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  • from: orimasaさん

    2009年08月02日 12時11分36秒

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    日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】(2)

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    日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】(2)

    次に、「近畿圏」においては・・、
    伊勢の地に鎮座している伊勢神宮は天照大神(大和族)を祀り、天皇の皇祖とされ、無論、我ら大和民族の高祖でもある。 
    一般に神様は新しいものがお好きなようで・・!!、この神宮は20年に一度、遷宮が行われるのである。 式年遷宮(しきねんせんぐう)とは、神社の正殿を造営・修理する際や、正殿を新たに建てた場合に、御神体を遷すことで、式年とは定められた年であって20年に一度行われる。 第1回の式年遷宮が内宮で行われたのは7世紀 (690)のことで、それから一度の途絶えることなく1300年にわたって続けられ、平成5年には第61回が行われ、平成25年に第62回を予定している。 遷宮のための敷地は、隣にチャンと用意してある。

    日本には「神道」という、自然を媒介として、神と人が結ばれた日本固有の民族宗教がある。 神社の存在や冠婚葬祭、年中行事は、神とともに生きてきた日本人の心を物語るものであり、しきたり、風習、そして、ものの感じ方、私たちの生活にも神道が広く関わっている。 人々は山や巨岩、大木を神の座と崇め周囲の森を「神聖なる場所」とした。 やがてそれが神社になった。 神社に祭られる神々は、日本神話に登場する神々である。 そして、日本国民、天皇が最も尊敬、崇拝する神が天照大神であり、伊勢神宮なのである。
    日本人と神道については天皇家と密接に関係をもちながら、古代から今日まで営々と受け継がれている。 

    しかし、神道は一時廃れる・・、
    飛鳥、奈良期に「仏教」が輸入されて蘇我氏と物部氏との争いを経、天皇の加護も受けて隆盛になり、そのうち外来の仏が古来の神を凌駕し乗っ取ってしまう結果になる。(神仏習合:本地垂迹) これが平安初期から明治期に至るまで営々と続くことになる。
    仏教は鎌倉期に最も隆盛を極めるが、この時期あたりから天皇は軽んじられ、政権天皇は武家に移ることになる。 神道が地に堕ち、天皇が疎んじられ、その存続すら危うくなりがちであるが、(平安期、天皇継承事件・和気清麻呂と道鏡)そこは日本人のDNAが生かされ、天皇制は何とか維持するのである。(昭和天皇まで124代=今上天皇125代を数える)
    これが唯物史観の他国、特に西洋であったりすると、天皇制はかなりの衰退か、滅亡の憂き目をみたであろうと想像できる。 明治期になって、やっと神道が復活し、再び天皇も主権者として登場するのであるが・・!。
     
    この先駆けになったのが江戸期幕末の尊皇攘夷の志士であり、彼等の筆頭にいたのが吉田松陰たちであった。 松蔭の所属する長州藩の毛利家は、始祖は相模の国の厚木の庄であるり、その毛利家の祖である大江 広元(おおえの ひろもと、元は中原氏)は、頼朝に仕えた事務方の重臣で、宮中で天皇に仕える貴族(官人)であった。 元より大江家は、古代期より濃い天皇家の血が混じっているといわれ、歴代藩主は勤皇に励んできているのである。
    松蔭も、武士でありながら歴代毛利家に倣ったのは当然でありながら、更に、自書の中に「天下は天朝(朝廷)の天下にして即ち、天下の天下なり、幕府の私有にあらず・・」、として「神々が大八洲(日本列島)や山川草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神(アマテラスオオミカミ)をお生みになった。それ以来、天皇が国土、自然、人民を保護してきたのである」としている。 天皇と国民の絆(きずな)の“真の性質”は、①「神話的血縁関係」、②「道徳的紐帯(ちゅうたい・社会をつくりあげている条件)」それに③「法的義務」としている。
    維新の推進役となった彼等尊王の志士達には、このような基本思想が有ったのである。
      
