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自然哲学サークル

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  • from: Infophysさん

    2012年04月28日 21時44分09秒

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    悟りとは、魂の位相が素直に脳を通して表現されること

    欲望は正常に魂の位相が脳に正しく伝わることを妨げるものだと思われる。汚れた魂は当然、正しい位相を表してはいない。真の自分、すなわち自己を素直に実現する

    欲望は正常に魂の位相が脳に正しく伝わることを妨げるものだと思われる。汚れた魂は当然、正しい位相を表してはいない。
    真の自分、すなわち自己を素直に実現することは、浄化された魂にしか可能ではないのだ。すなわち、煩悩という妄念から解放された魂において、それは可能になるのである。

    もとめよ、さらば与えられん。
    というのは端的に言って誤りであり、

    求めることを止めよ。さらば与えられん。
    が正しい。
    なぜなら、
    求めることは自分をして
    その求める対象に対する適合性を失わせるからである。
    もう少し詳しく言えば、
    その対象とのDualityを失う、という言い方ができよう。

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  • from: Infophysさん

    2012年04月27日 06時55分36秒

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    文明の利器が勉学の質を落とす理由について

    テーマとしてはそもそもそれ自体のなかで賛否両論ありそうなので利器がある場合よりも無い場合の方が勉学の質が良くなる場合とその逆の場合を平等に検討すべきか

    テーマとしてはそもそもそれ自体のなかで賛否両論ありそうなので
    利器がある場合よりも無い場合の方が勉学の質が良くなる場合と
    その逆の場合を平等に検討すべきかもしれない。

    しかも、勉学の質、の質とは何を意味するのか不明確である。

    これは、そもそも、学問がなんのためにやっているのか、という問題と絡むと思われるが、これまた、様々な案がありそう。

    ぼくは後者の疑問に対する他の人の意見を今のところよく知らないので、
    そこはこの場のシステムが役に立ってくれるものと信じて、
    ぼくはぼくの今まで知り得た事柄からの判断に頼ることにする。

    学問や宗教等の智慧の役割とは、
    カオスの統御(カオス[混沌]⇔コスモス[秩序])
    であり、常にそれを目標としているとぼくは考えているので、
    [そもそも言葉や文字の発明自体が、様々な情報の本質を抽出して純化し、一つ一つ人間が自分の頭で統御し得る形にし、世界を分析的に把握しうるようにするための工夫だったとも言えるとぼくは思うのである。
    そのようにできている言葉や文字で様々なcaoticな(無秩序な)情報を概念的な営みによって秩序付けていく。自分の情念、すなわち欲望・煩悩をいかに統御するかが宗教の本質であることを考えると、そもそも、この情念こそがcaoticなものの最たるものであることに気づかされる。つまり、世界を思い通りにしたいのが学問で、そもそもその思い自体もどうにかせんとするのが宗教・道徳であるというような言い方ができるような気がするのだ]

    その目標に到達するための理にかなった方法を
    勉学(や修行)の方法として良いものと判断することにする。

    そういう観点からいくと、caoticな情報の統御能力が向上する方法こそ優秀な方法と言える。

    しかし、そう考えると直ちに、
    文明の利器に頼ることがいかに非効率的というか
    その勉学の意義を半減させるものであるかが明らかとなる。
    なぜなら、自分の頭の情報統御能力の一部を文明の利器に肩代わりさせるということが、一時的な統御能力の向上を感じさせたとしても、結果として、
    その甘やかされた脳は統御能力を従来より低下させることになり、人間は文明が進むほどむしろ馬鹿になるというアイロニカルな結論を導くことも可能である。それはわれわれの経験や知識の中の事実とあまり矛盾しない。
    そうでなくとも、電子辞書が紙の辞典に比べ、その使用中の脳の働き方が悪くなるという実験データさえ得られているようである。

