頂手前はちょっとした痩せ尾根と岩場があり、仏果山には展望塔もある。 山頂から宮が瀬乗越、高取山(705m)は、宮が瀬湖、半原方面の展望が雄大である。
    ◎ 歩行時間:約4.0〜4.30時間 バス本厚木⇒半原、上荻野行き、東谷戸、源氏河原、上荻野下車

    引続き、厚木の山地(3)へ・・、


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  • from: orimasaさん

    2008年08月26日 10時16分22秒

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    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅷ「厚木の山地(1)」


    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅷ「厚木の山地(1)」

    最後に、山好きの小生でもあるので、ここで慣れ親しんだ厚木周辺の行楽地・ハイキングコースを紹介してみよう・・。
    厚木の、小宅の周辺には家族でも楽しめる低山地帯、良く整備されたハイキングコースが数多く点在している。




    ★ 高松山コース(家族向き)
    ★ 飯山白山コース(家族向き)
    「飯山観音」から、四季にわたって美しい飯山白山森林公園を抜け、白山山頂をめざす。 飯山温泉や自然と歴史豊かなファミリー向きコースである。 標高284mの山頂からは雄大な眺めも良く、飯山観音など見どころもいろいろ。

    飯山観音は、飯上山長谷寺(いいがみさん ちょうこくじ)といい板東三十三ヶ所観音霊場第六番札所である。 本堂は江戸中期の建物で、観音堂の由来は古く、奈良時代の神亀二年(725年)に諸国を巡っていた高僧・行基(ぎょうき)が創建したともいわれる。 観音堂には本尊の十一面観世音(約180cm)像があり、体内には行基が楠の一木で彫った尊像が納められているという。 境内隣地は県内きっての桜の名所である・・。
    ◎ 歩行時間:1時間30分  バス本厚木⇒飯山温泉、


    ★ 巡礼峠白山コース(家族向き)
    厚木市郊外の、いかにも裏山といった感じの低山帯で、古くからの信仰のために開かれた順礼峠と飯山観音を結んだ静かな尾根の縦走コースである。 
    春は若葉のころ、秋は紅葉のころが最も楽しめる。

    江戸期に順礼の親子が強盗に殺され、哀れに思った地元の人が建てたと言われる地蔵像が途中にある・・、享保8年(1737)の作。
    ◎ 歩行時間:2時間 本厚木駅⇒バス広沢寺温泉行き七沢温泉行き

    尚、厚木ではハイキングMapや各種観光ガイドを発行しております、問い合わせは下記へ・・。
    厚木観光協会 http://www.atsugi-kankou.jp/index.htm            
    厚木市役所 http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/index.html 

    引続き、厚木の山地(2)へ・・、


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  • from: orimasaさん

    2008年08月25日 09時55分23秒

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    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅶ「宮が瀬ダム」



    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅶ「宮が瀬ダム」


    宮が瀬ダム
    昨今、この宮が瀬地区に大きなダムが完成した、「宮が瀬ダム」という・・。
    東京都心から約50kmの至近に位置した首都圏最大級のダム、貯水池として注目されている。
    愛川町半原と相模原市津久井町(旧津久井町)、更に清川村宮ヶ瀬の3市町村に跨る相模川水系中津川に建設されたダムで、湖名は宮ヶ瀬湖という。
    1991年10月に宮ヶ瀬ダム本体コンクリート打設開始、1995年10月から貯水が開始され、1999年春には箱根の芦ノ湖に匹敵する「宮ヶ瀬湖」が誕生した。 宮ヶ瀬ダムでは、.二本の導水路で県内の相模・城山ダムと連携して水資源を合理的に利用し、2001年4月から本格運用が開始されている。

    総貯水容量約2億トンといい、水道水として新たに利用される水は横浜市や川崎市など県内の3分の2を賄い利用されてる。 宮ヶ瀬ダム建設に伴い、本ダムに愛川第一発電所、副ダムに愛川第2発電所を新設。ダムからの下流への補給を利用して水力発電を行い最大出力は、それぞれ25,200kW、これは一般家庭約21,000世帯の年間使用量に相当するという。
    堤高156.0m、堤頂長約400mの重力式コンクリートダムで、全国の堰堤の規模からすると高さで5位にランクされる、ちなみに1位は黒部ダムで186mである・・。
    また、宮ヶ瀬ダム建設に伴って多くの人が移転を余儀なくされた、水没地の面積は45平方キロメートル、移転戸数は281戸に及び、新規造成団地「宮の里」に移住している。

