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  • from: orimasaさん

    2009年01月29日 11時38分16秒

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    日本周遊紀行(141)川内 「川内川」



    古代・薩摩の政事、文化の発祥は「川内川」から始まった・・、

    「川内」はその昔、薩摩国府が置かれ、国分寺が建立された南九州の政治・経済・文化の中心として栄えた歴史的な街でもある。
    神代の御陵地から国道、肥後おれんじ鉄道と新幹線に挟まれた地域に川内市国分寺町が在る。 実際の国分寺跡が整然と整備されて、「国分寺跡史跡公園」は国の史跡にされている。
    聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺とともに建立を命じた寺院の1つであり、国府のそばに置かれた。多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。
    薩摩国分寺の創建の時期を明らかにするものは残っていないが、奈良期(710〜784年)後期ごろと推定されている。当時の仏教文化のシンボルとなるもので薩摩の国では、国府の置かれたこの川内川に隣接して置かれていて、主要な伽藍は基壇・中門・回廊・築地・通路・水路など発掘調査結果に基づいて復元されているという。 尚、薩摩国分寺は平安時代に1回、鎌倉時代に1回再建されたことが発掘調査で確認されている。
    鎌倉時代以降次第に国府の勢力が減退するにつれて、国分寺も衰え、南北朝の時(1300年代)に衰減したと伝えられているが、薩摩国分寺は豊臣秀吉が九州に侵攻し、川内で島津と戦った際焼き払われたとあり、建立以来少なくとも800年の間は寺が存在したことになる。
    ところで日本中の何れの国府もそうであるが、薩摩の国府も国分寺に隣接していると想定されているが、まだ確とした遺構は発見されていないという。ただ、川内川を挟んだ地域に展開していたようで、墨書土器や戯画が描かれた土師器(古代、素焼きの土器)などが現在の「川内中央中学校」近辺から発見されているという。

    平安期の頃、各地の国府に地方長官として中央(都・京都府)から派遣・赴任させていたが、薩摩の国司は、天平8年(764)から薩摩守として万葉歌人として有名な「大伴家持」(おおとものやかもち)が赴任していた。そして、この役所(国府)で政務を執ったとされるが、薩摩守時代の歌人としての家持の歌は一首も伝えられていないという。
    鎌倉幕府成立にともない薩摩、大隅、日向三カ国を「島津忠久」と名乗る武人が勢力を蓄え守護に任命、赴任されてきている。 忠久は頼朝(庶氏)の子とされ、初代薩摩の領主(藩主)であった。 一の宮・新田神社の総代・執印氏(しゅういん)と薩摩国分寺の留守職・国分氏、そして薩摩藩主・島津氏は同族であったとされ、中世の薩摩の政事や新田神社、国分寺の活動の様子が「薩摩の古文書」に、文書でのやりとりや行き来があったと伝承され残されているという。

    国道3号線沿い川内川手前に「泰平寺」がある。 
    創建は国分寺より古く、1300年も前の和銅元年( 708)に創建されたと歴史は刻み、薩摩屈指の古刹とされる。 薩摩国の中心都市、川内(千台)の地に、女帝・元明天皇の即位と共に出された勅願により「天下泰平・万民豊楽」を祈願して建立されたという。 又、この寺院は戦国期に豊臣秀吉の九州平定の本陣となり、ここで島津義久との和睦の会見が行なわれたことは有名であるという。
    豊臣秀吉は、天下統一のため九州平定を決意し出兵する。
    関白職に就任後の天正13年(1585年)10月2日、勅諚をもって薩摩の島津義久・島津義弘兄弟に豊後の大友氏との和平を勧告したが、しかし義久は応ぜず秀吉は翌14年10月、日向・肥後の両面より豊後に進撃する。 動員総兵力は25万ともいわれ、30万人分の兵糧1年分、馬2万頭の飼料1年分を調達したという。 先陣の宇喜多秀家に続き、羽柴秀長以下の諸将も順次征途についき、秀吉自身は3月1日に大阪城を出発し、水俣から水路、薩摩の出水に上陸し、5月3日川内の泰平寺に本営を設けた。
    秀長から義久の無条件降伏を知らされた秀吉は、この日に泰平寺にて義久と接見し、これを認めて義久に薩摩、義弘に大隅を安堵したという。 直後、秀吉は「小田原征伐」に続いて「奥州平定」を果たし、名実共に豊臣政権の日本全国完全平定が実現した。

    国道3号線を南へくだると、川内川に架かる太平橋を渡る。
    滔々(とうとう)として川幅いっぱいに流れる清流・川内川は九州の三大長流の一つで、熊本県南端、九州山地の白髪岳を水源にしてる。 川内市を中心とする川内平野を造り、平野は河口より10km以上の奥まで広がっている。 古代、南九州の文化の流入はこの川が発祥とされる。
    新田神社から南へ真すぐ延びる参道は、川内川に突きあたる。つまり、交差する地点にあって古来より海、山、河、平地の生産物資の集散地として、川内川の水運が利用されていたことを物語っている。 北隣の南北に長い東郷町の中心部は川内川に面していて、国道267号沿いには舟倉地区という地名も在り、今でも「舟倉通り」を歩行者天国にして東郷特産の手づくり品の「市」が並ぶという。地名から察しても水運の中継拠点として発達したことが判る。  
    2004年10月12日 東郷町、樋脇町(ひわきちょう)、入来町、祁答院町(けどいんちょう)、甑島(こしきしま)四村と合併、新市名「薩摩川内市」となっている。

    次回は、「牧園」


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  • from: orimasaさん

    2009年01月29日 11時37分50秒

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    日本周遊紀行(141)川内 「神代三代」



    神武天皇の親代である「神代三代」について・・、

    鹿児島県内には神代の国の神々を祭る三つの神代の皇帝(神代三代)の塚墓稜がある、これを「神代三山陵」という。
    一つは川内の「可愛山陵(えのさんりょう)」のことであった。
    二つ目は「高屋山陵」で火出見(ホデミ)尊の陵といい、高千穂の西、高屋の山の上に祀られている。現所在地は姶良郡溝辺町麓(2005年11月7日、国分市および姶良郡内5町と合併して霧島市となる)、九州自動車道の鹿児島I・Cの北方約2km、高速道と国道504号線の間に在る。尊は伝承に名高い「山幸彦」のことで、神代三代の二代目で人皇第一代神武天皇の祖父にあたるとされる。今でも陵の地名を神在りの丘、或いは神割の丘と呼び、地元民の崇拝を受けている。 徳川時代が終わりを告げ、王政復古が達成されると、明治2年より翌3年にかけて陵墓の確認調査、発掘が行われ、明治7年の太政官布告により宮内省の管理に移された。 明治5年、明治天皇が遙拝されたのをはじめ歴代天皇、皇族方の参拝が相次いでなされている。尊の皇霊は鹿児島神宮(霧島市:旧隼人町にある神社・大隅国一宮)に祀られている。
    三つ目は「吾平山上陵」(あいらさんりょう)といい、火出見尊(ホデミ・山幸彦)の子、即ち初代神武天皇の父にあたるとされる鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)の霊稜である。 大隈半島の南部、吾平町の姶良川のたもとに抱かれ、静寂な池を配した森の中に鎮霊されている。吾平町は「あいらちょう」と呼び、近くを流れる姶良川は「あいらがわ」と称している。 高屋山陵の地は半島付け根の姶良郡(姶良町もある)にあり、地名が共通することから、やはり神々の奇縁があるのか・・?。 尚、神武天皇の妃(きさき・妻)は吾平津姫(アヒラツヒメ)と称している。 「ウガヤフキアエズ」の誕生地は、宮崎県日南海岸に位置する「鵜戸神宮」(後訪する予定)海辺の渚で生まれたという説があり、目立たないながらも皇祖神の系譜の正統に位置する神であるという。 吾平山上陵は全国でも珍しい岩屋の陵である。ウガヤフキアエズは父のホデミのあとを受けて高千穂宮に入り崩御の後、鵜戸山の「日向・姶良山稜」に祀られた、これが即ち吾平山稜である。
    昭和10年11月昭和天皇が御親拝になり、昭和37年 5月には皇太子(今上天皇)、同妃殿下が御参拝されている。 
    歌碑に・・、