    しかし、一歩ひいて考えてみると、言葉や文字がなかった頃の人間の頭ははたしてそれらの出現以降に比べ情報の統御能力が落ちたかそうでないか、問いたくなる。文字や言葉とて文明的ツールとしての最たるものとも言えなくはないのだから。しかし、これも実は真面目に検討すべき事柄かもしれないと思ってしまう。それは特に次の意味においてである。

    私たちは太古の昔に言葉を産み出した人々に比べ、言語の扱い方の質を落としている可能性がある、というかそれはほぼ疑いがないように僕には思える。太古の昔、言葉を産み出した人々にとっては、言葉、単語一つ一つが
    情報をどのように統御しているかを熟知していた可能性がある。語源がその言葉の本質をうまく捉えていることが多いことはそれの引用が多いことからも推察できるが、それを自覚的に使っていた可能性のある人々がどれだけ円滑に物事を把握できたかは想像に固くない。もっとも数世代のうちにそんなことは廃れていた可能性も考えてしまうのだが。

    逆に、私たちが物事を学んで様々な概念を自在に使いこなせるようにしようと思ったとき、これらのことを念頭に置くことが肝要となる。
    すなわち、概念の一つ一つがなんらかの情報を統御するために必要とされており、書物にかきつけられた文字情報や先生方の放つ言語情報もなんらかの情報、事象を統御している存在であり、しかもそれが初めて見たり聞いたりする我々にとっては、はじめはcaoticな情報でしかなく、それをcosmicな情報へと自分の脳が認識し直し、自分自身がその先達の統御していたであろう情報を統御しうるようになろうと努力しているのだという自覚を持つことが、学びの効率化に真に役立つのではないかと思ったりするのである。

    学術的な研究についても、結局、概念的な営みからはみでることは無いと考えられるから、自分に対し様々な概念の統御を関係的把握の中で可能ならしめながら、情報統御の範囲を徐々に、また時には一挙に、拡充することに成功することを目指すものである、という捉え方が有効であるように思われる。

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  • from: Infophysさん

    2012年04月22日 23時19分49秒

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    頭が良くなる方法

    脳神経の発火パターンの多様性が増すような生活をしていると頭がよくなる気がする。つまり、新しいことをやったり、同じことをいろんな方法でやったり、している

    脳神経の発火パターンの多様性が増すような生活をしていると
    頭がよくなる気がする。
    つまり、新しいことをやったり、同じことをいろんな方法でやったり、
    していると頭の使い方が柔軟で色々な発想が浮かぶようになるはず。
    いろんな見方ができることに気づけるはず。
    同じ人とばかり付き合わず、いろんな人の見方を知るのも良さそう。

    自分のあだ名を変えるとかも効果がありそうだ。
    それだけでも違った自分に出会えるだろう。

    ようは観点が変わること。それが脳の発火パターンが変えることと対応していそうだ。発火の範囲の大きい小さいが必ずしも優劣を決めたりはしない点が予想され面白い。
    大きいことはいいことか?と異を唱えることもできるかも?(笑)
    発火パターンの大小で物事の見え方は違っても、優劣につながるかは別問題だろう。そもそも何をもって優るとしたり、劣るとしたりするのか、
    その観点すら良くわからない。

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  • from: Infophysさん

    2012年04月22日 19時32分09秒

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    ぼくの悩み作動原理(^^;

    悩み始めたとき、前頭葉にその悩み物質が移動するのがわかった。カオスが前頭葉に侵入するのを防げば余計な悩みは避けられる。しかし、何か嫌なことから逃げた結

    悩み始めたとき、前頭葉にその悩み物質が移動するのがわかった。
    カオスが前頭葉に侵入するのを防げば余計な悩みは避けられる。
    しかし、何か嫌なことから逃げた結果として悩みを産み出している自分に気付くことになった。
    このアホ事態に気づけたのは、気功の訓練のお陰(^_^;)

