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  • from: orimasaさん

    2008年07月31日 10時34分23秒

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    日本周遊紀行(130) 「川〓(Ⅱ)」、 六郷と堀の内・・、

    日本周遊紀行(130) 「川〓(Ⅱ)」、 六郷と堀の内・・、

    <font size="2" color="#0000FF">江戸時代、東海道を行く者にとって、多摩川の「六郷の渡し」は江戸に入る大切な要であり、常時十数隻程度の舟で旅人や荷馬を渡した。 
    明治元年(1868)、明治天皇の渡御の際には、23隻の舟を横に並べ、船橋を作って渡ったという。 欄干には渡船のモニュメントがあり、当時の多摩川の姿を伝えている。
    川〓の宿場は、六郷の渡しを渡りきると、現在の堀の内町から駅前の砂子、南町地区辺りが旧東海道の道筋である。 

    川崎・堀の内というのは、平安末期に河崎基家がここに居館を構えたのが起源といわれる。
    河崎基家は坂東平氏の秩父氏の末流といわれ、基家がここに知行を受けて、その地名を名乗ったようで、その館は、現在の堀之内の稲毛神社付近と伝わり、神社の案内板にもそういった由来が書かれている。
    多摩川がこの地域のすぐ南側を流れ、「堀の内」はその渡河地点を押さえる重要な立地だったという。


    一般の宿場町も、概ねそうであるが・・、
    江戸期の川崎宿駅は、一般通行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、飯盛り女の手引きで客を引きながら宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげていた。 
    飯盛り女とは、宿駅の宿屋で旅人の給仕をし、売春も兼ねた女のことである。
    ところで現在の堀の内地区は、昔の面影というには気が引けるが、男相手の客商売、所謂風俗営業の店が軒を並べ、関東屈指の風俗街と成り果てて、繁盛しているようである。

    余計で私事ながら、この「堀の内」には思い出がある、実は小生が「男」になった所なのである。
    未だ20歳そこそこの頃、田舎の会社、工場勤務より東京大手町の本社へ出向転勤になり、この会社の社員寮のある大田区・六郷土手に居を移した。 
    六郷土手は、京浜急行の「六郷土手」の駅があり、東京よりの多摩川堤のすぐ近くにあり、僅かなところに第一京浜国道(旧東海道)の六郷橋が架かる。
    或る日、先輩に連れられて、六郷の橋を渡り、川〓の堀の内で遊び、男として初めて「筆おろし」をしたのであった。 

    堀の内は、昭和中期頃までは、公の遊郭街として有名であり、近郊の男供を相手に正々堂々と商売し繁盛していたという。 ところが、売春防止法(昭和31年)が発布されて公には出来なくなり、飲食店という形式で内々に行っていたようである。
    小生が始めて訪れた時も、カウンターで飲食をしながら、徐に(おもむろに)意志を確認しながら商談・・?をまとめ、何がしかの金銭を別に払って、二階の特別室で用を済ませたものであった。
    その後も給料日の後などは、下駄履きでカランコロンと六郷の橋を渡り、お馴染みの所で、たまにはお馴染みさんと「筆ならし」を行ったもんである・・。


    次回は、 「横浜」


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  • from: orimasaさん

    2008年07月30日 08時49分05秒

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    日本周遊紀行(130) 「川〓(Ⅰ)」、川崎の街道・・、


    アクアラインの海底トンネルを抜けると、川崎市の浮島JCTに到る。 すぐ北側には東京都・神奈川県境である多摩川が流れ、河口の都側には羽田空港が隣接している。

    「川崎市」、この多摩川より南の沿岸地帯は、かの有名な京浜工業地帯、或いは臨海工業地帯などと言われる、石油コンビナート、重化学工業などの大規模な重工業地帯となっていて、昭和30年代の高度経済成長と合わせて大いに発展した。
    しかし、この時期、「川崎公害」という、高濃度の大気汚染や環境基準を上回る二酸化窒素(NO2)などによる大気汚染が、長期にわたり沿道の生活に大きな影響を及ぼしたとして、公害訴訟なども起きている。

    一般に川崎というと、このような産業、工場地帯をイメージを抱かせるが・・、大部分の地域は実は緑の多い丘陵地、田園地帯も結構大きく、広いのである。 
    川崎市域は多摩川を南に、横浜市の北側、西部多摩地域の山域まで、東西に細長く広がる緑多き地域なのである。
    今、この川崎は臨海工業地帯、川崎駅周辺は再開発で大きく変貌しようとしているらしい・・。


    江戸時代になり、事実上の首都が江戸に移ると、川崎は京や甲州と江戸を結ぶ交通の要衝となった。
    西から津久井街道、大山街道、中原街道、東海道、これらの道路を横断して結ぶ府中街道などである。

