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  • from: orimasaさん

    2008年06月30日 08時59分54秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(30) 風間浦・「下風呂温泉」


    下風呂温泉




    <font size="2" color="#0000FF"> 大間に到着した頃には、すっかり闇に包まれていた。これからの目的地は評判の「下風呂温泉」である・・。
    本州最北端の村・風間浦の海道沿いである国道279号を行く。 
    暫くすると、いささか眩しいくらいのネオンの歓迎灯が光っている。 路地へ入ると田舎の小さな温泉街の風情があった・・。
    共同浴場は二軒、大湯と新湯があるようだが、その「大湯」へ向かおう・。 

    300円の銭湯を払って、イザ湯船へ・・硫黄の香りがプンプンする、お湯は緑白色、身体にジンワリと効きそうだ。
    湯船と床は総ヒバ・・?(この地から内陸部に、明日向かう予定の薬研地区はヒバの原生林で有名)造りで感触が実に気持ちが良い・・。  
    洗い場で若い衆と御老体が盛んに会話を交わしていたが、本場の津軽弁であろう、東北出身(いわき)の小生でもチンプンカンプン・・。

    湯上りに何とはなしに・・・、
    おしゃべり好きそうな番台の女将が『NHKで放送している、「ふだんぎの温泉」で第一回目の放送がこの大湯だったんだよ・・!、この前も民放TV局も来てたよ・・』と津軽弁で話してくれる。
    小生も何度か、この放送は見ている。 吉 幾三のテーマ曲にのって地域密着、全国各地の情緒たっぷりの温泉を紹介しているのである・・。

    下風呂温泉は下北半島の「まさかり」の北側にあり、津軽海峡に面している。 
    対岸は北海道の函館と恵山で、特に恵山を眺めるには絶好の場所でもある。 
    井上靖は昭和33年、この温泉地で小説「海峡」を執筆し、作品の舞台にもなっていて、当地・長谷旅館はその「海峡」の宿として知られる。 
    また、水上勉「飢餓海峡」の舞台にもなり、この作品は映画化もされている・・。


    それにしても温泉場の名称が『風呂』と付くのが面白い、「下風呂」が在るのだから上風呂という名も在りそうだが、そうではないらしい・・。 
    温泉名は、この地域のことをアイヌ語で岩(シュマ)臭い(フラ)が語源とされ、「シュマフラ」と言っていたことに由来するという。
    尤も、風呂そのものの語源が、「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じたという説が一般的である。
    又、抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から転じたという説もある。

    序ながら「風呂」について・・。  
    昔の人の「風呂」という概念は釜に湯を沸かし、その蒸気を浴槽内に送り込み、熱い水蒸気により身体の垢を浮き上がらせてから、ぬるま湯や冷水で身体を洗うといったもので、現在に言う、蒸し風呂・サウナのようなもだった。 
    江戸期初期の頃に「戸棚風呂」といって下半身を湯に浸し、上半身を蒸気で蒸すという、お風呂と湯浴をミックスした仕組みになっていた、云わば、半身浴のようなものだったという。 
    現代のような、全身を湯が満たされた浴槽に入るようになったのは江戸期以降といわれて、その頃江戸に湯屋が開業し、風俗絵にもなっている・・。

    下風呂温泉は室町時代からの歴史をもつといわれ、室町期の地図にも「湯本」との記載がされているという。 
    江戸初期の1656年には、南部藩藩主・南部重信が入湯しているとも・・。
    近世はニシン漁師の湯治場として栄え、現在はイカ漁の行われる漁港として温泉街が成立している。 

    温泉は、大畑と大間の中間あたりの海岸にあり、温泉ホテル、宿、民宿が立ち並んでいるが鄙びた温泉場という印象で、チョットした温泉街という意味では本州最北端であろう・・。
    泉質は、含塩化土類硫化水素泉と、今で言う硫黄泉であろう室町時代から刀傷や槍傷に薬効のある湯治場として知られたらしい。 
    街には二つの共同浴場があり、「大湯」は硫黄分の多い白濁した高温の湯、通称男湯、そして「新湯」は幾分柔らかめで食塩が多く透明の湯らしい。 
    切り傷、打撲傷、神経痛、婦人病、皮膚病などに効能がるといい、源泉は66度であると・・。


    湯上りに、地元の寿司屋で生ビールと地元特産の海鮮丼をいただき、大満足であった。
    夜もトップリと更けてきて、今夜は大畑漁港の海辺で、マイカー宿とする・・。


    次回は、「薬研温泉」

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  • from: orimasaさん

    2008年06月27日 10時31分48秒

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    日本周遊紀行(127) 袖ヶ浦・・「アクアライン」

    東京湾アクアライン

    日本周遊紀行(127) 袖ヶ浦・・「アクアライン」

    袖ヶ浦蔵波台に、小生の実弟家族が住んでいる・・。
    北国を遠路遥々(はるばる)巡ってきた、その様子を一言、二言話しをしてみよう、不在ならそのまま帰路をとろうと尋ねてみた。 
    幸い奥さん(義妹)が在宅であったので事の様子を話し、ついでに四方山話(よもやまばなし)をしながら館山で求めた手土産を納めた。 
    そして、心配りの渋茶と添え物を戴き、身も心も仄々(ほのぼの)として宅を辞した・・。

    弟は学卒以来、土木建設の会社に一途に身を置き、千葉湾岸工業地域の造成開発、建設に勤しんでいる。 特に昨今開通した東京湾横断道路、愛称「東京湾アクアライン」の建設に携わり、その完成を見た時、一種安堵感と至福感を味わったと・・、しみじみ話していた。
    これから、この東京湾アクアラインを渡ることになる・・。 


    <font size="2" color="#0000FF">東京湾上に道路が開通した。

    1997年12月、東京湾に自動車専用道路が開通した。 その名を愛称では「東京湾アクアライン」といい、正式名称は「東京湾横断道路」という。 ここ木更津から東京湾を横断して神奈川県川崎市へ至っている自動車専用高速道路である。 
    木更津沖合い4.4km に造られた人工島「海ほたる」を接点として、海上ルート約5km と海底ルート約10km、つまりトンネルと橋梁を15kmで結ばれている。

    世界で最も長い水底トンネルは本州と北海道を結ぶ青函トンネルで、長さは53.8kmとアクアトンネルの5倍以上の長さがある。 しかし、このトンネルは鉄道トンネルであり、自動車が通行できる最長の水底トンネルと限定すれば、アクアトンネルが最長となるという。