    『 みささぎの 御前に渡せる 丸木橋 
    踏み行くほどは 神代なりけり 』
    と詠まれている。

    天皇家代々の歴代の中で、最初の代は神武天皇(歴史書に登場する最初の天皇であるが、神話、伝説上の天皇ともされる)であるが、その先代に属するのが、「神代三代」と言われる神々であるとされてる。 
    神代一代目は天津日高彦瓊瓊杵尊(アマツヒタカヒコニニギノミコト)、神代二代目は天津日高彦火火出見尊(アマツヒタカヒコホホデミノミコト)、神代三代目は天津日高彦波瀲武鵜草葦不合尊(アマツヒタカヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)のことである。
    つまり、天孫降臨の初代がニニギ⇒ホデミ(山幸彦)⇒ウガヤフキアエズ⇒ヤマトイワレヒコ(神武天皇)で、神武天皇の祖先が「神代三山陵」として祀られているのである。
    ニニギが皇室の祖先である「天照大神」の孫であることから、天照大神は神武天皇より五代前の大祖先にあたると神話は伝えている。 
    因みに、神武天皇が即位した年月日は、紀元前660年2月11日に当たるとされ、これによって「2月11日」は日本が建国された日として、1873年(明治6年)に祭日(紀元節)と定められた。 紀元節は1948年(昭和23年)に廃止されたものの、1967年(昭和42年)には「建国記念の日」として祝日とされているのは周知である。

    次回は、古代・薩摩文化


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  • from: orimasaさん

    2009年01月29日 11時37分14秒

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    日本周遊紀行(141)川内 「新田神社」



    写真:薩摩一宮「新田神社」と隣接する「可愛陵墓」



    新田神社の祭神・瓊瓊杵命(ニニギノミコト)とは・・?、

    夕べは久しくマイカーでの泊まりとなった。 波の音を子守唄代わりに、「道の駅・阿久根」での休泊であった。駅は阿久根の国道3号線沿いにあり、周辺は阿久根県立自然公園、東シナ海を望めるすばらしい景観の場所である。 夜明け前の三時半頃小用で表へ出ると煌く星が輝いていて、今日も好天気を約束してくれる。何処へ向かうのであろうか、ざわつく渚の黒い彼方に仄かな(ほのかな)光が航行している。 時折、道端をガ-ッと音を発てて大型車が走り抜け、フッと現実に戻される。
    一寝入りして6時前には目が覚めてしまった、清々しい海の香を嗅ぎながら出発である。
    東シナ海の波濤と西方の砂浜の渚が対照的で良い、砂浜海岸から外れると今度は岩場の海岸連続する。この一角に「人形岩」という奇岩もあり、夕日が東シナ海に落ちていく時のシルエットは,絶景といわれている。海はあくまでも透明なエメラルド色で、実に綺麗であった。

    内陸に向かって間もなく川内である。 
    川内と書いてカワウチではなく“センダイ”と読むらしい。 「ニニギノミコト」がこの地に皇居を定めるにあたり、千の台を作るように命じたという故事によるとされているとか。 古来は「仙台」、「千代」とも書かれたらしいが、現在の「川内」が定着したのは江戸時代中期以降であり、これは川内川と高城川の内側という意味でもあるという。
    その川内市街は未だ朝靄の中にあった、肥薩おれんじ鉄道の「上川内駅」の辺りは川内川と高城川が合流する扇状地に開けた地柄であり、ここに、こんもりと新緑に囲まれた亀山或いは亀神山という小山があり、こちらには「新田神社」という立派な社が鎮座していた。
    通常、我々東国の人々は鎌倉時代末期、北条・鎌倉幕府を終焉に追い込んだ上野国(こうずけのくに:上州)の御家人・新田義貞(にった よしさだ)を思い起こすのであるが、特にこの新田氏とは関係はなさそうで、こちらは更に由緒と歴史が刻まれた神社であった。
    新田神社は神亀山(高さ70m)の山頂にあって、「ニニギノミコト」を祀る神社であり、嘗て、薩摩国・一の宮として呼ばれた風格を今でも充分に残している。 そして隣接して「可愛山陵」(えのさんりょう)という「神代三山陵」の一つが祀られている。この山稜は明治7年7月にニニギノミコトの墳墓と指定され、宮内庁直轄で管理されているという。 普通、山稜というと山の稜線、山脈を表すが、「稜」というのは古くは「ミサザキ」といって、 天
    社殿に上る石段の途中には御神木のクスなど緑が茂り、緑陰をつくっている。
    新田神社は、今の平成・今上天皇と美智子妃殿下が結婚の報告と御参りのために訪れた神社でもあり、時の慶応大学学長であった今上天皇の皇太子時代の師父である小泉信三氏が日本の歴史を学び、訪問を勧めたという神社山稜でもある。 その御蔭と御利益で美智子妃殿下は2人の男子と1人の女子を授かったとされている。 今の皇太子と雅子妃殿下が二人で参拝されたら、もしかしたら後継の男子が授かり、幸せが起こるかも知れない・・?!。日本はそういう神道の歴史と伝統的を内包している国なのである。
    神社や山稜は、日本の最初の神である「ニニギノミコト」を祭ってあり、お妃(キサキ)はコノハナサクヤ姫(富士山の霊神、浅間神社の主神)で、富士山の頂上に祭られている女神でもある。