    その伊勢神宮は、大国主神(出雲族)を祭神とする出雲大社とは神代の昔、敵対関係にあった。 「国譲り」の戦に破れて、出雲大国は一部を除いて消失することになる。
    その出雲の国は素戔男尊(スサノオ)が開き、大国主が平定した古代・出雲大国は広大で、日本海側に限定すれば北九州から越後・新潟(越の国)にまで影響を及ぼしていたことが判る。 大国主の伝承は、鳥取の「白兎伝承」、能登の開発(気多大社と鵜祭)、そして翡翠と奴奈川姫を求めて越後へも赴いている。 越後では奴奈川姫と結ばれ「建御名方」を生むことになるが、この時、かの「国譲り」が行われ、建御名方は常陸の国(茨城)の武甕槌神(大和族・鹿島神宮の主祭神)とが合い争い敗れるが、これが現在の「大相撲」の起源であるともされる。 敗れた建御名方は御柱祭や神無月で有名な「諏訪大社」の主祭神として祭られることになる。 併せて、大国主と奴奈川姫は地元、糸魚川の奴奈川神社に祀られているが、越中高岡の一の宮気多神社にも夫婦神が祀られている。 因みに、能登一の宮の気多大社の主祭神は大国主神でもある。

    序ながら、大国主に因んで出雲地方で面白かったのは、スサノオの「八岐の大蛇」の伝承であろう・・、
    スサノオが日本海地方に国を拓く時、

     『八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を 』  古事記

    と詠んで、この国を「出雲の国」と制定している。 
    この歌は日本で初の和歌を詠んだ神(人物)として文化的な英雄の側面も有しているが、何と言ってもスサノオを有名にしているのは「八岐大蛇退治」の英雄譚であろう。 その解釈は、優秀な渡来人を平定して鉄の製法を得た物語として象徴され、天叢雲剣の取得はその「鉄」を得た事象であると解釈できる。 
    古代神代の物語で、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)以外には、蛇と名の付くものは殆ど出てこないとされ、この大蛇のモデルになったのが出雲地域の船通山を源流とし宍道湖に流れ込む「斐伊川」とされる。 
    大蛇の格好は怪物、妖怪として物語に登場する・・、
    先ず頭が八つとされるのは、斐伊川河口付近では扇状の地となって多くの支流を造っていること。 尾が八つとされるのは、上流の谷筋で多くの支川を集めていることで説明できる。 胴体に苔や樹木が生えているのは、川岸には苔や草があり周辺は樹木で覆うわれているのである。 腹が常に血でただれているのは、中国山地の土には砂鉄が多く含み、酸化すると赤くなっている現象とする。
     又、神話で大蛇の尾から神剣が出現したとあるのは、この地域で砂鉄を取り出し、タタラ(炉へ足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご)で精錬して、刀剣製作に用いたことで説明がつくとされる。
    斐伊川(ひいがわ)は昔は肥川といわれ、肥は赤や火を意味する。 古代の伝承や神話は、現実の世界を物語風に描いたものとされるが、「八岐大蛇」伝説などは実際の様子を目の当たりすることも出来るのである。
    更に、それら出雲系(渡来人を含む)や古代製鉄に繋がる物語として、中国地方の吉備の国の吉備津神社が、桃太郎の戦史物語として描かれている伝承も面白い。

    話が脱線して「出雲」の方へ行ってしまったが、「近畿圏」のことであった・・、
    「近畿」(畿内とも云う)は古代から永年、日本の中枢であった。
    ヤマト王権以前の邪馬台国(倭国)の所在地について、九州説と畿内説がある。 九州説は九州北部、卑弥呼(ひみこ)女王が住んでいたとする旧伊都国か、又は佐賀・吉野(弥生期の吉野ケ里遺跡)ともいう説がある。 対峙して「畿内説」にたてば、即ち大和王権がこの時期、既に成立していたとの見方である。 一般には「九州で成立して、瀬戸内海を東征しながら畿内に、さらに紀州熊野から北上して奈良盆地に至って国を統一した」とする邪馬台国東征説もある。 これは概ね、神武天皇東征神話マッチする。 何れにしても、旧来の大和王権が存在していたとしても、その後、大和へ入った新勢力によって新規ヤマト王権が成立したことは史実に近い。 所在地とされているのは主に大和の奈良盆地周辺である。 
    「近畿」は昔は畿内とも云われ、難波宮や藤原京や平城京や平安京などの首都、もしくは過去の首都の所在地で、現代っぽい用語に直せば首都圏であり、日本の中枢であった。 
    古代日本の地方区分は「五畿七道」(五畿は山城国、摂津国、河内国、和泉国、大和国)とも称して、現在の近畿地方中心部の5箇国と、それ以外の地方を七つに分けた七道(北海道を含めると八道)のことで、これは奇しくも現在、物議を醸している道州制でもあった。