    宮ヶ瀬ダム湖周辺は、かなり広大で見所は、あいかわ公園、湖畔地区、鳥居原地区の三つのエリアに分かれている。 
    湖畔地区は、旅館や商店が並ぶ水の郷商店街、のりもの広場や広大なピクニック広場、水の郷大吊り橋、ビジターセンター、交流館、カヌー場などがあって賑やかなところである。

    又、宮ヶ瀬湖には例年のイベントがある、クリスマスの時期に美しく光輝くジャンボクリスマスツリーが登場する。 期間中は、水の郷の樹木にもおよそ10万個のイルミネーションが飾られ、ライトアップされた大噴水「虹の妖精」、美しい夜景とともにそこは光のパラダイスとなり、大人から子供までメルヘンの世界に招待してくれる。
    このジャンボクリスマスツリーとして毎年話題を呼ぶ宮ヶ瀬のモミの木は、樹齢100年を超えると推定され、このモミの木のてっぺんに約2mの星が飾られ、約1万個のイルミネーションでデコレーションされた、高さ約30mのジャンボクリスマスツリーになる。
    宮が瀬へは小宅からは車で15分程度、中央道相模湖ICから30分、東名道厚木ICから40分、本厚木駅からバスで60分程度である。


    <font size="2" color="#0000FF">回想の中津渓谷、宮が瀬・・、

    厚木市街に接して流れる清流「相模川」・・、関東の鮎の釣り場、夏には厚木鮎祭りの大花火大会の会場にもなる市民の憩いの場所である。 
    この広大な河原は、三川合流の地点でもあり、左より小鮎川、中津川、そして本流の相模川であるが、この中津川の上流凡そ10km上流の愛川地区に宮が瀬湖がある。
    この湖の東端、宮ヶ瀬堰堤・ダムが位置するダムサイトエリア下流の石小屋ダム付近は、かつて名勝・中津渓谷があった地域である。 
    川幅一杯に急峻な山肌が迫り、この地形を利用し建設されたのが宮ヶ瀬堰堤・ダムがであるが、この地が愛川町石小屋地区であった。

    克っての中津渓谷は、深い緑と鮮やかな紅葉のハイキングコースとして人気があり、小生なども何度も訪れた地で首都圏でも絶大な人気があった。 
    コースのスタート地点には、堅牢な石造りでメガネ状の名物・石小屋橋が在り、現在はその名残を残しつつも宮ヶ瀬ダム建設に伴って取り壊された。 
    この石小屋橋から先が中津渓谷の見所、核心部であった。 
    日中でもあまり陽が指す事が無いほどV状に研ぎすまされ、深い峡谷の景観は我々を圧倒した・・。  
    ユックリ散策しながらも概ね1時間、薄暗い谷間を通り抜けるとそこには信じられないぐらいの明るい集落が広がっている。 
    サンサンと降り注ぐ陽光の下、中には藁葺き屋根を設えた家々が寂として佇んでいる。 
    中津川の清流には鮎やヤマメが飛び跳ね、河原にはバーべキュウを楽しむ親子ずれがいて子供達の嬌声が聞こえる。(小生の家族も含む)
    チョット上流には、ゆらゆら揺れる吊り橋がいかにも山の里を偲ばせ、山あいの平地には、黄金色の稲穂がたわわに実りを付け、こらえ切れないほどに頭を垂れた穂先が風にそよいでいる。 
    この宮が瀬の地は正に桃源郷の様相であった。

    何十年も、否、何百年もの間住み慣れた部落の人々は、今、この地を後にして新天地の宮の里に移ったが、これらの人々が、フト・・!我に返り、かって住み慣れた桃源郷の「湖底の故郷」を思い起こす時、どのような気持ちになるのだろう・・? きっと胸が締め付けられるような思いにかられるに違いない・・。