    文字どおり最先端のテクノロジーを駆使した20世紀最後のビッグプロジェクトであり、世界の様々な分野から注目を集めたという。 
    海上ルートを支える橋梁の上・下部は、あらかじめ陸上で製作した構造体を海上輸送し、クレーン船や台船を使って設置。トンネル部は、外形14.14m、重量3,200tにも及ぶ世界最大級のシールドマシンが掘り進んだ。
    また、海中に設置した汚濁防止膜や杭打ち時の防音対策などは、環境保全にも細心の配慮を施した工事として、世界的にも大きな評価を得たという・・。
    総工費は約1兆4,000億円、このため通行料が非常に高く、当初普通車で4000円以上であたが、現在は3000円である。想定していたほどの利用車が無いのが現状で、年間の欠損は数百億円とか、昨今の道路公団の民営化で果たしてアクアラインは・・??。

    木更津からは海の道を、川崎からは長いトンネルを抜けると、そこは東京湾のど真ん中、周辺の景色を360度一望できる「海ほたる」であり、海上に浮かぶ巨大なパーキングエリアである。 
    1階から3階までは駐車場で約480台収容でき、四階は、東京や神奈川のお土産、房総の名産・海産物、東京湾アクアライングッズなどを取りそろえたショッピング施設がある。 情報コーナーには、アクアラインの概要や建設に使用した各種工作物、巨大シールドマシンの断片などが展示してある。
    ここの産かどうかは定かでないが、特大な貝付きの生牡蠣(なまがき)を買い、手土産にして袖ヶ浦の実弟宅で食したのが思い起こされる。
    五階はレストラン、展望デッキになっている・・。

    「海ほたる」から見る、千葉市街から大東京のビル群は小雨の中に、やや霞んで見えていた。


    次回からは、東北東沿岸の観光、温泉地を案内します、先ずは「下北半島」から・・・。 


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  • from: orimasaさん

    2008年06月26日 09時06分42秒

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    日本周遊紀行(126) 「木更津、袖ヶ浦と日本武尊」

    2人の像が向かい合う形で、木更津の大田公園に「きみさらずタワー」が立つ。

    日本周遊紀行(126) 「木更津、袖ヶ浦と日本武尊」

    《木更津、袖ヶ浦と日本武尊の古事》
    木更津、袖ヶ浦、そして東京湾を隔てて横須賀(観音崎)の周辺は「日本武尊」(ヤマトタケル)の神話伝説の残る共通地域であった・・。 


    日本武尊は、幼少の頃より時折、何かに付けて耳に、或いは目にする人物・・?で、神話とされる「記紀」(古事記、日本書紀)に神として、人物として、はたまた半神半人として、神話の中でも最も武力に優れた英雄物語として描かれている。
    日本神話の英雄・ヤマトタケルには、「日本武尊」(日本書紀)、「倭建命」(古事記)の二つの漢字、そして小碓命(オウスノミコト)などの表記がある。

    日本武尊は景行2年、第12代景行(けいこう:初代神武天皇=紀元前660年)天皇の第2皇子として生まれている。 
    皇子は皇太子の地位にありながら、大和朝廷の勢力範囲を広げるために、日本中を遠征して回ることになる。 
    先ず、九州日向(現宮崎県地方)へ命じらて遠征し、朝廷に従わない熊襲建(クマソタケル)を知恵をもって征伐する。 
    この時、小碓命は、熊襲建の「建」とって倭建命(ヤマトタケルノミコト)と称えることになる。(建は、勇敢な者という意味を持つ)
    大和にある宮に戻る途中も山の神、川の神、河口の神などの大王(朝廷)に従わない荒ぶる神々たちを次々征伐し、出雲の国の部族、出雲建(イズモタケル)を征伐するときも頭を使って勝利し、国を平定していく。

    次に、倭建命は東国の征伐を命じられる。
    西国は大陸との交通路であり、古くから大和朝廷も重視していたが、東国は大和朝廷の力が及んでいる訳ではなく、苦戦が予想された。 
    皇子は東国への遠征に向かわれる途中、「伊勢」に立ち寄ることになる、先ず、亀山に立ち寄り、「忍山神社」祀官・忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘とされる弟橘媛(オトタチバナヒメ)を妃に迎える。
    伊勢の地は、皇子の叔母である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の導きで天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭祀している地であり(伊勢神宮)、倭姫命は皇子に御神宝の天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を授けた。 
    この剣は昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲で八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に、その尾から出たといわれる剣で、天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)がこの国に御降臨した時に、一緒に持たせたものという由緒ある宝剣である。 
    後の天皇の「三種の神器」(八咫鏡:ヤタノカガミ、 草薙の剣:クサナギノツルギ、 八尺瓊勾玉:ヤサカニノマガタマ).の一つである。

    皇子が駿河の国(静岡県東部)へ指しかかった時、皇子たちの一行を狙って草むらで周りから火を付ける者があった。 皇子はこの時、この剣で周りの草を薙ぎ払い火から免れた。 この故事により、この剣をその後に草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ぶようになったといわれる。 
    その後、日本武尊は上総の国(今の千葉県)に渡海するため、走水の村(三浦半島・観音崎)へ向う。
    因みに、日本神話の英雄ヤマトタケルには、「倭建命」(古事記)と「日本武尊」(日本書紀)の二つの漢字表記があり、この先は日本武尊を表記することとする・・。

    三浦半島東端、観音崎は旗山崎(御所ヶ崎)とも云われ、「走水」(はしりみず)という言う地名が今も残る。 日本武尊が東征したとき、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てたという説話に由来している。 
    合わせて、この地に日本武尊とその妃・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祭る「走水神社」が鎮座している。
    ここから日本武尊は対岸の房総へ渡ろうとしたが、海上は風波 が強く、船出もできず数日間ここに滞在してい・・が、ついに船出を決意し一気に渡ろうとしたところ、船が沈没しそうになってしまった。
    この時弟橘媛命が、これは海神の怒りであると信じ、日本武尊の身代わりになることを決意し、海に身を沈める。

    <font size="3" color="#0000FF"> 「さねさし相模の 小野に燃ゆる 火の火中に立ちて 問ひし君はも」


    と歌を詠んで身を投げた。
    「さねさし」とは相模の枕詞、「あの相模の小野で、敵の仕掛けた猛火に包まれて危うい時も、あなたは私のことを心配して声を掛けて下さいました。 あの時の優しい思い出を胸に抱きしめて私はこの荒れ狂う浪に身を投じて海神の怒りを鎮めにまいります・・、ああ、やさしきあなた・・。」 というのが媛の辞世の大意である。 

    女性が男性に向けた歌で、古今東西これほど哀惜に満ちた崇高なものは無いともいわれる。
    村人が、弟橘媛を哀れみ、日本武尊を慕うあまり建てたのが「走水神社」であると伝えられている。

    日本武尊は、駿河から相模に入り、三浦半島の走水から船で房総半島に渡るが、このルートは古代・東海道の重要なルートで、終着地は常陸の国であるといわれる。
    房総半島への渡り道、「走水の海」は流れが早いことから付けられた名で、今の浦賀水道のことである。 