    ところで、「ニニギノミコト」というのは、日本の古代史や神話伝説に興味のある方々は当然存知よりであろうが、我々、浅学の一般庶民にはチョット聞きなれない神ではなかろうか・・?、アマテラスやオオクニヌシ、山彦や海彦という名は神話でもお馴染みであるが。しかし、ニニギというのは日本国土へ最初に降りてこられた天下人(・・?神)であり、稲作を拓いた神でもあり、何より歴代天皇の古祖とされているのである。伊勢神宮に祀られているのがアマテラスで天皇の皇祖とされているが、アマテラスは神話上でも天上の神であり、実質、天下に降りてこられて日本の国を形造ったのはニニギなのである。尚且つ、天皇の古祖でもあるので、日本人には最も尊崇されて然るべき神なのである。
    古事記によると「ニニギノミコト」は皇室の祖先である天照大神・「アマテラスオオミカミ」の孫で、この国を豊かに治められるために地上に遣わされたとされている。 このニニギノミコトという神さまの本名がこれがまた長く、正式には「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能瓊瓊杵命」(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト)という。 ニギシというのは豊かの意味で、天地の栄える様をあらわし、アマツヒコは日が空高く輝く意味、ヒコは神の子をあらわす名。ニニは丹にしてかつ赤し、ギは男子のことで、わかりやすく言えば“稲穂が豊かに実る国の壮健なる男子”というのが命名の由来という。 皇室の皇統としての男子誕生を祈願する理由がここにある。
    ニニギノミコトは、アマテラスオオミカミより高天原の稲を授かり葦原中国に住む人々、つまり日の本の人々の食べ物にするように命じた。つまり我々の祖先は稲作の起源を天孫降臨の神話によって語り継がれ、ここからも稲が日本人にとっていかに大切で神聖な食物であるかが伺えるのである。

    可愛山陵(えのさんりょう)はニニギの霊が眠る墓所である。 
    古事記の「天孫降臨」の項によれば『ここに天津日子番能迩迩藝命に詔りたまひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、イツのチワキチワキて、天の浮橋にウキジマリタタシテて、竺紫の日向の高千穗のクジフルタケに天降り坐した』、つまり、「御世、天照大神(女性)は瓊瓊杵(ニニギ)尊(孫)に地上世界を治めるように命じるとともに稲穂を与えた。瓊瓊杵尊は多くの部下を引き連れて高千穂峰に降りた。そして笠沙に宮を置いた」とある。そして、その後は尊は千個の岩(千台=川内)を使って可愛宮を造り死んだ後、この頂に祀られたのである。
    川内地方の言い伝えによれば、ニニギが高天原から高千穂に降臨したの後、千台(千個の城壁)を築いて皇居を造営された事から川内(せんだい)という地名が起こったとも言われている。 山稜はこの亀山の中央の一番高い所に方形墳の形で造営されている。 すなわちこの地が「可愛山陵」であり、御陵と壁一重の近くに尊(ミコト)の神霊を祀る新田神社がある。 更に尊の皇霊は、高千穂の麓の霧島神宮にも祀られている。

    一方、天孫降臨に関しては、日向(宮崎県)の人々から反論があるともいわれる。
    古事記によると、天孫(ニニギ)は高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰」に降りてこられたと記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられたとき「筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる」と記されていると言う。 初代・神武天皇の五代前の先祖というニニギノミコトは、日本が歴史を刻みはじめる前の神話の世界の神であり、御陵墓の存在は「伝説」の域を出ないものの、日向国臼杵郡長井村俵野門(現、北川町南部地域)に古墳があって、これがニニギノミコトお御陵に当るのは明らかであるというのである。 この地は以前は可愛村といい村の産土神(うぶすのかみ)である「可愛神社」(えのじんじゃ) には昔からニニギを祭っていると・・。 可愛村は今は俵野門と合併して北川町となり存在していない。 

    次回、神代三代とは・・、



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  • from: orimasaさん

    2009年01月28日 11時15分33秒

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    日本周遊紀行(140)出水 「武家屋敷」



    写真:出水・石垣と緑に囲まれた「武家屋敷群」と屋敷門



    江戸時代にタイムスリップしたかの「出水麓武家屋敷群」・・、


    薩摩街道(国道3号線)の熊本との国境を過ぎて間もなく、左折して内陸の出水地区へ向かう、「出水」(いずみ)の出水麓武家屋敷群を訪ねるためである。 市役所前を通って米ノ津川を渡ると間もなく武家屋敷群が現れ、出水小学校の前へでた。 門を見て驚いた、校舎は白の現代風コンクリ-トの建物であるが、校門は武家屋敷にある石垣の屋敷塀に堂々とした門構えなのである。 この学校の敷地は、克っては薩摩藩主・島津氏の宿泊所「御仮屋」がおかれ、その門は「御仮屋門」として今に残っているという。
    この一段高い位置の御仮屋の前面に、碁盤の目に区切られた「出水麓武家屋敷群」が広がっていて、生垣に米ノ津川の玉石を施した石垣、武家門、屋敷林の小路の風景が美事である。 其々の小路には名称が付き、御仮屋門(小学校)の前が最も広い通りで「仮屋馬場通り」といい、江戸の頃はここで乗馬の調練をしたという。 すぐ前に、武家屋敷として一般公開されている「竹添邸」がある。

    出水の武家屋敷群は、今から約400年前に30年程の歳月をかけて起伏の多い丘を整地し、道路を掘り、川石で石垣を築いて作られたという。武家屋敷群の街路は建設当時から改変されることがなく、屋敷群は今も住宅地として使われている。
    江戸時代、薩摩藩では鹿児島城を本城とし、地方行政組織として百余の外城(郷村)を各地に設け、外城の中心には麓(府元)を設けて地頭や家臣を住まわせ外城経営にあたらせたという。 出水麓は島津領の数ある外城のうち最古・最大の外城の中心地で、1600年頃から武家集団の移住を伴う大規模な整備が図られ、地頭が執務にあたった地頭館や島津氏の宿泊所であった御仮屋と一体となった武家屋敷群が出現した。
    道路に沿って石垣と生垣か連らなる優れた景観は、旧様態をよく伝えるものとして価値が高く、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

    出水地方は、薩摩の中では国府が置かれた高城地方(現在の薩摩川内市)とともに最も早く拓けた地方といわれ、和名抄(平安中期に作られた辞書)にも薩摩国出水郡の地と記されている。
    江戸時代には薩摩藩に属し、特に出水郷の武士団は事実上の薩肥国境地帯の防衛・警備・関所の管理を任ぜされ、出水兵児(いずみへこ)とも呼ばれた。 
    当地区は、中世の戦国時代の山城であった「出水城」の麓の丘陵地帯を整地して作られた屋敷群で、出水郷に赴任してきた薩摩藩士の住宅兼陣地としての役目があった。 彼等、出水郷に住む武士団は薩摩武士には珍しく、粘り強く常に冷静実直な強兵であったと藩内でも高く評価されていた。特に、江戸期になってこの精神を請継ぎ、同地出身者は全国的に各方面で活躍する優秀な人材を多く輩出する事となる。
    武家屋敷とその街並みは、当時からの薩摩藩士の気風を今に伝えるかのように、古式整然として閑静な佇まいを感じさせる。国の保存地帯に選ばれているこの地区は面積約44ヘクタールの広さを有し、出水市指定文化財である出水仮屋門、武家門、石垣、生垣や竹添屋敷など4軒の建築物がある他、伝統的建造物として特定された建造物などがほぼ昔の姿で残っており、当時の面影を今に伝えている。