    宮が瀬ダムの建設時期に、同町の愛川高校の新設、開校(昭和58年)が合わさったたため、学校建設の際、南北校舎を結ぶ渡り廊下の中庭に「石小屋橋」の景観を取り入れたデザインを創作し、取り入れているという。


    次回は、厚木の山地


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  • from: orimasaさん

    2008年08月23日 11時21分38秒

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    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅵ、「厚木の由緒、由来」


    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅵ、「厚木の由緒、由来」

    奈良から平安時代の仏教の伝播を物語るものとして、遺跡から発掘されている瓦塔片や飯山金剛寺・船子観音寺などの仏像があり、この頃、南都仏教(奈良期、平城京を中心に栄えた仏教)及び天台・真言宗などが伝わっていたことが判明している。
    中世には、相模国(神奈川県)を北から南へ流れる相模川の東、海老名の地に国府を、また1200年には国分寺と国分尼寺が建立され、当時、そこは大和朝廷から相模国府へ続く旧道が交差する相模国の拠点だったとされてる。

    教育委員会が刊行した「厚木の地名考」によると、厚木の名が初めて文献に登場したのは、室町元年(1338年)禅僧の夢窓疎石が南北朝時代・足利尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)にあてた書状の中に「相州厚木郷」という名が記されているという、どのような内容、目的の文献であるかは定かでないが・・。

    夢窓疎石は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけて、国師号を授けられた臨済宗の禅僧であり、「苔寺」で知られる京都の西芳寺、天龍寺、鎌倉の瑞泉寺など、多くの庭園の設計でも知られている庭園師でもある。
    高 師直は足利尊氏の重臣、執事であり南北朝時代の争乱の時期、尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多く、尊氏に従って室町幕府創立に寄与している。 
    疎石は足利家とも縁があり、高氏とも深いつながりが在ったと見えて、師直の兄弟達は疎石に帰依(従い服すること)している。 
    夢窓疎石と武将・足利尊氏の側近であった高師直とは相州・厚木郷において何らかの理由で接点があったことが想像出来る・・。
    尚、この時期、足利氏による室町幕府成立に伴って、政治の中心は相模の国・鎌倉から再び京都に上っている。 

    相州・鎌倉は、幕府滅亡後は足利氏による地方としての政庁・鎌倉府を設置(鎌倉公方)し、関東十ヶ国における出先機関としての役目を果たしている。 この政庁執権を、関東公方とも称している。 この公方を補佐するために上杉氏などの関東管領が置かれていた。

    序ながら、この関東管領・上杉氏(扇谷)の家臣で、相模国守護代を勤めた「太田道灌」がいる。 
    江戸城や川越城を築城したことで特に有名であるが・・、

    <font size="2" color="#0000FF">「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」


    の歌でも有名な人物であるが、この厚木市街西方、糟谷(かすや:現伊勢原市)地区に居を構えたいた。
    だが、ある日、讒言(ざんげん:はかりごと)によって当主の上杉定正によって暗殺される羽目になる。 毎年10月、伊勢原市では 「道灌祭り」が盛大に行はれている。


    さて、「厚木」の地名であるが・・、
    自然環境に恵まれている厚木地域は、縄文時代前期5、6千年前のには人が住んでいたと言われている。そして、土着民であるアイヌ民族が住んでいたともされ、厚木の地名に「厚木は諸川の合流下(相模川三川合流点)のところにあって、アイヌ語でいうAtu(吐き出す)ki(場所)=吐き出す場所が、その起源である」という説もある・・?。
    尤も、厚木の各所地名には、アイヌ語と思しき地名が数多くあるというが・・。

    更に 「厚木・あつぎ」の地名の由来であるが・・、木材の集散地であったところから、集め木、アツメギがアツギに変化したとされるが定説ではない・・?。 
    しかし、信憑性はある。 厚木周辺の北西方向の山域は丹沢山塊から派生する低山地帯を形成し、比較的人が入りやすい森林地帯でもある。
    現在、神奈川県で唯一の村である「清川村」は丹沢御林とも呼ばれ、七沢・煤ケ谷その奥にあたる宮ケ瀬の東丹沢山一帯に繁茂する森林は徳川氏が江戸に入るに及んで「丹沢御林」と称され、後に幕府御料林とも呼ばれた。  
    御林は幕府直領下におかれ、江戸城修築や江戸の町並みを造営、其他の木材に使用に供された。
    この山林を守り、用材の諸役を課せられた村々や人々には年貢・諸役を免ぜられていたという。 