    「津久井街道」は川崎西端部から津久井、甲州を結ぶ。
    「大山街道」は、多摩川を渡り、二子(ふたご)、溝口(みぞのくち)を経て多摩丘陵、厚木(あつぎ)、大山(おおやま)のふもとの伊勢原(いせはら)、足柄峠を越える。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として「厚木街道」とも「矢倉沢往還」とも呼ばれて、古くから大山詣りの道として知られ、、現在の国道246号となっている。 
    「中原街道」は、小杉から東海道の平塚宿場へ到る、平塚に中原という所があり、ここからほぼ真っ直ぐに江戸へ延びているのが中原街道である。
    「中原街道」、その他の街道については、小生ブログ・「湘南地方の歴史と観光」、平塚の項で記載しておりますので、ご覧下さい・・。
    URL: http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2007/1307412.html 


    <font size="2" color="#0000FF"> さて、御存じ東海道であるが・・、

    古来より五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ日本の中で最も重要な街道となった。 
    日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は53箇所(東海道五十三次)で、当初は、主に軍用道路として整備されたらしい。 
    宿駅は53箇所のうち、江戸より2番目が「川〓宿」である。(1番目は品川宿) 
    東海道を上る旅人が昼食や休息をとる場として、また、江戸より下る旅人にとっては六郷の渡しを控えた最初めの宿泊地としてにぎわった宿場町である。

    川〓宿より、自然に拓かれたのが「大師道」で、厄除けで知られる川崎大師に至る道である。 古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は、徳川11代将軍家斉が江戸後期に公式参拝してから、一層広く信仰されるようになったという。


    次回は、川〓(2)、「六郷と堀の内・・、


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  • from: orimasaさん

    2008年07月29日 07時26分27秒

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    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城界隈(6)

    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城界隈(6)


    明治維新を期に、皇室が京都御所から江戸城に転居し、以後は江戸城中心部の西側が皇居となっている。  
    通常は皇居部分(西の丸と吹上御所)には入れないが、その東側にある本丸・二の丸と三の丸の一部は皇居東御苑として開放されている。 
    南側の皇居外苑と北側の北の丸公園(日本武道館)は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
     
    <font size="2" color="#0000FF">紀尾井町・・、

    この江戸城・赤坂見附の北側に「紀尾井町」という、何やら意味深の地名がある。
    現在、東京、日本国の中枢でもある官庁街、議事堂などの近くで、ホテル・ニューオータニ、赤坂プリンスなど日本を代表するホテル群が建ち並ぶこの一帯は、130年前の江戸時代には徳川御三家の「紀州家」、「尾張家」そして、幕末の大老家である「井伊家」の屋敷が占めていた。 その頭文字を一字づつ取って「紀尾井町」とした。 
    「江戸名所図会」には、尾張家屋敷(現、上智大付近)と井伊家屋敷(現ニューオータニ)の間の道に「紀尾井坂」という文字も見えるという。

    そして現、内堀内の北側、北の丸公園の田安門(田安家:一ツ橋家、清水家と共に徳川御三卿のひとつで、実際の領地は持っていないが徳川家の一門として御三家に次ぐ十万石の格式を与えられ、江戸城北の丸・田安門近くに大きな屋敷を構えていた。)あたりは、かっては急坂のあった丘陵地であり、「九段坂上」とも称していた。 
    幕府がこの坂道に九段の石段を作り、九段屋敷と言う御用屋敷を造ったためこの名が付いたともいわれる。

    江戸古書には「町屋に並んでいる賑やかな中坂に比べて、九段坂は崖っぷちの細い坂道だった」と書かれていて、坂の上には当時は幕府の御用地も在り,火除けの為の地だったのではないかともいわれている。
    この坂は今よりずっと急な坂で、大八車などは容易に上ることが出来ず、車の後押しを専門とし生業にする押屋という者もいて、一回の押賃は一銭だったともいう。 
    坂の上からは神田、日本橋、浅草、本所はもちろん、安房、上総の連山まで眺められ、そして月の名所としても有名であったといわれる。


    靖国神社・・、
    この坂上に「靖国神社」が出来たのは、明治2年(1869)に明治天皇の勅願、思し召しと大村益次郎の献策によりによって建てられたという。
    当初は戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建され、初め、「東京招魂社」と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。
    過去には嘉永6年(1853)、アメリカの提督ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。

    因みに、幕末の志士・吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎などそうそうたるメンバーも「維新殉難者」として合祀されている。
    九段坂の広大な参道の右には靖国神社の大鳥居、そして大村益次郎の像が立っている。


    昨今、神社の存在意義、神霊の分社・分祀、要人の参拝の可否などが内外で問題視されているよで、それらの事に関してここでは敢えて申さぬが・・、問題になり、拗れ(きじれる)そうになった場合は創建当時の原点に戻る事も必要であろう・・。

    靖国神社御祭神戦役・事変別柱数
    (平成16年現在)

    事変内容  柱数    事変内容  柱数
    明治維新 7,751     西南戦争  6,971
    日清戦争 13,619     台湾征討  1,130
    北清事変 1,256     日露戦争  88,429
    第一次世界大戦  4,850    済南事変 185
    満洲事変 17,176     支那事変  191,250
    大東亜戦争  2,133,915
          合計  2,466,532


    「九 段 の 母」 詩 石松秋二  曲 能代八郎   唄 田端義夫(昭和9年)

    上野駅から 九段まで      空をつくよな 大鳥居
    かってしらない じれったさ   こんな立派な おやしろに
    杖をたよりに 一日がかり    神とまつられ もったいなさよ
    せがれきたぞや 会いにきた   母は泣けます うれしさに

