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  • from: orimasaさん

    2008年12月25日 10時51分00秒

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    日本周遊紀行(115)平戸 「開国の島」



    写真:平戸湾に浮かぶ・・?「平戸城」(下部に無粋な建物が無ければ・・、)

    平戸は、近世日本の先駆けであった・・、

    並行していた松浦鉄道も平戸に渡ることはなく、Uターン気味に佐世保方面に向かっている。ここには鄙びた「田平平戸口駅」があり、ここは日本最西端の駅(現在は本土最西端、2003年に沖縄都市モノレール線が開業し那覇空港駅が日本最西端である)としても知られるようで、駅前には記念碑も立っている。
    こちらは、平戸市内へ向う・・、 
    平戸瀬戸と呼ばれる海峡に架かる「平戸大橋」を渡る。鮮やかな朱色のつり橋で通行料は片道100円とあるが、高いのか安いのか、必要ないのか・・?、地元の人の往来にその都度200円はやはり負担だろうな、などと変に気を回したりして。 
    橋から見る景色は実にいい、ゆっくり走って景色を楽しむ。橋を渡りきってすぐに、平戸側の左手に広い駐車場の公園があり、一息入れながら大橋の展望を楽しむ、天気も良く、遠くの島々もよく見える。 九州本島とつながっているのはここ平戸大橋だけで、平戸自体は島であることが何となく実感できる。
    平戸市街はここより少々北に行った地点にあった。 海へ迫り出した小高い丘の上に「平戸城」の勇姿が見えた。車を寄せて本丸入り口を覗いたが、入場料500円もさることながら、中学生の騒々しい団体に遭遇したため、記念写真を撮ってそのまま引き返した。
    平戸市街、港は平戸の瀬戸から更に深い入り江をなしていて、この入り江の南側から平戸湾越しに見る「平戸城」が実にいい、初めて見る者にとっては足を止め、車を止めて暫し見上げ、見惚れるのは必定であろう。 湾と入江に浮かび上がる緑に囲まれた城郭は一見、唐津城に周辺様相が似ているが、本丸はこちらがやや小ぶりであろうか。 それでも、三重の本丸天守閣に鯱(しゃちほこ)が対で載ってる姿がいい、左へ離れて二の丸が控え、二つの城郭の対比が素晴しい。左端海上には真っ赤な「平戸大橋」も小さく望める。
    しかしである・・、この素晴らしい情景の麓に、巨大なコンクリートの建物が大きく横たわっている。県の施設らしいがこの美景を台無しにしているのである。 お役人というのは無粋な事、アホなことを平気でするもんだと、つくずく思った。

    平戸城は松浦党の子孫、松浦鎮信(しげのぶ)が朝鮮出兵から帰還し、慶長4年(1599年)に築城するのだが嫡子・久信の急死のせいか、幕府への政治的な配慮か、完成を待たず自ら焼き捨てるという異行を行ってしまう。 その後、百年余りにわたって城が築かれることはなかったが、江戸中期の元禄15年、沿岸警備の必要性もあって幕府に築城を願い出、特別に許可され再度この地に城を築いたという。 築城縄張りは山鹿素行によるものといい、素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者で、忠臣蔵で大石内蔵助が討ち入りの際に打った「一打ち、二打ち、三流れ、これぞ山鹿流の陣太鼓!」は有名である。 素行は、陸奥国会津若松で生れ、林羅山の門人となり朱子学を学び、甲州流軍学を修得、赤穂藩主浅野長直に禄高一千石で仕えた。 忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、幕末の吉田松陰も山鹿流を学んでいる。

    東シナ海の風に吹かれ、潮に流されて行き着く所、ここが日本本土に一番近い平戸であり、海風に乗って色んな物がこの地へ流れ着いた。
    平戸は、戦国初期から江戸初期までの凡そ100年間、海外と接触していたとされる。
    城を築いた松浦鎮信の父・隆信(たかのぶ:1529〜1599年)は大名でありながら、交易家としての誉れが高い。海人・松浦氏は倭寇と呼ばれ、元来、海賊行為をしていたが、やがては中国、朝鮮と事実上の交易を始める。 隆信はこれに飽き足らず、当時、欧州では「大航海時代」に入りつつ有ったのもきっかけにして、欧州・ポルトガルを招き寄せる。その後、オランダ、スペインといった国とも通商をはじめるのである。所謂、南蛮貿易を開始して、鉄砲や大砲といった飛び道具を日本で初めて購入し、欧州特有の異国文化をも導入するきっかけを創った。しかも、平戸城下に彼等を住まわせるなどして、貿易による巨万の富を築き上げ、その財力を背景にして松浦半島を制圧したとも云われる。 松浦隆信は戦国大名への躍進と近世への存続の安泰を確実なものとした名君であった。平戸市・松浦史料博物館前には彼の銅像も建つ。

    平戸は海外貿易をきっかけに、長崎をはじめ天草、五島などと共にキリシタンの島としても知られる。当時、日本唯一の国際貿易港として繁栄を極め、日本でいちはやくフランシスコ・ザビエルによりキリスト教の布教が始まったのも平戸からであった。
    島内には、長い歴史を誇る当時の史跡が数多く残り、歴史的建造物や異国情緒を漂わせた町並みが残っている。中でも紐差教会(ひもさし きょうかい:国内で2番目大きい教会、最大は長崎・浦上天主堂)、宝亀(ほうき)教会(ユネスコの世界遺産〈文化遺産〉暫定リスト「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の1つ、県有形重文)、聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂(平戸教会)、田平天主堂(「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産暫定リスト、国指定重要文化財)等、平戸市内各所には多くの美しい教会・天主堂が存在する。
    又、平戸オランダ商館は、オランダ東インド会社が平戸の崎方地区に設置した日本で最初の外国商館である。(後に、長崎・出島へ移転)この商館を通じて日本で初めて、いろんな物が移入してきた。 主なものは・・、
    【タバコ】 1601年、タバコの種子が初めて平戸に上陸し、このとき藩主・松浦鎮信に贈られ、種子などを徳川家康に献上している。
    【ペンキ】 1609年、オランダ商館が建てられた時、その外観を彩ったのが、日本で最初に使われたペンキであり、住民は一種のカルチャーショックを受けた。
    【甘藷(さつまいも)】 1615年、ウィリアム・アダムズ(※)が琉球から伝える、初めて甘藷の栽培を行う。
    【ビール】 1613年、英国船「グローブ号」が平戸に来航した時、日本へ初のビールが伝来と言われている。
    【西洋医学】 航海船が西洋医学を日本にもたらされた。その医学を学んだ嵐山甫庵(あらしやまほあん)は、平戸判田(はんだ)家の出身で、西洋医学(蘭学)の先駆者として知らる。
    【日本禅宗とお茶】 臨済宗の祖・栄西(えいさい)は、渡「宋」の帰途、平戸に数カ月滞在し、禅宗を広め、また、中国で入手したお茶の種子を蒔き、製茶や喫茶の方法を日本に伝える・
    等々、平戸は日本の先駆けであった。
    (※)ウィリアム・アダムズはオランダの貿易会社東洋派遣隊の航海士で、後に徳川家康に召し抱えられ、幕府の外交顧問となる。和名「三浦按針(みうらあんじん)」は余りにも有名で、平戸オランダ商館の設置と通商における中心人物の一人であった。 三浦の姓は家康が三浦半島の一部を与えたことから、その名が付いた。

    次回は、壱岐、対馬について



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