    丹沢東部に属する村々である愛甲郡煤ケ谷村、宮ケ瀬村、大住郡寺山村、横野村の四ヶ村には、御領林の警衛なども命ぜられ、村民による巡見管理を任されていた。 併せて、この地区を御留山(おとどめやま)とも称していた。
    新編相模国風土記の記事によれば、この四ヵ村の巡視のための番札を掛けた大きな欅の木が宮ケ瀬から秦野へ通ずる林道上(県道秦野清川線)にあり、このことから、この地を「札掛部落」と名付けられたとある・・。 現在も、草にやや埋もれてはいるが証しの石碑も残っている。


    次回は、「宮が瀬ダム」



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  • from: orimasaさん

    2008年08月22日 10時13分42秒

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    日本周遊紀行(132) 厚木・・Ⅴ、「厚木・毛利氏」



    日本周遊紀行(132) 厚木・・Ⅴ、「厚木・毛利氏」

    厚木市及び周辺の状況、地史を色々と記したが、更に述べることにしよう・・。
    厚木市街から西方に毛利台地区、南毛利といった地名がある。 又、旧来の住人に「毛利」と名の付く人々も多いという・・。

    厚木は、初め「森の庄」と称していた。 
    当時の愛甲郡内の大半が山林であったことから起こった地域名とされ、森の庄は愛甲郡一円を含めた地区であった。
    相模国・愛甲郡の内、庄園(荘園)として開かれた地を、源氏の一族である義家(八幡太郎)の六男・義隆(森冠者、陸奥六朗、毛利六郎ともいわれる)殿に当てこれを知行としたのが、すなわち「森の庄」であった。 
    義隆の子孫に、かの織田信長の寵臣・森三左衛門可成の子・森蘭丸がいる・・。

    中世・平安末期、関東における源氏の勢力は遂に地におち、平家の官人の支配する領となる。 この頃に、森の庄は「毛利の庄」と改称されていたらしい。
    時代がチョット下って源頼朝の石橋山の旗上げに際し、平家軍のうちに毛利太郎景行がいた。 景行は平家の官人であったが、後に頼朝に味方して鎌倉幕府のご家人となっている。 
    その太郎景行の所領が毛利の庄にあったが、後には頼朝側近の「大江広元」の所領となった。

    <font size="3" color="#0000FF">さて、その「大江広元」であるが・・、

    京の都で太政官の書記を務めたという、このよに政庁の事務官である経緯から知恵者として知られ、その広元には兄の中原親能(ちかよし:公家の中原氏出身の文官御家人)がいた。
    親能は源頼朝とも親しく、その縁から1184年に広元は鎌倉に召しだされて頼朝の側近家臣となり、政所の前身である「公文所別当」として辣腕を振るうことになる。  
    頼朝が鎌倉幕府を開く直前、守護・地頭の制度を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。
    この鎌倉幕府の名臣・大江広元の四男・大江季光が「毛利季光」(もうりすえみつ)と名乗ることになる。
    毛利の姓は、父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)に由来している。 「毛利」の元来の読みは「森・もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになったのは前述の通りである。

    鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて季光は、安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長し、戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、その後「毛利元就」を生み、ついには中国地方最大の勢力である「毛利家」となる。


    毛利元就について・・、
    元就(もとなり)は戦国時代最高の名将の一人と言われ、用意周到な計略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。 
    ある日、元就は三人の息子を枕元に呼び寄せ、一本の矢を折るよう命じた。
    息子たちが難なくこれを折ると、次は三本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかったという。 
    元就は一本では脆い矢も三本の束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた・・、これが有名な「三本の矢」のエピソードである。 