    両手あわせて ひざまづき     鳶が鷹の子 うんだよで
    おがむはずみの お念仏      いまじゃ果報が 身にあまる
    はっと気づいて うろたえました  金鵄勲章が みせたいばかり
    せがれゆるせよ 田舎もの     逢いに来たぞや 九段坂 


    東京は近年、二つの大惨禍を経験している・・
    「関東大震災」・大正12年(1923年)9月1日、関東地方南部を襲った大地震により、死者・行方不明14万2800名、全壊建物12万8000棟、全焼建物44万7000棟という未曾有の大災害である。被害総額は当時の国家予算の1年4カ月分に達するといわれる・・。

    その22年後の太平洋戦争時の「東京大空襲」、昭和20年(1945)3月10日アメリカ軍は東京に無差別大空襲を行った。2時間半の攻撃で消失家屋27万戸、死者8万3793人(警視庁調べ・「東京空襲を記録する会」発表では10万人)の大惨事であった。 

    現在は、東京の新しい顔として、お台場エリア、六本木ヒルズ、汐留シオサイト、新装丸ビル、アークヒルズ(赤坂・六本木・霞ヶ関)、品川インターシティ等、複合都市施設も続々誕生している・・。       


    次回は、 「川崎」

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  • from: orimasaさん

    2008年07月28日 09時15分57秒

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    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城物語(5)「勝と西郷」



    東京都・墨田区役所に立つ「海舟像」と上野公園の「西郷像」

    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城物語(5)「勝と西郷」

    「江戸城」は江戸時代末期の維新時、徳川幕府消滅後に明治政府(官軍)に明け渡されることになった。 

    官軍・西郷隆盛と幕府軍・勝海舟の最終談判によるものだった。


    幕末当時の勝海舟(麟太郎)は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開いていた無役の御家人だった。
    ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを進言し、蛮書調所(ばんしょしらべしょ:1856年:安政3年、江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関、洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当る。後に開成学校と改称、更に東京大学になる)の翻訳担当者に任命される。
    やがて、長崎海軍伝習所で3年間軍艦の技術的な事を学び、この時、薩摩藩士達とも付き合いができている。 この付き合いが後に、西郷隆盛との関係などに役立ったとされる。

    江戸城総攻撃の目前の3月13日、14日に「勝」と「西郷隆盛」の会談が行われた。
    この時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ「軍事取扱い」に任じられている。 

    相対する西郷は、東征軍の実質的な指揮者・大総督府参謀であった。
    勝は、<font size="2" color="#0000FF">「戦役で江戸の一般市民を殺してはならない。将軍も私心は持っていないから公明寛大なご処置を。」
    と言えば・・、 「一存では決めかねるが、ひとまず総攻撃は延期しよう。」と西郷が答える。

    こうして、「江戸城無血開城」が決まった・・、慶応4年(1868年)のことであった。
    勝の回想録として「氷川清話」や「海舟座談」がある。 
    これは海舟の談話を記者が速記したもの(海舟の細かいしゃべり方の特徴まで)であり、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来るとされている。 

    その「氷川清話」の中で、海舟は西郷隆盛を語っている。
    『おれはこれほどの古物だけれども、しかし今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。どうしても西郷は大きい。妙なところで隠れたりなどして、いっこうその奥行がしれない。厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。
    西郷はどうも人にわからないところがあったよ。大きな人間ほどそんなもので・・・・・・小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。
    西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。・・・・・・あの時の談判は実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる、板橋からは伊地知(正治)などがくる。また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。 
    さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。
    「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」
    西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。
    このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ、その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。
    西郷におよぶことのできないのは、その大胆識(見識と勇気)と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。このときに際して小籌浅略(細かな浅いはかりごと)を事とするのは、かえってこの人のためにはらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ・・ 』


    その西郷の銅像が、上野公園の正面に普段着で立っているのは周知である・・。
    歴史に残る江戸城の無血開城が決められ、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われたのは、江戸城内ではなく薩摩屋敷である。 現在の東京都港区芝で、JR山手線の田町駅前あたりに会談跡の碑がある。

    明治元年3月13日、高輪の薩摩屋敷で先ず予備会談が行われ、次の14日にここにあった薩摩の蔵屋敷で江戸城の開城が決定されたようである。

    その後、明治4年〜6年の間、実質、「西郷内閣」の時、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等、採用され、維新としての近代日本の礎を作った。

    西郷は、その後「西南の役」で悲劇の人生を終えるが、明治22年明治天皇より正三位を追贈され、西郷の偉大な功績を偲ぶために上野の山に銅像を建立し後の世に残した。 
    明治31年、完成時の除幕式には時の総理大臣・山県有朋や勝海舟、大山巌、東郷元帥等や800名が参加して盛大に行われたという。

    一方、風光を愛し洗足池公園(大田区千束:洗足池は湧き水を水源とする池で、日蓮上人が旅の途中にここで手足を洗った伝承から洗足池に転じたと言われる)に別邸を持っていた勝海舟は、妻とともにこの地に眠っている。 
    隣には西郷南州(隆盛)の留魂祠も建立されている。 
    勝の、西郷への思い感じさせるのである。