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  • from: Infophysさん

    2012年04月14日 14時01分54秒

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    だから、

    智(慧)とは外界と内界を調和させることなんだと思います。自分の思いをぶつけてばかりいてもうまくいかない。外界の条件ばかりのんでいてはおかしくなってしま

    智(慧)とは外界と内界を調和させることなんだと思います。

    自分の思いをぶつけてばかりいてもうまくいかない。
    外界の条件ばかりのんでいてはおかしくなってしまう。

    健康で幸せでいるために役立つとは、そういう意味なんだと思います。

    西洋も東洋もアプローチは違えど同じことを目指していたのでしょう。

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  • from: Infophysさん

    2012年04月14日 01時10分45秒

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    中庸の意味、思い出した。

    思い通りにしようとしすぎると、かえって思い通りにならない。その場に合った自然なあり方、すなわち中庸が、結局は一番うまくいく、という考え方。古今東西重要

    思い通りにしようとしすぎると、かえって思い通りにならない。その場に合った自然なあり方、すなわち中庸が、結局は一番うまくいく、という考え方。古今東西重要視されてきた。
    まさに僕は思い通りにしようとしすぎて失敗してきたといっていい。病にもかかった。 かえって効率の悪い人生になった。反省は生かさなければ。しかし人間は間抜けにできとるということかなぁ...。古今東西重要視されてきたことがこんなことだなんて...。

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    from: Infophysさん

    2012年04月14日 12時35分43秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:中庸の意味、思い出した。」その他者としては、自然や女性の視点を借りることは僕たちとしてはすごく有効である気

    from: Infophysさん

    2012年04月14日 12時30分37秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:中庸の意味、思い出した。」自分の精神活動を客体化することの意義も感じます。結局はそれも自分の精神がやってることで

  • from: Infophysさん

    2012年04月12日 21時16分12秒

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    感じるか感じないか(注:一般性はない)

    見えるか見えないか、っていう辺りで趣きを感じるというエロティシズムのあり方と、わかるかわからないか、っていう辺りで趣きを感じるという知的エクスタシーの

    見えるか見えないか、

    っていう辺りで趣きを感じるというエロティシズムのあり方と、

    わかるかわからないか、

    っていう辺りで趣きを感じるという知的エクスタシーのあり方には

    通ずるものがある?(笑)

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    from: Infophysさん

    2012年04月14日 05時25分56秒

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    「Re:Re:感じるか感じないか(注:一般性はない)」脳の器質的な問題に還元できる、と気づかれたのはなんだかすごいですね。刺激というものが、自分の感覚

    from: junoさん

    2012年04月12日 23時50分36秒

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    「Re:感じるか感じないか(注:一般性はない)」エロスと言うと、一般的に卑猥なものというイメージですね。しかし、深く考えていくとそう単純ではない。「求

  • from: Infophysさん

    2012年04月13日 12時10分41秒

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    僕らが悩まされるもの

    価値観というものは社会の構造が産み出しているものなのではないだろうか。職業に貴賎はない。っていうけど、貴賎という言葉自体が社会的な価値感覚なのであって

    価値観というものは社会の構造が産み出しているものなのではないだろうか。

    職業に貴賎はない。っていうけど、貴賎という言葉自体が社会的な価値感覚なのであって、社会的認識においてはどうしても貴賎の意識が残ってる。

    科学者の見方とそうでない非専門家の見方の間に優劣があるか、という問にたいし、優劣そのものが社会的な感覚的産物なのだと言いたくなる。

    社会的に構造化され、それに対応する形で精神的に構造化されている価値や優劣。それに反駁しようとする必要はあるだろうか。そもそもそれは便宜的なものに過ぎないはずだ。

    しかし、自然と社会を単純に分離して考えることは、現代においては良しとはされまい。
    社会も広大な自然宇宙の一部としてみたとき、このような価値や優劣に本質的な意義が与えられてしまうだろうか。