    だが、毛利家は嫡男の毛利隆元が早世していたため、嫡孫の毛利輝元(隆元の嫡男)が後を継いでいる。
    1600年の関ヶ原の戦いでは、輝元が西軍の総大将に祭り上げられ、敗戦の結果、周防国・長門国の2ヶ国に減封される。それでも毛利家は、江戸時代を通じて安泰であった。
    この後、江戸時代末期には数々の優秀な志士を輩出し、明治維新を成就させる原動力となったことは周知である。
    因みに、安芸の国・広島の「広」は、大江広元の「広」を採って命名されたともいわれる。

    尚、長州・毛利家については「西日本編」の山口県・萩市の項目で詳細記載します・・。

    次回は、「厚木の由緒、由来」


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  • from: orimasaさん

    2008年08月21日 18時36分02秒

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    「前畑がんばれ」(北京オリンピック特別)



    「前畑がんばれ」(北京オリンピック特別)

    第11回ベルリン・オリンピック(1936年)での競泳女子200m平泳の前畑秀子の優勝の瞬間です。

    ベルリンオリンピック女子二百平水泳決勝実況放送
    (NHKアナウンサー:河西三省 )

    『……切らないで下さい、スヰツチを切らないで下さい、もう予定時間ですが、切らないで待つて下さい、そのまゝ待つて下さい……
    強敵はスタートのよいドイツのゲネンゲルです。はじめ抜かせて、あとでぐんぐんつめるのがわが作戦です。大日章旗を揚げるか揚げないかの境目です。そのまゝ切らずに待つて下さい、スヰツチを切らないで下さい……ホイツスルが鳴りました、各選手は一斉にスタート台に並びました。たゞ今ピストルが鳴ります……跳びこみました、跳びこみました一斉に跳びこみました。これは我が前畑とゲネンゲルの競泳でございます、ゲネンゲルは未だ潜つて居ります、ゲネンゲルは未だ潜つて居ります、跳びこんだときは我が前畑嬢と同じ、我が前畑嬢と同じ、第二コース、第三コース、オランダのワールベルグは割合に出ましたが、前畑嬢僅かにリード、前畑嬢僅かにリード、オランダのワールベルグが大分出まして前畑嬢と列んで居ります、我が前畑嬢三五、三五米、ドイツのゲネンゲルと列んで居ります、ドイツのゲネンゲルと列んで居ります、第一コースのイギリスのストレー、イギリスのストレーも出て居ります、イギリスのストレーも出て居ります、大部分各選手は列んで居ります、非常に心配であります、非常に心配であります、イギリス、イギリスの、イギリスのストレーが先づ最初のターンをしました、我が前畑嬢つゞいて第二位、しかし我が前畑嬢悠々たるペースをもつてつゞいて居ります、ぐんぐんと、我が前畑嬢折返し四〇米、折返し四五、折返し四五、列んで居ります、前畑、ゲネンゲル二人が出ました、イギリスはおくれました、イギリスはおくれました、僅かに一と掻き、一と掻き我が前畑嬢はリードして居ります、ゲネンゲルよりは僅かに一と掻きリードして居ります、ゲネンゲルと前畑嬢の接戦となりました、他は大分おくれました、他の選手は大分おくれました、前畑嬢一と掻きリード、前畑嬢一と掻きリードして居ります、ゲネンゲルよりは一と掻きリードして居ります、一と掻きリード、あと五米で一〇〇のターン、あと五米で一〇〇のターン、あと二米、あと二米、たゞ今前畑ターン、前畑ターン、つゞいてゲネンゲルがつゞいて居ります、つゞいてゲネンゲルがつゞいて居ります、我が前畑一と掻きリード、一と掻きリード、まさに大接戦、火の出るやうな大接戦、まことに心配でございます、心配でございます、ゲネンゲルも強豪、つゞいて居ります、我が前畑僅かにリード、僅かにリード、一二五、一二五、一二五、僅かにリード、僅かにリード、ゲネンゲル、強豪ゲネンゲルがつゞいて居ります、地元ドイツの応援は旺んにゲネンゲルに声援をおくつて居ります、他の選手は大分おくれました、ゲネンゲルと前畑二人だけの競争でございます、他の選手は大分おくれました、前畑あと一〇米で一五〇、あと一〇米で一五〇、僅かに一と掻きリード、前畑かんばれ!前畑かんばれ!あと二米でターン、あと二米でターン、ターンしました、ターンしました、たゞ今ターンしました、一と掻き僅かにリード、前畑がんばれ!前畑がんばれ!がんばれ!がんばれ!あと四〇、あと四〇、あと四〇、あと四〇、前畑リード、前畑リード、ゲネンゲルも出て居ります、ほんの僅か、ほんの僅かにリード、前畑僅かにリード、かんばれ!前畑がんばれ!かんばれ!かんばれ!あと二五、あと二五、あと二五、僅かにリード、僅かにリード、僅かにリード、前畑!前畑がんばれ!がんばれ!がんばれ!ゲネンゲルも出て居ります、がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!前畑、前畑リード、前畑リード、前畑リードして居ります、前畑リード、前畑がんばれ!前畑がんばれ、リード、リード、あと五米、あと五米、あと四米、三米、二米、あッ、前畑リード、勝つた!勝つた!勝つた、勝つた!勝つた!勝つた!前畑勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!前畑勝つた!前畑勝つた!前畑勝つた!前畑勝ちました、前畑勝ちました、前畑勝ちました、前畑の優勝です、前畑の優勝です、ほんの僅か、ほんの僅かでありましたが、前畑優勝、前畑日章旗を揚げました、前畑さんありがたう!ありがたう!優勝しました、女子競泳で初めて大日章旗が揚がるのです。
     今、前畑さんはプールで二着になつたゲネンゲル嬢とニツコリ笑つて握手して居ります、笑つて喜んで居ます‥ 』


