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  • from: orimasaさん

    2008年12月20日 12時18分26秒

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    日本周遊紀行(107)福岡 「黒田武士」


    酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を・・、

    「海の中道」に足跡を残して次に参ろう。香椎線に沿って先ず戻る、香椎は古社「香椎宮」(応神天皇:宇佐神宮祭神の両親である仲哀天皇、神功皇后を御祭神とする)でも有名である。福岡市内の渋滞を予想して、市内を縦断する高速1号線の香椎から乗ることにする。 福岡市と言っても「天神」などを抱える「博多」が中心で、博多という呼称が地元をはじめ世間一般そのようである。市街地には近代的な超高層ビル群も首都圏並みに目立つ。

    「福岡」といえば黒田節、黒田武士といえば「黒田官兵衛」、「黒田長政」であろう。
    黒田官兵衛孝高は晩年、福岡城の建設中、太宰府に移り住み、己を水に喩えて「如水」と号した。

    『水五訓』 黒田如水
    一、自ら活動して他を動かしむるは水なり、
    一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり、
    一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり、
    一、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり、
    一、洋々として大洋を充たし発しては、蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し、凝っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり。

    黒田如水は、豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師である。もともとは播磨の豪族、小寺氏の家老であった。  
    この当時、播州の多くの豪族は毛利氏に加担していたが、官兵衛は地方豪族の一家老に過ぎない身ながら織田信長に近づいている。周囲を敵に回しながらも織田に気脈を通じたのは来るべき織田、毛利の合戦に織田の勝利を確信したもので、先見的慧眼があったともいわれる。この官兵衛の英知を、既に秀吉は見抜いていたのである。
    信長は本能寺の変に倒れ、ほぼ官兵衛の読みどうりに時代は推移した。 官兵衛の情報分析能力は群を抜いていたのである。 織田軍の中国方面軍司令官と言うべき人物が羽柴筑前守秀吉であった、後の豊臣秀吉である。官兵衛は秀吉の部下として仕え、中国攻略に活躍する。本能寺の変にて信長が光秀に討たれた頃、秀吉は備中高松城(毛利側)を水攻めの真っ最中であった。知らせが届くと秀吉は慟哭して悲しんだ、しかし、そんな秀吉へ官兵衛は言い放つ、「ご運の開かせ給う時なり」・・と。
    これは謀反人・光秀を討った者が天下を取る事を指し、同時に秀吉の本心をつく一言であった。山崎の合戦で秀吉は光秀を討ち天下を取るが、併せて、秀吉は如水の頭脳的先見性に油断ならないものを感じ取り、人物として警戒していた。 官兵衛の智謀才略を恐れたのである。 後に、「おれが死んだあと天下を取るのは黒田の“かん”じゃ・・」と秀吉に言わしめた。
    黒田官兵衛はこの時の功で、豊前中津藩12万石を有している。又、嫡子・長政は初陣では毛利攻めで、その後も賤ヶ岳、九州征伐でも功を立て父、孝高(如水)の家督を相続しといる。 秀吉死後、長政の活躍は父親ゆずりで主に関ヶ原における智謀、調略は有名である。
    秀吉亡き後の豊臣家は、武力派と文治派の対立が表面化する。その武力派の後押しをして豊臣家を分裂させるのが天下とりを画策した徳川家康であり、その家康の後押しをしたのが黒田長政であった。長政は加藤嘉明、福島正則ら武力派を家康のもとに結束させ、それが後の関ケ原の合戦の東軍の主力となるのである。 戦後は筑前、福岡52万石の太守となり、家康の養女を娶って外様でありながらも厚遇を受けている。 長政は父親・如水の智謀を受け、武力をも備えた名将であり、生涯30幾戦で負け知らずを誇ったともいう。
    博多湾に望む博多の近隣地である福崎(現、福岡市)の台地に縄張りを決め、1601年から6年の歳月をかけて完成したのが「福岡城」である。 現在は城跡になっていて、大濠公園のほうが有名であるが。
    「福岡」と言えば福岡県、福岡市であるが、黒田氏発祥の地である備前福岡(岡山県瀬戸内市長船町にある地名で、かつては備前国で中世には吉井川の水運と山陽道の宿場町・市場町として栄えた。又、長船は、備前おさふね 刀剣の里でも有名)に因んで、長政の命で九州の地に出身地の「福岡」という地名を付したという。 福岡城は藩祖・黒田長政から城主がかわることなく明治維新を迎えている。これは、江戸期の改易、廃領が盛んな時期にあっては極めて珍しいことであると・・。

    『酒はのめのめ のむならば、 日の本いちの この槍を・・、』 
    JR博多駅の前に、母里太兵衛(ぼり たへえ)の銅像がある。
    母里太兵衛と言えば、後藤又兵衛をはじめ「黒田八虎」と言われる内の一人に数えられ、勇将で槍術にすぐれた武将である。 黒田長政が秀吉に従って伏見城にいた頃、親友である戦国大名の福島正則のところに太兵衛を使いにやった。
    「よく来た、さぁ一献つかわそう・・」と早速、酒を勧めてくる、正則も飲み、酔いにまかせ「さあもう一献、この杯の酒が呑めたら、お主の望む品をとらそう」と、五合ほどの酒がなみなみと注がれた大杯をさしだした。酒豪で知られる黒田氏の武士に正則が酒を勧め、これを見事飲み干したため、褒美に殿様自慢の槍を貰うという逸話である。
    この槍は日本号という名槍で、元は正親町(おうぎまち)天皇の所有されていたもので、信長、秀吉の手を経たのち正則が所有していた正則自慢の天下の名槍である。太兵衛はこの槍をかつぎ、黒田藩歌の「筑前今様」を吟じながらゆうゆうと帰っていったという。 これが後に替え歌となり、現在謡われている「黒田節」に至るという。
    この槍は、一時期、後藤又兵衛などの手に渡ったが、その後黒田家へ戻り、現在は百地浜の福岡タワー近く、福岡市博物館の中の黒田記念室で常設展示されている。 尚、前記の「漢委奴国王印」も国宝に指定され、同様に福岡市博物館所蔵(福岡藩主黒田家旧蔵)として常時展示されている。
    司馬遼太郎が「播磨灘物語」で、黒田如水の事を書いている。

    『黒田節』 (福岡民謡)
    酒は飲め飲め 飲むならば
    日の本一の この槍を
    飲み取るほどに 飲むならば
    これぞまことの黒田武士

    峰の嵐か 松風か
    訪ぬる人の 琴の音か
    駒ひきとめて 聞くほどに
    爪音頻き(しるき) 想夫恋

    次回は大宰府の「大宰府」


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