    たぶんその逆なのだろう。自然との一体化の中では、それぞれの立ち位置の意義がただしく見出だされていきはしないだろうか。蚊やハエ、ねずみもサルも人間もさして差はなかったという結論に導かれようとしているような気配もある。

    確かに人間は知性の上で上位に立っているかもしれない。しかし、知に対する価値の置き方そのものが人間中心主義と言えるだろうから、その認識もまたどこか偏ったものなのかもしれない。

    現代的なフラットな社会の傾向はこのような流れで理解できはしないだろうか。

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  • from: Infophysさん

    2012年04月08日 04時01分11秒

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    マンダラ、統合失調症、悟り、カオスのシステマティックな統御、多様性と普遍性の止揚

    結局、脳の情報処理システムはマンダラを見ればわかるように、多様なカオスを様々にスケールごとに連携・統合させて階層的に統御させていっているのではないだろ

    結局、脳の情報処理システムはマンダラを見ればわかるように、
    多様なカオスを様々にスケールごとに連携・統合させて階層的に統御させていっているのではないだろうか。

    つまり、カオス解析をシステマティックにやってるのでは。モナド的に部分と全体は関わっていて、部分だけの解析はできるようになっていない。その結果、全体図はフラクタルになる。
    マンダラは自分のカオス制御の俯瞰図であり、脳の働きをうまく図式的に表現してると観ることができるのではないだろうか。
    多様性と普遍性があの図によってうまく止揚されているようだ。
    ブッダの言う、縁の理法というものは、あの図に透徹されるルールのことだろう。

    心の構造であると同時に、世界の構造である、というのは、そのようにとらえると、納得がいく。いわば、理論というシステマティックな世界の捉え方を脳はそもそも実践している、ということなのかもしれない。

    これが破綻すると統合失調症になる。マンダラを見ていると落ち着くというのもうなずける。この図が完全に見えるときは、世界を見透していると言えるだろう。ぼくはこれがやや破綻気味になっていたようだ。

    周囲との関係性を改善し、安定させ、生活を建て直しながら、自分の中心軸を見いだし、その方向性を活路と見て自分の人生を築き上げていく。

    それを一生懸命やることがこの病の治療の指針。

    マンダラの解析結果とも言えるかも。

    一人の人間の治療や人生の指針であるだけでなく、人類の救済や発展の原理として、このマンダラを観ることもできそうだ。
    自分達が、どのように、内外のカオスを統御するこで、前進しているのか、それを知ることができるから、どこをどう改善したらいいのか、その結果全体的な生き方はどうしたらいいのか。見出だせるはずである。

    気とマンダラは古代人の知恵の結晶といえるだろう。
    学問はそれを分析的に認識し、新たな船出にそなえているのかもしれない。科学がついにカオスに挑むようになった。難航している。
    二元的世界の役割はこれから自ずと明らかになってきそうだ。

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  • from: Infophysさん

    2012年04月03日 03時48分20秒

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    dual(双対)な二つの構造体はなぜか引き合う。

    電子と陽電子の間の引力や、男と女の惹かれ合い、自分の好きな顔の女の子を見たときに自分の気が引かれていく現象黄金比(白銀比や青銅比も本質的に同様)を見た

    電子と陽電子の間の引力や、
    男と女の惹かれ合い、
    自分の好きな顔の女の子を見たときに自分の気が引かれていく現象
    黄金比(白銀比や青銅比も本質的に同様)を見たときの気持ちの良さ
    など

    これらの「現象」は、たぶん皆、duality(双対性)が関わってます。
    陰陽五行説もまんざらばかにできません。

    陽と陰は、例えば凸と凹に模式化できそうです。
    南方熊楠も尊敬していたというライプニッツが形而上学叙説に書いていたと思いますが、世の中はすべて適合性を求めて動いているようです。
    つまり、
    すべての存在は互いの立場や状態からみて、
    相対的な意味でより適合的な状態を目指して動いている
    という見方だと思いますが、
    これは、個人個人の言動や様々な物体の運動を見ていてもそう思えます。
    しかも、色々な立場の人にとって都合のよい、つまり、適合的な状態に対しては、競争・競合が生じます(最近の(?)哲学者レヴィが、ヴァーチャルとは何か、という著作のなかでそこを書いてます)。