    尚、「西郷隆盛」に関しては周遊歴史紀行の中の「鹿児島」の項に詳細記載有り・・。
    URL  http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-18.htm 


    次回は、江戸城物語・・Ⅵに続く・・。

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  • from: orimasaさん

    2008年07月26日 08時43分53秒

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    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城物語(4)「振袖火事」


    最短寿命の「江戸城」
    さて、この江戸城郭の大天守であるが・・、完成からわずか19年後の明暦3年(1657)1月の、いわゆる「振袖火事」(明暦の大火)で焼失してしまう。 
    天守再建の声も多かったが、保科正之(徳川秀忠の庶子)が異議を唱え、四代将軍徳川家綱もこの意見を受け入れたため、天守はついに再建されなかったという。

    つまり、世界に誇る江戸城・大天守閣は、僅か19年という最短の寿命を記録してしまったのである。

    現在、NPO法人によって「江戸城天守閣再建活動」がなされているようであるが・・さて・・?。


    因みに、振袖火事とは、明暦の大火のことで、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から2日間にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災である。 
    この火災による被害は、延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火災の筆頭としても挙げられる。 
    外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、諸説まちまちではあるが、死者は3万から10万人と記録されている。

    江戸城天守はこれ以後、再建されなかったという。 
    火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものであり、世界三大大火の一つに数えられることもあるとされる。

    明暦の大火を契機に江戸市中の都市改造が行われることになる。

    火災防備上、千住大橋のみしかなかった隅田川へ、両国橋や永代橋などを架橋し、市街地の造成が行われたとする。  

    又、延焼を遮断する防火線として造成した広小路は、現在でも上野広小路などの地名で残っており、当時の防災への取り組みの痕跡が残されている。
    幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われている。



    <font size="2" color="#0000FF">「振袖火事」とは・・、

    江戸市中、江戸城の火事の発生原因説の一つに「振袖火事」とされる要因がある。

    上野の商屋の娘「おきく」がお寺の小姓を見初めて、着ていた着物の色模様に似せた振袖をしつらえてもらった。 
    だが娘は、小姓を想い続けながら恋の病に臥せ、そのまま明暦元年、16歳で亡くなった。
    寺では法事が済むと、その振袖を古着屋へ売り払っい、次の娘の手に渡したが、それ娘も病気になり死亡した。
    更に、振袖は再び古着屋の手を経て次の娘のもとに渡ったが、同じように亡くなったという。

    不吉な振袖について三家は相談し、因縁厄災の振り袖を本妙寺で供養してもらうことにした。 
    ところが、和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いた強風によって火の付いた振袖が舞い上がって本堂の屋根に落ちて燃えはじめ、それが燃え広がって江戸中が大火となったという。

    しかし、この言い伝えには続きがあって、本妙寺に隣接して風上にあった老中・阿部家が火元であるとも噂されたともいう。 
    老中の屋敷が火元とあっては、幕府の威信失墜にかかわり、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたとも言われるが・・、 このあたりが真相らしいというが・・?。


    次回は、江戸城物語・・Ⅴに続きます。

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    2008年07月25日 09時14分54秒

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    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城物語(3)「半蔵門と甲州道」


    現在の半蔵門

    明治初期の半蔵門


    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城物語(3)「半蔵門と甲州道」

    ところで、江戸城(皇居)内堀の真西、千鳥が淵に面したところに「半蔵門」がある。
    名称は、江戸城警備を担当した徳川家の家来である伊賀同心組頭・服部正成・正就父子(忍者・服部半蔵:忍者ハットリ君のモデル)に由来している。 
    立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことからその名が付き、将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。

    徳川家康は天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため織田信長の居城・安土城を訪れていた。 そして、6月2日、祝賀を終えた家康は帰路、堺で遊覧中に京都で起った「本能寺の変」を知ることになる。 
    信長と義兄弟の間柄にもあった家康は、当然、光秀の襲撃の対象にされていた。
    このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので極めて危険な状態となり、狼狽した家康は感極まって信長の後を追おうとするほどであった。

    この時、側近の本多忠勝に説得された家康は、服部半蔵の案内と護衛を受けて伊賀越えを決行し、加太越(現在の鈴鹿峠)を経て伊勢国から海路で居城である三河に向かい、かろうじて戻ることができた。
    この時の服部半蔵の見事な采配振りを高く評価した家康は、後に、半蔵を伊賀同心(甲賀同心)として幕府警護のため江戸に出府(幕府の所在地たる江戸に出ること)を命じることになった。


    この半蔵門の正面に今の国道20号線、つまり「甲州街道」が位置し城に直結している。
    家康は江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。 
    江戸と各城下町を結んだ街道造りもその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。 
    日本橋から京都の三条大橋に至る最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。 
    五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられた。

    <font size="2" color="#0000FF">その「参勤交代」であるが・・、

    沿道には東海道には145家、日光・奥州街道には41家、中山道には30家の各藩があった。 
    では、甲州街道では何家の大名が使ったか・・?、実は3家だけであった・・。
    この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、それに3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。

