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  • from: 庵主さん

    2010年07月10日 19時16分09秒

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    奥の細道行脚。第十三回「象潟」

    【おくのほそ道】

     海山川陸の佳景を見尽くした上、今、心は象潟へとせきたてられている。
    酒田の湊より東北方面へ、山を越え、磯を伝い、砂子を踏んでその距離十里。
    日影やや傾くころ、潮風がふいに真砂を吹き上げ、雨朦朧として 鳥海山を隠してしまう。暗中に莫索して「雨もまた奇なり 」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、と海人の苫屋に膝を入れて雨の止むのを待つ。
     翌朝、天よく晴れ上がり、朝日はなやかに差し出でるころ、象潟に舟を浮かべる。まず能因島に舟を寄せ、能因法師三年幽居の跡を訪ねた。

     向かい岸に舟を上がれば、「花の上こぐ」と詠んだ桜の老い木、西行法師の記念が残る。

     水辺に御陵あり。神宮皇后のお墓だという。
     寺の名は干満珠寺。ここに行幸されたこと、いまだ聞かぬ。いかなることであろうぞ。

     この寺の方丈に座して、簾を巻き上げれば、風景一望の内に見渡され、南に鳥海山、天をささえ、その影が映って水上にあり。西は、むやむやの関 まで道が続き、東には堤を築いて、秋田へ通う道遥か。海は北にかまえ、波が江に入るところを汐こしという。
     入り江の縦横約一里。俤は松島に通じて、また異なるもの。松島は笑うがごとく、象潟は恨むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、この地は魂を悩ますかのようである。

     象潟や雨に西施がねぶの花

    鑑賞(雨に煙る象潟は、西施が長いまつげを伏せて眠る凄艶な美しさ、合歓の花を想わせる)


     汐越や鶴はぎぬれて海涼し

    鑑賞(汐越の浅瀬をゆったり水遊びしている鶴。あの長い足なら着物も濡れず、江の内一里の涼しさをひとり占めできようものを)

    祭礼

     象潟や料理なにくふ神祭 曾良

    鑑賞(汐越の熊野権現の祭礼には魚肉を食わぬそうな。せっかくの名所のお祭にもったいないことよ)

    美濃の国の商人
     蜑の家や戸板を敷て夕涼み 低耳(ていじ)

    鑑賞(浜辺の海人の家では、今日も漁を終え、みなみな小屋の戸板をはずし、敷き並べて涼んでいる)

    岩上に雎鳩(みさご)の巣をみる

     波こえぬ契ありてやみさごの巣

    鑑賞(古人が「末の松山波も越えなむ」と固く契りを交わしたが、鳥類ですら夫婦となればあのような高い巌(いわお)の上にさえ巣をかけ、波も越せぬ一世の契りを誓うものか)

    【曾良旅日記】

    ○十五日。象潟へおもむく。朝より小雨。吹浦に着く前より豪雨。昼頃、吹浦に雨宿り。この間、六里。砂浜に船渡し場が二ヶ所ある。佐吉の添え状が届く。晩方、番所へ書状に裏印をつき届ける。

    ○十六日。吹浦発。番所を過ぎると雨が降り出す。一里で女鹿。これより難所である。馬では通れぬ。番所に手形を納める。大師崎とも、三崎ともいう。一里半あった。小砂川 は直轄領。鶴が岡藩の預かり番所となる。入領に手形は不要。塩越まで三里。途中に関という村あり(これより
    六郷庄之助殿 の領地である)。うやむやの関と呼ぶ。この間雨強く、はなはだ濡れる。船小屋に雨宿りする。
    ○昼におよんで塩越に着く。佐々木孫左衛門をたずね休む。衣類を借り、濡れ衣を干す。うどんを食う。地元の祭りで女客があるというので、向かいの旅籠にうつり泊まる。まず、象潟橋へ行き、雨暮れの景色をみる。今野加兵衛たびたび訪れる。

    十七日。朝、小雨。昼より止んで日が照る。朝飯をとって、皇宮山蚶満寺へ行く。道々の眺望を楽しむ。帰ると地元の祭り行列が出る。通り過ぎ、熊野権現の社 へ行き、踊りを見る。夕飯が終わって、潟へ船を出した。
     加兵衛が、茶・酒・菓子など持参してくれる。帰って夜に入り、今野又左衛門 来訪。象潟の縁起などが絶えてしまったことを嘆く。翁も同感。弥三良低耳、十六日にあとより追いつき、方々へ同行する。