    さて、いよいよ夕刻も迫ってきた、今夜の宿も考えねばならない。 聞くところ、海岸沿いに阿久根という温泉が在るらしく、訪ねると「クアドーム阿久根」という温泉健康センターがあった。阿久根温泉は大丸・若松・常盤の三温泉の総称で、阿久根海岸をひかえた風光明媚な温泉郷であり、近くには戸柱公園や五色浜などの景勝地や阿久根大島などがあり入湯客も多いという。
    クアドーム阿久根は半島に突き出た長島町へ通じるT字路の先に在った。 比較的新しいモダンな建物で、玄関を入るとゆったり寛げるレストルームが結構広い。 浴室は明るく清潔感があり、半円形に配した浴槽に浸かる。お湯はアルカリ単純泉で、ややヌメリがある透明循環湯のようである。打たせ湯、サウナ、ラドン湯もあったが、何といっても露天風呂である、巨石を配した和風庭園にあって雰囲気も良い。

    次回は、川内・「新田神社」

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  • from: orimasaさん

    2009年01月28日 11時14分15秒

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    日本周遊紀行(140)出水 「薩摩街道」



    薩摩街道は江戸まで1500km、参勤交代では約1ヵ月半を要したという。・・、

    水俣を過ぎると出水市に到り、いよいよ薩摩・鹿児島県入りである。 遂に本州最端の県域に辿り着いたことで、ひとしおの感慨が胸に迫る。
    この国道3号線は鹿児島街道、薩摩街道(主に薩摩から肥後の区間をいう)ともいい、道々に何故か小さな標識で「江戸-薩摩」と指してある。 現世は「東京-鹿児島」(凡そ1500km)のはずであるが薩摩隼人は未だ、江戸から明治が忘れられないと見える。 それにしても京-薩摩(900km)は左程でもなかったが・・?、やはり、江戸-薩摩は遠い、しかし、遠いが故に意識した、意識せざるをえなかった時代でもあったのだろう。
    薩摩街道は江戸時代において九州の主な藩である・・、島津(薩摩藩)・松井(八代藩)・相良(人吉藩)・細川(肥後藩)・立花(柳川藩)・有馬(久留米藩)の諸公の参勤交代の道として利用された道で、久留米藩地域では薩摩の南端港・坊津(古代からの九州南部の湊)に通ずる道から坊津街道と呼び、柳川藩地域では薩摩に通ずる道から薩摩街道と呼ばれた。また熊本の肥後藩では熊本城を基点として薩摩へ通ずる道を薩摩街道とし、江戸方向の豊前(小倉)までの道を豊前街道と呼び、時代と地域によって呼び方はいろいろあったようである。この薩摩街道は山家宿(やまえしゅく・筑紫野市)で長崎街道に、又は松崎宿(小郡市)で秋月街道と連なり小倉に通じ、さらに関門海峡を渡って山陽道〜西国街道〜東海道を経て江戸まで約1ヵ月半を要したという。 この参勤交代道は宿場町の繁栄や街道の整備、江戸文化と地方文化の交流など、大きな役割を果たした一方、遠い九州の大名にとっては莫大な金銭を費やし藩財政の大きな負担でもあった。

    江戸から最遠方の地、薩摩・島津氏は鎌倉時代に薩摩、大隅、日向三国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名であり、これが江戸末期まで大大名として続く稀有な藩でもあった。
    1600年、関が原の戦いで最終的には西軍に付いたため敗軍の藩となり、そのための敗戦処理に当っては本来、減藩又は改藩されるべきところであった。 急遽、帰陣した薩摩軍は国境で臨戦体制を整える一方で、江戸、京都では陳謝、陳情を行い、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで領地を一統一寸も切り取られることなく安堵され、七十七万石をそのまま領することになった。
    しかしそれ以来、江戸幕府は薩摩を開府以来の仮想敵国という存在であり、そのため幕府は何度も事情調査のため隠密を薩摩に派遣しているが、その全てが返ってくることがなかったという。 行ったきり戻ってこない事を「薩摩飛脚」(この題名で本や映画にもなっている)ともいわれ、物の喩えにもなっている。
    元々、薩摩藩は異国であった琉球を管理していたし、江戸年間に亘って中国や琉球など密貿易を行い、海外の開明的な文化を多く取り入れていた。こんな中、幕府は薩摩を遠くにあって財政も豊かで危険な藩であると感じていた。
    徳川幕府の有力藩弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請(おてつだいふしん:工事を諸大名に担当させ、その費用の一部を負担させるもので、大名の力を弱めるための幕府の政策)を割り当てられる。 そんな中、特に1753年(宝暦3年)に命じられた木曽三川改修工事(宝暦治水)の多大な出費により、藩財政は危機に瀕した。 しかも、工事を指揮した薩摩藩家老・平田靱負(ひらたゆきえ)は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取って工事完了後に自害している。

    先にも記したが、木曽三川改修工事(宝暦治水)とは・・、
    美濃と尾張にまたがる広大な濃尾平野を流れる木曾三川(木曽川・長良川・揖斐川)は、下流部においては網目状に流れていて洪水が絶えなかった。そのため江戸時代から明治時代にかけ歴史に残る大掛かりな治水工事が行われたのである。 工事は、「宝暦治水」と「明治の改修・三川分流」と二度にわたって行われ、現在の三川分流が出来上がっている。
    1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府は水害に苦しむ人々の声を聞き、薩摩藩に木曾三川下流治水工事を命じた。この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱める為という一大目的もあり、薩摩藩は平田靱負を総奉行としてこの難工事に着手した。 薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事だったという。
    工事は幕府の方針変更(幕府の嫌がらせも有ったという)によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生したりで工事は困難をきわめたが、1755年(宝暦5年)3月遂に完成し、同年5月に幕府の検分を終えた。 この治水工事完成時には幕府の役人も、「日本の内は申すに及ばず、唐、朝鮮においても是ほどのことは有るまじく・・、」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったと伝えてられている。
    工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って・・、

    『 住みなれし 里も今更 名残にて 
    立ちぞわずろう 美濃の大牧 』
    の時世の歌を残し自刃したという。 これを世に「薩摩の宝暦治水」という。
    この時を境に薩摩は内心、幕府に対して「恨み100年」の憎悪をたぎらせ、藩は一種鎖国政策をとるようになり、藩士はみな武術鍛錬に励み、強く戦国気風を持つようになったとされている。事実100年後の幕末、西郷、大久保等の逸材を出すことによって、江戸への復讐の一端も兼ねて戦線が始まるのであるが・・・!!。