    又、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか・・?。
    甲州街道を進んでいくと、御存知あの「東京・新宿」(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)がある、そのすぐ北側・新大久保辺りに「百人町」がある。 更に進むと八王子には「千人町」があり、その後、山梨・甲府城につながる。 
    武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている、つまり、甲府は徳川の領内のようなものであった。 
    百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。

    江戸幕府で事変があった時、将軍は服部半蔵の部下に守られながら甲州街道を進み、そして百人鉄砲隊に守られ、更に千人の同心に守られ幕府の直轄の甲府に逃げるのであった。 つまり、甲州街道は軍事用の目的があったのであり、甲府城には常時「甲府勤番」(こうふきんばん)が勤めていたという。

    その「お茶壷道中」・・?、
    ただ、甲州街道では、大名行列にも劣らぬ大行列があった。
    「お茶壷道中」というのがそれで、幕府に献上される「京・宇治の茶」を、中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入り江戸に向かった。
    この道中は将軍通行と同じ権威をもち、道中で行き合った大名といえども道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待ったという。  庶民の歌に「茶壷に追われて戸をピッシャン 抜けたらドンドコショ・・・」というのは、どこかで聞き覚えがある・・。  
    このお茶壷道中は、慶長18年(1613)から230年間という、ほぼ江戸時代を通して続いたという。

    江戸末期、徳川幕府軍は鳥羽・伏見の戦で官軍に敗れ、再起を図るべき近藤勇が新選組を母体として結成した「甲陽鎮撫隊」が甲府城奪取に向かったのもこの甲州街道であるが、甲府の手前の勝沼で新政府軍に敗れ、虚しく江戸に帰還している・・。


    次回、江戸城物語・・Ⅳに続きます。

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  • from: orimasaさん

    2008年07月24日 08時14分47秒

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    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城物語(2)「城郭」



     江戸城内堀と天守閣想像図(資料提供者に感謝します)


    千代田城・・、
    <font size="2" color="#0000FF">江戸城は、のちに後北条氏(小田原・北条氏綱以降・・)の支配下となり、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏は滅び、後は徳川家康の居城となった。
    江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあり、別名は「千代田城」ともいい、江戸幕府の最高政庁であった。

    家康公が初めて江戸城に入城した時は、城といっても名ばかり、形ばかりで石垣を築いた場所でもなく、城自体も屋根は腐り、雨が降ると天井から雨水が落ちるという、あまりの荒廃ぶりにビックリしたそうである。
    その後、栄華を誇った江戸城は、徳川家康、秀忠、家光の三世代にわたり諸大名の天下普請により30年をかけて築かれたといわれ、完成時の江戸城は、五層六階(地下室もあった)の高層で約60メートルの高さがあり、当時の日本最大の木造建築物であったという。

    参考までに、当時の城は大阪城の倍の面積があり、将軍様のお成りになる天守閣としては空前絶後の威容を誇こっていたといい、総構えとしての全体の面積も、世界最大を誇る城郭であったという。
    主な城郭は、本丸、大奥(中奥、表向)、二の丸、三の丸、西の丸、紅葉山(家康を祀る東照宮をはじめ、歴代将軍の霊廟がつくられていた)などである。 

    因みに、各大名などによる本丸までの登城コースとしては大手門⇒下乗橋⇒三の門⇒中の門⇒中雀門⇒玄関⇒本丸と、各橋を渡り各門を経て辿ることになる。 
    大名により異なるが、ランクにより大手門・下乗橋前で下馬(駕籠や馬から下りる)し、武家最上位の御三家でも中の門までで、玄関にまで乗り物を横付けできたのは朝廷からの勅使だけだったという。 
    普通は大勢の家臣を持つ大名でも、付いてきた供の数も各門で減らされ、最終的に玄関から先は一人になったという。


    城内を囲むお壕、所謂「内堀」は概ね現存するお壕で、日比谷門、馬場先門の在る日比谷壕から大手門、竹橋の竹橋門、武道館の在る田安門、千鳥が淵、半蔵門、桜田壕の桜田門などがある・・。
    一方、更に内堀から大名屋敷や町人その他の屋敷を取り囲む「外堀」は、東は江戸湾に面した浜御殿(浜離宮)から隅田川の両国、浅草、ここより山手線に沿った神田川が当時の外堀で、秋葉原近くの筋違御門、水道橋の小石川御門、飯田橋の牛込御門、市谷の市ヶ谷御門、四谷御門そして赤坂御門、溜池から虎ノ門、新橋に至るルートである。
    この外堀には御門のほかに、三十六見附(みつけ:数の正確性は疑問)といわれる、所謂、敵の侵入を発見し、防ぐための構築物、見張り番所の城門があり、現在でも「牛込見附」、「市ヶ谷見附」、「四谷見附」、「赤坂見附」の名称などは今も残っているのは周知である。

    次回は、 江戸城物語・・Ⅲ

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  • from: orimasaさん

    2008年07月23日 09時59分43秒

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    日本周遊紀行(129) 東京・江戸城物語(1)「太田道灌」