    (日本放送協会編「放送」昭和11年9月号、第6巻・第9号)



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  • from: orimasaさん

    2008年08月21日 10時04分36秒

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    日本周遊紀行(132) 厚木・・Ⅳ、「戦国大戦」


    日本周遊紀行(132) 厚木・・Ⅳ、「戦国大戦」

    厚木には「信玄道」、「甲州道」という甲斐・武田信玄に因んだ歴史的な名称がある。
    東海道・平塚より厚木岡田に入り、小生在住の妻田・荻野等を過ぎ、半原(愛川町)より長竹、津久井から甲州街道に達する。 
    又は、中依知の追分で三増峠(愛川町)を過て長竹から津久井、甲州街道に達する。
    いずれも現在の厚木市街を南北に貫く国道129号線、412号線に沿って愛川町、津久井町から甲州へ至る道で、俗に「信玄道」と呼んでいる。

    永禄12年(1569)、武田信玄が小田原より帰陣の時・・、此道に至れりと「甲陽軍鑑・小田原記」などに記載されているという。 
    長竹、串川付近の「信玄道」は、かながわ古道50選でもある。


    戦国期、「甲相駿三国同盟」といわれた甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川氏真(いまがわうじざね)の同盟は、永禄11年(1568)の信玄による駿河侵攻によって崩れ去った。
    信玄は今川氏真を駆逐した勢いで、関東を支配している北条氏康・氏政父子と戦うため、永禄12年9月、全軍、大迂回路をとって上信国境の碓氷峠を越えて上野(こうずけ:群馬)に入り、北条領の北武蔵である武蔵・鉢形城(埼玉県寄居町)の北条氏邦、さらに滝山城(東京都八王子市丹木町)に北条氏照を攻めた。 
    しかし、両城とも守りが堅く落城することなく、その後信玄は北条氏の本城である小田原城へ向かい包囲した。
    因みに、小田原城では、過去の永禄4年(1561)に越後・上杉謙信の11万の大軍が約1ヶ月に及んで攻撃し、攻め立てたが北条勢の籠城作戦でこの危機を乗り切っている。 