    次回は、出水・武家屋敷



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  • from: orimasaさん

    2009年01月27日 11時13分06秒

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    日本周遊紀行(139)水俣 「水俣病(3)」


    写真:水俣病資料館にて・・、



    「水俣病」は、現在の環境問題へ提言した・・、

    今、「ALWAYS 三丁目の夕日」という題の映画がヒットしている。 
    映画は、昭和33年頃の古きよき日本を舞台にしたもので、昭和の雰囲気が存分に出ている。特に、建設途中の東京タワーなど、当時の日本が忠実に再現されている。
    この年、「熊本・水俣」で奇病が発覚した時期でもあり、実はこの頃の東京も汚れていた。 小生が少年の頃、上京した折の東京の印象は台東区・三河島のお化け煙突(火力発電所、見る位置によって1,2,3,4本と化けて見え、東京の名物であった)からはモクモクと黒い煙を吐き、上空はスモッグで常時モヤっていた。 幼少の頃泳いだ「荒川」は黒く汚れ、“春のウララの”の隅田川は、電車で架橋を渡るときヘドロの臭いがした。東京湾にはアオコが発生し、死んだ魚が浮かぶ死の海であった。
    今、現在は荒川には鮎が遡上し、東京湾は透明が増して海底も見えるほどであり、隅田川は屋形船で夜桜を見物できるまでになった。
    最近の報道で「チッソ」についての記述があり、水俣病対策で培った汚水処理などのノウハウは、水質汚染などの公害に悩む各国からの引き合いがあって、それらが収益に結びついているという。
    人間は傲慢な悪魔にもなるが、知的な聖者にもなれる変幻自在の動物のようである・・!。
    平成16年、最高裁は関西訴訟(熊本県から県外に移った人達の訴訟)上告審判決で国・県の責任を認めた。だが、これに対しても環境庁(2001年・平成13年に環境省に昇格)は昭和52年当時の基準に固執して多くの患者の認定を切り捨てている。
    米軍基地移設で数千億円の大判振る舞いや、年金で利用者の少ない保養施設に数百億円かけても平気な顔をしている国、行政。 まさに国民の命を守るという最低限のことすらできず、発生から50年を経た今でも全面解決できない状況にあるのである。

    地域、企業の環境に関して・・、
    「京都議定書」で言う、地球温暖化という一つのグローバルな環境事案に関しては、各国が机上に載せ議論されているようであり、又、地球環境問題(地球サミット)で既に国際的に標準化されたものもある。 それは世界中全ての地域のあらゆる種類と規模の組織(主に企業)に適用され、地球環境に配慮した企業である一つの指標として、「ISO14001」という認証取得制度がある。ISO14001とは、ISO(国際標準化機構・International Organization for Standardization)が1996年に制定した規格で、組織(企業・自治体など)に対して環境に負荷をかけない事業活動を継続して行うように求めた規格である。これらも、詰めれば住民や社員など各個人の意識の問題でもあろう。

    「水俣病資料館」は水俣公園の高台、八代海を望む風光明媚な地の一角、チッソの工場の付近にあった。 白系の明るい色調の芸術性のある建物の内部は、水俣病の50年の苦難の歴史を物語っている。 展示は水俣病の被害を紹介するものはもちろん、その後の裁判の推移、市のとった再発防止策など、水俣病の痛手からいかにして立ち直ったかを紹介する展示にも力が入れられていた。
    今、企業、地域、国はおろか地球規模で環境問題が取りざたされている。そんな中、水俣病の問題は地域住民とそこに位置する企業との間のことで、環境とその保全に関しては一つの結論は出ている。
    資料館を訪ねた帰り際、一冊の冊子を受け取り、最後のページに「水俣病が私たちに教えるものはなんでしょうか?・・」と問いかけ、そこには『家庭や事業所から出すゴミは、自然を損なうものであってはいけない。 大量生産、大量消費、大量廃棄によって、私たちの暮らしは便利で豊かになったが、排気ガス、農薬、食品添加物など、様々な有害物質に取り囲まれ、環境や健康破壊の危険にさらされている。私たちの物質的に豊かな暮らしは、世界の国々との関係を抜きにしては考えられないし。水俣病は私たちに被害者であると同時に、加害者でもあることを教えている。 「水俣病」は自然を壊さず、自然によって生かされているという考えにたって暮らしていくこと、人や川や海などとの関わりや安全な食べ物について考え、家庭のゴミや産業廃棄物の減量化・リサイクルについて取り組むこと、地域の問題から目をそらさず向きあっていくこと・・、の大切さも教えている。環境は一人一人の意識の中にある』・・と結んである。

    次回は、薩摩街道



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  • from: orimasaさん

    2009年01月27日 11時12分28秒

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    日本周遊紀行(139)水俣 「水俣病(2)」



    水俣病は、人間を廃人にした・・、

    「水俣病」は、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒド(分子式CH3CHO、 無色の刺激臭ある可燃性液体でエチレンの直接酸化によって製する。有機合成の原料として重要な素材)の生産のときに触媒(反応を促進させる素材)として使用した無機水銀つまり「メチル水銀」が主要因とされた。 工場は触媒の反応過程で副生されたメチル水銀を排水し、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾(八代海)に、ほぼ未処理のまま多量に廃棄した。そのため、魚にメチル水銀の生体濃縮(化学物質が生態系での食物連鎖を経て生物体内に濃縮されてゆく現象)が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が多発した。
    メチル水銀は体内に入ると主に脳などの神経系を侵し、言語障害や痺れなど様々な症状を引き起こすことが判明している。 「チッソ」は毒そのものの廃水を無処理同然で海に流し続け、魚は食物連鎖から生物濃縮で体に水銀を溜めていき、人はその魚を昔の暮らしどおり変わりなく食していた。 変わらなく見えた暮らしの中から、こうして水俣病は起こったのである。 
    「生物濃縮」とは汚水がプランクトンや微生物を汚染し、そのプランクトンを小魚が食べ、さらに大きな魚が食べ、最後に人間が大きな魚を食べるという仕組みの食物連鎖である。それは陸上にもあり植物の葉や実を鳥、家畜などが食べ、そして、最後に人間が家畜などの肉を食べるのと同様の仕組みである。

    “水俣病の症状”は、想像を絶する悲惨で凄惨なものであった。
    発病患者は面会に来る家族・知人の識別ができず後ずさりしたり、目や耳も機能せず、言語・知能障害・運動失調で廃人同様の状態にあって無残なものであった。 文字通りベッドの上で“のたうち回り”、“激しい痙攣”を伴い、まさに生き地獄状態であった。 また、水俣病は伝染病だとして偏見を受けたり、発病した家族の就職内定を取り消しされたり不当な差別をも受けたという。
    現現在の「チッソ」は日本高度経済成長の牽引車であり、特に液晶では世界的に見てもトップレベルであるという。 水俣工場では液晶を始めとしたファインケミカル製品、化成品、合成樹脂、化学肥料を作っている。
    世界でもトップレベルの会社は九州の小さな町にあって、町では人達が大勢働いている。 現在も水俣の税収の半分以上を納めているチッソは、従業員は660人ほど、関連会社で働いている人は水俣のみで2000人もおり、チッソの城下町ともいわれる。 そんな中で差別に耐えながら告発することの意味、水俣病の根底にある複雑な事情が見えるのである。
    30年経過した昭和末期、熊本県のみの認定患者は1700人、棄却者処分(裁判において認定申請を棄却された者)は6000人、未処理申請者は4300人いたとされる。 審査の遅れと、認定のゆがみに抗議する“検診拒否運動”が起こり、これに対して県は医療費補助をうち切ったという。 
    水俣病発生から50年たっても未だに問題解決されないのは、水俣病を取り巻く経緯、経過が極めて複雑怪奇であり、当時の「高度経済成長」の中で、政策の第一が産業優先に行われていた時代背景もあると言える。
    水俣病を取り巻く失態の要因として、次のような項目が挙げられるという。
     1、会社の傲慢体質や安全思想の欠如と人間的な差別。
     2、病理研究機関(熊大医学部等)への非協力と役所、同業者との結託しての妨害工作。
     3、行政機関の取組の遅滞、無責任さ。
     4、「奇病」による住民の誤解、差別問題。
     5、地域としての企業優先、企業城下町の体質。
     6、被害者と一般住民の補償金などによる批判、嫉妬、虐め等々。
     7、その他・・。