    【奥細道菅菰抄】

    今、心は象潟へとせきたてられている

     象潟は羽州由利郡にある。日本十景のひとつであり、当国第一の名所、佳景の地。八十八潟、九十九森あると言い伝える。江の形がきさに似ている。ゆえに、きさかたという、と。(きさとは、象の和名)また、蚶潟ともいう。

     蚶(かん)は小さな蝸牛(かたつむり)に似た貝。関東の子供がもてあそぶ、きさごというのがこれである。(上方では、しただみという)この江はいたって浅瀬であり、かろうじて蚶などが生育するのみ。それでこのように名付けたものらしい。(この地の寺を、蚶満寺と名付けたところからおして、
    蚶潟を正字とすべきであろうか。なお以下にくわしくある)江中の広さ、松島になかなか劣るものではないが、舟を操るにはすべて棹を用いる。艪を立てることはない。これまたかけ離れたところである。もろこしの西湖も、大船を入れることはできない。ただ遊覧船のみという。この江と比較して語るべきであろう。

    雨朦朧として鳥海山を隠してしまった。暗中に莫索して「雨もまた奇なり」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、と海人の苫屋に膝を入れて

     「雨朦朧として」とは、『詩経』に、「楼閣朦朧たり細雨の中」という風情をあらわし、朦朧は、『円機活法』に、「日いまだ明らかならざるなり」とある。物がおぼろげに見えることをいう。

     鳥海山も由利郡すなわち象潟の上の山であり、高さは月山と拮抗する。年中雪に覆われる。祭神は、羽黒山と同じ。大物忌太神と称す。当国一の宮である。

     「暗中に莫索して」とは、俗に暗がりで、探ってみてもわかる、ということである。ここでは、ただ闇中に坐って、近辺を知りえぬことの形容と解釈すべき。

     「雨もまた奇なり」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、とは、東坡の西湖の詩に、「水光斂灔として晴れ偏に好し。山色空濛として雨も又奇なり。西湖を捉えて西子に比せんと欲すれば、淡粧濃抹また相よろし」。
     この詩に取材したものである。この詩は本朝では必ず象潟の形容となる。ゆえに祖翁もまた象潟眺望の吟に、西施の寝顔を詠もうとして、まずかすかにその意を予告する。これは漢文にも尊ぶところであり、文書にもこの修辞法がある。またわが翁の文では、奇中の妙と呼ぶべきものである。

     「海人の苫屋に膝を入れ」とは、小屋の狭苦しい中に、ようやく坐るさまをいう。もともと象潟には海人の苫屋を詠む歌が多い『後拾遺集』、「世の中はかくてもへけりきさがたのあまの苫やをわが宿にして」、能因。
    『新古今集』、「さすらふやわが身にしあればきさがたやあまの苫屋にあまたたび寝ぬ」、藤原顕仲朝臣。『方角抄』、「象潟や蜑の苫屋にきぬる夜は浦風寒みたづ鳴きわたる」の類である。

     「膝を入れる」は、陶潜の帰去来の辞に、「膝を容るるの之安じ易きをつまびらかにす」という文を取ったものである。

    三年幽居の跡を訪ねた

     能因奥羽下向のことは、『袋草紙』に説がある。前述。能因幽居の句も右に記した。

    「花の上こぐ」と詠んだ桜の老い木、西行法師の記念が残る

     「花の上こぐ」と詠んだ桜は、干満寺(かんまんじ)の境内、地蔵堂の前の汀に、水面へ伸び出して生えている。古木は枯れ、現在は若木である。西行の歌、
    「きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟」。
     西行は、『和漢三才図会』によると、俗名、佐藤兵衛の尉藤原の憲清。秀郷九世の子孫、武衛
    校尉、藤原の康清の子である。弓馬に達し、管弦を習い、和歌をよくする。奥州より出て、鳥羽法皇に仕え奉り、北面の武士となった。しかし、世を厭う心が起こり、ついに出家。円位と号す。後に、西行と名乗った。建久四年二月十五日入寂。

     記念(かたみ)の解説は前述した。

    ○象潟遊覧船のこと。明和二年常州水戸の三日坊五峰という俳人が、この象潟へ来た時、銭一貫文を奉納。永代この地にいたる風流の人へ、島々一見の船賃として、長途行脚の費用を負担した。その風流心に感ずるべきである。よって、今ここに贅し、世の中にその志を伝えるところである。