    東京・・・・江戸・・、
    東京湾上、「アクアライン」から見る東京市中は蟻塚の様なビルの周辺で働蟻の如く様々な人々が、右往左往しながら営んでいることだろう・・。

    日本の首都である「東京」は全国47都道府県の中でもっとも多い約1200万人が暮らす、世界有数の大都会であるが・・。 
    ところで日本一広大な関東平野に位置する大東京・・、 この東京に2000m級の山岳が存在していることは、あまり知られていない。 東京三多摩の最奥部の「雲取山」である。
    又、海洋部は東京都心から1700kmも離れた、南海の小島「沖の鳥島」(昨今、中国との海域問題で話題になっている)が東京都であることも・・まさか・・?である。
    「東京」は、内陸地こそ小さな面積ながらバラエティに富んだ地形であることが大きな特徴でもある。


    東京以前、つまり「江戸」は1603年に徳川家康がこの地に幕府を開いたことから繁栄が始まる。

    当時は東京ではなく「江戸」と呼ばれ、既に18世紀ごろには人口100万人を超える大都市で、当時としても世界一の大都市であり、日本の政治、経済、文化の中心であった。
    現代においても様々な分野において日本の中心は「東京」である、そして東京の中心はやはり「皇居」であろう・・、かっての「江戸城」である。 
    東京の発展は江戸城なしでは語れない・・。  それらの総本家である江戸城は、云わずと知れた将軍家・「徳川家の居城」である。


    <font size="2" color="#0000FF">太田道潅と山吹一枝・・、

    江戸城の起源は平安時代末期、「江戸氏」を名乗った平重継の子孫の館が旧本丸、二の丸あたりにつくられたことにあると推測されている。
    その館の跡に、康正二年(一四五六年)、扇谷上杉氏の執事だった、御存知「太田道潅」(資長・おおたすけなが:仏門に帰依して以降は道灌の号をもちいた)が築城完成させている。

    室町中期の太田道灌は、鎌倉公方(関東地区を統治すべく中央から派遣された長官・足利氏)を補佐する関東管領・扇谷上杉氏に仕え、文武両道に秀でた武将であった。
    江戸城を築いて東京の基礎を作ったことは広く知られており、江戸っ子から「道灌さま」と親しまれていた。 
    若い頃の道灌は、武勇の名声は高かったものの学問や風流を解せず、ただ野山をかけては狩猟を楽しんでいたという。 
    そんな道灌が歌道に励む動機となったのが、例の「山吹の花・・・」のエピソードである。

    ある日、道灌は鷹狩りの途中でにわか雨にあい、近くの農家で雨をしのぐため簑(みの)を借りようと立ち寄った。 すると少女が出て来て、ただ無言のまま歌句の一句を添えて、黄色く咲いた山吹の一枝を差し出した。 
    道灌には、その「歌句と山吹」の意味が解らず「花を求めたのではない」と不機嫌のまま帰館した。 後に、事の始終を家臣に話したところ、それは

    「七重八重、花は咲けども 山吹の、 実の〈簑〉一つだに なきぞ悲し 」

    という古歌で返答したのだと教えられる。

    花が咲いても実のつかない山吹の花にたとえ、「家が貧しくて簑さえ持ち合わせない」と、ゆかしく断ったのだった。 
    この時、道灌は自分の無学を恥じ、以来大いに発奮して勉学に励み、ついには歌人としても名をなしたという。  


    道灌暗殺・・、
    文明18年7月26日(1486年8月25日)、主君・上杉定正の糟屋館(かすやのやかた:現、神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌は、主君の手によってこの地でで暗殺された・・、享年55。 道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを家臣に襲われ、斬り倒されたという。 
    死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来は無いという、一種の予言であった。
    京の都での騒乱・「応仁の乱」も収束し、次第に戦乱が地方に広がる、所謂、戦国時代・下剋上への突入の時代であった。

    太田道潅の暗殺後、扇谷上杉氏の家来が城代で「江戸城」を管理し、やがて小田原北条氏が関東を支配するようになると、北条氏の支城となる。
    北条氏綱は武蔵国の押さえとして江戸城を重視し、本丸に宿将の富永氏、二の丸に同じく遠山氏(遠山の金さんの先祖)、三の丸に道潅の孫の太田資高を配している。

    現在、わずかに江戸城・内堀に、「道灌堀」としてその名をとどめている。


    次回は、江戸城物語(2)に続きます。 

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  • from: orimasaさん

    2008年07月15日 11時16分24秒

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    日本周遊紀行(128) 千葉・・Ⅱ「千葉城・・」





    「千葉城・・・?」について・・、
    今の千葉市に根拠を持った「千葉城」(別名、亥鼻城・いのはなじょう)は、源平争乱の時期、常胤の父・千葉常重によって築城されたといわれる。 
    当時の千葉城は、都川の下流、東京湾に臨む「亥鼻丘」(千葉市亥鼻:いのはな)に築かれ、西は絶壁、北は都川が自然の水堀となり、南は細長い侵食谷、東は台地が続く天然の要塞であったという。 だが、城郭としての天守や石垣はなく、木造の城主館に櫓、矢倉、米倉などを配した典型的な中世期の城郭であった。 
    その千葉城跡の遺構は今はほとんど残っておらず、土塁や堀切の一部にその面影を留めるのみであるという。