    さて、近畿・紀州といえば「熊野三山」であろう・・、
    熊野の地名が初めて登場する文献は「日本書紀」である。 伊邪那美命(イザナミノミコト)の葬られた土地として登場し、併せて少彦名命(スクナヒコナノミコト)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)も登場する、いずれも日本神話に登場する「国造り」の神々である。
    だが元々の熊野三神は、熊野の深山霊地を祖とする祖神、・自然神を崇めたものであった。 自然神は、本宮大社は元の社地・大斎原(おおゆのはら:熊野川の畔)の原生照葉樹林帯と熊野川、那智大社は那智の大滝、そして速玉大社は神倉山の岩山が御神体とされていた。 その熊野は平安期「仏教」が入り込んで、神仏習合・本地垂迹の大代表的地域になってしまったのである。

    飛鳥、奈良期になって新しい文化「仏教」が渡来し(538年)た。 はじめ神殿の脇に小さな仏舎が建てられるが、その内、神殿の中に居候、間借していたものが次第に勢力が増してきたのである。 この時期から神と仏が対等になり、やがて、境内に堂々と神宮寺や別当寺が建てられ仏が神を凌駕するようになる。 つまり、小さな仏舎にいた居候の仏が神殿を乗っ取り、入れ替わってしまったのである。 神事を行うのにも、神殿の中で仏式の作法による坊さんがお経を詠むようになったのである。 
    しかも、後に彼等は教団といった組織をつくり、門徒、宗徒らは袈裟を着て、首には数珠を下げながら、腰には刀を差し、手に槍を持って武力集団にまで成り上がり、武士達へ挑んでいったのである。(代表が比叡山・延暦寺)
    「熊野三山」となったのは、これら神仏習合以降のことであり、「三山」という仏教的な呼び方から、仏教が大きな影響を与えたことが判るのであった。 「山・さん」というのは寺院に添える語の山号のことであり、特に、比叡山延暦寺など「開山、本山、山門」といった意味のことである。
    本体(仏像)である仏や菩薩を「本地」といい、仮に神(神意)となって現われることを「垂迹」とい、また、仮に現れた神のことを権現(ごんげん)と称した・・、「本地垂迹」である。
     
    これ以来大和地方の人々は、熊野を死者の国(死後の世界)に近い場所と考えていたようで、後に浄土信仰が盛んになったときに、熊野は、やはり死者の国であるとして「浄土」と結びつけられた。 神仏習合や浄土信仰の隆盛により、本宮社は阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮社は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、那智社は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられようになり、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになった。 そして、「蟻の行列」とも喩えられた熊野詣が盛んになるのである。
    以降盛衰1000年余を経て明治以降の神仏分離政策により、熊野三山の他の二つである本宮大社、速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂のみが破却を免れ、後に信者の手によって「青岸渡寺」として復興しているのである。 現在、熊野那智大社と青岸渡寺が隣接して建っていて、熊野三山中、今も神仏習合時代の名残りを留めている。

    神仏習合文化に観られる日本人の寛大さ、寛容さ、即ち、融合性を表した特徴的文化は、此れは世界でも類例が無いとされる。 欧州では、他宗教同士が融合することなどは考えられず、忽ち戦争(宗教戦争)を引き起こしてきた。
    日本人の“なあなあ”、“まあまあ”精神、つまり「物事をはっきり言わない」、「自主性がない」とも云われるが、むしろ曖昧だからこそ、その「曖昧力」が日本が世界有数の安全で豊かな国になれたともいう知識層もいる。
    近畿地方の南端・・、
    紀州沿岸が日本の調味料である味噌、醤油の発祥地であり、柑橘の梅、みかんの栽培でも知られる。 これが黒潮に乗って関東や房総へ達したこと(紀州と房総に共通する地域名称)等、歴史の流れの面白さを味わえた。

    次回は、四国から


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