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  • from: 庵主さん

    2010年09月13日 20時00分41秒

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    戦国武将と茶の湯「信長」第二回


    信長と茶の湯の出会いは、なんと九十九歳の老婆が手引きしたといいます。

    大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子)
    http://www.seikado.or.jp/sub030301.htm


    ■信長と茶の湯

     永禄十一年将軍足利義昭を奉じ、大軍を率いて上洛した信長。その武威を恐れた畿内の実力者、松永久秀は秘蔵の作物(つくも・九十九とも)茄子を献上し、降参する。堺の有力茶人今井宗久からも、天下の大名物松嶋の壷・紹鴎茄子が奉納され、これをきっかけに信長の茶数奇三昧がはじまったといわれる。以降、俗にいう”名物狩り”によって、畿内と近隣諸国の大名物が信長のもとへと狩り集められた。また信長による、茶の湯の奨励とこれを利用した家臣の統率と治政は”御茶湯御政道”と呼ばれ、後の豊臣政権にも引き継がれていくこととなる。

    ■信長と茶の湯の出会い

     信長は少年時代の那古野城で、筆頭家老平手政秀に茶の湯の手ほどきを受けたと考えられている。平手政秀は、元父信秀の家老で、公家の日記などからも当時としては相当の数奇者として知られていた。しかし、信長と茶の湯との本格的な出会いは、前述のように永禄十一年(1568)足利義昭を奉じて上洛した時に始まる。

     当初は京都新在家の茶匠、不住庵梅雪を茶頭として迎えるが、のちには堺の納屋衆今井宗久、津田宗及、千宗易(利休)を茶頭として召し抱えた。堺の茶人たちの教養や茶の湯の見識とともに彼らのもつ財力、商業ルートと人脈を利用しようとしたのである。またしばしば茶会を催しては、懐柔したい人物や知己としたい人物を招き、蒐集した名物を陳列して権勢を示した。信長によって、茶会はもはや数寄者の楽しみではなく、政治経済をつかさどる儀式となったといえよう。

    ■今井宗久

    永正17(1520)〜文禄2.8.5(1593.8.31)。
    戦国・安土桃山時代の堺の豪商、茶湯者。対外的な貿易港であり、独立的な都市であった堺の代表者であり、武野紹鴎の女婿として、織田信長・豊臣秀吉政権下で茶の湯の興隆に貢献した。近江(一説に大和)に生まれ、青年期に堺に出る。名は兼員、通称彦右衛門、昨夢斎寿林と号した。納屋を称するのは堺の倉庫、金融などの局面で実力者であることを示す。早く信長に接近し、紹鴎伝来の松島の茶壺、紹鴎茄子などの茶器の献上は、信長の茶の湯政道を促進させた。堺五ケ庄の代官職、淀川今井船の関銭免除、生野銀山の経営、鉄砲鍛冶の差配など多くの権益を与えられ、信長の茶頭を務めている。天文23年から天正17年(1554〜89)の81回の茶会記録『今井宗久茶湯日記抜書』(『茶道古典全集』10巻)は孤本で、抄出であるところが惜しまれるが、貴重な資料である。堺市博物館の前に茶亭黄梅庵が移築されている。墓塔は堺南半町の臨江寺にある。
    <参考文献>『堺市史』、戸田勝久『武野紹鴎研究』

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