    一行は走水の海で激しい嵐に見舞われるが、姫が入水してからはそれまでの嵐が嘘のように静まる。 
    この時、海岸には姫のクシや衣が流れついたという、古代、クシには魂が宿ると言われ、流れついた弟橘姫のクシ、衣を納めて建立したのが木更津に鎮座する「吾妻神社」であるといわれる。

    「吾妻」についても、日本武尊が蝦夷の東征を終えて凱旋される途中、足柄峠に差し掛かった時、遥か相模の海の方を見られて媛の悲劇が胸に迫って涙が止まらず、「吾が妻はや・・」(吾が妻はもはやいない)と嘆かれた。 
    ここから東国のことを「吾妻」と呼ぶようになったという。 
    吾妻とは、都から東方の諸国の総称で「東国」のことである。

    「いにしへは、相模(さがむ)国・足柄の岳坂(やまさか)より東の諸(もろもろ)の県(あがた)は、すべて吾妻の国をといひき」

    と「常陸風土記」にもある。

    房総に渡った日本武尊が弟橘姫を偲んで詠ったのが、

    「君さらず 袖しが浦に 立つ波の その面影を 見るぞ悲しき」

    「君さらず、袖しが浦に立つ波の」、 この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」、「袖しが浦」が「袖が浦」という地名になったと伝えられている。
    この歌を詠んだとされる場所は現在の木更津市大田地区、国道16号沿いの太田山公園であり、2人の像が向かい合う形で「きみさらずタワー」が立っている。
    タワーは高さ28mで中ほどに展望台があり、東京湾から東京の摩天楼や富士山を一望することが出来る。 特に夜景は絶景だとか・・。


    次回は、 袖が浦と「アクアライン」


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  • from: orimasaさん

    2008年06月25日 10時28分45秒

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    日本周遊紀行(125) 君津市・・「久留里」

    地図を見て確かめると、成る程、君津市域の湾口部は、僅か3km程度しかないの近距離の幅である。 そして、湾口部にはあの「新日鉄君津」の事業所が大部分・・?、否、100%占めているのである。 その為でもあろう・・、現在の人口的市街地は、JR君津駅周辺とした湾岸部に集中している。
    だが、市全体の範囲は房総内陸の山間域が大部分をしめ、それらは鹿野山や亀山周辺の三島湖の行楽地、歴史の町である「久留里」辺りが市の主要部分と言ってもよさそうである。

    その君津市久留里地区は房総半島の中心に位置し、その一昔前までは太平洋岸の勝浦、小湊、鴨川地区と武蔵、江戸地区を結ぶ交通の要衝であった。
    そして既に、平安末期の頃から城が築かれ、房総の代表的な城下町で里見家、黒田家等の武将の居城として名を馳せた歴史ある地区で、今もその面影が色濃く残っている。 

    久留里の地名は戦国期から見られるという。
    16世紀半ば、戦国大名として名を馳せた里見氏は、ほぼ房総全域を拠点としていた。 
    戦国期、相模小田原の北条氏(後北条)の勢力が房総に及ぶと、里見氏は久留里城を最前線として北条氏と対峙する。 だが中央より勢力を伸ばしつつある豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)への参戦指令で遅参したため、上総全域および下総南部が里見氏から没収され徳川家康に与えられた。
    安房一国に縮小安堵された里見氏であるが、次に「久留里」は、徳川氏の最前線として、その里見氏と対峙することになる。
    慶長19年(1614年)、大久保忠隣失脚に連座した里見忠義が安房一国を没収されて伯耆倉吉に転封となったために、久留里城の「最前線」としての役目は失われた。
    江戸中期には、衰退していた久留里は黒田直純が上野沼田から入封して再び久留里藩が立藩され、次いで久留里城も再建された。
    以後久留里は、黒田氏の支配の下、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで存続していたが・・。


    「久留里城」は、「雨城」・「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で改良が加えられた井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであった。
    近年はこの水を観光資源として、「名水の里」であることが宣伝されているとか・・。
    この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。

    <font size="2" color="#0000FF">「上総掘り」について・・、

    千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。
    房総の地域は、地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされる。 このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 
    「上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという・・。
    人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導が行われているという。

    工法は、径5〜15cmの鉄管が、深さ150〜500mの穴が地中に向かって掘られる。
    まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量を地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 
    現在でも人力による掘削法として使用されている・・。
    上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。


    木更津・・、
    狭い湾岸の君津はあっという間に過ぎてしまう・・、そして、直ぐに「木更津」である。

    戦国期、徳川家康が戦乱を平定した1614年の大阪の陣に、木更津の水夫は水軍として参加し、大きな働きをしたという。 そして戦後、家康は江戸(東京)に都を移し、戦に功績の有った木更津衆を報奨として、東京湾での海上輸送の特権を与えたといわれる。
    木更津は江戸と潮来方面からくる船の関所として、大きな権力を持ち物資の集散地として大いに栄えた。
    江戸湾を往来する、木更津船を「五大力船」(ごだいりきぶね)と称していた。 江戸を中心に、関東周辺の海運に活躍した50〜500石積級の小廻(こまわ)しの廻船である。

    木更津については更に次回、チョット詳しく述べることにする。      

    「木更津甚句」 千葉県民謡
    アア木更津照るとも         船は千来る
    お江戸は曇れ            万来るなかで    
    かわいお方がヤッサイモッサイ    わしの待つ船
    ヤレコリャ ドッコイ        まだ見えぬ
    コリャ コーリャ          (囃子は繰返し)
    日にやけ

    と船乗衆が唄ったのであろう・・、「ヤッサイモッサイ」とは、「そこのけ そこのけ」という意味らしい・・。


    次回は、 「木更津、袖ヶ浦」 

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  • from: orimasaさん

    2008年06月24日 10時25分28秒

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    日本周遊紀行(124) 内房・「鋸山」

    「日本寺」にある高さ31mの日本一の石窟大仏

    日本周遊紀行(124) 内房・「鋸山」

    富山町を過ぎると、国道127は山間地を走る。
    海岸線まで迫っているJR内房線としばらく並行してしていたが、やがて町並みに入った。 駅前で気が付くと、駅名は安房勝山になっていた、たしかここは鋸南町のはずであったが・・?