    当時の日本は、東京オリンピックや日本列島改造論などによる、経済最優先の時代であり、それが至上使命でもあった。 しかし、それには反作用、弊害が生じ所謂、公害が社会問題化しつつある中でもあり、被害者の訴訟はこの様な社会事情から起きている。
    水俣病、第二水俣病(新潟県阿賀野川流域で起こった有機水銀による汚染、水俣病に同じ)、四日市ぜんそく(石油化学コンビナートから排出された有害ガス汚染、気管支炎からぜんそく症状、肺炎・肺気腫から死亡に至る)、イタイイタイ病(富山県神通川流域、神岡鉱山から排出されたカドミウム汚染、骨軟化から骨折し、「イタイイタイ」と叫びつつ死亡に至る)の四件は「日本の四大公害」と呼ばれ、日本の産業公害の典型的なものであった。 四大公害は加害企業に対して訴訟が起こされ、いずれも原告(被害者)側の勝訴に終わっている、これを、四大公害裁判と呼ぶ。これらをきっかけにして公害健康被害補償法なども成立している。

    更に、「水俣病」が続きます



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  • from: orimasaさん

    2009年01月27日 11時12分00秒

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    日本周遊紀行(139)水俣 「水俣病(1)」



    水俣病の最高責任者は、皇室の縁者であった・・?、

    右手に津奈木太郎峠を越えの旧鹿児島街道がくねりながら見え隠れしているが、間もなくその津奈木の町内に入った。JRの津奈木駅付近では頭上を新幹線の直線の架道が横切っている。これより一走りで新装なった新幹線の停車駅である「新水俣」駅へ出た。 二階ホーム駅舎のパネルが異様に光っている。
    九州新幹線は現在、新八代〜鹿児島中央間を結ぶ部分が2004年(平成16年)3月、一足先に開業しており営業運転を行っている。そして博多〜新八代間もすでに建設着工されており、2010年度末の開業が予定されているらしい。 鹿児島ルートが全線開業すれば博多から東海道・山陽新幹線と線路が繋がり、東京〜鹿児島中央間・つまり日本の3分の2の地域が新幹線で結ばれることになる。
    現在、JR九州とJR東海そしてJR西日本との間で交渉中らしいが、現時点では新大阪駅-鹿児島中央駅間の直通運転が検討され、有力視されている。 ただ、JR東海である東海道新幹線の東京駅からの直通乗り入れは所要時間及び料金面で航空便と対抗する事が困難な事から、鹿児島中央までの直通列車乗り入れの実現性は極めて低いとの見方が強いという。尚、在来線の鹿児島本線は本来は門司港〜鹿児島間の路線であったが、2004年に九州新幹線の新八代〜鹿児島中央間が開業したのに伴い、八代駅-⇔川内駅( 117km区間)は「肥薩おれんじ鉄道」と改名され、第三セクター会社に経営が移管されているという。
    新水俣の新装駅前を過ぎると直に水俣市街に達し、今度は“第三セクター”の水俣駅である。 駅を通過すると間もなく右手に周りは用水路で囲まれ、塀の高さは2.5mくらいあろうかコンクリートの壁と樹木が植えられていて、隠すように会社・工場が広がっている。中を覗うことは出来ないが、何やら辺りには妙な匂いが漂っている。この先に広い公園が在って「水俣広域公園」と標識にあった。 
    散歩中と思われるオバサンに「こちらの焦げ茶色の建物(プラントらしい・・?)はチッソですか・・?」と、かって知ってた名前を出してみた。 「ハイ、そうですけん・・、あちらもそうたい・・、」と今通ってきた黒塀の方を指差した。 「ああ、ヤッパそうですか・・どうも・・」、怪訝そうに小生の車やナンバーを確認していた。
    「水俣病」の名は世界にも知られているというのに、それを起こした当の会社が駅前の一等地にケッコウ大きな顔をして居座っていて威圧感すらある。 未だ「チッソ」の水俣市における権威と存在感をリアルに感じるのである。
    小生がまだ高校生の少年の頃、小さな白黒テレビで「猫が身体を揺すりながら、突然、ひっくり返って痙攣しながら絶命していく・・」、「人がベットの上で、目を一点に見つめ、手足を痙攣させながら反復運動を繰り返している・・」、こんな姿に嫌悪と恐怖を感じながら見ていたのを覚えている。 後に九州、熊本県・水俣地方においての「奇病」であることを知った。

    いささか飛躍するが・・、
    昨今の皇室典範有識者会議の最終報告で「女性天皇」ないし「女系天皇」を容認する方向がはっきり打ち出され、行政府もこの方向で論議がすすんでいた。 ところが、平成18年初、秋篠宮妃殿下御懐妊の吉報がニュースを賑わした時、まさに男子出生の望みが出てきたことで早急に結論付ける問題ではない、ということで「女性天皇」問題は一応棚上げ、沈静化されていった。
    もし、紀子妃に姫子の誕生となると皇太子・雅子妃の愛嬢・「愛子様」が、歴史的見ても、近年初の「女性天皇」になる可能性があるといわれる。 すると、愛子天皇の祖祖父(雅子皇后の祖父)は江頭氏であり、水俣病事件発生当時の社長であった。もしこの事が実現すれば天皇家、皇室にとっては一つの汚点を残すことになるのではと、一部識者に懸念されていたが・・??。

    【追記】 2006年(平成18年)9月6日 、秋篠宮文仁親王と文仁親王妃紀子の第三子として、長男「悠仁親王(ひさひとしんのう)が御生まれになった、皇位継承は第三位となる。 秋篠宮家にとっては佳子内親王以来12年ぶりの子女の誕生、そして皇室にとっては父である秋篠宮文仁親王以来、実に41年ぶりの男子誕生となった。

