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  • from: orimasaさん

    2008年12月20日 12時17分42秒

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    日本周遊紀行(106)福岡 「海の中道」


    海の中道で発見された「漢委奴国王印」とは・・・?、

    これから、その「大宰府」へ向かおう・・、 待てよ!、その前に「海の中道」に寄る事にしよう。
    九州道を、福岡市方面へ暫く走る。古賀I・Cから一旦国道3号線へ下りて、「海ノ中道」の標識に従って進むことになる。 「和白」という交差点を左折すると、中道半島へ進むはずであるが一向にそれらしい気配は無い、普通の住居地域なのである。 JR香椎線がすぐ横を走っていて、雁の巣という所を過ぎたあたりから漸く、それらしい雰囲気になってきたようだ。右手に大きく砂丘が広がり玄界灘の波頭が洗っていて、なかなかの風景である。左側は防砂林の松の青が目に心地よい。
    間もなく緑の絨毯が敷き詰めた様な巨大な公園が出現した、「海ノ中道海浜公園」である。 約200万㎡と言われる広い公園には、四季折々綺麗な花が楽しめるフラワー園やチョッとした動物園、観覧車、ジェットコースター、サイクリング等、なんでも有りのようである、マリンワールドやサンシャインプールは夏の時期は楽しみだろう。 また、大芝生広場をはじめ、園内には様々なスポーツを楽しめる場所も一杯である。家族で1日中遊んでも、まだまだ遊びきれないほどの広大で多種な施設が揃っている。近辺の人々が羨ましいほどである。ここは国営の公園であり、「海ノ中道海浜公園」は九州で唯一の多機能公園で、かって米軍が占領していた地域を解放して、その後、国営公園として整備したところであるらしい。

    この10kmにも及ぶ細い半島の先端は、「志賀島」という有人、生活のある島である。 島までは砂州により本土とは陸続きになっている。この現象を陸繋島(りくけいとう)といい全国的にも珍しい現況だという。 陸繋島とは、沿海流が砂を運んできて長い砂浜の岬ができた状態をいう。干潮時に海の中に陸を作ってしまうのを「砂嘴(さし)」ともいい、天橋立のように砂嘴が発達して、対岸まで到達したのを「砂州(さす)」という。 これら「砂州」や「砂嘴」が、元々島だった所にくっついてしまって陸続きに成ったのを「陸繋島」と言うわけである。 この砂州部分、つまり「海ノ中道」は「「陸繋砂州」と言いい大変珍しい地形で、志賀島のほかには和歌山の潮岬、秋田県の男鹿半島、北海道の函館山などがそうらしい。
    志賀島には三つの集落がある。 海の中道から志賀島に入る道のある南東部にあるのが「志賀地区」、西部にあるのが「弘地区」、北部にあるのが「勝馬地区」であり、志賀と弘には小さな漁港もある。

    この志賀島で江戸期、福岡藩領内の志賀の農民によって、「漢委奴国王印」という刻印のある金印(きんいん=実印)が発見され、極めて珍しいものとして藩庁に届けられたという。
    金印とは金でつくられた印章のことで、発見された「金印」は日本の弥生期(西暦57年頃)に中国・後漢で製作されたものといわれる。 この印章、「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおうのいん:23mm×23mm×厚さ8mm 〔注〕23mmは後漢尺で1寸で、現在の約3.33cmに当たる)は「国主の印章」とも位置ずけられ、後漢の光武帝が、当時の日本にあった小国家の君主に与えたものと見られている。 かって私印説・偽造説もあったようだが、中国の他の地域からも同様の物が見つかったために、この説は覆されたという。
    当時の日本は未だ国家としての体制が無く、九州北部に「筑紫の国」、九州南部は「日向の国」、中国地方に「出雲の国」、「吉備の国」といった地域組織体であった。 九州地方では、圧倒的に日向の国が最大で、勢力も有ったといわれ、ここに、ある種の「王」とか「統治者」が存在していて、その王(君主)に授けたものと言われる説が有力ある。 「漢委奴国王」は、「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」と読むことができる。
    因みに、現在の日本の国璽(こくじ)、御璽(ぎょじ・天皇の印章:方3寸)は金印で、京都の印章職人によって作成されたという。 国璽とは、国家の印章として押す官印で、日本では1868年(明治元年)初めて使用されたという。 現行のものは、1974年に改刻された「方3寸」の金印で、「大日本国璽」の5字を刻す。 克っては国書・親書・勲記(叙勲者に勲章とともに与えられる証書)などに用い、御璽とともに内大臣が保管していたが、今は勲記にのみ用い、侍従職が保管しているという。
     
    次回は、「黒田武士」



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