    <font size="2" color="#0000FF">「菱川師宣」
    の案内板を見る・・。
    菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)は江戸時代の浮世絵師で、安房国・保田(鋸南町)出身である。
    浮世絵を単なる挿絵ではない、鑑賞絵画の一ジャンルにまで高めたという点で師宣の絵画史上における位置は重要で、しばしば「浮世絵の祖」とも称される。 特に、筆浮世絵の「見返り美人図」は有名・・。
    一方の側面として「春画」も数多く描いた話題の人でもあった。 故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある。

    「鋸南町」の町名は、一昔前(1959年)勝山町と保田町が合併して新たに出来たらしく、「鋸山」の南に位置しているので名づけたのだろう。
    神奈川に住む小生は三浦半島の久里浜から金谷のフェリーを経て、この鋸山周辺へは何回か遊覧に来たもんです・・。
    鋸山はこの地から眺めても、文字どうり鋸の歯のようなギザギザの断崖絶壁が連なっている岩山である。

    この鋸歯のギザギザは、かつて「房総石」といわれる凝灰岩(ぎょうかいがん:火山から噴出された火山灰が地上に堆積してできた岩石)の産地であり、その跡を留めているのである。 
    幕末から明治、大正、昭和にかけて、主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用され、また、靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されているという。 採石は昭和50年代を最後にとだえている。
    現在の「鋸山」は観光資源として利用されている。 
    標高は329m、海岸近くのため山頂からの東京湾や対岸の三浦半島の景色、眺めは抜群である。金谷の町からはロープウエイが、又、自動車道も頂上付近まで延びている。 
    歩くんであれば、約3.5時間、日本一の御影石参道を2639段登る事になる。 頂上にはオーバーハングした岩の上に「地獄のぞき」という地獄の名勝もある。

    鋸山には“乾坤一擲”の「乾坤山・日本寺」がある。本尊は薬師三尊で、薬師如来の大仏(日本寺大仏)があることで知られる。
    山のほとんどの部分を境内にしていて、スケールの大きな見所いっぱいの寺であり、1300年前に行基菩薩(奈良時代の名僧)によって開かれた関東最古の勅願所で、由緒有る古刹でもある。(勅願寺は勅命・天皇によって国家鎮護・皇家安穏を祈願した社寺)
    山の頂でお薬師さんが瞑想して鎮座しているのに、周囲でカンカン、トントンと石切の音を響かせているのには、さぞかし落ち着かなかったことだろう・・?、しかし、民衆の為と思えば静かに黙認してもいたのであろう・・!。

    因みに、この日本寺の石窟群は、バーミヤン遺跡を彷彿させる。 
    あちらはアフガニスタンの古代都市バーミヤンの町を中心とする山中の渓谷地帯に6〜7世紀、刻削された石窟の寺院である。 石窟の数は1000以上にものぼり、仏教美術の優れた遺産としてユネスコ世界文化遺産にも選定されている。 
    近年、タリバン政権によって一部破壊されたが、ユネスコにより修復と保存が実施されている・・。

    日本寺の薬師如来坐像は、高さ31mの日本一の石窟大仏であり、他に百尺観音、大野甚五郎の系統、あるいは末裔により彫ったとされる石仏、世界第一の羅漢霊場・千五百羅漢など全山に石窟彫刻群が並ぶ・・。


    三浦半島へフエリーが航行している金谷港から,「内房なぎさライン」を北上する。 ここは既に「富津市」である、もっとも鋸山あたりが町界らしいが・・。 佐貫の信号で国道465へ左折すると間もなく富津岬の基部を通る。
    富津岬は富津公園を中心に、海のレジャー満載の地である・・、その中でも「アサリの潮干狩り」は有名だ。 岬先端の南側が、遠浅のアサリ養殖地域で、シーズン中(3月〜8月頃)は首都圏から大勢の漁客で賑わう。
    富津岬は西へ長くのびていて、浦賀水道を経て真向かいの三浦半島の観音崎とは僅か数キロの地で海路の最狭部にあたる。

    江戸期、外国船が通商を求めて度々やってくるようになると、海防上、非常に重要な地点の一つとなった。 そのため、富津市域(佐貫藩)の海岸線に防備のための砲台が築かれた。 
    嘉永6年(1853)ペリー来航時は、日本の政治を大混乱に陥らせることになったが、この時の佐貫藩の人々のも大いに動揺したという・・。
    明治期から太平洋戦争まで軍の砲台基地や陣地になっていて、現在もその跡が残っている・・。

    国道465は富津岬の基部から国道16号線になる、国道16は首都外廓幹線道路で、埼玉、東京郊外から神奈川の横須賀まで達している首都圏の大動脈である。
    JR内房線の大堀駅前を通過すると「君津市」である。 海よりに広大な新日鉄の工場群を見ながら進むと、あっという間に「木更津市」に入ったようだ・・。


    次回は, 「君津、久留里」


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  • from: orimasaさん

    2008年06月23日 09時54分57秒

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    日本周遊紀行(123) 館山・・Ⅱ「里見氏の盛衰」

    里見氏の居城であった「館山城」(模擬天主)

    日本周遊紀行(123) 館山・・Ⅱ「里見氏の盛衰」

    <font size="2" color="#0000FF">国道410から分かれて、州崎へ向かう。
    温暖な気候に恵まれてる館山も、千倉同様「花の街」である。
    相浜からは再びフラワーラインがはじまり、両サイドを季節の花で飾られたほぼ直線の道が続く。 可憐に咲く色彩鮮やかな花々に思わず見とれるほどで、この平砂浦海岸通りの途中には「館山ファミリーパーク」「南房パラダイス」「白浜フラワーパーク」と、特殊な熱帯性の花も楽しむことが出来るスポットである。

    次には、果てしなく広がる大海原、岩礁に散る白い波、荒々しくも雄大な風景の中、間もなく洲崎へ到着した。  大きくカーブする細い道へ入ると洲崎灯台が立つ。 
    対岸にある三浦半島の剱崎灯台とともに東京湾の入り口を守る。 ここは、房総半島の先端で、三浦半島の剣崎とともに東京湾・浦賀水道の入口にあたるところである。 また、内房総、外房総の境目となっているところでもある。
    灯台には入れないが、敷地内からは天気が良ければ、対岸の三浦半島が手に取る様に見え、そして、相模灘越しに富士の秀麗な姿が見事に見渡せるはず・・。
    ここは初日の出と、初富士とを同時に見ることができる絶好のポイントでもある。 しかし、今日は小雨混じりのドンヨリとした日で、望むべきもない・・。 

    子供が幼少の頃何度か訪れたことのある、館山国民休暇村を横に見る・・、その向こうは濃い大洋の蒼が広がっている・・。この大洋を時折眺めながら、ゆったりと車を進める。 内房の東京湾を眺めると、いよいよこの旅も終焉に近づいていることを実感しながら・・。
    厳しい(いかめしい)海上自衛隊の基地を過ぎると、館山市街である、何故か、館山の西口駅前の海岸に出てしまった・・。 この海岸も何ともいえない風情が漂う・・。
    JR内房線「館山駅」より館山湾を望めるこの荒井、北条地区は、「白砂青松100選」「日本の道100選」にも選ばれている美景のポイントでもあった。