    尚、亥鼻山の北側の麓には史跡・「お茶の水」という井戸がある・・。
    千葉氏の祖・平良文(平安中期の武将、千葉氏を含む坂東八平氏の実質的な祖とされる)の子、忠頼が生まれた時にこの泉が湧き出しと伝えられ、千葉氏は代々この水を産湯としたと伝えられる。 
    源頼朝が千葉城に立ち寄った時、千葉常胤はこの湧水で茶を献じたという。


    現在、亥鼻丘の千葉城跡は「文化の森」と呼ばれ、市民の憩いの場所になっていて、園内には昭和42年に四層五階の天守が小田原城を模して築かれたという。 
    ただ、前述したように、元々の千葉城は天守閣など持たない中世期の木造の平城であった。 従って、この四層五階の「千葉城郭」に関し史実とは異なるのではないか・・?、このことは行政による偽造であり、捏造だと一部有識者が問題提起しているようである。 
    又、歴史の偽造を平気で行う当局・千葉市も問題であるが、それを批判しないで持ち上げるマスコミ・新聞もおかしいのではないか・・?、という批判もあいつだと言われる。


    千葉市繁華街中心、千葉駅東方に妙見様と言われる「千葉神社」がある。
    初め、千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立されたもので、千葉氏宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、宗家の相続元服は代々この寺で行われたという。 
    また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていた。

    <

    江戸期までは、真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって千葉神社となり、本尊も祭神:天之御中主大神(アメノミナカヌシノカミ:古事記でいう天地創造の神で、高天原の最初の神とされる)に改められた。 ただし、妙見菩薩と天之御中主大神は長年、神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、今日でも同社が「妙見信仰」として祀られている事には変わりがないという・・。
    「妙見様」とは妙見菩薩のことで、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩で人の福寿を増すといい、特に、眼病平癒を祈る妙見仏の本尊として広く信仰されているという。
     

    戦国末期、豊臣秀吉が天下を統一すると、関東の地を徳川家康に与えている。
    次いで家康が江戸に幕府を開くと、両翼とされる相模の国同様、「房総・千葉は江戸のおひざ元として、経済的にも軍事的にも重要な地になった。 
    幕府は、当地に外様はもちろん譜代の藩も置かず、天領、旗本領として直轄支配していた。  こうして千葉は江戸幕府直轄地として発展し、現在に至っているのである。


    <font size="2" color="#0000FF">序ながら・・、

    ここで、上総の国の「寒川神社」についても触れておこう・・、我、相模の国(神奈川)の一宮である寒川神社とは兄弟神に当たるからである。
    千葉市のほぼ中心地に寒川町(さむかわちょう:千葉市中央区寒川町)という地名があって、こじんまりではあるが「寒川神社」が鎮座している。
    相模の寒川神社が元宮であろうといわれているが実際には不明だとか・・、元は明神社と云われて寒川地区の総鎮守であり、天照大神を主神に寒川比古命、寒川比女命を相神にまつり、天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を「寒川神社」に改めている。

    尚、寒川神社(相模一宮)についての詳細は、当方、以下のブログに記載してあります。
    「湘南地方の歴史と観光」・茅ヶ崎編
    URL:http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2007/1102891.html 
    (湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎Ⅰ〜茅ヶ崎Ⅳに記載)

    URL:http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001/e/da06dd7128395d2f07b903659a8f52bd 
    (湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎Ⅰ〜茅ヶ崎Ⅳに記載)



    次回は、 大東京・「江戸城・・、」

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  • from: orimasaさん

    2008年07月14日 09時38分28秒

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    日本周遊紀行(128) 千葉・・Ⅰ「千葉氏と上総氏」



    アクアラインの「海ほたる」から周囲を眺めると大東京のビル群、左に横浜、川崎、そして直ぐ右手に隣接して千葉のタウンと日本の中心である大都市圏が見渡せる。


    <font size="2" color="#0000FF">ここで「千葉」について・・、


    「千葉」の地名の由来については、諸説あって古代のアイヌ語とか・・、安房の国の地勢や自然を形容して表現されたものとか・・、定説は確かでないようだ。
    房総の内陸地形は、1000mを越えるような急峻な山岳地は存在しなく、せいぜい300m前後の山々というより低山か、高目の褶曲した丘陵地が連続している。 
    地図を眺めても、縦横に道路が走り交差していて、その間に広がる多くのゴルフ場などが点在し、その数は日本一を誇るともいう。
    開発される前の大昔の千葉・房総は、時期ともなれば重畳たる緑の絨毯が広がっていたに相違ない・・。

    「千」や「万」は、「千も万もない」、「あれやこれやと言うには及ばない」、「千も万も論は無用」 という意味でもある。
    「房総」を形容すると、濃緑の葉の広がり、繁る様はまさに「千・万の如し」なのである。 この様な地域には自然発生的に「千葉」という語が生じたと考えれば、無理はないように思えるが・・?。