    水辺に御陵あり。神宮皇后のお墓だという。寺の名は干満珠寺

     神功皇后は、人皇十四代仲哀天皇の妃、応神天皇の母君で、気長足姫と号す。干満珠寺は、別名干満寺ともいう。または、蚶満寺とも書く。禅宗で、千体仏を安置する。山門などあって、巍巍たる荘厳である。
    ○案ずるに、この寺は蚶潟のほとりにあるため、元は蚶満寺と号していたのだが、いつの頃よりか、干満と書き改める。やがて好事家が、神功皇后が三韓征伐の時、干珠満珠の二つの玉を携えたことを付会して、干満の下に珠の字を書き加え寺号となし、また、この二つの玉をここに埋めたとも伝えたのだ。(地元の説にいう)そして皇后の御陵をも造立したものであろうか。
     この近く、汐越川の中に、烏帽子岩という石があり、蕉翁行脚の時、「むかし誰岩に烏帽子をきせぬらんかたかたとしてよい男也」、という戯れ歌があったので、その後この石を蚶満寺の庭上に移し、親鸞上人の腰掛け石と名付けた、とする地元の話を聞いたものだ。その石はいまなお寺庭にあり、傍らに標札を立て、親鸞腰掛石と書いている。皇后の御陵もあるいはまた、この手の虚構であろう。

    この寺の方丈に座して、簾を巻き上げれば

     方丈は、寺の勝手向きの間をいう。『釈氏要覧』にいう。「唐の顕慶二年、王玄索を西域に遣わせた。比耶離城に到る。維摩居士の石室あり。手板(笏のことである)でこの石室の縦横を測ってみると、笏の十の長さであった。ゆえに、僧室を方丈と名付けた」と。

     笏は(日本のしゃくのことである)元一尺を基準とした。(日本の手板を尺というのも、すなわちここから来ている)十笏は、一丈である。石室の縦横一丈ずつあったので、方丈という。(一丈四方)

     簾を巻くとは、王勃の滕王閣の詩に、「朱簾暮に捲く、西山の雨」という形容である。

    西は、むやむやの関まで道が続き

     むやむやの関は、別名うやむやの関ともいう。その跡とされるところが二ヶ所ある。いずれも名所、「武士の出さ入さにしをりするとやするとやどりのむやむやの関」。

     また、うやむやの関と名付けたのは、ある説に、「この山に鬼神が住んでいた。折々出ては道を行く人を獲る。ここにうやむや(有や無や)と鳴く鳥がいて、その鬼神の有無を報せる。通行人は、鳥の鳴き声を聞き分け、鬼神の有無を判断して往き来した。ゆえに、うやむやの関という」と。この
    関跡、一ヶ所は、象潟の南、小砂川という里と、汐越駅との間の海辺、関村というところ。ここであるとする。もう一ヶ所は、『歌林良材』に『八雲御抄』を引用していうところの以下の地点である。「むやむやの関は、陸奥と出羽との間にある。ただし、関は出羽よりに位置する。草木茂り、通行人は、枝折を目印に行くという。ここは、現在笹屋越えといって、出羽より陸奥へ行く山路。すなわち奥羽の境であり、今も木が鬱蒼と茂り、物さびしい場所である」。

    ○案ずるに、関の名を「むやむや」としたのは、元よりここに草木が、むやむやと生え茂っていたからであろう。ゆえに、旅人も枝折したのである。うやむやとは、音の聞き違いにより、有無の響きと結びつき、やがて鬼神のことなどを取り合わせた作り話であろうか。右にいう、羽州、関村のあ
    たりは、海沿いの平地であり、山にほど遠く、昔であっても林木茂り通行人の迷うようなところではない。いわんや鬼神などの住む地であるはずもなく、「出さ入さにしをりする」と詠むべきいわれがない。しかれば、『良材集』の、陸奥と出羽の間、現在の笹屋越えなるものを、この関の正しい場所としたい。汐越は、あら海より象潟へ、潮の行き来する川の名で、橋がかかる。しほこし橋という。南北の人家を汐越町といい、秋田への街道の宿駅である。

    象潟や雨に西施がねぶの花

     この句に、西施が立ち入ったいわれは、前にくわしく記した。また、『尺牘無雙魚』に、「道の傍ら雨中の花を見る。湘娥、面上の啼跡彷彿たり」とある。この句の面影に似ていようか。

    汐越や鶴はぎぬれて海涼し

     この句、翁の自筆が現在汐越町庄官のもとに残り、五文字が「腰だけや」となっている。しほこし川の中ほどに、腰だけと呼ぶ浅瀬がある。そこに鶴が舞い降りたのを見ての即興であると言い伝える。


    7/13(火)「奥の細道」講読会↓
    http://bit.ly/alUNRw

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