    一方、やや内陸部には小山のような丘の上に城山公園があり、戦国時代の武将、里見氏の居城・「館山城」(模擬天守)が新装なって聳え立っている。 
    古城は天正6(1578)年、里見義頼が重臣に築城を命じ、その子義康が天正16(1588)年に大規模な改修を行い、天正18(1590)年に完成している。
    晴れた日には市内と館山湾が一望できる絶好のビュースポットであり、公園内には、椿、梅、桜、ツツジ等の花木が小径をうずめ、四季折々の花が咲き、桜の名所としても知られている。
    「館山」は中世の頃には、戦国武将・里見氏がこの地を統治、滝沢馬琴作の「南総里見八犬伝」の舞台にもなったところで、今でも、里見氏の史跡の数々や八犬伝のロマンが香る史跡が残っている。

    平家が滅んだ後の鎌倉期、この「館山」は執権・北条氏一族の勢力も及んで、室町時代に入っても鎌倉が関東の中心で、安房とは強いつながりをもっていた。
    そのころ、鎌倉にいた足利氏(鎌倉公方)と上杉氏(関東管領)は対立しており、足利氏は、側近の里見義実に命じて、安房から上杉氏を追い出そうとした。 義実が、安房の上杉勢力の追い出しに成功すると、やがて里見氏が安房の武士たちを従えるようになり、その後、六代義堯(よしたか)が房総半島全域に勢力を広げて、房総最大の戦国大名に成長した。

    その頃、里見氏は、最大の敵だった小田原北条氏と敵対していた。 里見家八代目当主・里見義頼の時、北条氏の勢力が上総にまで及び、家督を継いだ九代目当主・里見義康はその意思を継いで館山城を築き本城としていた。 天正十八年(1590年)の秀吉の小田原攻めの後、里見氏は安房の地を安堵される。
    江戸初期、父の死により忠義が家督を相続するが、内粉、内乱で治世は困難を極め、縁あった大久保忠隣(ただちか:相模・小田原城主、忠義は忠隣の娘を妻に娶っている)の失脚事件(大久保長安事件)にも連座したとされて改易されてしまう。 
    忠義は更に、嗣子が無いとされて大名家としての里見氏は滅亡するのである。

    失意のうちに死んだ里見忠義公に殉死した八人、彼らが、時代設定は異なるが、かの有名な「南総里見八犬伝」のモデルになった。
    現在、模擬の館山城が市街南方に立つ、その城下の「慈恩院」の境内に、九代里見義康公の墓、忠臣の墓・「八遺臣の墓」がある。


    市街地の目抜き通りにて、海産品のお土産を購入して、先へ急ぐ・・。
    富浦の街の東方に大房岬(たいぶさ みさき)が突き出ている。 千葉県はこの大房岬を自然公園の拠点とし、ビジターセンター、園地、キャンプ場、宿舎等、各施設を造った。雄大な海と奇怪な海蝕景観にも恵まれ展望台も点在している。

    またこの地は江戸末期、黒船来襲によって幕府は江戸の防衛のために、お台場として東京湾に面した台地に10基の大筒が備えられた。 しかし実際に使用された記録はないという。
     昭和初期、帝国陸軍が東京湾防衛のため大房岬を買収し、要塞化する工事に着手した。 艦砲(口径20cm)2門の砲塔が2基備えられ、1筒大隊の兵士が東京湾の防衛にあたったが、やはり実戦には参加する機会もなく、終戦を迎えたという。

    富山町は東京湾に面してはいるが、内陸奥山へ長広に延びている山岳の地域である。
    町のほぼ中央に安房の名山といわれる「とみやま三山」(富山、伊予ヶ岳、御殿山)がある。 ここは滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の舞台発祥の地とされている。


    次回は、内房・鋸山



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  • from: orimasaさん

    2008年06月22日 10時28分24秒

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    日本周遊紀行(123) 館山・・Ⅰ「房総・安房神社」

    房総一ノ宮・「安房神社」

    日本周遊紀行(123) 館山・・Ⅰ「房総・安房神社」

    「安房・房州」について・・。

    「房州」は、房総半島の海側の方から上総、下総と呼ばれている。

    古来、古代から中世の交通機関は船が中心だった。 
    その房州は、古くから関西との関係が強く、「勝浦」や「安房(阿波)」、「白浜」など、克っての故里(ふるさと)の地域の名を付けたところも多い。
    又、九十九里には、鰯・イワシを追って大阪や和歌山の人々が移住して来ている。
    銚子市の人口の何割りかは、醤油の製法などを伝えたとされる和歌山県人達の末裔で、今でも夏になると、先祖の墓参りに戻る人がいるという・・。


    安房一宮の安房神社は、四国・阿波から古代の「忌部族」(いんべぞく:大和朝廷成立に大きな役割を果たした阿波忌部氏:農耕、植栽の民)が渡来し創建したもので、四国の「阿波」と房総半島の「安房」が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。
    忌部氏は更に、当地に「麻」(あさ)を植えたところ良く育ったことから、「総」(麻の糸を束ねること、ふさ)の名が付けられ、上総、下総の名が生まれたとも言われている・・。

    現在、西東京の一帯を「武蔵野」と呼ぶが、一昔、東京地方は「武蔵」といったのは周知である。
    「武蔵(むさし)」の地名は、かつて南関東一帯が「総(ふさ)」という国名だったことに由来しているという。 現在でも千葉のことを房総、下総と称しているのは前述のとおりであるが、その名が残る「総の国」は、特に現在の東京一帯を「総下(ふさしも)」とも呼ばれていたそうで、その「総下」が年月と共に「ふさしも→ふさし→むさし」に変化したという一説もあるという。
    その阿波忌部氏といわれる一族が、黒潮ルートに乗って房総半島に渡来し、房総から関東一円を開拓したとされてる・・・。  


    <font size="2" color="#0000FF">話は、四国・阿波に飛ぶ・・・、

    阿波の国には、日本の国が拓かれる当初からの「古社」である「忌部神社」(徳島市内、忌部族すなわち徳島県民の祖神を祭り古来阿波の国の総鎮守の神社)と「大麻比古神社」((おおあさひこじんじゃ:徳島県鳴門市・阿波国一宮)が鎮座している、共に古代の忌部氏に縁り(ゆかり)の神社である。
    神社古書には、「当社は麻植神と称し、あるいは天日鷲神(あめのひわしのかみ:阿波忌部氏の祖)と号す」と注記してある。 忌部というのは、「斎部」ともいわれ、大和朝廷で中臣(なかとみ:藤原氏)氏と並んで祭祀をつかさどった一族であり、平安初期に忌部を斎部とも改称してい。、つまり、斎部(いみべ、いんべ)は神祇祭祀に携わる部民のことで、それを統率したのが忌部氏であった。