    自然や社会に対してより適合的な存在ほど優れた存在だという見方もあり得なくはありません。ここからは僕の勝手な解釈ですが、
    この適合性の高さこそ、徳であるという気がするのです。
    徳という字の意味は「直き心」だそうです。素直な心とでも言うのでしょうか。老子道徳経に書かれた徳の意味とは、大道廃れて仁義あり、と
    彼(実在性は怪しいのですが)がいっていることとも関係しそうですが、
    自分が努力してやるような徳は真の徳ではなく、そもそも人間には努力しなくても素直な心や真心によって、社会をうまくまわしていけるような徳を持っているということらしいのです。孔子の立場からすればそんな都合のいい話があるはずがない、ということになりそうですが、
    実際素直で真心溢れる社会ではよそよそしい仁義礼智などは必要なかったのかもしれません。文明的になればなるほど、そういうそういう劣った習慣が必要になったとも言えそうですね。大道が廃れるとはそういう意味だと僕は思ってます。
    科学者の卵としての僕の見方ではありますが、
    この直き心で、社会が成り立ったり、正常な生き方ができるというのは
    結局は自己組織化のことをいっているのだと思うのです。
    しかも、ぼくはこの自己組織化は先ほどの適合性を目指す運動の現れだと思っています。つまり、知識のような情報的な存在でさえも、この法則からはぐれていないのだと思うのです。
    知識が自分に理解され吸収されるときのことを思い出してください。
    数学のなども典型例になりますが、ある公式を理解しようと思ったとき、
    それまでに習ったことの積み上げがなければなかなかそれを理解することはできません。つまり、自分がその知識に対して適合性を持っていないため、それを知りたいと思わないどころか、学校のような恣意的に教え込もうとする機関で押し付けられでもしない限り、縁がありません。
    ところが、そこまでに習ったようなことを、例えば自分で積み上げていたとしましょう。そのときの自分の知識体系の構造が凹だするとその次に凸が欲しくなるのは自然だと思います。つまり、凹という不安定な存在のムズムズ感が、自我に次の凸を欲しがらせてしまうわけです。で、自分は色んな手を尽くしてその凸が記述されている箇所を探しあて、または、さまざまな思考過程を経てその凸を見出だす努力をします。
    つまり、本質的には凹の不安定性が凸を呼び寄せたようにも見えます。
    知的欲求が少ない場合でも、なんか気になってる、という感覚があるわけです。ぼくはこれはカオスがコスモスを求めている状態のように見えるのです。カオスとコスモスが出会うときクリエイティブな現象、つまり、この場合は理解したときのスーっとした気分が生じます。クリエイティブであると同時に、annihilative(アニヒレイティブ:消滅するような)な現象ですね。
    逆に、自分がその状態にあると、向こうからその知識がやって来ることさえあります。適合的な情報に自分が偶発的に遭遇して、ハッとすることがあります。偶有性というか共時性(シンクロ二シティ)とでもいいましょうか。
    だから、真の統一理論は、この適合性を中心に語られるべきだと思ってます。電子と陽電子はそうかもしれない。しかし、重力はどうか。質量やエネルギーのような陰でも陽でもない存在が引き合うのはなぜか。じつはここにはレヴィのいう競合が働いていそうです。これも適合性を目指す運動の一種ですが、できるだけコンパクトにまとまった方が、多くの存在が狭い時空間に入ることができます。そういう意味の適合性なんだと思います。たもえ、凸と凹が構造的な違いがなかったとしても、少しずつは集まろうとしたでしょう。ちょっとつかれてきたので、またにします。この辺はぼくも未だよくわかっていません。

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