    さて江頭 豊(えがしら ゆたか)という人物について・・、 
    江頭家は藩政時代、佐賀藩主・鍋島家の家臣だったとされる。 彼は金融界より「チッソ株式会社」の社長(1964年〜1971年)として就任、当時の水俣病問題の対応にあたっていた。 豊氏の娘が外務省勤務の小和田恒に嫁ぎ、小和田恒の長女である雅子氏は1993年、皇太子徳仁と結婚し皇太子妃となった。つまり江頭氏は日本国・皇太子妃雅子(将来の皇后陛下)の母方の祖父にあたる。
    水俣病発覚当初、原因は種々取り沙汰されたが原因追跡の研究の結果、有毒排水の蓄積が主な原因とされ、それを受けて江頭社長は患者家庭を詫びて回ったという。しかし、その後の水俣病一次訴訟による裁判では、チッソの責任を全面否定している。 雅子妃の祖父・江頭氏が社長に就任したのは昭和39年、退任は昭和46年であり期間は7年間であった。当時のチッソの社長の仕事は会社経営もさることながら、水俣事件の軽減、隠蔽を図り、官僚の各方面に働きかけ、国や県に責任の一端をなすり付ける頑張りは物凄く、その人が反省どころか、もみ消しを家族ぐるみでやっていたとも一部囁かれていたという。
    「水俣病」の原因が、チッソ工場の排水が水俣湾の汚染によりもの判ったのは、昭和31年頃であった。
    水俣公害事件は、いまだに全面解決に至っていないともいわれるが・・。原因当事責任者が間接的にも皇室と縁が出来てしまったが、彼の氏のやり方、生き方は日本国皇室のあり方とは正反対にあったと言っていいのかもしれない。 生まれ育った頃に雅子氏が見たのは、会社のために頑張っている祖父の姿だったかも知れないのだ・・。

    引き続き「水俣病」について



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  • from: orimasaさん

    2009年01月25日 11時28分29秒

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    日本周遊紀行(138)日吉 「球磨川と街道筋」



    写真:三大急流・球磨川(特異な建物は森林館・エジソンミュージアム)と球泉洞下着船場のリフト



    球磨地方の「クマ」とは、古語で「山襞」(やなひだ)という意味らしい・・、

    ここで、球磨川を訪ねることにした・・、日本の三大急流の一つと言われている急流河川を拝見するつもりである。
    九州を西側から縦断する国道3号線の長いトンネル・「佐敷トンネル」(佐敷太郎峠を貫通)を抜けて、佐敷の町並みからは県道27号(佐敷ルート)へ向かう。改良工事が行われたのであろうか山間の地方道でありながら、よく整備された道である。おまけに、数キロおきに車止めの休憩所が設けてある、ご丁寧なことである。
    トンネルを抜けるといきなり球磨川の大河川に出くわした、大橋を渡って神瀬というところで国道219号に出会い、右折して球泉洞を目指す。 2、3km先にその球泉洞があったが、特に、ここを見物するつもりはなかった。 何でも「球泉洞」は全長4800mの鍾乳洞で山口県の秋吉洞の次に長く日本で二番目九州では一番長いらしい。 今更であるが、鍾乳洞とは、太古の世界に堆積した石灰層(主にサンゴ層)が堆積した石灰岩地帯が隆起したところに、二酸化炭素を含んだ水の侵食作用によって生まれる空間である。この侵食は気の遠くなるような時間を要し、鍾乳洞と呼ばれるようになるまで数百万年はかかる。こちら球泉洞の内部は、凡そ三億年の長い年月をかけて出来た鍾乳洞といわれ、鍾乳石や石柱が無数にあり、さながら天然の芸術を見るようだという。 

    さて、球磨川である、ここは急流下りの船着場でもあった。 ただし、川面は現在地より、かなり下方にあり従って、乗り合い客はエスカレータ(リフト)か歩道で上下を往来するようになる。 歩道にてゆっくり河原に下りてみた、さすがに日本有数の急流らしく瀬音激しくゴーゴーと流れる様は如何にも日本三大急流の名に恥じない。 この辺りの山域は、球泉洞にみれるように石灰岩質の地層であり、従って、河水は山肌を浸食しながら深い峡谷を形造っている。
    近くに吊り橋があった、ここの風景に馴染んで一服の絵になっているのがよい、向かいの休暇村へ通じているらしい。見ると一艘の「急流くだり」の船がやってきて、船着場に到着するところであった、船頭の棹捌きが見事である。
    球磨川を下りは、この地方の代表的な観光の一つで「清流コース」、「急流コース」があるらしい。 急流コースは人吉発舟場から球泉洞下までの全長10キロメートルを90分で、五つの大瀬を豪快に下るスリル満点のコースは船頭さんの腕前が見ものということ。
    日本三大急流(山形県・最上川、静岡県・富士川)の一つである球磨川は、水源を水上村に発し、八代海に注ぐ全長115kmの一級河川である。 標高1700メートルを超える九州山地の急流を下り、五木村を水源とした川辺川と合流して中流域の人吉盆地ではゆったりとした流れとなり、その後再び、渓谷を流れる急流となる。
    「人吉」や「渡」からは川下りの船が出ていて、人吉から渡までは比較的穏やかな流れであるが、渡から球泉洞下までは急流を下ることになる。
    九州の屋根といわれる山域に囲まれた球磨地方は、全てが山である。そして「球磨川」は標高1600mの五木村の山々から南下し相良、人吉盆地に流れ込み、ここから再び北上して標高7〜800メートル程度の山々にわけ入り、山が切れたところはいきなり八代の海に出る。 地元の人は球磨川を称して恐川、つまり「おそろしか川です」という。 流れゆくその両岸の山襞は急斜面をなし、山に降った雨水はいきなり斜面を走って鉄砲水のようになって球磨川に落ち込み、水嵩を見る見る増やすのである。 球磨地方の「クマ」とは、山襞の古語でもあるという。

    ここより凡そ15km先、球磨川や川辺川等の河川が堆積してできた扇状盆地に「人吉」があり、古くから交通の要衝として開けた。既に鎌倉初期には地頭として遠州・相良(さがら・今の静岡県)から相良氏が入国し、幾多の戦乱を経つつも明治維新までの約700年間、一貫してこの地方を治めてきた。 このように鎌倉時代以来、大名として続いた「家」は全国でも珍しく、薩摩の島津氏の他僅かしかないという。 急流河川・球磨川は昔も今も「人吉」を潤しているのである。
    その人吉は近年までは険しい山地に囲まれた内陸部にあることから、長く「陸の孤島」と呼ばれていた。肥薩線が八代⇔人吉まで開通したのは明治41年 (1908年) であり、国道219が車道として整備されたのは昭和38年 (1963年) の頃である。  
    又、今日の肥薩線は昭和2年に海岸に本線が開通するまで鹿児島本線として活躍したという。 山中の敷設が優先決定された経緯には、直線的に鹿児島と宮崎、両方からの縦貫線であることは無論であるが、時勢下、国防上の観点から海岸からの攻撃、特に艦砲射撃を避けることができること。又、九州が本州から孤立した場合、自給可能なのは山深い人吉盆地であるといった理由があったとされている。 
    山と川に阻まれた天険の地で工事は困難を極めたといい、開通当時の沿線の人々の喜びの様子は歴史小説の大家で薩摩出身の海音寺潮五郎(歴史作家、同じ郷土の英雄・西郷隆盛を扱った著作多数)のエッセイの中でも綴られている。
    道路では人吉⇔八代間を連絡しているルートはR219で、地図には「人吉街道」と書かれている。 江戸・藩政時代から明治以前までのこの街道は、途中から沿海の佐敷方面へルートを変え、薩摩街道(国道3号)と合流していて、八代⇔人吉間を直結するメインルートは無かった。 昭和中期、車道としてのR219の建設は球磨川の山裾を削り、半ば強引に取り付けた道路であるため、開通当初から路肩決壊や、落石を繰り返し、工事が止むことがなく、今も大変な維持費のかかる問題の多い道路だという。 現在の人吉は、「えびの」を通じて高速道が三方へ延び、熊本、宮崎、鹿児島の主要都市へ一時間で通じることが出来る。 
    その、佐敷ルート、旧人吉街道(県27)を戻って、薩摩街道(国道3号)へ再び出る。
    一旦、佐敷の海岸に接するが、すぐに内陸の山間地に向かうようである。 最高所の「津奈木トンネル」(津奈木太郎峠)をくぐると間もなく「水俣」であるが・・。 