    平安初期の文献に「古語拾遺」(こごしゅうい)というのがある。 
    官僚・斎部広成が807年に編纂したもので、忌部氏が伝承する記紀(古事記、日本書紀)神話と祭祀の問題点を示した文書である。 
    内容は、天地開闢(てんちかいびゃく:記紀内容)から奈良期・天平年間(729年〜749年)までが記されていて、古事記や日本書紀などの史書には見られない斎部氏(忌部氏)に伝わる伝承も取り入れられているという。
    元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族であったが、「大化の改新」以降、同様に祭祀を司っていたのは中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)であり、政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。 
    この書は斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであるともいわれるが・・。
    以降、斎部氏は伊勢神宮の奉幣使の役職を司っている。 奉幣使(ほうへうし)とは、勅命、つまり天皇からの進物または礼物を山陵・神宮・神社に奉献する使者のこと・・。


    忌部氏の祖は、天岩戸で活躍した天太玉命(あまのふとだまのみこと)であるとされる・・。 今日の神道で行われるさまざまな神事を統括し、そこで使われる一切の神祭用具を管理する神、というのが天太玉命(神)の本来の役割であるという。
    記紀(古事記、日本書紀)では、天岩戸に隠れてしまった天照大神(アマテラス)を誘い出すため、天太玉神は、洞窟の前で卜占(ぼくせん、占いのこと)をし、太玉串を作って捧げ持ち、祝詞(のりと)を奉じて、大神の出現を祈ったとされる。 
    玉串とは、榊の枝に紙垂をつけた神に捧げる供物のひとつで、太玉串は「立派な玉串」といった意味であり、古代には紙でなく「布」を使っていたらしい。

    この天太玉命には五つ神が従っていたとされ、そのうちの一神が天日鷲命((あめのひわしのみこと・天太玉命の弟ともされ、阿波国を開拓した)であり、その子孫が阿波忌部氏であるという。 
    氏は、「布」の元となる穀や木綿・麻布などを植えて作り、朝廷に貢上して祭事に供された。 阿波の国のことを「麻植郡」とも称していて、現今でも、徳島県の地域には「麻植郡」の名が残る。

    阿波忌部氏の一派は後に東国に渡り、麻や穀などを植え、当地に「安房社」を建てた。 
    その地は、やがて安房郡となり、のちに安房国となったと伝えられる。
    因みに、戦国の覇者・織田信長は、古代忌部氏の子孫であるともいう・・、祖先は、福井県丹生郡越前町織田にあって劔神社の神官である関係から、越前忌部(斎部、)氏の支流であり古代豪族の忌部氏で、後に平氏を称したとされる。


    その安房神社は、房総地方の総鎮守であり、安房国一宮となっている。
    「安房神社」は、阿波の国から阿波忌部氏の一部を率いて房総半島に渡り上陸した際、そこを安房の郡(こうり)と名附けて天太玉命を祀る「社」を創建したとされている。
    朝廷・武門から篤い崇敬を受け、特に領主の里見氏は社領の寄進や社殿の修造を行い、そのときの寄進状も残っている。 祭神は、天太玉命を主神とする。 
    安房国は忌部氏が開拓した土地であり、天太玉命はその祖神である。相殿に、天日鷲命など忌部五神が祀られている。
    古代、安房の国(阿波の国でもある)の建国当時の神々が祀られているわけである・・。

    安房神社は、国道410号が洲崎方面に分岐する相浜地区の山中、その名も館山市大神宮という町名をも戴いている。 
    JR内房線では、館山駅から南へ約10kmの吾谷山の麓に安房神社が鎮座している。 鬱蒼とした大樹に囲まれ、堂々とした拝殿と檜皮葺の本殿が立ち、森閑としている。
    この地域は、房総先端部に当たり、黒潮の潮流に乗った古代海人族が上陸した地点としては最適の位置であろう・・。 
    関東進出の第一歩となった阿波忌部の記念すべき上陸地「館山」と「阿波・徳島」とは、現在でも交流が続いているという・・。


    次回は、 館山・・Ⅱ


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  • from: orimasaさん

    2008年06月18日 08時37分31秒

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    日本周遊紀行(122) 南房総・・Ⅱ「白浜と八犬伝」

    そして、南房・「白浜町」へ入った。
    町役場の北方に房総・里見氏の菩提寺である「杖珠院」(じょうじゅいん).が在る。
    里見氏といえば、滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルになった戦国武将として有名であり、初代里見義実はこの杖珠院の墓に眠ってる。 
    室町中期、白浜・野島崎に上陸した義実は、白浜に居城をかまえて、戦乱の房総を平定し、当時の城跡も残っているという。
    室町前期(足利時代:1338〜1573)、関東地区では鎌倉公方(幕府より派遣されてる出先機関、関東公方ともいう)足利持氏が治めていて、その関東管領(公方を補佐する役職名)に上杉憲実がいた・・。 
    安房国は上杉派が支配していたが、この時反乱が起きる・・、「享徳の乱」といって足利持氏が側近の里見氏に上杉派掃討を指示し、白浜周辺の上杉派を駆逐したとされる。 これを期に、里見義実は白浜城・稲村城を拠点に、安房国の勢力を指揮下においた。 里見氏は初代の安房の国の統治者になった。

    「南総里見八犬伝」は、安房の国の城主・里見義実の娘「伏姫」と飼犬「八房」との間の物語である。
    不思議な力で八つの徳すなわち「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が生れる、やがてそれぞれの玉を持って生まれた八犬士たちが成長し、苦難に出会いながらも因縁の糸で結ばれるという・・、江戸時代、戯作者滝沢馬琴によって書かれた大長編小説である。

    <font size="2" color="#0000FF">「南総里見八犬伝」
      滝沢馬琴作

    『舞台は今の千葉県の南端安房国(白浜町)である。 時代は、室町時代の中頃、安房国領主・里見義実の娘・伏姫は、かつて義実によって処刑された悪女・玉梓(たまづさ)の呪いによって、飼い犬の八房(やつふさ)と夫婦になり山(富山町)の中で暮らすことになる。
    ある日、伏姫は「八房の子が出来ている」と告げられ、「身に覚えがないのに犬畜生の子を孕む(はらむ)なんて」と思詰めて自害してしまう。 だが、形のある子が出来たのではなく「気」だけの子が出来ていたのだ。 
    その時、伏姫が持っていた数珠の「仁・義・礼・智・忠・信・考・悌」の文字が浮き出て、八つの大玉が「気」とともに空高く飛び上がり、散り散りになり遠く飛び去っていった。 伏姫の婚約者であった金碗大輔(かなまり だいすけ)は、これら飛び去った八つの玉を探す旅に出る。 
    やがて関八州(関東)各地に、犬で始まる名を持ち、体に牡丹の痣(あざ)があり(犬の八房には八つの牡丹の痣があった)、文字の浮きでる玉を持つ若者が生まれる。 「気」だけで生まれた八人の子が「形」を成したのである。 これが八犬士であり、長い物語が始まるのである・・。
    八犬士は、別々の場所に生まれながら宿縁に導かれて集まり、やがて里見家に仕えるようになる。 しかし、里見家は関東管領・扇谷定正等の諸将連合軍に攻められ、水陸両面で苦戦しながら戦うが、八犬士の活躍等により圧勝する。 
    その後、八犬士はそれぞれ城主となってゆくが・・』