    <font size="3" color="#0000FF">「三増の合戦」

    北条氏康・氏政親子はこの城の堅固さを活かし、同様に徹底した籠城策をとり出撃はしなかった。 攻めあぐねて数日を費やした武田勢は、ついには力攻めを諦めて撤退することにしたのである。
    撤退は一端平塚へ戻り相模川を北上しながら、途中難所の三増峠越え(現、愛川町三増)が有った。 
    武田勢によって領内を荒らされた北条氏照・氏邦の兄弟らは、武田方とほぼ同数の軍勢で小田原城の後詰として出兵し、撤兵する武田勢が退路として三増峠を通ることを知って、先回りして奇襲攻撃の計画を立てたのである。
    10月6日の朝、武田勢が三増峠にかかったところで、峠道周辺に布陣して待ち伏せしていた北条勢が、武田勢に対して一斉攻撃を始めた。 ここで合戦となり武田軍は苦戦しながらも、信玄は頂上近くの平坦地で陣形を立直し、両軍が激突する。(現在、「信玄の旗立て場」の蹟碑がある) 
    武田勢の第一陣は馬場信房、第二陣は武田勝頼、さらには内藤昌豊らという錚々たる陣容であり、北条勢は裏をかいたつもりだったが、実は裏をかかれていたともいわれる。つまり、待ち伏せの兵がいることを知った武田信玄は予め2万の軍勢を3隊に分け、別働隊である山県昌景率いる5千の軍勢で志田峠の道を進ませ、北条勢の攻撃を知るとすぐに引き返し、これが遊軍となって北条勢に襲いかかったのである。

    この予期せぬ奇襲に北条勢は大崩れし、氏康・氏政父子の援軍を待たずして敗走を余儀なくされた。 籠城軍として控えていた氏政軍が、その後追撃軍として参戦したが、荻野地区まで到着した時、既に勝敗は決していた。 
    信玄は北条氏との最終決戦を避け、追いすがる敵を振り払うように峠を下り、その日の夕方には津久井の道志川上流に着き、野営をし翌日に甲府に戻っている。

    この「三増の戦役」で北条軍犠牲者は3200余人、武田勢にも900人ほどの犠牲者が出た。 それでも、小田原まで攻めておきながら決戦を避けたのは、この時の出陣は単なる牽制が目的だったともいわれる。 又、武田軍が関東大遠征の長距離間を苦戦したとはいえ、大きな損害も無く帰陣できたことは一応の成果があったものと言われる。
    この戦いのとき、殿軍(しんがり)を引き受けた武田方の軍将・浅利信種(武田四名将に次ぐ重臣)が戦死している。

    余談ではあるが、この三増峠の合戦の後、退路を断たれた武田勢の一部兵が山道で迷い、翌朝、眼前に海を見た・・?。
    彼らは敵地真っ只中の相模湾に出てしまったと思い込み、その場で自刃してしまったという。 しかし、波に見えたのは実は「蕎麦の花」であり、以来、その村の人たちは彼らの死を悼んで、ソバを作らないことにしたという伝説が伝わる。


    その後、1590年(天性18年)北条氏政・氏直親子は小田原合戦にて豊臣秀吉に降伏し、小田原城を開城し、戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。 
    以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏の小田原藩が小田原城を居城とした。

    「荻野山中藩」
    大久保忠世から5代目の大久保忠朝(大久保忠隣の孫、老中・藩祖忠隣の領地であった小田原への復帰を果たす)の次男大久保教寛が小田原藩大久保氏の支藩として相模愛甲郡、高座郡などを有し、1万3000石で厚木荻野地区に「荻野山中藩」が成立している。 
    荻野山中藩は、小生宅のすぐ近くの新国道412号線沿いにあって、現在は小さな城址公園となっている。
    園内に「山中城址」の石碑と「荻野山中藩陣屋跡」の碑が残されている。

    幕末の慶応3年(1867年)12月、尊皇攘夷を唱える倒幕派の薩摩藩浪士31名は下鶴間村に一泊し、矢倉沢街道沿いのお寺や豪農に押し入り金品を強奪し、荻野山中藩陣屋を襲撃し焼打ちした。 
    小野路町の小島家の日記に「昨夜浪士荻野山中陣屋を焼打ちいたし、武器類不残(のこらず)奪取(うばいとり)候由ニ御座候」と記録が残っている。 焼失にもかかわらず、伝承ではあるが市内王子の福伝寺に遺構として陣屋裏門と伝わる門がある。
    この襲撃事件は、翌年勃発した「戊辰戦争」の原因の一因ともなり、日本の歴史は明治維新へと大きく変革していくことになる。 
    そして、この荻野の地からも、新時代への変革の炎は野火のように大きく広がっていったのである。


    次回は、「厚木・毛利氏」




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