    その前に・・、薩摩街道の肥後・芦北地方に,難所として知られる「三太郎峠」(三箇所に太郎と付く峠)と呼ばれる峠がある。 肥後・芦北地方に連なる赤松太郎峠・佐敷太郎峠・津奈木太郎峠を総称した呼び名で、難所中の難所という意味がこめられた峠でこう呼んでいるようで、古くから通行が困難な山道として知られる。
    一方, この峠付近は中世期以降は軍事的な要衝にもなっていたという.。 特に「佐敷・・」は戦国期の山城跡が残っていて、肥後・熊本と人吉への街道を押さえる重要な要地であり、秀吉の佐敷氏(佐敷城の築城者)の時代から熊本・細川氏の時代まで領域をめぐっての攻防が繰り返されていたという。 又、1877年に起こった西南戦争時、この峠は軍事要衝とされ、立地条件もさることながら天然の防衛要塞と化していた。西郷隆盛を首領として蜂起した士族一行は、肥後・熊本に侵攻する際この三太郎峠越えを果たさねばならなかったのだが、その道は相当険しく「政府へ尋問の筋、これ有り」と喝采鼓舞しつつ峠越えを果たしたという。
    この街道の時代的経過としては、 遙か江戸時代以前からの薩摩街道、明治から昭和中期まで使われた国道3号の旧道, そして現在の国道3号線と三つの時代に大きく分かれるという。 このうち、昭和中期まで使われた旧国道3号の道は、ツヅラ折りを上下するこの三つの峠を通り、昭和期の高度経済成長期には流通の大きな妨げとなった。 特に、大型車同士の擦違いは勿論、普通車でも困難を極め、ドライバーの神経を確実にすり減らり、地獄の三峠として嫌われたという。 
    熊本よりの「赤松太郎峠」はトンネルはなかったが「佐敷太郎峠」、「津奈木太郎峠」には今も、旧道時代の煉瓦積みの非常にガッシリとした、美しい隧道を見ることができる.という。
    今、小生はこの峠にかかる「平成の三つのトンネル」(新道)を通って、鹿児島方面へ目指しているのである。

    次回は「水俣」


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  • from: orimasaさん

    2009年01月25日 11時27分36秒

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    日本周遊紀行(137)坂梨 「三地方の追分」



    坂梨は、豊後地方と日向地方、そして肥後地方の「追分」である・・、

    田園風景の国道57を行く、阿蘇外輪の山並みが行く手を遮るようである。
    平地を過ぎて山間地に入った頃は既に肥後・熊本県の「波野村」である。 山地といっても褶曲した山様ではなく段々状の斜面になっている。そこは高地冷地ゆえの自然条件を活かした野菜作りの広大な畑が広がる。この辺りは「そば」と「キャベツ」の生産で名高いという。
    国道沿いに「道の駅・波野」があり波野神楽のインフォメーションセンター、「神楽館」が在り、神楽を観賞しながら特産のソバを賞味できるという。
    南に外輪山の「根子岳」の勇姿がひときわ豪快に望める。 道脇に「すずらん自生地」の看板が所々に見られる。 「すずらん」は本州中部以北の高原や北海道に多く自生しているが、九州地域で野性のものが見られるのは珍しい。 急な登りの大曲を登りきると「滝室坂」とあった、見晴らしのようところである。 南へ約1kmの外輪山の絶壁に名所の「古閑の滝」がある。寒期には全面氷結することで知られ、この氷を民家では氷室に蓄え、病人用に保存したことから滝室の地名が生まれたという。
    ヘヤーピンの急カーブから見えてる風景は阿蘇内輪のお馴染みの風景であり、下りきったところが「坂梨」である。 国道沿いの坂梨は今となっては変哲もない田舎の風情のようであるが、往時は豊後街道の宿場町として大いに栄えたところだという。 肥後から来ると豊後街道と日向(野尻)往還の追分け(道が左右に分れる所、分岐点)の地であもり、滝室坂方面(豊後街道)や箱石の峠越え方面(日向往還)を往来する人々の旅人宿や商屋、医者等の屋号を持った家々が軒を連ねて大変賑わい栄えたという。 特に加藤清正公が豊後街道を整備した後、参勤交代は勿論、行商や荷駄を運ぶ旅人が多く往来するようになったともいい、又、肥後と豊後の国境付近でもあったので関所の機能を持った番所も在ったところである。
    現在の国道を50mほど南へ行ったところが旧街道で、国道265(日向往還)が分岐する辺りを中心に、東西に連なる宿場の面影が今も残る。 清水が流れ生け垣や板塀、格子戸や鎧壁の間に常夜灯や軒灯が灯る、そんな風情と人情が「坂梨」に今も残るのである。 地域住民も旧宿場町の風情を残すべく、懸命に努力している姿が覗える。

    阿蘇一の宮、赤水温泉の外輪山荘は先日通過した地点で懐かしい・・、立野のことも先刻記した。 大津から九州道の熊本I・Cへ乗り、ここからから南下して「八代」を目指す。 カーナビには載ってないが九州高速道は八代で九州本道と新しく完成した南九州道の分かれていて、日奈久まで延びているようである。
    沿岸道なのに山が険しく迫ってきているためトンネルが多い、過ぎると「田浦」であった。「道の駅・田浦」があり、時刻的にここで一服しばがら昼食を摂る。道の駅エリアの上部天井には工事中の高速道が在り、日陰になっていて都合がいい、時折吹き寄せるそよ風が気持ちいい。 実は熊本地方は本日、最高気温の32℃を記録している、すでにカンカンで暑いはずである・・!。 尤も、今日が特別暑い日という訳ではない、連日の好天で気温も上昇し、30度前後を記録していて小生も暑さでイササカ閉口しているのである。

    次回は球磨・「人吉」



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