    登場する「八犬士」
    犬江 親兵衛 仁(いぬえ しんべえ まさし)     仁の玉を持つ
    犬川 荘助 義任(いぬかわ そうすけ よしとう)   義の玉を持つ
    犬村 大角 礼儀(いぬむら だいかく まさのり)   礼の玉を持つ
    犬阪 毛野 胤智(いぬざか けの たねとも)     智の玉を持つ
    犬山 道節 忠与(いぬやま どうせつ ただとも)   忠の玉を持つ
    犬飼 現八 信道(いぬかい げんぱち のぶみち)   信の玉を持つ
    犬塚 信乃 戍孝(いぬづか しの もりたか)     孝の玉を持つ
    犬田 小文吾 悌順(いぬた こぶんご やすより)   悌の玉を持つ


    次回は、 灯台と野島崎

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  • from: orimasaさん

    2008年06月17日 09時05分39秒

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    日本周遊紀行(122) 「南房総」

    《和田》

    国道128号は別名「外房黒潮ライン」という、その名の通り見通しの良い、白い砂浜と青い松の海岸線が美的に続く。
    しばらく行くと和田港が見渡せる。 
    和田町はなんと全国で4ヶ所しかない捕鯨基地の1つ、無論、関東圏では唯一である。(他には網走:北海道、太地:和歌山、牡鹿町鮎川:宮城県の三ヶ所)、首都圏に近い和田町の捕鯨は貴重であった。

    鯨肉は、昔はいつでも何処でも食卓を賑わしていたが・・、今では一部の店にのみ残して、どこにでも見かけるというものではなくなった。 食品としての鯨は、どうしてこんなにも稀少になってしまったのだろうか・・?。
    それは南極海などでの捕鯨が、「科学調査用」のわずかな頭数を除き、禁じられてしまったからである、(商業捕鯨の禁止) なぜ商業捕鯨は禁止されたのか・・?。

    捕鯨に関する事柄を取り決めるIWC(国際捕鯨委員会)やグリンピース(国際環境保護団体)が、「鯨は哺乳類である・・」とか「頭のいい海の生物」との理由、つまり科学的根拠、事実に基づかずに商業捕鯨を禁止してしまったからであり、その中心がアメリカやイギリスだという・・。
    現在、南氷洋のミンククジラや他種のクジラはかなりの数で増えつつあるという・・、そんな中、日本(日本捕鯨委員会JWC)はこの商業捕鯨の再開を求めているが・・。
    現在でも和田港に水揚げされてるのは、ツチクジラのほかに南氷洋のミンククジラ等であるが、調査用捕鯨のみなのである。 和田町には、今も鯨専門店、缶詰、冷凍肉、鯨骨のアクセサリーなど販売している店が数件あるという・・。

    この和田町は、2006年3月20日にて富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、の周辺町村が合併し、館山市を取り囲むようにして、新しく「南房総市」が誕生するようである・・。


    <font size="2" color="#0000FF">《千倉》


    国道128からいつの間にか、国道410になり「千倉」の町に来ていた。
    白浜方面を海岸に沿って向かおうとしていたためか、実際は国道とは別の海岸沿いの旧道を走っているようだ。 「房総フラワーライン」という立派な名前も付いていて旧道とはいえ、なかなかいい道である。
    途中海沿いに「道の駅・潮風王国」というのがあり、周辺は千倉名物のお花畑が広がっている。
    駅は、赤い大きな建物で、お馴染みの海産物やレストランが集まっているが、変り種は大きな建物の中央部に生け簀があり、やがて人間に食べられる運命であろうが、今は悠々と近海の魚君が泳ぎ回っている。この手の施設の中では、個性があっておもしろい。 周辺もけっこう広い広場になっていて、海に面し、磯にも降りていけるようだ。

    長い海岸線が続く太平洋に面し、極めて温暖な千倉地区は「花の街」としても知られ、首都圏から花畑の鑑賞に訪れる人も多い。 時節は秋口なので菊科の花が多いようであるが、他にも色鮮やかな色彩の花々が咲競っている。 
    花畑の起こったきっかけは、農家の稲の裏作として始まったらしいが・・、花畑を区画に分けて栽培し、露地花をオーナー制度としても紹介しているともいう。
    民宿の多い千倉では「花の宿」として、花を使った料理なども提供し、各宿屋民宿は、至る所に花が添えられているという。この花ずくしや花料理のもてなしが評価され、2006年度「花の観光地づくり大賞」を受賞しているという。


    そして、花料理を生んだ千倉の町に、日本で唯一の料理の祖神を祀る神社がある。 千倉漁港の西、山域部に高家(たかべ)神社が鎮座している。


    「千倉」に鎮座する高家(たかべ)神社

    1200年以上の歴史を誇り、「日本書記」によれば、「第12代景行天皇が安房の浮島に行幸のおり、磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)が鰹と白蛤を調理したところ、天皇は大層喜ばれ、以後、磐鹿六雁命は膳大伴部に任ぜられ、宮中の料理番として迎え入れられた」と記されている。
    高家神社の祖神は、この磐鹿六雁命で、日本で唯一料理の神様をまつる神社である。 
    古くから味噌、醤油の神様としても全国にその名を知られ、調理師、調味加工業者の信仰を集めてきた。又、結婚を控えた女性、新妻なども料理の上達を祈って、数多く参拝するという。 三十段ほどの石段を昇り振り返ると、千倉の街並みの向こうに雄大な太平洋が広がっている。

    平安時代から伝わると言われる「庖丁式」は、庖丁と箸を用い手をふれずに鯛・鯉・鰹等をさばく古式ゆかしい儀式で、時折TVなどでも放映されお馴染みである。 
    この、庖丁式は烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)をまとった料理人が古式に則った所作で、一切料理に手をふれることなく包丁と箸を使い鯉や真鯛、マナガツオ等を調理する儀式である。 この日本唯一の料理の神様の地で、地元の「花・魚料理」の料理の達人が腕を競うことになる・・。

    次回は、 「房総白浜」

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    2008年06月16日 09時40分18秒

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    日本周遊紀行(121) 「合併の町、勝浦、小湊」


    《合併の町》
    九十九里浜の中心より北部に位置する町村域は「平成の大合併」で、大幅に変化しているようである。
    北から先ず、「旭市」は2005年7月1日 ? 、現旭市と干潟町、海上町・飯岡町が対等合併し、新しい「旭市」となっている。「旭」という呼称は一説には「旭将軍」と呼ばれた木曽義仲の末裔である木曽義昌がこの地で死去したのを惜しんで命名されたともいわれている。 木曽義昌は、戦国期の信濃国の武将で、木曽谷の領主・木曽氏の第18代当主。 1590年、徳川氏の関東移封に伴って子義利に下総国阿知戸(現在の旭市網戸)の1万石が与えられている。