    しかし、「千葉」の語源を詮索しても、これは余り意味の成さないが、奈良期以前の書物や歌本にも「多くの葉が繁るところ」の意味合いで、「千葉」という形容言葉は使われていたようである。 
    平安時代中期に作られた総合辞書で、地名などが記載してある有名な「和名抄」にも、「下総の国千葉郡千葉郷」と既に記されているという。  
    そして、この地域に在った「千葉」の名称によって、古来より在来した「千葉氏」が起こったとされるのは妥当であろう・・。


    千葉氏と上総氏
    千葉氏といえば、やはり、平安末期の頼朝挙兵時に照準を合わせねばならんであろう・・。
    一般に、「千葉氏」は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた大豪族といわれている。 
    平安末期、千葉氏は下総国(千葉県北部)の在庁官人(国府に勤める役人)で、千葉の庄などを治める一領主にすぎなかった。 その後、源頼朝に挙兵から一貫して源氏に協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から西方の地まで、全国各地に領地を与えられることになる。

    平安末期、奢れる平氏も清盛亡き後、さすがに箍(たが)が緩んできた。
    期に乗じて、「都」(京)付近では以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第三皇子)が摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、平家追討を発して挙兵するなど、争乱、内乱が始まり、以仁王への同調者らによって、各地に雌伏する源氏へと伝達されていった。

    そのうちの一人である「源頼朝」も都より伝達され、源氏累代の家人とされる相模、伊豆、武蔵の武士団への呼びかけを始める。
    そして治承4年(1180年)、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝がついに挙兵、伊豆在住・監視役の山木兼隆を襲撃して殺害する。 
    その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが、数にまさる平家の大群に手痛い敗北を喫し、ひとまず房総半島に逃れるべく、三浦半島から海を渡るのである。(石橋山の戦い)。

    それ以前に、つまり挙兵前から頼朝は房総の上総広常、下総の千葉常胤(ちば つねたね)らとも気脈を通じ合っていて、特に常胤の子・胤頼は挙兵の少し前に相模の三浦義澄(三浦地方の豪族)とともに頼朝の配所で三者の密談もされていたという。 
    こうして房総に渡った頼朝は、敗者でありながら源氏の棟梁として房総三国を参下に治めることになる。
    日本史上の大きな変わり目の中、千葉氏の房総での果たした役割は非常に大きいものがあり、頼朝が鎌倉を幕府拠点として選んだのも千葉常胤の献策だったとも言われている。


    平安末期当時の房総は、平氏の分流である「上総氏」と「千葉氏」が勢力を競っていたが、上総氏の方が領地、勢力とも圧倒的に優位にあったとされる。 
    旗揚げに際して頼朝がもっとも頼りとしたのは、房総の地では両者の上総広常と千葉常胤であったことは云うまでもない・・。この時、常胤は頼朝からの使者・安達藤九郎盛長を迎えたときには感激し、一族を挙げて味方すると宣言したという。
    併せて、頼朝に相模の鎌倉を本拠にすることを進言し、頼朝支持の態度を明確に示したのであった。 
    一方、頼朝からの使者に対する広常の態度はすっきりしないものであったという。

    千葉常胤は下総地方の平家方の掃討作戦を展開していて、下総国府で頼朝が再旗揚げした時は即刻参会したが、その時の総勢は僅か三百余騎であった。 だが、後に、上総広常が頼朝に参向したときに率いていた数は二万余騎であったという。 この数字を比較しても千葉氏と上総氏の勢力の差は歴然としていた。

    しかし、常胤に対する頼朝の信頼は広常より勝っており、後の千葉氏の発展は、このときの常胤の真意、行動が発端になったものといってよい。 
    その後千葉介常胤は、頼朝から「師父」とも呼ばれるほどの深い信頼を得て、重臣として参戦してゆくことになる。
    一方の房総平氏の宗家にあたる上総広常も木曾義仲や平家との戦いに活躍しつつ、房総に広大な勢力を持ち拡大してゆくことになる。 だが、上総広常は拡大した勢力を盾に、その振る舞いに傲慢な所が多く、遂には頼朝の不信をかい、恐れさせたともいう。 やがて広常は、謀叛の疑いで頼朝に誅殺されることになる。

    これによって千葉氏(千葉介と名乗る)は、上総の一族も支配下に治め事実上、房総一の惣領となった。   
    その後も、千葉常胤は一族を率いて頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に尽力する。 
    その功績を認められて千葉氏は、陸奥や西国、下総など数ヶ国の所領を与えられ、「千葉六党」といわれるほどの大勢力となった。

    千葉氏は、平安時代から続く日本屈指の古族で歴史も非常に長いため、そこから分かれた一族たちも膨大な数があって、彼らは下総に残って千葉介(千葉宗家)に従った一族、下総を離れて別天地で栄えた一族、宗家と敵対した一族など、様々な経緯をたどって時代を乗り越えていった。
    しかし、お膝元の下総の千葉宗家は、室町期において鎌倉公方と古河公方の対立や安房の里見氏の勃興もあり、又、千葉氏自体の内紛などが起因して弱体化が進み、千葉氏十四代胤直の時に宗家は滅亡することになる。


    次回は、 千葉・・「千葉城・・、」


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