    2006年(平成18年)1月23日 、八日市場市、野栄町が合併し「匝瑳市」が発足する。 「匝瑳」とは、難解である・・、「そうさ」と発する。 匝瑳を”そうさ”と読める人は千葉県民にも少ないといわれ、日本全国でも屈指の難読市名である。クイズ番組にでてきそうであるが・・。

    次に、2006年3月27日に光町、横芝町とが合併して新たく「横芝光町」が誕生する。 
    この地は、江戸期幕末に商人・測量家である「伊能忠敬」(幼名・小関三治郎)を輩出していることは先に述べた。

    蓮沼村、成東町、松尾町、山武町の4町村が、2006年3月27日に合併し「山武市」が誕生する。 山武は、“やまたけ”ではなく、“さんぶ“でもなく、「さんむ」と称する。 当初は、合併後の新市名を稀有壮大な「太平洋市」にする予定だったが、一自治体に太平洋を名乗るべきではないと言う趣旨の抗議が相次いだ為、住民アンケートを行って現在の市名に変更されたという。

    そして、九十九里と南房の境に「いすみ市」(いすみし)が、2005年12月5日に誕生している。 岬町、大原町、夷隅町の対等合併で、夷隅郡(いすみぐん)から市名を付けた・・。


    <font size="2" color="#0000FF">《勝浦、小湊》

    <font size="2" color="#0000FF">国道128は、勝浦の岬の付根を上り下りしながら、勝浦の市街地へ来た。 勝浦湾を正面に町は広がっていて、なかなか雰囲気がある・・。
    目抜き通りに”朝市通り”というのが在る。

    天正年間から400年以上も続いている勝浦の顔「朝市』」は、ここで今も毎日開催されている。 四季を通じて、近郷近在の採れたての野菜や果物などの山の幸や、その日の朝漁港で水揚げされたばかりの魚介類などの海の幸のほか、自家製の漬け物・つきたての餅・赤飯・しおから、から干物などの加工品などと、細工などの工芸品も店先に並べられている。
     歴史と文化を感じる勝浦の朝市は、石川県の輪島・岐阜県の高山と並ぶ「日本三大朝市」の一つと言われている。 朝市通りは下町通り、仲町通りと2箇所あって、其々月の半数ずつ交代で行っているらしい・・。

    「勝浦」は古くから漁業がさかんで、中でも勝浦漁港は国内有数の「カツオ」の水揚げ港である。 カツオの水揚げは1990年から日本一を記録している。
    因みに、同地名の紀州・和歌山の那智勝浦町は生マグロの町と言われ、「生鮮マグロ」の水揚高日本一を誇る。 面白いのは、この地「勝浦」の地名は、紀州・勝浦の漁業流民が当地に土着するようになって名付けられたという・・、詳しくは後ほど・・。

    行川アイランドを左に見ながら、丘陵地というより山間地と云ったほうがいい・・、幾つかのトンネルを抜けると、小湊の港へ出た。
    気持ちのいい、静かな港・「鯛の浦」である。 
    字の如く、本来深海を単独で回遊する魚なのに、水深10〜20mを鯛が群れをなして泳いてる。 学術的にも解明されていないという、不思議な魚で一帯は天然記念物に指定されている。 日蓮が誕生した際、無数の鯛の群れがここに集まってきたとされ、この現象が奇跡とされ聖人の化身ともされている・・。 現在も鯛の浦の鯛は、餌を与えて手厚く保護しており、捕獲したり食したりはしないという。
    このすぐ前に「誕生寺」が在る、日蓮は1222年(鎌倉初期)、ここ小湊のこの地に誕生した。 その後、直弟子 (1276)によって、生家跡地に建立したのが高光山日蓮誕生寺である。

    日蓮は、この地の奥山「清澄寺」に12歳で「僧」になるため入山し勉学に励んだ、また鎌倉、比叡山などに遊学し、その後得度して布教活動を始め、日蓮宗、日蓮正宗、法華宗などを広め開祖となる・・。 他宗派(念仏宗)を批判しながら、著書「立正安国論」を表し、時の執権、最高実力者の北条時頼に送るが、逆に批判、法難をあびて伊豆に流されたこともある。 日蓮に縁のある寺院に身延山・久遠寺があり、東京池上本門寺にて逝去している。

    日蓮宗派のお題目は「南無妙法蓮華経」である。 
    「南無」とは「〜を信じる」、「妙法蓮華経」つまり「法華経」を信じよう・・という事。 このお経の特徴は、全ての生きとし生ける者は皆成仏できると説いている点で、わざわざ西方極楽浄土に行かなくても、この娑婆世界で十分成仏できると説いている。 本来は法華経を読めばよいが、できない場合は、「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで同じ功徳が得られるともいうこと。

    清澄山の山頂近くに「清澄寺」がある、創建1200年を誇る、格式ある古刹であり、日蓮は12歳でこの山に入り教学し、得度している(高名な僧になっている)。
    清澄寺は、比叡山延暦寺の流派である天台宗であったが、後に真言宗に変じ、大正期に日蓮聖人の銅像が完成してから信者が増え、昭和24年にこのお寺は日蓮宗に改宗、大本山として現在に至っている。
    清澄山は標高377m、房総半島で2番目に高い山で、麻綿原高原へ続く尾根の道は、四季を通じてハイキングの名所である。 原種ツツジに興味のある小生、「キヨスミツツジ」の名所でもある・・。

    海岸沿いに旅館やホテルが並ぶ鴨川のメインロードの中心に、御存知「鴨川シーワールド」が在った。さらに海岸に沿って鴨川漁港の南に明媚な島々が広がっている、「鴨川松島」というらしい。 外房随一の名勝といわれ、水平線から昇る朝日をバックにした景色は素晴らしいといい、「新日本百景」の1つにも選ばれている。
    その島群の一角、大海海水浴場の南に、「仁右衛門」という島がある。 島名は、島主の平野仁右衛門一族が一戸だけ住んでいることに由来するという。 居宅は、300年の歴史を刻んだ木造の立派な建物があり、今でも住んでおられるという。

    1180年 静岡県伊豆の韮山に流刑されていた「源頼朝」が挙兵する。
    頼朝軍と,大庭景親のひきいる平氏軍が、相模国(神奈川県)の石橋山で戦い、平氏軍は3000人あまり、頼朝の兵はわずか300人足らずで敗れる。 頼朝は海を渡り、安房(千葉県)へと逃げた。この時、追っ手をさけて身を潜めたと伝えられるのがこの島であり、今でも洞窟が残っているという。
    その後、頼朝は地元の千葉介等、諸侯の協力を得て鎌倉へ戻り、平家清盛一門打倒への準備が整っていくのである・・。

    天津小湊町と鴨川市は、平成17年2月に新「鴨川市」として合併誕生する。

    次回は、 南房総

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